第 1 章/1
その一生を通じて希望というものに向けて放っている、あの漠とした不断の叫び、その声に「おう」と応える声のように、彼女はわたくしの前にその姿を現わしたのでした。
第 1 章
そしてこの女を更によく知りますと、彼女に会いたい、会いたいという思いだけが、一種名状しがたい、深い、云い知れぬ興奮で、わたくしの心を揺ぶるのでした。
自分の掌のなかに彼女の手を把り緊めていると、わたくしのこの胸には、それまで想像だもしなかったほどの愉しい気持ちが漲って来るのでした。
彼女の微笑はまた、わたくしの眼のなかに狂的な悦びを注ぎ込み、わたくしに、雀躍りをしたいような、そこらじゅうを無茶苦茶に馳けてみたいような、大地の上をごろごろ転げ※りたいような気持を起させるのでした。
こうして、彼女はわたくしの愛人になったのであります。
いや、それ以上のものでありました。
わたくしの生命そのものだったのであります。
彼女を措いて、わたくしにはもうこの世に何一つ期待するものはありませんでした。
わたくしは何ものも、何ものも望まなかったのであります。
わたくしにはもう、欲しいものは何ひとつ無かったのであります。
ところが、ある夕ぐれのことでした。
私たちは連れ立って、河に沿うてすこし遠くまで散歩をいたしました。
折あしく俄か雨にあいまして、彼女は風邪をひいてしまったのです。
翌日、肺炎を起しまして、それから一週間後には、彼女はもうこの世の人ではなくなってしまったのです。
断末魔の苦しみがつづいている間は、驚きと恐怖のあまり、わたくしにはもう何がなにやら解らなくなり、落ついて物を考えることなどは出来なかったのであります。
彼女が死んでしまうと、劇しい絶望のために、わたくしは茫然としてしまって、もう考えも何もなくなってしまいました。
わたくしはただ泣くばかりでした。
野辺の送りのさまざまな行事がとり行われている間は、わたくしの劇しい苦しみは、気でも狂うかと思われるほどでしたが、それは、いわば胸を抉られでもするような、肉体的な苦しみでありました。
やがて彼女の亡骸が墓穴に移され、その棺のうえに土がかけられてしまうと、わたくしの精神は、突如として、はッきり冴えて来たのであります。
わたくしは怖ろしい精神的な苦しみを悉に甞めたのでありますが、その限りない苦しみを体験するにつけ、彼女がわたくしに与えてくれた愛情がますます貴重なものに思われて来るのでした。
と、わたくしの心のなかには、(もう二度と再び彼女には会えないのだ) こういう考えが湧いて来て、どうしても離れません。
そんなことを朝から晩まで考えていてごらんなさい。
人間は気がへんなってしまうでしょう。
考えてもみてください。
いまここにあなたがたが身も心も打ち込んで愛している、かけがえのないただ一人のひとがいると致します。
世間広しといえども、そのひとと同じような第二の人間などはあろうはずもないのであります。
しかして、そのひとは身も心もそッくりあなたに捧げ、世間の人が「恋」と云っている、ああした神秘的な関係をあなたと結んでいるのです。
そのひとの眼、愛情がそのなかで微笑っている、そのひとの凉しい眼は、あなたにとっては宇宙よりも広く感じられ、世界の何ものよりもあなたの心を惹くように思われるのです。
つまり、そのひとはあなたを愛しているのです。
そのひとがあなたに口をきく。
と、その声はあなたに幸福の波を浴びせるのです。
ところで、そのひとが一朝にして消え失せてしまうのです。
ああ、考えてもみて下さい。
そのひとはただあなたの前から消え去るばかりではなく、永久にこの地上からその姿を消してしまうのです、つまり、死んでしまったのです。
一口に死ぬと申しますが、この「死ぬ」という言葉の意味がお分りでしょうか?
それはこう云うことなのです。
そのひとは、もうどこを探してもいない。
決していない。
決して、決して、いなくなってしまったと云うことなのです。
その眼はもう決して何んにも見ない、その口はもう決して物を云わないのです。
数知れぬ人間の口から出る声のなかには同じような声音はあるとしても、そのひとの口は、もうかつてその声が語った言葉をただの一つをも、それと同じように語ることは決してないのです。
「死ぬ」という言葉はこうしたことを意味するのです。
そのひとと同じ顔はもう二度と再びこの世に生れて来ることはないのです。
決して、決して生れて来ることはないのであります。
なるほど、鋳型というものはあるでしょう。
それを取っておけば、同じような輪廓をもち、同じような色彩をした像を幾つとなく造ることは出来るでありましょう。
しかしながら、あの体あの顔は、もう二度と再びこの地上に現われることはないのです。
しかも人間は、幾千となく、幾百万となく、幾十億となく、いやそれよりももっともっと数多く生れて来るでありましょうが、新たに生れて来る女のなかには、そのひとはもう決して見出されないのです。
有っていいでしょうか、そんなことが有っていいのでしょうか。
かく思いかく考え来るならば、人間は気がへん「#「へん」に傍点」になって来るのでありましょう。
ところで、わたくしが愛していた女は、二十年のあいだこの世に生きていたのであります。
ただそれだけでした。
そして彼女は永久に消え去ってしまったのであります。
永久に、永久に消え去ってしまったのであります。
彼女はさまざまなことを考えました。
微笑みました。
またわたくしを愛しました。
しかしながら、ただそれだけでした。
創造の世界にあっては、人間は、秋に死んでゆく蠅とすこしも変るところはないのです。
ただそれだけのことなのであります。
そこで、わたくしは考えたのであります。
彼女の肉体、あのみずみずしていた、温ッたかな、あんなに柔かく、あんなに白くあんなに美しかった肉体が、地下に埋められた棺の底で腐ってゆくことを考えたのであります。
肉体はこうして朽ち果ててしまう。
しかして、その魂や思いはどこへ行ってしまうのでありましょうか。
(二度と再び彼女には会えないのだ。
ああ二度と再び彼女には会えないのだ) 腐爛してゆく肉体のことが、わたくしの念頭につきまとって、どうしても離れません。
たとえその肉体は腐っていても、在りし日の面影は認められるであろう。
わたくしにはそんな気がいたしました。
そして、わたくしは今一たび彼女の肉体を見ようと思ったのであります。
わたくしは鋤と提燈と槌をもって家を出ました。
墓地の塀を乗りこえて、わたくしは彼女を埋めた墓穴を見つけました。
穴はまだすっかり埋めつくされてはおりませんでした。
わたくしは棺の上にかぶっている土をどけ、板を一枚外しました。
と、厭なにおい、腐敗したものが発散する悪気がむうッとあがって来て、わたくしの顔を撫でました。
ああ、彼女の床には菖蒲の香りが馥郁と漂っていたのでありますが――。
しかし、わたくしは棺を開けました。
そして、火をともした提燈をそのなかにさし入れたのです。
わたくしは彼女を見ました。
その顔は青ざめて、ぶくぶくと膨れあがり、ぞッとするような怖ろしい形相をしておりました。
また、黒いしる「#「しる」に傍点」のようなものが一条、その口から流れておりました。
しかし彼女でした、やッぱり彼女でした。
わたくしは急に怖ろしくなりました。
けれども、わたくしは腕を伸すと、その怖ろしい顔を自分のほうへ引き寄せようとして、彼女の髪の毛をぐッと掴んだのです。
ちょうどその時でした。
わたくしは捕ってしまったのです。
わたくしは、その晩、夜一夜、ちょうど愛の抱擁をした人間が女の体臭を大切にもっているように、その腐肉の悪臭、腐って行くわたくしの愛人の臭いを大切にまもっていたのでした。
わたくしが申しあげることは、これだけであります。
なにとぞ、ご存分にわたくしをご処刑願います」
異様な沈黙が法廷を重くるしく圧しつけているらしく、満廷、水をうったようにシーンと静まり返っている。
群集はまだ何ものかを待っている容子であった。
やがて陪審員は合議をするために法廷を出て行った。
それから数分たって、陪審員が再び法廷に戻って来た時には、被告はいささかも悪びれる容子はなく、無念無想、もはや何事も考えてさえいないように見えた。
裁判長はやがて法廷の慣用語をつかって、陪審員が被告に無罪の判決を下したことを、彼に云い渡した。
しかし彼は身うごき一つしなかった。
が、傍聴席からはどッと拍手が起った。
底本:「モオパッサン短篇集 初雪 他九篇」改造文庫、改造社出版 1937(昭和12)年10月15日発行※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 或る→ある 或は→あるいは 謂わば→いわば (て)置→お 此→この 而して→しかして 暫く→しばらく (て)了→しま 直ぐ→すぐ 其・其の→その 唯→ただ 忽ち→たちまち 何処→どこ 筈→はず 殆んど→ほとんど 間もなく→まもなく (て)見→み 以って→もって 矢ッ張り→やッぱり 矢庭に→やにわに 稍→やや」※底本に混在している「灯」「燈」はそのままにしました。
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付した。
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