その一節には、「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろうと決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」「科学上の智識を得るには屈竟の機会であるから、サー・デビーと共に旅行を続けようと思う。けれども、他方ではこの利益を受けんがために、多くの犠牲を払わねばならぬのは辛い。この犠牲たるや、下賤の者は左程と思わぬであろうが、自分は平然としていられない。」 そうかと思うと、「サー・デビーはヨウ素の実験を繰りかえしている。エム・ピクテーの所の三角稜を借りて、そのスペクトルを作った。」 それから、終りには、「近頃は漁猟と銃猟とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉をとり、ローン河にては鱒を漁った。」などとある。
第 3 章
一六 デビー夫人
かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。
これにはデビイの事をちょっと述べて置く。
デビーが一八〇一年に始めてロンドンに出て来たときは、田舎生れの蛮カラだったが、都会の風に吹かれて来ると、大のハイカラになりすまし、時代の崇拝者となり、美人の評判高かった金持の後家と結婚し、従男爵に納まってサー(Sir)すなわち準男爵を名前に附けるようになり、上流社会の人々と盛んに交際した。
この度の旅行にもこの夫人が同行したが、夫人は平素デビーの書記兼助手たるファラデーを眼下に見下しておったらしい。
さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊いてよこした。
ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事を出した。
これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。
この時には事件がやや平穏になっていた時なので、「サー・デビーが英国を出立する前、下僕が一緒に行くことを断った。時がないので、代りを探すことも出来なくて、サー・デビーは非常に困りぬいた。そこで、余に、パリに着くまででよいから、非常に必要の事だけ代りをしてはくれまいか、パリに行けば下僕を雇うから、と言われた。余は多少不平ではあったが、とにかく承知をした。しかしパリに来て見ても、下僕は見当らない。第一、英国人がいない。また丁度良いフランス人があっても、その人は余に英語を話せない。リオンに行ったが無い。モンペリエに行っても無い。ゼネバでも、フローレンスでも、ローマでも、やはりない。とうとうイタリア旅行中なかった。しまいには、雇おうともしなかったらしい。つまり英国を出立した時と全く同一の状態のままなのである。それゆえ初めから余の同意しない事を、余のなすべき事としてしまった。これは余がなすことを望まない事であって、サー・デビーと一緒に旅行している以上はなさないわけには行かないことなのだ。しかも実際はというと、かかる用は少ない。それにサー・デビーは昔から自分の事は自分でする習慣がついているので、僕のなすべき用はほとんどない。また余がそれをするのを好まぬことも、余がなすべき務と思っておらぬことも、知りぬいているから、不快と思うような事は余にさせない様に気をつけてくれる。しかしデビー夫人の方は、そういう人ではない、自分の権威を振りまわすことを好み、余を圧服せんとするので、時々余と争になることがある。」「しかしサー・デビーは、その土地で女中を雇うことをつとめ、これが夫人の御用をする様になったので、余はいくぶんか不快でなくなった。」と書いてある。
かような風習は欧洲と日本とでは大いに違うているので、少し註解を附して置く。
欧洲では、下女を雇っても、初めから定めた仕事の外は、主人も命じないし、命じてもしない。
夜の八時には用をしまうことになっていると、たとい客が来ておろうと、そんな事にはかまわない。
八時になれば、さっさと用をやめて、自分の室に帰るなり、私用で外出するなりする。
特別の場合で、下女が承知すれば用をさせるが、そのときは特別の手当をやらねばならぬ。
デビーはファラデーに取っては恩人であるから、日本流にすれば、少々は嫌やな事もなしてよさそうに思われるが、そうは行かない。
この点はファラデーのいう所に理がある。
しかし他方で、ファラデーは権力に抑えられることを非常に嫌った人で、また決して穏かな怒りぽくない人では無かったのである。
一七 デ・ラ・リーブ
そのうちに、ファラデーに同情する人も出来て来た。
一八一四年七月から九月中旬までゼネバに滞在していたが、デ・ラ・リーブはデビーの名声に眩まさるることなく、ファラデーの真価を認め出した。
その動機は、デビーが狩猟を好むので、リーブも一緒に行ったが、リーブは自分の銃は自分で装填し、デビーの鉄砲にはファラデーが装填する。
こんな事で、リーブとファラデーとは談話する機会を得、リーブはファラデーが下僕ではなくて、実験の助手であることも知ったし、またこの助手が中々偉い人間であることも知った。
それでほとんどデビーに次ぐの尊敬を払いはじめた。
ある日、リーブの所で正餐をデビー夫妻に饗したことがあった。
その時ファラデーをも陪席させると言い出した。
しかしデビーは下僕の仕事もしているのだからというて断った。
しかしリーブは再三申し出して、とにかく別室でファラデーを饗応することにした。
ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長きに亘った。
一八 旅行のつづき
再び旅行の事に戻ろう。
デビーはゼネバを立って、北方ローザン、ベルン、ツーリヒに出で、バーデンを過ぎてミュンヘンに行き、ドイツの都会を巡遊して、チロールを過ぎり、南下してピエトラ・マラの近くで、土地より騰る燃ゆるガスを集め、パヅアに一日、ヴェニスに三日を費し、ボログナを通ってフローレンスに行き、ここに止まって前に集めたガスを分析し、十一月の初めには再びローマに戻って来た。
ファラデーは一・二度母親にも妹にも手紙を送り、また王立協会の前途を案じてはアボットに手紙を送り、「もし事変の起るようなことでもあったら、そこに置いてある自分の書籍を忘れずに取り出してくれ。これらの書籍は旧に倍しても珍重するから」と書いてやった。
また自分の属する教会の長老には寺院のお祭りや謝肉祭の光景、コロシウムの廃跡等をくわしく書きおくり、若い友人にはフランス語の学び方を述べた手紙を送ったりした。
この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭の事がたくさんかいてある。
その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽という扮装で押し出した。
サー・デビーは、それからギリシャ、トルコの方面までも旅行したい希望であったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。
このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既にロンドンに到着した。
中年時代
一九 帰国後のファラデー
ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙ではなかった。
ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。
この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。
ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。
一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド(一千円)となった。
今日に残っている実験室の手帳を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。
デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授となって研究だけは続けておった。
二〇 デビーの手伝い
この頃デビーは※の研究をしていた。
これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯を作ろうという計画なのである。
ファラデーもこれを手伝った。
デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。
デビーは金網を用いて火※を包み安全灯を作ったが、一八一六年には礦山で実地に用いられるようになった。
しかしこの安全灯とても、絶対に安全という訳には行かない。
議会の委員が安全灯を試験した際にも、ファラデーはこの由を明言した。
ファラデーは先生のデビーにはどこまでも忠実であったが、しかし不正を言うことは出来ない人であった。
ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書した。
デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。
それでファラデーは強いて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。
今日に保存されている。
二一 自分の研究
これまでのファラデーは智識を吸収する一方であったが、この頃からボツボツと研究を発表し出した。
初めて講演をしたのは一八一六年の一月十七日で、市科学会でやり、また初めて自分の研究した論文を出したのもこの年で、「科学四季雑誌」(QuarterlyJournalofScience)に発表した。
講演は物質に関するもので、論文は生石灰の分析に就いてである。
いずれもそう価値のあるものではない。
しかし、これは特筆に値いするものというて宜かろう。
ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂われ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称えられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば、実にこの講演と研究とを発端とするからである。
かくファラデー自身が研究を始めることになって見ると、デビーの為めに手伝いする部分と、自分自身のために研究する部分との区別がつきにくくなり、これがため後には行き違いを生じたり、妬みを受けたりした。
しかし初めの間はまだ左様なこともなく、一八一八年頃デビーが再び大陸に旅行しておった留守にも、ファラデーは実験室で種々の研究をし、ウエストの新金属というたシリウムを分析して、鉄、ニッケル、硫黄から成ることを発表し、またベスチウムなる金属を分析しては「既知の元素を順次に取り去れば、ベスチウムは無くなってしまった」というた。
一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。
二二 研究の続き。
電磁気廻転
その後ファラデーは結婚した。
この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。
ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる。
講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。
この数年間にやった新しい研究を述べると、まず塩素の研究をした。
しかし、臭い黄色いガスを室の内に撒き散らすのではなくて、炭素と化合させたり、または液体にして、伝染病の消毒に使うというような事をした。
次にはヨウ素を研究した。
やはり炭素や水素と化合させた。
またナフサリンを強い酸に溶したりした。
鋼鉄の堅くて錆びないのを作ろうと工夫して、白金だの、その他の金属を少しずつ加えて見たが、これは成功しなかった。
一番成功したのは電磁気廻転の実験であった。
一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。
その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲りに廻転させる実験に成功した。
これは九月三日の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る! 廻る! とうとう成功したぞ!」といった。
「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。
これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。
不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。
この頃ファラデーの道楽は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。
彼はバスを歌った。
二三 サンデマン宗
キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られないのはサンデマン宗であろう。
一七三〇年頃にスコットランドのプレスビテリアン教会の牧師にジョン・グラスという人があった。
教会はキリストと使徒との教えのみにより支配さるべきもので、国教という様になりて国家と関係をつけるのは間違っている。
吾等も新約聖書にあるだけ、すなわち初期のキリスト教徒の信じただけを信ずべきであると説いた。
グラスと婿のサンデマンとがこの教旨を諸方に広めたので、この宗をグラサイトとも、またサンデマニアンともいう。
大体の教義については、清教徒に近く、礼拝の形式においてはプレスビテリアンに似ている。
しかしこの宗の信者は他の教会と全く不関焉で、他宗の信者を改宗させるために伝道するというようなこともしない。
それゆえ余り盛んにもならないでしまった。
ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けたことは一と通りではなかった。
二四 サラ・バーナード嬢
この教会の長老にバーナードという人があって、銀細工師で、ペーターノスター・ローという所に住んでおった。
その次男のエドワードとファラデーは親しかったので、その家に行ったりした。
エドワードの弟にジョージというのがあり、後に水彩画家になった人だが、この外に三人の妹があった。
長女はもはやかたづいてライド夫人となり、次女はサラといいて、妙齢二十一才、三女のジェンはまだ幼い子であった。
ファラデーは前から手帖に色々の事を書いておったが、その中に「愛」を罵った短い歌の句などもたくさんあった。
ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。
サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴なと言った。
これにはファラデー閉口した。
結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見したからと言ってやった。
これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。
この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。
時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。
翌年七月五日附けの一部を紹介すると、「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚も、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと誤れる道に踏み入れる者のありもせば導き出さるる様にと御骨折りを御願い致します。」「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に私がなりたいと希い願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」
二五 結婚
サラはこの手紙を父に見せると、父は一笑に附して、科学者が、馬鹿な事を書いたものだといった。
ファラデーは段々と熱心になる。
サラは返事に困って躊躇し、※のライド夫人とラムスゲートの海岸へ旅行に行ってしまった。
ファラデーは、もうジッとしてはいられない。
追いかけて行って、一緒にドーバーあたりで一日を送り、愉快に満ちた顔して帰って来た。
ついに一八二一年六月十二日に結婚した。
式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった。
しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。
結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ。
しかし舅のバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。
ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。
ファラデーは結婚してから一ヶ月ばかりして、罪の懺悔をなし、信仰の表白をして、サンデマン教会にはいった。
しかしこの際に、細君のサラには全く相談しなかった。
もっとも細君は既に教会にはいってはおった。
ある人が何故に相談しなかったときいたら、それは自分と神との間のみの事だから、と答えた。
二六 幸福なる家
ファラデーには子供が無かった。
しかし、この結婚は非常に幸福であった。
年の経つに従って、夫妻の愛情はますます濃やかになるばかりで、英国科学奨励会(BritishAssociationoftheAdvancementofScience)の年会があって、ファラデーがバーミンガムに旅行しておった時も、夫人に送った手紙に、「結局、家の静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」 ファラデーは諸方からもらった名誉の書類を非常に大切に保存して置いた。
今でも王立協会にそのままある。
各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に、一つの折紙が挟んである。
「一八四七年一月二十五日。」
これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。
余等は一八二一年六月十二日に結婚した。
ファラデー」 またチンダルの書いたファラデー伝には、「これにも優りて、雄々しく、清らかなる、不変の愛情他にあるべきや。宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く、四十六年の長きに亘りて、煙なき、純白の光を放ちつつ燃えぬ」と、美しい筆致で描かれてある。
ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。
前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。
一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。
今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。
しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。
二七 ローヤル・ソサイテーの会員
デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。
一八二二年に塩素を液化したときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話したことも書き加えた。
しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。
ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い。
すでに二、三年前に電磁気廻転を発見した時にも誤解が起った。
ファラデーが発見した以前、ウォーラストンがやはり電磁気廻転のことを考えておった。
しかし、ファラデーのとは全く別のものであった。
それにも関わらずウォーラストンの友人のワルブルトン等は同じものだと誤解しておった。
この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員になろうと思った。
会員になるには、まず推薦書を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。
ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否を決するのである。
ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。
しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった。
多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。
しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろとファラデーに言った。
ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。
デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」 また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。
こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。
しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選した。
デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。
この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもとのようにやさしく無かった。
やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後逝くなった。
二八 講演
一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理をして好評を博した。
これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。
一八二五年二月には、王立協会の実験場長になった。
ブランドはやはり化学の教授であった。
ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。
また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。
後になっては、金曜日の夜に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。
「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。
これも今日残っている。
また木曜日の午後には、王立協会の委員会があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
一八二七年のクリスマスには、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。
これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。
この手扣も今日まで保存されてある。
これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
この年、化学教授のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。
一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った。
一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師となり、一年に二十回講義を引き受けた。
たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。
講師としては非常に評判がよかった。
一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。
二九 協会の財政
この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。
しかし、王立協会の財政は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見をした。
この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。
その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。
しかしその翌年に、下院議員のジョン・フーラーという人が金を寄附してくれて、新たに化学の教授を置くこととなり、ファラデーを終身官として、これを兼任させた。
その年俸百ポンドで、今までの俸給の上にこれだけ増俸した事になった。
実験費もいくぶん楽になった。
その後に俸給もまた少し増した。
ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇をした。
実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫と開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。
三〇 ファラデーの収入
しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。
これがその頃のファラデーの全収入であったか。
否、ファラデーは前から内職に化学分析をしておったので、これがよい収入になっていた。
一八三〇年には、この方の収入が一千ポンドもあった。
そしてこの年に、電磁気感応の大発見をしたのである。
それでファラデーは、自然界の力は時として電力となり、時として磁力となり、相互の間に関係がある。
進んでこの問題を解いて大発見をしようか。
それともまた、自分の全力をあげて、富をつくるに集中し、百万長者となりすまそうか。
富豪か、大発見か。
両方という訳には行かぬ。
いずれか一方に進まねばならぬ。
これにファラデーは心を悩ました。
結局、ファラデーの撰んだ途は、人類のために幸福であった。
グラッドストーンの言ったように、「自然はその秘密を段々とファラデーにひらいて見せ、大発見をさせた。しかしファラデーは貧しくて死んだ。」
三一 千五百万円の富豪
チンダルが書いた本には、このときの事情がくわしく出ている。
収入の計算書までも調べたところが中々面白いので、多少重複にはなるが、そのままを紹介しよう。
「一八三〇年には、内職の収入が一千ポンド以上あった。翌年には、もっと増すはずであった。もしファラデーが増そうと思ったら、その翌年には五千ポンドにすることは、むずかしくは無かったろう。ファラデーの後半生三十年間は、平均この二倍にも上ったに相違ない。
「余がファラデーの伝を書くに際して、ファラデーの「電気実験研究」を繰りかえして見た。
そのときふと、ファラデーが学問と富との話をしたことがあるのを想い起した。
それでこの発見か富豪かという問題がファラデーの心に上った年代はいつ頃であったのか、と考え出した。
どうも一八三一、二年の頃であるらしく思われた。
なぜかというと、この後ファラデーのやった様に、盛んに発見をしつつ、同時に内職で莫大の収入を得るということは、人力の企て及ぶ所でないからだ。
しかし、それも確かでないので、ファラデーの収入書が保存されてあるのを取り出して、内職の収入を調べて見た。
「案の定、一八三二年には収入が五千ポンドに増す所か、千九十ポンド四シリングから百五十五ポンド九シリングに減じている。これから後は、少し多い年もあり少ない年もあるが、まずこの位で、一八三七年には九十二ポンドに減り、翌年には全く無い。一八三九年から一八四五年の間には、ただの一度を除いては二十二ポンドを越したことがない。さらにずっと少ない年が多い。この除外の年というのは、サー・チャールズ・ライエルと爆発の事を調べて報告を出した年で、百十二ポンドの総収入があった。一八四五年より以後、死ぬまで二十四年の間は、収入が全くない。
「ファラデーは長命であった。それゆえ、この鍛冶職の子で製本屋の小僧が、一方では累計百五十万ポンド(千五百万円)という巨富と、一方では一文にもならない科学と、そのいずれを撰むべきかという問題に出会ったわけだが、彼は遂に断乎として後者を撰んだのだ。そして貧民として一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許であったろうか。」 もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。
一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンドをもらった。
三二 年金問題
一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。
三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。
ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。
「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べないですました」とか、また「ファラデーの初めに作った電気機械」の事が書いてある。
ピールはこれを読んで、すっかり感心し、こんな人には無論年金を贈らねばならぬ、早くこれが手に入らないで残念な事をしたと言った。
ところが、サー・ジェームス・サウスは再びこの伝記をカロリン・フォックスに送って、この婦人からホーランド男の手を経て、メルボルン男に差し出した。
初めにファラデーはサウスに、やめてくれと断わりを言ったが、ファラデーの舅のバーナードが宥めたので、ファラデーは断わるのだけはやめた。
この年の暮近くになって、総理大臣メルボルン男からファラデーに面会したいというて来た。
ファラデーは出かけて行って、まずメルボルン男の秘書官のヤングと話をし、それからメルボルン男に会うた。
ところがメルボルン男はファラデーの人となりを全く知らなかったので、いきなり「科学者や文学者に年金をやるということはもともとは不賛成なのだ。これらの人達はいかさま師じゃ」と手酷しくやっつけた。
これを聞くやファラデーはむっと怒り、挨拶もそこそこに帰ってしまった。
もしやメルボルン男が年金をよこす運びにしてしまうといけないと思うて、その夜の十時にメルボルン男の所へ行って断り状を置いて来た。
事件はこれで落着しなかった。
ファラデーの友人はこの話をきいて怒り、ファラデーの知らない間に、この面会の顛末を「フラザー雑誌」に出し、それがまた十一月二十八日の「タイムス」に転載された。
英王ウイリアム四世も棄てて置けなくなって、仲裁にはいられ、十二月二十四日にファラデーは三百ポンドの年金を受けることになった。
研究と講演
三三 研究室で
ファラデーは、まず研究せんとする問題を飽くまで撰んで、それからこれを解決すべき実験の方法を熟考する。
新しい道具が入用と思えば、その図を画いて、大工に言いつける。
あとから変更するようなことはほとんどない。
またもし実験の道具が既にある物で間に合えば、その品物の名前を書いて、遅くとも前日には助手のアンデルソンに渡す。
これはアンデルソンが急がなくて済むようにとの親切からである。
王立協会内のファラデーの実験室
実験の道具がすっかり揃ってから、ファラデーは実験室に来る。
ちゃんと揃っているか、ちょっと見渡し、引出しから白いエプロンを出して着る。
準備したものを見ながら、手をこする。
机の上には入用以外の物は一品たりとも在ってはならぬ。
実験をやりはじめると、ファラデーは非常に真面目な顔になる。
実験中は、すべてが静粛でなければならぬ。
自分の考えていた通りに実験が進行すると、時々低い声で唄を歌ったり、横に身体を動して、代わるがわる片方の足で釣合をとったりする。
予期している結果を助手に話すこともある。
用が済むと、道具は元の所に戻す。
少くとも一日の仕事が済めば、必ずもとの所に戻して置く。
入用のない物を持ち出して来るようなことはしない。
例えば孔のあいたコルクが入用とすると、コルクとコルク錐を入れてある引出しに行って、必要の形に作り、それから錐を引出しにしまって、それをしめる。
どの瓶も栓なしには置かないし、開いたガラス瓶には必ず紙の葢をして置く。
屑も床の上に散して置かないし、悪い臭いも出来るだけ散らさぬようにする。
実験をするのに、結果を出すに必要であるより以上な物を一切用いないように注意した。
実験が済めば、室を出て階上に登って行き、あとは書斎で考える。
この順序正しいことと、道具を出来るだけ少ししか使わないこととは、ファラデー自身がしただけでなく、ファラデーの所で実験の指導を受けた者にも、そうさせた。
そうさせられた人からグラッドストーンが聞いて、伝に書いた。
それをそのまま著者は紹介したのである。
「自然界に適当な質問をしかけることを知っている人は、簡単な器械でその答を得ることをも知っている。この能のない人は、恐らく多くの器械を手にしても、良い結果は得られまい」というのが、ファラデーの意見である。
従ってファラデーの実験室は能率が良くは出来ているが、非常に完備しているとはいえなかった。
かようにファラデーは、うまい実験の方法を考えて、ごく簡単な器械で重大な結果を得るということを努めたので、実験家だからというても、毎日朝から夜まで実験室に入り浸りで、手まかせに実験をした人ではない。
戦略定って、しかる後始めて戦いに臨むという流儀である。
後篇の電磁気感応の発見の所で述べるように、途中に日をおいて実験しているので、この間によく考え、器械の準備をさせて置いたのである。
三四 研究の方針
ファラデーの研究した大方針は天然の種々の力の区別を撤廃して一元に帰させようというのである。
それゆえファラデーが喜んだのは、永久ガスが普通の蒸気と同様に、圧力と寒冷とで液化した時である。
感応電流が電池から来る電流と同じく火花を出した時である。
摩擦電気や電気鰻の発する電気が、電池から来る電気と同様な働きをした時である。
電池の作用はその化学作用と比例するのを見た時である。
偏光を重ガラスに送ったのが磁気の作用で偏光面が廻転した時である。
酸素やビスマスも磁性のあることを知った時である。
ファラデーは研究している間、大きな紙に覚え書きを取って行き、実験が終るとそれを少し書きなおし、一部の順序を換えたり、不要の箇所を削ったりし、番号のついた節を切る。
これで論文が出来あがる。
かかる疑問を起して、かくかくの実験を行い、これは結果が出なかったということまで書きつづり、最後に良い結果の出た実験を書く。
三五 学者の評
デ・ラ・リーブは「ファラデーは予め一定の考案を持つことなしに、器械の前に立って研究を始めたことはない。また他の学者がやる様に、既知の事実をただ細かく実験して見て、定数を測定するというような事もしないし、既知の現象を支配する法則を精しく定めようとした事もない。ファラデーのは、これらとは非常に異なる方法で、神来によるかのごとくに既に研究された方面とは飛び離れ、全く新生面を開く大発見にと志した。しかしこの方法で成功しようというには一つの条件が必要で、それは即ち稀世の天才たるを要するということである。ファラデーにはこの条件が満足されたのだ。ファラデーは自分でも認めておったように、想像力の非常に豊富な人で、他の人が気もつかない様な所までも、平気で想像を逞しくして実験にかかったのである。」というた。
またケルヴィン男の言葉にも、「ファラデーは数学を知らなかった。しかし数学で研究される結果を忖度し得た。また数学として価値のあるような結果を清楚な言葉で表わした。実に指力線とか磁場とかいうのは、ファラデー専売の言葉であって、数学者も段々とこれを用いて有用なものにした。」
三六 実験して見る
ファラデーはいかによく書いたものでも、読んだだけでは、しっかりと、のみ込めない人であった。
友人が新発見の話をして、その価値や、これの影響いかんというようなことを聞かされても、ファラデーは自分で実験して見たものでなければ、何とも返事が出来なかった。
多くの学者は学生や門弟を使うて研究を手伝わせるが、ファラデーにはこれも出来ない。
「すべての研究は自分自身でなすべきものだ」というておった。
ロバート・マレットが話したのに、十八年前にムンツの金属という撓み易いが、ごく強い金属を硝酸第二水銀の液に漬けると、すぐ脆い硬い物になることをファラデーに見せようと思って持って行った。
ファラデーが早速この液を作ってくれたので、自分がやって見せた。
ファラデーの眼前で、しかもすぐ側で、やって見せたのだから、まさか疑ったわけではあるまい。
しかしファラデーは見ただけでは承知できないと見えて、自分でまたやり出した。
まずその金属の一片をとって、前後に曲げて見、それから液に漬け、指の間に入れて破って見た。
この間ファラデーは黙ってやっておったが、漸う口を開いて、「そうだ、軟いが、なるほどすぐに脆くなる。」しばらくしてこれに附け加えて、「そう、もっと何か、こんな事は無いでしょうか。」「新しい事は、これ以外には別にない」と言うたら、ファラデーは多少失望して見えた。
ファラデーがある事実を知るのには、充分満足するまでやって見ることを必要とした。
それですっかり判ると、その次にはこれを他の事実と結んで、一つにして考えようと苦心した。
実験室の引出しの内に在った覚書に、こんなのがあった。
四段の学位ある新事実の発見。
この新事実を既知の原理にて説明すること。
説明出来ないような新事実の発見。
その新事実をも説明し得るような一層一般的なる原理の発見。
M、F、
三七 実験に対する熱心
ファラデーの実験に対する熱心は非常なもので、電磁気廻転を発見したときに、踊って喜んだことは、前にも述べた通りである。
光に対する磁気の作用をヂューマに見せたときも、実験がすむと、手をこすって、眼は火のように輝き、これを自分が発見したという喜ばしさが、ありありと見えたという話である。
自分の発見だけではない、人の発見した事でも、新しい実験は非常に喜んだ。
ヘンリーがアメリカから来て、キングス・カレッジで他の科学者と一緒になったとき、皆が熱電堆から出る電気で火花を飛ばそうと試みた。
ヘンリーがそれをやって成功したとき、ファラデーは小児のように喜んで、「亜米利加人の実験万歳」と怒鳴った。
それからプリュッカーがドイツから来て、王立協会で真空管内の放電に磁石を働かせて見せたときも、放電の光が磁石の作用に連れて動くのを見て、ファラデーはそのまわりを踊って喜んだ。
またジェームス・ヘイウードがイーストパンで烈しい雷雨のときに、偶然ファラデーに出逢った。
ファラデーは「丁度協会の塔に落雷するのを見た」といって、非常に喜んでおった。
三八 発見の優先権
発見の優先権については、ファラデーは非常に重きを置いた。
ファラデーのように、誠心誠意の人でもあり、また感覚の鋭敏な人でもあり、かつ初めに苦しい経験を甞めた人でもあり、また他方で巨万の富をすてて科学の発見を唯一の目的とした人の事であるから、もっともなことである。
初めの苦しい経験というのは、デビーの助手をしておった時代に、電磁気廻転につきてウォーラストンとの間に行き違いがあり、その後に塩素の液化の発見についてデビーとの間にごたごたがあった事で、これがため、ローヤル・ソサイテーの会員の当選を危からしめた程である。
この後、ファラデーは研究を発表する時に、月日を明記した。
ところが一八三一年に、電磁気感応を発見したときにも、また不思議なことで行き違いが起った。
ファラデーの発見は同年の九月から十月の間のことで、これを十一月二十四日にローヤル・ソサイテーで発表した。
それより二週間を経て、概要を手紙に書いてパリのハセットの所へ送った。
この手紙が行き違いを生ずる源となった。
ハセットはこの手紙を十二月二十六日にパリのアカデミーに送ったが、