その二十八日の新聞ル・タンに掲げられた。それでローヤル・ソサイテーで発表した元の論文は、この時まだ印刷出来なかった。
第 4 章
このル・タンに載せた手紙をイタリアのノビリとアンチノリとの両人が見て、この先きは自由に研究してよいと思ったから、ファラデーの発見の委細は知らないで、感応の研究をし、その結果をまとめた。
一八三二年一月三十一日附であったが、妙なことには雑誌アントロギアの一八三一年の十一月号の遅れたのに出たので、事情をよく知らない大陸の人々の眼には、ファラデーの論文より此方が早く出たように思われた。
ファラデーはノビリ等の論文を英訳して、これに弁明を附し、一八三二年六月のフィロソフィカル・マガジンに出した。
またその後に、ゲー・ルーサックの所へも、長い手紙を書いて送り、ノビリ等の論の誤謬をも詳しくいってやった。
科学上の発見の優先権を定める規則として、現今はその発見が学界に通知された日附によることになっているが、これはファラデーの事件から定まったことである。
ファラデーは、実験上の発見は盗まれるものなることを知っておったので、この後は学界で発表するまでは秘密にして、外の人に知らせなかった。
反磁性の発見をしたときも、ごく心易いデ・ラ・リーブにだけは手紙で報導したが、それもローヤル・ソサイテーで発表するまでは、他の人に話してくれるなと、特に書き添えて置いた。
ファラデーが後進の人達に話したのには、研究をどんどんとやり、やりてしまったら、まとめてすぐに発表せよというので、すなわち「勉強し、完了し、発表せよ」というのであった。
三九 学界の空気
ファラデーが最初デビーに手紙を送ったときには、商売は利己的のもので嫌だと言った。
デビーは、それは世間見ずの若い考で、数年も経つとその非をさとるだろうと言った。
幾年か後に、クロッス夫人がファラデーの実験室に来た時に、学界の空気に感心したと見えて、ファラデーに「俗人の浅墓な生活や日日の事に齷齪するのとは全くの別天地で、こんな所で研究をしておられたら、どんなに幸福でしょう」と言った。
ところが、ファラデーは頭を振り顔色を変え、悲しそうな声で「私が商売をすてて学界に入った頃には、これでもう度量の狭い、妬み深い俗の世界は跡にしたと思っておったが、これは誤りで、智識は高くなっても、やはり人間の弱点や利己心は消えぬものだということを悟りました」と答えた。
四〇 実用
科学上の発見の話が出ると、すぐに「それが何の用に立つのか」ときかれる。
これの答は、人間には智識慾があって智識を得んとするゆえこれを満たすものはみな有用だといいてもよい。
しかし問う者は恐らくかかる答では満足すまい。
「実用向きで何の用に立つのか」という所存であろう。
それに答えるのも、ファラデーの場合にはむずかしくはない。
電気が医用になるというが、これもファラデーの電気ではないか。
いずれの都市でも、縦横に引ける針金の中を一方から他方へと流れるものはファラデーの電流ではないか。
家々の灯用として使い、また多くの工場では動力に用い、電車もこれで走っているではないか。
大西洋なり太平洋なりを航海する船と通信したり大洋の向うの陸から此方の陸へと通信する無線電信も、ファラデーの電気ではないか。
しかし、ファラデー自身は応用の事には少しも手を出さなかった。
せっかく、研究して実用に近い所まで来ると、急に方面を換えてしまった。
特許も一つも取らなかった。
さればといいて実用を軽んじたのではない。
王立協会の金曜講演には、有用な発見の事をよく話した。
ゴムの原料や、これから出来た材料、エリクソンの発明にかかる太陽熱利用の機械、鏡にメッキするペチットジェンの方法、木材の乾燥や、それの腐蝕を防ぐ方法、ボネリーの電気応用絹織機、バァリーの考案にかかる上院の通気法等で、ファラデー一生の最後の講演はジーメンスのガス炉の話であった。
ファラデーが塩素につきて講演したとき、結末の所で言ったのに、「新しい発見の事を聞くと、それは何の用に立つかと、すぐにきく癖の人がある。フランクリンはかような人には嬰児は何の用に立つのかと反問したそうだが、余はこれを用に立つようにしてくれと答えたい。始めて塩素をシールが発見した時には、実用にならなかったので、いわば嬰児であった。しかしこの嬰児が大きくなって、力づいてからは、今日立派に実用になっているではないか。」 つまり、ファラデーは嬰児を作ることに尽力したので、育てて実用にするのは他人に頼んだ訳である。
四一 講演振り
ファラデーは講演者としても非常に巧妙で、その頃肩をならべる者がなかった。
それで、王立協会でやった講演は一八二三年にブランド教授の代理をした時に始って、同一八六二年に至る三十九年の長い間に亘った。
かく名高くなったのは天禀にもよるであろうが、また熱心と熟練にもよること少なくない。
初めにデビーの講演を聴いたときから、かかる点がうまいというような事まで観察しておった。
後に王立協会に入ってから数週を経て、友人アボットに送った手紙に、講堂の事から講師の態度の事まで細かく論じた位で、常に注意を怠らなかった。
それから市科学会で講演するようになってから、スマートの雄弁術の講義を聴きに行き、その後(一八二三年)には一回、半ギニー(十円五十銭)の謝礼を出して単独に稽古をつけてもらった。
そればかりでなく、ファラデー自身の講演をスマートにきいてもらって、批評を受けたこともある。
但し、ファラデーの講演振りは雄弁術で教えるような人工的の所にはかぶれなくて、活気に満ちていた。
ファラデーの書いた物の中にも、
「決して句を繰り返すな。
「決して修整するために跡に戻るな。
「ちょっと、ある言葉を忘れても、チェッチェッとか、エーエーとか言わず、しばらく待っておれば、すぐに続きを思い出すものだ。こうすると、悪い習慣がつかないで、すらすらと出るようになる。
「決して他人の言うてくれる批評を疑うな。」
姪のライド嬢はしばらくファラデーの所に厄介になっていたが、その話に、「マルガース君はいつも朝の講演を聴きに来る。これはファラデーの話し方のまずい所や、発音の悪い所を見出すためで、ファラデーはその通り全部訂正はしないが、しかし引きつづいて遠慮なく注意してくれというていた。」 ファラデーは前もって「ゆっくり」と書いた紙を作って置いて、講演が少し速くなり過ぎると思うと、助手のアンデルソンが傍から見せる。
また「時間」と書いたのを作って置いて、講演の終るべき時間が近づくと、見せて注意するというようにしたこともある。
よく雛形を持ち出して説明をした。
雛形は紙や木で作ったこともあるが、馬鈴薯を切って作ったこともある。
晩年の時代
四二 一日中の暮し
ファラデーの一生は冒険もなく変化もない。
年と共に発見もふえれば、名声も高くなるばかりであった。
ファラデーの人となりは極めて単純である。
しかしファラデーその人を描き出そうとすると、中々容易でない。
種々の方面から眺めて、これを一つにまとめて、始めてファラデーなるものの大概がわかるであろう。
ファラデーの一日のくらしを記すと、八時間眠て、起きるのが午前八時で、朝食をとりてから王立協会内を一とまわりして、ちゃんと整頓しているかを見、それから実験室に降りて行って、穴のたくさんある白いエプロンをつけて、器械の内で働き出す。
兵隊上りのアンデルソンという男が侍して、何でも言いつけられた通り(それ以上もしなければ、それ以下もしない)用をする。
考えておった事が頭に浮ぶに従って、針金の形を変えたり、磁石をならべたり、電池を取りかえたりする。
それで、思い通りの結果が出て来ると、顔に得意の色を浮べる。
もし疑わしくなると、額が曇って来る。
考えた事の不充分のために、うまく行かないからで、また新しい工夫をしなければならない。
王立協会内のファラデーの書斎
姪のライド嬢は実験室の隅で、針仕事をしながら、鼠のように静かにしている。
ファラデーは時々うなずいたり、言葉をかけたりする。
時によると、ポタシウムの切れを水に浮べてやったり、あるいはこれを焔に入れて紫の光を出して、見せてやったりする。
もし外国の学者でも来て名刺を通ずると、ファラデーは実験を中止し、今まで出た結果をちょっと石盤に書きつけて、階上に来り、親切にいろいろの物を見せる。
帰ると、再び実験に取りかかる。
午後二時半に昼食をし、それから書斎にはいる。
室には、質朴な家具があり、窓の所にゴムの植木がある。
ここで手紙を書いたりする。
学会でもある日だと、出かける。
帰ると、また実験室に行き、夕方にはやめて階上に来て細君や姪と賭け事をしたり、謎をかけ合ったり、もしくはシェクスピアかマコーレーを声高に読む。
その中に夕食になる。
家族が集まっているので、朝出来なかった礼拝をする。
これで、一日が暮れるのである。
夏の夕方には、細君や姪をつれて散歩に出かける。
よく動物園に行った。
新しく来た動物を見たり、猿がいろいろないたずらをするのを見て喜び、果ては涙ぐむことさえもある。
また金曜日の夕方だと、王立協会の書斎と講堂に行って、万事整頓しているかを見、その夜の講師に挨拶し、友人が来ると、「よくお出で」と言い、講堂では前列の椅子に腰掛け、講師の右手の所に陣取る。
講演を聞きながら、時々前にかがみ、講演がすむと、周囲の人々に「ありがとう」とか、「おやすみ」とか言いつつ、細君と一緒に階段を上って自分の部屋に帰る。
時には二三の友人と夕食をとる。
王立協会内の講義室におけるファラデーの講演
またファラデー自身が講師だとする。
題目は前々から注意して撰み置き、講義の大体は大判洋紙に書き、実験図も入れて、番号まで附けておく。
朝の中に覚えよいような順に器械を列べて置く。
夕方になると、聴衆はどんどんと来て、満員になる。
遅く来た人達は階段の所に腰を掛けたり、大向うの桟敷の後方にまでも立つ。
その中にファラデーは、は入って来て、馬蹄形の机の真中に立ち、聴衆がまたと忘れられないような面白い話を始める。
クリスマス前に、小供に講話をする事もある。
前の数列は小供で一杯。
その後にはファラデーの友人や学者が来る。
その中にサー・ジェームス・サウスも来る。
聾であるが、小供の嬉しがる顔が見たいからといって来る。
ファラデーは鉄瓶とか、ロウソクとかいうような小供の知っている物の話をし、前に考えもつかなかったような面白いことを述べて、それから終りには何か有益になる話をする。
また日曜日には、家族と一緒にレッド・クロッス町のパウル・アレイにある小さい教会に行く。
この教会は地下鉄道の停車場が出来たので、今日は無い。
午前の説教や何かが済んでから、信者が皆一堂に集って食事をし、午後の礼拝をすまして帰るのは五時半で、それからは机で何か書きものでもして、早く床につく。
ファラデー自身が説教をしたこともある。
四三 病気
一八三九年の終り頃からファラデーの健康は衰えて来て、初めには物忘れがひどくなり、その後は時々眩暈を感ずるようになった。
翌年には、医師の勧めで研究をやめた。
けれども講演だけは時々していた。
これもその翌年からはやめて、全く静養することにした。
暇に、紙細工をしたり、曲馬、軽業、芝居、または動物園などに行った。
細君はもはや王立協会には住めなくなって、動物園の近い所にでも移転しなければならないかと心配した程であった。
それからスイスへも旅行した。
細君とその兄のジョージ・バーナードか、さなくば姪のライド嬢が一緒に行った。
しかし細君の熱心な介抱により段々と良くなり、一八四四年には旧の体になって、また研究にとりかかった。
スイスへ旅行した折りには、ワルメールという所で、田舎家を借りていたこともある。
窓からはチェリーの木の上に鳥の巣が見える。
母鳥が雛にはぐくむのも見える。
小羊が母を探して、戸の外までやって来る。
ファラデーは日の昇るのを見るのが好きなので、姪に起してくれといい、姪はペイウェルベイの上が明るうなると、下の室へ降りて行き、戸を叩いて起した。
ファラデーは入り日を見るのも好きで、野の草花の咲き乱れた山の上に長い夏の太陽の光が薄れ行き、夕ぐれになるとアッパーデールからの寺の鐘が聞えて来る。
あたりが全く暗くなる頃までも眺めていた。
バイロンのチャイルド・ハロルドにあるレーマン湖のくだりや、またカレッヂの「モン・ブランの讃美」を読むのも好んだ。
読んで感ずると、声にも現われ眼にも涙を出すという風であった。
四四 保養
ちょっと、休養に出かける場合にはブライトンに行く。
クリスマス前にも度々行ったし、四月の復活祭にも行った。
海の風を吸いに行くのである。
しかしちょっと、気を紛らそうという時には、旅行しないで、アイバンホーや巌窟王を読んだり、有名なキーツの芝居を見に行ったり、ヂェンニイ・リンドの歌うのを聞きに行った。
時々は用事と保養とを兼ねて旅行もした。
英国科学奨励会にもよく出席した。
一八三七年リバープールにこのアソシェーションが開催された時には、化学部の部長をした。
その後、会長になれといわれたこともあるが、辞退した。
一八五一年イプスウイッチの会でチンダルに逢った。
晩年には灯台の調査を頼まれたので、田舎へ旅行したこともある。
四五 しなかった事
人の一生を知るには、その人のなした仕事を知るだけでは十分でない。
反対に、その人のことさらしなかった事もまた知るの必要がある。
人の働く力には限りがあるから、自分に適しない事には力を費さないのが賢いし、さらにまた一歩進んで、自分になし得る仕事の中でも、特によく出来ることにのみ全力を集注するのが、さらに賢いというべきであろう。
ファラデーは政治や社会的の事柄には、全く手を出さなかった。
若い時に欧洲大陸を旅行した折りの手帳にも、一八一五年三月七日の条に、「ボナパルトが、再び自由を得た(すなわちナポレオン一世がエルバ島を脱出したことを指す)由なるも、自分は政治家でないから別に心配もしない。しかし、多分欧洲の時局に大影響があるだろう」と書いた。
後には、やや保守党に傾いた意見を懐いておったらしい。
ファラデーのような人で、不思議に思われるのは、博愛事業にも関係しなかったことである。
もちろん個人としての慈恵はした。
また後半生には、科学上の学会にも出席しない。
委員にもならない。
これは一つは議論に加わって、感情に走るのを好まなかったためでもあろうが、主として自分の発見に全力を集めるためであった。
食事に招かれても行かないし、たとい晩餐に出席しても、直きに帰って来るという風であった。
旅行先でも、箇人の御馳走は断わった。
訪問を受ける時間にも制限をもうけた。
これでいかに自分の力を発見に集中したかが窺われる。
田園生活や、文学美術の事にも時間を費さない。
鳥や獣や花を眺めるのは好きだったが、さてこれを自分で飼ったり作ったりして見ようとはしなかった。
音楽も好きではあったが、研究している間は少しも音を立てさせなかった。
四六 訪問と招待
時々、訪問者があるので困った。
ある朝、若い人が来て、新研究をお話し致したいと、さも大発見をしたようにいうので、ファラデーは面会して、話をきいた。
やがて書棚にあるリーの叢書の一冊をとって、「君の発見はこの本に出てはいないか。調べたのかね。」「いや、まだです。」 ファラデーは頁をくって、「これは四十年も前に判っている事ではないか。このようなことで、私の時間をつぶさないようにしてくれ給え。」 しかし、誰か新しい発見でもすると、ファラデーは人を招いて、これを見せたものだ。
発見の喜びを他人に分つというつもりである。
キルヒホッフがスペクトル分析法を発見したときにも、ファラデーはいろいろな人に実験して見せた。
ブルデット・クート男爵夫人に出した手紙には、五月十七日、金曜日、 拝啓明日四時にマックス・ミュラー氏の講演すみし後、サー・ヘンリー・ホーランドに近頃ミューニッヒより到着せる器械をもって、ブンゼンおよびキルヒホッフ両氏の発見したるスペクトルの分析を御目にかくるはずに相なりおり候。
バルロー君も来会せらるべく、氏よりして貴男爵夫人もその時刻を知りたき御思召の由承わり申候。
もし学究の仕事と生活とを御了知遊ばされたき御思召に有之、かつ実験は小生室にて御覧に入るるため、狭き階段を上り給うの労を御厭い無之候わば、是非御来臨願い度と存候。
誠に実験は理解力のある以外の者には興味無之ものに御座候。
以上。
エム、ファラデー
四七 質問
時々は手紙で質問し、返事を乞うた人もある。
この中で面白いのは、ある囚人のよこした手紙である。
「貴下のなされし科学上の大発見を学びおれば、余は禁囚の身の悲しみをも忘れ、また光陰の過ぐるも知らず候」という書き出しで「水の下、地の下で、火薬に点火し得るごとき火花を生ずるに、最も簡単なる電池の組み合わせはいかにすべきや。従来用いしものはウォーラストン氏の原理によりて作れる三十ないし四十個の電池なるも、これにては大に過ぎ、郊外にて用うるには不便に候。これと同様の働きを二個の螺旋にてはなし得まじく候や。もしなし得るものとせば、その大さは幾何に候や」というので、つまり科学を戦争に応用せんとするのである。
囚人でありながら、こんな事を考えていたのはそもそも誰であったろうか。
後にナポレオン三世になったルイ・ナポレオンその人で、その頃はハムの城砦に囚われておったのだ。
ナポレオンはその後にも「鉛のように軟くて、しかも鎔解しにくい合金は出来まいか。」という質問をよこしたこともある。
「実験に入要な費用は別に払うから」ということまで、附記して来た。
ファラデーの返事は大抵簡単明亮であった。
四八 ローヤル・ソサイテーの会長
英国で科学者のもっとも名誉とする位置はローヤル・ソサイテーの会長である。
ファラデーは勧められたが、辞退してならなかった。
一八五七年、ロッテスレー男爵が会長をやめるとき、委員会ではファラデーを会長に推選することになり、ロッテスレー男、グローブ、ガシオットが委員の代表者となって、ファラデーに会長就任を勧めにやって来た。
皆が最善をつくして勧めたし、また多数の科学者も均しくこれを希望しておった。
ファラデーは元来、物事を即決する気風の人で、自分もこれに気づいているので、重要の事はいつも考慮する時間を置いて、しかる後に決定するというのを恒例にした。
この時も恒例に従いて、返事は明日ということで、委員の代表者をかえした。
翌朝、チンダルがファラデーの所に入って来ながら、「どうも心配です。」という。
ファラデーは「何にが」という。
「いや、昨日来た委員連の希望を御諾きにならないのではあるまいか。それが心配で。」と返事した。
ファラデーは「そんな責任の重い位置につくことを勧めてくれるな。」という。
チンダルは「いや、私はもちろんお勧めもするし、またこれを御受けになるのが義務と思います。」というた。
ファラデーは物事をやす受け合いをすることの出来ない性質で、やり出せば充分にやらねば気がすまないし、さもなければ初めからやらないという流儀の人である。
それで当時のローヤル・ソサイテーの組織等について多少満足しておらない点があった。
それゆえ、会長になれば必ず一と悶着起すにきまっているので、「おいそれ」と会長にはならなかったのだ。
もちろん、改革に着手するとなれば、ファラデー側の賛成者もあることは確なのである。
そんな事で、チンダルは大いに勧めては見た。
そのうちにファラデー夫人もはいって来た。
これは夫の意見に賛成した。
結局ファラデーは辞退してサー・ベンジャミン・ブロージーが会長になった。
かような理由で、ファラデーは会長にはならなかったが、今日でもローヤル・ソサイテーには委員連がファラデーに会長就任を勧めている所の油画がかけてある。
ファラデーになって見れば、会長になったからというて別に名誉が加わりもしなかったろう。
却ってローヤル・ソサイテーがファラデーを会長になし得なかったことを残り惜しく思うだけである。
また王立協会でも、会長のノーサムバーランド侯が死んだとき、幹事連はファラデーを会長に推選したが、この方も断った。
英国科学奨励会の会長にもならなかった。
四九 研究と著書
ファラデーの研究は非常に多い。
題目だけで百五十八で、種々の雑誌や記事に発表してある。
短い物も多いが、しかし、そういうものの中にも重要なのがある。
また金曜講演の要点を書き取ったような物もその中にある。
しかし非常に注意して行うた実験もある。
ことに電気に関する実験的研究の約三十篇の論文は、その発表も二十六年間にわたり、後で三巻の本にまとめた。
人間の事業の最高記念物、新発見の智識の庫として、非常に貴ばれたもので、これを精読して、自分の発見の端緒を得た人が、どの位あるかわからない。
マックスウェルはこれから光の電磁気説を想いついて、理論物理学の大家となり、またエヂソンも面白がって読み耽けり、大発明家となった。
この本は普通の本とは非常に趣きが異っていて、ファラデーが研究するに当って、いろいろに考えをめぐらした順序から、うまく行かなくて失敗におわった実験の事までも、事細かにすっかりと書いてある。
これを読めばいかにして研究すべきかということの強い指針を読者に与えるし、そのうまく行かなかった実験を繰りかえして、発見をした人も少くない。
この両方面から見て、非常に貴い本である。
電磁気以外の研究は「化学および物理学の実験研究」という本に、集めてある。
また「化学の手細工」という本を出版したが、これは時勢遅れになったというので、後には絶版にしてしまった。
それから、クリスマス講演の中で、「ロウソクの化学史」と、「天然の種々の力とその相互の関係」とが出版されている。
いずれも六回の講演で、クルークスの手により出版された。
五〇 名誉
ファラデーの名声が高くなるにつれて、諸方の学会や大学から名誉の称号を贈って来た。
一八二三年にパリのアカデミーの会員になったのを初めとし、同六四年にイタリアネープルのアカデミーの会員になったのを終りとし、その中、一八二四年にローヤル・ソサイテーの会員になったのだけは、自分で望んだのだが、この他のはみな先方からくれたので、合計九十有六。
その中にはオックスフォード大学のD.C.L.とキャンブリッジ大学のL.L.D.というようなのもあり、ロンドン大学の評議員というのもあり、キャバリヤー・プルシアン・オーダー・オブ・メリットというようなのや、パリのアカデミーの名誉外国会員というようなものもある。
ローヤル・ソサイテーの最高の賞牌のコプレー賞も二度までもらった。
これらの名誉をファラデーは非常に重んじたもので、特別に箱をつくりて、その内に入れて索引までも附けて置いた。
五一 宗教
ファラデーの信じておったサンデマン宗の事については前にも述べたが、一八四〇年から四四年までの間、ファラデーはこの教会の長老であった。
それが四四年に長老たることも会員たることもやめられたが、その委細は、ある日曜日にファラデーが欠席をした。
どうしたかと聞かれたら、ヴィクトリア女王に正餐に招かれたと答えて、正当の理由であるごとくに弁解した。
これが不都合だというので、やめられたのである。
しかしこの後も引きつづき熱心に礼拝には来ていた。
そのため、後にはまた会員になり、一八六〇年からふたたび長老となった。
説教したことも度々ある。
ファラデーの説教だというので、わざわざ聴きに行った人もある。
しかしファラデー位、講演の上手にやれる人はあるまいが、ファラデーよりもっと効目があるように説教の出来る者は無数にあるという評で、講演の時の熱心な活きいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目という一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもので、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある。
ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。
ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。
ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にしてしまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。
ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。
ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ」は底本では「、一つも誤りなしと信じ」]、他の古い記録と比較しようとも考えなかった」は底本では「、他の古い記録と比較しようとも考えなかった」]。
ファラデーの態度をチンダルが鋭く批評したのに、「ファラデーは礼拝堂の戸は開けっぱなしで(open)寛大にして置くが、実験室の戸は出入がやかましく厳重である(closed)」と言った。
これは酷評ではあるが、その通りである。
ファラデーは非常に慈け深い人で、よく施しをした。
どういう風に、またどの位したのか、さすがに筆まめな彼れもそればかりは書いて置かなかった。
多分貧しい老人とか、病人とかに恵んだものらしく、その金額も年に数百ポンド(数千円)にのぼったことと思われる。
なぜかというと、ファラデーは年に一千ポンド近くも収入があったが、家庭で費したのはこの半分くらいとしか思われぬし、別に貯金もしなかったからだ。
ファラデーの頃には、グリニッチの天文台長の収入が年に一千ポンド位。
また近頃では、欧洲戦争前の大学教授の収入が、やはりその位であった。
五二 狐狗狸の研究
一八五三年には、ファラデーは妙な事に係り合って、狐狗狸の研究をし、七月二日の雑誌アセニウムにその結果を公にした。
狐狗狸では、数人が手を机の上に載せていると、机が自ら動き出すのだ(いわゆるTable-turning)。
しかしファラデーは机と手との間にある廻転する器械を入れて、誰れなりと手に力を加えて机を動さんとすると、すぐこの器械に感ずるようにした。
これを入れてから、机は動かなくなった。
ファラデーのこの器械は今日も残っている。
この顛末がタイムスの紙上にも出たが、大分反対論があり、女詩人のブラウニング等も反対者の一人であった。
その頃ホームという有名な男の巫子があったが、ファラデーは面会を断わった。
理由は、時間つぶしだというのであった。
ファラデーの風は、推理でやるよりは直覚するという方であって、むしろ科学的よりは芸術的であった。
しかしテニズンとか、ブラウニング等とは交際もしなかったので、この点では同じ科学者でも、ダーウィンやハックスレー等とは、大いに趣きを異にしていた。
五三 晩年
一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。
ファラデーは初めには御受けを躊躇した。
これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。
これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。
そこでファラデーは移転した。
しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。
クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて、単に管理人となった。
時に七十歳である。
このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年になる。その間、サー・デビーと大陸に旅行したちょっとの間が不在であっただけで、引きつづき永々御世話になりました。その間、貴下の御親切により、また協会の御蔭によって、幸福に暮せましたので、私はまず第一に神様に謝し、次には貴下並びに貴下の前任者に厚く御礼を申し上げねばならぬ。自分の生涯は幸福であり、また自分の希望通りであった。それゆえ、協会へも相当に御礼をなし、科学にも相当の効果を収めようと心がけておりました。が、初めの中は準備時代であり、思うままにならぬ中に、もはや老衰の境に入りました。」というようなことが書いてある。
翌一八六二年三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった。
またその年の六月二十日が金曜講演の最後であった。
その時の演題はジーメンスのガス炉というのであったが、さすがのファラデーも力の弱ったことが、ありありと見えて、いかにも悲しげに満ちておった。
ファラデー自身も、これが最後の講演だと、心密かに期していたそうである。
この後も、人のする講演を聴きに行ったことはある。
翌一八六三年にはロンドン大学の評議員をやめ同六四年には教会の長老をやめ、六五年には王立協会の管理人もやめて、長らく棲んでいた部屋も返してしまい、実験室も片づけた。
この時七十四歳。
後任にはチンダルがなった。
もっともチンダルは既に一八五四年から物理学の教授にはなっておった。
それでも、まだ灯台等の調査は止めずにやっておったが、トリニテー・ハウスは商務省とも相談の上、この調査はやめても、年二百ポンドの俸給はそのままという希望で、サー・フレデリック・アローが使いにやって来た。
アローは口を酸くして、いろいろ説いたが、どうしてもファラデーに俸給を受け取らせることが出来なかった。
ファラデーは片手にサー・アローの手を、片手にチンダルの手を取って、全部をチンダルに譲ることにした。
五四 終焉
ファラデーの心身は次第に衰弱して来た。
若い時分から悪かった記憶は著しく悪るくなり、他の感覚もまた鈍って来、一八六五年から六六年と段々にひどくなるばかりで、細君と姪のジェン・バーナードとが親切に介抱しておった。
後には、自分で自由に動けないようになり、それに知覚も全く魯鈍になって耄碌し、何事をも言わず、何事にも注意しないで、ただ椅子によりかかっていた。
西向きの窓の所で、ぼんやりと沈み行く夕日を眺めていることがよくあった。
ある日、細君が空に美しい虹が見えると言ったら、その時ばかりは、残りの雨の降りかかるのもかまわず、窓から顔をさし出して、嬉しそうに虹を眺めながら、「神様は天に善行の証しを示した」といった。
終に一八六七年八月二十五日に、安楽椅子によりかかったまま、何の苦しみもなく眠るがごとくこの世を去った。
遺志により、葬式は極めて簡素に行われ、また彼の属していた教会の習慣により、ごく静粛に、親族だけが集って、ハイゲートの墓地に葬った。
丁度、夏の暑い盛りであったので、友人達もロンドン近くにいる者は少なく、ただグラハム教授外一、二人会葬したばかりであった。
墓標にも簡単に、一七九一年九月二十二日生れミケル・ファラデー一八六七年八月二十五日死す
日輪が静に地平線より落ち行きて、始めて人の心に沈み行く日の光の名残が惜しまれる。
せめて後の世に何なりと記念の物を残そうということが心に浮ぶ。
ファラデーが死んでから、記念のため化学会では、「ファラデー講師」なるものをつくり、パリにはファラデー町が出来、ロンドンにもファラデー学会が出来た。
グラッドストーンは伝を書いた。
チンダルも伝を書いた。
またベンス・ジョンスは手紙を集めて出版し、その後シルベナス・トンプソンも伝を書いた。
五五 外見
ファラデーに、ほんとうによく似た写真や、肖像画は無いといわれている。
これは写真や画の出来が悪いという意味ではないので、ファラデーの顔の生き生きして、絶えず活動せるのを表わし得ないというためなそうだ。
この本に入れてあるのは五十歳位の時の写真で、ファラデーの働き盛りの時代のものである。
その少し後に、チンダル教授の書いたのには、「ファラデーは身の丈けは中位より少し低い。よく整っていて、活溌で、顔の様子が非常に活き活きしている。頭の形が変っていて、前額から後頭までの距離が非常に長く、帽子はいつも特別に注文した。初めは頭髪が褐色で、ちぢれておったが、後には白くなった。真中から分けて、下げていた。」 晩年に、病後のファラデーの講演を聴いたポロック夫人の書いたものによると、「髪の毛も白く長くなり、顔も長く、眼も以前は火のように輝いていたがそうでなくなった。顔つきは、画や像にあるネルソンのに何となく似ているようだ。」
ファラデーの生涯を書き終るに当り、王立協会の設立や、その他関係の深かった一、二の人について、ちょっと書き添えて置こう。
附記
ルムフォード伯
名はベンヂャミン・トンプソン。
ベンヂャミン・フランクリンと同名であり、時代も近いし、両方ともアメリカのボストンに近い所で生れた。
ルムフォードの生れたのは一七五三年三月二十六日で、父は早く死んだが、幼い時から科学や数学が好きでかつ上手であった。
コンコード(またルムフォードとも呼ぶ)から教師に呼ばれたのが十九歳の時で、風采が美しかったが、金持のロルフ大佐の寡婦と結婚した。
このとき夫人は三十三歳である。
その中にアメリカ独立戦争が起ったが、知事のウエントオースはルムフォードの馬に乗った姿を見て気に入り、一躍して少佐にした。
しかし友人から猜まれて、独立軍に忠実でないという嫌疑を受け、調べられたりしたので、終に一七七五年に英国に逃げて来て(妻子は置いたまま)、殖民省の官吏になった。
またとんとん拍子で出世して、四年の内には次官にまで昇進した。
この間に科学の研究をし、ことに火薬の研究が有名で、ローヤル・ソサイテーの会員にも推選された。
一七八二年には、大佐に任命されて、アメリカにおる英国の騎兵隊の総指揮官になり、威風堂々とニューヨルクに繰り込み独立軍と戦いに来た。
しかし、アメリカは独立したので、翌年英国に帰った。
うまい事もないので、オーストリアとトルコとの戦争に加わって、一と旗あげようと思い立ち、出かけたが、途中でストラスブルグを過ぐる時、ババリアのマキシミリアン王子がフランスの大将という資格で観兵式をやっている所を通りかかった。
マキシミリアンはルムフォードの雄々しい姿を見て呼びとめ、話をしている裡に、アメリカの独立戦争の時に対手方であったこともわかり、マキシミリアンは叔父の選挙公にあてた推挙状をくれた。
それでババリアに仕えることになり、英国王の許可を受けたが、このとき英国王は彼をナイトに叙した。
一七八四年のことで、年は三十一歳であった。
それからババリアで、陸軍大臣、警視総監、侍従兼任という格で、軍隊の改革をやる、兵器の改良をやる、貧民の救助をやる、マンハイムやミュンヘンあたりの沼地を開拓するという風で、非常に敏腕を振った。
大砲の改良につきて研究していたとき、砲身に孔を開ける際に熱を出すのを見て、仕事より熱の生ずることを言い出したのは有名な発見であるが、一方では、貧民は富ましてしかる後に教うべしというので、暖炉の改良、食物の改良をもやった。
功によりて一七九一年には、三十八歳で神聖ローマ帝国の伯爵になり、出身地の名をとって、ルムフォード伯と呼ぶことになった。
一時、病気の重かったときにも、貧民が多勢で教会に行って全快の御祈りをするというような、非常な人望であった。
十一年振りで英国に帰ったが、その時もアイルランドに行って、貧民の生活状態を視察した。
アメリカに置いて来た十九歳の娘を呼んで、共にミュンヘンにつれ帰ったが、丁度フランスオーストリアの戦争で、選挙公はミュンヘンから逃げ出したので、ルムフォードが選挙公の代理として総指揮官となり、ミュンヘンを防ぎ、中立を厳守して、フランスオーストリア両軍とも市内に入れさせなかった。
それから、ロンドンへ全権公使として行くことになったが、英国王が承知しない。
結局辞職してロンドンへ来た。
おもな目的は王立協会の設立で、貧民の生活改善のため、煖房とか料理法の改良とか、主として熱に関した応用を研究しようというつもりであった。
一七九九年に約五十枚にわたる趣意書を発表し、会員組織にして、五十ギニーの寄附金を出した者は永久会員として講演に列する入場券二枚をもらい、十ギニーの者は終身会員で入場券一枚、二ギニーの者は一個年会員というようにし、また幹事九名は無給で、投票によることにした。
同三月七日にローヤル・ソサイテーの会長たるサー・ジョセフ・バンクスの宅で集ったのが初めで、永久会員も五十八名出来、また幹事なども定り、おもにルムフォード伯とベルナードとが世話をやいた。
一八〇〇年一月十三日、国王は免許状に調印され、かつ協会の賛助員となられ、ウインチルシー伯が会長となり、教授にはガーネットが任命され、家を買ったり、器械を備えつけることなどの世話は、ルムフォード伯がやった。
またルムフォード伯はデビーの評判を聞き、ロンドンに招いて数回面会し、一八〇一年二月十六日、化学の助教授、化学実験所長兼王立協会記事の副編纂係とし、年俸百ギニーで雇い、講演は三月十一日より開始とした。
その後ガーネットは辞したので、デビーは化学の教授になった。
また同年八月三日、物理学の教授、王立協会記事編纂係兼実験場の管理人として、トーマス・ヤングを入れた。
年俸は三百ギニー。
ヤングは講演が上手でなく、二、三年ほどいて辞職したが、光の波動説の大家として、今日までも有名な人である。
デビーの方は講演も非常に上手であり、これがため王立協会が有名になり、盛んにもなった。
王立協会もかくして大体出来たので、ルムフォード伯は一八〇三年にパリに行った。
フランスで有名な化学者にラボアジェーという人があったが、革命のときに(一七九四 五月八日)断頭台で殺された。
その未亡人は三百万フランも財産があり、交際場裡の花であったが、この頃は四十六、七歳で、ルムフォード伯より四つ位若かった。
この婦人と心易くなり、ババリアの選挙公の仲介を以て、一八〇五年十月二十四日に結婚した。
しかし、二人は折り合いが悪く、四年後にわかれた。
この後、ルムフォード伯は自宅に引っ込み勝ちで、ことにラグランヂュの歿後は、二、三の友人(ことにキュービエー)と交わっただけで、一八一四年八月二十一日にパリで死んだ。
ルムフォード伯の功業は、ヴィーデンという大将とデビーとを見出した事であると謂われるが、ヤングもまたルムフォードに見出された一人である。
――――――――――――サー・ハンフリー・デビーは一七七八年十二月十七日生れで、父は早く死んだが、非常に早熟で、文学にも科学にも秀いで、十七歳の時には、氷の二片を合わせてこすると溶けるのを見て、「熱は物体にあらず」という説を発表した。
その後、ある病院の管理をして、「笑気」のことを研究した。
ルムフォード伯に招かれて、ロンドンに来たのは一八〇一年、二十三歳の時で、まだ山出しの蛮からであったが、根が才気のはじけた人間であるから、講演振りも直ちに上手になり、その講演には上流の人達が争うて聴きに来るようになり一千人にも上ることがあった。
そんな訳で、当時の人々から大層崇拝されるようになった。
電池の研究をしたり、電気分解によりポタシウムやソヂウムを発見した。
三十四歳のときには既に才名一世に鳴りひびいて、ナイトに叙せられた。
その後、間もなくアプリースという才色兼備の金持の寡婦と結婚した。
そこで王立協会の教授をやめて、代りにブランドを入れ、自分は単に名誉教授となって、夫人およびファラデーをつれて、大陸に旅行し、帰ってからは、安全灯の発明があり、一八三〇年より七個年の間、ローヤル・ソサイテーの会長になった。
しかし、健康が良くないので、再び大陸に旅行したが夫人は同行を承知しなかった。
イタリアのローマで一度危篤に陥ったが、ゼネバまで帰ったとき、前に同僚であったヤングの死去の報を聞いたが、その夜自分も中風で死んだ。
一八二九年五月二十九日である。
享年五十一。
詩人カレッヂが評していうのに、「デビーは一流の化学者にならなくとも、一流の詩人になったであろう」と。
旅行中に詩も作ったし、「旅中の慰め」という散文もある。
――――――――――――トーマス・ヤングは一七七三年七月十三日生れで、十四、五歳のときには、既にオランダ、ギリシャ、フランス、イタリア、ヘブライ、ペルシア、アラビア語を読んだ。
ドイツのゲッチンゲンや、英国のキャンブリッジで医学を修めた。
一八〇〇年には光の波動説を発表し、翌一八〇一年からルムフォード伯に招かれて王立協会に来たが、二年もしないでやめた。
理由は、医学の方面の勉強が遅れるからというので、一八〇三年医学博士M.B.になり、後またセント・ジョージ病院の医師となった。
王立協会におった時期は短かかったが、その間にやった講義録や発表した論文は、いずれも有名なものである。
また後には、エジプトの象形文字の研究が有名である。
天才というべき人で、一八二九年五月十日に死んだ。
後編 研究
研究の三期
ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永きにわたる。
すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と重力との関係、並びに磁気と光との関係に終る。
この間に発表した論文は数多く、題目を列べただけで、数頁にわたる。
けれども電気磁気に関する重要なる論文は、「電気の実験研究」と題する三巻の本におさめられ、電気磁気以外のおもなるものは、「化学および物理学の実験研究」と題する一冊の本におさめられている。
今便利のため、この四十四年を三期に分とう。
第一期は一八一六年より三〇年に至り、種々の方面の研究をした時期で、後の大発見の準備時代と見るべきもの。
次は一八三一年より三九年に至る間で、電磁気学上における重大の発見に、続ぐに重大の発見を以てした黄金時代とも見るべきもの。
遂に健康を害して、しばらく休養するの止むなきに至った。
再び健康を回復して研究に従事したる、一八四四年より六〇年を第三期とし、この間に磁気と光との関係並びに反磁性の大発見をなした。
第一期の研究
第一期に関する研究の大要を、年を逐うて述べよう。
一 諸研究
一八一六年に生石灰を分析して、その結果を「科学四季雑誌」に出した。
余り重要なものではないが、始めてという意味で、「化学および物理学の実験研究」におさめてある。
これより二、三年間は、主としてデビーの研究を助けたり、デビーやブランドの講義の準備に忙殺されていたが、多少の研究は出した。
すなわち、毛細管よりガスの流出することに関するもの、発音焔に関する実験、シリウム並びにヴェスチウムの分析等である。
一八一九年から翌二〇年にかけては、錆びない鋼鉄を造ろうとし、これに白金、金、銀、ニッケル等のごく少量を加えて、いろいろ試験を施したが、結果は不成功に終り、ただ知り得たのは、鋼鉄は僅少の混合物によって、その性質に多大の変化を生ずるということに過ぎなかった。
この外、塩素と炭素との化合物や、ヨウ素と炭素と水素との化合物について研究し、また木炭より黒鉛をつくる研究もやった。
二 電磁気廻転
一八二〇年は電気学上特筆すべき事で、すなわちエールステッドが電流によって磁針の振れることを発見した年である。
ボルタが電流を発見してから、電流と磁気との間に何等かの関係あるべきことを考えた人は多かったが、みな成功しなかった。
エールステッドは他の人よりも、強い電流の通れる針金を取って実験したため、この発見をしたのである。
そこで電流の通れる針金を磁針に平行にして、その上方に置いたり、下方に置いたり、また針金を磁針に直角にして、上に置いたり、下に置いたりして、種々研究した結果、終に「電気の作用は廻わすように働く」という定律を見出した。
今日より見れば、極めて不充分な言い表わし方ではあるが、とにかく、偉大な発見であった。
デビーもこの発見の記事を読んで、早速実験に取りかかり、電流の通れる針金に横に鉄粉の附着することを確めた。
この時代は、ニュートンの引力説が全盛の時代であったから、電流が己れの方へ直接に働くことなく、己れと直角の方向へ働いて、横に磁針をまげるということは、余程奇妙に感ぜられたものと見える。
翌一八二一年は、ファラデーが結婚した年であるが、また一方においては、電磁気廻転の実験に成功した年でもある。
初めウォーラストンは、電流の通ずる針金のあるときは、磁極をこれに近づくれば、針金は自己の軸のまわりで廻転を始めるだろうと考えて、実験したが、成功しなかった。
その頃、ファラデーは電磁気の作用の歴史を某雑誌に出しつつあった関係上、それらの実験を繰りかえして試み、これが動機となって、次の実験に成功した。
すなわち、下端を水銀の皿に入れ、上端を吊してある針金に、電流を通ずると、中央にある磁極のまわりを廻転し出すということである。
また反対に電流の通ずる針金の位置を固定し置けば、磁極の方がそのまわりを廻転する。
これがウォーラストンの企てた実験に外ならぬという誤解を生じたのだが、実はウォーラストンのとは全く違った実験なのである。
この実験に成功したのは九月三日のことで、この日の出来事は既に前にも記した通りである。