その十二月には、地球の磁力によりて、電流の通れる針金の廻転することをも確かめ、翌年も引きつづきこの方面の研究に没頭した。
第 5 章
三 手帳
以前からファラデーは種々の本を読んだときに、面白いと思うた事を手帳に書き抜いておったが、この頃からは自分の心に浮んだ考をも書き始めることにした。
その中に次のようなのがある。
「磁気を電気に変えること。」「金属の透明なること。」「太陽の光を金箔に通すこと。」「二つの金箔を電気の極にして、その間に光を一方から他方へ通すこと。」 これらは、後になってファラデーのやった大発見の種子とも見るべきものである。
後にこの手帳を製本させて、その表紙に書きつけたのに、「予はこの手帳に負う処が多い。学者は誰れでもかかるものを集め置くのがよい。一年も引きつづいて、やっておれば、左まで面倒とは思わなくなるだろう。」
四 ガスの液化
一八二二年に、ファラデーは塩素ガスを液体にした。
デビーは以前から、塩素の固体といわれているものは加水塩化物に外ならずというておった。
ファラデーはその分析を始めたが、デビーに見せたら、「ガラス管に封じ込んで圧力を加えたまま、熱して見たらどうか。」と言うた。
別に、どうなるだろうという意見は言わなかった。
ファラデーはその通りにして熱して見たら、ガラス管の内には、液体が二つ出来た。
一つは澄んで水のような物で無色である。
他は油のような物であった。
デビーの友人のパリスという人が丁度このとき実験室に来合せて、それを見て戯談半分に、「油のついている管を使ったからだ。」と言った。
すぐあとでファラデーが管を擦ったら、破れて口が開いたが、油のような液は見えなくなってしまった。
これは前にガラス管を熱したとき、塩素のガスが出たが自己の圧力が強かったため、液化してしまい、油のようになっていたのだ。
ところが、今管に口が開いて圧力が減じたので、再びもとの塩素ガスになって、飛散してしまったのである。
翌朝パリスはファラデーから次の簡単明瞭な手紙を受け取った。
「貴殿が昨日油だと言われし物は、液体の塩素に相成り申候。 ファラデー」 かく、自己の圧力を使うて液体にする方法は、その後デビーが塩酸に用いて成功し、ファラデーもまたその他のガス体を液化するに用いて成功した。
しかし、これは随分危険な実験で、ファラデーも怪我をしたことがあり、一度はガラスの破片が十三個も眼に入ったことがある。
これらの実験があってから、どのガス体でも、ことにその頃まで永久ガスといわれておったものでも、充分な圧力と冷却を加えれば、液体とも固体ともなることが判明した。
翌一八二四年には、油に熱を加えて分解して、ベンジンを得た。
このベンジンからアニリンが採れるので、従って今日のアニリン色素製造の大工業の基礎になった発見というてもよい。
この年、ローヤル・ソサイテーの会員になった。
その次第は前に述べた。
五 ガラスの研究
翌年にはローヤル・ソサイテーが、ヘルシェル、ドロンド、並びにファラデーの三人に、光学器械に用うるガラスの研究を依頼した。
化学の部分はファラデーが受け持ち、ドロンドは器械屋の立場から試験を行い、ヘルシェルは天文学者なので、光学の方面から調べるというつもりであった。
五年間引きつづいて研究をした。
これに聯関して起った事件は、一八二七年にファラデーの実験室に炉を造ったので、その番人に砲兵軍曹のアンデルソンという人を入れた事である。
ガラスの研究が済んだ後も、引き続いてファラデーの助手をつとめ、一八六六年に死ぬまでおった。
良く手伝いをした人だが、その特長というべきは軍隊式の盲従であった。
アボットの話に、次のような逸話がある。
アンデルソンの仕事は炉をいつも同じ温度に保ち、かつ灰の落ちる穴の水を同じ高さに保つのであるが、夕方には仕舞って、何時も家に帰った。
ところが、一度ファラデーは帰って宜しいということをすっかり忘れておった。
翌朝になって、ファラデーが来て見ると、アンデルソンは一夜中、炉に火を焚き通しにしておった。
この年、デビーの推選で、協会の実験場長に昇進し、従って講義の際に助手をしなくてもよくなった。
一八二九年には、ガラスの研究の結果について、バーカー記念講義をなし、翌年に研究を終って報告を出した。
ローヤル・ソサイテーでは、良いガラスは出来たが、もっと大きいのを造ることを考えてくれという注文であったが、ファラデーは他の方面の仕事が急がしいからというて、断わった。
それゆえ、大きいレンズを作って、望遠鏡の改良をするというような実用的の成功までには至らなかった。
しかし、万事塞翁が馬で、未来の事はちょっとも分らぬものである。
ファラデーがこの際作った鉛の硼硅酸塩ガラスがある。
重ガラスといわれるものであるが、このガラスの切れを使って、後にファラデーは磁気の光に対する作用や、反磁性を見つけることに成功したのである。
それゆえもしこのガラスが無かったならば、この二大発見はもっと遅れた筈だともいえる。
ガラスの研究をやっておった間にも、ファラデーは他の研究もした。
すなわち、ナフサリンを硫酸に溶して、サルホ・ナフサリック酸を作ったり、「化学の手細工」という本を書いたりした。
これで、ファラデーの研究の第一期は終った。
この間に発表した論文は約六十で、その中六つがおもなもので、発見としては、化学の方で、ベンジンとサルホ酸。
物理の方では、塩素の液化と電磁気廻転とである。
第二期の研究
六 磁気から電流
ファラデーは電磁気廻転を発見してから、電流と磁気との関係について、深く想いを潜めておった。
もちろん、この関係に想いをめぐらしていた者は、ただにファラデーのみでなく、他にも多くあった。
その中で成功した一人はスタルゲヲンで、電磁石の発見をした。
鉄心を銅線で巻き、銅線に電流を通ずると、鉄心が磁気を帯ぶるというのである。
かく、電流を用いて磁気を発生することが出来るからには、逆に磁気を用いて電流を起すことも出来そうなものだと、ファラデーは考えた。
前に述べた通り、一八二二年にも、ファラデーは手帳に、「磁気を電気に変えること」と書きつけた。
一八二四年十二月には、銅線のコイルの内に棒磁石を※し込んで、いろいろと実験して見たが、結果は出て来なかった。
翌二五年十一月にも、電流を通じた針金が近傍にある他の針金に作用を及ぼしはせぬかと考えて、これを電流計につないで、いろいろ調べて見たが、やはり何の結果も出て来なかった。
その後も、あれやこれやとやっては見たが、何時も結果が出て来なかった。
それでも失望しないで、適当な実験の方法を見出せないためだと思って、繰り返し繰り返し考案をめぐらした。
伝うる処によれば、この頃ファラデーは、チョッキのかくしに電磁回線の雛形を入れて持っていたそうで、一インチ位の長さの鉄心の周囲に銅線を数回巻きつけたもので、暇があるとこれを取り出しては、眺めていろいろと考えていたそうである。
なるほど、銅線と鉄心。
一方に電流が流れると他方に磁気を生ずる。
反対に出来そうだ。
磁気を鉄心に与えて置いたなら、銅線に電流が通りそうである!
しかし、これは幾回となくファラデーがやって見て、何時も結果が出なかったことである。
否、ファラデーだけではない。
他の学者もこれを行って見たに違いない。
ただファラデーのように、結果無しと書いたものが残っておらぬだけだ」は底本では「結果無しと書いたものが残っておらぬだげだ」]。
多分は、そう書き留めもしなかったろう。
フランスのアンペアやフレネルも、いろいろとやったことは確かだが、結果は出なかった。
七 アラゴの発見
ところが、これとは別に次のような発見が一八二四年に公表された。
フランスのアラゴは良好な羅針盤を作って、磁針を入れる箱の底に純粋の銅をを」は底本では「鈍粋の銅を」]用いた。
普通ならば、磁針をちょっと動すと、数十回も振動してから静止するのだが、この羅針盤では磁針がわずか三、四回振動するだけで、すぐ止まってしまう。
アラゴは人に頼んで、底の銅を分析してもらったが、少しも鉄を含んではいなかった。
そこで、アラゴの考えるには、銅が磁針の運動を止めるからには、反対に銅を動したなら、磁針は動き出すだろうと。
すなわち、磁針の下にある銅を廻転して見た。
果して磁針はこれに伴って廻り出した。
なおこの運動は、磁針と銅との間に紙のような物を入れて置いても、少しも影響を受けない。
その後には軸に取り附けた銅板の下で磁針を廻すと、上方の銅板が廻り出すことも確かめた。
八 感応電流の発見
ファラデーは一八二八年四月にも、また磁石で電流を起そうと試みたが、これも結果が出なかった。
なぜ今までの実験で何時も結果が出なかったのか。
原因は磁石も銅線のコイルも動かなかったためである。
一八三一年の夏にまたやり出した。
このたびは鉄の環を取り、その半分に銅線Aを巻き、またこれと少し離れて、他の半分には別の銅線Bを巻き、その先端は磁石の近くに置いた。
これは電流の通ったかどうかを、磁石の振れで見るためである。
前の銅線Aに電流を通ずると、鉄環は磁気を帯びる。
が、この瞬間に銅線Bの近くにある磁石がちょっと動くらしいのを発見した。
またAの電流を切ると、その瞬間にも磁石が動くらしいのを見た。
今日、王立協会の玄関の所にファラデーの立像がある。
その手に環を持っているのは、今述べた実験の環をあらわしたものだ。
それから、この実験に用いた真物の環も、王立協会になお保存されてある。
それから八月三十日に、実験した手紙には、「この瞬間的の作用がアラゴの実験で銅板の動くときに影響があることに関係あるのではないか。」と書いた。
次に実験したのは九月二十四日で、十個の電池から来る電流を針金に通して磁石を作り、この際に他の針金に何等の作用があるかを調べた。
しかし、その作用は充分に認められなかった。
それから銅線の長いのや、短いので実験を繰り返し、また電磁石の代りに棒磁石でもやって見たが、やはり作用が充分に認められなかった。
その次に実験したのは十月一日で、ファラデーの手帳には次のごとく書いてある。
「三十六節。四インチ四方の板を十対ずつもつ電池の十組を硫酸、硝酸の混合で電流を起し、次の実験を次の順序に従って行った。
「三十七節。コイルの一つ(二百三フィートの長さの銅線のコイル)を平たいコイルに繋なぎ、また他のコイルは(前のと同じ長さのコイルで、同種な木の片に巻いた)電池の極につなぐ。この二つのコイルの間に金属の接触のないことは確めて置いた。このとき平たいコイルの所にある磁石が極めて少し動く。しかし、見難いほど少しである。
「三十八節。平たいコイルの代りに、電流計を用いた。そうすると、電池の極へつなぐ時と、切る時とで衝動を感ずるが、これも見難いほどわずかである。電池へつないだ時は一方に動き、切る時は反対の方に動く。平常はこの中間に磁石がいる。
「それゆえに鉄は存在しないが、感応作用があって磁針を動すのである。しかし、それはごく弱いのか、さもなくば充分な時間がない位に瞬間的のものである。多分この後の方であろう。」 その次に実験したのは十月十七日で、磁石を遠ざけたり、近づけたりして、これが針金に感応して電流の生ずるのを確かめた。
これで、以前の実験において結果が出なかったのは、磁石とコイルが共に静止しておったためだと分った。
実際、磁石はコイルの傍に十年置いても、百年置いても、電流を生じない。
しかし、少しでも動けば、すぐに電流を生ずるのであるから。
その次に実験したのは十月二十八日で、大きな馬蹄形の磁石の極の間で、銅板を廻し、銅板の中心と縁とを針金で電流計につないで置き、電流計が動くのを見た。
その次の実験は十一月四日で、手帳に「銅線の八分の一インチの長さのを磁極と導体との間で動すとき作用あり」と書いた。
また針金が「磁気線を切る」と書いた。
この磁気線というのは、鉄粉で眼に見られるように現わすことの出来る磁気指力線のことである。
なお一歩進んで、この磁気線で感応作用を定量的に表わすことは、ずっと後になって、すなわち一八五一年にファラデーが研究した。
九 結果の発表
かように、約十回の実験で、感応作用が発見された。
実験室の手帳を書き直おして、ローヤル・ソサイテーに送り、一八三一年十一月二十四日にその会で読んだ。
しかし、印刷物として出したのは、翌年一月で、そのためにあるイタリア人との間に、ちょっと面倒な事件が持ち上った。
この論文は「電気の実験研究」の第一篇におさめてある。
実験したときの手帳に書いてあるのと比較すると、文章においてはほとんど逐語的に同じであるが、順序において少し違っている。
実験した順序は、今述べたように、磁石から電流を生ずるのを前に試みて、それから電流が他の電流に感応するのを、やったのである。
しかし、論文の方には、電流の感応の方を前に書いて、感応の事柄を概説し、しかる後に、磁石の起す感応電流のことを記してある。
この発見をしてから、ファラデーは友人を招いて、その実験を見せた。
その際、マヨーの作った歌がある。
ファラデーの磁石を廻りて、確かに流るるボルタの電気。
さて針金に取り出すその術は、ファラデーが手本にしたのは愛情で、二人が逢う刹那と別るる刹那、飛出す火花は電気じゃないか。
ファラデーはローヤル・ソサイテーで、自分の論文を発表してから、英国の南海岸のブライトンへ休養に行った。
しかし、すぐ帰って来て、十二月五日には再び研究に取りかかり、同十四日には、地球の磁気を用いて感応電流が生ずるや否やを調べて、良い結果を得た。
一〇 その後の研究
ファラデーは恒例として、実験が成功した場合でも、しない場合でも、出来るだけ作用を強くして実験して見るので、この場合にもその通りにした。
初めには、四インチ四方の板が十対ある電池を十個用いた。
これで成功はしたのであるが、しかし電池を段々と増して、百個までにした。
百個の電池から来る電流を切ったり、つないだりすると、感応作用は強いので、コイルにつないである電流計の磁針は、四、五回もぐるぐると廻って、なお大きく振動した。
また電流計の代りに、小さい木炭の切れを二つ入れて置くと、木炭の接触の場所で小さい火花が飛ぶ。
ファラデーは火花の出るのを電流の存在する証拠と考えておったので、これを見て喜んだ。
しかし、まだこの感応電流が電池から来る電流のように、生理的並びに化学的の作用を示すことは見られなかった。
感応作用が発明されると、アラゴの実験はすぐに説明できた。
すなわち、銅板に感応で電流を生じ、これが磁針に働いてその運動を止めるのである。
ファラデーはまた、この感応作用を使い、電流を生ずる機械を作ろうとした。
初めに作ったのは、直径十二インチ、厚さ五分の一インチの銅板を真鍮の軸で廻し、この板を大きな磁石の極の間に置き、その両極の距離は二分の一インチ位にし、それから銅板の端と軸とから針金を出して、電流を取ったのである。
この後にも、色々な形の機械をこしらえた。
板を輪にしたり、または数枚の板を用いたりした。
しかし、最後に「余は電気感応に関する新しい事実と関係とを発見することを務めん。電気感応に関する既知のものの応用は止めにしよう。これは他の人が追い追いと追い追いと」は底本では「他の人が追い追いと」]やるであろうから。
」というて止めた。
ファラデーはこの後いつも応用がかった事に近づいてくると、そこで止めてしまい、他の新しい方面に向って進んで行った。
そんな訳で、専売特許なども一つも取らなかった。
一一 媒介物の作用
この論文の中に、ファラデーは次のような事も書いて置いた。
「針金は磁気よりの感応で電流を生ずるのであるから、恐らくある特別の状態にあるらしい。
「これを友人とも相談して、エレクトロトニックの状態と名づけることにした。
「この状態は、その継続している間は別に電気的作用を示さない。しかし、コイルなり、針金なりが、磁石の方へ近づくか、または遠ざかる場合には、その近づくかまたは遠ざかりつつある間だけ、感応作用によりて、電流が通る。これはその間、エレクトロトニックの状態が高い方なりまたは低い方なりに変るからで、この変化と共に電流の発生が伴うのである。」 元来ファラデーは、物と物とが相離れた所から直接に作用し合うというような考を嫌ったので、引力にしても斥力にしても、相離れた所から作用を及ぼすように見えても、実際は中間に在る媒介物の内に起る作用の結果が、この形で現われるものだという風に考えた。
ファラデー自身が前に発見した電磁気廻転にしても、電流の通っている針金の周りの空間が、その電流のためにある作用を受けているとして考えられる。
また磁極の周りの空間にも、例の磁気指力線があるとして考えられる。
かように、たとい中間には眼に見える物体が無い場合でも、その空間にある媒介物が存在し、これがある状態になっているものと考えられる。
それゆえ針金を動かせば感応で電流が生ずる場合にも、またその針金の在る場所は、すでにある特別の状態になっているものと考えらるるので、ファラデーはこれにエレクトロトニックという名称をつけたのである。
一二 その他の研究
一八三二年の正月には、ファラデーは地球の自転のために生ずる電流を調べようというので、十日にケンシントンの公園へ、十二および十三の両日はテームス河のウォータールー橋に行った。
これらの実験の結果はすぐにまとめて、ローヤル・ソサイテーで発表し、後に「電気の実験研究」の第二篇にした。
話が前に戻るが、一八三一年に電気感応の大発見をしたときに、ファラデーはまだ内職の化学分析をやっておったし、十一月まではローヤル・ソサイテーの評議員でもあったが、この外にもなお毛色の少し変った研究をしておった。
すなわち、振動する板面に関する論文と、光学上の錯覚の論文とを出した。
前のは、振動する板の上に細粉を撒いて置くと、砂のような重いものは面上の振動のない所に集り、これに反して、軽いリコポジウムのような物は、振動の最も強い所に集る。
ファラデーはこの理由として、運動の激しい所には小さい渦動が出来て、軽い粉はこれに巻き込まれるためだということを明かにした。
また後の論文は、廻転せる車輪の歯の間から物を見るような場合に起る錯覚の議論で、今日の活動写真の基礎を開いたともいえる。
翌一八三二年にも、ファラデーは続いて種々の研究をした。
静電気や、動物電気や、感応によりて生ずる電気。
これらの電気はいずれも電池より出る電流と同様に化学作用をすることを確かめたのを手初めとして、どの電気も全く同一のものなることを確かめた。
今日では自明の事のように思われるが、その頃ではこれも重要な結果であった。
これは一八三三年一月に発表したが、「電気の実験研究」の第三篇になっている。
一三 電気分解
次にファラデーの取りかかった研究は、電流の伝導の問題であった。
水はは」は底本では「水は」]電流を導くが、それが固体になって氷となると、電流を導かない。
これから想いついて、ある固体とそれの溶解して液体となった場合とでは、電流の伝導にどれだけ違いが起るかを調べた。
その結果は、金属だとだと」は底本では「金属だと」]、固体のときでも液体のときでも、よく伝導してその模様に変りはない。
脂肪だと、固体のときでも液体のときでも、電流を導かない。
その他の物体では、固体だと電流を伝導しないが、液体になると伝導する。
塩化鉛とか、塩化銀とかいうような化合物は、みなこれに属する。
かつ液体になっていて、電流を伝導する場合には、その物が分解して電極に集ることも確かめられた。
これらの結果は一八三三年四月に発表した。
(「電気の実験研究」の第四篇) ファラデーはなおも研究をつづけて、一定量の電気が同じ液体内を通る場合には、いつも同じだけの作用をすることを確かめた。
また液体が分解して電極に集るのは、電極に特別の作用があって、液体の内から物体を引きつけるためではない。
物体が液体になりているとき、既に二種の物に分解しているので、電流の通るときにその方向と、反対の方向とに流れ動くため、電極に集るのであることを確かめた。
これは一八三三年六月に発表した。
(「電気の実験研究」の第五篇) 次に別種の問題に着手し、金属がガス体の化合をひき起すことを研究した。
これは一八三四年正月に発表した。
(「電気の実験研究」の第六篇) その年の正月の終りから二月にかけて、電気分解に関する大発見が発表された。
それは「電気の実験研究」の第七篇になっているが、まずファラデーは電池の電極を、単に電流の入り口と出口に過ぎないからとて、アノード(昇り道)およびカソード(降り道)という名称をつけ、また液体内で分解している物に、アニオン(昇り行く物)およびカチオン(降り行く物)という名前をつけた。
ファラデーは新しい発見をなし、命名の必要を感ずると、当時博学者として有名であったホェーウェルに相談するを例とした。
上の命名もこのホェーウェルが案出したものである。
次に、電流の強さを水の電気分解を用いて測定することにした。
これで電流計が出来た。
そこで一定量の電気を用いて、種々の液体を分解して電極に現われ来る分量を測定した。
これで電気分解の定律を発見した。
ファラデーの書いた中には、「電極に現われて来る割合を表わす数を、電気化学当量と呼ぶことにする。しからば水素、酸素、塩素、ヨウ素、鉛、錫はイオンで、前の三つはアニオン。後の三つはカチオンである。その電気化学当量はほとんど一、八、三六、一二五、一〇四、五八である。」 かくして、今日ファラデーの定律と呼ばれている電気分解の定律は発見された。
次にこの定律を電池に応用した結果を一八三四年六月に発表した。
(「電気の実験研究」の第七篇) これにより再び感応電流の研究にもどり、電流を切るときに生ずる火花から電流が自己感応をすることを発見した。
これは同年の十一月十三日で、翌日次の様に書いた。
「電流の各部分は感応によりて同一の電流の他の部分にも作用し、かつ同一の針金にも、また同一の針金の同一の部分にも作用する」と。
これらは一八三四年末にまとめて、翌年一月に発表し、「電気の実験研究」の第九篇になっている。
それからまた電池の研究に戻った。
結果は同年六月に発表した。
(「電気の実験研究」の第十篇)
一四 静電気の研究
かように、初めから満五年にもならない間に、これだけの大発見が続いて出たのは、実に驚くの外はない。
そのためもあろうが、ファラデーは幾分元気が衰えて来たように見えた。
それゆえ以前ほどの勢いは無くなったが、それでもまだ静電気に関する大発見をした。
すなわち、一八三五年には静電気の研究に取りかかり、静電気の感応も中間の媒介物によるのであろうと思って、調べ出したが、中途でフッ素の研究に変り、夏になるとスイスに旅行したりして休養し、前後八個月ばかりも中断してから再び静電気の研究に戻った。
「先ず電気は導体の表面に在るのか、または導体と接する媒介物(絶縁物)の表面に在るのか」という問題から始めて、ガラスのような物を取り、正負電気の間に置いたとして、「感応の現象があるから、電気は導体の方には無く、かえって媒介物の方にあるのだ」と書いた。
十二月にはまたフッ素を研究しかけたが、断然止めようと決心し、