第 1 章/1
その一党の荒くれ騎士たちに妙な工合に苦しめられるようになった。彼らは今まで平穏だった先生の領域を荒らし、唱歌の学校は煙突をふさいでいぶり出してしまうし、校舎には堅固に結んだ紐や窓の心張棒があったにもかかわらず、夜なかに侵入して、なにもかもひっくりかえしてしまい、あわれな先生は、近隣の魔法使どもがみんなで集会でもしたのかと思ったほどだった。しかし、もっと困ったことは、ブロムがあらゆる機会を利用して彼を恋人の面前で愚弄したことだった。ブロムは犬を飼ってしごく滑稽に鳴くように教えこみ、それを連れこんでイカバッドが彼女に讃美歌をおしえる向うを張ったのである。
第 1 章
このようにしてしばらく時がたち、二人の競争者のあいだの情勢には実質的な影響はなかった。
ある晴れた秋の午後、イカバッドは、もの思いにふけりながら、いつも彼が教室のなかのできごとを見張るときに腰かける高い椅子に王様のようにどっかと坐りこんでいた。
その手に彼は専制君主の力を示す笏というべき鞭をふりかざしていた。
正義の鞭は王座の背後の三本の釘にかけてあり、悪事をはたらくものを絶えず脅やかしていた。
一方、彼の前の机の上にはさまざまな禁制品や御法度の武器が、なまけものの腕白小僧からとりあげられて置いてあった。
かじりかけの林檎や、豆鉄砲やら、独楽、蠅とり籠、そのほか跳ねあがる紙の鶏がたくさんあった。
見たところ、つい先刻おそろしい刑罰が加えられたばかりらしく、生徒はみな忙しそうに書物を熱心に見ているか、さもなければ、片眼で先生のほうを見ながら、たくみに本のかげにかくれてこそこそ内緒話をしている。
教室全体がしんとしているのに、ひそかにぶつぶついう声がみなぎっているのだ。
ところが突然その静粛を破って、黒人がひとり闖入してきた。
麻屑製の上衣とズボンを着て、マーキュリーの帽子のような、ふちのない丸い帽子をかぶり、手入れも調教も碌にしてない暴れ小馬にまたがって、手綱もつけず、一本の綱であやつっていた。
彼は学校の入口まで駈けこみ、イカバッドに、宴会か「縫物仕事の会」といったものが今晩ヴァン・タッセルさんのところで催されるから、それに出席するように、と招待の辞を述べた。
黒人というものは、こういった類いのつまらぬ使いに行くと、とかく偉そうな振りをして、気取った言葉を使うものだが、この男もその例にもれなかった。
彼は口上を述べてしまうと、いかにも彼の使いが重大で急ぎのことであるかのように、小川を駈けわたり、窪地を疾走してゆくのが見えた。
今まで静かだった学校は、いまやがやがや大騒ぎになった。
生徒の授業は急いでどんどん進み、些細なことにはかまわなかった。
すばしこい子供は半分ぐらい飛ばしても叱られず、のろまの子供はときおり尻をひどくたたいて急がされ、むずかしい言葉をしゃにむに読まされた。
本は書棚にしまわずに投げだすし、インキ壺はひっくりかえる。
椅子は投げたおすやらで、学校はふだんよりも一時間も早く退けた。
子供たちは小鬼の群のようにわっと飛びだし、野原で喚いたり騒いだりして、早く解放されたのを喜んだ。
色男のイカバッドは少くとも三十分も余計にかけて化粧した。
いちばん上等な黒の洋服、といっても、じつは色のあせた一帳羅だったが、それにブラッシをかけ、若がえらせ、学校にさがっていた壊れた鏡のかけらでかみの毛をなでつけた。
正真正銘の騎士らしいいでたちで恋人に目通りするために、彼はそのとき泊っていたハンス・ヴァン・リッパーという年寄りの怒りっぽいオランダ人の農夫から馬を借り、威風堂々とそれにまたがり、冒険をもとめて旅立つ武者修行者よろしくのていで、駈けだした。
ところで、わたしは当然、伝奇物語の真精神に従って、ここでこの主人公とその乗馬の風采いでたちについて少々述べなければなるまい。
彼のまたがった馬はよぼよぼの犂き馬で、年をとりすぎて、残っているものといったら、意地の悪い性質ぐらいしかなかった。
やせて、毛なみはばさばさで、首は細くて醜く、頭は槌のような形だし、色のさめたたてがみや尾はもつれたうえに、いがなどがくっついて、くくれていた。
片眼は瞳がなくなり、化け物のようにぎょろぎょろ光り、もう一方はまさしく悪魔のような光をおびていた。
だが、この馬も、その名をガンパウダー(火薬)というのである以上は、若かった頃には熱と勇気をもっていたにちがいない。
じじつ、この馬はかつては例の怒りっぽいヴァン・リッパーという主人の愛馬だったのだ。
ところが、この主人は狂暴な乗り手だったから、おそらく自分の性質をいくぶん馬に注ぎこんだにちがいない。
老いさらばえてやつれたりといっても、この馬には魔性がひそんでおり、その点では、この付近の若い馬などは及びもつかなかったのである。
イカバッドはそのような馬には誂えむきの男だった。
鐙が短かったので、両膝が鞍の前輪にとどくほど高くあがった。
彼の尖った肱はばったの足のように突きだし、鞭はその手に真直ぐに立て、笏をもつような恰好だった。
馬がからだを揺りながらのそのそ歩いてゆくと、彼の腕は、鳥が翼をばたばた羽ばたくように動いた。
小さな毛織りの帽子は額があまり狭いので鼻の上に乗っているように見えた。
そして、黒い上衣の裾はぱたぱたして、馬の尻尾にとどきそうだった。
そのような恰好でイカバッドと彼の馬とは、ハンス・ヴァン・リッパーの家の門をよろめき出ていったのである。
まったくもって、とうてい昼の日なかに出くわすようなしろものではなかった。
先ほど言ったように、その日は晴れた秋日和だった。
空はすきとおってうららかで、自然界はゆたかな金色の衣をつけ、豊穣な実りを思わせるのだった。
森は渋い茶色と黄色につつまれ、優美な木々は霜にうたれて、ちらほらと輝かしいオレンジ色や、紫色や、また真紅にそまっていた。
鴨は列をつくって空高く飛びはじめ、栗鼠の鳴く声が山毛欅や胡桃の林から聞えてくるし、鶉の笛を吹くようなさびしい声もときおり近くの麦の刈株の残った畑から聞えてきた。
小鳥たちは別れの宴をはっていた。
饗宴もたけなわと見えて、羽ばたいたり、さえずったり、ふざけたりして、茂みから茂みへ、木から木へと飛びまわり、周囲の色とりどりの豊富なご馳走を思うままについばんでいた。
正直ものの駒鳥がいた。
これは子供の狩猟家の好む鳥で、声高に愚痴をこぼしているような鳴き声だ。
黒鳥はさえずりながら黒雲のようにむらがって飛んでいる。
金色の翼の啄木鳥は紅のとさかと、幅のひろい黒い喉当てと、すばらしい羽毛をつけている。
連雀は、翼の先が赤く、尾羽の先は黄色く、羽毛は小さな鳥打ち帽のようだ。
それから、かけす。
やかましいしゃれものだ。
派手な空色の上衣を着こんで、白い下着をつけ、叫び、喋べり、お辞儀をし、ぴょいと跳ね、頭を下げ、森の歌い手たちみんなと仲のよいような振りをしている。
イカバッドはゆっくり進んでいったが、その眼は、御馳走のたねを見のがすようなことは決してないので、嬉しくなってこの楽しい秋の宝を見わたした。
どこを見ても林檎があふれるほどだった。
木の枝も折れるばかりに垂れさがっているかと思うと、集められて籠や樽に入れられ市場へ送りだすようになっていたり、また、うずたかく積みあげられて林檎汁しぼり機にかけるようになっているものもある。
さらに先へ進むと、玉蜀黍の大きな畠には、黄金色の実が葉のような包みからそとをのぞいていて、菓子やプディングがたくさんできそうだ。
その下には黄色い南瓜がごろごろして、美しい丸い腹を太陽に向け、最上等のパイがいくらでもつくれそうである。
やがて彼が馥郁とかおる麦畑に通りかかり、蜂蜜の香を吸いこみながら見わたすと、うっとりするような期待が彼の心に忍びこんで、うまいホットケーキにバタをたっぷりつけ、蜂蜜か糖蜜をたらしたのを食べるときのことを考えた。
しかも、これをつくるのは、カトリーナ・ヴァン・タッセルのやさしい、かわいい、ぽちゃぽちゃした手だ。
こんなふうに、いろいろな快い思いや、「甘い空想」に胸をいっぱいにしながら、彼は山なみの斜面を進んでいった。
そこからは、壮大なハドソン河の絶景が望まれるのである。
太陽は次第に丸く大きくなって、西のほうにまわってきた。
タッパン・ジーの広い水面はじっと鏡のようで、ただところどころに静かな波がおこって、遠くの山の青い影をながくのばしていた。
琥珀色の雲が二つ三つ空にうかび、風はそよりともせず、雲は動かなかった。
地平線は金色に光っていたが、やがてすっきりしたうす緑色になり、それからさらに頭上の空を染める様な濃紺に変っていった。
斜めになった陽の光は、河岸のあちこちにそば立つ断崖のいただきの木立のあたりにためらい、岩壁の濃い鼠色と紫色とをいっそう深くきわだたせていた。
小船が一艘はるか遠くにただよって、潮の流れにまかせてゆっくりと河を下り、帆は垂れて帆柱にかかっていた。
空が静かな水に映えて光っているので、その船はまるで空中に浮んでいるように見えた。
夕闇が迫るころ、イカバッドはヴァン・タッセルの城に到着した。
すでに近隣の才子佳人が大ぜい集っていた。
年とった農夫たちは、鞣皮のような痩せた顔をして、ホームスパンの上衣とズボンを着て、青い靴下に、大きな靴をはき、仰山な白鑞の締め金をつけていた。
元気はいいが、もう萎びてしまった彼らの女房たちは、ひだのついた帽子をかぶり、胴の長いガウンを着て、手製の下衣をつけ、鋏や、針さしやら、派手なキャラコの袋を外側にたらしていた。
かわいげな乙女たちも、母親同様古風な身なりではあったが、麦藁帽子をかぶり、きれいなリボンをつけ、あるいはまた白いドレスを着ているあたりは、都会の最新流行のあらわれであった。
息子たちは、裾を四角に切った短い上衣を着て、ぎょうぎょうしい真鍮のボタンをいく列も並べ、かみの毛はだいたい当時の流行にしたがって弁髪にむすんでいたが、特にそのために鰻の皮を手に入れることができればなおのことであった。
鰻の皮はかみの毛にたいへん栄養になる強壮剤だと国じゅうだれでも考えていたのである。
ところで、ブロム・ボーンズはこの場の大立者だった。
彼はこの集りに来るのに、デアデヴィル(命知らず)という愛馬に乗ってきたが、この馬は彼に似て、元気はいいし、悪戯好きで、彼でなければ御すことはできなかった。
じっさい、ブロムは、悪いことばかりする駻馬に好んで乗るので評判が高かった。
騎手がいつでも首の骨を折る心配をしなければならないような馬が好きで、柔順でよく訓練された馬なぞは、血気盛んな若者には価値がないと考えていたのである。
この物語の主人公がヴァン・タッセルの邸の大広間にはいってきたとき、彼の眼前にぱっと展開し、恍惚とさせた、あまたのすばらしい魅力あるものについて、わたしはしばらく述べたいと思う。
それは、紅や白に絢爛と着飾った美しい乙女の群ではなく、秋の盛りの食卓にならんだ純オランダ田園風の大ご馳走であった。
さまざまな、ほとんど言いつくせないほどいろいろな菓子が皿に山盛りになっている。
経験をつんだオランダの女房連だけが知っているものだ。
大きなドーナツもあれば、柔かいオランダ風ドーナツもある。
かりかりした揚げ菓子もあれば、砂糖菓子やら、ショートケーキ、生姜菓子に、蜂蜜菓子、そのほか、ありとあらゆる菓子が総出だ。
それから、林檎のパイがある。
桃のパイがある。
南瓜のパイがある。
さらに、ハムも、燻製の牛肉もある。
そのうえ、砂糖づけの李、桃、梨、まるめろの実が、見ごとにいく皿もならび、鰊の照り焼、鶏の蒸し焼はいわずもがな。
ミルクやクリームの鉢もそなわり、今わたしが数えあげたように、一切がっさい混沌としており、しかもその真中からは大きな茶わかしが濛々たる湯気をまきあげている。
いやはや、なんとも豪勢なものだ。
この饗宴にふさわしいほど述べ立てていたら、わたしは息もきれるし、時間もなくなる。
それに、わたしは物語を先に進めたくてたまらないのだ。
さいわいにして、イカバッド・クレーンは、彼の物語を書いているこのわたしほど急いでいなかったので、ご馳走はどれもこれもしこたま頂戴したのである。
彼は親切で、深く恩に感じる人間であり、心が大きくなる度合は、腹の皮がご馳走でふくらむのに比例し、ものを食べると元気が出るのは、ほかの人が酒をのんだときのようなものだった。
彼は食べながらも、その大きな眼であたりを見まわしながら、ひとりで悦に入って、いつかは自分がこの想像を絶するほど贅沢で豪華な場所の主人になれるのだ、と思わざるを得なかったのだ。
それからまた、彼は心ひそかに考えた。
もうすぐにあの古ぼけた校舎なんぞには背を向けてやるぞ。
ハンス・ヴァン・リッパーの面に向って指をならしてやるぞ。
ほかのけちけちしている後援者どもにもだ。
そうして、風来坊の教師がやってきて、自分を仲間呼ばわりでもしようものなら、戸口から蹴とばしてやるぞ。
ボールタス・ヴァン・タッセル老人は客のあいだを歩きまわっていたが、満足と上機嫌で大きくなった彼の顔は、丸く愉快で、秋の月のようだった。
彼の客を歓待する挨拶は簡単だが、心がこもっていた。
握手して、肩をぽんとたたいて、哄笑し、「さあ、始めて下さい。どうぞ召しあがって下さい」と熱心にすすめるという一手だった。
やがて、広間から音楽のひびきがきこえてきて、ひとびとをダンスに呼びあつめた。
演奏するのは年配の白髪頭の黒人で、もう五十年以上もこの界隈で巡回音楽師をしていた。
その楽器は古くてこわれかかっており、彼自身とおなじだった。
演奏中の大部分は、二、三本の絃をひきならすだけで弓を動かすたびに頭も動かし、新しい二人組が踊りだそうとするときには、きまって地面に頭がつくほどお辞儀をし、足をふみならした。
イカバッドは歌も得意だったが、ダンスも自慢だった。
手足といい、筋といい、一つとして遊んでいるものはないのだ。
彼のだらりとしたからだが全部活動し、部屋をがたがた動きまわるのを見たら、だれしも、あのありがたいダンスの守り神、聖ヴァイタスが親しく目の前にあらわれたと思ったことだろう。
彼は黒人たちの賞讃の的になった。
彼らは、老いも若きも、大も小も、農場からであろうと、近所からであろうと、総出で集ってきていたのだが、今や、どのドアにも、どの窓にも、ぴかぴかした黒い顔をピラミッドのように積みあげて、大よろこびでこの光景を見つめ、白い眼玉をぐるぐるまわしながら、象牙のような白い歯を耳から耳までむきだして、にたにたしていた。
悪戯小僧どもを鞭でこらす先生も、どうして元気よく嬉しくならないでいられようか。
彼の意中の婦人がダンスのパートナーなのだ。
そして、彼が色目をつかうたびに、彼女はやさしく微笑んでそれに応えているのだ。
ところが、ブロム・ボーンズときたら、恋と嫉妬ですっかりいためつけられて、ひとりで片隅に坐りこみ、怏々としていたのである。
ダンスが終ったとき、イカバッドがひきつけられて加わったのは、年寄りの物識り連中で、彼らはヴァン・タッセル老人をかこんでヴェランダのはしに坐り、煙草をふかしながら昔ばなしをしたり、独立戦争の長い物語をのんびりとやったりしていた。
この近辺は、わたしが今話をしていることのおこった当時には、歴史に名高い物語や偉人が輩出した非常にめぐまれたところであった。
独立戦争中は、イギリスとアメリカとの境界線が、この近くを通っていたので、ここは略奪の修羅場となり、亡命者や、王党側の暴れものや、そのほか、あらゆる国境の荒くれ男どもが跳梁跋扈したのである。
しかし、それからもういく年か過ぎ、この時分には当時の物語をする人もちょっとした都合のよいつくりごとで話に色をつけ、記憶もはっきりしないので、手柄話があれば、なんでもかまわず、自分をその立役者にしたてることができるのだった。
ドフュー・マートリングという青ひげを生やした大男のオランダ人の話では、泥でつくった胸壁から、九ポンド弾の古い鉄の大砲をぶっぱなして、イギリスの軍艦をあやうく撃沈しかけたが、惜しくも彼の大砲が六発目には破裂してしまったということだ。
それからまた、一人の老紳士が話しだしたが、この人はたいへんな金持ちのオランダ人で、かるがるしくその名は言うことができないから、名は秘めておこう。
この老人は、防禦の術にすぐれており、ホワイトプレーンズの戦いのとき、飛びくる弾丸を短剣で受けながし、弾丸が刃先をひゅうといってまわり、柄にかるくあたるのをたしかに感じたとさえ言った。
そして、その証拠には、その剣の柄が少し曲っているところを、いつでも見せてやろうと言った。
ほかにも数人おなじように戦場で手柄をたてた人がいたが、いずれも自分の功績が力あって戦争がめでたく勝利に終ったのだと言わないものはなかった。
しかし、こういう物語も、そのあとにつづいた幽霊や化け物の話にくらべたらなんでもなかった。
このあたりにはそのような貴重な伝説がたくさんあるのだ。
地方色ゆたかな物語や迷信は、こういった辺鄙な、長いあいだ人が住みついていた僻地でもっとも盛んになるのだが、アメリカのたいていの町や村を形づくっているのは移りあるくひとびとなので、その足の下で踏みにじられてしまうのだ。
そのうえ、ほとんどどこの村でも、幽霊に元気をつけるものがなにもないのだ。
幽霊が墓にはいって、先ず一眠りして、寝返りをうつか、うたないうちに、まだ生存している友だちは近所を去っていってしまう。
だから、幽霊が夜なかに出てきて徘徊しても、訪ねてゆくべき知合いが残っていないのである。
おそらくこういうわけで、わたしたちは古くからあるオランダ人の村以外では幽霊のことをほとんど聞かないのであろう。
しかし、この近辺に怪談が多い直接の原因はあきらかに近くにスリーピー・ホローがあることだ。
空中に魔力があって、あの奇怪な場所から吹きよせてくるのだ。
この魔力がひとを夢や空想におとしいれる雰囲気を吐きだし、それが一面に伝染するのだ。
スリーピー・ホローの住民も数人ヴァン・タッセルの邸に来ており、例によって、怪しいふしぎな伝説をぽつりぽつり物語っていた。
不遇なアンドレ少佐が捕虜になった場所に生えている大きな木のあたりで、葬式の行列が見えたとか、哀悼の叫びや、すすり泣きの声が聞えたとかいう陰気な話がいろいろ出た。
じっさい、その大木はこの近所にあるのだ。
白衣に身をつつんだ女の話も出た。
これはレイヴン・ロックの暗い谷間に出没し、冬の夜、嵐の前には金切り声をあげるのが聞えるのだ。
この女はそこで雪に埋もれて死んだのだった。
しかし、さまざまな物語のうちでいちばん主だったものは、スリーピー・ホローの立役者幽霊、首なし騎士だった。
最近にもいく度か、この騎士が付近を巡回している音が聞えたし、そのときの話では、教会の墓場に毎夜その馬をつないでおくということだった。
この教会は人里はなれているので、浮かばれない死人の霊魂がいつも好んであらわれたようである。
それは丘の上に建っており、まわりには南蛮さいかちやエルムが高々としげっていた。
その木立のあいだから教会の瀟洒な白壁がしとやかに光っているありさまは、純潔なキリスト教精神が暗い幽境から輝きでるようであった。
なだらかな斜面がここから下って、銀箔をのばしたような湖にとどいている。
その岸には高い樹木が立ちならび、木の間がくれにハドソン河一帯の青い丘が望まれるのだ。
この教会の草の生えている墓地に陽の光がしずかに眠っているのを見たら、だれでも、少くともここならば死人が安らかに眠ることができるだろうと思うにちがいない。
教会の一方には、樹木のしげったひろい渓谷がのびており、大きな谷川が、砕けた岩や倒れた木の幹に飛びちりながら、ごうごうと流れている。
教会からさほど遠くないところで、流れが深く黒くなっているが、以前はそこに木の橋がかかっていた。
そこまで行く路も、それからその橋も、上からのしかかっている樹木にこんもりとおおわれており、そのために、この橋のあたりは昼でもほの暗かったが、夜になると、身の毛のよだつような暗闇となった。
ここが、首なし騎士の好んであらわれたところで、ひとびとが彼に出くわすのもここであった。
ブラウワー老人という、幽霊などはまったく信じない異端者についての話がでた。
この男は、くだんの騎士がスリーピー・ホローに侵入しての帰りみちに行きあい、馬のうしろに乗せられ、藪を通り、草むらを抜け、丘を越え、沼地をわたって駈けてゆき、ついにこの橋についた。
そのとき、騎士は突然骸骨だけになり、ブラウワー老人を川になげこみ、木々の梢よりも高く飛びあがり、雷鳴のようなとどろきとともに、消え去ったということである。
すぐさまこの物語に対抗して出たのは、いかにもふしぎなブロム・ボーンズの冒険だった。
彼は、「早駈けヘッセ人」などは大でたらめのいかさま師だと見くびっていた。
彼が確言したところでは、ある夜、近くのシンシンという村から帰ってくるとき、彼に追いついたのがこの深夜の騎兵だった。
そこで、彼は相手に競走を申し入れ、ポンチ酒を一鉢賭けた。
当然それは彼のものになるところだった。
デアデヴィルは化け物馬を完膚ないまでやっつけたのだ。
ところが、ちょうど彼らがこの教会の橋まできたとき、ヘッセ人はぱっと飛びあがり、一閃の火焔となって姿をかきけしたのである。
暗闇で話をするときの、あの眠たげな低い声を聞き、ときおりパイプの光でかすかに照らされる、聞き手の顔を見ているとこうした物語はイカバッドの心に深く刻み込まれた。
彼もそれに答えて、おなじように怪談をし、彼にとってかけがえのないコットン・マザーの著書からいろいろと抜萃し、またそれに加えて、生れ故郷のコネティカット州でおこった事件をたくさん話したり、彼が夜ごとにスリーピー・ホローを散歩したときに見たおそろしい光景を語ったりした。
饗宴はやがて終りに近づいた。
年寄りの農夫たちは家族をあつめて馬車に乗せ、それからしばらくのあいだは、あちこちの道にうつろな音をたて、遠くの丘を越えてゆくのが聞えた。
娘たちのなかには大好きな恋人のうしろの添え鞍に乗るものもあり、その愉しげな笑い声が蹄のぱかぱか鳴る音にまじって、しんとした森にこだましたが、それもだんだんかすかになり、ついには消えてしまった。
今まで陽気に騒がしかった邸は今や静まりかえり、人影はなくなってしまった。
イカバッドだけはまだあとに残って、田舎の恋人たちがつねづねするように、あの跡とり娘と二人だけで話そうとした。
彼はいまや成功へみちびく大道を進んでいると思っていたのだ。
彼が彼女と会って、どんなことがおこったか、わたしは述べまい。
じじつ、わたしは知らないのだ。
しかし、どうもなにかうまく行かなかったらしい。
あまり時もたたないうちに、彼は出てきたが、まったく悲しそうなげっそりした様子をしていた。
ほんとに、女というものは、なんたることだろう。
あの少女は浮気な悪戯をしたのだろうか。
あわれな先生に愛想よくしたのは、先生の恋敵を完全に征服するための単なる見せかけだったのか。
これは神だけが知っているのであって、わたしにはわからない。
ただこれだけは言っておこう。
イカバッドがこそこそと出てきたときの様子は、鶏小屋へ鶏を盗みに行ってきたようで、とうてい美しい婦人の心をうばいに行ってきたようには見えなかったのである。
先刻まであれほど何度も彼が喜んで眺めた田園の富が両側にならんでいるのに、今は右も見ず左も見ずに真直ぐに厩へ歩いてゆき、思う存分力をこめて馬をなぐったり蹴ったりして、乱暴にたたきおこした。
馬はここちよい場所で深く眠りこんで、玉蜀黍や燕麦のみのっている山々や、おおかわがえりやクローバの生えた谷間を夢に見ていたのである。
いまや夜もふけて、まさに幽霊が出そうなころだった。
イカバッドは心重く、しょんぼりと、家路をたどり、タリー・タウンの上にそびえる高い丘の斜面を進んで行った。
その日の午後には、彼はこの丘をあんなに楽しげに越えてきたのだった。
時刻も彼と同様、陰鬱だった。
はるか下のほうには、タッパン・ジーの水が暗く、ぼんやり、荒寥とひろがり、陸のかげにしずかに碇をおろしている帆かけ舟の高い帆柱があちらこちらに見えていた。
真夜中のひっそりした静けさのなかに、番犬のほえる声が、ハドソン河の向う岸からさえ聞えてくるのだった。
だが、そのほえ声もあまりにぼんやりしてかすかなので、自分はこの、人間の忠実な仲間からさえも遠くはなれているのだ、と感じるだけだった。
ときたま、鶏がふいに目をさまして、長く尾をひいて鳴く声が、遠く、はるかに遠く、丘の間のどこかの農家から聞えてきた。
だが、それも彼の耳もとに夢のようにひびくだけだった。
生きものがいるしるしは、彼の身のそばにはなにもなかった。
ただときどき、蟋蟀がもの悲しく鳴いたり、食用蛙が近くの沼で、寝ごこちが悪くて急に床のなかで寝がえりをうったかのように、咽喉をならしているだけだった。
晩に聞いた幽霊や悪鬼の話が、みんないっしょになって、彼の心にうかんできた。
夜はいよいよ暗くなり、星影も空に深く沈んでゆくように思われた。
それに、疾駆する雲がおりおりその星さえもかくしてしまうのだ。
彼はこんなにさびしくおそろしい思いをしたのは生れてはじめてだった。
そのうえ、彼が今近づいてゆくのは、たくさんの幽霊の話がまつわる場所にほかならなかったのである。
路の真中に大きなゆりの木が立って、巨人のように、あたりの木立の上にそびえ、一種の道標になっていた。
その枝は瘤だらけで、奇妙な形をしており、ふつうの木の幹ぐらい大きく、よじれて地面につくほど垂れさがり、それからまた空中にのびあがっている。
例の不幸なアンドレ少佐がそのすぐそばで捕虜になったので、この木は彼の悲劇的な物語と因縁が深く、アンドレ少佐の木という名でひろく知られていた。
ひとびとはこの木を尊敬と迷信との混った気もちで見ていた。
それというのは、この木に名を残した不幸な人の運命に同情していたからでもあり、また、ふしぎな物影が見えたり、陰気な嘆き声がきこえたりするという話がこの木に伝わっているからでもあった。
イカバッドはこの恐ろしい木に近づくと口笛を吹きはじめた。
だれかが自分の口笛に答えたような気がした。
だが、それは一陣の風がその枯れた枝をさっと吹きぬけただけのことだった。
もう少し近くにきたとき、彼は何か白いものが、木の真中に吊るさがっているのを見たように思った。
彼は立ちどまり、口笛を吹くのをやめた。
しかし、もっとよく見さだめると、それは木が雷にうたれて、白木がむき出しになっているのだとわかった。
突然、唸り声がきこえた。
彼の歯はがたがた鳴り、両膝を鞍にいやというほどうちつけた。
しかしそれは重なりあった大枝が風にそよいでこすれる音にすぎなかった。
彼は無事にこの木を通りすぎた。
だが、新たな危険が行手に横たわっていたのだ。
この木から二百ヤードほどのところで小川が路を横ぎり、ワイリーの沼という、沼の多い、木のこんもりした谷間に流れこんでいた。
伐ったままの丸太が二、三本ならべてあり、この流れをわたる橋のかわりになっていた。
道の一方の、小川が森に流れこむほうの側には、樫や栗の木立に野葡萄の蔓が厚くからみついて、あたりを洞穴のように真暗にしていた。
この橋をわたるのは、世にもつらい責苦だった。
まさにこの地点で薄幸なアンドレは捕まったのであり、この栗や葡萄づるのかげに逞ましい郷士たちが身をかくし、彼に不意打ちをくわしたのだ。
それ以来この川には幽霊が出るといわれてきたので、今でも暗くなってからひとりでここを渡らなければならない小学生は、こわくてたまらないのである。
イカバッドはこの川に近づくにしたがって、心臓がどきどきしはじめた。
だが、彼は大決断をふるいおこし、馬のあばらを十回も蹴りつけて、一気に橋を駈けわたろうとした。
ところが、このつむじ曲りの耄碌馬は、前に進むどころか、横へそれて、垣根にわきばらをぶつけてしまった。
イカバッドは遅れたために恐怖がますますつのり、手綱をぐいっとばかり反対側にひき、他方の足で力いっぱい蹴とばした。
それも駄目だった。
馬が飛びあがったのは事実だが、今度は道の向う側の茨やはんの木のしげみに飛びこんだ。
先生は今や鞭と踵と両方使って、年とったガンパウダーのやせほそった脇腹を滅多打ちにした。
馬は、鼻息もあらあらしく、真一文字に走りだした。
ところが、橋のまぎわまで来ると、はたと立ちどまり、不意をくらって乗り手はあやうく馬の頭をとびこして手足をひろげたまま投げだされそうになった。
ちょうどこの瞬間、橋のかたわらで、ざぶざぶ水をわたる足音が、イカバッドの鋭い耳にきこえた。
川のふちの、森の暗い影に、なにか巨大な、奇態な形をした、黒いものがそそり立っていた。
それは動かなかった。
暗闇のなかで、からだを引きしめて、巨大な怪物が旅人に飛びかかろうとしているかのようだった。
仰天した先生のかみの毛は、恐怖のために逆だった。
どうすればよかろう。
向きをかえて逃げだそうとしても、もう間に合わない。
それに、とても逃げおおせるものではない。
もしそれが幽霊か悪鬼だったら、風の翼に乗ることもできるのだ。
そこで、彼は見せかけの勇をふるって、どもりながら訊問した。
「だれだ、貴様は」返事はなかった。
彼は前よりもっとふるえる声でくりかえした。
なおも答えはない。
もう一度彼はびくとも動かぬガンパウダーの横腹をたたきつけ、そして両眼をとじて、夢中になって、讃美歌をどなりだした。
するとそのとき、この恐ろしい影のようなものは動きはじめ、ぱっと一飛び岸にかけのぼると、たちまち道の中央に突ったった。
夜は暗く陰鬱ではあったが、この正体不明のものの形はいまや少しはわかった。
それはからだの大きい騎士のようで、逞ましい黒馬にまたがっているらしかった。
邪魔をしようともせず、さりとて、うちとけて挨拶をしようともせず、道の片側に遠ざかったまま、老ガンパウダーのつぶれている目の側について、ゆるゆると歩を進めた。
ガンパウダーは今はおどろきもしずまり、おとなしくなっていた。
イカバッドは、この得体の知れぬ深夜の道連れが気に食わなかったし、ブロム・ボーンズが「早駈けヘッセ人」と競走した冒険談を思い出したので、自分の馬を急がせ、先に行ってしまいたいと思った。
ところが、不明の騎士も馬を早め、歩調をあわせた。
イカバッドは手綱をひきしめ、並足にし、後におくれようとした。
相手もおなじようにした。
彼は憂鬱になってきた。
讃美歌をまたはじめようとしたが、からからに乾いた舌が上顎にくっついてしまった。
一節も歌えなかった。
この執拗な道連れが不機嫌におし黙っているのは、なにか不可解で、おそろしかった。
間もなく、ぞっとするようなことがわかった。
丘の上にのぼって、彼の道連れの姿がはっきりと空にうかびあがると、背は巨人のように高く、からだはマントにつつまれていたが、イカバッドが恐ろしさに胆をつぶしてしまったのは、その騎士に頭がなかったからだ。
しかし、彼の驚愕はさらに度を加えた。
その頭が騎士の両肩のあいだに乗っていなければならないのに、鞍の前輪の上に乗っているのを見たのだ。
こわさがあまって、彼はもう死にもの狂いになった。
ガンパウダーを雨あられと蹴っとばし、なぐりつけ、あっという間もなく駈けだせば、この連れから逃げだせるかと思った。
しかし、幽霊も彼とともに一目散にかけだした。
それから、彼らは、なにがあろうとかにがあろうとかまわず、突っ走った。
一飛びごとに石は跳ね、火花は散った。
イカバッドが懸命になって逃げようとし、長い痩身を馬の頭の前にのりだすと、その薄っぺらな洋服は空にぱたぱたひるがえった。
彼らはスリーピー・ホローへ曲る道についた。
ところが、ガンパウダーは悪魔に憑かれたもののように、その道についてゆかずに、反対のほうへ曲り、丘をくだって左へまっしぐらに突きすすんだ。
この道は窪んだ砂地の木がしげっているところを四分の一マイルほど通って、怪談で名高い橋をわたり、そしてそのすぐ向うには例の緑の丘があり、その上に白亜の壁の教会が建っているのだ。
馬がおどろいて疾走するので、乗り手のイカバッドは熟達してはいないが、まだまだこの追跡戦はあきらかに彼のほうに勝ち目があるようだった。
ところが、ちょうど彼が窪地の半ばまで来たときに、鞍のしめ革がほどけて、からだの下から滑ってはずれそうになるのが感じられた。
彼は鞍の前輪をつかまえ、しっかり支えていようとした。
しかし、駄目だ。
あわやという間に彼は老ガンパウダーの首をつかまえ、自分は助かったが、鞍は地面におち、追手の足に踏みつけられる音が聞えた。
一瞬、ハンス・ヴァン・リッパーが憤激するおそろしさが彼の心にうかんだ。
この鞍は彼のよそゆきの鞍だったのだ。
しかし、今はつまらぬ心配ごとをしているときではない。
悪魔は彼のうしろに近く迫っている。
それに、(彼はじつに未熟な騎手だった)腰をすえるのにひとかたならぬ苦労をし、一方に滑ったかと思えば、また一方に滑り、ときには、馬の背骨の高い峰にごつごつあたり、そのはげしさに、彼はからだが裂けてしまうのではないかと思った。
木立が開けてきたので、彼は教会の橋の真近かに来たと思ってほっとした。
川のおもてに銀の星が映ってゆれているので、彼の考えは間違っていないことがわかった。
見れば、教会の壁が彼方の木々の下にぼんやり光っている。
彼は、ブロム・ボーンズと競走した幽霊がすがたを消した場所を思いだした。
「あの橋に着くことができさえすれば」とイカバッドは考えた。
「おれは助かる」ちょうどそのとき、その黒馬が彼のすぐうしろで息をはずませているのが聞えた。
彼はその熱い息を感じたと思ったほどだ。
彼がぎくりとして、また脇腹を蹴とばしたとき、老いぼれのガンパウダーは橋の上に飛びあがった。
馬は橋の板を鳴りひびかせて渡り、向う側についた。
そこでイカバッドはちょっとうしろをふりかえり、追手が、きまり通り、一閃の火と硫黄になって消えるかどうか見てみた。
ところがそのとき、彼が見たのは、悪魔が鐙をふんまえて立ちあがり、まさにその頭を自分にむかって投げつけようとしているところだった。
イカバッドは身をかわして、おそろしい弾丸を避けようとした。
しかし、遅かった。
弾丸は彼の頭にものすごい勢いでぶつかった。
彼は真逆さまに地面にころがりおち、ガンパウダーと、黒馬と、幽霊騎士とは旋風のように通りすぎていった。
その翌朝、老馬が見つかったときには、鞍はなくなり、くつわは足の下に吊るさがり、馬はまじめな顔をして主人の家の門のところで草を食べていた。
イカバッドは朝食にあらわれなかった。
昼食の時刻がきた。
だが、イカバッドは影も形も見せない。
子供たちは校舎にあつまり、川の堤をぶらぶら散歩していた。
だが、先生はいない。
ハンス・ヴァン・リッパーは、あわれなイカバッドとそれから自分の鞍とにふりかかった運命が少々気になりはじめた。
探索を開始し、あちこち熱心に調べたあげく、一同は彼の足跡にゆきあった。
教会へ行く路の一カ所に鞍が踏みつけられて、土にまみれているのが見つかった。
馬蹄の跡は道に食いこんで、あきらかにものすごい速さで走ったらしく、橋のところまでつづいていた。
橋を渡って、川幅がひろくなり、水が深く黒々と流れているあたりの岸辺に、不幸なイカバッドの帽子が発見され、すぐそのかたわらに潰れた南瓜が一つ転がっていた。
川を捜索したが、先生の死体は発見できなかった。
ハンス・ヴァン・リッパーは彼の遺産管理人として、先生がこの世でもっていた財産を全部いれてあるつつみを調べた。
彼の財産は、シャツ二枚半、襟巻き二本、毛糸の靴下が一、二足、コールテンの古半ズボン一着、銹びたかみそり一挺、あちこち折りこんだ讃美歌の本一冊、それから、こわれた調子笛が一つであった。
学校の書物や道具類は、村の所有物だったが、その他に、コットン・マザー老の「魔術の歴史」と、ニューイングランド年鑑一冊と、夢と易についての書物一冊があった。
この最後の本には大判の洋罫紙が一枚はさんであったが、むやみに走り書きがしてあったり、消してあったりした。
いくたびやっても実らぬこころみではあったが、先生が一篇の詩をつくり、ヴァン・タッセルの世継ぎ娘に捧げようとしたのだった。
この魔術の書物と詩の書き散らしとは、ただちにハンス・ヴァン・リッパーの手によって焼却された。
彼は、その後は自分の子供たちをもう学校にやらないことに決め、こんなものを読んだり書いたりしても碌なことはない、と言った。
先生はつい一日二日前に四半年分の給料を受けとったのだが、有り金はのこらず、失踪のときに身につけていたにちがいなかった。
このふしぎな事件は、次の日曜日、教会でさまざまな思わくを捲きおこした。
ひとびとはいくつもの群になって、墓地や、橋や、帽子と南瓜とが発見された場所に集り、しげしげとあたりを見まわしたり、噂話をしたりした。
彼らはブラウワーの話や、ボーンズの話や、またほかの話も全部思い出し、それらについてとくと考え、今回の事件と比較したあげく、みな頭をふって、イカバッドは韋駄天走りのヘッセ人にさらわれてしまったのだと決めた。
彼は独りものだったし、だれにも借金はなかったので、もはやだれも彼のことで頭をなやまさなかった。
学校はホローの別な場所に移され、ほかの先生が彼のかわりに幅をきかすようになった。
じつをいえば、この幽霊の冒険談はある年とった農夫から聞いたのであるが、この農夫が、その後数年してからニューヨークに行ってきて、故郷にもちかえったしらせによると、イカバッド・クレーンはまだ生きており、彼がこの近郷を去ったのは、一つには悪鬼やハンス・ヴァン・リッパーがこわかったからであり、また一つには不意にあの跡とり娘に捨てられたのが無念だったからである。
彼は遠方に住居を変えて、学校で教えるかたわら法律を勉強し、弁護士になり、政治家に転じ、選挙運動に奔走し、新聞に寄稿もし、ついに民事裁判所の判事になったということであった。
ブロム・ボーンズは恋敵が消えてしまってからしばらくのちに、花はずかしいカトリーナの手をとって誇らしげに祭壇にみちびいたのであった。
そしてイカバッドの話が出ると、深く事情を知っているような顔つきをし、話が南瓜のことに及ぶと、愉快そうに爆笑したので、ひとびとのなかには、彼が事件をもっとくわしく知っているのだが、話そうとしないのだ、と疑うものもあった。
しかし、田舎の老婆たちは、こういうことについては最上の審判官であるのだが、彼女らは今でも、イカバッドは超自然的な方法でふしぎにも運び去られたのだと言っている。
この近辺のひとびとは冬の夜に炉をかこみ、好んでこの物語をするのである。
例の橋はいよいよもって迷信的な恐怖の対象となり、そのためであろうが、近年になって道すじが変えられ、教会へ行くには水車用水池の端を通るようになった。
学校は使わなくなって、間もなく朽ちおちてしまい、不幸な先生の幽霊が出るといわれたものである。
農夫の子が、静かな夏の日ぐれに家路をたどるときには、しばしばあの先生の声が遠くに聞え、もの悲しい讃美歌を人影もないしずかなスリーピー・ホローで歌っているような気がしたものである。
あとがき ニッカボッカー氏の手記より
上述の物語は、古いマンハットー市(訳註)の市会の席上でわたしが聞いたのと、ほとんど全くおなじ言葉で述べたものである。
この会には同市のオランダ人の古賢名士が多数出席した。
話をした人は、快活な、むさ苦しいなりをした紳士風な老人で、霜降りの洋服を着て、顔に悲しげな影はあったが愉快そうであった。
わたしが感じたところでは、貧乏にちがいなかった。
だが、彼は大いにつとめて列席のひとびとを楽しませようとした。
彼の物語が終ったときには、笑い声が盛んにおこり、なかなかの人気があったが、特別大笑いをして喜んだのは、二、三人の市会議員で、物語の大部分は居眠りをしていた人たちであった。
しかし、ひとり背の高い、乾からびたような顔つきをした老紳士がいて、眉が眼の上に張りだしていたが、この人は終始、重々しい、むしろ厳しい顔をしていた。
そして、ときどき腕を組み、うつむいて、床を見つめ、あたかも心のなかで何か疑いごとを思案しているようであった。
彼はいわゆる用心深い人で、笑うのはしっかりした理由があるときだけ、すなわち、理窟と法則とにかなったときだけである。
一同の歓声がしずまり、ふたたび静粛になったとき、彼は片腕を椅子の肘にもたせかけ、もう片腕を腰にあて、わずかではあるが、まことに偉そうに頭を動かしながら、額をちぢめて、問いただしたことは、この物語が教えようとするのは何か、ということと、この物語は何を証明するのか、ということだった。
話し手は、労をねぎらうための葡萄酒のグラスを唇につけようとしていたが、一瞬静止して、無限の尊敬の意をこめて質問者を見やり、やおらグラスをテーブルにおろし、口を開き、この物語がきわめて論理的に立証しようとすることは、「人生においては、たとえどんな場合でも必ず利点や愉快なことがあるはずです。もっともそれは、わたくしどもが冗談をすなおに受けとればのことですが」「そこで、悪魔の騎士と競走することになった人は、とかくめちゃくちゃに走るのも当然です」「したがって、田舎の学校の先生がオランダ人の世継ぎ娘に結婚を拒まれるということは、彼にとっては、世の中で栄進出世にいたるたしかな一歩だということになります」 用心深い老紳士はこの説明をきいて、三段論法の推理にしたたか悩まされ、十倍もひどく眉をしかめた。
一方、霜降り服の紳士は、勝ち誇って、いくぶん侮りの眼で相手を眺めたようであった。
やがて相手は、それはそれでたいへん結構だ、だがなおも自分はこの物語がいささか突飛であると思う、一、二の点について自分は疑問をもっていると言った。
「おっしゃる通りです」と語り手は言った。
「そのことにつきましては、わたくし自身、半分も信じてはいないのです」D・K
原註 ウィッパーウィルとは夜だけ鳴く鳥である。
この名がつけられたのは、鳴き声がそれに似ていると考えられたからである。
訳註 ニューヨーク市。
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