その一粒種を手にとって、撫でたり擦ったりしていた。
第 1 章
その子供が五つになった時のことである。
旅まわりの軽業師の一座がこの村へ流れて来て、役場のまえの空地に小屋をかけた。
軽業師の一行をみたジャンは、こっそり家を脱けだした。
父親は足を棒のようにして息子の行方をさんざ探ねて廻った※句、ようやく探し当てることが出来たのであるが、ジャンは、芸を仕込まれた牝山羊や軽業をする犬にとり囲まれて、年老った道化師の膝にのって、声をたててキヤッキヤッ笑っていた。
それから三日たって、夕餉の時刻に、車大工とその女房が膳につこうとすると、子供がいつの間にか家にいなくなっていることに気がついた。
庭のなかを探してみたが、やッぱりいない。
そこで父親は道ばたに出て、声を限りに呼んだ。
「ジャン! ジャーン!」 もう暮色が蒼然とあたりに迫っていた。
夕靄が烟るように野末にたち罩め、ものの輪廓が、ほの暗い、はるか遠方にあるように見えた。
道ばたに三本立っている見あげるような樅の木までが、まるで泣いてでもいるように潤んで見えた。
が、呼べど呼べど、応える声はなかった。
けれども車大工には気のせいか、その辺の闇のなかで呻くような声が幽かに聞えるようだった。
彼はながい間じッと耳を澄して聞いていた。
ある時は右の方に、またある時は左の方に、絶えず何かしら聞えるような気がした。
今はもう気も顛倒してしまった彼は、我が子の名を呼びつづけながら、闇の中をかき分けるようにして馳けて行った。
「ジャン! ジャーン!」 こうして彼は、烈しい悲しみに打ち拉がれ、時には気が狂ってしまったのではあるまいかと思いながら、闇のなかに絶えず我が子の名を呼びつづけ、夜あるきをする獣を怯えさせながら夜が明けるまで馳け※った。
――女房はまた女房で、戸口の石のうえにべッたり腰をついたまま、朝になるまで、おいおい泣いていた。
子供はとうとう見つからなかった。
そこで車大工とその女房は、忘れようとしても忘れられない、その悲しみのうちにめッきり老けてしまった。
とうとう家もひと手に渡してしまい、夫婦は、自分たちの手で息子の行方を尋ねようとして住みなれた村を後にした。
とある山の中腹に羊飼いの姿を見かけると、二人はその男に訊いてみた。
行きずりの旅商人にも尋ねてみた。
村に這入れば百姓に、町へ着けば役場へいって訊いてみた。
けれども、息子が行きがた知れずになってからもうかなり日数もたっていることとて、誰ひとりそれを知る者もなかった。
当の息子のジャンにしたところが、今ではもう自分の名前も、生れ故郷の村の名も忘れてしまっているに違いない。
我が子にめぐり会えるという望みもはや絶え果てて、車大工とその女房はただ泣くばかりだった。
そうこうするうちに、持っていた路銀も費い果してしまった。
そこで夫婦は農家や旅籠屋で日雇取りをして、一番賤しい仕事をあてがわれ、他人の残りものを食べて露命をつなぎ、夜はまた夜で、寒さに悩みながら冷たい板の間で旅寐の夢をむすぶ身となった。
こうした苦労がつもり積って、夫婦はめっきり体が弱ってしまった。
そうなると、もう誰ひとり雇ってくれる者もなくなった。
そこで彼等はやむなく路傍にたたずんで道ゆく人の袖にすがった。
旅人の姿をみると、悲しそうな顔をして、情けない声をしぼって哀れを訴えた。
また、正午の野良で、一株の木のまわりに集って弁当をつかっている百姓の一団を見かけると、一片の麪麭をねだった。
そして二人は、溝のふちにしょんぼり肩を並べて坐って、黙々とそれを食べていた。
夫婦の悲しい身の上ばなしを聞かされた旅籠屋の亭主が、ある日、二人にこんなことを云った。
「俺も娘さなくした人を知ってるだがな、その人ァ巴里さ行って、その娘を探しあてただとよ」 そう聞くと、二人はすぐさま巴里を指して歩きだした。
大都会に一歩あしを踏み入れると、彼等はその広いことと、往来の人の多いことに、しばしは途方に暮れた。
しかし彼等はこういう人たちのなかに探ねる息子のジャンもいるに違いないのだと思った。
けれども、一体どうして息子を探せばいいのか、その見当は皆目つかなかった。
それに息子に別れてから、もう十五年にもなるのである。
よしんば、折よく出会うことが出来たとしても、果して自分の息子だということが分るだろうか。
二人はそう思うと心もとない気がした。
広場という広場、往来という往来は、一つ残らず歩いてみた。
人だかりのしているところへ来ると、彼等はきまって足をとめた。
神のお引合わせということもある。
無慈悲な運命にも泪はあろう。
あるとも思われないような万が一の※り合わせということも世間にはある。
頼むのは、ただそればかりだった。
彼等はよく互にひたと倚りそって、あてもなく、ただ前へ前へと歩いて行った。
その容子がいかにも哀れに悲しく見えるので、途ゆく人は、彼等がまだ求めもしないのに、施しをした。
日曜だというと、二人は教会の入口へ行って、終日そこに佇んでいた。
そして、出たり這入ったりする人を眺めては、その数知れぬ顔のうえに、遠い昔のなつかしい面差を探しているのだった。
これこそ自分の息子に違いないと思われる顔を見かけたことも幾だびかあるにはあった。
が、いつもそれは思い違いだった。
二人がどこの教会よりも一番よけいに出かけて行く教会があった。
その教会の入口のところに「浄めのお水」をかける老人がいた。
二人はやがてこの老人と顔馴染になってしまった。
聞けば、この老人も悲しい悲しい身の上ばなしを持っていた。
ああ気の毒なひとだ、と思う気持が、彼等の間にいつしか深い友情を生むようになった。
とうとう、彼等はある大きなアパートの、それも屋根裏のむさくるしい部屋で、三人で暮すようになった。
その家はもう巴里も場末の、そのまた外れにあって、野ッ原のそばに建っていた。
教会からはずいぶん遠く離れていた。
そして、車大工はこの老人が体のあんばいでも悪いことがあると、教会へ出かけて行って、新たにできた友達の代りをつとめた。
冬が来た。
その冬はまた馬鹿に寒気がきびしかった。
浄めのお水をかけることを稼業にしている老人は、可哀そうに、死んでしまった。
そこで小教区の司祭は、車大工の不幸な身の上を知っていたので、この男をその後釜に据えた。
そこで彼は、朝になると、来る日も来る日も、いままで老人の坐っていた場所にやって来て、同じ椅子に腰をかけ、古い石の柱に倚りかかって絶えず背中でそれをこすっては、柱をすり減らすのだった。
そして、教会へ這入って来る人の顔を一つ残らずじいッと視つめていた。
彼は、学生が日曜日を待ち佗びるように、日曜が来るのを首をながくして待った。
その日は、教会が絶えず人で雑沓するからである。
教会のなかがじめじめしているために、体がいよいよ弱くなって、彼はめッきり年をとった。
そして、彼が心ひそかに念じている一縷の望みも日一日と崩れて行くのだった。
いまはもう、教会へお勤めに来る人はひとり残らず知っていた。
そうした人たちの教会へ来る時刻から十人十色の癖まで、彼はいちいち承知していた。
石ただみのうえをこつこつと歩いて来る跫音を聴くだけで、もう誰が来たのか、ちゃんと解るようになってしまった。
見なれない顔が一つでも教会へ来れば、彼にとっては大事件であった。
それほど、彼の生活は狭いものになってしまった。
ある日、二人連れの女が教会へやって来た。
一人は年をとっているが、もう一人のほうは若い。
どうやら母娘らしい。
その後ろについて、その女の連れらしい一人の男が彼の前を通った。
教会から出て来ると、彼はその人たちにお辞儀をした。
そして浄めのお水を差しだすと、その男は年をとったほうの婦人の腕を小脇にかかえるようにした。
(この男はあの若い女の許嫁なのだな) 彼はそう思った。
しかし彼には、この男に似た青年にむかしどこかで出会ったことがあるような気がしたので、その日は夕がたまで、自分の記憶を辿り辿り、あれかこれかと探してみた。
だが、思いあたる男は、今ではもう老人になっているはずである。
自分がその男を識っていたのは、ずッと昔のことで、まだ自分が若かった頃のことだと思われたからである。
その男は、その後も、例の二人の女と一しょに時折り教会へやって来た。
おぼろげながら、遠いむかし、どこかで見たことのある、親しい顔であると思われるのだったが、はッきり思い出すことは出来なかった。
それがこの聖水かけの老人の心をくるしめだしたので、彼は自分の衰えた記憶を助けてもらう積りで、女房も自分と一しょに教会へ来させた。
ある日の夕がたのことである。
もう日が暮れようとする頃、例の三人連れの男女が這入って来た。
自分たちの前を彼等が通りすぎると、亭主はそっとこう云った。
「どうだね、お前にゃ見覚えはねえかい」 女房はそわそわと落ち付かぬ容子をして、亭主と同じように切りに思い出そうとしていたが、出し抜けに、囁くような声でこう云った。
「そう、そう――だけど、あのひとのほうが髪の毛が黒いし、背丈もたかいし、それに立派な旦那のようななりをしているねえ。だけど、お爺さん、ごらんよ、あの顔はお前さんの若い時分の顔にそッくりだよ」 老人はそう聞くと思わず飛びあがった。
なるほど、女房の云う通りだった。
その男は自分に似ていたし、死んだ自分の兄にも似ていた。
彼がおぼえている、まだ若かった頃の父親の顔にも似ていた。
年老いた夫婦は胸が一ぱいになって、もう口が利けなかった。
三人連れの男女が降りて来て、玄関を出ようとしていた。
その男は、浄めのお水をかける道具に指を触れた。
そこで、老人は、手がぶるぶる顫えるので、聖水を雨のように地面にこぼしながら、そッと呼んでみた。
「ジャンじゃないかえ」 すると男はひたと立ち止って、老人の顔をじッと見た。
老人は声を低めてもう一度、「ジャンだったのかえ」 二人の婦人には、なんのことだか訳が分らないので、ただ茫然と老人を瞻っていた。
そこで、老人はおろおろと三たび目に云った。
「ジャンだったんだねえ」 すると、若い男は、老人の顔に自分の顔がくッつくほど、ぐッと身をかがめた。
そして、幼い頃の記憶が突如としてその胸に蘇って来たのだろう、こう答えた。
「お父ッあんのピエールとおッ母さんのジャンヌですか」 ジャンは父親の姓も、生れ故郷の村の名も、何もかも忘れてしまっていた。
けれども、幼い日に始終口にしていた父母の呼び名だけは忘れなかったのである。
彼は崩れるようにそこへ膝をつくと、老人の膝のうえに顔を押しあてて泣きだした。
そして、夢かと思われるような悦びに、今はもう口も利けない、その父母をかわるがわるひしとばかり擁き緊めるのだった。
大きな幸福が訪れて来たことを知って、二人の婦人も泣いていた。
彼等はそれから連れ立って青年の家へ行った。
青年は自分の身の上ばなしを語って聞かせた。
やっぱり軽業師の一行に誘拐されたのだった。
そしてジャンは、三年のあいだ、彼等につれられて、町から村へ、村から町へ流れあるいた。
その後、