第十囘
第 10 章
鹽尻の茶店の爐に暖まり温飩掻込みながら是よりなら井まで馬車一輛雇ふ掛合を始む直段忽ち出來たれど馬車を引來らず遲し/\と度々の催促に馬車屋にては頓てコチ/\と破れ馬車を繕ひ始めたりイヤハヤ客を見て釘を打つ危ない馬車に乘らるべきか外に馬車なくば破談にすべしと云へばナニお客樣途中で破れるやうな事はございません破れても上の屋根だけですから轉がり落る程の事は有ませんサアお乘りなさいと二十三四の馬丁平氣なれば餘義なくこれに乘る二十三四の小慧き奴客を客とも思はばこそ遊び半分にラツパを吹きて先を驅くガタ/\ゴロ/\隨分と烈し鹽尻を過れば一望の原野開墾年々にとゞきて田畑多しこれ古戰塲桔梗ヶ原雨持つ空暗く風慘し六十三塚など小さき丘に殘れり當年の矢叫び鬨の聲必竟何の爲ぞ田鼠や化りおほせても草隱れ興敗つひに夕鶉の一悲鳴草の葉に露置くを見れば小雨の降り來りしなり馬車を驅ること飛が如くなれば手帳へ字などなか/\書けず只破れかゝりし臺の横木に掴まりて落ても怪我のないやうにと心に祈るばかりなり忽ちに二里を馳せ洗馬へ着く昔はよき驛なりしならん大きな宿屋荒果て憐なり此に木曾義仲馬洗の水といふ有りといへど見ず例の露伴子愛着の美人も尋ねずわづかに痩馬に一息させしのみにて亦驅け出す此宿より美濃の國境馬籠までの間の十三宿が即ち木曾と總稱する所なり誠に木曾に入りしだけありて此より景色凡ならず谷深く山聳へ岩に觸るゝ水生茂る木皆な新たに生面を開きたりソレ彼の瀧ホラ向ふの岩奇絶妙絶と云ふうちには四五反は馳せ過る馬車の無法飛せ下は藍なす深き淵かたへは削りなせる絶壁やうやくに車輪をのするだけの崕道を容赦も※酌もなく鞭を振つて追立るなれば其の危うさは目もくるめき心も消るばかりなりあはれ斯る景色再びとは來られねば心のどかに杖を立て飽までに眺めんと思ふに其甲斐なし命一ツ全きを願ふばかり付燒刄の英雄神色少し變じたり馬丁にあまりに烈し少し靜にせよと云へば斯る所はハヅミに掛つて飛さねば却て誤ちありナアニ此樣な所此はまだいろはです是から先が些ばかり危ないのですと鼻唄の憎さよ坂を眞下りに下る時は泥犁の底に落る如くまた急なる塲所を上る時は直立して天に向ふ此は危なし下んと云へど聞かぬ顏にていよ/\飛ばす山は恰も驅るが如く樹は飛が如くに見ゆ快と云ば快爽と云ば爽なれどハツ/\と魂を驚かすあまり壽命の藥でもなし呉々も重ね/\も木曾見物の風流才士は此を馬車にて飛ぶべからず同行例の豪傑揃ひなれば一難所一急坂を過る時は拍手して快を呼ぶ馬丁ます/\氣を得て驅けさすこといよ/\烈し一句を吐んと思ひ込みしに冗と仕たり瞬間に本山に着けど馬に水もかはず只走りに走る梅澤櫻澤などいふ絶景の地に清く廣やかの宿屋三四軒あり此に一宿せざることの憾しさよ山吹躑躅今を盛りにて仙境の想あり聞く熱川には温泉の出る所ありと此等に暑を避けて其の湯に塵を洗ぐならば即身即仙とんだ樂しき事なるべきに