第十一囘
第 11 章
見上る山には松にかゝりて藤の花盛りなり見下せば岩をつゝみて山吹咲こぼれたり躑躅石楠花其間に色を交へ木曾川は雪と散り玉と碎け木曾山は雲を吐き烟を起す松唐松杉檜森々として雨ならずとも樹下は濕ひたり此間に在りて始めて人間の氣息緩かなるべきを無法飛せの馬車なれば(是よりして木曾の山中にも無法飛ぶのは馬車ではないか抔定めて洒落始めしならん)下手な言文一致の詞のやうにアツヱツ發矢など驚きて思はず叫ぶばかり山も川も只飛び過ぎ熱川より奈良井の間の諏訪峠といふ所は車の片輪を綱にて結びて※らぬやうにし片輪のみにて落し下すに石に軋りて火花を出す凄じさ譬へて云んやうもなし又本山と熱川の間なりし崕道崩て往來なり難きにより木曾川の河原へ下り川を二度渡りかへして道へ出る所などは會釋もなく川の中へ馬車をやり入れたるが水は馬の太腹にも及び車の臺へ付く程なれば叩き立られたる痩馬向ふの岸に着きかねて喘ぐに流石の我武者馬丁も術なくて己川中へ下り立ち四人を負ひて川原へ下し※馬車にして辛うじて引上げしが道を作り居たる土地の者崖の上より見下して乘り入れたる馬丁も強し下りぬ客人も大膽やと賞るか譏るか聲を發して額に手をば加へたり此の時少し篁村息を吐き河原に立やすらひて四方を眺め崩たる崕道を見上るに夫婦連の旅人通りかゝり川へ下りんも危うし崖を越んも安からずと彳み居しが頓て男は崩たる處ろへ足を踏み出し足溜りをこしらへてはまた踏み固め二間餘のところ道をつけ偖立戻り蝙蝠傘の柄の先を女に確と掴ませ危うくも渡り越して互にホト息して無事を悦び合ふ愛情いと尊くも嬉しけれ早々乘れ雨の來らんにと急かれて心ならねど又馬車に乘り先の嶮岨をいろはなりと云しに違はずだん/\危うくせず京あたりの難所も首尾よく飛せ越えて奈良井へ着しは晝前なり是より直に鳥居峠なれば馬車を下りしに馬丁は意氣揚々としてドウですお客樣一番鳥居峠を追立て見ませうかと云ふ我手を振りて是を願ひ下げ此にて晝餉を認めしが雨はいよ/\本降となりしゆゑ豫て梅花道人奉行となりて新調せしゴム引の合羽を取り出し支度だけ凛々敷此所を出れば胸を突くばかり直に峠にて馬車の上に縮みたる足なればチト息ははづみたり此峠に古しへは棧橋ありしとか思ふに今にして此嶮岨なれば棧橋は強ち一ヶ所に限らず所々に在しならん芭蕉の「かけはしや命をからむ蔦かづら」と詠みしも今の棧橋の所にては有まじ四五丁上りかけて谷に寄たる方に土地の者の行く近道あり折々此の近道あれど草深く道の跡も定ならで危ければ是を通道と名け通と云れたがる者ならでは通らず梅花道人少し後れたるテレ隱しに忽ち此道に驅け上る危ないぞと聲を掛るうち姿は見えずナニ幾許ほど近いものかハアハア云つて此上あたりに休み居るならんト三人嘲みながら上るに道人は居ず五六丁の間は屈曲てもよく先が見えるに後影もなし若しやは近きを貪りて谷へ轉げ落ちしにあらずや此谷に落たるを救ひ上げんには三人の帶を繋ぐとも屆くまじ如何はせんと谷底を覗き見ながら雨を凌ぎて上る