第十二囘
第 12 章
雲雀より上にやすらふ峠かなと芭蕉が詠みしは此の鳥居峠なり雨は合羽の裙よりまくり上げに降る此曲降を防がんやうなく只濡なるに脊はまた汗なり一里に足らぬ峠なれど急上りの急下りなれば大辟易の形となりぬ頓て峠へ上りつきて餅屋にて云々の形の者は通らずやと聞けば先にお下りになりましたと云ふ偖は梅花道人も谷へは落ちざりしかと安心し下りとならば嶮しとて一跳にせんものと雨を凌ぎつゝ勢ひをつけて下る下りてやゝ麓近くなりしとき篁村小石に躓づきはづみを打て三四間けし飛びしが鞍馬育ちの御曹子を只散髮にした丈の拙者なればドツコイと傘を突き左りの足にて踏み止めぬアハヤと叫びし太華露伴の兩氏イヨ感心と褒めたるが實は此のドツコイ甚だ宜しからず踏み止めし左りの足ギクリとせしが是より少々痛みを覺え雨に傘は用ひずして左りの杖となしたるぞ無念なる下りきりては只の田甫道面白くもなくトボ/\としてやがて藪原に着く此はヤゴ原と讀み元は八五原と書くお六櫛と世に名高き櫛の名所にて八五は即はち九四に同じといふ附會説ありまだ午後の三時に及ばず今三里行けば木曾中第一の繁昌地福嶋なり其所まで飛ばせよといふ議も出しが拙者左りの足が危しければイヤサ繁花の所より此の山間の宿に雨を聽くがあはれも深いものだと弱身を隱して云ふに左らばと此宿に泊る梅花道人茶店に待てありしが一つになり見ぬ事とて早足の自慢大げさなり脇に羽の生えた跡もなけれど偖宿に入りて見れば家名は忘れしが家居廣く清らかにて隣りに大きな櫛店もあり宿中第一の大家とは知られぬ湯に入り名物の櫛を買ふうち頓て名代の蕎麥を持ち出す信濃路一体に輪嶋塗沈金彫の膳椀多しこれ能登よりの行商ありて賣り行くならん大きなる黒椀に蕎麥を山と盛り汁を同じく大椀に添へ山葵大根葱海苔等藥味も調ひたり蕎麥は定めて太く黒きものならん汁の※さもどれほどぞと侮どりたるこそ耻かしけれ篁村一廉の蕎麥通なれど未だ箸には掛けざる妙味切方も細く手際よく汁加※甚はだ佳し思ひ寄らぬ珍味ぞといふうち膳の上の椀へヒラリと蕎麥一山飛び來りぬ心得たりと箸を振ひやゝ二杯目を喰ひ盡さんとする此時遲く彼時早く又もヒラリと飛び込みたり是はと驚く後より左りに持つ椀へ汁を波々注がれたりシヤ物々しと割箸のソゲを取り膳の上にて付き揃へ瞬く間に三椀を退治たりと思ふ油斷に四椀目は早くも投げ込まれぬ此の狼狽我のみならず飮食道に豪傑の稱ある梅花道人始め露伴子太華山人も呆れ果て箸を膳に置いて一息しよく/\見れば美くしき妻女清しき眼を見はり椀だに明かば投げ込んと盛り替の蕎麥を手元へ引つけて呼吸を量り若き女其後にありて盛替々々續けたり今一人は汁注を右に持ち中腰にて我々の後より油斷を見て汁を注がんと搆へたり此備へ美事喰崩して見せんものと云合さねど同じ心に一同また箸を擧げしが拙者は五椀目にて降參を呼はり投げ込みと欺し注を恐れて兩椀に手早く蓋をして其上を確と押へ漸く蕎麥責を脱れしが此時露伴子は七椀と退治和田の牡丹餅に梅花道人が辭してより久しく誰人の手にも落ちざりし豪傑號を得たりしは目ざましかりける振舞なり