第十三囘
第 13 章
此の藪原は木曾の深山なれば上の山には鷹多く昔しは巣鷹を取る爲に役所をさへ置かれけるとか和田鳥居と過來つる目にはさしも深山の中なりとは思はれず左りながら此宿を過れば木曾川に沿ふての崖道にて景色いふばかりなくよし巴御前山吹御前の墓あり巴は越中にて終りしとも和田合戰の後木曾へ引籠りしとも傳へて沒所さだかならず思ふに此は位牌所なるべし宮の腰に八幡宮あり義仲此の廣前にて元服せしといふ宮の腰とは木曾が舘の跡なればなりと土人今にして木曾樣義仲樣と敬ふ木曾が城跡といふは高き山ならねど三方山にて後に駒ヶ嶽聳へ前に木曾川あり此に來る道東よりするも西よりするも嶮岨の固め諸所にあれば義仲粟津の戰塲を脱れ此に籠て時を窺はば鎌倉の治世覺束なかるべし抔語合ふ思ば治承の昔し頼朝には北條時政といふ大山師が付き義經には奧州の秀衡といふ大旦那あり義仲には中三權頭兼遠といふわづかの後楯のみなりしに心逞ましき者なればこそ京都へ度々忍び上つて平家の動靜を窺ひ今井樋口と心を合せ高倉宮の令旨を得るより雲の如く起り波の如く湧き越後に出で越前に※り忽ち京都へ伐め上り時めく平家を追下し朝日將軍の武名を輝かしき凡人にてはあらざりけり元暦元年の春の雪粟津の原に消えたれど首は六條の河原にさらされ尸は原に埋めたれど名は末代に殘りけり杜鵑一聲しばしは空に物もなし年はわづかに三十一此の英傑を討取て「信濃なる木曾の御料に汁かけて只一口に九郎義經」と云れたる義經もたゞ此年を去る四五年にて同じく三十一にて死す二人は骨折損にして皆な頼朝にシテやられぬ氣の毒至極の事共なり我が贔負役者を揉み消したる頼朝は憎けれどまた考へれば義仲には關白松殿の姫君のほか巴山吹などの艶福あり義經には京の君靜御前といふ意氣筋あり頼朝めは政子といふ嫉深のいけない女に恐れ入り偶々浮氣らしき事あれば三鱗を逆立て怖い眼に睨まれ小さくなツて手を引きぬ嗚呼艶福なる者は必らず斯の如く不運なり女運なければ幸福なり讀者諸君それいづれをか執らんと思ひ玉ふナニ女運を右に幸福を左りに握りたい不埒至極の了簡お止めなさい/\我輩は謹んで艶福を天にかへしたてまつり少し欲氣に聞ゆれど幸福一方と决定仕りぬ友人中には夫は惜いお前が女運を捨るとなると此の情世界が甚だ寂莫最少し艶氣を出せかしと勸告せらるゝ向もあれどイヤ其の仰せは僻事なり抑もと堅く出て左樣な否らしき儀一切謝絶諸事頼朝流の事と取極め政子崇拜主義となりぬ皆樣も是非饗庭黨となり玉へ世の中まことに穩かにて至極野氣で第一は壽命の藥女は命を削るの鉋かんなとをんなと音近きもこれまた自然の道理なり緋威の鎧とめかし込み艶福がるといづれ仕舞は深田へ馬を乘り入れて二進も三進もいかなくなるか自腹の痛事あるべきなりオヽ怖やと悟る人は誠に好い子といふべきなり抔と横道の冗は措き此を越せば山吹が淵巴が淵など云ふ所あり山吹まことに盛りにて岩にさへられて水が巴にめぐるも妙なり昔し誰が影やうつせし苔清水