第十六囘
第 16 章
とかうして車に乘れば醉と勞にウト/\と睡りかけしがガタリと車は止りて旦那此が小野の瀧でござりますと云ふ心得たりと下り立しが泥濘に下駄は立ずバタリと轉べば後より下りし梅花道人またバタリ泥に手を突きコリヤ歩かれぬと叫くを車夫二人手を取り跡押せし車夫の女房二の提灯を左右の手に持ち瀧のほとりに指上げたり瀧は高きにあらねど昨日今日の雨に水勢を増しさながら大河を倒まに落すが如し衣袂皆な濕ひてそゞろ寒きを覺ゆれば見分確かに相濟んだと車夫の手を拂ひて車に乘ればまたガタ/\とすさまじき崖道を押し上り押し下し夜の十時過ぎ須原の宿へ着き車夫を厚く勞らいて戻し是より風呂を新たに焚き酒の下物を調するなど宿の者は騷ぐうち其を待つ程もなく我は座敷に倒れて熟醉したれば梅花道人如何なる妙狂言ありしかそれは知らず此の須原は花漬トロヽ汁の名物なり翌朝鰻のブツ/\切の馳走になり一陶の勇氣をかりて車にて出づ細雨濛々たれど景色を見脱さんが惜ければ母衣は掛けず今井四郎の城跡といふあり此間右は木曾川漲り流れ左りは連山峨々たる崖なるが左りの山を劈いて横に一大河の流れて木曾川へ入るあり此の棧橋の上より車を停めて川面を見やれば誠に魂を冷す關山とて峻しき坂あり一人此を守れば萬夫も越えがたしと見ゆる絶所にて景色もよし車夫いろ/\名所話しをなす喘ぎながら語ふが苦しげなれば此方より此はなどゝ問ん時のほか話しかけるに及ばずと云へど左れど國自慢に苦しげながら又不問語するも可笑し野尻を過ぎ三戸野にて檜笠をもとめ蝙蝠傘にかへて被る此にて一句あるべきと梅花道人の云へば土産にして凉しと云はん人は誰と口早に云てこれを笠の裏に書んとせしが茶店の亭主仔細らしき顏して二人が姿を見上げ見下し小首傾け痛はしやいかなる雲の上人の抔云出ん樣子なればチヤクと其笠に姿を隱し車に乘る表に立て見るもの子供まじりに十四五人あり梅花道人我身に受けてグツト氣張り車やれと異な調子なり妻籠の宿にて晝餉認む馬籠の峠なれば車は二人曳ならでは行かず夫もなか/\遲し馬にて越させ玉へと宿の主の心付けに荷を付けて中津川より來りし馬二頭ありしを幸ひこれに乘る元より駄馬なれば鞍も麁末に蒲團などもなし宿の主才角して後より馬の桐油をかけて我々を包む簑虫の變化の如し共に一笑して此を出づ此には雌雄の瀧鯉岩烏帽子岩などあり飯田とかへ通路ありとて駄荷多く集ひて賑し左れど旅人などは一向になし晝の宿に西洋人二人通辯ボーイ等五六人居たるのみ此峠は木曾の御坂と歌にも詠む所にて左のみ嶮しからず景色穩やかにてよし古へ西京より東へ向ひて來んには此の峠こそ木曾に入るはじめなれば偖こそ都人の目に珍しく賞したるならん東より西をさして行かんには此の峠など小さき坂とも見做すべし風越の峰といふも此あたりだと聞しかど馬士ねから知らず却て此山にて明治の始め豪賊を捕へたりなどあらぬ事を誇る時に不思議や馬の太腹我腰のあたりに鷄の啼聲す顧みれば鷄はなく若き男葉付の竹を杖にして莞爾居たり