第十七囘
第 17 章
今の世に客を愛する孟甞君なし有らば此人や上客の一人ならん年ごろ廿一二痩て脊低く色白く眼は小さけれど瞳流れず口早にて細き聲の男馬士の友と見え後先に話ながら來りしが忽ち小指を口に當ると思ふト鷄の鳴音をなす其の妙なること二三度は誠の鷄と聞捨て四五度目に至り怪しや人家なき此の山中にと氣付きて始めて此男の徒らと知りしなり東京に猫八とて犬猫より鷄烏の眞似をする者あれど汝の絶技に比ぶべくもなしと褒めるに氣を得てや雄が餌を見付て雌を呼ぶ聲怖しき物を見て叫ぶ聲などいろ/\の曲を盡す二人は興に入りいろ/\話かければ彼も鼻をうごめかして白山の祭禮に勇を振ひて女連の敵を驚かせしこと親父に追出されて信州の友を尋ね矢鱈婦人に思ひ付かれしこと智計を以て錢なしに旅せしこと伊勢參宮に人違ひの騷動など細やかに話す話すに條理あらねども其の樣子其の身振面白く可笑しく腹を抱へて馬より落ちんとせり馬士もまた客の悦ぶに共に悦び鶴さん此前の喧嘩に組打した事を話して聞せなされと云ふさすが才子の鶴的此の組打は語りて其身に不利益と思ひしにや苦みて他を云ふもまた可笑し終に我輩問ひて此地の流行唄に及びしに彼また委しく答へて木曾と美濃と音調の差あることを論じ名古屋はまた異なりと例證に唄ひ分けて聞す其聲亮々として岩走る水梢を吹く風に和す唄ひ終つて忽ち見えず梅花道人鞍を打て歎じて曰く山川秀絶の氣凝りて斯る男子を出す此人若し東京に出て學ぶこと多年ならばいかなる英傑とならんも知れずと我輩曰く斯る奇才子は宜しく此の山間に生涯を終りて奇を丘壑に埋むべし然らずして東京へ出てなまじひに學問をせば猾智狡才賄賂を取るにあらねば其の周旋人を煽てる公事師とならずば小股をすくふ才取。
我家を遊樓にして時めく人を取込む紳士か左らずば長官の御手の付し引物を頂く屬官とならん名節を汚し面目を泥にし只其類の小人に富貴を羨まるゝに止まるべし清唳孤潔此の鶴公の名を如何にせんと此時また忽然と鶴的鞍に傍ひて歩み來る見れば馬の沓を十足ほど彼の竹杖に括し付けて肩にしたり我馬士問ふて曰く鶴さん大層沓を買しつたな煮付て晩飯の代りに喰ふかよと鶴的莞爾としイヤ喰て仕舞ぬ爲に買た今日馬を追て十八錢取つたが彼所の婆の茶屋で強飯を二盆やつたから跡が五錢ほきやない是を持て居ると歸るまでにまた何ぞやつて一文なしにして又親父にどやされるが落だから皆な馬の沓を買てしまつたホラよと是を親父の前へ出せば睨まれる事はないワと此答へを聞て我輩大に驚けり己れの心己れが嗜欲に克ざるを知り罪を犯せし後に悔とも犯さゞる前に復らざるを知り浪費せざる前に早く物と換へて其災ひを未前に防ぐ智といふべし歸りて父の温顏を見るを悦ぶ孝といふべし生知の君子九皋に鳴て聲天にきこゆる鶴殿を惡くも見あやまり狡才猾智の人とせしこそ悔しけれ誠や馬を相して痩たるに失ひ人を相して貧きに失ふアヽ※ちぬと悔るにつけても昨夜の泊り醉狂に乘じて太華氏露伴子に引別れたる事の面なさよ今日は先に中津川に待ち酒肴を取設け置て過ちの償ひとせんと心に思ひて中津川の橋力に着けば一封の置手紙あり即ち兩氏の名にして西京にて會せんとあり憮然として出すべき詞なし