第十九囘
第 19 章
中津川の宿を立んとするに左の足痛みて一歩も引きがたしコハ口惜と我手に揉つ擦りつして漸やく五六町は我慢したれど終に堪へきれずして車乘詰の貴族旅となりぬ雨は上りたれど昨日も一昨日も降り續きたる泥濘に車の輪を沒する程の所あり何卒小山の上を少しの間歩き玉ひてと車夫の乞ふに心得たりと下りては見たれどなまじ車に足を縮めたる爲め痛み強くわづかに蝙蝠傘を力に右の足のみにて飛び/\に歩く苦しさ云ん方なし小松交りの躑躅の花の美しきも目には入らず十間歩くを一里とも二里とも思ひなせど痛き顏をしては梅花道人の案じ玉ふが氣の毒なればわざと顏の皺を伸ばし洒落など云んとすれど滿足に出るは稀なれば今日は大層洒落が苦しいネと云るゝ辛さ笑ふさへ足に響く心地す大井を過ぎて新街道大釜戸といふより御嶽へ出づ元は大井より大久手細久手を經て御嶽へ出しなれど高からねど山阪多きゆゑ釜戸の方を街道となせしなりと如何ばかりの事かあらん見渡すかぎり木曾に馴れし眼には丘といふぐらゐの山のみ道をかゆる程の必要あらんやと口には云しが此足に山阪は恐れる運よく此街道を※る事よと腹には思ひたりうとふ阪の下り口を例の通り下されて澁々歩くと跡先になりて二十六七の羽織着たる男頻りに二人の姿を眺めしが頓て道人の前へ一揖して失禮ながら其の革提は東京で何程ぐらゐ致しますと問かけしが其の樣子アヽ欲しやこれを提げなば定めて村人の驚き羨まんにと思ふ氣色なりまた頓て我に近づき先ほど見上げましたが珍しい蝙蝠傘彈きがなしでよく左樣に開閉が出來ます嘸高い品でござりませうと是も亦片手に握りて見たき顏の色に我はヱヘンとして斯樣な物は東京に住む者が流行に逐はれて馬鹿の看板に致すなり地方の人は鰐皮の革提の代りに布袋を提げパテンの蝙蝠を※さずして竹の子笠を被る誠に清くして安樂の生涯羨ましき限りなり衣服調度の美を競ふは必竟自分の心を慰むる爲ならず人に羨まれん感服されんといふ爲なり其爲に心を苦ますること幾許か知れず惡事も此念より芽を出し壽命も是より縮まるなり此の江戸風が地方に流れ込むは昨年の洪水より怖しきものと思ひ玉へと云へば膽の潰れた顏をして足早に行過しも可笑し御嶽の宿にて晝食す此に可兒寺また鬼の首塚などありと聞けど足痛ければ素通りと極て車を走らす是より山の頂の大岩道を行く下されること數度なり左右の松山にヂイ/\と濁りし聲に啼く虫あり何ぞと聞ば松虫と答ふ山に掛れば數万本の松皆赤枯れて火に燒けたる如し又問へば松虫が皆な喰ひ枯せしなりといふ松に此虫が生けば滿山枯し盡さねば止ず其形は毛虫の如くにて憎むべきものなりと云ふ嗚呼松に生じ松によりて育ちながら新芽を喰ひ盡して其松をあはれに枯し却つて其身はヂイ/\と濁聲を放つて得意を鳴らす其名を聞けばおとなしやかに松虫といふ汝に似たる人間もまた世になきには非ざりけり數百万本の松の芽を徒らに喰ひ盡しむしり取り名は美しく毛だらけにてヂイ/\と濁聲に得意を鳴らすもの嗚呼なきにはあらざりけり枯るゝ松こそ哀なれ