第三囘
第 3 章
風流は寒いものとは三馬が下せし定義なり山一つ越えて輕井澤となれば國も上野が信濃となり管轄縣廳も群馬が長野と變るだけありて寒さは十度も強しといふ前は碓氷後は淺間の底冷に峠で流せし汗冷たく身輕を旨の旅出立わな/\震ふばかりなり宿の女子心得て二階座敷の居爐裡に火を澤山入れながら夏の凉しき事を誇る蚊が出ぬとて西洋人が避暑に來るとて夫れが今の寒さを凌ぐ足にはならず早く酒を持ち來たれ。
畏まりぬと答へばかりよくして中々持ち來らず飢もし渇もしたるなり先づ冷にてよし酒だけをと頼めど持來らず徳利などに入るゝに及ばず有合す碗石五器にも汲み來れと急きてもいつかな持ち來らず四人爐を圍みて只風雅の骨髓に徹するを歎ずるのみ夜風いよ/\冷かなりトばかり有りて頓て膳部を繰り出し來りぬ續いて目方八百五十目といふ老鷄しかも雄にて齒に乘らざる豪傑鍋も現はれぬ是等の支度をせんには二時三時間經ちしも無理ならず斯く膳部取揃はぬに酒を出すは禮法に背くものと心得たる朴實これまた風雅の骨なり兎も角も有合せもので先づ御酒をと云ふは江戸臭くして却つて興味なし諸事旅は此事よと稱して箸を下すに味ひ頗ぶる佳し勞れを忘れて汲みかはせしが初日ゆゑか人々身体に異常をおぼえて一徳利と極めし數にも足らで盃を收めたり夜具も清くして取扱ひ丁寧なり寐衣とて袷を出したれど我はフラネルの單衣あればこれにて寐んと一枚を戻せしにいかに惡くは聞取りけん此袷汚しと退けしと思ひ忽ち持ち行きて換へ來りしを見れば今仕立しと見ゆる八丈絹の小袖なり返せしは左る心にてはなし是が寐心よければ別に寐衣に及ばずと云しなりと詫てまた戻せしが是にても客を大切と思ふ志しは知られたり然らば寐らんと蒲團に潛り今日道々の景色に行く春を追ふて木曾路の櫻かななど考ふるに眼はさえて今宵は草臥に紀行も書ざりしが明日の泊りは早くして必らず二日分認むべし四人別々に書く紀行拙者も貴公も同案にては可笑からずハテ甘く書きたいもの何ぞ名案名趣向名句もせめて一二句は彼も斯して是もまたカウ/\グウ/\鼾の音偖よく人は睡らるゝよ障子を洩りて領に入る淺間の山の雪おろし弓なりに寐るつる屋の二階是等も何ぞの取合せと思ふ折しも下屋賑はしく馬士人足の醉ひたるならん祭文やら義太夫やら分らぬものを濁聲上げ其の合の手には飮ませじと云ふ酒を今ま一合注げ二合温めよと怒りつ狂ひつどしめくなり醉ての上の有樣は彼も此もかはりはなし耻べきかな醉狂愼むべきかな暴飮泥まみれこれが櫻の葩か降りつゞく雨明日の空までの事を思へば水の流れもまた雨と枕に傳へて詫し夜はおそく明けぬ今日は輕井澤より越後直江津まで通る信越鐵道とかいふ鐵道に乘り追分驛の先小田井といふまで至らんと朝立出れば此ほとりは淺間の麓の廣野にて停車塲まで行く間灰の如き土にて草も短かし四方の山々に雉子鶯の聲野には雲雀の所得顏なる耳も目も榮耀を極めぬしかし芭蕉翁に「雲雀啼く中の拍子や雉子の聲」と先に出られたれば一句もなし