第六囘
第 6 章
石荒坂を過ぎ曲折して平地に出れば即ち長久保なり宿の家並よく車多し石荒坂にて下駄黨も草鞋派も閉口したれば此より車に乘る此邊平地とは云へ三方山にて圍ひ一方は和田峠に向ツて進むなれば岩大石ゴロタ石或ひは上り或は下る坂とまでならねど凸凹多く乘る者は難儀なれど挽夫は躍るもガタツクも物とはせず風の如くに飛び行けば心づもりより時は早く午後三時半和田へ着し緑川といへる高大なる寒げなる家へ泊りたり和田峠は中仙道第一の高山また絶所難塲なりと聞けば窓押し開けて雲深き方をグツト睨み置き偖風呂に入りて銘々一閑張の机を借り受け駄洒中止紀行に取りかゝる宿の人此体を見て不審がる二時間ほどにして露伴子先づ筆を收めたれば酒肴見立掛り膳部申付役となる火の熾んなる圍爐裏に足踏伸し鉛筆の後にて寶丹と烟草の吹※をソクイに練り交ぜながら下物は有るやと問ふ宿の女なしと淡泊無味に答ふデモ此邊の川で取れる岩魚か何かあらうと押し返せば一遍聞合せて見ませうと立つ我々紀行並びに手紙等を書終り偖いかに酒は來りしや大膳太夫殿と云へば露伴子ヂレ込み先刻聞合せると云たばかりに沙汰なしとは酷い奴だと烈しく手を叩けば緩やかに出來る肴はといきまけばまだ聞に行た者が歸りませんと落付たり露伴堪へず其は何處まで聞にやりしぞ一時間も掛るにまだ戻らぬかと詞を荒くすれば川へ聞きにやりましたまだ戻りませんと答ふ我輩不思議に思ひ傍らより口を出し川へ聞にやるとは如何なる事ぢやと問へば川へ魚を捕りに出し者あるべければ河原へ行き其の漁者について魚は有るや否やを問ふにて魚屋とて別にそれを貯へて賣る處はなしとの事に一同アツト顏を見合し暮て河原に漁者を尋ね尋ね當て魚の有りや無しやを問ひそれを我等に報じて而して後に調理にかゝられては一日二日の滯留にては味ふこと難かるべし肴の儀は取消しとすべし急ぎ膳をと頼めば頓て持ち來る膳部の外に摺芋に鷄卵を掛けたるを下物として酒を持ち來り是は明日峠を目出度越え玉はんことを祝ぎたてまつるなり味なしとて許されて志しばかりを汲ませ玉へやといふ先に家の大なるに合せ奮發したる茶代の高此に至ツて光を放ちぬ併しながら此家は夫是の事に拘はらず山を祝ふて酒を勸むるが例なりと質朴にしてまた禮ありと稱へ皆な快く汲む終りて梅花道人は足の勞れ甚だしければ按摩を取らんとて呼いろ/\弄りて果は露伴子も揉ませながら按摩に年を探らするも可笑しく我はこれを聞つゝ先に枕に就く雨を呼ぶ蛙よ明日は和田峠降らぬやうに祈るぞと云しが山下しの風の音雨と聞なされて覺ること度々なり果して夜半に雨來る彼方に寐がへり此方に寐がへり明日此に滯留とならば我先づ河原へ出て漁者を尋ねんなど思ひ續くるうち夜は明けしが嬉しや雨も止みぬ馬二頭曳き來り二方荒神といふものに二人づゝ乘すといふ繪に見話には聞しが自ら乘るは珍しく勇み乘りて立ち出れば雨の名殘の樹々の露領に冷たく宿を離るれば直に山にて溪の流れも水嵩まして音高く昨夜の雲はまだ山と別れず朝嵐身にこたへて寒し