第七囘
第 7 章
身輕手輕と夫ばかりを專にしたる旅出立なれば二方荒神の中に縮まりてまだ雨を持つ雲の中に上る太華山人其の寒さを察し袷羽織を貸さる我が羽織の上へ重ね被ても大きければ向ふ山風に吹き孕みて恰かも母衣の如し後の馬の露伴梅花の兩子いろ/\に見立て嘲み笑ふ此は信濃の山中なり見惡しとて寒さにかへられんや左云ふ君等の顏の色を見よと詞戰かひ洒落も凍りて可笑しきは出ず峯には櫻溪には山吹唐松の芽出の緑鶯のをり/\ほのめかすなど取あつめたる景色旅の嬉しさ是なりと語りかはして山響き谷こたへて後しづかなり雉子の聲と無理を吐く羊膓たる阪路進むが如くまた退るが如し馬をしばしと止めて元來し方を顧みれば淺間の山はすでに下に見られて其身は白雲の上にあり昨日此山を見て一睨みして置きしが今日は昨日宿りし處を見んとして見えず何となく氣壯んになりて身に膓胃ある事を忘れたり此山路秋は左こそと青葉を紅に默想し雪はいかにと又萬山を枯し盡して忽ち突兀天際に聳ゆる銀の山を瞑思すつひに身ある事を忘れたり澤を傳ひ峯に上る隨分峻しき峠なれど馬にまかせて嶮しき事を知らず東もち屋村といふは峠の上にして人家四五軒あり名物の餡餅あり此にて馬を下り圍爐裏の火に龜みし手足を温めながら其名物を試む梅花道人物喰に於て豪傑の稱あり此にてもまた人々に推尊せられて二盆の外我分までを啖ひ盡すやがて此を出で是より下りなればとて例の鐵脚を踏み轟かす道人餡餅腹に入りて重量を増したるにや兎角に後に下る露伴子は昨年此道中をせしとて甚だ通なり甞て出立の時に曰く木曾海道美人に乏し和田峠西もちや村の餅屋に一人また洗馬に一人あり洗馬のは予未だ其比を見ざる眞に絶世の美人なり餅屋のはこれに亞ぐと物覺え惡き一行なれど是は皆々領裏にでも書留て置きしやよく覺えて夫となく此より荷物を包み直し領掻き合せ蝙蝠傘に薄日を厭ふ峠の上の平坦なるを過ぎて下り口に至りて西の方を一望すれば眼界新たに曠て昨日までの景色と異なり群山皆な雌伏此の峠の外に山と仰ぐべきなし何か自分が此山になつたやうな氣持にて傲然としてまた一睨みす下りは元は急にて上りより難儀なりしを御巡幸の節道を直し今は行人安樂なりといふ左れど尚ほ屈曲の險坂幾段なるや知らず古しへの險阻おもふべきなり下り終らんとする所即ち西もちや村なり此は人家十餘軒ありて宿屋の前に女ども出てお休みな/\と客を呼ぶスハヤ尤物は此中に在るぞと三人鵜の目鷹の目見つけなば其所に入らんとする樣子なり我は元より冷然として先に進み道のかたへの菫蕗の薹蒲公英茅花など此に殘の春あるを賞して騷しき方は見もかへらず三人跡より喘ぎ來りて無し/\影もなし大かたは此邊の貴家豪族が選び取て東京紳士の眞似をなし贋雪舟と共に床の間にあがめ置くなるべし憎むべし/\といふ呼子鳥おぼつかないで尚床し日も温かに鳥の聲も麗かなりぶらり/\と語りながら行くに足は勞れたり諏訪の湖水はまだ見えずや晝も近きにと云うち下の諏訪と記したる所に出たり旅宿もあり此ならんと思へばこれは出村にてまだ一里といふ