第九囘
第 9 章
二方荒神の味を覺えて鹽尻峠も馬に遊ばんと頼み置きて寐に就く温泉にて勞れを忘れ心よく睡りたれば夜の明けたるも知らず宿の者に催されて漸やくに眼を擦りながら浴室に至れば門前に待ち詫びたる馬の高く嘶くにいよ/\慌て朝餉の膳に向へば昨日鯉の濃汁を褒めたればとて鍋ごと盛んに持ち出で勢ひに呑まれてか豪食の三傑詞にも似ず椀の數少なし馬は何時頃より來り待つぞと問へば江戸のお客樣は氣短でお出でなさるゆゑマダ來ぬかと叱られぬ爲め夜明前より門に來て居りました私共も四時から御膳の支度して御手の鳴るを待ちましたと云ふ諸事左樣來て貰ひたしさすがは下諏訪の龜屋なりと稱へ土産にとて贈られたる名物氷餅を旅荷物の中へ入れて馬ち遠であツたと馬士にも挨拶して此を立ち出づ宿の朝景色何處も勇ましく甲斐々々しく清々しきものなるが分きて此宿は馬で心よく搖られ行く爲か面白し宿を離るれば諏訪の湖水朝霧立こめて空も雨を催ひて寒し馬士の道々語りて云ふ此宿も今は旅人を當にもなさず先づ養蠶一方なり田を作るも割に合はぬゆゑ皆な斯樣に潰して畑となし豆を作るか桑を殖るかなり元は隨分繁昌な所で有りましたがナア又曰く此の流れはアレ彼山の間を川に流れて天龍川に落ちますナニお前さん氷は張りますが馬は危ないので通行は致しません人は見當をつけて向ふの村へ何處でも行きます廣さは十三里と云ますが左樣はございません狐が渡るといふのも昔の話でハイ鯉や鮒鰻は大層捕れますダガ十月から彼岸時分まで氷で漁は出來ませんナニサ兎は少し取れますが獸は何處も此處も開けたので一疋も居なくなりましたハイ遊廓なんテ見られたもんでは無いと矢鱈と謙遜なりポクリ/\と鹽尻峠を上りながら晴た日だと是から富士が見えますと指さす顧みれば水面わずかに白く四方は朝霧にて山の形さへ定かならず此の鏡へ姿を寫す富士の俤さぞと胸に畫けば煙霧糢糊たる間一種の風景あり馬士また云ふ昨夜私の方で大喧嘩が有りました湯の中で騷いだので大きに迷惑します一体湯を引いて湯塲を作るのは大分の入費で夫は村から出し合て誰でも無代で入れますのだが此頃新道を作る人足が大勢入り込んで宜い湯治塲へ行た氣で無代で湯へ入り其上威張散して喧嘩を仕かけたので村の者は怖しがり女や年寄は最う入らぬ位ですナント馬鹿々々しいではございませんか昨夜の喧嘩も土方同士でイヤハヤ新道一件ではいろ/\な事がございます如何か人足の暴れるだけもせめて取締ツて貰ひたい金を出した湯の持主が隅へ小さくなツて何處の者か知れぬ奴が無代で巾を利かせて歌など唄ツて騷ぐとはエライ話しだと不平を云ふ一体に新道には不平と見え馬も舊道行人も舊道なり只運送馬車のみ道は遠けれど平坦ゆゑ新道を驅けるとぞ此邊の屋作り皆な玄關搆へにて嚴めしく男も雪見袴とかいふものを着て古風なり松本道の追分あり此より十五六里なりと午前九時鹽尻の宿へ着く乘り捨し馬を繋ぐや散る李花此邊にては人の妻を呼びてお方と云ふ女働らき男樂する風なり土地は桔梗が原に續いて田畑多し