第 1 章/1
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第 1 章
【テキスト中に現れる記号について】
:ルビ(例)赤間関
:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号(例)三百顆
:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定(例)
明治二十五年の春、私は赤間関(今の下関)文関尋常小学校に入学した。
たしか二年の修身の教科書に「九年母」という話が載っていた。
田舎の子供が母から九年母を親戚に贈る使いを言いつけられて、途中風呂敷包を開けてみると九個ある、一個食べておいて、「八年母を差し上げます」と差し出したという話。
私はなぜかその話が面白くて、今でもその挿図の子供の姿が眼に残っている。
私は九年母が好きであった。
味よりもあの香気が好きだったのである。
あれから三十年、私は父の死後、京都に落着くつもりで下鴨に廬を結んだ。
名づけて守拙廬という。
扁額は亡友本田蔭軒君の筆、刻は主人自刀である。
少しばかりの空地に植える果樹の苗を数種取り寄せたが、なかに九年母三本を加えることを忘れなかった。
それからまた三十余年、他の果樹は育たなかったり枯れてしまったりしたが、九年母二本と柿一本とだけは恙無く現存している。
特に九年母は繁茂して、近来年々三百顆の実を付ける。
初夏には王朝の花橘をしのばせる香が小園に満ち、冬にはトキジクノカクノコノミのように熟れた実が濃緑の葉かげに金色の光を放つ、これが主人自慢の種である。
皮ごと竪に二つに割って、横に薄く切り、醤油を滴らして食うと、酒の肴に珍無類、仙気を帯びた異味となる。
子供たちは酸っぱいと言って軽蔑し、あの香気の素晴しさを説いて、皮ごと食えと教えても決して食わない。
なるほど実の酸っぱいのが玉に瑕である。
このことを山口である人に話して、京都の地味に合わないのだろうと言うと、その人が言う、「幾分そういう関係もあるでしょうが、九年母は蜜柑のように甘くはありませんよ。それは子供の時食べたものは何でも旨かったように思われるのですよ。私の亡父が永らく東京に住んでいて、山口県の楊梅(ヤマモモ)は旨かった旨かったと言いつめておりました。母が、それは子供の頃おあがりになったからですよ、あんなもの旨いはずはありませんよ、と言っても、頑として聴き入れませんでした」と、大笑いしたことがあった。
楊梅は私の育った下関の家にもあったし、塩水に浸して虫を出してから食べさせられたもので、なつかしい味の一つであるが、今は山口でもその附近でも一向めぐり会わない。
苺や桜桃の流布した今日、あのような野味は駆逐されるのが当然である。
九年母にしても段々なくなっていくというが、いくらひいき目に見ても、ネーブルの敵ではない。
ただあの皮の香気と実の味とを兼ね備えたところだけは自慢できる。
ネーブルの皮は香りはあるが苦くて物にならない。
柚子の皮は香味を備えているが、実は酸っぱすぎて話にならぬ。
九年母はやはり香味独絶する。
子供の頃食べた郷土の味はなつかしい。
下関に接近して彦島がある。
今は海底トンネルの入口があったり、工場があったりして、昔の面影はないが、私の子供の頃は農村漁村が散在して、麦味噌の名産地、したがってまたその味噌漬は朝の茶漬の食膳を賑わす妙品として馬関(下関)人に愛好された。
「関のお茶漬、出がけにあがれ」とは、口先ばかりのお愛想、人情の軽薄を諷刺した諺であるが、馬関の風俗は、通勤者の家庭はいざ知らず、われわれの家では朝は茶漬、昼に飯を炊くので、学校の弁当なんかも温かいのができると使いが持ってきた。
それで少し贅沢なところでは、毎朝早く焼たての蒲鉾が茶漬の菜に置いて歩かれた。
それはともかく、彦島から娘っ子が「イギース、イギース」と触れて売りに来た。
イギスというのは海藻の一種で、それで造ったトコロテンのようなものである。
これを厚く切って酢味噌で食べると、すっぱりとして、磯の香がして好ましいものであった。
このイギスの味噌漬ときたら珍中の珍であった。
まるで羊羹のような色に漬っているが、塩からくて、一切れあれば一度の茶漬が食えたほどで、私は羊羹などよりこれを好んだ。
彦島の北方に六連(むつれ)島がある。
ここは下関名産雲丹の塩辛の発祥地である。
小さな島であるが、どうした加減か雲丹が繁殖していて、漁村の副業に塩辛を造っていた。
これに目を付けたのが「和田又」という海産物問屋で、全島の出産品を買い占めて、それにアルコールを加えて防腐し、瓶詰にして売り出した。
商品として他国に出すには妙法であろうが、雲丹の味はさっぱり駄目になってしまい、しかも和田又が買い占めているために純粋な品が得にくくなったので、辛党であった私の亡父などは憤慨していた。
時たま六連島の者がこっそり、今で言えばヤミで売りに来ると、父は喜んで買わせた。
私はまだ雲丹の味を知らなかったけれど、色あいは良く、固形が多くて、今言うところのツブウニであった。
和田又の子息は私と小学校で同級であり、家業を継いだはずであるが、あの家は今次の大戦で爆撃に遭うて、再起不能に陥ったという噂を聞いた。
気の毒なことだ。
さて雲丹は大人の食うものとして、われわれ子供に適したものにニイナといって、サザエに似てしかも小さな小さな貝があった。
夏に家の近くの海で泳ぐ時、もぐっては石崖に付着しているこの貝を取るのが面白く、十数個もたまると持って帰って茹でてもらい、木綿針の先で、ぐるっと廻して、ほじり出しては食べる。
よい加減の塩気があって磯くさく、旨いというほどでもないが、楽しいことであった。
泳ぐ時、底にもぐるとミルがいくらでもあるので、子供たちは取って遊んだ。
何にするというでもない、ただ取るのが面白く、あとはそこらに捨てて帰るのである。
後年京都に来て驚いた。
刺身の妻にミルが付けてある。
あんなものを食べるのかと、海に遠い京都の人を気の毒に思った。
最後に私の最も好んだ海味を一つ付け加えるならば、それはメノクキである。
「芽の茎」という意味らしいが、若布の生え始めに芽が五、六寸か七、八寸伸びて、まだ葉の出ない前の茎である。
ゆえに完全には「ワカメのメノクキ」と呼んだ。
これを適宜に切って三杯漬にすると、こりこりとして歯切れが良く、何とも言えぬ味のものであった。
今食ったら、さぞかし酒の肴に珍妙であろうが、いやもう駄目だ。
こう歯が悪くなっては。
(あおき まさる、京大名誉教授・中国文学、三六・七)
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