第 1 章/1
その一撃を避けようとするが、その甲斐はない。全体には恐ろしい真実性があり、精神がこもってできあがっている。怪物の開いた口からほとばしり出てくる意味のわからぬ勝利の鬨の声が聞えるような気さえする。しかし、なぜ不必要な恐怖で死をつつもうとしなければならないのだろうか。わたしたちが愛する人たちの墓のまわりに恐怖をひろげなければならないのだろうか。墓をとりまくべきものは、死んだ人に対して愛情や尊敬の念をおこさせるものであり、生きている人を正しい道にみちびくものである。墓は嫌悪や驚愕の場所ではなく、悲哀と瞑想の場所である。
第 1 章
こういう暗い円天井や、しんとした側廊を歩きまわり、死んだ人の記録をしらべているあいだにも、外からはせわしい生活の物音がときおり伝わってくる。
馬車ががたがたと行きすぎる音。
大ぜいの人たちのつぶやく声。
あるいは愉しそうなかるい笑い声が聞えてくる。
死のような静寂が周囲にみなぎっているので、その対照はあまりにも目ざましい。
こうして、生き生きした生命の大波が押しよせて、墓場の壁にうちかえすのをきくのは、ふしぎな感じがするものである。
こういうふうにして、わたしは墓から墓へ、礼拝堂から礼拝堂へ歩きつづけた。
次第に日はかたむいて、寺院のあたりを徘徊する人の遠い足音はいよいよ稀れになってきた。
美しい音色の鐘が夕べの祈祷を告げた。
遠くに、白い法衣を着た合唱隊員たちが側廊をわたって、聖歌隊席にはいってゆくのが見えた。
わたしはヘンリー七世の礼拝堂の入口の前に立った。
奥ふかくて、暗い、しかも荘厳なアーチをくぐって、階段が通じていた。
大きな真鍮の門には、贅をつくして精巧に細工がしてあり、重々しく蝶番でひらき、高慢にも、この豪華をきわめた墓へは一般の人間の足などふみこませまいとしているようだった。
中に入ると、建築の華麗と精細な彫刻の美とに眼をおどろかされる。
壁にも残る隈なく装飾がほどこされ、狭間飾りをちりばめてあったり、また壁龕が彫りこんであったりして、その中に聖人や殉教者の像がたくさん建っている。
巧みな鑿のわざで、石は重さと密度とを失ったかのように見え、魔術でもかけたように頭上高く吊りあげられている。
格子模様の屋根は蜘蛛の巣のようにおどろくほどこまかく、軽々と、そしてしっかり造りあげられていた。
礼拝堂の両側にはバスの騎士の高い席があり、樫の木でゆたかに彫刻されているが、ゴシック建築特有の奇怪な飾りがついていた。
この席の尖った頂きには、騎士たちの兜と前立がつけてあり、肩章と剣もそえてあった。
そして、その上にさがった旗には紋章が描かれており、金と紫と紅の輝きが、屋根の冷たい灰色の格子模様と対照をなして引き立っている。
この壮大な霊廟の中央に、その創建者の墓があり、その彫像が妃の像とならんで、華麗な墓石の上に横たわり、全体は目もあやな細工をした真鍮の手摺りでかこんである。
この壮大さにはもの悲しいさびしさがあった。
墓と戦勝記念品とが奇妙に入りまじっているのだ。
これらの強い烈しい野心を象徴するものは、万人が早晩行きつかねばならぬ塵と忘却とを示す記念品のすぐかたわらにあるのだ。
かつてはひとびとが大ぜい集まり盛観であったのに、今は人影もなく寂莫としてしまった場所を歩くよりも深いわびしさを人の心に感じさせるものはない。
騎士も、その従者もいない空席を見まわし、かつては彼らがふりかざした旗が埃はついてもなお絢爛とならんでいるのを見て、わたしが思いうかべた光景は、この広間がイギリスの勇士や美女で輝き、宝石を身にかざった貴族や軍人の美々しいすがたに光り、大ぜいのひとびとの足音や、ざわざわと賞めたたえる声に満ちて生き生きしていたころのことである。
すべては過ぎ去った。
死の沈黙がふたたびあたりを領し、それをさえぎるのはときおり鳥がさえずる声だけだ。
この鳥たちは礼拝堂に入りこんで、小壁や、垂飾りに巣をつくっているのだが、これは、ここが人影まれで寂しいことのしるしでもある。
旗にしるされた名前を読むと、それは遠く広く世界じゅうに散らばっていった人たちの名前だった。
遠い海の波に翻弄されたものもあり、遠い国で戦ったものもあり、また宮廷や内閣のせわしい陰謀にたずさわったものもある。
しかし、彼らはすべて、この暗い名誉の館において一つでも多く栄誉を得ようとしたのだった。
陰鬱な記念碑にむくいられようとしたのだ。
この礼拝堂の両側にある小さな二つの側廊は、人間が墓にはいれば平等になるという悲壮な実例をあげている。
圧制したものは圧制されたものの地位まで下がり、不倶戴天の敵同士の屍さえもまじりあってしまうのだ。
側廊の一つにはあの傲慢なエリザベスの墓があり、別のほうには、彼女の犠牲となった、美しい薄幸なメアリーの墓がある。
一日の一時間として、だれかが、メアリーの圧制者に対する怒りをこめて、あわれみの叫び声を彼女の運命にそそがないときはない。
エリザベスの墓の壁は、絶えず彼女の敵の墓でもらされる同情の溜め息の音をひびきかえしているのだ。
メアリーが埋葬されている側廊には異様な憂鬱な雰囲気がただよっている。
窓からかすかに光がはいってくるが、その窓にたまった埃で暗くなってしまう。
この側廊の大部分は暗い影のなかに沈んでおり、壁は年をへて雨風のためにしみがつき、汚れている。
メアリーの大理石の像は墓の上に横たわり、そのまわりには鉄の手摺りがあるが、ひどく銹びていて、彼女の国スコットランドの国花、薊の紋がついている。
わたしは歩きまわって疲れたので、その墓のかたわらに腰をおろして休んだが、心のなかには、あわれなメアリーの数奇で悲惨な物語が渦巻いていた。
ときどき聞えていた足音はこの寺院から絶えてしまっていた。
ただときおり耳にはいるのは、遠くで僧が夕べの祈りをくりかえす声と、合唱隊がそれに答えるかすかな声だけだった。
その声がしばらく途切れると、一切の物音がなりやんでしまう。
あたりは次第にしんとして、寂莫とした気配が迫り、暗さが濃くなり、今までよりいっそう深く厳かなおもむきを帯びてきた。
静かな墓には語りあう声もなく、友の楽しい足音も、恋人たちの声もない。
用心深い父の忠言もない。
何も聞えない。
何も存在しないから。
あるのは忘却と、塵と、果てしない暗黒だけだ。
突然、低い重々しいオルガンの調べがひびきはじめた。
それは次第次第に強くなり、大波のようにどよめきわたった。
その音量のゆたかさ、その壮大さは、この堂々たる建築になんとよく調和したことだろう。
いかに壮麗にその調べは広大な円天井にひろがり、この死の洞穴を通じて、おごそかな旋律を鳴りわたらせ、沈黙した墓に鳴りひびいたことか。
それはやがてもりあがって勝ち誇った歓喜の叫びとなり、渾然とした調べはいよいよ高く、ひびきの上にひびきをつみかさねていった。
その音がやむと、聖歌隊のやさしい歌声が快いしらべとなって流れ出し、高く舞いあがり、屋根のあたりで歌い、高い円天井で鳴るように思われ、清純な天国の曲とまがうばかりだった。
ふたたびオルガンがとどろき、恐ろしい大音響をまきおこし、大気を凝縮して音楽にし、滔々として魂に押しよせてくる。
なんという殷々たる音律であろう。
なんと厳かな、すさまじい協和音であろう。
その音はさらに濃密に、なおも力強くなって、大伽藍にみなぎり、壁さえもゆりうごかすかと思われる。
耳を聾するばかりで、五感はまったく圧倒されてしまう。
そして今や、朗々とうねりあがってゆき、大地から天上へかけのぼる。
魂は奪い去られ、この高まる音楽の潮のまにまに空高く浮びあがるような気さえする。
わたしは、音楽がときとして湧きおこしがちな幻想にひたって坐っていた。
夕闇が次第に身のまわりに濃くなり、記念碑がなげる暗影はいよいよ深くなってきた。
遠くの時計が、しずかに暮れてゆく日をしらせた。
わたしは立ちあがって、寺院を去る支度をした。
本堂に通じる階段を下りてゆくとき、わたしの眼はエドワード懺悔王の霊廟にひかれた。
そこへ行く小さな階段をのぼり、そこから荒涼とした墓場を見わたした。
この廟は壇のように高くなっていて、それをとりまいて近くに王や妃たちの墓があった。
この高いところから見おろすと、柱や墓碑のあいだから、下の礼拝堂や部屋が見え、墓が立ちならんでいた。
そこに武士や、僧正や、廷臣や、政治家たちが「闇の床」に臥して朽ちつつあるのだ。
わたしのすぐそばに、戴冠式用の大椅子が据えてあったが、それは樫の木の荒削りで、遠い昔のゴシック時代のまだ洗練されてない趣味だった。
この場面は、演劇的な巧みさで、見る人に、ある感銘をあたえるように工夫されているかのようだった。
ここに人間のはなやかな権力の初めと終りの一つの例があるのだ。
ここでは文字通り王座から墳墓までただ一歩である。
これらの不調和な記念物が集められたのは生存している偉人に教訓をあたえるためだと考える人はないだろうか。
つまり、この世の偉い人がもっとも得意で意気揚々としている瞬間にさえ、間もなくその人が世間にかえりみられず、侮辱を受けなければならなくなるということを見せつけるためだと考える人はないだろうか。
その人の額をめぐる王冠がたちまちにして滅び去り、墓の塵と恥辱とのなかに横たわり、大衆のうちでももっとも下賤なものの足もとに踏みつけられなければならないということを教えるためだと人は思わないだろうか。
妙なことだが、ここでは墓さえももはや聖所ではないのだ。
世の中のある人たちのなかには恐るべき軽薄なところがあり、そのために畏れ敬うべきものを弄ぶことになるのだ。
また、卑劣な人もあり、生きている人にはらう卑劣な服従と下等な奴隷根性のうらみを、すでに死んだ有名な人に晴らして喜ぶのだ。
エドワード懺悔王の棺はあばかれ、その遺骸からは葬式の装飾品がうばいさられてしまった。
傲慢なエリザベスの手からは王笏が盗まれている。
ヘンリー五世の彫像は頭がとれたまま横たわっている。
王の記念碑のなかには、人間の尊敬がいかに偽りで、はかないものであるかという証拠をとどめていないものは一つとしてない。
あるものは強奪され、あるものは手足を切りとられ、あるものは下品な言葉や侮蔑の言葉でおおわれている。
いずれも多かれ少かれ辱かしめられ、不名誉を蒙っているのだ。
一日の最後の光が今やわたしの頭上の高い円天井の彩色した窓を通してかすかに流れこんでいた。
寺院の下のほうはすでに暗い黄昏につつまれている。
礼拝堂や側廊はますます暗くなってきた。
王たちの像は暗闇に消えいり、大理石の記念像はほのかな光のなかでふしぎな形を見せ、夕暮の風は墓の吐く冷たい息のように側廊をはいよってきた。
詩人の墓所を歩く聖堂守の遠い足音にさえも、異様な寂寞としたひびきがあった。
わたしは、ひるまえに歩いた路をゆっくりともどって行った。
そして、廻廊の門を出ると、扉が背後でぎしぎしと軋って閉まり、建物全体にこだまして、鳴りわたった。
わたしは、今まで見てきたものを心のなかで少し整えて見ようとした。
しかし、それはもはやさだかではなく混沌としていた。
入口からまだ足を踏み出したか、出さないかというのに、名前や、碑文や、記念品はみなわたしの記憶のなかで入りみだれてしまっていた。
わたしは考えた。
このおびただしい墳墓の集まりは、屈辱の倉庫でなくてなんであろう。
名声の空虚なこと、忘却の確実なことについて、くりかえし説かれた訓戒のうずたかい堆積でなくてなんだろうか。
じっさい、これは死の帝国である。
死神の暗黒の大宮殿である。
死神が傲然と腰をすえ、人間の栄光の遺物をあざわらい、王侯たちの墓に塵と忘却とをまきちらしているのだ。
名声の不死とは、とどのつまり、なんとむなしい自慢であろう。
時は黙然としてたゆみなくページを繰っているのだ。
わたしたちは、現在の物語にあまりに心をうばわれており、過去を興味深いものにした人物や逸話については考えもしない。
そして、来る時代も、来る時代も、書物をなげだすように、またたくまに忘れられてゆく。
今日崇拝される人は昨日の英雄をわたしたちの記憶から追いだしてしまう。
そして、次には、明日そのあとについで出るものによって取って代わられるのだ。
「われわれの父祖は」とトマス・ブラウン卿は言っている。
「自分の墓をわれわれの短い記憶のなかに見出した。そして、われわれもまたあとに残った人のなかに埋もれてゆくであろうと悲しげに教えている」歴史は次第にぼんやりして寓話になる。
事実は疑いや論争で曇らされる。
碑文はその碑面から朽ちおちる。
彫像は台から倒れおちる。
柱も、アーチも、ピラミッドも、砂の堆積以外の何ものであろうか。
その墓碑銘は塵に書いた文字以外の何ものであろうか。
墓が安全だといっても、なんでもない。
防腐のためにたきこめた香が永遠だといっても、なにほどのことがあろうか。
アレキサンダー大王の遺骸は風に吹きさらわれて散り去った。
彼のうつろな石棺は、今では博物館の単なる珍品にすぎない。
「エジプトのミイラは、キャンバイシーズ王も歳月も手をふれることを差しひかえたのに、今は貪欲な人間がけずりとっている。人民のミイラは傷の特効薬だし、王のミイラは鎮痛剤として売られている(原註)」 今、この大建築は、わたしの上にそびえ立っているが、これよりも壮大な墳墓にふりかかったのと同じ運命をそれがたどらぬように守ることができるものがあるだろうか。
今、その金箔をほどこした円天井はかくも高くそばだっているが、やがて廃物になって足もとに横たわるときがかならず来るのだ。
そのときには、音楽や感嘆の声のかわりに、風が、壊れたアーチを蕭々として吹きならし、梟が破壊した塔から鳴くのだ。
そのときには、目も眩い陽光がこの陰鬱な死の家にふりそそぎ、蔦が倒れた柱にまきつき、ジギタリスは、死人をあなどるかのように、名の知れぬ骨壺のあたりに垂れて咲きみだれるのだ。
こうして、人はこの世を去り、その名は記録からも記憶からも滅びるのだ。
その生涯ははかない物語のようであり、その記念碑さえも廃墟となるのである。
原註 トマス・ブラウン卿。
第 1 章/1