第 1 章/1
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第 1 章
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わたしは聞いたことがない悩みのないまことの愛というものを。
世にもかぐわしい春の書物バラの花びらにも似た愛の心を毛虫のように悩みは蝕む。
――ミドルトン
たいていの人は、年をとって青春の感受性を失ってしまったり、あるいは真実の愛情のない放埒な遊蕩生活をしたりして育つと、恋物語をあざわらい、恋愛小説を小説家や詩人の単なる虚構にすぎないと考えるものである。
わたしは人間についていろいろと観察してみた結果、その反対だと考えるようになった。
わたしの信ずるところでは、たとえ人間性の表面が浮世の苦労のために冷たく凍ってしまい、あるいは社交術によってただ無意味に微笑んでいるばかりになろうとも、眠っている火が、どんなに冷たい胸でもその奥にひそんでおり、一旦燃えあがれば、はげしく燃えさかり、ときには人を滅ぼすほどにもなるのだ。
じじつ、わたしはあの盲目の神キューピッドの真の信者で、その教えるところをすべて信奉している。
打ちあけて言えば、わたしは、人が失恋して心が傷つき、命を絶つことさえあると信ずるのだ。
しかし、わたしはそのような恋わずらいが男性にとっては致命的になることが稀れだと思う。
ただ、多くの美しい女性が、若くして力が萎え、そのためにあの世に旅立たなければならなくなるとかたく信ずるのである。
男は利害と野心との動物である。
男は生れつきこの世界の闘争と喧騒とのなかに飛びこんでゆくようにできている。
恋愛はただ青春時代の装飾か、あるいは人生劇の幕間に歌われる歌にすぎない。
男は名声をもとめ、財産をもとめ、世間の人に重んじられようとし、ほかの人間を支配しようとする。
しかし、女性の全生涯は愛の歴史である。
心こそ彼女の世界である。
そこにこそ女性の野心が絶対の支配権を得ようとし、そこにこそ女性の貪欲が隠れた財宝を探しもとめるのだ。
女は愛情を危険にさらす。
心の全てをかけて愛の貿易をする。
そしてもし難破したら、絶望だ。
心が破産したことになるのだから。
男にとっても恋愛に破れたときは、するどい苦しみをおこすこともあろう。
やさしい感情が傷つけられ、未来の幸福な夢が吹きとばされる。
しかし男は活動的な動物だ。
さまざまな仕事の渦巻くなかにその思いをまぎらすこともできよう。
享楽の流れに身を投ずることもできる。
あるいはまた、もし痛手をうけた場所にいて苦しい思い出に耐えられないならば、望みにまかせて住居をかえることもできるし、いわゆる、あけぼのの翼に乗って、「地の果てにとびさり、やすきをうる」こともできる。
しかし、女性の生活は比較的固定し、世間ときりはなされており、瞑想的である。
女はむしろ自分の感情や思索を友とする。
もしそれが悲しみに支配されるようになったら、彼女はどこに慰めをもとめたらよかろう。
女の運命は男に言い寄られ、男のものになることだ。
もし女の恋が不幸に終ったとすれば、彼女の心は、占領され、掠奪され、放棄され、そして荒れるにまかされた砦に似ている。
いかに多くの輝かしい眼がくもり、いかに多くの柔かい頬に血の気が失せ、いかに多くの美しい姿が墓の中に消えていったことか。
だが、なにがその美しさをそこなったのか、だれにもわからないのだ。
鳩は翼をからだにひきよせ、急所にささった矢をおおいかくすが、それと同様に、女性も世間の眼から傷ついた愛の痛手をかくそうとする。
可憐な女の恋はいつも内気で無言である。
恋が叶ったときでも、ひとりそれをささやくことさえできないのだから、叶わぬときには、その恋は胸の奥ふかくに秘められて、今は廃墟となった心のうちでちぢこまり、さびしい思いに沈むのである。
彼女の心の希望は消えさり、人生の魅力はなくなる。
快い運動は心をたのしませ、脈搏を早くし、生命の潮を健康な流れにして血管に送りこむのだが、彼女は一切そういうことをしなくなる。
休息もこわされる。
睡眠がもたらす楽しい安息には陰鬱な夢が毒を注ぐ。
「渇いた悲しみが女の血をすする」そしてついにはからだが衰え、ほんのわずかな外的な病傷をうければ滅びてしまうのだ。
しばらくしてから、彼女の行方をさがして見れば、友だちが、彼女の時ならぬ墓に涙をそそいでいるだろう。
そして、つい近ごろまで輝くほど健康で美しかった人が、こんなに急に「暗闇と蛆虫」の墓に運び去られたのを、いぶかしく思っているだろう。
冬の寒さか、なにかふとした病いが彼女をたおしたのだ、ときかされるだろう。
だが、その前に心の病が彼女の力を吸いとって、やすやすと彼女を死の犠牲にすることができるようにしたことはだれも知らないのだ。
彼女は森の木立が誇りとする若い美しい木のようだ。
姿は優美で、葉は輝いている。
しかし、虫がその心を食っているのだ。
その木はいちばん生き生きとして勢いが盛んでなければならないときに、突然枯れてゆく。
枝は地面にたれさがり、葉はばらばらおち、ついには力つきて、森じゅうの木がそよりともしないのに、倒れてしまうのだ。
そして、わたしたちがこの美しいなきがらを眺めて、それを朽ち枯らした嵐か落雷を思いおこそうとしても、無駄なのである。
わたしが見た多くの実例では、女性が衰弱して自暴自棄になり、そして地上から次第に消えさってゆくのは、あたかも天にむかって発散してゆくかのようだった。
そして、なん度もわたしが考えたのは、その人たちが死に到ったみちを後もどりして、肺病、風邪、衰弱、疲労、気鬱と推移をたどってゆけば、ついには最初の、失恋という徴候にゆきつけるということである。
ところが、最近こういう実例を一つわたしは耳にした。
そのいきさつは、それがおこった国ではよく知られているが、わたしは聞いたままに話してみよう。
だれでも、アイルランドの若い愛国の志士E――の悲劇的な物語をおぼえているだろう。
その話は人の心を強く感動させ、とうていすぐに忘れることはできない。
アイルランドの動乱のとき、彼は謀反のかどで裁判をうけ、有罪を宣告され、そして死刑に処せられた。
彼の運命は深くひとびとの同情心を動かした。
彼は若々しく、聡明でしかも寛大で、勇気にあふれ、人が青年はかくあれかしと思うすべてをそなえていた。
彼の態度は裁判をうけているあいだも崇高で大胆だった。
彼が祖国に対する反逆の嫌疑を拒否したときの高潔ないきどおり、みずからの名誉を擁護したときの滔々たる弁説。
そして、罪を言いわたされた絶望の時に当って彼が後の世の人に訴えた悲愴なことば。
こういったものはすべて、心の寛大な人の胸にふかく刻まれ、彼の敵でさえも、彼に死刑を命じた厳しい政策を嘆いたのだ。
ところが、ここに一つの心が、とうてい名状することができないほど苦しみ悩んでいた。
E――は幸福で順境にあったころ、一人の美しい魅力的な少女の愛情をかちえたのだった。
彼女は、今は亡くなった、ある有名なアイルランドの弁護士の娘だったが、乙女の初恋に似つかわしく、自分の利害など考えず熱烈に彼を愛していた。
世間がすべて彼に反対し、非運にやぶれ、不名誉と危険とが彼の名に暗くつきまとうようになったとき、彼女は、苦しんでいる彼をいっそうはげしく愛した。
彼の運命に敵方でさえも同情を寄せたのだとすれば、魂をすべて彼の面影に捧げていた彼女の苦しみはどんなだったろう。
その苦しみがわかるのは、この世でいちばん愛した人と自分とのあいだに突然墓の戸をしめられてしまったひとびとだけだ。
愛情にみちた美しい人が去っていった冷たいさびしいこの世に、一人閉め出されて、その墓の入口に坐ったことのあるひとびとだけなのだ。
それにしても、このような恐ろしい最期をとげるとは!
あまりにも凄惨だ。
ひどい屈辱だ。
亡き人を思いおこして、死別の苦痛をやわらげるよすがとするものは何もない。
痛ましいなかにも和やかな情景は何もなく、別れの場面をなつかしいものにしてくれるものはない。
清らかな涙は、天上から送られた露のように、別離に苦しむときにも心に生をよみがえらせてくれるのだが、ここには悲しみを溶かして、そういう涙にしてくれるものは何もないのだ。
未亡人となった彼女の生活をさらにさびしくしたのは、この不幸な恋のために父の不興を蒙って、親の家から勘当されたことだった。
しかし、もし友だちの同情と親切な心づくしが、この、恐怖でたたきのめされた心にとどいていたならば、彼女はいくぶんなぐさめられたにちがいない。
アイルランド人は、感受性がするどく、しかも寛大なのだから。
彼女は、やさしく、いつくしみ深い世話を富豪や名望家から受けた。
彼らは彼女を交際社会に招きいれ、さまざまな仕事や娯楽をあたえて、彼女の悲しみをまぎらそうとつとめ、悲劇に終った恋の物語から彼女を引きはなそうと手をつくした。
しかし、それはすべて無駄であった。
この世には、魂をそこない焼きつくしてしまう悲惨な打撃があるのだ。
それは、幸福の根もとまでつきとおし、枯らしてしまい、ふたたび蕾をもち花を咲かすことはできないようにしてしまうのだ。
彼女はさからいもせずに娯楽の場所によく出ていった。
だが、そこでも彼女はぽつねんとして、孤独の淵に沈んでいるかのようだった。
悲しい幻想にふけりながら、あちこち歩きまわり、まるで周囲の世界には気がつかないようだった。
彼女の心の中には悲哀があり、それが友だちのやさしい言葉をも受けいれず、「彼女に言いよる人が、いかにたくみに笛を吹こうとも、耳をかたむけようともしなかった」のだ。
わたしに彼女の話をしてくれた人は、ある仮装舞踏会で彼女を見たことがあった。
絶望的な惨めさは、こういう場所で見ると、もっともおそろしく痛々しく見えるものだ。
幽霊のようにさまよい、まわりはみな陽気だというのに、さびしく、うれいに満ちている。
装いははなやかだが、その物腰はいかにも力なく悲しげだった。
みじめな心を欺いて、瞬時でも悲しみを忘れようとこころみたが、空しく終ったというようである。
彼女はまったく茫然自失のありさまで、豪奢な部屋を通り、着飾った人々のあいだをぶらぶら歩いてゆき、とうとう奏楽席の階段に腰かけて、しばらくあたりを見まわしていたが、眼はうつろで、その場の華美な光景には無感覚であることがわかった。
やがて彼女は病める心の気まぐれにものがなしい曲を歌いはじめた。
彼女の声は精妙だった。
だが、このときはほんとうに素朴で、いかにも心に迫るようだったし、痛んだ魂がにじみでていたので、彼女の周囲に引きつけられたひとびとは黙然として声をのみ、ひとりとして涙にかきくれないものはなかった。
こんなに清純で可憐な人の物語が、名に負う熱情的な国で、ひじょうな関心をかきたてないはずはなかった。
この話に、ある勇敢な軍人が深く心を動かされ、彼女に結婚を申しこんだ。
彼の考えでは、故人に対してこんなに真実な人ならば、もちろん生きている人には愛情がこまやかにちがいないということだった。
彼女は彼の求婚を拒んだ。
彼女の胸は、むかしの恋人の思い出でいっぱいになっていて、どうすることもできなかったのである。
しかし、彼は熱心に求婚をつづけた。
彼は相手の愛情をもとめず、尊敬を求めた。
彼女が彼の立派な人格を信じていたことと、彼女が友人の親切によって生きている、つまり自分が不如意で、人に頼っているのだということを感じていたことは彼にとって好都合であった。
ひとことでいえば、彼はついに彼女と結婚することができた。
しかし、彼は、彼女の心が今も変りなく別の人のものだということを痛ましくも知っていた。
彼は彼女を連れてシシリーへ行き、場所がかわれば、むかしの悲しみも思い出さなくなるだろうと思った。
彼女は愛らしい立派な妻となり、また、つとめて幸福な妻になろうとした。
だが、黙々として心をむしばむ憂愁は彼女の魂のなかにはいりこんでしまっていて、何ものもそれを癒すことはできなかった。
彼女は望みのない病に侵され次第にやつれ、ついに傷心の犠牲となって他界した。
有名なアイルランドの詩人モアが詠んだ次の詩は、彼女のことをうたったものである。
若い勇士が眠る国から彼女は遠くはなれている。
想いを寄せるものたちは彼女をかこみ、慕いよるが、彼女は冷たく彼らの眼をさけて泣く。
その心は彼の墓の中にあるのだ。
彼女は懐しい故里の野の歌を口ずさむ、ありし日の彼が愛した調べを。
ああ、その歌をきいて喜ぶものは歌う人の心が千々にくだけるのを知らぬ。
彼は恋に生き、国のために死んだ。
恋と祖国が彼をこの世に結んでいたのだ。
国びとの涙はすぐには乾かず、恋人はすぐに彼のあとを追うだろう。
おお、日の光が休むところに彼女の墓をつくれ、夕日の光が輝くあすを約束するとき。
日は、西方から微笑みのように、彼女の眠りの上に輝くだろう。
彼女が愛したかなしみの島から。
第 1 章/1