その一座のひとびと全部の憤りを買うことになったが、ことに男爵はひどく怒った。男爵はその人をほとんど異端者としか思わなかった。それだから彼はやむなく大急ぎで彼の異端の説を引っこめて、真実の信者たちの信仰に加わった。
第 3 章
だが、ひとびとがどんな疑いをいだいたとしても、その疑いは、翌日になって正式の文書がとどいたので、すっかりかたがついた。
その文書によって、若伯爵が殺害され、ヴルツブルク寺院で埋葬されたというしらせは確認されたのである。
城の狼狽ぶりは十分に想像されよう。
男爵は自分の部屋にとじこもってしまった。
客たちは、彼とよろこびを共にしようとしてやってきたのだが、悩んでいる男爵をすてて去る気にはなれなかった。
彼らは庭をうろうろ歩きまわったり、広間に群をなしてかたまりあったりして、この立派な人物の苦しみに、頭をふったり肩をすくめたりしていた。
そして、いつもより長く食卓に坐り、いつもより盛んに食ったり飲んだりして、元気を出そうとした。
しかし、寡婦になった花嫁の立場がいちばん憐れだった。
抱擁さえしないうちに夫をなくしてしまうとは。
しかも、あれほどの夫を。
幽霊でさえあのように優雅で気高いのだから、生きている人だったら、さぞすばらしかったことだろう。
彼女は家じゅうを悲しみの声で満たした。
寡婦になった二日目の夜、彼女は、どうしても彼女といっしょに寝ようという叔母の一人に付きそわれて寝室にひきとった。
その叔母はドイツ中でもっとも上手に怪談を話す人で、いちばん長い物語を話していたが、その真最中のところで眠りこんでしまった。
その部屋はほかから遠く離れ、小さな庭に臨んでいた。
姪は横になったまま、もの思いにふけり、月がのぼり、その光が格子の前の白楊の葉のうえにふるえているのを見つめていた。
城の時計がちょうど真夜中を告げた。
するとやわらかな音楽の調べが庭からしのびこんできた。
彼女はいそいでベッドから起きあがり、軽やかに窓のほうへ歩みよった。
背の高い人影が木蔭に立っていた。
その人影が頭をあげたとき、一すじの月光がその顔に差しこんだ。
なんということだろう。
彼女が見たのは幽霊花婿だった。
その瞬間、高い鋭い叫び声が、彼女の耳をつんざいたかと思うと、叔母が彼女の腕のなかへ倒れかかってきた。
叔母は音楽に目をさまし、そっと彼女について窓のところに来ていたのだった。
彼女がふたたび眺めたときには、幽霊は姿を消していた。
二人の婦人のうち、今では叔母のほうの気をしずめる必要があった。
彼女は恐ろしさのために気が動転してしまったのだ。
若い婦人はというと、恋人の幽霊にさえ何か心をひかれるものがあった。
その幽霊には相変らず男らしい美しさといったものがあったし、また男の影では、恋になやむ乙女心は満足しないではあろうが、しかしその実物が得られない場合には、その影ですら慰めになるものだ。
叔母はもう二度とあの部屋には寝ないと言った。
姪も今度ばかりは強情で、城内のほかの部屋では絶対に寝ないと、負けずに強く言い張った。
その結果、彼女はひとりで寝なければならないことになった。
しかし彼女は叔母に約束させて、幽霊のことを話さないと言わせた。
そして、彼女は世界でたった一つ残された楽しみを奪われまいとしたのだ。
その楽しみは、自分を愛する幽霊が夜ごと寝ずの番をしてくれる部屋に住むということだった。
その善良な老婦人がどれほど長くこの約束を守ったかは、あやしいものである。
彼女はふしぎなことがらを話すのがはなはだ好きだったし、それに、恐ろしい話をだれよりも先に話すことには一種の優越感があるものだ。
とはいえ、彼女がそれをまる一週間秘めていたことは、女性にも秘密を厳守することができるという記念すべき実例として、今もなおこの辺りでは話題にされている。
ところがある朝、令嬢が見あたらないという知らせが朝食の席にもたらされたので、この叔母は突然もうこれ以上どんな束縛も受けないでよいことになったのだ。
令嬢の部屋はもぬけのからで、寝台には寝た様子もなく、窓はあけはなされ、小鳥は飛び去っていた。
その知らせをうけたときのひとびとの驚きと心配とがどんなものであったか想像できるのは、偉人の不幸によってその友人たちがどんなに動揺するかを目のあたりに見たことのある人だけであろう。
貧しい親類たちでさえ一瞬がつがつ食べつづける手を休めたほどだ。
そのとき叔母が、はじめは驚いて口もきけずにいたが、手を握りしめながら、金切声で叫んだ。
「お化けです。お化けです。あの子はお化けにさらわれたのです」 彼女は庭での恐ろしい光景をかいつまんで物語り、幽霊が自分の花嫁をつれさったに違いないと結んだ。
二人の召使がその意見を証拠だてた。
彼らは真夜中ごろに馬蹄の音が山をくだってゆくのを耳にしていて、それが黒馬に乗った幽霊であって、彼女を墓場へさらってゆくところだったということを少しも疑わなかったのである。
その場の人たちはみな、これは恐ろしいことだが、ほんとうかもしれない、と思ってぎくりとした。
こうした類のできごとはドイツではきわめて普通のことで、多くのよく確かめられた物語が立証している通りなのだ。
あわれな男爵の境遇は、なんと痛ましいものであったろう。
子煩悩な父親として、また偉大なるカッツェンエレンボーゲン家の一員として、なんと胸の張りさけるような苦しい立場であったろう。
彼の一人娘は墓場へつれさられてしまったのだ。
さもなければ、男爵はどこかの森の悪魔を婿にもち、場合によっては、化け物の孫をたくさん持つことになるかもしれないのだ。
例のごとく彼はすっかり当惑してしまい、城じゅうが大騒ぎになった。
命令によって、ひとびとは馬に乗り、オーデンヴァルトの道路といわず、小みちといわず、谷間といわず、くまなく捜索することになった。
男爵自身も長靴をはき、剣を吊って、馬にまたがり、見つかる当てもない探索にくりだそうとした。
とちょうどそのとき、新たな幽霊があらわれて、男爵ははたと立ちどまった。
一人の婦人が婦人用の馬にまたがり、馬に乗った一人の騎士につきそわれて、城に近づいてくるのが見えた。
彼女は馬を駆って門までくると、馬からとびおり、男爵の足もとにひれふして、彼の膝を抱きしめた。
それは行方知れずになった娘だった。
そしてその連れは――幽霊花婿だった。
男爵は度胆をぬかれた。
彼は自分の娘に目をやり、それからその幽霊を見て、自分が正気なのかどうかを疑わんばかりだった。
それにまた幽霊は、幽冥界を訪れてから、おどろくほど様子が立派になった。
彼の服装はきらびやかで、男らしい均斉のとれた高貴なすがたをひきたてていた。
彼はもはや青ざめてもいず、また、うち沈んでもいなかった。
その凜々しい顔は、若さの光に輝き、歓びがその大きな黒い眼に生き生きとしていた。
その不可思議なこともやがて明らかになった。
その騎士(じつは諸君も先刻来御承知のように、彼は幽霊ではなかったのである)はヘルマン・フォン・シュタルケンファウスト卿と名乗った。
彼は若伯爵と共にした冒険談を物語った。
いやな知らせを伝えるためにこの城へ急いだこと、しかしそれを話そうとするたびに、男爵の雄弁が彼をさえぎってしまったということの次第を話した。
また、花嫁を見てすっかり心をうばわれてしまい、彼女のそばで二、三時間すごすため、黙って間違えられたままにしていたこと。
どうやってうまく帰ろうかと、まったく途方に暮れていたところ、男爵の怪談でやっとあのとっぴな脱出を思いついたこと。
そして一族の封建的な敵意をおそれて、ひそかにいくたびか訪れ、姫の窓下の庭にしばしばかよい、求婚し、説きふせてしまい、意気揚々とつれさり、そして要するに、その美しい婦人と結婚してしまったわけを話した。
何かほかの事情だったら、男爵は一歩もゆずりはしなかったろう。
彼は親の権威を頑固に守り通していたし、家代々の宿怨におそろしく意地張りであったのだ。
だが彼は娘を愛していた。
彼は娘をもうこの世のものではないとあきらめて悲しんでいた。
ところが今なお生きているのを見て狂喜した。
そして娘の夫が敵方の家のものであったにしても、ありがたいことに化け物ではなかったのだ。
その騎士が、自分は死人だといって彼をだました冗談には、彼の生真面目な考えとぴったりゆかないところがあったことは認めないわけにはいかない。
しかしその場にいた数人の旧友たちで戦争に行ったことのあるものが、恋愛にはあらゆる策略が許されるものであるし、この騎士は最近騎兵として軍務に服していたのだから、特別なはからいを受けるべきであると男爵に言った。
そういうわけで、事は円満におさまった。
男爵は若い二人をその場で許した。
城では酒盛りがふたたび始められた。
貧しい親類のものたちは、この新たな家族の一員に真心のこもった親切を浴せかけた。
彼はまことに雄々しく、まことに寛大で、そしてまことに金持ちだった。
叔母たちは、実のところ、厳格に閉じこめ、おとなしく服従させるしつけかたが、こんなにまずい例になってしまったことにいくらか憤慨したが、それをみな窓に格子をはめておかなかった自分たちの不注意のせいにした。
叔母の一人は、自分の奇談が台なしになったのと、自分が見た唯一の幽霊がにせものであるとわかったことを、ことさらくやしがった。
しかし姪はこの幽霊が血と肉とをもつ人間であることを知って、すこぶる幸福そうであった。
かくして物語は終るのである。
原註1 博学な読者は伝説によく通じていれば気がつくだろうが、この物語は老スイス人が、あるフランスの奇談から思いついたもので、パリで起ったといわれている一事件がもとになっているのに相違ないのである。
原註2 「猫の肘」の意。
かつては権勢を誇った家系の称号で、この一族に属する貴婦人の美しい腕をたたえて名づけられたという。