あばばばば

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第 1 章
保吉やすきちはずつと以前いぜんからこの店みせの主人しゅじんを見知けんちつてゐる。
ずつと以前いぜんから、――或はあるいはあの海軍かいぐんの学校がっこうへ赴任ふにんした当日とうじつだつたかも知れしれない。
彼かれはふとこの店みせへマツチまつちを一いちつ買かいひにはひつた。
店みせには小さいちいさい飾り窓かざりまどがあり、窓まどの中なかには大将たいしょう旗はたを掲げかかげた軍艦ぐんかん三笠みかさの模型もけいのまはりにキユラソオの壜びんだのココアここあの罐かまだの干しほし葡萄ぶどうの箱ばこだのが並べならべてある。
が、軒先のきさきに「たばこ」と抜いぬいた赤塗りあかぬりの看板かんばんが出でてゐるから、勿論もちろんマツチまつちも売らうらない筈はずはない。
彼かれは店みせを覗きこみのぞきこみながら、「マツチまつちを一いちつくれ給へたまへ」と云ついつた。
店先みせさきには高いたかい勘定かんじょう台だいの後ろうしろに若いわかい眇びょうの男おとこが一人ひとり、つまらなさうに佇んたたずんでゐる。
それが彼かれの顔かおを見るみると、算盤そろばんを竪たてに構かまえへたまま、にこりともせずに返事へんじをした。
「これをお持ちもちなさい。生憎あいにくマツチまつちを切らしきらしましたから。」 お持ちもちなさいと云ふいふのは煙草たばこに添てんへる一番いちばん小型こがたのマツチまつちである。
「貰もらえふのは気の毒きのどくだ。ぢや朝日あさひを一いちつくれ給へたまへ。」「何なん、かまひません。お持ちもちなさい。」「いや、まあ朝日あさひをくれ給へたまへ。」「お持ちもちなさい。これでよろしけりや、――入らはいらぬ物ものをお買かいひになるには及ばおよばないです。」 眇びょうの男おとこの云ふいふことは親切しんせつづくなのには違ひちがひない。
が、その声こえや顔色かおいろは如何にいかにも無愛想むあいそを極めてきわめてゐる。
素直すなおに貰もらえふのは忌いましいいまいましい。
と云ついつて店みせを飛び出すとびだすのは多少たしょう相手あいてに気の毒きのどくである。
保吉やすきちはやむを得とくず勘定かんじょう台だいの上うえへ一いち銭せんの銅貨どうかを一いち枚ばい出しだした。
「ぢやそのマツチまつちを二につくれ給へたまへ。」「二につでも三さんつでもお持ちもちなさい。ですが代だいは入りいりません。」 其処そこへ幸みゆきひ戸口とぐちに下げさげた金線きんせんサイダアのポスタアぽすたあの蔭かげから、小僧こぞうが一人ひとり首くびを出しだした。
これは表情ひょうじょうの朦朧もうろうとした、面皰にきびだらけの小僧こぞうである。
「檀那だんな、マツチまつちは此処ここにありますぜ。」 保吉やすきちは内心ないしん凱歌がいかを挙げあげながら、大型おおがたのマツチまつちを一いち箱ばこ買かいつた。
代だいは勿論もちろん一いち銭せんである。
しかし彼かれはこの時じほど、マツチまつちの美しうつくしさを感じかんじたことはない。
殊にことに三角さんかくの波なみの上うえに帆前船ほまえせんを浮べうかべた商標しょうひょうは額縁がくぶちへ入れいれても好いよい位くらいである。
彼かれはズボンずぼんのポケツトの底そこへちやんとそのマツチまつちを落しおとした後あと、得々とくとくとこの店みせを後ろうしろにした。
…… 保吉やすきちは爾来じらい半年はんとしばかり、学校がっこうへ通つうふ往復おうふくに度たびたびたびこの店みせへ買かいひ物ひものに寄つよつた。
もう今いまでは目めをつぶつても、はつきりこの店みせを思ひ出すおもひだすことが出来るできる。
天井てんじょうの梁りょうからぶら下したつたのは鎌倉かまくらのハムはむに違ひちがひない。
欄間らんまの色硝子いろがらすは漆喰しっくい塗りぬりの壁かべへ緑色みどりいろの日ひの光ひかりを映しうつしてゐる。
板張りいたばりの床ゆかに散らちらかつたのはコンデンスドこんでんすど・ミルクみるくの広告こうこくであらう。
正面しょうめんの柱はしらには時計とけいの下したに大きいおおきい日暦ひごよみがかかつてゐる。
その外そと飾り窓かざりまどの中なかの軍艦ぐんかん三笠みかさも、金線きんせんサイダアのポスタアぽすたあも、椅子いすも、電話でんわも、自転車じてんしゃも、スコツトランドのウイスキイういすきいも、アメリカあめりかの乾しほし葡萄ぶどうも、マニラまにらの葉巻はまきも、エヂプトの紙巻かみまきも、燻製くんせいの鰊にしんも、牛肉ぎゅうにくの大和煮やまとにも、殆どほとんど見覚えみおぼえのないものはない。
殊にことに高いたかい勘定かんじょう台だいの後ろうしろに仏頂面ぶっちょうめんを曝しさらした主人しゅじんは飽き飽きあきあきするほど見み慣れなれてゐる。
いや、見み慣れなれてゐるばかりではない。
彼かれは如何にいかに咳せきをするか、如何にいかに小僧こぞうに命令めいれいをするか、ココアここあを一いち罐かま買かいふにしても、「Fryよりはこちらになさい。これはオランダおらんだのDrosteです」などと、如何にいかに客きゃくを悩まなやませるか、――主人しゅじんの一挙一動いっきょいちどうさへ悉くことごとくとうに心得こころえてゐる。
心得こころえてゐるのは悪いわるいことではない。
しかし退屈たいくつなことは事実じじつである。
保吉やすきちは時々ときどきこの店みせへ来るくると、妙みょうに教師きょうしをしてゐるのも久しいひさしいものだなと考へかんがへたりした。
(その癖くせ前まえにも云ついつた通りとおり、彼かれの教師きょうしの生活せいかつはまだ一いち年ねんにもならなかつたのである!
) けれども万法まんほうを支配しはいする変化へんかはやはりこの店みせにも起らおこらずにはすまない。
保吉やすきちは或ある初夏しょかの朝あさ、この店みせへ煙草たばこを買かいひにはひつた。
店みせの中なかはふだんの通りとおりである。
水みずを撒つた床ゆかの上うえにコンデンスドこんでんすど・ミルクみるくの広告こうこくの散らちらかつてゐることも変りかわりはない。
が、あの眇びょうの主人しゅじんの代りかわりに勘定かんじょう台だいの後ろうしろに坐ざつてゐるのは西にし洋髪ようはつに結けつつた女おんなである。
年ねんはやつと十九じゅうきゅう位くらいであらう。
Enfaceに見みた顔かおは猫ねこに似にてゐる。
日ひの光ひかりにずつと目めを細めほそめた、一筋ひとすじもまじり毛けのない白猫しろねこに似にてゐる。
保吉やすきちはおやと思ひおもひながら、勘定かんじょう台だいの前まえへ歩みあゆみ寄つよつた。
「朝日あさひを二につくれ給へたまへ。」「はい。」 女おんなの返事へんじは羞かしはずかしさうである。
のみならず出しだしたのも朝日あさひではない。
二につとも箱ばこの裏側うらがわに旭日あさひ旗はたを描いえがいた三笠みかさである。
保吉やすきちは思はおもうはず煙草たばこから女おんなの顔かおへ目めを移しうつした。
同時どうじに又また女おんなの鼻はなの下したに長いながい猫ねこの髭ひげを想像そうぞうした。
「朝日あさひを、――こりや朝日あさひぢやない。」「あら、ほんたうに。――どうもすみません。」 猫ねこ――いや、女おんなは赤いあかい顔かおをした。
この瞬間しゅんかんの感情かんじょうの変化へんかは正真正銘しょうしんしょうめいに娘むすめじみてゐる。
それも当世とうせいのお嬢さんおじょうさんではない。
五六ごろく年ねん来き迹を絶つたつた硯友けんゆう社しゃ趣味しゅみの娘むすめである。
保吉やすきちはばら銭ばらせんを探りさぐりながら、「たけくらべ」、乙おつ鳥口とりぐちの風呂敷ふろしき包みつつみ、燕子花かきつばた、両国りょうこく、鏑木かぶらき清方きよかた、――その外そといろいろのものを思ひ出しおもひだした。
女おんなは勿論もちろんこの間まも勘定かんじょう台だいの下したを覗きこんのぞきこんだなり、一生懸命いっしょうけんめいに朝日あさひを捜しさがしてゐる。
すると奥おくから出でて来きたのは例れいの眇びょうの主人しゅじんである。
主人しゅじんは三笠みかさを一目いちもく見るみると、大抵たいてい容子ようこを察しさっしたらしい。
けふも不ふ相そう変へん苦りにがり切つきつたまま、勘定かんじょう台だいの下したへ手てを入れるいれるが早いはやいか、朝日あさひを二につ保吉やすきちへ渡しわたした。
しかしその目めにはかすかにもしろ、頬笑みほおえみらしいものが動いうごいてゐる。
「マツチまつちは?」 女おんなの目めも亦また猫ねことすれば、喉のどを鳴らしならしさうに媚こびを帯びおびてゐる。
主人しゅじんは返事へんじをする代りかわりにちよいと唯ただ点頭てんとうした。
女おんなは咄嗟とっさに(!
)勘定かんじょう台だいの上うえへ小型こがたのマツチまつちを一いちつ出しだした。
それから――もう一度いちど羞しはずかしさうに笑わらいつた。
「どうもすみません。」 すまないのは何なんも朝日あさひを出さださずに三笠みかさを出しだしたばかりではない。
保吉やすきちは二人ふたりを見比べみくらべながら、彼かれ自身じしんもいつか微笑びしょうしたのを感じかんじた。
女おんなはその後そのあといつ来きて見みても、勘定かんじょう台だいの後ろうしろに坐ざつてゐる。
尤ももっとも今いまでは最初さいしょのやうに西にし洋髪ようはつなどには結けつつてゐない。
ちやんと赤いあかい手絡てがらをかけた、大きいおおきい円髷まるまげに変へんつてゐる。
しかし客きゃくに対するたいする態度たいどは不ふ相そう変へん妙みょうにうひうひしい。
応対おうたいはつかへる。
品物しなものは間違へるまちがえる。
おまけに時々ときどきは赤いあかい顔かおをする。
――全然ぜんぜんお上おかみさんらしい面影おもかげは見えみえない。
保吉やすきちはだんだんこの女おんなに或ある好意こういを感じかんじ出しだした。
と云ついつても恋愛れんあいに落ちおちた訣わけではない。
唯ただ如何にいかにも人慣れひとなれない所ところに気軽いきがりい懐しみなつかしみを感じかんじ出しだしたのである。
或ある残暑ざんしょの厳しいきびしい午後ごご、保吉やすきちは学校がっこうの帰りがけかえりがけにこの店みせへココアここあを買かいひにはひつた。
女おんなはけふも勘定かんじょう台だいの後ろうしろに講談こうだん倶楽部くらぶか何なんかを読んよんでゐる。
保吉やすきちは面皰にきびの多いおおい小僧こぞうにVanHoutenはないかと尋ねたずねた。
「唯今ただいまあるのはこればかりですが。」 小僧こぞうの渡しわたしたのはFryである。
保吉やすきちは店みせを見渡しみわたした。
すると果物くだものの罐詰めかんづめの間まに西洋せいようの尼にさんの商標しょうひょうをつけたDrosteも一いち罐かままじつてゐる。
「あすこにDrosteもあるぢやないか?」 小僧こぞうはちよいとそちらを見みたきり、やはり漠然ばくぜんとした顔かおをしてゐる。
「ええ、あれもココアここあです。」「ぢやこればかりぢやないぢやないか?」「ええ、でもまあこれだけなんです。――お上おかみさん、ココアここあはこれだけですね?」 保吉やすきちは女おんなをふり返つかえつた。
心もちこころもち目めを細めほそめた女おんなは美しいうつくしい緑色みどりいろの顔かおをしてゐる。
尤ももっともこれは不思議ふしぎではない。
全然ぜんぜん欄間らんまの色硝子いろがらすを透かしすかした午後ごごの日ひの光ひかりの作用さようである。
女おんなは雑誌ざっしを肘ひじの下したにしたまま、例れいの通りとおりためらひ勝ちかちな返事へんじをした。
「はあ、それだけだつたと思ふおもふけれども。」「実じつは、このFryのココアここあの中なかには時々ときどき虫むしが湧いわいてゐるんだが、――」 保吉やすきちは真面目まじめに話しかけはなしかけた。
しかし実際じっさい虫むしの湧いわいたココアここあに出合であいつた覚えおぼえのある訣わけではない。
唯ただ何なんでもかう云ひいひさへすれば、VanHoutenの有無うむは確かめたしかめさせる上うえに効能こうのうのあることを信じしんじたからである。
「それもずゐぶんずいぶん大きいおおきいやつがあるもんだからね。丁度ちょうどこの小指こゆび位くらいある、……」 女おんなは聊かいささか驚いおどろいたやうに勘定かんじょう台だいの上うえへ半身はんしんをのばした。
「そつちにもまだありやしないかい? ああ、その後ろうしろの戸棚とだなの中なかにも。」「赤いあかいのばかりです。此処ここにあるのも。」「ぢやこつちには?」 女おんなは吾妻あずま下駄げたを突かつかけると、心配しんぱいさうに店みせへ捜しさがしに来きた。
ぼんやりした小僧こぞうもやむを得とくず罐詰めかんづめの間まなどを覗いのぞいて見みてゐる。
保吉やすきちは煙草たばこへ火ひをつけた後あと、彼かれ等とうへ拍車はくしゃを加へるくわえるやうに考へかんがへ考へかんがへしやべりつづけた。
「虫むしの湧いわいたやつを飲まのませると、子供こどもなどは腹はらを痛めるいためるしね。(彼かれは或ある避暑地ひしょちの貸しかし間まにたつた一人ひとり暮らしくらしてゐる。)いや、子供こどもばかりぢやない。家内かないも一度いちどひどい目めに遇つたことがある。(勿論もちろん妻つまなどを持つもつたことはない。)何しろなにしろ用心ようじんに越しこしたことはないんだから。……」 保吉やすきちはふと口くちをとざした。
女おんなは前掛けまえかけに手てを拭きふきながら、当惑とうわくさうに彼かれを眺めながめてゐる。
「どうも見えみえないやうでございますが。」 女おんなの目めはおどおどしてゐる。
口もとくちもとも無理むりに微笑びしょうしてゐる。
殊にことに滑稽こっけいに見えみえたのは鼻はなも亦またつぶつぶ汗あせをかいてゐる。
保吉やすきちは女おんなと目めを合せあわせた刹那せつなに突然とつぜん悪魔あくまの乗り移るのりうつるのを感じかんじた。
この女おんなは云はいはば含羞草おじぎそうである。
一定いっていの刺戟しげきを与へあたへさへすれば、必ずかならず彼かれの思ふおもふ通りとおりの反応はんのうを呈するていするのに違ひちがひない。
しかし刺戟しげきは簡単かんたんである。
ぢつと顔かおを見つめみつめても好いよい。
或はあるいは又また指先ゆびさきにさはつても好いよい。
女おんなはきつとその刺戟しげきに保吉やすきちの暗示あんじを受けとるうけとるであらう。
受けうけとつた暗示あんじをどうするかは勿論もちろん未知みちの問題もんだいである。
しかし幸みゆきひに反撥はんぱつしなければ、――いや、猫ねこは飼かいつても好いよい。
が、猫ねこに似にた女おんなの為ために魂たましいを悪魔あくまに売り渡すうりわたすのはどうも少しすこし考へかんがへものである。
保吉やすきちは吸きゅうひかけた煙草たばこと一しよいっしよに、乗りのり移つた悪魔あくまを抛り出しほうりだした。
不意ふいを食つくつた悪魔あくまはとんぼ返るかえる拍子ひょうしに小僧こぞうの鼻はなの穴あなへ飛びこんとびこんだのであらう。
小僧こぞうは首くびを縮めるちぢめるが早いはやいか、つづけさまに大きいおおきい嚏くしゃみをした。
「ぢや仕しかたがない。Drosteを一いちつくれ給へたまへ。」 保吉やすきちは苦笑くしょうを浮かべうかべたまま、ポケツトのばら銭ばらせんを探り出しさぐりだした。
その後そのあとも彼かれはこの女おんなと度たびたびたび同じおなじやうな交渉こうしょうを重ねかさねた。
が、悪魔あくまに乗り移らのりうつられた記憶きおくは仕合せしあわせと外そとには持つもつてゐない。
いや、一度いちどなどはふとしたはずみに天使てんしの来きたのを感じかんじたことさへある。
或ある秋あきも深しんまつた午後ごご、保吉やすきちは煙草たばこを買かいつた次手ついでにこの店みせの電話でんわを借用しゃくようした。
主人しゅじんは日ひの当とうつた店みせの前まえに空気ポンプくうきぽんぷを動かしうごかしながら、自転車じてんしゃの修繕しゅうぜんに取りとりかかつてゐる。
小僧こぞうもけふは使しひに出でたらしい。
女おんなは不ふ相そう変へん勘定かんじょう台だいの前まえに受取りうけとりか何なんか整理せいりしてゐる。
かう云ふいふ店みせの光景こうけいはいつ見みても悪いわるいものではない。
何処どこか阿蘭陀おらんだの風俗画ふうぞくがじみた、もの静かものしずかな幸福こうふくに溢れあふれてゐる。
保吉やすきちは女おんなのすぐ後ろうしろに受話器じゅわきを耳みみへ当てあてたまま、彼かれの愛蔵あいぞうする写真しゃしん版ばんのDeHoogheの一いち枚ばいを思ひ出しおもひだした。
しかし電話でんわはいつになつても、容易よういに先方せんぽうへ通じつうじないらしい。
のみならず交換手こうかんしゅもどうしたのか、一二いちに度ど「何なん番ばんへ?」を繰り返しくりかえした後あとは全然ぜんぜん沈黙ちんもくを守まもるつてゐる。
保吉やすきちは何度なんどもベルべるを鳴らしならした。
が、受話器じゅわきは彼かれの耳みみへぶつぶつ云ふいふ音おとを伝へるつたへるだけである。
かうなればもうDeHoogheなどを思ひ出しおもひだしてゐる場合ばあいではない。
保吉やすきちはまづポケツトからSpargoの「社会主義しゃかいしゅぎ早わかりはやわかり」を出しだした。
幸みゆきひ電話でんわには見台けんだいのやうに蓋ふたのなぞへになつた箱ばこもついてゐる。
彼かれはその箱ばこに本ほんを載せるのせると、目めは活字かつじを拾じゅうひながら、手ては出来るだけできるだけゆつくりと強情ごうじょにベルべるを鳴らしならし出しだした。
これは横着おうちゃくな交換手こうかんしゅに対するたいする彼かれの戦法せんぽうの一いちつである。
いつか銀座ぎんざ尾張町おわりちょうの自働じどう電話でんわへはひつた時じにはやはりベルべるを鳴らしならし鳴らしならし、とうとう「佐橋さはし甚五郎じんごろう」を完全かんぜんに一いち篇へん読んよんでしまつた。
けふも交換手こうかんしゅの出でない中なかは断じだんじてベルべるの手てをやめないつもりである。
さんざん交換手こうかんしゅと喧嘩けんかした挙句あげく、やつと電話でんわをかけ終おわりつたのは二十にじゅう分ぶんばかりの後あとである。
保吉やすきちは礼れいを云ふいふ為ために後ろうしろの勘定かんじょう台だいをふり返つかえつた。
すると其処そこには誰だれもゐない。
女おんなはいつか店みせの戸口とぐちに何なんか主人しゅじんと話しはなしてゐる。
主人しゅじんはまだ秋あきの日向ひなたに自転車じてんしゃの修繕しゅうぜんをつづけてゐるらしい。
保吉やすきちはそちらへ歩きあるき出さういださうとした。
が、思はおもうはず足あしを止めとめた。
女おんなは彼かれに背せを向けむけたまま、こんなことを主人しゅじんに尋ねたずねてゐる。
「さつきね、あなた、ゼンマイぜんまい珈琲こーひーとかつてお客おきゃくがあつたんですがね、ゼンマイぜんまい珈琲こーひーつてあるんですか?」「ゼンマイぜんまい珈琲こーひー?」 主人しゅじんの声こえは細君さいくんにも客きゃくに対するたいするやうな無愛想むあいそである。
「玄米げんまい珈琲こーひーの聞ききき違いへだらう。」「ゲンマイげんまい珈琲こーひー? ああ、玄米げんまいから拵こしらえへた珈琲こーひー。――何なんだか可笑しいおかしいと思つおもつてゐた。ゼンマイぜんまいつて八百屋やおやにあるものでせう?」 保吉やすきちは二人ふたりの後ろ姿うしろすがたを眺めながめた。
同時どうじに又また天使てんしの来きてゐるのを感じかんじた。
天使てんしはハムはむのぶら下したつた天井てんじょうのあたりを飛揚ひようしたまま、何になんにも知らしらぬ二人ふたりの上うえへ祝福しゅくふくを授けさずけてゐるのに違ひちがひない。
尤ももっとも燻製くんせいの鯡にしんの匂においに顔かおだけはちよいとしかめてゐる。
――保吉やすきちは突然とつぜん燻製くんせいの鯡にしんを買かいひ忘れわすれたことを思ひ出しおもひだした。
鯡にしんは彼かれの鼻はなの先さきに浅ましいあさましい形骸けいがいを重ねかさねてゐる。
「おい、君きみ、この鯡にしんをくれ給へたまへ。」 女おんなは忽ちたちまち振りふり返つかえつた。
振りふり返つかえつたのは丁度ちょうどゼンマイぜんまいの八百屋やおやにあることを察しさっした時じである。
女おんなは勿論もちろんその話はなしを聞かきかれたと思つおもつたのに違ひちがひない。
猫ねこに似にた顔かおは目めを挙げあげたと思ふおもふと見る見るみるみる羞かしはずかしさうに染まりそまり出しだした。
保吉やすきちは前まえにも云ふいふ通りとおり、女おんなが顔かおを赤めるあかめるのには今までいままでにも度たびたびたび出合であいつてゐる。
けれどもまだこの時じほど、まつ赤まっかになつたのを見みたことはない。
「は、鯡にしんを?」 女おんなは小声こごえに問ひ返しといかえした。
「ええ、鯡にしんを。」 保吉やすきちも前後ぜんごにこの時じだけは甚だはなはだ殊勝しゅしょうに返事へんじをした。
かう云ふいふ出来事できごとのあつた後あと、二に月つきばかりたつた頃ころであらう、確かたしか翌年よくねんの正月しょうがつのことである。
女おんなは何処どこへどうしたのか、ぱつたり姿すがたを隠しかくしてしまつた。
それも三さん日ひや五ご日ひではない。
いつ買かいひ物ひものにはひつて見みても、古いふるいストオヴすとおゔを据すえゑた店みせには例れいの眇びょうの主人しゅじんが一人ひとり、退屈たいくつさうに坐ざつてゐるばかりである。
保吉やすきちはちよいともの足らあしらなさを感じかんじた。
又また女おんなの見えみえない理由りゆうにいろいろ想像そうぞうを加へくわえなどもした。
が、わざわざ無愛想むあいそな主人しゅじんに「お上おかみさんは?」と尋ねるたずねる心もちこころもちにもならない。
又また実際じっさい主人しゅじんは勿論もちろんあのはにかみ屋はにかみやの女おんなにも、「何々なになにをくれ給へたまへ」と云ふいふ外そとには挨拶あいさつさへ交しかわしたことはなかつたのである。
その内うちに冬ざれふゆざれた路みちの上うえにも、たまに一日いちにちか二に日ひづつ暖いあたたかい日かげひかげがさすやうになつた。
けれども女おんなは顔かおを見せみせない。
店みせはやはり主人しゅじんのまはりに荒涼こうりょうとした空気くうきを漂はせてゐる。
保吉やすきちはいつか少しすこしづつ女おんなのゐないことを忘れわすれ出しだした。
…… すると二に月つきの末すえの或ある夜よる、学校がっこうの英吉利いぎりす語ご講演会こうえんかいをやつと切り上げきりあげた保吉やすきちは生なま暖いあたたかい南風はえに吹かふかれながら、格別かくべつ買かいひ物ひものをする気きもなしにふとこの店みせの前まえを通りとおりかかつた。
店みせには電燈でんとうのともつた中なかに西洋せいよう酒さけの罎や罐詰めかんづめなどがきらびやかに並んならんでゐる。
これは勿論もちろん不思議ふしぎではない。
しかしふと気きがついて見るみると、店みせの前まえには女おんなが一人ひとり、両手りょうてに赤子あかごを抱へかかへたまま、多愛たあいもないことをしやべつてゐる。
保吉やすきちは店みせから往来おうらいへさした、幅はばの広いひろい電燈でんとうの光りひかりに忽ちたちまちその若いわかい母ははの誰だれであるかを発見はっけんした。
「あばばばばばば、ばあ!」 女おんなは店みせの前まえを歩きあるき歩きあるき、面白おもしろさうに赤子あかごをあやしてゐる。
それが赤子あかごを揺り上げるゆりあげる拍子ひょうしに偶然ぐうぜん保吉やすきちと目めを合あわせはした。
保吉やすきちは咄嗟とっさに女おんなの目めの逡巡しゅんじゅんする容子ようこを想像そうぞうした。
それから夜目よめにも女おんなの顔かおの赤くあかくなる容子ようこを想像そうぞうした。
しかし女おんなは澄ましすましてゐる。
目めも静かしずかに頬笑んほおえんでゐれば、顔かおも嬌羞きょうしゅうなどは浮べうかべてゐない。
のみならず意外いがいな一瞬いっしゅん間まの後あと、揺り上げゆりあげた赤子あかごへ目めを落すおとすと、人前ひとまえも羞ぢはぢずに繰り返しくりかえした。
「あばばばばばば、ばあ!」 保吉やすきちは女おんなを後ろうしろにしながら、我われ知らしらずにやにや笑ひわらひ出しだした。
女おんなはもう「あの女おんな」ではない。
度胸どきょうの好いよい母ははの一人ひとりである。
一いちたび子この為ためになつたが最後さいご、古来こらい如何なるいかなる悪事あくじをも犯しおかした、恐ろしいおそろしい「母はは」の一人ひとりである。
この変化へんかは勿論もちろん女おんなの為ためにはあらゆる祝福しゅくふくを与へあたへても好いよい。
しかし娘むすめじみた細君さいくんの代りかわりに図々しいずうずうしい母ははを見出しみだしたのは、……保吉やすきちは歩みあゆみつづけたまま、茫然ぼうぜんと家々いえいえの空そらを見上げみあげた。
空そらには南風はえの渡るわたる中なかに円いまりい春はるの月つきが一いちつ、白じろしろじろとかすかにかかつてゐる。
……(大正たいしょう十二じゅうに年ねん十一じゅういち月つき)
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