浅草公園

1/1

全文

第 1 章
1
浅草あさくさの仁王門におうもんの中なかに吊っつった、火ひのともらない大おお提灯ちょうちん。
提灯ちょうちんは次第しだいに上うえへあがり、雑沓ざっとうした仲店なかみせを見渡すみわたすようになる。
ただし大おお提灯ちょうちんの下部かぶだけは消え失せきえうせない。
門もんの前まえに飛びかうとびかう無数むすうの鳩はと。
2
雷門かみなりもんから縦たてに見みた仲店なかみせ。
正面しょうめんにはるかに仁王門におうもんが見えるみえる。
樹木じゅもくは皆みな枯れ木かれきばかり。
3
仲店なかみせの片側かたがわ。
外套がいとうを着きた男おとこが一人ひとり、十じゅう二に三さん歳としの少年しょうねんと一しょいっしょにぶらぶら仲店なかみせを歩いあるいている。
少年しょうねんは父親ちちおやの手てを離れはなれ、時々ときどき玩具屋おもちゃやの前まえに立ち止まったちどまったりする。
父親ちちおやは勿論もちろんこう云ういう少年しょうねんを時々ときどき叱っしかったりしないことはない。
が、稀まれには彼かれ自身じしんも少年しょうねんのいることを忘れわすれたように帽子ぼうし屋やの飾り窓かざりまどなどを眺めながめている。
4
こう云ういう親子おやこの上うえ半身はんしん。
父親ちちおやはいかにも田舎者いなかものらしい、無精髭むせいひげを伸ばしのばした男おとこ。
少年しょうねんは可愛いかわいいと云ういうよりもむしろ可憐かれんな顔かおをしている。
彼かれ等とうの後ろうしろには雑沓ざっとうした仲店なかみせ。
彼かれ等とうはこちらへ歩いあるいて来るくる。
5
斜めななめに見みたある玩具屋おもちゃやの店みせ。
少年しょうねんはこの店みせの前まえに佇んたたずんだまま、綱つなを上っのぼったり下りくだりたりする玩具がんぐの猿さるを眺めながめている。
玩具屋おもちゃやの店みせの中なかには誰だれも見えみえない。
少年しょうねんの姿すがたは膝ひざの上うえまで。
6
綱つなを上っのぼったり下りくだりたりしている猿さる。
猿さるは燕尾服えんびふくの尾おを垂れたれた上うえ、シルクしるく・ハットはっとを仰向けあおむけにかぶっている。
この綱つなや猿さるの後ろうしろは深いぶかい暗あんのあるばかり。
7
この玩具屋おもちゃやのある仲店なかみせの片側かたがわ。
猿さるを見みていた少年しょうねんは急きゅうに父親ちちおやのいないことに気きがつき、きょろきょろあたりを見まわしみまわしはじめる。
それから向うむこうに何なんか見つけみつけ、その方ほうへ一散いっさんに走っはしって行くいく。
8
父親ちちおやらしい男おとこの後ろ姿うしろすがた。
ただしこれも膝ひざの上うえまで。
少年しょうねんはこの男おとこに追いすがりおいすがり、しっかりと外套がいとうの袖そでを捉えるとらえる。
驚いおどろいてふり返っふりかえった男おとこの顔かおは生憎あいにく田舎者いなかものらしい父親ちちおやではない。
綺麗きれいに口髭くちひげの手入れていれをした、都会人とかいにんらしい紳士しんしである。
少年しょうねんの顔かおに往来おうらいする失望しつぼうや当惑とうわくに満ちみちた表情ひょうじょう。
紳士しんしは少年しょうねんを残しのこしたまま、さっさと向うむこうへ行っいってしまう。
少年しょうねんは遠いとおい雷門かみなりもんを後ろうしろにぼんやり一人ひとり佇んたたずんでいる。
9
もう一度いちど父親ちちおやらしい後ろ姿うしろすがた。
ただし今度こんどは上半身じょうはんしん。
少年しょうねんはこの男おとこに追いついおいついて恐る恐るおそるおそるその顔かおを見上げるみあげる。
彼かれ等とうの向うむこうには仁王門におうもん。
10
この男おとこの前まえを向いむかいた顔かお。
彼かれは、マスクますくに口くちを蔽っおおった、人間にんげんよりも、動物どうぶつに近いちかい顔かおをしている。
何なんか悪意あくいの感ぜかんぜられる微笑びしょう。
11
仲店なかみせの片側かたがわ。
少年しょうねんはこの男おとこを見送っみおくったまま、途方とほうに暮れくれたように佇んたたずんでいる。
父親ちちおやの姿すがたはどちらを眺めながめても、生憎あいにく目めにははいらないらしい。
少年しょうねんはちょっと考えかんがえた後あと、当とうどもなしに歩きあるきはじめる。
いずれも洋装ようそうをした少女しょうじょが二人ふたり、彼かれをふり返っふりかえったのも知らしらないように。
12
目め金屋かなやの店みせの飾り窓かざりまど。
近眼きんがん鏡かがみ、遠眼鏡えんがんきょう、双眼鏡そうがんきょう、廓大かくだい鏡かがみ、顕微鏡けんびきょう、塵除けちりよけ目め金きんなどの並んならんだ中なかに西洋せいよう人ひとの人形にんぎょうの首くびが一いちつ、目め金きんをかけて頬笑んほおえんでいる。
その窓まどの前まえに佇んたたずんだ少年しょうねんの後姿うしろすがた。
ただし斜めななめに後ろうしろから見みた上半身じょうはんしん。
人形にんぎょうの首くびはおのずから人間にんげんの首くびに変っかわってしまう。
のみならずこう少年しょうねんに話しかけるはなしかける。
――
13
「目め金きんを買っかっておかけなさい。お父さんおちちさんを見み付るつけるには目め金きんをかけるのに限りかぎりますからね。」「僕ぼくの目めは病気びょうきではないよ。」
14
斜めななめに見みた造花ぞうか屋やの飾り窓かざりまど。
造花ぞうかは皆みな竹籠たけかごだの、瀬戸物せとものの鉢ばちだのの中なかに開いひらいている。
中なかでも一番いちばん大きいおおきいのは左ひだりにある鬼百合おにゆりの花はな。
飾り窓かざりまどの板硝子いたがらすは少年しょうねんの上うえ半身はんしんを映しうつしはじめる。
何なんか幽霊ゆうれいのようにぼんやりと。
15
飾り窓かざりまどの板硝子いたがらす越しこしに造花ぞうかを隔てへだてた少年しょうねんの上うえ半身はんしん。
少年しょうねんは板硝子いたがらすに手てを当てあてている。
そのうちに息いきの当るあたるせいか、顔かおだけぼんやりと曇っくもってしまう。
16
飾り窓かざりまどの中なかの鬼百合おにゆりの花はな。
ただし後ろうしろは暗あんである。
鬼百合おにゆりの花はなの下したに垂れたれている莟つぼみもいつか次第しだいに開きひらきはじめる。
17
「わたしの美しうつくしさを御覧ごらんなさい。」「だってお前おまえは造花ぞうかじゃないか?」
18
角かくから見みた煙草屋たばこやの飾り窓かざりまど。
巻煙草まきたばこの缶かん、葉巻はまきの箱ばこ、パイプぱいぷなどの並んならんだ中なかに斜めななめに札さつが一いち枚ばい懸っかかっている。
この札さつに書いかいてあるのは、――「煙草たばこの煙けむりは天国てんごくの門もんです。」徐ろにおもむろにパイプぱいぷから立ち昇るたちのぼる煙けむり。
19
煙けむりの満ちみち充ちみちた飾り窓かざりまどの正面しょうめん。
少年しょうねんはこの右みぎに佇んたたずんでいる。
ただしこれも膝ひざの上うえまで。
煙けむりの中なかにはぼんやりと城しろが三さんつ浮かびうかびはじめる。
城しろはThreeCastlesの商標しょうひょうを立体りったいにしたものに近いちかい。
20
それ等とうの城しろの一いちつ。
この城しろの門もんには兵卒へいそつが一人ひとり銃じゅうを持っもって佇んたたずんでいる。
そのまた鉄格子てつこうしの門もんの向うむこうには棕櫚しゅろが何本なんぽんもそよいでいる。
21
この城しろの門もんの上うえ。
そこには横よこにいつの間まにかこう云ういう文句もんくが浮かびうかび始めるはじめる。
――「この門もんに入るはいるものは英雄えいゆうとなるべし。」
22
こちらへ歩いあるいて来るくる少年しょうねんの姿すがた。
前まえの煙草屋たばこやの飾り窓かざりまどは斜めななめに少年しょうねんの後ろうしろに立ったっている。
少年しょうねんはちょっとふり返っふりかえって見みた後あと、さっさとまた歩いあるいて行っいってしまう。
23
吊りつり鐘かねだけ見えるみえる鐘楼しゅろうの内部ないぶ。
撞木しゅもくは誰だれかの手てに綱つなを引かひかれ、徐ろにおもむろに鐘かねを鳴らしならしはじめる。
一度いちど、二に度ど、三さん度ど、――鐘楼しゅろうの外そとは松まつの木きばかり。
24
斜めななめに見みた射撃しゃげき屋やの店みせ。
的まとは後ろうしろに巻煙草まきたばこの箱ばこを積みつみ、前まえに博多はかた人形にんぎょうを並べならべている。
手前てまえに並んならんだ空気銃くうきじゅうの一列いちれつ。
人形にんぎょうの一いちつはドレッスどれっすをつけ、扇おうぎを持っもった西洋せいよう人ひとの女おんなである。
少年しょうねんは怯きょうず怯きょうずこの店みせにはいり、空気銃くうきじゅうを一いちつとり上げとりあげて全然ぜんぜん無分別むぶんべつに的まとを狙うねらう。
射撃しゃげき屋やの店みせには誰だれもいない。
少年しょうねんの姿すがたは膝ひざの上うえまで。
25
西洋せいよう人ひとの女おんなの人形にんぎょう。
人形にんぎょうは静かしずかに扇おうぎをひろげ、すっかり顔かおを隠しかくしてしまう。
それからこの人形にんぎょうに中るあたるコルクこるくの弾丸だんがん。
人形にんぎょうは勿論もちろん仰向けあおむけに倒れるたおれる。
人形にんぎょうの後ろうしろにも暗あんのあるばかり。
26
前まえの射撃しゃげき屋やの店みせ。
少年しょうねんはまた空気銃くうきじゅうをとり上げとりあげ、今度こんどは熱心ねっしんに的まとを狙うねらう。
三さん発はつ、四よん発はつ、五ご発はつ、――しかし的まとは一いちつも落ちおちない。
少年しょうねんは渋しぶぶ渋しぶぶ銀貨ぎんかを出しだし、店みせの外そとへ行っいってしまう。
27
始めはじめはただ薄暗いうすぐらい中なかに四角いしかきいものの見えるみえるばかり。
その中なかにこの四角いしかきいものは突然とつぜん電燈でんとうをともしたと見えみえ、横よこにこう云ういう字じを浮かび上らうかびあがらせる。
――上うえに「公園こうえん六ろく区く」下したに「夜警やけい詰所つめしょ」。
上うえのは黒いくろい中なかに白しろ、下したのは黒いくろい中なかに赤あかである。
28
劇場げきじょうの裏うらの上部じょうぶ。
火ひのともった窓まどが一いちつ見えるみえる。
まっ直じかに雨樋あまどいをおろした壁かべにはいろいろのポスタアぽすたあの剥がれはがれた痕あと。
29
この劇場げきじょうの裏うらの下部かぶ。
少年しょうねんはそこに佇んたたずんだまま、しばらくはどちらへも行こういこうとしない。
それから高いたかい窓まどを見上げるみあげる。
が、窓まどには誰だれも見えみえない。
ただ逞しいたくましいブルテリアぶるてりあが一いち匹ひき、少年しょうねんの足もとあしもとを通っとおって行くいく。
少年しょうねんの匂においを嗅いかいで見みながら。
30
同じおなじ劇場げきじょうの裏うらの上部じょうぶ。
火ひのともった窓まどには踊り子おどりこが一人ひとり現れあらわれ、冷淡れいたんに目めの下したの往来おうらいを眺めるながめる。
この姿すがたは勿論もちろん逆光線ぎゃっこうせんのために顔かおなどははっきりとわからない。
が、いつか少年しょうねんに似にた、可憐かれんな顔かおを現しあらわしてしまう。
踊り子おどりこは静かしずかに窓まどをあけ、小さいちいさい花束はなたばを下したに投げるなげる。
31
往来おうらいに立ったった少年しょうねんの足もとあしもと。
小さいちいさい花束はなたばが一いちつ落ちおちて来るくる。
少年しょうねんの手てはこれを拾うひろう。
花束はなたばは往来おうらいを離れるはなれるが早いはやいか、いつか茨うばらの束たばに変っかわっている。
32
黒いくろい一いち枚ばいの掲示板けいじばん。
掲示板けいじばんは「北きたの風かぜ、晴はれ」と云ういう字じをチョオクちょおくに現しあらわしている。
が、それはぼんやりとなり、「南みなみの風かぜ強かるつよかるべし。雨模様あめもよう」と云ういう字じに変っかわってしまう。
33
斜しゃに見みた標札ひょうさつ屋やの露店ろてん、天幕てんまくの下したに並んならんだ見本みほんは徳川家康とくがわいえやす、二宮にのみや尊徳そんとく、渡辺わたなべ崋山かざん、近藤こんどう勇いさむ、近松ちかまつ門左衛門もんざえもんなどの名なを並べならべている。
こう云ういう名前なまえもいつの間まにか有りあり来りきたりの名前なまえに変っかわってしまう。
のみならずそれ等とうの標札ひょうさつの向うむこうにかすかに浮んうかんで来るくる南瓜かぼちゃ畠はたけ……
34
池いけの向うむこうに並んならんだ何なん軒のきかの映画館えいがかん。
池いけには勿論もちろん電燈でんとうの影かげが幾ついくつともなしに映っうつっている。
池いけの左ひだりに立ったった少年しょうねんの上うえ半身はんしん。
少年しょうねんの帽ぼうは咄嗟とっさの間まに風かぜのために池いけへ飛んとんでしまう。
少年しょうねんはいろいろあせった後あと、こちらを向いむかいて歩きあるきはじめる。
ほとんど絶望ぜつぼうに近いちかい表情ひょうじょう。
35
カッフェかっふぇの飾り窓かざりまど。
砂糖さとうの塔とう、生なま菓子かし、麦藁むぎわらのパイプぱいぷを入れいれた曹達水そーだすいのコップこっぷなどの向うむこうに人かげひとかげが幾ついくつも動いうごいている。
少年しょうねんはこの飾り窓かざりまどの前まえへ通りかかりとおりかかり、飾り窓かざりまどの左ひだりに足あしを止めとめてしまう。
少年しょうねんの姿すがたは膝ひざの上うえまで。
36
このカッフェかっふぇの外部がいぶ。
夫婦ふうふらしい中年ちゅうねんの男女だんじょが二人ふたり硝子戸がらすとの中なかへはいって行くいく。
女おんなはマントルまんとるを着きた子供こどもを抱いいだいている。
そのうちにカッフェかっふぇはおのずからまわり、コックこっく部屋へやの裏うらを現わしあらわしてしまう。
コックこっく部屋へやの裏うらには煙突えんとつが一いち本ほん。
そこにはまた労働者ろうどうしゃが二人ふたりせっせとシャベルしゃべるを動かしうごかしている。
カンテラかんてらを一いちつともしたまま。
……
37
テエブルの前まえの子供こども椅子いすの上うえに上半身じょうはんしんを見せみせた前まえの子供こども。
子供こどもはにこにこ笑いわらいながら、首くびを振っふったり手てを挙げあげたりしている。
子供こどもの後ろうしろには何なんも見えみえない。
そこへいつか薔薇ばらの花はなが一いちつずつ静かしずかに落ちおちはじめる。
38
斜めななめに見えるみえる自動じどう計算器けいさんき。
計算器けいさんきの前まえには手てが二につしきりなしに動いうごいている。
勿論もちろん女おんなの手てに違いちがいない。
それから絶えたえず開かひらかれる抽斗ひきだし。
抽斗ひきだしの中なかは銭せんばかりである。
39
前まえのカッフェかっふぇの飾り窓かざりまど。
少年しょうねんの姿すがたも変りかわりはない。
しばらくの後あと、少年しょうねんは徐ろにおもむろに振り返りふりかえり、足早あしばやにこちらへ歩いあるいて来るくる。
が、顔かおばかりになった時じ、ちょっと立ちどまったちどまって何なんかを見るみる。
多少たしょう驚きおどろきに近いちかい表情ひょうじょう。
40
人だかりひとだかりのまん中まんなかに立ったった糶りせり商人しょうにん。
彼かれは呉服ごふくものをひろげた中なかに立ちたち、一いち本ほんの帯おびをふりながら、熱心ねっしんに人だかりひとだかりに呼びかけよびかけている。
41
彼かれの手てに持っもった一いち本ほんの帯おび。
帯おびは前後ぜんご左右さゆうに振らふられながら、片はしかたはしを二三にさん尺さし現しあらわしている。
帯おびの模様もようは廓大かくだいした雪片せっぺん。
雪片せっぺんは次第しだいにまわりながら、くるくる帯おびの外そとへも落ちおちはじめる。
42
メリヤスめりやす屋やの露店ろてん。
シャツしゃつやズボンずぼん下したを吊っつった下したに婆ばあさんが一人ひとり行火あんかに当っあたっている。
婆ばあさんの前まえにもメリヤスめりやす類るい。
毛糸けいとの編みものあみものも交っかっていないことはない。
行火あんかの裾すそには黒猫くろねこが一いち匹ひき時々ときどき前足まえあしを嘗めなめている。
43
行火あんかの裾すそに坐っすわっている黒猫くろねこ。
左ひだりに少年しょうねんの下した半身はんしんも見えるみえる。
黒猫くろねこも始めはじめは変りかわりはない。
しかしいつか頭あたまの上うえに流りゅう蘇その長いながいトルコ帽とるこぼうをかぶっている。
44
「坊ぼうちゃん、スウェエタアを一いちつお買いかいなさい。」「僕ぼくは帽子ぼうしさえ買えかえないんだよ。」
45
メリヤスめりやす屋やの露店ろてんを後ろうしろにした、疲れつかれたらしい少年しょうねんの上うえ半身はんしん。
少年しょうねんは涙なみだを流しながしはじめる。
が、やっと気きをとり直しとりなおし、高いたかい空そらを見上げみあげながら、もう一度いちどこちらへ歩きあるきはじめる。
46
かすかに星ほしのかがやいた夕空ゆうぞら。
そこへ大きいおおきい顔かおが一いちつおのずからぼんやりと浮かんうかんで来るくる。
顔かおは少年しょうねんの父親ちちおやらしい。
愛情あいじょうはこもっているものの、何なんか無限むげんにもの悲しいものがなしい表情ひょうじょう。
しかしこの顔かおもしばらくの後あと、霧きりのようにどこかへ消えきえてしまう。
47
縦たてに見みた往来おうらい。
少年しょうねんはこちらへ後ろうしろを見せみせたまま、この往来おうらいを歩いあるいて行くいく。
往来おうらいは余りあまり人通りひとどおりはない。
少年しょうねんの後ろうしろから歩いあるいて行くいく男おとこ。
この男おとこはちょっと振り返りふりかえり、マスクますくをかけた顔かおを見せるみせる。
少年しょうねんは一度いちども後ろうしろを見みない。
48
斜めななめに見みた格子戸こうしと造りつくりの家いえの外部がいぶ。
家いえの前まえには人力車じんりきしゃが三さん台だい後ろ向きうしろむきに止まっとまっている。
人通りひとどおりはやはり沢山たくさんない。
角隠しつのかくしをつけた花嫁はなよめが一人ひとり、何人なんにんかの人々ひとびとと一しょいっしょに格子戸こうしとを出で、静かしずかに前まえの人力車じんりきしゃに乗るのる。
人力車じんりきしゃは三さん台だいとも人ひとを乗せるのせると、花嫁はなよめを先さきに走っはしって行くいく。
そのあとから少年しょうねんの後ろ姿うしろすがた。
格子戸こうしとの家いえの前まえに立ったった人々ひとびとは勿論もちろん少年しょうねんに目めもやらない。
49
「XYZ会社かいしゃ特製とくせい品しな、迷い子まいご、文芸ぶんげい的まと映画えいが」と書いかいた長方形ちょうほうけいの板いた。
これもこの板いたを前後ぜんごにしたサンドウィッチさんどうぃっち・マンまんに変っかわってしまう。
サンドウィッチさんどうぃっち・マンまんは年ねんをとっているものの、どこか仲店なかみせを歩いあるいていた、都会人とかいにんらしい紳士しんしに似にている。
後ろうしろは前まえよりも人通りひとどおりは多いおおい、いろいろの店みせの並んならんだ往来おうらい。
少年しょうねんはそこを通りかかりとおりかかり、サンドウィッチさんどうぃっち・マンまんの配っくばっている広告こうこくを一いち枚ばい貰っもらって行くいく。
50
縦たてに見みた前まえの往来おうらい。
松葉杖まつばつえをついた癈兵はいへいが一人ひとりゆっくりと向うむこうへ歩いあるいて行くいく。
癈兵はいへいはいつか駝鳥だちょうに変っかわっている。
が、しばらく歩いあるいて行くいくうちにまた癈兵はいへいになってしまう。
横町よこちょうの角かくにはポストぽすとが一いちつ。
51
「急げいそげ。急げいそげ。いつ何時なんじ死ぬしぬかも知れしれない。」
52
往来おうらいの角かくに立ったっているポストぽすと。
ポストぽすとはいつか透明とうめいになり、無数むすうの手紙てがみの折り重なっおりかさなった円筒えんとうの内部ないぶを現しあらわして見せるみせる。
が、見る見るみるみる前まえのようにただのポストぽすとに変っかわってしまう。
ポストぽすとの後ろうしろには暗あんのあるばかり。
53
斜めななめに見みた芸者げいしゃ屋や町まち。
お座敷おざしきへ出るでる芸者げいしゃが二人ふたりある御神燈おかみあかりのともった格子戸こうしとを出で、静かしずかにこちらへ歩いあるいて来るくる。
どちらも何なんの表情ひょうじょうも見せみせない。
二人ふたりの芸者げいしゃの通りとおりすぎた後あと、向うむこうへ歩いあるいて行くいく少年しょうねんの姿すがた。
少年しょうねんはちょっとふり返っふりかえって見るみる。
前まえよりもさらに寂しいさびしい表情ひょうじょう。
少年しょうねんはだんだん小さくちいさくなって行くいく。
そこへ向うむこうに立ったっていた、背せの低いひくい声色こわいろ遣いつかいが一人ひとりやはりこちらへ歩いあるいて来るくる。
彼かれの目のあたりまのあたりへ近づいちかづいたのを見るみると、どこか少年しょうねんに似にていないことはない。
54
大きいおおきい針金はりがねの環かんのまわりにぐるりと何本なんぽんもぶら下げぶらさげたかもじ。
かもじの中なかには「すき毛すきげ入りいり前髪まえがみ立てたて」と書いかいた札さつも下っしたっている。
これ等とうのかもじはいつの間まにか理髪店りはつてんの棒ぼうに変っかわってしまう。
棒ぼうの後ろうしろにも暗あんのあるばかり。
55
理髪店りはつてんの外部がいぶ。
大きいおおきい窓まど硝子がらすの向うむこうには男女だんじょが何人なんにんも動いうごいている。
少年しょうねんはそこへ通りかかりとおりかかり、ちょっと内部ないぶを覗いのぞいて見るみる。
56
頭あたまを刈っかっている男おとこの横顔よこがお。
これもしばらくたった後あと、大きいおおきい針金はりがねの環かんにぶら下げぶらさげた何本なんぽんかのかもじに変っかわってしまう。
かもじの中なかに下っしたった札さつが一いち枚ばい。
札さつには今度こんどは「入れ毛いれげ」と書いかいてある。
57
セセッションせせっしょん風かぜに出来上っできあがった病院びょういん。
少年しょうねんはこちらから歩み寄りあゆみより、石いしの階段かいだんを登っのぼって行くいく、しかし戸との中なかへはいったと思うおもうと、すぐにまた階段かいだんを下っしたって来るくる。
少年しょうねんの左ひだりへ行っいった後あと、病院びょういんは静かしずかにこちらへ近づきちかづき、とうとう玄関げんかんだけになってしまう。
その硝子戸がらすとを押しあけおしあけて外そとへ出でて来るくる看護婦かんごふが一人ひとり。
看護婦かんごふは玄関げんかんに佇んたたずんだまま、何なんか遠いとおいものを眺めながめている。
58 膝ひざの上うえに組んくんだ看護婦かんごふの両手りょうて。
前まえになった左ひだりの手てには婚約こんやくの指環ゆびわが一いちつはまっている。
が、指環ゆびわはおのずから急きゅうに下したへ落ちおちてしまう。
59
わずかに空そらを残しのこしたコンクリイトこんくりいとの塀へい。
これもおのずから透明とうめいになり、鉄格子てつこうしの中なかに群ぐんった何なん匹ひきかの猿さるを現しあらわして見せるみせる。
それからまた塀へい全体ぜんたいは操りあやつり人形にんぎょうの舞台ぶたいに変っかわってしまう。
舞台ぶたいはとにかく西洋せいようじみた室内しつない。
そこに西洋せいよう人ひとの人形にんぎょうが一いちつ怯きょうず怯きょうずあたりを窺っうかがっている。
覆面ふくめんをかけているのを見るみると、この室むろへ忍びこんしのびこんだ盗人ぬすびとらしい。
室むろの隅すみには金庫きんこが一いちつ。
60
金庫きんこをこじあけている西洋せいよう人ひとの人形にんぎょう。
ただしこの人形にんぎょうの手足てあしについた、細いほそい糸いとも何本なんぽんかははっきりと見えるみえる。
……
61
斜めななめに見みた前まえのコンクリイトこんくりいとの塀へい。
塀へいはもう何なんも現しあらわしていない。
そこを通りとおりすぎる少年しょうねんの影かげ。
そのあとから今度こんどは背せむしの影かげ。
62
前まえから斜めななめに見おろしみおろした往来おうらい。
往来おうらいの上うえには落ち葉おちばが一いち枚ばい風かぜに吹かふかれてまわっている。
そこへまた舞い下っまいくだって来るくる前まえよりも小さいちいさい落葉らくようが一いち枚ばい。
最後さいごに雑誌ざっしの広告こうこくらしい紙かみも一いち枚ばい翻っひるがえって来るくる。
紙かみは生憎あいにく引き裂かひきさかれているらしい。
が、はっきりと見えるみえるのは「生活せいかつ、正月しょうがつ号ごう」と云ういう初号しょごう活字かつじである。
63
大きいおおきい常磐木ときわぎの下したにあるベンチべんち。
木々きぎの向うむこうに見えみえているのは前まえの池いけの一部いちぶらしい。
少年しょうねんはそこへ歩み寄りあゆみより、がっかりしたように腰こしをかける。
それから涙なみだを拭いぬぐいはじめる。
すると前まえの背せむしが一人ひとりやはりベンチべんちへ来きて腰こしをかける。
時々ときどき風かぜに揺れるゆれる後ろうしろの常磐木ときわぎ。
少年しょうねんはふと背せむしを見つめるみつめる。
が、背せむしはふり返りふりかえりもしない。
のみならず懐ふところから焼き芋やきいもを出しだし、がつがつしているように食いくいはじめる。
64
焼き芋やきいもを食っしょくっている背せむしの顔かお。
65
前まえの常磐木ときわぎのかげにあるベンチべんち。
背せむしはやはり焼き芋やきいもを食っしょくっている。
少年しょうねんはやっと立ち上りたちあがり、頭あたまを垂れたれてどこかへ歩いあるいて行くいく。
66
斜めななめに上うえから見おろしみおろしたベンチべんち。
板いたを透かしすかしたベンチべんちの上うえには蟇口がまぐちが一いちつ残っのこっている。
すると誰だれかの手てが一いちつそっとその蟇口がまぐちをとり上げとりあげてしまう。
67
前まえの常磐木ときわぎのかげにあるベンチべんち。
ただし今度こんどは斜めななめになっている。
ベンチべんちの上うえには背せむしが一人ひとり蟇口がまぐちの中なかを検べしらべている。
そのうちにいつか背せむしの左右さゆうに背せむしが何人なんにんも現れあらわれはじめ、とうとうしまいにはベンチべんちの上うえは背せむしばかりになってしまう。
しかも彼かれ等とうは同じおなじようにそれぞれ皆みな熱心ねっしんに蟇口がまぐちの中なかを検べしらべている。
互たがいに何なんか話し合いはなしあいながら。
68
写真屋しゃしんやの飾り窓かざりまど。
男女だんじょの写真しゃしんが何枚なんまいもそれぞれ額縁がくぶちにはいって懸っかかっている。
が、それ等とうの男女だんじょの顔かおもいつか老人ろうじんに変っかわってしまう。
しかしその中なかにたった一いち枚ばい、フロックふろっく・コオトこおとに勲章くんしょうをつけた、顋あご髭ひげのある老人ろうじんの半身はんしんだけは変らかわらない。
ただその顔かおはいつの間まにか前まえの背せむしの顔かおになっている。
69
横よこから見みた観音堂かんのんどう。
少年しょうねんはその下したを歩いあるいて行くいく。
観音堂かんのんどうの上うえには三さん日ひ月つきが一いちつ。
70
観音堂かんのんどうの正面しょうめんの一部いちぶ。
ただし扉とびらはしまっている。
その前まえに礼拝れいはいしている何人なんにんかの人々ひとびと。
少年しょうねんはそこへ歩みよりあゆみより、こちらへ後ろうしろを見せみせたまま、ちょっと観音かんのん堂どうを仰いおっしゃいで見るみる。
それから突然とつぜんこちらを向きむき、さっさと斜めななめに歩いあるいて行っいってしまう。
71
斜めななめに上うえから見おろしみおろした、大きいおおきい長方形ちょうほうけいの手水鉢ちょうずばち。
柄杓ひしゃくが何本なんぽんも浮かんうかんだ水みずには火ひかげもちらちら映っうつっている。
そこへまた映っうつって来るくる、憔悴しょうすいし切っきった少年しょうねんの顔かお。
72
大きいおおきい石いし燈籠とうろうの下部かぶ。
少年しょうねんはそこに腰こしをおろし、両手りょうてに顔かおを隠しかくして泣きなきはじめる。
73 前まえの石いし燈籠とうろうの下部かぶの後ろうしろ。
男おとこが一人ひとり佇んたたずんだまま、何なんかに耳みみを傾けかたむけている。
74
この男おとこの上うえ半身はんしん。
もっとも顔かおだけはこちらを向いむかいていない。
が、静かしずかに振り返っふりかえったのを見るみると、マスクますくをかけた前まえの男おとこである。
のみならずその顔かおもしばらくの後あと、少年しょうねんの父親ちちおやに変っかわってしまう。
75
前まえの石いし燈籠とうろうの上部じょうぶ。
石いし燈籠とうろうは柱はしらを残しのこしたまま、おのずから炎ほのおになって燃え上っもえあがってしまう。
炎ほのおの下火したびになった後あと、そこに開きひらき始めるはじめる菊きくの花はなが一いち輪わ。
菊きくの花はなは石いし燈籠とうろうの笠かさよりも大きいおおきい。
76
前まえの石いし燈籠とうろうの下部かぶ。
少年しょうねんは前まえと変りかわりはない。
そこへ帽ぼうを目深まぶかにかぶった巡査じゅんさが一人ひとり歩みよりあゆみより、少年しょうねんの肩かたへ手てをかける。
少年しょうねんは驚いおどろいて立ち上りたちあがり、何なんか巡査じゅんさと話はなしをする。
それから巡査じゅんさに手てを引かひかれたまま、静かしずかに向うむこうへ歩いあるいて行くいく。
77
前まえの石いし燈籠とうろうの下部かぶの後ろうしろ。
今度こんどはもう誰だれもいない。
78
前まえの仁王門におうもんの大おお提灯ちょうちん。
大おお提灯ちょうちんは次第しだいに上うえへあがり、前まえのように仲店なかみせを見渡すみわたすようになる。
ただし大おお提灯ちょうちんの下部かぶだけは消え失せきえうせない。
(昭和しょうわ二に年ねん三さん月つき十四じゅうよん日ひ)
1/1