文鳥

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その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢にできている。細長い薄紅の端に真珠を削ったような爪が着いて、手頃な留り木を甘く抱え込んでいる。すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥はすでに留り木の上で方向を換えていた。しきりに首を左右に傾ける。傾けかけた首をふと持ち直して、心持前へ伸したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向うの留り木の真中あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗き込んだ。

第 1 章
自分じぶんは顔かおを洗いあらいに風呂場ふろばへ行っいった。
帰りかえりに台所だいどころへ廻っまわって、戸棚とだなを明けあけて、昨夕さくゆう三重みえ吉きちの買っかって来きてくれた粟ぞくの袋ふくろを出しだして、餌えさ壺つぼの中なかへ餌えさを入れいれて、もう一いちつには水みずを一杯いちばい入れいれて、また書斎しょさいの縁側えんがわへ出でた。
三重吉みえきちは用意ようい周到しゅうとうな男おとこで、昨夕さくゆう叮嚀ていねいに餌えさをやる時じの心得こころえを説明せつめいして行っいった。
その説せつによると、むやみに籠かごの戸とを明けるあけると文鳥ぶんちょうが逃げ出しにげだしてしまう。
だから右みぎの手てで籠かごの戸とを明けあけながら、左ひだりの手てをその下したへあてがって、外そとから出口でぐちを塞ぐふさぐようにしなくっては危険きけんだ。
餌えさ壺つぼを出すだす時じも同じおなじ心得こころえでやらなければならない。
とその手つきてつきまでして見せみせたが、こう両方りょうほうの手てを使っつかって、餌えさ壺つぼをどうして籠かごの中なかへ入れるいれる事ことができるのか、つい聞いきいておかなかった。
自分じぶんはやむをえず餌えさ壺つぼを持っもったまま手の甲てのこうで籠かごの戸とをそろりと上うえへ押し上げおしあげた。
同時どうじに左ひだりの手てで開いひらいた口くちをすぐ塞いせいだ。
鳥とりはちょっと振り返っふりかえった。
そうして、ちちと鳴いないた。
自分じぶんは出口でぐちを塞いせいだ左ひだりの手ての処置しょちに窮しきゅうした。
人ひとの隙すきを窺っうかがって逃げるにげるような鳥とりとも見えみえないので、何なんとなく気の毒きのどくになった。
三重吉みえきちは悪いわるい事ことを教えおしえた。
大きなおおきな手てをそろそろ籠かごの中なかへ入れいれた。
すると文鳥ぶんちょうは急きゅうに羽はね搏を始めはじめた。
細くほそく削っけずった竹たけの目めから暖かいあたたかいむく毛むくげが、白くしろく飛ぶとぶほどに翼つばさを鳴らしならした。
自分じぶんは急きゅうに自分じぶんの大きなおおきな手てが厭いやになった。
粟ぞくの壺つぼと水みずの壺つぼを留りとまり木の間このまにようやく置くおくや否いなや、手てを引き込まひきこました。
籠かごの戸とははたりと自然しぜんに落ちおちた。
文鳥ぶんちょうは留りとまり木きの上うえに戻っもどった。
白いしろい首くびを半ばなかば横よこに向けむけて、籠かごの外そとにいる自分じぶんを見上げみあげた。
それから曲げまげた首くびを真直まっすぐにして足あしの下したにある粟ぞくと水みずを眺めながめた。
自分じぶんは食事しょくじをしに茶の間ちゃのまへ行っいった。
その頃ころは日課にっかとして小説しょうせつを書いかいている時分じぶんであった。
飯めしと飯めしの間まはたいてい机つくえに向っむかって筆ふでを握っにぎっていた。
静かしずかな時じは自分じぶんで紙かみの上うえを走るはしるペンぺんの音おとを聞くきく事ことができた。
伽藍がらんのような書斎しょさいへは誰だれも這入っはいって来きない習慣しゅうかんであった。
筆ふでの音おとに淋しさびしさと云ういう意味いみを感じかんじた朝あさも昼ひるも晩ばんもあった。
しかし時々ときどきはこの筆ふでの音おとがぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折おりもだいぶあった。
その時じは指ゆびの股またに筆ふでを挟んはさんだまま手の平てのひらへ顎あごを載せのせて硝子がらす越こしに吹き荒れふきあれた庭にわを眺めるながめるのが癖くせであった。
それが済むすむと載せのせた顎あごを一応いちおう撮んつまんで見るみる。
それでも筆ふでと紙かみがいっしょにならない時じは、撮んつまんだ顎あごを二に本ほんの指ゆびで伸しのして見るみる。
すると縁側えんがわで文鳥ぶんちょうがたちまち千代ちよ千代ちよと二に声こえ鳴いないた。
筆ふでを擱いおいて、そっと出でて見るみると、文鳥ぶんちょうは自分じぶんの方ほうを向いむかいたまま、留りとまり木きの上うえから、のめりそうに白いしろい胸むねを突き出しつきだして、高くたかく千代ちよと云っいった。
三重吉みえきちが聞いきいたらさぞ喜ぶよろこぶだろうと思うおもうほどな美いいい声こえで千代ちよと云っいった。
三重吉みえきちは今いまに馴れるなれると千代ちよと鳴きなきますよ、きっと鳴きなきますよ、と受合っうけあって帰っかえって行っいった。
自分じぶんはまた籠かごの傍そばへしゃがんだ。
文鳥ぶんちょうは膨らんふくらんだ首くびを二三にさん度ど竪たて横よこに向け直しむけなおした。
やがて一団いちだんの白いしろい体からだがぽいと留りとまり木きの上うえを抜け出しぬけだした。
と思うおもうと奇麗きれいな足あしの爪つめが半分はんぶんほど餌えさ壺つぼの縁えんから後あとへ出でた。
小指こゆびを掛けかけてもすぐ引っ繰り返りひっくりかえりそうな餌えさ壺つぼは釣鐘つりがねのように静かしずかである。
さすがに文鳥ぶんちょうは軽いかるいものだ。
何なんだか淡雪あわゆきの精せいのような気きがした。
文鳥ぶんちょうはつと嘴くちばしを餌えさ壺つぼの真中まなかに落しおとした。
そうして二三にさん度ど左右さゆうに振っふった。
奇麗きれいに平たいらして入れいれてあった粟ぞくがはらはらと籠かごの底そこに零れこぼれた。
文鳥ぶんちょうは嘴くちばしを上げあげた。
咽喉のどの所ところで微かすかな音おとがする。
また嘴くちばしを粟ぞくの真中まなかに落すおとす。
また微かすかな音おとがする。
その音おとが面白いおもしろい。
静かしずかに聴いきいていると、丸くまるくて細やかこまやかで、しかも非常ひじょうに速かすみやかである。
菫すみれほどな小さいちいさい人ひとが、黄金おうごんの槌つちで瑪瑙めのうの碁石ごいしでもつづけ様ように敲いたたいているような気きがする。
嘴くちばしの色いろを見るみると紫むらさきを薄くうすく混ぜまぜた紅くれないのようである。
その紅くれないがしだいに流れながれて、粟ぞくをつつく口くち尖の辺へんは白いしろい。
象牙ぞうげを半透明はんとうめいにした白しろさである。
この嘴くちばしが粟ぞくの中なかへ這入るはいる時じは非常ひじょうに早いはやい。
左右さゆうに振りふり蒔くまく粟ぞくの珠たまも非常ひじょうに軽そうかるそうだ。
文鳥ぶんちょうは身みを逆さまさかさまにしないばかりに尖っとがった嘴くちばしを黄色いきいろい粒つぶの中なかに刺しさし込んこんでは、膨ぼうくらんだ首くびを惜おし気きもなく右左みぎひだりへ振るふる。
籠かごの底そこに飛び散るとびちる粟ぞくの数すうは幾いく粒つぶだか分らわからない。
それでも餌えさ壺つぼだけは寂然じゃくねんとして静かしずかである。
重いおもいものである。
餌えさ壺つぼの直径ちょっけいは一寸ちょっと五ご分ぶんほどだと思うおもう。
自分じぶんはそっと書斎しょさいへ帰っかえって淋しくさびしくペンぺんを紙かみの上うえに走らしはしらしていた。
縁側えんがわでは文鳥ぶんちょうがちちと鳴くなく。
折々おりおりは千代ちよ千代ちよとも鳴くなく。
外そとでは木枯こがらしが吹いふいていた。
夕方ゆうがたには文鳥ぶんちょうが水みずを飲むのむところを見みた。
細いほそい足あしを壺つぼの縁えんへ懸けかけて、小いちいさい嘴くちばしに受けうけた一雫ひとしずくを大事だいじそうに、仰向いあおむいて呑み下しのみくだしている。
この分ぶんでは一杯いちばいの水みずが十じゅう日ひぐらい続くつづくだろうと思っおもってまた書斎しょさいへ帰っかえった。
晩ばんには箱ばこへしまってやった。
寝るねる時じ硝子戸がらすとから外そとを覗いのぞいたら、月つきが出でて、霜しもが降っふっていた。
文鳥ぶんちょうは箱ばこの中なかでことりともしなかった。
明るあかる日ひもまた気の毒きのどくな事ことに遅くおそく起きおきて、箱ばこから籠かごを出しだしてやったのは、やっぱり八はち時じ過ぎすぎであった。
箱ばこの中なかではとうから目めが覚めさめていたんだろう。
それでも文鳥ぶんちょうはいっこう不平ふへいらしい顔かおもしなかった。
籠かごが明るいあかるい所ところへ出るでるや否いなや、いきなり眼めをしばたたいて、心持こころもち首くびをすくめて、自分じぶんの顔かおを見みた。
昔むかしし美しいうつくしい女おんなを知っしっていた。
この女おんなが机つくえに凭れもたれて何なんか考えかんがえているところを、後あとから、そっと行っいって、紫むらさきの帯上げおびあげの房ぼうになった先さきを、長くながく垂らしたらして、頸筋くびすじの細いほそいあたりを、上うえから撫でなで廻しまわしたら、女おんなはものう気きに後あとを向いむかいた。
その時じ女おんなの眉まゆは心持こころもち八はちの字じに寄っよっていた。
それで眼尻めじりと口元くちもとには笑わらいが萌しきざしていた。
同時どうじに恰好かっこの好いよい頸くびを肩かたまですくめていた。
文鳥ぶんちょうが自分じぶんを見みた時じ、自分じぶんはふとこの女おんなの事ことを思い出しおもいだした。
この女おんなは今いま嫁よめに行っいった。
自分じぶんが紫むらさきの帯おび上うえでいたずらをしたのは縁談えんだんのきまった二三にさん日ひ後あとである。
餌えさ壺つぼにはまだ粟ぞくが八はち分ぶん通りとおり這入っはいっている。
しかし殻からもだいぶ混っまじっていた。
水入みずいりには粟ぞくの殻からが一面いちめんに浮いういて、苛くむごく濁っにごっていた。
易えかえてやらなければならない。
また大きなおおきな手てを籠かごの中なかへ入れいれた。
非常ひじょうに要心ようじんして入れいれたにもかかわらず、文鳥ぶんちょうは白いしろい翼つばさを乱しみだして騒いさわいだ。
小いちいさい羽根はねが一いち本ほん抜けぬけても、自分じぶんは文鳥ぶんちょうにすまないと思っおもった。
殻からは奇麗きれいに吹いふいた。
吹かふかれた殻からは木枯こがらしがどこかへ持っもって行っいった。
水みずも易えかえてやった。
水道すいどうの水みずだから大変たいへん冷たいつめたい。
その日ひは一日いちにち淋しいさびしいペンぺんの音おとを聞いきいて暮しくらした。
その間まには折々おりおり千代ちよ千代ちよと云ういう声こえも聞えきこえた。
文鳥ぶんちょうも淋しいさびしいから鳴くなくのではなかろうかと考えかんがえた。
しかし縁側えんがわへ出でて見るみると、二に本ほんの留りとまり木の間このまを、あちらへ飛んとんだり、こちらへ飛んとんだり、絶間たえまなく行きいきつ戻りもどりつしている。
少しすこしも不平ふへいらしい様子ようすはなかった。
夜よるは箱ばこへ入れいれた。
明るあかる朝あさ目めが覚めるさめると、外そとは白いしろい霜しもだ。
文鳥ぶんちょうも眼めが覚めさめているだろうが、なかなか起きるおきる気きにならない。
枕元まくらもとにある新聞しんぶんを手てに取るとるさえ難儀なんぎだ。
それでも煙草たばこは一いち本ほんふかした。
この一いち本ほんをふかしてしまったら、起きおきて籠かごから出しだしてやろうと思いおもいながら、口くちから出るでる煙けむりの行方ゆくえを見つめみつめていた。
するとこの煙けむりの中なかに、首くびをすくめた、眼めを細くほそくした、しかも心持こころもち眉まゆを寄せよせた昔むかしの女おんなの顔かおがちょっと見えみえた。
自分じぶんは床ゆかの上うえに起き直っおきなおった。
寝巻ねまきの上うえへ羽織はおりを引いん掛けかけて、すぐ縁側えんがわへ出でた。
そうして箱ばこの葢おおいをはずして、文鳥ぶんちょうを出しだした。
文鳥ぶんちょうは箱ばこから出でながら千代ちよ千代ちよと二に声こえ鳴いないた。
三重吉みえきちの説せつによると、馴れるなれるにしたがって、文鳥ぶんちょうが人ひとの顔かおを見みて鳴くなくようになるんだそうだ。
現にげんに三重吉みえきちの飼っかっていた文鳥ぶんちょうは、三重吉みえきちが傍そばにいさえすれば、しきりに千代ちよ千代ちよと鳴きなきつづけたそうだ。
のみならず三重吉みえきちの指ゆびの先さきから餌えさを食べるたべると云ういう。
自分じぶんもいつか指ゆびの先さきで餌えさをやって見みたいと思っおもった。
次つぎの朝あさはまた怠けなまけた。
昔むかしの女おんなの顔かおもつい思い出さおもいださなかった。
顔かおを洗っあらって、食事しょくじを済ましすまして、始めはじめて、気きがついたように縁側えんがわへ出でて見るみると、いつの間まにか籠かごが箱ばこの上うえに乗っのっている。
文鳥ぶんちょうはもう留りとまり木きの上うえを面白おもしろそうにあちら、こちらと飛び移っとびうつっている。
そうして時々ときどきは首くびを伸しのして籠かごの外そとを下したの方ほうから覗いのぞいている。
その様子ようすがなかなか無邪気むじゃきである。
昔むかし紫むらさきの帯おび上うえでいたずらをした女おんなは襟えりの長いながい、背せのすらりとした、ちょっと首くびを曲げまげて人ひとを見るみる癖くせがあった。
粟ぞくはまだある。
水みずもまだある。
文鳥ぶんちょうは満足まんぞくしている。
自分じぶんは粟ぞくも水みずも易えかえずに書斎しょさいへ引込んひきこんだ。
昼過ぎひるすぎまた縁側えんがわへ出でた。
食後しょくごの運動うんどうかたがた、五六ごろく間まの廻り縁まわりぶちを、あるきながら書見しょけんするつもりであった。
ところが出でて見るみると粟ぞくがもう七なな分ぶんがた尽きつきている。
水みずも全くまったく濁っにごってしまった。
書物しょもつを縁側えんがわへ抛り出しほうりだしておいて、急いいそいで餌えさと水みずを易えかえてやった。
次の日つぎのひもまた遅くおそく起きおきた。
しかも顔かおを洗っあらって飯めしを食うくうまでは縁側えんがわを覗かねらいかなかった。
書斎しょさいに帰っかえってから、あるいは昨日きのうのように、家人けにんが籠かごを出しだしておきはせぬかと、ちょっと縁えんへ顔かおだけ出しだして見みたら、はたして出しだしてあった。
その上うえ餌えさも水みずも新しくあたらしくなっていた。
自分じぶんはやっと安心あんしんして首くびを書斎しょさいに入れいれた。
途端とたんに文鳥ぶんちょうは千代ちよ千代ちよと鳴いないた。
それで引込めひっこめた首くびをまた出しだして見みた。
けれども文鳥ぶんちょうは再びふたたび鳴かなかなかった。
けげんな顔かおをして硝子がらす越こしに庭にわの霜しもを眺めながめていた。
自分じぶんはとうとう机つくえの前まえに帰っかえった。
書斎しょさいの中なかでは相そう変らかわらずペンぺんの音おとがさらさらする。
書きかきかけた小説しょうせつはだいぶんはかどった。
指ゆびの先さきが冷たいつめたい。
今朝けさ埋けいけた佐倉さくら炭すみは白くしろくなって、薩摩さつま五徳ごとくに懸けかけた鉄瓶てつびんがほとんど冷めさめている。
炭取すみとりは空そらだ。
手てを敲いたたいたがちょっと台所だいどころまで聴えきこえない。
立ったって戸とを明けるあけると、文鳥ぶんちょうは例れいに似にず留りとまり木きの上うえにじっと留っとめっている。
よく見るみると足あしが一いち本ほんしかない。
自分じぶんは炭取すみとりを縁えんに置いおいて、上うえからこごんで籠かごの中なかを覗き込んのぞきこんだ。
いくら見みても足あしは一いち本ほんしかない。
文鳥ぶんちょうはこの華奢きゃしゃな一いち本ほんの細いほそい足あしに総身そうみを託したくして黙然もくぜんとして、籠かごの中なかに片づいかたづいている。
自分じぶんは不思議ふしぎに思っおもった。
文鳥ぶんちょうについて万事ばんじを説明せつめいした三重吉みえきちもこの事ことだけは抜いぬいたと見えるみえる。
自分じぶんが炭取すみとりに炭すみを入れいれて帰っかえった時じ、文鳥ぶんちょうの足あしはまだ一いち本ほんであった。
しばらく寒いさむい縁側えんがわに立ったって眺めながめていたが、文鳥ぶんちょうは動くうごく気色けしきもない。
音おとを立てたてないで見つめみつめていると、文鳥ぶんちょうは丸いまりい眼めをしだいに細くほそくし出しだした。
おおかた眠たいねむたいのだろうと思っおもって、そっと書斎しょさいへ這入ろうはいろうとして、一歩いちほ足あしを動かすうごかすや否いなや、文鳥ぶんちょうはまた眼めを開いひらいた。
同時どうじに真白まっしろな胸むねの中なかから細いほそい足あしを一いち本ほん出しだした。
自分じぶんは戸とを閉へいてて火鉢ひばちへ炭すみをついだ。
小説しょうせつはしだいに忙しくいそがしくなる。
朝あさは依然いぜんとして寝坊ねぼうをする。
一度いちど家いえのものが文鳥ぶんちょうの世話せわをしてくれてから、何なんだか自分じぶんの責任せきにんが軽くかるくなったような心持こころもちがする。
家いえのものが忘れるわすれる時じは、自分じぶんが餌えさをやる水みずをやる。
籠かごの出し入れだしいれをする。
しない時じは、家いえのものを呼んよんでさせる事こともある。
自分じぶんはただ文鳥ぶんちょうの声こえを聞くきくだけが役目やくめのようになった。
それでも縁側えんがわへ出るでる時じは、必ずかならず籠かごの前まえへ立たて留とめって文鳥ぶんちょうの様子ようすを見みた。
たいていは狭いせまい籠かごを苦くにもしないで、二に本ほんの留りとまり木きを満足まんぞくそうに往復おうふくしていた。
天気てんきの好いよい時じは薄いうすい日ひを硝子がらす越こしに浴びあびて、しきりに鳴き立てなきたてていた。
しかし三重吉みえきちの云っいったように、自分じぶんの顔かおを見みてことさらに鳴くなく気色けしきはさらになかった。
自分じぶんの指ゆびからじかに餌えさを食うくうなどと云ういう事ことは無論むろんなかった。
折々おりおり機嫌きげんのいい時じは麺めん麭の粉こななどを人ひと指ゆび指ゆびの先さきへつけて竹たけの間まからちょっと出しだして見るみる事ことがあるが文鳥ぶんちょうはけっして近づかちかづかない。
少しすこし無遠慮むえんりょに突き込んつきこんで見るみると、文鳥ぶんちょうは指ゆびの太いふといのに驚いおどろいて白いしろい翼つばさを乱しみだして籠かごの中なかを騒ぎさわぎ廻るまわるのみであった。
二三にさん度ど試みこころみた後あと、自分じぶんは気の毒きのどくになって、この芸げいだけは永久えいきゅうに断念だんねんしてしまった。
今いまの世よにこんな事ことのできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしいうたがわしい。
おそらく古代こだいの聖徒せいとの仕事しごとだろう。
三重吉みえきちは嘘うそを吐いはいたに違いない。
或ある日ひの事こと、書斎しょさいで例れいのごとくペンぺんの音おとを立てたてて侘びしいわびしい事ことを書き連ねかきつらねていると、ふと妙みょうな音おとが耳みみに這入っはいった。
縁側えんがわでさらさら、さらさら云ういう。
女おんなが長いながい衣ころもの裾すそを捌いさばいているようにも受取らうけとられるが、ただの女おんなのそれとしては、あまりに仰山ぎょうさんである。
雛段ひなだんをあるく、内裏雛だいりひなの袴はかまの襞ひだの擦れるすれる音おととでも形容けいようしたらよかろうと思っおもった。
自分じぶんは書きかきかけた小説しょうせつをよそにして、ペンぺんを持っもったまま縁側えんがわへ出でて見みた。
すると文鳥ぶんちょうが行水ぎょうずいを使っつかっていた。
水みずはちょうど易えかえ立てたてであった。
文鳥ぶんちょうは軽いかるい足あしを水入みずいりの真中まなかに胸毛むなげまで浸しひたして、時々ときどきは白いしろい翼つばさを左右さゆうにひろげながら、心持こころもち水入みずいりの中なかにしゃがむように腹はらを圧しおしつけつつ、総身そうみの毛けを一度いちどに振っふっている。
そうして水入みずいりの縁えんにひょいと飛び上るとびあがる。
しばらくしてまた飛び込むとびこむ。
水入みずいりの直径ちょっけいは一寸ちょっと五ご分ぶんぐらいに過ぎすぎない。
飛び込んとびこんだ時じは尾おも余りあまり、頭あたまも余りあまり、背せは無論むろん余るあまる。
水みずに浸かるつかるのは足あしと胸むねだけである。
それでも文鳥ぶんちょうは欣然きんぜんとして行水ぎょうずいを使っつかっている。
自分じぶんは急きゅうに易えき籠かごを取っとって来きた。
そうして文鳥ぶんちょうをこの方ほうへ移しうつした。
それから如露じょろを持っもって風呂場ふろばへ行っいって、水道すいどうの水みずを汲んくんで、籠かごの上うえからさあさあとかけてやった。
如露じょろの水みずが尽きるつきる頃ころには白いしろい羽根はねから落ちるおちる水みずが珠たまになって転がっころがった。
文鳥ぶんちょうは絶えたえず眼めをぱちぱちさせていた。
昔むかし紫むらさきの帯おび上うえでいたずらをした女おんなが、座敷ざしきで仕事しごとをしていた時じ、裏うら二に階かいから懐中かいちゅう鏡かがみで女おんなの顔かおへ春はるの光線こうせんを反射はんしゃさせて楽しんたのしんだ事ことがある。
女おんなは薄うす紅くあかくなった頬ほおを上げあげて、繊せんい手てを額がくの前まえに翳しかざしながら、不思議ふしぎそうに瞬まどかをした。
この女おんなとこの文鳥ぶんちょうとはおそらく同じおなじ心持こころもちだろう。
日数にっすうが立つたつにしたがって文鳥ぶんちょうは善くよく囀ずる。
しかしよく忘れわすれられる。
或るある時じは餌えさ壺つぼが粟ぞくの殻からだけになっていた事ことがある。
ある時じは籠かごの底そこが糞ふんでいっぱいになっていた事ことがある。
ある晩ばん宴会えんかいがあって遅くおそく帰っかえったら、冬ふゆの月つきが硝子がらす越こしに差し込んさしこんで、広いひろい縁側えんがわがほの明るくあかるく見えるみえるなかに、鳥籠とりかごがしんとして、箱ばこの上うえに乗っのっていた。
その隅すみに文鳥ぶんちょうの体からだが薄白くうすじろく浮いういたまま留りとまり木きの上うえに、有るあるか無きなきかに思わおもわれた。
自分じぶんは外套がいとうの羽根はねを返しかえして、すぐ鳥籠とりかごを箱ばこのなかへ入れいれてやった。
翌日よくじつ文鳥ぶんちょうは例れいのごとく元気げんきよく囀っさえずっていた。
それからは時々ときどき寒いさむい夜よるも箱ばこにしまってやるのを忘れるわすれることがあった。
ある晩ばんいつもの通りとおり書斎しょさいで専念せんねんにペンぺんの音おとを聞いきいていると、突然とつぜん縁側えんがわの方ほうでがたりと物ものの覆っおおった音おとがした。
しかし自分じぶんは立たたたなかった。
依然いぜんとして急ぐいそぐ小説しょうせつを書いかいていた。
わざわざ立ったって行っいって、何なんでもないといまいましいから、気きにかからないではなかったが、やはりちょっと聞耳ききみみを立てたてたまま知らしらぬ顔かおですましていた。
その晩ばん寝ねたのは十二じゅうに時じ過ぎすぎであった。
便所べんじょに行っいったついで、気がかりきがかりだから、念ねんのため一応いちおう縁側えんがわへ廻っまわって見るみると―― 籠かごは箱ばこの上うえから落ちおちている。
そうして横よこに倒れたおれている。
水入みずいりも餌えさ壺つぼも引繰返っひっくりかえっている。
粟ぞくは一面いちめんに縁側えんがわに散らばっちらばっている。
留りとまり木きは抜け出しぬけだしている。
文鳥ぶんちょうはしのびやかに鳥籠とりかごの桟さんにかじりついていた。
自分じぶんは明日あすから誓っちかってこの縁側えんがわに猫ねこを入れいれまいと決心けっしんした。
翌日よくじつ文鳥ぶんちょうは鳴かなかなかった。
粟ぞくを山盛やまもり入れいれてやった。
水みずを漲るみなぎるほど入れいれてやった。
文鳥ぶんちょうは一いち本ほん足あしのまま長らくながらく留りとまり木きの上うえを動かうごかなかった。
午飯ごはんを食っしょくってから、三重吉みえきちに手紙てがみを書こうかこうと思っおもって、二三にさん行こう書き出すかきだすと、文鳥ぶんちょうがちちと鳴いないた。
自分じぶんは手紙てがみの筆ふでを留めとめた。
文鳥ぶんちょうがまたちちと鳴いないた。
出でて見みたら粟ぞくも水みずもだいぶん減っへっている。
手紙てがみはそれぎりにして裂いさいて捨てすてた。
翌日よくじつ文鳥ぶんちょうがまた鳴かなかなくなった。
留りとまり木きを下りくだりて籠かごの底そこへ腹はらを圧しおしつけていた。
胸むねの所ところが少しすこし膨らんふくらんで、小さいちいさい毛けが漣さざなみのように乱れみだれて見えみえた。
自分じぶんはこの朝あさ、三重吉みえきちから例れいの件けんで某所ぼうしょまで来きてくれと云ういう手紙てがみを受取っうけとった。
十じゅう時じまでにと云ういう依頼いらいであるから、文鳥ぶんちょうをそのままにしておいて出でた。
三重吉みえきちに逢っあって見るみると例れいの件けんがいろいろ長くながくなって、いっしょに午飯ごはんを食うくう。
いっしょに晩飯ばんめしを食うくう。
その上うえ明日あすの会合かいごうまで約束やくそくして宅たくへ帰っかえった。
帰っかえったのは夜よるの九きゅう時じ頃ころである。
文鳥ぶんちょうの事ことはすっかり忘れわすれていた。
疲れつかれたから、すぐ床ゆかへ這入っはいって寝ねてしまった。
翌日よくじつ眼めが覚めるさめるや否いなや、すぐ例れいの件けんを思いだしおもいだした。
いくら当人とうにんが承知しょうちだって、そんな所ところへ嫁よめにやるのは行末ぎょうまつよくあるまい、まだ子供こどもだからどこへでも行けいけと云わいわれる所ところへ行くいく気きになるんだろう。
いったん行けいけばむやみに出でられるものじゃない。
世の中よのなかには満足まんぞくしながら不幸ふこうに陥っおちいって行くいく者ものがたくさんある。
などと考えかんがえて楊枝ようじを使っつかって、朝飯あさめしを済ましすましてまた例れいの件けんを片づけかたづけに出掛けでかけて行っいった。
帰っかえったのは午後ごご三さん時じ頃ころである。
玄関げんかんへ外套がいとうを懸けかけて廊下ろうか伝いつたいに書斎しょさいへ這入るはいるつもりで例れいの縁側えんがわへ出でて見るみると、鳥籠とりかごが箱ばこの上うえに出しだしてあった。
けれども文鳥ぶんちょうは籠かごの底そこに反っ繰り返っそっくりかえっていた。
二に本ほんの足あしを硬くかたく揃えそろえて、胴どうと直線ちょくせんに伸ばしのばしていた。
自分じぶんは籠かごの傍そばに立ったって、じっと文鳥ぶんちょうを見守っみまもった。
黒いくろい眼めを眠っねむっている。
瞼まぶたの色いろは薄蒼くうすあおく変っかわった。
餌えさ壺つぼには粟ぞくの殻からばかり溜ったまっている。
啄むついばむべきは一いち粒つぶもない。
水入みずいりは底そこの光るひかるほど涸れかれている。
西にしへ廻っまわった日ひが硝子戸がらすとを洩れもれて斜めななめに籠かごに落ちかかるおちかかる。
台だいに塗っぬった漆うるしは、三重吉みえきちの云っいったごとく、いつの間まにか黒味くろみが脱けぬけて、朱しゅの色いろが出でて来きた。
自分じぶんは冬ふゆの日ひに色づいいろづいた朱しゅの台だいを眺めながめた。
空そらになった餌えさ壺つぼを眺めながめた。
空しくむなしく橋はしを渡しわたしている二に本ほんの留りとまり木きを眺めながめた。
そうしてその下したに横わるよこたわる硬いかたい文鳥ぶんちょうを眺めながめた。
自分じぶんはこごんで両手りょうてに鳥籠とりかごを抱えかかえた。
そうして、書斎しょさいへ持っもって這入っはいった。
十じゅう畳たたみの真中まなかへ鳥籠とりかごを卸しおろして、その前まえへかしこまって、籠かごの戸とを開いひらいて、大きなおおきな手てを入れいれて、文鳥ぶんちょうを握っにぎって見みた。
柔かいやわらかい羽根はねは冷れいきっている。
拳こぶしを籠かごから引き出しひきだして、握っにぎった手てを開けるあけると、文鳥ぶんちょうは静せいに掌てのひらの上うえにある。
自分じぶんは手てを開けあけたまま、しばらく死んしんだ鳥とりを見つめみつめていた。
それから、そっと座布団ざふとんの上うえに卸しおろした。
そうして、烈しくはげしく手てを鳴らしならした。
十六じゅうろくになる小女こおんなが、はいと云っいって敷居しきい際さいに手てをつかえる。
自分じぶんはいきなり布団ふとんの上うえにある文鳥ぶんちょうを握っにぎって、小女こおんなの前まえへ抛り出しほうりだした。
小女こおんなは俯向いうつむいて畳たたみを眺めながめたまま黙っだまっている。
自分じぶんは、餌えさをやらないから、とうとう死んしんでしまったと云いいいながら、下女げじょの顔かおを睥めつけた。
下女げじょはそれでも黙っだまっている。
自分じぶんは机つくえの方ほうへ向き直っむきなおった。
そうして三重吉みえきちへ端書はしがきをかいた。
「家人けにんが餌えさをやらないものだから、文鳥ぶんちょうはとうとう死んしんでしまった。たのみもせぬものを籠かごへ入れいれて、しかも餌えさをやる義務ぎむさえ尽くさつくさないのは残酷ざんこくの至りいたりだ」と云ういう文句もんくであった。
自分じぶんは、これを投函とうかんして来いこい、そうしてその鳥とりをそっちへ持っもって行けいけと下女げじょに云っいった。
下女げじょは、どこへ持っもって参りまいりますかと聞き返しききかえした。
どこへでも勝手にかってに持っもって行けいけと怒鳴りつけどなりつけたら、驚いおどろいて台所だいどころの方ほうへ持っもって行っいった。
しばらくすると裏庭うらにわで、子供こどもが文鳥ぶんちょうを埋るうまるんだ埋るうまるんだと騒いさわいでいる。
庭にわ掃除そうじに頼んたのんだ植木屋うえきやが、御嬢ごじょうさん、ここいらが好いよいでしょうと云っいっている。
自分じぶんは進ますすまぬながら、書斎しょさいでペンぺんを動かしうごかしていた。
翌日よくじつは何なんだか頭あたまが重いおもいので、十じゅう時じ頃ころになってようやく起きおきた。
顔かおを洗いあらいながら裏庭うらにわを見るみると、昨日きのう植木屋うえきやの声こえのしたあたりに、小さいちいさい公こう札さつが、蒼いあおい木賊とくさの一いち株かぶと並んならんで立ったっている。
高さたかさは木賊とくさよりもずっと低いひくい。
庭下駄にわげたを穿いはいて、日影ひかげの霜しもを踏み砕いふみくだいて、近づいちかづいて見るみると、公こう札さつの表ひょうには、この土手どて登るのぼるべからずとあった。
筆子ふでこの手蹟しゅせきである。
午後ごご三重吉みえきちから返事へんじが来きた。
文鳥ぶんちょうは可か愛想あいそな事ことを致しいたしましたとあるばかりで家人けにんが悪いわるいとも残酷ざんこくだともいっこう書いかいてなかった。
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