道楽と職業

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その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する訳であります。それを極むずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる。これでもまだちょっと分らないなら、それをもっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量が少なければ少ないほど自分のためにはならない結果を生ずるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁であります。この関係を最も簡単にかつ明暸に現わしているのは金ですな。つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円方人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁になっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。

第 1 章
もっとも自分じぶんのためになると云っいってもためになり方ほうはいろいろある。
第一だいいちその中なかから税ぜいなどを払わはらわなければならない。
税ぜいを出しだして人ひとに月給げっきゅうをやったり、巡査じゅんさを雇っやとっておいたり、あるいは国務こくむ大臣だいじんを馬車ばしゃに乗せのせてやったりする。
もっとも一人ひとりじゃアじゃあこれだけの事ことはできませぬ、我々われわれ大勢おおぜいで金きんを出しだしてやるのですが、畢竟ひっきょうずるにあの税ぜいなどもやはり自分じぶんのために出すだすのです。
国務こくむ大臣だいじんが馬車ばしゃや自動車じどうしゃに乗っのって怪しからあやしからんと言っいったってそれは野暮やぼの云ういう事ことです。
我々われわれが税ぜいを出しだして乗らしのらしておいてやるので国務こくむ大臣だいじんのためじゃない、つまり己おのれのためだと思えおもえば間ま違いはない。
だから時々ときどき自動車じどうしゃぐらい借りかりに行っいってもよかろうと思うおもう。
税ぜいはそのくらいにしてこのほか己おのれのためにするものは衣食住いしょくじゅうと他ほかの贅沢ぜいたく費ひになります。
それを合算がっさんすると、つまり銀行ぎんこうの帳簿ちょうぼのように収入しゅうにゅうと支出ししゅつと平均へいきんします。
すなわち人ひとのためにする仕事しごとの分量ぶんりょうは取りとりも直さなおさず己おのれのためにする仕事しごとの分量ぶんりょうという方程式ほうていしきがちゃんと数字すうじの上うえに現われあらわれて参りまいります。
もっとも吝けちで蓄めためている奴やつがあるかも知れしれないが、これは例外れいがいである。
例外れいがいであるが蓄めためていればそれだけの労力ろうりょくというものを後あとへ繰越すくりこすのだから、やはり同じおなじ理窟りくつになります。
よくあいつは遊んあそんでいて憎らしいにくらしいとかまたはごろごろしていて羨ましいうらやましいとか金持かねもちの評判ひょうばんをするようですが、そもそも人間にんげんは遊んあそんでいて食えるくえる訳わけのものではない。
遊んあそんでいるように見えるみえるのは懐ふところにある金きんが働いはたらいてくれているからのことで、その金きんというものは人ひとのためにする事ことなしにただ遊んあそんでいてできたものではない。
親父おやじが額がくに汗あせを出しだした記念きねんだとかあるいは婆ばあさんの臍へそ繰だとか中なかには因縁いんねん付きつきの悪いわるい金きんもありましょうけれども、とにかく何なんらか人ひとのためにした符ふ徴しるし、人ひとのためにしてやったその報酬ほうしゅうというものが、つまり自分じぶんの金きんになって、そうして自分じぶんはそのお蔭おかげでもって懐手ふところでをして遊んあそんでいられるという訳わけでしょう。
職業しょくぎょうの性質せいしつというものはまあざっとこんなものです。
そこでネね、人ひとのためにするという意味いみを間違えまちがえてはいけませんよ。
人ひとを教育きょういくするとか導くみちびくとか精神的せいしんてきにまた道義的どうぎてきに働きかけはたらきかけてその人ひとのためになるという事ことだと解釈かいしゃくされるとちょっと困るこまるのです。
人ひとのためにというのは、人ひとの言うゆうがままにとか、欲するほっするがままにといういわゆる卑俗ひぞくの意味いみで、もっと手短かてみじかに述べれのべれば人ひとの御機嫌ごきげんを取れとればというくらいの事ことに過ぎんすぎんのです。
人ひとにお世辞おせじを使えつかえばと云いいい変えかえても差支さしつかえないくらいのものです。
だから御覧ごらんなさい。
世の中よのなかには徳義とくぎ的まとに観察かんさつするとずいぶん怪しからあやしからぬと思うおもうような職業しょくぎょうがありましょう。
しかもその怪しからあやしからぬと思うおもうような職業しょくぎょうを渡世とせいにしている奴やつは我々われわれよりはよっぽどえらい生活せいかつをしているのがあります。
しかし一面いちめんから云えいえば怪しからあやしからぬにせよ、道徳どうとく問題もんだいとして見れみれば不埒ふらちにもせよ、事実じじつの上うえから云えいえば最ももっとも人ひとのためになることをしているから、それがまた最ももっとも己おのれのためになって、最ももっとも贅沢ぜいたくを極めきわめていると言わいわなければならぬのです。
道徳どうとく問題もんだいじゃない、事実じじつ問題もんだいである。
現にげんに芸妓げいぎというようなものは、私わたくしはあまり関係かんけいしないからして精しいくわしいことは知らしらんけれどもとにかく一流いちりゅうの芸妓げいぎとか何なんとかなるとちょっと指環ゆびわを買うかうのでも千せん円えんとか五百ごひゃく円えんという高価こうかなものの中なかから撰せん取とりをして余裕よゆうがあるように見えるみえる。
私わたくしは今いまここにニッケルにっけるの時計とけいしか持っもっておらぬ。
高尚こうしょうな意味いみで云っいったら芸妓げいぎよりも私わたくしの方ほうが人ひとのためにする事ことが多くおおくはないだろうかという疑ぎもあるが、どうも芸妓げいぎほど人ひとの気きに入らはいらない事こともまたたしからしい。
つまり芸妓げいぎは有徳うとくな人ひとだからああ云ういう贅沢ぜいたくができる、いくら学問がくもんがあっても徳とくの無いない人間にんげん、人ひとに好かよしみかれない人間にんげんというものは、ニッケルにっけるの時計とけいぐらい持っもって我慢がまんしているよりほか仕方しかたがないという結論けつろんに落ちおちて来るくる。
だから私わたくしのいう人ひとのためにするという意味いみは、一般いっぱんの人ひとの弱点じゃくてん嗜好しこうに投ずるとうずると云ういう大きなおおきな意味いみで、小さいちいさい道徳どうとく――道徳どうとくは小さくちいさくありませぬが、まず事実じじつの一部分いちぶぶんに過ぎすぎないのだから小さいちいさいと云っいっても差支さしつかえないでしょう。
そう云ういう高尚こうしょうではあるが偏狭へんきょうな意味いみで人ひとのためにするというのではなく、天然てんねんの事実じじつそのものを引きくるめひきくるめて何なんでもかでも人ひとに歓迎かんげいされるという意味いみの「ためにする」仕事しごとを指しさしたのであります。
そこで職業しょくぎょう上うえにおける己おのれのため人ひとのためと云ういう事ことは以上いじょうのように御ご記憶きおくを願っねがっておいて、話はなしがまた後戻りあともどりをする恐れおそれがあるかも知れしれないが、前まえ申しもうした通りとおり人文じんぶん発達はったつの順序じゅんじょとして職業しょくぎょうが大変たいへん割れわれて細かくこまかくなると妙みょうな結果けっかを我々われわれに与えるあたえるものだからその結果けっかを一口ひとくち御ご話はなしをして、そうして先さきへ進みすすみたいと思いおもいます。
私わたくしの見るみるところによると職業しょくぎょうの分化ぶんか錯綜さくそうから我々われわれの受けるうける影響えいきょうは種々しゅじゅありましょうが、そのうちに見逃すみのがす事ことのできない一種いっしゅ妙みょうな者ものがあります。
というのはほかでもないが開化かいかの潮流ちょうりゅうが進めすすめば進むすすむほど、また職業しょくぎょうの性質せいしつが分れれわかれれば分れるわかれるほど、我々われわれは片輪かたわな人間にんげんになってしまうという妙みょうな現象げんしょうが起るおこるのであります。
言い換えるいいかえると自分じぶんの商売しょうばいがしだいに専門的せんもんてきに傾いかたむいてくる上うえに、生存せいぞん競争きょうそうのために、人ひと一いち倍ばいの仕事しごとで済んすんだものが二に倍ばい三さん倍ばい乃至ないし四よん倍ばいとだんだん速力そくりょくを早めはやめておいつかなければならないから、その方ほうだけに時間じかんと根気こんきを費しついやしがちであると同時どうじに、お隣りとなりの事ことや一いち軒のきおいたお隣りとなりの事ことが皆目かいもく分らわからなくなってしまうのであります。
こういうように人間にんげんが千筋せんすじも万まん筋すじもある職業しょくぎょう線せんの上うえのただ一線いっせんしか往来おうらいしないで済むすむようになり、また他ほかの線せんへ移るうつる余裕よゆうがなくなるのはつまり吾人ごじんの社会的しゃかいてき知識ちしきが狭くせまく細くほそく切りつめきりつめられるので、あたかも自らみずから好んこのんで不具ふぐになると同じおなじ結果けっかだから、大きくおおきく云えいえば現代げんだいの文明ぶんめいは完全かんぜんな人間にんげんを日ひに日ひに片輪かたわ者ものに打だ崩しくずしつつ進むすすむのだと評しひょうしても差支さしつかえないのであります。
極きょくの野蛮やばん時代じだいで人ひとのお世話おせわには全くまったくならず、自分じぶんで身みに纏うまとうものを捜し出しさがしだし、自分じぶんで井戸いどを掘っほって水みずを飲みのみ、また自分じぶんで木の実このみか何なんかを拾っじゅうって食っしょくって、不自由ふじゆうなく、不足ふそくなく、不足ふそくがあるにしても苦しいくるしい顔かおもせずに我慢がまんをしていれば、それこそ万事ばんじ人ひとに待つまつところなき点てんにおいて、また生活せいかつ上うえの知識ちしきをいっさい自分じぶんに備えそなえたる点てんにおいて完全かんぜんな人間にんげんと云わいわなければなりますまい。
ところが今いまの社会しゃかいでは人ひとのお世話おせわにならないで、一人前いちにんまえに暮らしくらしているものはどこをどう尋ねたずねたって一人ひとりもない。
この意味いみからして皆みな不完全ふかんぜんなものばかりである。
のみならず自分じぶんの専門せんもんは、日ひに月つきに、年ねんには無論むろんのこと、ただ狭くせまく細くほそくなって行きいきさえすればそれですむのである。
ちょうど針はりで掘抜ほりぬけ井戸いどを作るつくるとでも形容けいようしてしかるべき有様ありさまになって行くいくばかりです。
何なん商売しょうばいを例れいに取っとっても説明せつめいはできますが、この状態じょうたいを最ももっともよく証明しょうめいしているものは専門せんもん学がく者ものなどだろうと思いおもいます。
昔むかしの学者がくしゃはすべての知識ちしきを自分じぶん一人ひとりで背負っせおって立ったったように見えみえますが、今いまの学者がくしゃは自分じぶんの研究けんきゅう以外いがいには何なんも知らしらない私わたくしが前まえ申しもうした意味いみの不具ふぐが揃っそろっているのであります。
私わたくしのような者ものでも世間せけんではたまに学者がくしゃ扱こきにしてくれますが、そうするとやっぱり不具ふぐの一人ひとりであります。
なるほど私わたくしなどは不具ふぐに違いない、どうもすくなくとも普通ふつうのことを知らしらない。
区役所くやくしょへ出すだす転居てんきょ届とどけの書き方かきかたも分らわからなければ、地面じめんを売るうるにはどんな手続てつづきをしていいかさえ分らわからない。
綿めんは綿めんの木きのどんな所ところをどうして拵えるこしらえるかも解しかいし得とくない。
玉子豆腐たまごとうふはどうしてできるかこれまた不明ふめいである。
食うくうことは知っしっているが拵えるこしらえる事ことは全くまったく知らしらない。
その他ほか味あじ淋にしろ、醤油しょうゆにしろ、なんにしろかにしろすべて知らしらないことだらけである。
知識ちしきの上うえにおいて非常ひじょうな不具ふぐと云わいわなければなりますまい。
けれどもすべてを知らしらない代りかわりに一いちカ所かしょか二にカ所かしょ人ひとより知っしっていることがある。
そうして生活せいかつの時間じかんをただその方面ほうめんにばかり使っつかったものだから、完全かんぜんな人間にんげんをますます遠ざかっとおざかって、実じつに突飛とっぴなものになり終おわりせてしまいました。
私わたくしばかりではない、かの博士はかせとか何なんとか云ういうものも同様どうようであります。
あなた方ほうは博士はかせと云ういうと諸事しょじ万端ばんたん人間にんげんいっさい天地てんち宇宙うちゅうの事ことを皆みな知っしっているように思うおもうかも知れしれないが全くまったくその反対はんたいで、実じつは不具ふぐの不具ふぐの最ももっとも不具ふぐな発達はったつを遂げとげたものが博士はかせになるのです。
それだから私わたくしは博士はかせを断りことわりました。
しかしあなた方ほうは――手てを叩いたたいたって駄目だめです。
現にげんに博士はかせという名なにごまかされているのだから駄目だめです。
例えばたとえば明石あかしなら明石あかしに医学いがく博士はかせが開業かいぎょうする、片方かたほうに医学いがく士しがあるとする。
そうすると医学いがく博士はかせの方ほうへ行くいくでしょう。
いくら手てを叩いたたいたって仕方しかたがない、ごまかされるのです。
内情ないじょうを御ご話はなしすれば博士はかせの研究けんきゅうの多くおおくは針はりの先きさきで井戸いどを掘るほるような仕事しごとをするのです。
深いぶかいことは深いぶかい。
掘抜きほりぬきだから深いぶかいことは深いぶかいが、いかんせん面積めんせきが非常ひじょうに狭いせまい。
それを世間せけんではすべての方面ほうめんに深いぶかい研究けんきゅうを積んつんだもの、全体ぜんたいの知識ちしきが万遍まんべんなく行きいき渡っわたっていると誤解ごかいして信用しんようをおきすぎるのです。
現にげんに博士論文はかせろんぶんと云ういうのを見るみると存外ぞんがい細かこまかな題目だいもくを捕えとらえて、自分じぶん以外いがいには興味きょうみもなければ知識ちしきもないような事項じこうを穿鑿せんさくしているのが大分おおいたあるらしく思わおもわれます。
ところが世間せけんに向っむかってはただ医学いがく博士はかせ、文学ぶんがく博士はかせ、法学ほうがく博士はかせとして通っとおっているからあたかも総てすべての知識ちしきをもっているかのように解釈かいしゃくされる。
あれは文部省もんぶしょうが悪いわるいのかも知れしれない。
虎列剌これら病やまい博士はかせとか腸ちょう窒扶斯ちふす博士はかせとか赤痢せきり博士はかせとかもっと判然はんぜんと領分りょうぶんを明らかあきらかにした方ほうが善くよくはないかと思うおもう。
肺病はいびょう患者かんじゃが赤痢せきりの論文ろんぶんを出しだして博士はかせになった医者いしゃの所ところへ行っいったって差支さしつかえはないが、その人ひとに博士はかせたる名誉めいよを与えあたえたのは肺病はいびょうとは没交渉ぼつこうしょうの赤痢せきりであって見れみれば、単にたんに博士はかせの名なで肺病はいびょうを担ぎ込んかつぎこんでは勘かん違いになるかも知れしれない。
博士はかせの事ことはそのくらいにしてただ以上いじょうをかい撮んつまんで云ういうと、吾人ごじんは開化かいかの潮流ちょうりゅうに押し流さおしながされて日ひに日ひに不具ふぐになりつつあるということだけは確かたしかでしょう。
それをほかの言葉ことばでいうと自分じぶん一人ひとりではとても生きいきていられない人間にんげんになりつつあるのである。
自分じぶんの専門せんもんにしていることにかけては、不具ふぐ的まとに非常ひじょうに深いぶかいかも知れしれぬが、その代りかわり一般的いっぱんてきの事物じぶつについては、大変たいへんに知識ちしきが欠乏けつぼうした妙みょうな変人へんじんばかりできつつあるという意味いみです。
私わたくしは職業しょくぎょう上うえ己おのれのためとか人ひとのためとか云ういう言葉ことばから出立しゅったつしてその先さきへ進むすすむはずのところをツイついわき道わきみちへそれて職業しょくぎょう上うえの片輪かたわという事ことを御ご話しはなしし出しだしたから、ついでにその片輪かたわの所ところ置おけについて一言ひとこと申上げもうしあげて、また己おのれのため人ひとのための本論ほんろんに立ち帰りたちかえりたい。
順序じゅんじょの乱れるみだれるのは口くちに駆らかられる講演こうえんの常つねとして御ご許しゆるしを願いねがいます。
そこで世の中よのなかでは――ことに昔むかしの道徳どうとく観かんや昔むかし堅気かたぎの親おやの意見いけんやまたは一般いっぱん世間せけんの信用しんようなどから云いいいますと、あの人ひとは家業かぎょうに精せいを出すだす、感心かんしんだと云っいって賞めほめそやします。
いわゆる家業かぎょうに精せいを出すだす感心かんしんな人ひとというのは取とりも直さなおさず真黒まっくろになって働いはたらいている一般的いっぱんてきの知識ちしきの欠乏けつぼうした人間にんげんに過ぎすぎないのだから面白いおもしろい。
露骨ろこつに云えいえば自らみずから進んすすんで不具ふぐになるような人間にんげんを世の中よのなかでは賞めほめているのです。
それはとにかくとして現今げんこんのように各自かくじの職業しょくぎょうが細くほそく深くふかくなって知識ちしきや興味きょうみの面積めんせきが日ひに日ひに狭めせばめられて行くいくならば、吾人ごじんは表面ひょうめん上うえ社会的しゃかいてき共同きょうどう生活せいかつを営んいとなんでいるとは申しもうしながら、その実じつ銘々めいめい孤立こりつして山やまの中なかに立て籠ったてこもっていると一般いっぱんで、隣り合せとなりあわせに居いを卜しぼくしていながら心こころは天涯てんがいにかけ離れかけはなれて暮しくらしているとでも評するひょうするよりほかに仕方しかたがない有様ありさまに陥っおちいって来きます。
これでは相互そうごを了解りょうかいする知識ちしきも同情どうじょうも起りおこりようがなく、せっかくかたまって生きいきていても内部ないぶの生活せいかつはむしろバラバラばらばらで何なんの連鎖れんさもない。
ちょうど乾涸びひからびた糒ほしいのようなもので一いち粒つぶ一いち粒つぶに孤立こりつしているのだから根ねッからっから面白くおもしろくないでしょう。
人間にんげんの職業しょくぎょうが専門的せんもんてきになってまた各々おのおの自分じぶんの専門せんもんに頭あたまを突込んつっこんで少しすこしでも外面がいめんを見渡すみわたす余裕よゆうがなくなると当面とうめんの事こと以外いがいは何なんも分らわからなくなる。
また分らわからせようという興味きょうみも出でて来きにくい。
それで差支さしつかえないと云えいえばそれまでであるが、現にげんに家業かぎょうにはいくら精通せいつうしてもまたいくら勉強べんきょうしてもそればかりじゃどこか不足ふそくな訴うったえが内部ないぶから萌しきざして来きて何なんとなく充分じゅうぶんに人間的にんげんてきな心持こころもちが味あじえないのだからやむをえない。
したがってこの孤立こりつ支離しりの弊へいを何なんとかして矯めためなければならなくなる。
それを矯めるためる方法ほうほうを御ご話しはなしするためにわざわざこの壇上だんじょうに現われあらわれたのではないから詳しいくわしい事ことは述べのべませんが、また述べるのべるにしたところで大体だいたいはすでに諸君しょくんも御承知ごしょうちの事ことであるが、まあ物もののついでだから一言ひとことそれに触れふれておきましょう。
すでに個々ここ介立かいりつの弊へいが相互そうごの知識ちしきの欠乏けつぼうと同情どうじょうの稀薄きはくから起っおこったとすれば、我々われわれは自分じぶんの家業かぎょう商売しょうばいに逐わおわれて日ひもまた足らあしらぬ時間じかんしかもたない身分みぶんであるにもかかわらず、その乏しいとぼしい余裕よゆうを割いさいて一般いっぱんの人間にんげんを広くひろく了解りょうかいしまたこれに同情どうじょうし得るうる程度ていどに互たがいの温おん味あじを醸すかもす法ほうを講じこうじなければならない。
それにはこういう公会堂こうかいどうのようなものを作っつくって時々ときどき講演こうえん者ものなどを聘しへいして知識ちしき上うえの啓発けいはつをはかるのも便法べんぽうでありますし、またそう知的ちてきの方面ほうめんばかりでは窮屈きゅうくつすぎるから、いわゆる社交しゃこう機関きかんを利用りようして、互たがいの歓かん情じょうを※すのも良法りょうほうでありましょう。
時じとしては方便ほうべんの道具どうぐとして酒さけや女おんなを用いもちいても好いよいくらいのものでしょう。
実業家じつぎょうかなどがむずかしい相談そうだんをするのにかえって見当けんとう違いの待合まちあいなどで落合っおちあって要領ようりょうを得とくているのも、全くまったく酒色しゅしょくという人間にんげんの窮屈きゅうくつを融かしとかし合うあう機械きかいの具ぐった場所ばしょで、その影響えいきょうの下したに、角かくの取れとれた同情どうじょうのある人間にんげんらしい心持こころもちで相互そうごに所ところ置おけができるからだろうと思いおもいます。
現にげんに事ことが纏るまとまるという実用じつよう上うえの言葉ことばが人間にんげんとして彼我ひが打ち解けうちとけた非ひ実用じつようの快感かいかん状態じょうたいから出立しゅったつしなければならないのでも分りわかりましょう。
こういうと私わたくしが酒さけや女おんなをむやみに推薦すいせんするようでちょっとおかしいが、私わたくしの申上げるもうしあげる主意しゅいはたとい弊害へいがいの多いおおい酒さけや女おんなや待合まちあいなどが交際こうさいの機関きかんとして上流じょうりゅうの人ひとに用いもちいられるのでも、人間にんげんは個々ここ別々べつべつに孤立こりつして互たがいの融和ゆうわ同情どうじょうを眼中がんちゅうに置かおかず、ただ自家じか専門せんもんの職業しょくぎょうにのみ腐心ふしんしてはいられないものだという例れいに御ご話しはなしたくらいのものであります。
本来ほんらいを云ういうと私わたくしはそういう社交しゃこう機関きかんよりも、諸君しょくんが本業ほんぎょうに費やすついやす時間じかん以外いがいの余裕よゆうを挙げあげて文学書ぶんがくしょを御ご読みよみにならん事ことを希望きぼうするのであります。
これは我がわが田たへ水みずを引くひくような議論ぎろんにも見えみえますが、元来がんらい文学ぶんがく上うえの書物しょもつは専門的せんもんてきの述作じゅっさくではない、多くおおく一般いっぱんの人間にんげんに共通きょうつうな点てんについて批評ひひょうなり叙述じょじゅつなり試みこころみた者ものであるから、職業しょくぎょうのいかんにかかわらず、階級かいきゅうのいかんにかかわらず赤裸々せきららの人間にんげんを赤裸々せきららに結びつけむすびつけて、そうしてすべての他ほかの墻壁しょうへきを打破だはする者ものでありますから、吾人ごじんが人間にんげんとして相互そうごに結びつくむすびつくためには最ももっとも立派りっぱでまた最ももっとも弊へいの少ないすくない機関きかんだと思わおもわれるのです。
少くすくなくとも芸妓げいぎを上げあげて酒さけを飲んのんだと同等どうとう以上いじょうの効果こうかがありそうに思わおもわれるのであります。
あなた方ほうもこういう公会堂こうかいどうへわざわざこの暑いあついのに集まっあつまって、私わたくしのような者ものの言うゆうことを黙っだまって聴くきくような勇気ゆうきがあるのだから、そういう楽らくな時間じかんを利用りようして少しすこし御ご読みよみになったらいかがだろうと申しもうしたいのです。
職業しょくぎょうが細かくこまかくなりまた忙がしくいそがしくなる結果けっか我々われわれが不具ふぐになるが、それはどうして矯正きょうせいするかという問題もんだいはまずこのくらいにして、この講演こうえんの冒頭ぼうとうに述べのべた己おのれのためとか人ひとのためとかいう議論ぎろんに立ち帰ったちかえってその約やくりをつけてこの講演こうえんを結びむすびたいと思いおもいます。
それで前まえ申しもうした己おのれのためにするとか人ひとのためにするとかいう見地けんちからして職業しょくぎょうを観察かんさつすると、職業しょくぎょうというものは要するようするに人ひとのためにするものだという事ことに、どうしても根本こんぽん義ぎを置かおかなければなりません。
人ひとのためにする結果けっかが己おのれのためになるのだから、元もとはどうしても他人たにん本位ほんいである。
すでに他人たにん本位ほんいであるからには種類しゅるいの選択せんたく分量ぶんりょうの多少たしょうすべて他ほかを目安めやすにして働かはたらかなければならない。
要するようするに取捨しゅしゃ興廃こうはいの権威けんい共ともに自己じこの手中しゅちゅうにはない事ことになる。
したがって自分じぶんが最上さいじょうと思うおもう製作せいさくを世間せけんに勧めすすめて世間せけんはいっこう顧みかえりみなかったり自分じぶんは心持こころもちが好くよくないので休みやすみたくても世間せけんは平日へいじつのごとく要求ようきゅうを恣ほしいままにしたりすべて己おのれを曲げまげて人ひとに従わしたがわなくては商売しょうばいにはならない。
この自己じこを曲げるまげるという事ことは成功せいこうには大切たいせつであるが心理的しんりてきにははなはだ厭いやなものである。
就中なかんずく最ももっとも厭いやなものはどんな好よしみな道みちでもある程度ていど以上いじょうに強いつよいられてその性質せいしつがしだいに嫌悪けんおに変化へんかする時じにある。
ところが職業しょくぎょうとか専門せんもんとかいうものは前まえ申すもうす通りとおり自分じぶんの需用じゅよう以上いじょうその方面ほうめんに働いはたらいてそうしてその自分じぶんに不要ふような部分ぶぶんを挙げあげて他ほかの使用しように供するきょうするのが目的もくてきであるから、自己じこを本位ほんいにして云えいえば当初とうしょから不必要ふひつようでもあり、厭いやでもある事ことを強いつよいてやるという意味いみである。
よく人ひとが商売しょうばいとなると何なんでも厭いやになるものだと云いいいますがその厭いやになる理由りゆうは全くまったくこれがためなのです。
いやしくも道楽どうらくである間まは自分じぶんに勝手かってな仕事しごとを自分じぶんの適宜てきぎな分量ぶんりょうでやるのだから面白いおもしろいに違いないが、その道楽どうらくが職業しょくぎょうと変化へんかする刹那せつなに今までいままで自己じこにあった権威けんいが突然とつぜん他人たにんの手てに移るうつるから快楽かいらくがたちまち苦痛くつうになるのはやむをえない。
打ち明けうちあけた御ご話はなしが己おのれのためにすればこそ好よしみなので人ひとのためにしなければならない義務ぎむを括りくくりつけられればどうしたって面白くおもしろくは行かいかないにきまっています。
元来がんらい己おのれを捨てるすてるということは、道徳どうとくから云えいえばやむをえず不徳ふとくも犯そうおかそうし、知識ちしきから云えいえば己おのれの程度ていどを下げさげて無知むちな事ことも云おういおうし、人情にんじょうから云えいえば己おのれの義理ぎりを低くひくくして阿漕あこぎな仕打しうちもしようし、趣味しゅみから云えいえば己おのれの芸術げいじゅつ眼めを下げさげて下劣げれつな好尚こうしょうに投じとうじようし、十中じゅうちゅう八九はちきゅうの場合ばあい悪いわるい方ほうに傾きかたむきやすいから困るこまるのである。
例えばたとえば新聞しんぶんを拵えこしらえてみても、あまり下品げぼんな事ことは書かかかない方ほうがよいと思いおもいながら、すでに商売しょうばいであれば販売はんばいの形勢けいせいから考えかんがえ営業えいぎょうの成立せいりつするくらいには俗衆ぞくしゅうの御機嫌ごきげんを取らとらなければ立ち行かたちゆかない。
要するようするに職業しょくぎょうと名なのつく以上いじょうは趣味しゅみでも徳義とくぎでも知識ちしきでもすべて一般いっぱん社会しゃかいが本尊ほんぞんになって自分じぶんはこの本尊ほんぞんの鼻息はないきを伺っうかがって生活せいかつするのが自然しぜんの理りである。
ただここにどうしても他人たにん本位ほんいでは成立たなりたたない職業しょくぎょうがあります。
それは科学者かがくしゃ哲学者てつがくしゃもしくは芸術家げいじゅつかのようなもので、これらはまあ特別とくべつの一いち階級かいきゅうとでも見做すみなすよりほかに仕方しかたがないのです。
哲学者てつがくしゃとか科学者かがくしゃというものは直接ちょくせつ世間せけんの実生活じつせいかつに関係かんけいの遠いとおい方面ほうめんをのみ研究けんきゅうしているのだから、世の中よのなかに気きに入ろうはいろうとしたって気きに入れるいれる訳わけでもなし、世の中よのなかでもこれらの人ひとの態度たいどいかんでその研究けんきゅうを買っかったり買わかわなかったりする事ことも極めてきわめて少ないすくないには違いないけれども、ああいう種類しゅるいの人ひとが物好きものずきに実験室じっけんしつへ入っはいって朝あさから晩ばんまで仕事しごとをしたり、または書斎しょさいに閉じ籠っとじこもって深いぶかい考かんがえに沈んしずんだりして万事ばんじを等閑なおざりに附しふしている有様ありさまを見るみると、世の中よのなかにあれほど己おのれのためにしているものはないだろうと思わおもわずにはいられないくらいです。
それから芸術家げいじゅつかもそうです。
こうもしたらもっと評判ひょうばんが好くよくなるだろう、ああもしたらまだ活計かっけい向むかいの助けたすけになるだろうと傍そばの者ものから見れみればいろいろ忠告ちゅうこくのしたいところもあるが、本人ほんにんはけっしてそんな作略さりゃくはない、ただ自分じぶんの好よしみな時じに好よしみなものを描いえがいたり作っつくったりするだけである。
もっとも当人とうにんがすでに人間にんげんであって相応そうおうに物質的ぶっしつてき嗜欲のあるのは無論むろんだから多少たしょう世間せけんと折合っおりあって歩調ほちょうを改めるあらためる事ことがないでもないが、まあ大体だいたいから云ういうと自我じが中心ちゅうしんで、極くごく卑近ひきんの意味いみの道徳どうとくから云えいえばこれほどわがままのものはない、これほど道楽どうらくなものはないくらいです。
すでに御ご話はなしをした通りとおりおよそ職業しょくぎょうとして成立せいりつするためには何なんか人ひとのためにする、すなわち世よの嗜好しこうに投ずるとうずると一般いっぱんの御機嫌ごきげんを取るとるところがなければならないのだが、本来ほんらいから云ういうと道楽どうらく本位ほんいの科学者かがくしゃとか哲学者てつがくしゃとかまた芸術家げいじゅつかとかいうものはその立場たちばからしてすでに職業しょくぎょうの性質せいしつを失っうしなっていると云わいわなければならない。
実際じっさい今いまの世よで彼かれらは名前なまえには職業しょくぎょうとして存在そんざいするが実質じっしつの上うえではほとんど職業しょくぎょうとして認めみとめられないほど割わりに合わあわない報酬ほうしゅうを受けうけているのでこの辺へんの消息しょうそくはよく分るわかるでしょう。
現にげんに科学者かがくしゃ哲学者てつがくしゃなどは直接ちょくせつ世間せけんと取引とりひきしては食っしょくって行けいけないからたいていは政府せいふの保護ほごの下したに大学だいがく教授きょうじゅとか何なんとかいう役やくになってやっと露命ろめいをつないでいる。
芸術家げいじゅつかでも時じに容れいれられず世よから顧みかえりみられないで自然しぜん本位ほんいを押し通すおしとおす人ひとはずいぶん惨澹さんたんたる境遇きょうぐうに沈淪ちんりんしているものが多いおおいのです。
御承知ごしょうちの大おお雅みやび堂どうでも今いまでこそ大したたいした画工がこうであるがその当時とうじ毫もごうも世間せけん向むかいの画がをかかなかったために生涯しょうがい真葛さねかずらが原はらの陋居ろうきょに潜んひそんでまるで乞食こじきと同じおなじ一生いっしょうを送りおくりました。
仏蘭西ふらんすのミレーみれーも生きいきている間まは常つねに物質的ぶっしつてきの窮乏きゅうぼうに苦しめくるしめられていました。
またこれは個人こじんの例れいではないが日本にっぽんの昔むかしに盛んさかんであった禅僧ぜんそうの修行しゅぎょうなどと云ういうものも極端きょくたんな自然しぜん本位ほんいの道楽どうらく生活せいかつであります。
彼かれらは見性けんしょうのため究きわむ真しんのためすべてを抛っほうって坐禅ざぜんの工夫くふうをします。
黙然もくぜんと坐しざしている事ことが何なんで人ひとのためになりましょう。
善いよい意味いみにも悪いわるい意味いみにも世間せけんとは没交渉ぼつこうしょうである点てんから見みて彼かれら禅僧ぜんそうは立派りっぱな道楽どうらくものであります。
したがって彼かれらはその苦行くぎょう難行なんぎょうに対したいして世間せけんから何なんらの物質的ぶっしつてき報酬ほうしゅうを得とくていません。
麻あさの法衣ほういを着きて麦むぎの飯めしを食っしょくってあくまで道みちを求めもとめていました。
要するようするに原理げんりは簡単かんたんで、物質的ぶっしつてきに人ひとのためにする分量ぶんりょうが多けれおおければ多いおおいほど物質的ぶっしつてきに己おのれのためになり、精神的せいしんてきに己おのれのためにすればするほど物質的ぶっしつてきには己おのれの不為ふためになるのであります。
以上いじょう申し上げもうしあげた科学者かがくしゃ哲学者てつがくしゃもしくは芸術家げいじゅつかの類るいが職業しょくぎょうとして優にゆうに存在そんざいし得るうるかは疑問ぎもんとして、これは自己じこ本位ほんいでなければとうてい成功せいこうしないことだけは明かあきらかなようであります。
なぜなればこれらが人ひとのためにすると己おのれというものは無くなっなくなってしまうからであります。
ことに芸術家げいじゅつかで己おのれの無いない芸術家げいじゅつかは蝉せみの脱殻ぬけがら同然どうぜんで、ほとんど役やくに立たたたない。
自分じぶんに気きの乗っのった作さくができなくてただ人ひとに迎えむかえられたい一心いっしんでやる仕事しごとには自己じこという精神せいしんが籠るこもるはずがない。
すべてが借り物かりものになって魂たましいの宿るやどる余地よちがなくなるばかりです。
私わたくしは芸術家げいじゅつかというほどのものでもないが、まあ文学ぶんがく上うえの述作じゅっさくをやっているから、やはりこの種類しゅるいに属するぞくする人間にんげんと云っいって差支さしつかえないでしょう。
しかも何なんか書いかいて生活費せいかつひを取っとって食っしょくっているのです。
手短かてみじかに云えいえば文学ぶんがくを職業しょくぎょうとしているのです。
けれども私わたくしが文学ぶんがくを職業しょくぎょうとするのは、人ひとのためにするすなわち己おのれを捨てすてて世間せけんの御機嫌ごきげんを取りとり得とくた結果けっかとして職業しょくぎょうとしていると見るみるよりは、己おのれのためにする結果けっかすなわち自然しぜんなる芸術的げいじゅつてき心術しんじゅつの発現はつげんの結果けっかが偶然ぐうぜん人ひとのためになって、人ひとの気きに入っはいっただけの報酬ほうしゅうが物質的ぶっしつてきに自分じぶんに反響はんきょうして来きたのだと見るみるのが本当ほんとうだろうと思いおもいます。
もしこれが天てんから人ひとのためばかりの職業しょくぎょうであって、根本的こんぽんてきに己おのれを枉げまげて始はじめて存在そんざいし得るうる場合ばあいには、私わたくしは断然だんぜん文学ぶんがくを止めとめなければならないかも知れしれぬ。
幸いさいわいにして私自身わたくしじしんを本位ほんいにした趣味しゅみなり批判ひはんなりが、偶然ぐうぜんにも諸君しょくんの気きに合っあって、その気きに合っあった人ひとだけに読まよまれ、気きに合っあった人ひとだけから少なくすくなくとも物質的ぶっしつてきの報酬ほうしゅう、(あるいは感謝かんしゃでも宜しいよろしい)を得とくつつ今日きょうまで押しおして来きたのである。
いくら考えかんがえても偶然ぐうぜんの結果けっかである。
この偶然ぐうぜんが壊れこわれた日ひにはどっち本位ほんいにするかというと、私わたくしは私わたくしを本位ほんいにしなければ作物さくもつが自分じぶんから見みて物ものにならない。
私わたくしばかりじゃない誰だれしも芸術家げいじゅつかである以上いじょうはそう考えるかんがえるでしょう。
したがってこういう場合ばあいには、世間せけんが芸術家げいじゅつかを自分じぶんに引付けるひきつけるよりも自分じぶんが芸術家げいじゅつかに食しょく付いついて行くいくよりほかに仕様しようがないのであります。
食しょく付いついて行かいかなければそれまでという話はなしである。
芸術家げいじゅつかとか学者がくしゃとかいうものは、この点てんにおいてわがままのものであるが、そのわがままなために彼かれらの道みちにおいて成功せいこうする。
他ほかの言葉ことばで云ういうと、彼かれらにとっては道楽どうらくすなわち本職ほんしょくなのである。
彼かれらは自分じぶんの好きすきな時じ、自分じぶんの好きすきなものでなければ、書きかきもしなければ拵えこしらえもしない。
至っていたって横着おうちゃくな道楽者どうらくしゃであるがすでに性質せいしつ上うえ道楽どうらく本位ほんいの職業しょくぎょうをしているのだからやむをえないのです。
そういう人ひとをして己おのれを捨てすてなければ立ち行かたちゆかぬように強いつよいたりまたは否応いやおうなしに天然てんねんを枉げまげさせたりするのは、まずその人ひとを殺すころすと同じおなじ結果けっかに陥るおちいるのです。
私わたくしは新聞しんぶんに関係かんけいがありますが、幸みゆきにして社主しゃしゅからしてモッもっと売れ口うれくちのよいような小説しょうせつを書けかけとか、あるいはモッもっとたくさん書かかかなくちゃいかんとか、そういう外圧がいあつ的まとの注意ちゅういを受けうけたことは今日きょうまでとんとありませぬ。
社しゃの方ほうでは私わたくしに私わたくし本位ほんいの下したに述作じゅっさくする事ことを大体だいたいの上うえで許しゆるしてくれつつある。
その代りかわり月給げっきゅうも昇のぼるげてくれないが、いくら月給げっきゅうを昇のぼるげてくれてもこういう取扱とりあつかいを変じへんじて万事ばんじ営業えいぎょう本位ほんいだけで作物さくもつの性質せいしつや分量ぶんりょうを指定していされてはそれこそ大いにおおいに困るこまるのであります。
私わたくしばかりではないすべての芸術家げいじゅつか科学者かがくしゃ哲学者てつがくしゃはみなそうだろうと思うおもう。
彼かれらは一いちも二にもなく道楽どうらく本位ほんいに生活せいかつする人間にんげんだからである。
大変たいへんわがままのようであるけれども、事実じじつそうなのである。
したがって恒産こうさんのない以上いじょう科学者かがくしゃでも哲学者てつがくしゃでも政府せいふの保護ほごか個人こじんの保護ほごがなければまあ昔むかしの禅僧ぜんそうぐらいの生活せいかつを標準ひょうじゅんとして暮さくれさなければならないはずである。
直接ちょくせつ世間せけんを相手あいてにする芸術家げいじゅつかに至っいたってはもしその述作じゅっさくなり製作せいさくがどこか社会しゃかいの一部いちぶに反響はんきょうを起しおこして、その反響はんきょうが物質的ぶっしつてき報酬ほうしゅうとなって現われあらわれて来きない以上いじょうは餓死がしするよりほかに仕方しかたがない。
己おのれを枉げるまげるという事ことと彼かれらの仕事しごととは全然ぜんぜん妥協だきょうを許さゆるさない性質せいしつのものだからである。
私わたくしは職業しょくぎょうの性質せいしつやら特色とくしょくについてはじめに一言ひとことを費やしついやし、開化かいかの趨勢すうせい上うえその社会しゃかいに及ぼすおよぼす影響えいきょうを述べのべ、最後さいごに職業しょくぎょうと道楽どうらくの関係かんけいを説きとき、その末すえ段だんに道楽どうらく的まと職業しょくぎょうというような一種いっしゅの変体へんたいのある事ことを御ご吹聴ふいちょうに及んおよんで私わたくしなどの職業しょくぎょうがどの点てんまで職業しょくぎょうでどの点てんまでが道楽どうらくであるかを諸君しょくんに大体だいたい理会りかいせしめたつもりであります。
これでこの講演こうえんを終りおわります。
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