第 1 章/1
その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する訳であります。それを極むずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる。これでもまだちょっと分らないなら、それをもっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量が少なければ少ないほど自分のためにはならない結果を生ずるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁であります。この関係を最も簡単にかつ明暸に現わしているのは金ですな。つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円方人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁になっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。
第 1 章
もっとも自分のためになると云ってもためになり方はいろいろある。
第一その中から税などを払わなければならない。
税を出して人に月給をやったり、巡査を雇っておいたり、あるいは国務大臣を馬車に乗せてやったりする。
もっとも一人じゃアこれだけの事はできませぬ、我々大勢で金を出してやるのですが、畢竟ずるにあの税などもやはり自分のために出すのです。
国務大臣が馬車や自動車に乗って怪しからんと言ったってそれは野暮の云う事です。
我々が税を出して乗らしておいてやるので国務大臣のためじゃない、つまり己のためだと思えば間違はない。
だから時々自動車ぐらい借りに行ってもよかろうと思う。
税はそのくらいにしてこのほか己のためにするものは衣食住と他の贅沢費になります。
それを合算すると、つまり銀行の帳簿のように収入と支出と平均します。
すなわち人のためにする仕事の分量は取りも直さず己のためにする仕事の分量という方程式がちゃんと数字の上に現われて参ります。
もっとも吝で蓄めている奴があるかも知れないが、これは例外である。
例外であるが蓄めていればそれだけの労力というものを後へ繰越すのだから、やはり同じ理窟になります。
よくあいつは遊んでいて憎らしいとかまたはごろごろしていて羨ましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。
遊んでいるように見えるのは懐にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。
親父が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰だとか中には因縁付きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭でもって懐手をして遊んでいられるという訳でしょう。
職業の性質というものはまあざっとこんなものです。
そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。
人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。
人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。
人にお世辞を使えばと云い変えても差支ないくらいのものです。
だから御覧なさい。
世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。
しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。
しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。
道徳問題じゃない、事実問題である。
現に芸妓というようなものは、私はあまり関係しないからして精しいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取をして余裕があるように見える。
私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。
高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。
つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。
だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点嗜好に投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支ないでしょう。
そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のためにするというのではなく、天然の事実そのものを引きくるめて何でもかでも人に歓迎されるという意味の「ためにする」仕事を指したのであります。
そこで職業上における己のため人のためと云う事は以上のように御記憶を願っておいて、話がまた後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前申した通り人文発達の順序として職業が大変割れて細かくなると妙な結果を我々に与えるものだからその結果を一口御話をして、そうして先へ進みたいと思います。
私の見るところによると職業の分化錯綜から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。
というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。
言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目分らなくなってしまうのであります。
こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支ないのであります。
極の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき点において、また生活上の知識をいっさい自分に備えたる点において完全な人間と云わなければなりますまい。
ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。
この意味からして皆不完全なものばかりである。
のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれですむのである。
ちょうど針で掘抜井戸を作るとでも形容してしかるべき有様になって行くばかりです。
何商売を例に取っても説明はできますが、この状態を最もよく証明しているものは専門学者などだろうと思います。
昔の学者はすべての知識を自分一人で背負って立ったように見えますが、今の学者は自分の研究以外には何も知らない私が前申した意味の不具が揃っているのであります。
私のような者でも世間ではたまに学者扱にしてくれますが、そうするとやっぱり不具の一人であります。
なるほど私などは不具に違ない、どうもすくなくとも普通のことを知らない。
区役所へ出す転居届の書き方も分らなければ、地面を売るにはどんな手続をしていいかさえ分らない。
綿は綿の木のどんな所をどうして拵えるかも解し得ない。
玉子豆腐はどうしてできるかこれまた不明である。
食うことは知っているが拵える事は全く知らない。
その他味淋にしろ、醤油にしろ、なんにしろかにしろすべて知らないことだらけである。
知識の上において非常な不具と云わなければなりますまい。
けれどもすべてを知らない代りに一カ所か二カ所人より知っていることがある。
そうして生活の時間をただその方面にばかり使ったものだから、完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになり終せてしまいました。
私ばかりではない、かの博士とか何とか云うものも同様であります。
あなた方は博士と云うと諸事万端人間いっさい天地宇宙の事を皆知っているように思うかも知れないが全くその反対で、実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になるのです。
それだから私は博士を断りました。
しかしあなた方は――手を叩いたって駄目です。
現に博士という名にごまかされているのだから駄目です。
例えば明石なら明石に医学博士が開業する、片方に医学士があるとする。
そうすると医学博士の方へ行くでしょう。
いくら手を叩いたって仕方がない、ごまかされるのです。
内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るような仕事をするのです。
深いことは深い。
掘抜きだから深いことは深いが、いかんせん面積が非常に狭い。
それを世間ではすべての方面に深い研究を積んだもの、全体の知識が万遍なく行き渡っていると誤解して信用をおきすぎるのです。
現に博士論文と云うのを見ると存外細かな題目を捕えて、自分以外には興味もなければ知識もないような事項を穿鑿しているのが大分あるらしく思われます。
ところが世間に向ってはただ医学博士、文学博士、法学博士として通っているからあたかも総ての知識をもっているかのように解釈される。
あれは文部省が悪いのかも知れない。
虎列剌病博士とか腸窒扶斯博士とか赤痢博士とかもっと判然と領分を明らかにした方が善くはないかと思う。
肺病患者が赤痢の論文を出して博士になった医者の所へ行ったって差支はないが、その人に博士たる名誉を与えたのは肺病とは没交渉の赤痢であって見れば、単に博士の名で肺病を担ぎ込んでは勘違になるかも知れない。
博士の事はそのくらいにしてただ以上をかい撮んで云うと、吾人は開化の潮流に押し流されて日に日に不具になりつつあるということだけは確かでしょう。
それをほかの言葉でいうと自分一人ではとても生きていられない人間になりつつあるのである。
自分の専門にしていることにかけては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつあるという意味です。
私は職業上己のためとか人のためとか云う言葉から出立してその先へ進むはずのところをツイわき道へそれて職業上の片輪という事を御話しし出したから、ついでにその片輪の所置について一言申上げて、また己のため人のための本論に立ち帰りたい。
順序の乱れるのは口に駆られる講演の常として御許しを願います。
そこで世の中では――ことに昔の道徳観や昔堅気の親の意見やまたは一般世間の信用などから云いますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云って賞めそやします。
いわゆる家業に精を出す感心な人というのは取も直さず真黒になって働いている一般的の知識の欠乏した人間に過ぎないのだから面白い。
露骨に云えば自ら進んで不具になるような人間を世の中では賞めているのです。
それはとにかくとして現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠っていると一般で、隣り合せに居を卜していながら心は天涯にかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様に陥って来ます。
これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。
ちょうど乾涸びた糒のようなもので一粒一粒に孤立しているのだから根ッから面白くないでしょう。
人間の職業が専門的になってまた各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると当面の事以外は何も分らなくなる。
また分らせようという興味も出て来にくい。
それで差支ないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部から萌して来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。
したがってこの孤立支離の弊を何とかして矯めなければならなくなる。
それを矯める方法を御話しするためにわざわざこの壇上に現われたのではないから詳しい事は述べませんが、また述べるにしたところで大体はすでに諸君も御承知の事であるが、まあ物のついでだから一言それに触れておきましょう。
すでに個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐われて日もまた足らぬ時間しかもたない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割いて一般の人間を広く了解しまたこれに同情し得る程度に互の温味を醸す法を講じなければならない。
それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘して知識上の啓発をはかるのも便法でありますし、またそう知的の方面ばかりでは窮屈すぎるから、いわゆる社交機関を利用して、互の歓情を※すのも良法でありましょう。
時としては方便の道具として酒や女を用いても好いくらいのものでしょう。
実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融かし合う機械の具った場所で、その影響の下に、角の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。
現に事が纏るという実用上の言葉が人間として彼我打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。
こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の機関として上流の人に用いられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、ただ自家専門の職業にのみ腐心してはいられないものだという例に御話したくらいのものであります。
本来を云うと私はそういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙げて文学書を御読みにならん事を希望するのであります。
これは我が田へ水を引くような議論にも見えますが、元来文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々の人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁を打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。
少くとも芸妓を上げて酒を飲んだと同等以上の効果がありそうに思われるのであります。
あなた方もこういう公会堂へわざわざこの暑いのに集まって、私のような者の言うことを黙って聴くような勇気があるのだから、そういう楽な時間を利用して少し御読みになったらいかがだろうと申したいのです。
職業が細かくなりまた忙がしくなる結果我々が不具になるが、それはどうして矯正するかという問題はまずこのくらいにして、この講演の冒頭に述べた己のためとか人のためとかいう議論に立ち帰ってその約りをつけてこの講演を結びたいと思います。
それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。
人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。
すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。
要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。
したがって自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間はいっこう顧みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。
この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。
就中最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上に強いられてその性質がしだいに嫌悪に変化する時にある。
ところが職業とか専門とかいうものは前申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強いてやるという意味である。
よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。
いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。
打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。
元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。
例えば新聞を拵えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌を取らなければ立ち行かない。
要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。
ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。
それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに仕方がないのです。
哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じ籠って深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。
それから芸術家もそうです。
こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向の助けになるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略はない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。
もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲のあるのは無論だから多少世間と折合って歩調を改める事がないでもないが、まあ大体から云うと自我中心で、極く卑近の意味の道徳から云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです。
すでに御話をした通りおよそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好に投ずると一般の御機嫌を取るところがなければならないのだが、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない。
実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。
現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。
芸術家でも時に容れられず世から顧みられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨澹たる境遇に沈淪しているものが多いのです。
御承知の大雅堂でも今でこそ大した画工であるがその当時毫も世間向の画をかかなかったために生涯真葛が原の陋居に潜んでまるで乞食と同じ一生を送りました。
仏蘭西のミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。
またこれは個人の例ではないが日本の昔に盛んであった禅僧の修行などと云うものも極端な自然本位の道楽生活であります。
彼らは見性のため究真のためすべてを抛って坐禅の工夫をします。
黙然と坐している事が何で人のためになりましょう。
善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼ら禅僧は立派な道楽ものであります。
したがって彼らはその苦行難行に対して世間から何らの物質的報酬を得ていません。
麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。
要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります。
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。
なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。
ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。
自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。
すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。
私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支ないでしょう。
しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。
手短かに云えば文学を職業としているのです。
けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌を取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。
もしこれが天から人のためばかりの職業であって、根本的に己を枉げて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。
幸いにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬、(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押して来たのである。
いくら考えても偶然の結果である。
この偶然が壊れた日にはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。
私ばかりじゃない誰しも芸術家である以上はそう考えるでしょう。
したがってこういう場合には、世間が芸術家を自分に引付けるよりも自分が芸術家に食付いて行くよりほかに仕様がないのであります。
食付いて行かなければそれまでという話である。
芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。
他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。
彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵えもしない。
至って横着な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。
そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強いたりまたは否応なしに天然を枉げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥るのです。
私は新聞に関係がありますが、幸にして社主からしてモッと売れ口のよいような小説を書けとか、あるいはモッとたくさん書かなくちゃいかんとか、そういう外圧的の注意を受けたことは今日までとんとありませぬ。
社の方では私に私本位の下に述作する事を大体の上で許してくれつつある。
その代り月給も昇げてくれないが、いくら月給を昇げてくれてもこういう取扱を変じて万事営業本位だけで作物の性質や分量を指定されてはそれこそ大いに困るのであります。
私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。
彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。
大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。
したがって恒産のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。
直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死するよりほかに仕方がない。
己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。
私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会せしめたつもりであります。
これでこの講演を終ります。
第 1 章/1