長谷川君と余

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第 1 章
長谷川はせがわ君きみと余よは互たがいに名前なまえを知るしるだけで、その他ほかには何なんの接触せっしょくもなかった。
余よが入社にゅうしゃの当時とうじすらも、長谷川はせがわ君きみがすでにわが朝日あさひの社員しゃいんであるという事ことを知らしらなかったように記憶きおくしている。
それを知りしり出しだしたのは、どう云ういう機会きかいであったか今いまは忘却ぼうきゃくしてしまった。
とにかく入社にゅうしゃしてもしばらくの間まは顔かおを合わせあわせずにいた。
しかも長谷川はせがわ君きみの家いえは西片町にしかたまちで、余よも当時とうじは同じおなじ阿部あべの屋敷やしき内うちに住んすんでいたのだから、住居じゅうきょから云えいえばつい鼻はなの先さきである。
だから本当ほんとうを云ういうと、こっちから名刺めいしでも持っもって訪問ほうもんするのが世間せけん並なみの礼れいであったんだけれども、そこをつい怠けなまけて、どこが長谷川はせがわ君きみの家いえだか聞き合わききあわせもせずに横着おうちゃくをきめてしまった。
すると間まもなく大阪おおさかから鳥居とりい君きみが来きたので、主筆しゅひつの池辺いけべ君きみが我々われわれ十じゅう余人よにんを有楽町ゆうらくちょうの倶楽部くらぶへ呼んよんで御馳走ごちそうをしてくれた。
余よは新人しんじんの社員しゃいんとして、その時じ始めはじめてわが社わがしゃの重なるかさなる人ひとと食卓しょくたくを共ともにした。
そのうちに長谷川はせがわ君きみもいたのである。
これが長谷川はせがわ君きみでと紹介しょうかいされた時じには、かねて想像そうぞうしていたところと、あまりに隔たっへだたっていたので、心こころのうちでは驚きおどろきながら挨拶あいさつをした。
始めはじめ長谷川はせがわ君きみの這入っはいって来きた姿すがたを見みたときは――また長谷川はせがわ君きみが他ほかの昵懇じっこんな社友しゃゆうとやあという言葉ことばを交換こうかんする調子ちょうしを聞いきいた時じは――全くまったく長谷川はせがわ君きみだとは気きがつかなかった。
ただ重なおもな社員しゃいんの一人ひとりなんだろうと思っおもった。
余よは若いわかい時じからいろいろ愚ぐな事ことを想像そうぞうする癖くせがあるが、未知みちの人ひとの容貌ようぼう態度たいどなどはあまり脳のう中なかに描かえがかない。
ことに中年ちゅうねんからは、この方面ほうめんにかけると全くまったく散文的さんぶんてきになってしまっている。
だから長谷川はせがわ君きみについても別段べつだんに鮮明せんめいな予想よそうは持っもっていなかったのであるけれども、冥々めいめいのうちに、漠然ばくぜんとわが脳のう中なかに、長谷川はせがわ君きみとして迎えるむかえるあるものが存在そんざいしていたと見えみえて、長谷川はせがわ君きみという名なを聞くきくや否いなやおやと思っおもった。
もっともその驚きおどろき方ほうを解剖かいぼうして見るみるとみんな消極的しょうきょくてきである。
第一だいいちあんなに背せの高いたかい人ひととは思わおもわなかった。
あんなに頑丈がんじょうな骨骼こっかくを持っもった人ひととは思わおもわなかった。
あんなに無粋ぶすいな肩幅かたはばのある人ひととは思わおもわなかった。
あんなに角張っかくばった顎あごの所有者しょゆうしゃとは思わおもわなかった。
君きみの風かぜ※はどこからどこまで四角しかくである。
頭あたままで四角しかくに感じかんじられたから今いま考えるかんがえるとおかしい。
その当時とうじ「その面影おもかげ」は読んよんでいなかったけれども、あんな艶あでっぽい小説しょうせつを書くかく人ひととして自然しぜんが製作せいさくした人間にんげんとは、とても受取れうけとれなかった。
魁偉かいいというと少しすこし大袈裟おおげさで悪いわるいが、いずれかというと、それに近いちかい方ほうで、とうてい細いほそい筆ふでなどを握っにぎって、机つくえの前まえで呻吟しんぎんしていそうもないから実じつは驚いおどろいたのである。
しかしその上うえにも余よを驚かしおどろかしたのは君きみの音調おんちょうである。
白状はくじょうすれば、もう少しすこしは浮いういてるだろうと思っおもった。
ところが非常ひじょうな呂りょ音おとで大変たいへん落ちついおちついて、ゆったりした、少しすこしも逼るせまるところのない話し方はなしかたをする。
しかも余よに紹介しょうかいされた時じ、君きみはただ一二いちに語ごしか云わいわなかった。
(もっとも余よも同じおなじ分量ぶんりょうぐらいしか挨拶あいさつに費やさついやさなかったのは事実じじつである。
)その言葉ことばは今いま全くまったく忘れわすれているが、普通ふつうにありふれた空虚くうきょな辞令じれいでなかったのはたしかである。
むしろ双方そうほうで無愛想むあいそに頭あたまを下げさげたのだったろうが、自分じぶんの事ことは分らわからないから、相手あいての容子ようこだけに驚くおどろくのである。
文学者ぶんがくしゃだから御世辞ごせじを使うつかうとすると、ほかの諸君しょくんにすまないけれども、実じつを云えいえば長谷川はせがわ君きみと余よの挨拶あいさつが、ああ単簡たんかん至極しごくに片づこうかたづこうとは思わおもわなかった。
これらは皆みな予想外よそうがいである。
この席上せきじょうで余よは長谷川はせがわ君きみと話すはなす機会きかいを得とくなかった。
ただ黙っだまって君きみの話しはなしを聞いきいていた。
その時余じよの受けうけた感じかんじは、品位ひんいのある紳士しんしらしい男おとこ――文学者ぶんがくしゃでもない、新聞しんぶん社員しゃいんでもない、また政客せいかくでも軍人ぐんじんでもない、あらゆる職業しょくぎょう以外いがいに厳然げんぜんとして存在そんざいする一いち種しゅ品位ひんいのある紳士しんしから受じゅくる社交的しゃこうてきの快かい味あじであった。
そうして、この品位ひんいは単にたんに門地もんち階級かいきゅうから生ずるしょうずる貴族的きぞくてきのものではない、半分はんぶんは性情せいじょう、半分はんぶんは修養しゅうようから来きているという事ことを悟っさとった。
しかもその修養しゅうようのうちには、自制じせいとか克己こっきとかいういわゆる漢学者かんがくしゃから受けうけ襲いおそいで、強いてしいて己おのれを矯めためた痕迹こんせきがないと云ういう事ことを発見はっけんした。
そうしてその幾分いくぶんは学問がくもんの結果けっか自らみずからここに至っいたったものと鑑定かんていした。
また幾分いくぶんは学問がくもんと反対はんたいの方面ほうめん、すなわち俗ぞくに云ういう苦労くろうをして、野暮やぼを洗い落としあらいおとして、そうして再びふたたび野暮やぼに安住あんじゅうしているところから起っおこったものと判断はんだんした。
そのうち、君きみは池辺いけべ君きみと露西亜ろしあの政党せいとう談だんをやり出しだした。
大変たいへん興味きょうみがあると見えみえて、いつまで立ったってもやめない。
※々数千すうせん言げんと云ういうとむやみに能弁のうべんにしゃべるように聞こえきこえてわるいが、時間じかんから云えいえば、こんな形容詞けいようしでも使わつかわなくってはならなくなるくらい論じろんじていた。
その知識ちしきの詳密しょうみつ精細せいさいなる事ことはまた格別かくべつなもので、向っむかって左ひだりのどの辺へんに誰だれがいて、その反対はんたいの側がわに誰だれの席せきがあるなどと、まるで露西亜ろしあへ昨日きのう行っいって見みて来きたように、例れいのむずかしい何々なになにスキーすきーなどと云ういう名前なまえがいくつも出でた。
しかし不思議ふしぎにもこの談話だんわは、物知りものしりぶった、また通つうがった陋悪な分子ぶんしを一いち点てんも含んふくんでいなかった。
余よは固よりもとより政党せいとう政治せいじに無頓着むとんちゃくな質しつであって、今いまの衆議院しゅうぎいんの議長ぎちょうは誰だれだったかねと聞いきいて友達ともだちから笑わわらわれたくらいの男おとこだから、露西亜ろしあに議会ぎかいがあるかないかさえ知らしらない。
したがってこの談話だんわには何なんらの興味きょうみもなかった。
それで、あんまり長いながいから、談話だんわの途中とちゅうで失敬しっけいして家いえへ帰っかえってしまった。
これが余よの長谷川はせがわ君きみと初はつ対面たいめんの時じの感想かんそうである。
それから、幾いく日ひか立ったって、用ようが出来できて社しゃへ行っいった。
汚いきたない階子段はしごだんを上がっあがって、編輯へんしゅう局きょくの戸とを開けあけて這入るはいると、北側きたがわの窓際まどぎわに寄せよせて据えすえた洋よう机つくえを囲んかこんで、四五しご人ひと話しはなしをしているものがある。
ほかの人ひとの顔かおは、戸とを開けるあけるや否いなやすぐ分っわかったが、たった一人ひとり余よに背中せなかを向けむけて椅子いすに腰こしをおろして、鼠色ねずみいろの背広せびろを着きて、長いながい胴どうを椅子いすの背せから食み出はみでさしていたものは誰だれだか見当けんとうがつかなかった。
横よこへ回っまわって見るみると、それが長谷川はせがわ君きみであった。
その時余じよは長谷川はせがわ君きみに向っむかって、「ちょっと御ご訪ねたずねをしようと思うおもうんだが」と言いいい出しだして、まだ句くを切らきらないうちに、君きみは「いや低気圧ていきあつのある間まは来客らいきゃく謝絶しゃぜつだ」と云っいった。
低気圧ていきあつとは何なんの事ことだか、君きみの平生へいぜいを知らしらない余よには不得要領ふとくようりょうであったけれど、来客らいきゃく謝絶しゃぜつの四よん字じの方ほうが重くおもく響いひびいたので、聞き返しききかえしもしなかった。
ただ好いよい加減かげんに頭あたまの悪いわるい事ことを低気圧ていきあつと洒落しゃれているんだろうぐらいに解釈かいしゃくしていたが、後あとから聞けきけば実際じっさいの低気圧ていきあつの事ことで、いやしくも低気圧ていきあつの去らさらないうちは、君きみの頭あたまは始終しじゅう懊悩おうのうを離れはなれないんだという事ことが分っわかった。
当時とうじ余よも君きみの向うむこうを張っちょうって来客らいきゃく謝絶しゃぜつの看板かんばんを懸けかけていた。
もっともこれは創作そうさくの低気圧ていきあつのためであったけれども、来客らいきゃく謝絶しゃぜつは表向きおもてむき双方そうほう同じおなじ事ことなんだから、この看板かんばんを引き下ろさひきおろさせるだけの縁故えんこも親しみしたしみもない両人りょうにんは、それきり面談めんだんをする機会きかいがなかった。
ところがある日ひの午後ごご湯ゆに行っいった。
着物きものを脱いぬいで、流しながしへ這入ろうはいろうとして、ふと向うむきむこうむきになって洗っあらっている人ひとの横顔よこがおを見るみると、長谷川はせがわ君きみである。
余よは長谷川はせがわさんと声こえをかけた。
それまではまるで気きがつかなかった君きみは、顔かおを上げあげて、やあと云っいった。
湯ゆの中なかではそれぎりしか口くちを利かりかなかった。
何なんでも暑いあつい時分じぶんの事ことと覚えおぼえている。
余よが身体しんたいを拭いぬぐいて、茣蓙ござの敷いしいてある縁先えんさきで、団扇うちわを使っつかって涼んすずんでいると、やがて長谷川はせがわ君きみが上がっあがって来きた。
まず眼鏡めがねをかけて、余よを見つけみつけ出しだして、向うむこうから話しはなしを始めはじめた。
双方そうほうとも真しん赤裸あかはだかのように記憶きおくしている。
しかし長谷川はせがわ君きみの話し方はなしかたは初対面はつたいめんの折おり露西亜ろしあの政党せいとうを論じろんじた時じと毫もごうも異なることなるところなく、呂りょ音おとで落ちついおちついて、ゆっくりしているものだから、全くまったく赤裸あかはだかと釣り合わつりあわない。
君きみは少しすこしも顧慮こりょする気色けしきも見えみえず醇々あつしとして頭あたまの悪いわるい事ことを説かせつかれた。
何なんでも去年きょねんとか一度いちど卒倒そっとうして、しばらく田端たばた辺へんで休養きゅうようしていたので、今いまじゃ少しすこしは好いよいようだとかいう話しはなしであった。
「それじゃ、まだ来客らいきゃく謝絶しゃぜつだろう」と冗談じょうだん半分はんぶんに聞いきいて見みたら、「まあ……」とか何なんとか云ういう返事へんじであった。
「それじゃ、行くいくのはまあ見合せようみあわせよう」と云っいって分かれわかれた。
その秋あき余よは西片町にしかたまちを引き上げひきあげて早稲田わせだへ移っうつった。
長谷川はせがわ君きみと余よとはこの引越ひっこしのためますます縁えんが遠くとおくなってしまった。
その代りかわり君きみの著作ちょさくにかかる「其その面影おもかげ」を買っかって来きて読んよんだ。
そうして大いにおおいに感服かんぷくした。
(ある意味いみから云えいえば、今いまでも感服かんぷくしている。
ここに余よのいわゆるある意味いみを説明せつめいする事ことのできないのは遺憾いかんであるが、作物さくもつの批評ひひょうを重じゅうにして書いかいたものでないからやむをえない。
)そこで、手紙てがみを認めみとめて、いささかながら早稲田わせだから西片町にしかたまちへ向けむけて賛辞さんじを郵送ゆうそうした。
実じつは脳病のうびょうが気の毒きのどくでならなかったから、こんな余計よけいな事ことをしたのである。
その当時とうじ君きみは文学者ぶんがくしゃをもって自らみずから任じにんじていないなどとは夢ゆめにも知らしらなかったので、同業者どうぎょうしゃ同社どうしゃ員いんたる余よの言葉ことばが、少しすこしは君きみに慰藉いしゃを与えあたえはしまいかという己おのれ惚ぼけがあったんだが、文士ぶんしたる事ことを恥ずはずという君きみの立場たちばを考えかんがえて見るみると、これは実際じっさい入らはいらざる差し出さしだした所為せいであったかも知れしれない。
返事へんじには端書はしがきが一いち枚ばい来きた。
その文句もんくは、有難うありがとう、いずれ拝顔はいがんの上うえとか何なんとかあるだけで、すこぶる簡単かんたんかつあっさりしていた。
ちっとも「其その面影おもかげ」流りゅうでないのには驚いおどろいた。
長谷川はせがわ君きみの書しょに一種いっしゅの風韻ふういんのある事こともその時じ始めはじめて知っしった。
しかしその書体しょたいもけっして「其その面影おもかげ」流りゅうではなかった。
それから、ずっと打だ絶えたえた。
次つぎに逢っあったのは君きみが露西亜ろしあへ行くいく事ことがほぼ内定ないていした時じのことである。
大阪おおさかの鳥居とりい君きみが出でて来きて、長谷川はせがわ君きみと余よを呼んよんで午餐ごさんを共ともにした。
所ところは神田かんだ川かわである。
旅館りょかんに落ち合っおちあって、あすこにしよう、ここにしようと評議ひょうぎをしている時じに、君きみはしきりに食い物くいものの話はなしを持ち出しもちだした。
中華ちゅうか亭てぃんとはどう書いかいたかねと余よに聞いきいた事ことを覚えおぼえている。
神田かんだ川かわでは、満洲まんしゅうへ旅行りょこうした話はなしやら、露西亜ろしあ人ひとに捕まっつかまって牢ろうへぶち込まぶちこまれた話はなしをしていた。
それから、現今げんこんの露西亜ろしあ文壇ぶんだんの趨勢すうせいの断だんえず変っかわっている有様ありさまやら、知名ちめいの文学者ぶんがくしゃの名なやら(その名なはたくさんあったが、みんな余よの知らしらないものばかりであった)、日本にっぽんの小説しょうせつの売れうれない事ことやら、露西亜ろしあへ行っいったら、日本人にっぽんにんの短篇たんぺんを露語ろごに訳しやくして見みたいという希望きぼうやら、いろいろ述べのべた。
何しろなにしろ三さん人ひと寝そべっねそべって、二三にさん時間じかん暮らしくらしていたのだから、ずいぶんゆっくり話しはなしもできた。
最後さいごにダンチェンコのために宴会えんかいをやるつもりだから出席しゅっせきしてくれろという事ことと、それから物集もずめの御嬢ごじょうさんを、自分じぶんがいなくなったら托したくしたいという二に件けんを依頼いらいした。
それで分かれわかれた。
最後さいごに逢っあったのは、出立しゅったつの数すう日ひ前まえ暇乞いとまごいに来きられた時じである。
長谷川はせがわ君きみが余よの家いえへ足あしを入れいれたのはこれが最初さいしょであってまた最終さいしゅうである。
座敷ざしきへ通っとおって、室内しつないを見渡しみわたして、何なんだか伽藍がらんのようだねと云っいった。
暇乞いとまごいのためだから別段べつだんの話しはなしも出でなかったが、ただ門弟もんていとしての物集もずめの御嬢ごじょうさんと今いま一人ひとり北国きたぐにの人ひとの事ことを繰り返しくりかえして頼んたのんで行っいった。
一いち日ひ越えこえて、余よが答礼とうれいに行っいった時じは、不在ふざいで逢えあえなかった。
見送りみおくりにはつい行かいかなかった。
長谷川はせがわ君きみとは、それきり逢えあえない事ことになってしまった。
露都ろと在留ざいりゅう中なかただ一いち枚ばいの端書はしがきをくれた事ことがある。
それには、弱いよわい話はなしだがこっちの寒ささむさには敵わかなわないとあった。
余よはその端書はしがきを見みて気の毒きのどくのうちにも一種いっしゅのおかしみを覚えおぼえた。
まさか死ぬしぬほど寒いさむいとは思わおもわなかったからである。
しかし死ぬしぬほど寒かっさむかったものと見えるみえる。
長谷川はせがわ君きみはとうとう死んしんでしまった。
長谷川はせがわ君きみは余よを了解りょうかいせず、余よは長谷川はせがわ君きみを了解りょうかいしないで死んしんでしまった。
生きいきていても、あれぎりの交際こうさいであったかも知れしれないが、あるいは、もっと親密しんみつになる機会きかいが来きたかも分らわからない。
余よは以上いじょうの長谷川はせがわ君きみを、長谷川はせがわ君きみとして記憶きおくするよりほかに仕方しかたのない遠いとおい朋友ほうゆうである。
君きみの托さたくされて行っいった物集もずめの御嬢ごじょうさんは時々ときどき見えるみえる。
北国きたぐにの人ひとに至っいたっては音信おんしんさえない。
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