第 1 章/1
その三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌であった。一人は胃癌であった、残る一人は胃潰瘍であった。みんな長くは持たない人ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命を一纏めに予言した。
第 1 章
自分は縁側に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。
実は菊を買うはずのところを、植木屋が十六貫だと云うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云ってもやっぱり負けなかった、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。
やがて食道癌の男が退院した。
胃癌の人は死ぬのは諦めさえすれば何でもないと云って美しく死んだ。
潰瘍の人はだんだん悪くなった。
夜半に眼を覚すと、時々東のはずれで、付添のものが氷を摧く音がした。
その音がやむと同時に病人は死んだ。
自分は日記に書き込んだ。
――「三人のうち二人死んで自分だけ残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔気があって、向うの端からこっちの果まで響くような声を出して始終げえげえ吐いていたが、この二三日それがぴたりと聞えなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極声を出す元気を失ったのだと知れた。」 その後患者は入れ代り立ち代り出たり入ったりした。
自分の病気は日を積むにしたがってしだいに快方に向った。
しまいには上草履を穿いて広い廊下をあちこち散歩し始めた。
その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利くようになった。
暖かい日の午過食後の運動がてら水仙の水を易えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓を捩っていると、その看護婦が受持の室の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥の鉢と、その中に盛り上げられたように膨れて見える珠根を眺めていたが、やがてその眼を自分の横顔に移して、この前御入院の時よりもうずっと御顔色が好くなりましたねと、三カ月前の自分と今の自分を比較したような批評をした。
「この前って、あの時分君もやはり附添でここに来ていたのかい」「ええつい御隣でした。しばらく○○さんの所におりましたが御存じはなかったかも知れません」 ○○さんと云うと例の変な音をさせた方の東隣である。
自分は看護婦を見て、これがあの時夜半に呼ばれると、「はい」という優しい返事をして起き上った女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。
けれども、その頃自分の神経をあのくらい刺激した音の原因については別に聞く気も起らなかった。
で、ああそうかと云ったなり朱泥の鉢を拭いていた。
すると女が突然少し改まった調子でこんな事を云った。
「あの頃あなたの御室で時々変な音が致しましたが……」 自分は不意に逆襲を受けた人のように、看護婦を見た。
看護婦は続けて云った。
「毎朝六時頃になるときっとするように思いましたが」「うん、あれか」と自分は思い出したようについ大きな声を出した。
「あれはね、自働革砥の音だ。毎朝髭を剃るんでね、安全髪剃を革砥へかけて磨ぐのだよ。今でもやってる。嘘だと思うなら来て御覧」 看護婦はただへええと云った。
だんだん聞いて見ると、○○さんと云う患者は、ひどくその革砥の音を気にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのだそうである。
看護婦がどうも分らないと答えると、隣の人はだいぶん快いので朝起きるすぐと、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云う話である。
「そりゃ好いが御前の方の音は何だい」「御前の方の音って?」「そらよく大根をおろすような妙な音がしたじゃないか」「ええあれですか。あれは胡瓜を擦ったんです。患者さんが足が熱って仕方がない、胡瓜の汁で冷してくれとおっしゃるもんですから私が始終擦って上げました」「じゃやっぱり大根おろしの音なんだね」「ええ」「そうかそれでようやく分った。――いったい○○さんの病気は何だい」「直腸癌です」「じゃとてもむずかしいんだね」「ええもうとうに。ここを退院なさると直でした、御亡くなりになったのは」 自分は黙然としてわが室に帰った。
そうして胡瓜の音で他を焦らして死んだ男と、革砥の音を羨ましがらせて快くなった人との相違を心の中で思い比べた。
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