その十万円で家屋を立てる事もできるし、書籍を買う事もできるし、または花柳社界を賑わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い占める、すなわちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力をもって働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないと云うのです。いな自分自身にもすむまいというのです。
第 2 章
今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。
第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。
第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。
つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。
それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、