秋

三

第 3 章
信子のぶこはその翌年よくねんの秋あき、社命しゃめいを帯びおびた夫おっとと一しよいっしよに、久しぶりひさしぶりで東京とうきょうの土つちを踏んふんだ。
が、短いみじかい日限にちげん内うちに、果すはたすべき用向きようむきの多さわかつた夫おっとは、唯ただ彼女かのじょの母親ははおやの所ところへ、来き※々顔かおを出しだした時じの外そとは、殆一日ひも彼女かのじょをつれて、外出がいしゅつする機会きかいを見出さみだしさなかつた。
彼女かのじょはそこで妹いもうと夫婦ふうふの郊外こうがいの新居しんきょを尋ねるたずねる時じも、新開地しんかいちじみた電車でんしゃの終点しゅうてんから、たつた一人ひとり俥くるまに揺られゆられて行つおこなつた。
彼かれ等とうの家いえは、町並まちなみが葱き畑はたけに移るうつる近くちかくにあつた。
しかし隣となり近所きんじょには、いづれも借家しゃくやらしい新築しんちくが、せせこましく軒のきを並べならべてゐた。
のき打ちうちの門もん、要ようもちの垣かき、それから竿さおに干しほした洗濯物せんたくぶつ、――すべてがどの家いえも変りかわりはなかつた。
この平凡へいぼんな住居じゅうきょの容子ようこは、多少たしょう信子のぶこを失望しつぼうさせた。
が、彼女かのじょが案内あんないを求めもとめた時じ、声こえに応じおうじて出でて来きたのは、意外いがいにも従兄じゅうけいの方ほうであつた。
俊吉しゅんきちは以前いぜんと同じおなじやうに、この珍客ちんきゃくの顔かおを見るみると、「やあ。」と快活かいかつな声こえを挙げあげた。
彼女かのじょは彼かれが何なん時じの間まにか、いが栗いがぐり頭あたまでなくなつたのを見みた。
「暫らくしばらく。」「さあ、御ご上りのぼり。生憎あいにく僕ぼく一人ひとりだが。」「照子てるこは? 留守るす?」「使しに行つおこなつた。女中じょちゅうも。」――信子のぶこは妙みょうに恥しはずかしさを感じかんじながら、派手はでな裏うらのついた上衣うわぎをそつと玄関げんかんの隅すみに脱いぬいだ。
俊吉しゅんきちは彼女かのじょを書斎しょさい兼けん客間きゃくまの八はち畳たたみへ坐らすわらせた。
座敷ざしきの中なかには何処どこを見みても、本ほんばかり乱雑らんざつに積んつんであつた。
殊にことに午後ごごの日ひの当とうつた障子しょうじ際さいの、小さなちいさな紫檀したんの机つくえのまはりには、新聞しんぶん雑誌ざっしや原稿げんこう用よう紙かみが、手てのつけやうもない程ほど散らちらかつてゐた。
その中なかに若いわかい細君さいくんの存在そんざいを語つかたつてゐるものは、唯ただ床の間とこのまの壁かべに立てかけたてかけた、新しいあたらしい一いち面めんの琴ことだけであつた。
信子のぶこはかう云ふいふ周囲しゅういから、暫らくしばらく物珍しいものめずらしい眼めを離さはなさなかつた。
「来るくることは手紙てがみで知ちつてゐたけれど、今日きょう来ようこようとは思はおもうはなかつた。」――俊吉しゅんきちは巻煙草まきたばこへ火ひをつけると、さすがに懐しなつかしさうな眼つきめつきをした。
「どうです、大阪おおさかの御ご生活せいかつは?」「俊しゅんさんこそ如何いかが? 幸福こうふく?」――信子のぶこも亦また二言にごん三さん言げん話すはなす内うちに、やはり昔むかしのやうな懐しなつかしさが、よみ返つかえつて来るくるのを意識いしきした。
文通ぶんつうさへ碌にろくにしなかつた、彼是あれこれ二に年ねん越しこしの気まづいきまじい記憶きおくは、思つおもつたより彼女かのじょを煩はんはさなかつた。
彼かれ等とうは一いちつ火鉢ひばちに手てをかざしながら、いろいろな事ことを話し合はなしあいつた。
俊吉しゅんきちの小説しょうせつだの、共通きょうつうな知人ちじんの噂うわさだの、東京とうきょうと大阪おおさかとの比較ひかくだの、話題わだいはいくら話しはなしても、尽きつきない位くらい沢山たくさんあつた。
が、二人ふたりとも云ひいひ合せあわせたやうに、全然ぜんぜん暮し向きくらしむきの問題もんだいには触れふれなかつた。
それが信子のぶこには一層いっそう従兄じゅうけいと、話しはなしてゐると云ふいふ感じかんじを強くつよくさせた。
時々ときどきはしかし沈黙ちんもくが、二人ふたりの間まに来るくる事こともあつた。
その度どに彼女かのじょは微笑びしょうした儘まま、眼めを火鉢ひばちの灰はいに落しおとした。
其処そこには待つまつとは云へいえない程ほど、かすかに何なんかを待つまつ心もちこころもちがあつた。
すると故意こいか偶然ぐうぜんか、俊吉しゅんきちはすぐに話題わだいを見つけみつけて、何時もいつもその心もちこころもちを打ちうち破はつた。
彼女かのじょは次第しだいに従兄じゅうけいの顔かおを窺はずにはゐられなくなつた。
が、彼かれは平然へいぜんと巻煙草まきたばこの煙けむりを呼吸こきゅうしながら、格別かくべつ不自然ふしぜんな表情ひょうじょうを装そうつてゐる気色けしきも見えみえなかつた。
その内うちに照子てるこが帰つかえつて来きた。
彼女かのじょは姉あねの顔かおを見るみると、手てをとり合あわせはないばかりに嬉きしがつた。
信子のぶこも唇くちびるは笑ひわらひながら、眼めには何時なんじかもう涙なみだがあつた。
二人ふたりは暫くしばらくは俊吉しゅんきちも忘れわすれて、去年きょねん以来いらいの生活せいかつを互たがいに尋ねたずねたり尋ねたずねられたりしてゐた。
殊にことに照子てるこは活き活きいきいきと、血ちの色いろを頬ほおに透かすかせながら、今いまでも飼かいつてゐる鶏にわとりの事ことまで、話しはなして聞かきかせる事ことを忘れわすれなかつた。
俊吉しゅんきちは巻煙草まきたばこを啣へくはへた儘まま、満足まんぞくさうに二人ふたりを眺めながめて、不ふ相そう変へんにやにや笑わらいつてゐた。
其処そこへ女中じょちゅうも帰つかえつて来きた。
俊吉しゅんきちはその女中じょちゅうの手てから、何枚なんまいかの端書はしがきを受取るうけとると、早速さっそく側がわの机つくえへ向むかいつて、せつせとペンぺんを動かしうごかし始めはじめた。
照子てるこは女中じょちゅうも留守るすだつた事ことが、意外いがいらしい気色けしきを見せみせた。
「ぢや御ご姉あね様ようがいらしつた時じは、誰だれも家いえにゐなかつたの。」「ええ、俊しゅんさんだけ。」――信子のぶこはかう答へこたえへる事ことが、平気へいきを強ひしひるやうな心もちこころもちがした。
すると俊吉しゅんきちが向うむこうを向いむかいたなり、「旦那だんな様ように感謝かんしゃしろ。その茶ちゃも僕ぼくが入れいれたんだ。」と云ついつた。
照子てるこは姉あねと眼めを見合せみあわせて、悪戯いたずらさうにくすりと笑わらいつた。
が、夫おっとにはわざとらしく、何なんとも返事へんじをしなかつた。
間まもなく信子のぶこは、妹いもうと夫婦ふうふと一しよいっしよに、晩飯ばんめしの食卓しょくたくを囲むかこむことになつた。
照子てるこの説明せつめいする所ところによると、膳ぜんに上うえつた玉子たまごは皆みな、家いえの鶏にわとりが産んうんだものであつた。
俊吉しゅんきちは信子のぶこに葡萄酒ぶどうしゅをすすめながら、「人間にんげんの生活せいかつは掠奪りゃくだつで持つもつてゐるんだね。小しょうはこの玉子たまごから」――なぞと社会主義しゃかいしゅぎじみた理窟りくつを並べならべたりした。
その癖くせ此処ここにゐる三さん人ひとの中なかで、一番いちばん玉子たまごに愛着あいちゃくのあるのは俊吉しゅんきち自身じしんに違ひちがひなかつた。
照子てるこはそれが可笑しいおかしいと云ついつて、子供こどものやうな笑ひ声わらいごえを立てたてた。
信子のぶこはかう云ふいふ食卓しょくたくの空気くうきにも、遠いとおい松林まつばやしの中なかにある、寂しいさびしい茶の間ちゃのまの暮方くれがたを思ひ出さおもひださずにゐられなかつた。
話はなしは食後しょくごの果物くだものを荒しあらした後あとも尽きつきなかつた。
微酔びすいを帯びおびた俊吉しゅんきちは、夜長よながの電燈でんとうの下したにあぐらをかいて、盛さかんに彼かれ一流いちりゅうの詭弁きべんを弄しろうした。
その談論だんろん風発ふうはつが、もう一度いちど信子のぶこを若返らわかがえらせた。
彼女かのじょは熱ねつのある眼つきめつきをして、「私わたくしも小説しょうせつを書きかき出さういださうかしら。」と云ついつた。
すると従兄じゅうけいは返事へんじをする代りかわりに、グウルモンぐうるもんの警句けいくを抛りほうりつけた。
それは「ミユウズみゆうずたちは女おんなだから、彼かれ等とうを自由じゆうに虜とりこにするものは、男おとこだけだ。」と云ふいふ言葉ことばであつた。
信子のぶこと照子てることは同盟どうめいして、グウルモンぐうるもんの権威けんいを認めみとめなかつた。
「ぢや女おんなでなけりや、音楽家おんがくかになれなくつて? アポロあぽろは男おとこぢやありませんか。」――照子てるこは真面目まじめにこんな事ことまで云ついつた。
その暇ひまに夜よるが更けふけた。
信子のぶこはとうとう泊るとまる事ことになつた。
寝るねる前まえに俊吉しゅんきちは、縁側えんがわの雨戸あまどを一いち枚ばい開けあけて、寝間着ねまきの儘まま狭いせまい庭にわへ下りくだりた。
それから誰だれを呼ぶよぶともなく「ちよいと出でて御覧ごらん。好いよい月つきだから。」と声こえをかけた。
信子のぶこは独りひとり彼かれの後あとから、沓脱ぎくつぬぎの庭下駄にわげたへ足あしを下しおろした。
足袋たびを脱いぬいだ彼女かのじょの足あしには、冷たいつめたい露ろの感じかんじがあつた。
月つきは庭にわの隅すみにある、痩せやせがれた檜ひのきの梢こずえにあつた。
従兄じゅうけいはその檜ひのきの下したに立つたつて、うす明いあい夜空よぞらを眺めながめてゐた。
「大へんたいへん草くさが生えはえてゐるのね。」――信子のぶこは荒れあれた庭にわを気味きみ悪わるさうに、怯きょうづ怯きょうづ彼かれのゐる方ほうへ歩みあゆみ寄つよつた。
が、彼かれはやはり空そらを見みながら、「十三じゅうさん夜よるかな。」と呟いつぶやいただけであつた。
暫くしばらく沈黙ちんもくが続いつづいた後あと、俊吉しゅんきちは静せいに眼めを返しかえして、「鶏にわとり小屋こやへ行つおこなつて見ようみようか。」と云ついつた。
信子のぶこは黙もくつて頷いうなずいた。
鶏にわとり小屋こやは丁度ちょうど檜ひのきとは反対はんたいの庭にわの隅すみにあつた。
二人ふたりは肩かたを並べならべながら、ゆつくり其処そこまで歩いあるいて行つおこなつた。
しかし蓆むしろ囲ひかこひの内うちには、唯ただ鶏にわとりの匂においのする、朧おぼろげな光ひかりと影かげばかりがあつた。
俊吉しゅんきちはその小屋こやを覗いのぞいて見みて、殆独り言ひとりごとかと思ふおもふやうに、「寝ねてゐる。」と彼女かのじょに囁いささやいた。
「玉子たまごを人ひとに取らとられた鶏にわとりが。」――信子のぶこは草くさの中なかに佇んたたずんだ儘まま、さう考へかんがへずにはゐられなかつた。
…… 二人ふたりが庭にわから返つかえつて来るくると、照子てるこは夫おっとの机つくえの前まえに、ぼんやり電燈でんとうを眺めながめてゐた。
青いあおい横よこばひがたつた一いちつ、笠かさに這つてゐる電燈でんとうを。