現代日本の開化

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その二通りのうち一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。何か月並のような講釈をしてすみませんが、人間活力の発現上積極的と云う言葉を用いますと、勢力の消耗を意味する事になる。またもう一つの方はこれとは反対に勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫なりだから前のに対して消極的と申したのであります。この二つの互いに喰違って反の合わないような活動が入り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。これでもまだ抽象的でよくお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の意味は自ら明暸になるだろうと信じます。元来人間の命とか生とか称するものは解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前申したごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者である以上、この活力が外界の刺戟に対してどう反応するかという点を細かに観察すればそれで吾人人類の生活状態もほぼ了解ができるような訳で、その生活状態の多人数の集合して過去から今日に及んだものがいわゆる開化にほかならないのは今さら申上げるまでもありますまい。さて吾々の活力が外界の刺戟に反応する方法は刺戟の複雑である以上固より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能うだけの活力を這裏に消耗して快を取る手段との二つに帰着してしまうよう私は考えているのであります。で前のを便宜のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきましょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟に対して起るのであります。従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往の気象を奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしかする方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯一つを司どる大事実から云えばどうしても今私が申し上げたように解釈するよりほか仕方がないのであります。吾々もお互に義務は尽さなければならんものと始終思い、また義務を尽した後は大変心持が好いのであるが、深くその裏面に立ち入って内省して見ると、願くはこの義務の束縛を免かれて早く自由になりたい、人から強いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾して手軽に済ましたいという根性が常に胸の中につけまとっている。その根性が取も直さず活力節約の工夫となって開化なるものの一大原動力を構成するのであります。

第 1 章
かく消極的しょうきょくてきに活力かつりょくを節約せつやくしようとする奮闘ふんとうに対したいして一方いっぽうではまた積極的せっきょくてきに活力かつりょくを任意にんい随所ずいしょに消耗しょうもうしようという精神せいしんがまた開化かいかの一半いっぱんを組み立てくみたてている。
その発現はつげんの方法ほうほうもまた世よが進めすすめば進むすすむほど複雑ふくざつになるのは当然とうぜんであるが、これをごく約めつづめてどんな方面ほうめんに現われるあらわれるかと説明せつめいすればまず普通ふつうの言葉ことばで道楽どうらくという名なのつく刺戟しげきに対したいし起るおこるものだとしてしまえば一番いちばん早分りはやわかりであります。
道楽どうらくと云えいえば誰だれも知っしっている。
釣魚ちょうぎょをするとか玉たまを突くつくとか、碁ごを打つうつとか、または鉄砲てっぽうを担いにないで猟りょうに行くいくとか、いろいろのものがありましょう。
これらは説明せつめいするがものはないことごとく自からみずから進んすすんで強いつよいられざるに自分じぶんの活力かつりょくを消耗しょうもうして嬉しうれしがる方ほうであります。
なお進んすすんではこの精神せいしんが文学ぶんがくにもなり科学かがくにもなりまたは哲学てつがくにもなるので、ちょっと見るみるとはなはだむずかしげなものも皆みな道楽どうらくの発現はつげんに過ぎすぎないのであります。
この二に様ようの精神せいしんすなわち義務ぎむの刺戟しげきに対するたいする反応はんのうとしての消極的しょうきょくてきな活力かつりょく節約せつやくとまた道楽どうらくの刺戟しげきに対するたいする反応はんのうとしての積極的せっきょくてきな活力かつりょく消耗しょうもうとが互たがいに並び進んならびすすんで、コンガラカッて変化へんかして行っいって、この複雑ふくざつ極りきまりなき開化かいかと云ういうものができるのだと私わたくしは考えかんがえています。
その結果けっかは現にげんに吾々われわれが生息せいそくしている社会しゃかいの実況じっきょうを目撃もくげきすればすぐ分りわかります。
活力かつりょく節約せつやくの方ほうから云えいえばできるだけ労働ろうどうを少なくすくなくしてなるべくわずかな時間じかんに多くおおくの働きはたらきをしようしようと工夫くふうする。
その工夫くふうが積り積っつもりつもって汽車きしゃ汽船きせんはもちろん電信でんしん電話でんわ自動車じどうしゃ大変たいへんなものになりますが、元もとを糺せただせば面倒めんどうを避けさけたい横着おうちゃく心こころの発達はったつした便法べんぽうに過ぎすぎないでしょう。
この和歌山市わかやましから和歌わかの浦うらまでちょっと使いつかいに行っいって来いこいと言わいわれた時じに、出来でき得るうるなら誰だれしも御免ごめん蒙りこうむりたい。
がどうしても行かいかなければならないとすればなるべく楽らくに行きいきたい、そうして早くはやく帰りかえりたい。
できるだけ身体しんたいは使いつかいたくない。
そこで人力車じんりきしゃもできなければならない訳わけになります。
その上うえに贅沢ぜいたくを云えいえば自転車じてんしゃにするでしょう。
なおわがままを云い募れいいつのればこれが電車でんしゃにも変化へんかし自動車じどうしゃまたは飛行ひこう器うつわにも化けばけなければならなくなるのは自然しぜんの数すうであります。
これに反しはんして電車でんしゃや電話でんわの設備せつびがあるにしても是非ぜひ今日きょうは向うむこうまで歩いあるいて行きいきたいという道楽どうらく心こころの増長ぞうちょうする日ひも年ねんに二に度どや三さん度どは起らおこらないとも限りかぎりません。
好んこのんで身体しんたいを使っつかって疲労ひろうを求めるもとめる。
吾々われわれが毎日まいにちやる散歩さんぽという贅沢ぜいたくも要するようするにこの活力かつりょく消耗しょうもうの部類ぶるいに属するぞくする積極的せっきょくてきな命いのちの取扱とりあつかい方ほうの一部分いちぶぶんなのであります。
がこの道楽どうらく気きの増長ぞうちょうした時じに幸みゆきに行っいって来いこいという命令めいれいが下れくだればちょうど好いよいが、まあたいていはそう旨くうまくは行かいかない。
云いつかっいいつかった時じは多くおおく歩きあるきたくない時じである。
だから歩かふかないで用ようを足すたす工夫くふうをしなければならない。
となると勢いいきおい訪問ほうもんが郵便ゆうびんになり、郵便ゆうびんが電報でんぽうになり、その電報でんぽうがまた電話でんわになる理窟りくつです。
つまるところは人間にんげん生存せいぞん上うえの必要ひつよう上うえ何なんか仕事しごとをしなければならないのを、なろう事ことならしないで用ようを足したしてそうして満足まんぞくに生きいきていたいというわがままな了簡りょうけん、と申しもうしましょうかまたはそうそう身そうしんを粉こなにしてまで働いはたらいて生きいきているんじゃ割わりに合わあわない、馬鹿ばかにするない冗談じょうだんじゃねえという発憤はっぷんの結果けっかが怪物かいぶつのように辣腕らつわんな器械きかい力ちからと豹変ひょうへんしたのだと見れみれば差支さしつかえないでしょう。
この怪物かいぶつの力ちからで距離きょりが縮まるちぢまる、時間じかんが縮まるちぢまる、手数てすうが省けるはぶける、すべて義務的ぎむてきの労力ろうりょくが最少さいしょう低額ていがくに切りつめきりつめられた上うえにまた切りつめきりつめられてどこまで押しおして行くいくか分らわからないうちに、彼かれの反対はんたいの活力かつりょく消耗しょうもうと名づけなづけておいた道楽どうらく根性こんじょうの方ほうもまた自由じゆうわがままのできる限りできるかぎりを尽しつくして、これまた瞬時しゅんじの絶間たえまなく天然てんねん自然しぜんと発達はったつしつつとめどもなく前進ぜんしんするのである。
この道楽どうらく根性こんじょうの発展はってんも道徳どうとく家いえに言わいわせると怪しからあやしからんとか言いいいましょう。
がそれは徳義とくぎ上うえの問題もんだいで事実上じじつじょうの問題もんだいにはなりません。
事実じじつの大局たいきょくから云えいえば活力かつりょくを吾われ好むこのむところに消費しょうひするというこの工夫くふう精神せいしんは二六にろく時じ中休みなかやすみっこなく働いはたらいて、休みやすみっこなく発展はってんしています。
元々もともと社会しゃかいがあればこそ義務的ぎむてきの行動こうどうを余儀よぎなくされる人間にんげんも放り出しほうりだしておけばどこまでも自我じが本位ほんいに立脚りっきゃくするのは当然とうぜんだから自分じぶんの好いよいた刺戟しげきに精神せいしんなり身体しんたいなりを消費しょうひしようとするのは致し方いたしかたもない仕儀しぎである。
もっとも好いよいた刺戟しげきに反応はんのうして自由じゆうに活力かつりょくを消耗しょうもうすると云っいったって何なんも悪いわるい事ことをするとは限らかぎらない。
道楽どうらくだって女おんなを相手あいてにするばかりが道楽どうらくじゃない。
好きすきな真似まねをするとは開化かいかの許すゆるす限りかぎりのあらゆる方面ほうめんに亘っわたっての話はなしであります。
自分じぶんが画ががかきたいと思えおもえばできるだけ画がばかりかこうとする。
本ほんが読みよみたければ差支さしつかえない以上いじょう本ほんばかり読もうよもうとする。
あるいは学問がくもんが好よしみだと云っいって、親おやの心こころも知らしらないで、書斎しょさいへ入っはいって青くあおくなっている子息しそくがある。
傍そばから見れみれば何なんの事ことか分らわからない。
親父おやじが無理むり算段さんだんの学資がくしを工面くめんして卒業そつぎょうの上うえは月給げっきゅうでも取らとらせて早くはやく隠居いんきょでもしたいと思っおもっているのに、子供こどもの方ほうでは活計かっけいの方ほうなんかまるで無頓着むとんちゃくで、ただ天地てんちの真理しんりを発見はっけんしたいなどと太平楽たいへいらくを並べならべて机つくえに靠れもたれて苦りにがり切っきっているのもある。
親おやは生計せいけいのための修業しゅぎょうと考えかんがえているのに子供こどもは道楽どうらくのための学問がくもんとのみ合点がてんしている。
こういうような訳わけで道楽どうらくの活力かつりょくはいかなる道徳どうとく学がく者ものも杜絶とぜつする訳わけにいかない。
現にげんにその発現はつげんは世の中よのなかにどんな形かたちになって、どんなに現れあらわれているかと云ういうことは、この競争きょうそう劇甚げきじんの世よに道楽どうらくなんどとてんでその存在そんざいの権利けんりを承認しょうにんしないほど家業かぎょうに励精な人ひとでも少しすこし注意ちゅういされれば肯定こうていしない訳わけに行かいかなくなるでしょう。
私わたくしは昨晩さくばん和歌わかの浦うらへ泊りとまりましたが、和歌わかの浦うらへ行っいって見るみると、さがり松まつだの権現ごんげん様ようだの紀三井寺きみいでらだのいろいろのものがありますが、その中なかに東洋とうよう第だい一いち海抜かいばつ二百にひゃく尺さしと書いかいたエレヴェーターえれゔぇーたーが宿やどの裏うらから小高いこだかい石山いしやまの巓いただきへ絶えたえず見物けんぶつを上げあげたり下げさげたりしているのを見みました。
実じつは私わたくしも動物園どうぶつえんの熊くまのようにあの鉄てつの格子こうしの檻おりの中なかに入っはいって山やまの上うえへ上げあげられた一人ひとりであります。
があれは生活せいかつ上うえ別段べつだん必要ひつようのある場所ばしょにある訳わけでもなければまたそれほど大切たいせつな器械きかいでもない、まあ物もの数奇すうきである。
ただ上っのぼったり下っしたったりするだけである。
疑ぎもなく道楽どうらく心こころの発現はつげんで、好奇心こうきしん兼けん広告こうこく欲よくも手伝ってつだっているかも知れしれないが、まあ活計かっけい向むかいとは関係かんけいの少ないすくないものです。
これは一いち例れいですが開化かいかが進むすすむにつれてこういう贅沢ぜいたくなものの数すうが殖えふえてくるのは誰だれでも認識にんしきしない訳わけに行かいかないでしょう。
のみならずこの贅沢ぜいたくが日ひに増しまし細かくこまかくなる。
大きなおおきなものの中なかに輪わが幾ついくつもできて漏斗ろうとみたようにだんだん深くふかくなる。
と同時どうじに今までいままで気きのつかなかった方面ほうめんへだんだん発展はってんして範囲はんいが年々ねんねん広くひろくなる。
要するようするにただいま申し上げもうしあげた二につの入り乱れいりみだれたる経路けいろ、すなわちできるだけ労力ろうりょくを節約せつやくしたいと云ういう願望がんぼうから出でて来るくる種々しゅじゅの発明はつめいとか器械きかい力ちからとか云ういう方面ほうめんと、できるだけ気儘きままに勢力せいりょくを費しついやしたいと云ういう娯楽ごらくの方面ほうめん、これが経きょうとなり緯ぬきとなり千変せんぺん万化ばんか錯綜さくそうして現今げんこんのように混乱こんらんした開化かいかと云ういう不可思議ふかしぎな現象げんしょうができるのであります。
そこでそう云ういうものを開化かいかとすると、ここに一種いっしゅ妙みょうなパラドックスぱらどっくすとでも云いいいましょうか、ちょっと聞くきくとおかしいが、実じつは誰だれしも認めみとめなければならない現象げんしょうが起りおこります。
元来がんらいなぜ人間にんげんが開化かいかの流れながれに沿うそうて、以上いじょう二に種しゅの活力かつりょくを発現はつげんしつつ今日きょうに及んおよんだかと云えいえば生れうまれながらそう云ういう傾向けいこうをもっていると答えるこたえるよりほかに仕方しかたがない。
これを逆ぎゃくに申せもうせば吾人ごじんの今日きょうあるは全くまったくこの本来ほんらいの傾向けいこうあるがためにほかならんのであります。
なお進んすすんで云ういうと元もとのままで懐手ふところでをしていては生存せいぞん上うえどうしてもやり切れきれぬから、それからそれへと順々じゅんじゅんに押さおされ押さおされてかく発展はってんを遂げとげたと言わいわなければならないのです。
してみれば古来こらい何千なんぜん年ねんの労力ろうりょくと歳月さいげつを挙げあげてようやくの事こと現代げんだいの位置いちまで進んすすんで来きたのであるからして、いやしくもこの二に種類しゅるいの活力かつりょくが上代じょうだいから今いまに至るいたる長いながい時間じかんに工夫くふうし得とくた結果けっかとして昔むかしよりも生活せいかつが楽らくになっていなければならないはずであります。
けれども実際じっさいはどうか?
打明けうちあけて申せもうせば御ご互たがいの生活せいかつははなはだ苦しいくるしい。
昔むかしの人ひとに対したいして一いち歩あゆみも譲らゆずらざる苦痛くつうの下したに生活せいかつしているのだと云ういう自覚じかくが御ご互たがいにある。
否いな開化かいかが進めすすめば進むすすむほど競争きょうそうがますます劇しくはげしくなって生活せいかつはいよいよ困難こんなんになるような気きがする。
なるほど以上いじょう二に種しゅの活力かつりょくの猛烈もうれつな奮闘ふんとうで開化かいかは贏ち得かちえたに相違そういない。
しかしこの開化かいかは一般いっぱんに生活せいかつの程度ていどが高くたかくなったという意味いみで、生存せいぞんの苦痛くつうが比較的ひかくてき柔やわげられたという訳わけではありません。
ちょうど小学校しょうがっこうの生徒せいとが学問がくもんの競争きょうそうで苦しいくるしいのと、大学だいがくの学生がくせいが学問がくもんの競争きょうそうで苦しいくるしいのと、その程度ていどは違うちがうが、比例ひれいに至っいたっては同じおなじことであるごとく、昔むかしの人間にんげんと今いまの人間にんげんがどのくらい幸福こうふくの程度ていどにおいて違っちがっているかと云えいえば――あるいは不幸ふこうの程度ていどにおいて違っちがっているかと云えいえば――活力かつりょく消耗しょうもう活力かつりょく節約せつやくの両りょう工夫くふうにおいて大差たいさはあるかも知れしれないが、生存せいぞん競争きょうそうから生ずるしょうずる不安ふあんや努力どりょくに至っいたってはけっして昔むかしより楽らくになっていない。
否いな昔むかしよりかえって苦しくくるしくなっているかも知れしれない。
昔むかしは死ぬしぬか生きるいきるかのために争っあらそったものである。
それだけの努力どりょくをあえてしなければ死んしんでしまう。
やむをえないからやる。
のみならず道楽どうらくの念ねんはとにかく道楽どうらくの途とはまだ開けあけていなかったから、こうしたい、ああしたいと云ういう方角ほうがくも程度ていども至っていたって微弱びじゃくなもので、たまに足あしを伸しのしたり手てを休めやすめたりして、満足まんぞくしていたくらいのものだろうと思わおもわれる。
今日きょうは死ぬしぬか生きるいきるかの問題もんだいは大分おおいた超越ちょうえつしている。
それが変化へんかしてむしろ生きるいきるか生きるいきるかと云ういう競争きょうそうになってしまったのであります。
生きるいきるか生きるいきるかと云ういうのはおかしゅうございますが、Aの状態じょうたいで生きるいきるかBの状態じょうたいで生きるいきるかの問題もんだいに腐心ふしんしなければならないという意味いみであります。
活力かつりょく節減せつげんの方ほうで例れいを引いひいてお話はなしをしますと、人力車じんりきしゃを挽いひいて渡世とせいにするか、または自動車じどうしゃのハンドルはんどるを握っにぎって暮すくらすかの競争きょうそうになったのであります。
どっちを家業かぎょうにしたって命いのちに別条べつじょうはないにきまっているが、どっちへ行っいっても労力ろうりょくは同じおなじだとは云わいわれません。
人力車じんりきしゃを挽くひく方ほうが汗あせがよほど多分たぶんに出るでるでしょう。
自動車じどうしゃの御者ぎょしゃになってお客おきゃくを乗せれのせれば――もっとも自動車じどうしゃをもつくらいならお客おきゃくを乗せるのせる必要ひつようもないが――短いみじかい時間じかんで長いながい所ところが走れるはしれる。
糞力くそぢからはちっとも出さださないですむ。
活力かつりょく節約せつやくの結果けっか楽らくに仕事しごとができる。
されば自動車じどうしゃのない昔むかしはいざ知らしらず、いやしくも発明はつめいされる以上いじょう人力車じんりきしゃは自動車じどうしゃに負けまけなければならない。
負けれまければ追つおつかなければならない。
と云ういう訳わけで、少しすこしでも労力ろうりょくを節減せつげんし得とくて優勢ゆうせいなるものが地平ちへい線せん上うえに現われあらわれてここに一いちつの波瀾はらんを誘うさそうと、ちょうど一種いっしゅの低気圧ていきあつと同じおなじ現象げんしょうが開化かいかの中なかに起っおこって、各部かくぶの比例ひれいがとれ平均へいきんが回復かいふくされるまでは動揺どうようしてやめられないのが人間にんげんの本来ほんらいであります。
積極的せっきょくてき活力かつりょくの発現はつげんの方ほうから見みてもこの波動はどうは同じおなじことで、早いはやい話はなしが今までいままでは敷島しきしまか何なんか吹かしふかして我慢がまんしておったのに、隣りとなりの男おとこが旨むねそうに埃及えじぷと煙草たばこを喫んのんでいるとやっぱりそっちが喫みのみたくなる。
また喫んのんで見れみればその方ほうが旨いうまいに違いない。
しまいには敷島しきしまなどを吹かすふかすものは人間にんげんの数すうへ入らはいらないような気きがして、どうしても埃及えじぷとへ喫みのみ移らうつらなければならぬと云ういう競争きょうそうが起っおこって来るくる。
通俗つうぞくの言葉ことばで云えいえば人間にんげんが贅沢ぜいたくになる。
道学どうがく者ものは倫理的りんりてきの立場たちばから始終しじゅう奢侈しゃしを戒しめいましめている。
結構けっこうには違いないが自然しぜんの大勢おおぜいに反しはんした訓戒くんかいであるからいつでも駄目だめに終るおわるという事ことは昔むかしから今日きょうまで人間にんげんがどのくらい贅沢ぜいたくになったか考えかんがえて見れみれば分るわかる話はなしである。
かく積極せっきょく消極しょうきょく両りょう方面ほうめんの競争きょうそうが激しくはげしくなるのが開化かいかの趨勢すうせいだとすれば、吾々われわれは長いながい時日じじつのうちに種々しゅじゅ様々さまざまの工夫くふうを凝しこらし智慧ちえを絞っしぼってようやく今日きょうまで発展はってんして来きたようなものの、生活せいかつの吾人ごじんの内生ないせいに与えるあたえる心理的しんりてき苦痛くつうから論ずれろんずれば今いまも五十ごじゅう年ねん前まえもまたは百ひゃく年ねん前まえも、苦しくるしさ加減かげんの程度ていどは別べつに変りかわりはないかも知れしれないと思うおもうのです。
それだからしてこのくらい労力ろうりょくを節減せつげんする器械きかいが整っととのった今日きょうでも、また活力かつりょくを自由じゆうに使いつかい得るうる娯楽ごらくの途とが備そなえった今日きょうでも生存せいぞんの苦痛くつうは存外ぞんがい切せつなものであるいは非常ひじょうという形容詞けいようしを冠らかぶらしてもしかるべき程度ていどかも知れしれない。
これほど労力ろうりょくを節減せつげんできる時代じだいに生れうまれてもその忝けなかたじけなさが頭あたまに応えこたえなかったり、これほど娯楽ごらくの種類しゅるいや範囲はんいが拡大かくだいされても全くまったくそのありがたみが分らわからなかったりする以上いじょうは苦痛くつうの上うえに非常ひじょうという字じを附加ふかしても好いよいかも知れしれません。
これが開化かいかの産んうんだ一大いちだいパラドックスぱらどっくすだと私わたくしは考えるかんがえるのであります。
これから日本にっぽんの開化かいかに移るうつるのですが、はたして一般的いっぱんてきの開化かいかがそんなものであるならば、日本にっぽんの開化かいかも開化かいかの一種いっしゅだからそれでよかろうじゃないかでこの講演こうえんは済んすんでしまう訳わけであります。
がそこに一種いっしゅ特別とくべつな事情じじょうがあって、日本にっぽんの開化かいかはそういかない。
なぜそうは行かいかないか。
それを説明せつめいするのが今日きょうの講演こうえんの主眼しゅがんである。
と申すもうすと玄関げんかんを上っのぼってようやく茶の間ちゃのまあたりへ来きたくらいの気きがして驚くおどろくでしょう。
しかしそう長くながくはありません、奥行おくゆきは存外ぞんがい短かいみじかい講演こうえんです。
やってる方ほうだって長いながいのは疲れつかれますからできるだけ労力ろうりょく節約せつやくの法則ほうそくに従っしたがって早くはやく切り上げるきりあげるつもりですから、もう少しすこし辛抱しんぼうして聴いきいて下さいください。
それで現代げんだいの日本にっぽんの開化かいかは前まえに述べのべた一般いっぱんの開化かいかとどこが違うちがうかと云ういうのが問題もんだいです。
もし一言ひとことにしてこの問題もんだいを決しようけっしようとするならば私わたくしはこう断じだんじたい、西洋せいようの開化かいか(すなわち一般いっぱんの開化かいか)は内発的ないはつてきであって、日本にっぽんの現代げんだいの開化かいかは外発がいはつ的まとである。
ここに内発的ないはつてきと云ういうのは内うちから自然しぜんに出でて発展はってんするという意味いみでちょうど花はなが開くひらくようにおのずから蕾つぼみが破れやぶれて花弁かべんが外そとに向うむこうのを云いいい、また外発がいはつ的まととは外そとからおっかぶさった他ほかの力ちからでやむをえず一種いっしゅの形式けいしきを取るとるのを指しさしたつもりなのです。
もう一口ひとくち説明せつめいしますと、西洋せいようの開化かいかは行雲こううん流水りゅうすいのごとく自然しぜんに働いはたらいているが、御ご維新いしん後あと外国がいこくと交渉こうしょうをつけた以後いごの日本にっぽんの開化かいかは大分おおいた勝手かってが違いちがいます。
もちろんどこの国くにだって隣となりづき合あわせがある以上いじょうはその影響えいきょうを受けるうけるのがもちろんの事ことだから吾われ日本にっぽんといえども昔むかしからそう超然ちょうぜんとしてただ自分じぶんだけの活力かつりょくで発展はってんした訳わけではない。
ある時じは三韓さんかんまた或ある時じは支那しなという風かぜに大分おおいた外国がいこくの文化ぶんかにかぶれた時代じだいもあるでしょうが、長いながい月日つきひを前後ぜんごぶっ通しぶっとおしに計算けいさんして大体だいたいの上うえから一瞥いちべつして見るみるとまあ比較的ひかくてき内発的ないはつてきの開化かいかで進んすすんで来きたと云えいえましょう。
少なくすくなくとも鎖港さこう排外はいがいの空気くうきで二百にひゃく年ねんも麻酔ますいしたあげく突然とつぜん西洋せいよう文化ぶんかの刺戟しげきに跳ね上っはねあがったぐらい強烈きょうれつな影響えいきょうは有史ゆうし以来いらいまだ受けうけていなかったと云ういうのが適当てきとうでしょう。
日本にっぽんの開化かいかはあの時じから急劇きゅうげきに曲折きょくせつし始めはじめたのであります。
また曲折きょくせつしなければならないほどの衝動しょうどうを受けうけたのであります。
これを前まえの言葉ことばで表現ひょうげんしますと、今までいままで内発的ないはつてきに展開てんかいして来きたのが、急きゅうに自己じこ本位ほんいの能力のうりょくを失っうしなって外そとから無理むり押しおしに押さおされて否応いやおうなしにその云ういう通りとおりにしなければ立ち行かたちゆかないという有様ありさまになったのであります。
それが一時いちじではない。
四五十しごじゅう年ねん前まえに一押しいちおし押さおされたなりじっと持ちもち応えこたえているなんて楽らくな刺戟しげきではない。
時々ときどきに押さおされ刻々こっこくに押さおされて今日きょうに至っいたったばかりでなく向後こうご何なん年ねんの間まか、またはおそらく永久えいきゅうに今日きょうのごとく押さおされて行かいかなければ日本にっぽんが日本にっぽんとして存在そんざいできないのだから外発がいはつ的まとというよりほかに仕方しかたがない。
その理由りゆうは無論むろん明白めいはくな話はなしで、前まえ詳しくくわしく申上げもうしあげた開化かいかの定義ていぎに立戻ったちもどって述べるのべるならば、吾々われわれが四五十しごじゅう年間ねんかん始めはじめてぶつかった、また今いまでも接触せっしょくを避けるさける訳わけに行かいかないかの西洋せいようの開化かいかというものは我々われわれよりも数十すうじゅう倍ばい労力ろうりょく節約せつやくの機関きかんを有するゆうする開化かいかで、また我々われわれよりも数十すうじゅう倍ばい娯楽ごらく道楽どうらくの方面ほうめんに積極的せっきょくてきに活力かつりょくを使用しようし得るうる方法ほうほうを具備ぐびした開化かいかである。
粗末そまつな説明せつめいではあるが、つまり我々われわれが内発的ないはつてきに展開てんかいして十じゅうの複雑ふくざつの程度ていどに開化かいかを漕ぎつけこぎつけた折おりも折おり、図らはからざる天てんの一方いっぽうから急きゅうに二に十じゅう三さん十じゅうの複雑ふくざつの程度ていどに進んすすんだ開化かいかが現われあらわれて俄然がぜんとして我われらに打っうってかかったのである。
この圧迫あっぱくによって吾人ごじんはやむをえず不自然ふしぜんな発展はってんを余儀よぎなくされるのであるから、今いまの日本にっぽんの開化かいかは地道じみちにのそりのそりと歩くあるくのでなくって、やッとやっと気合きあいを懸けかけてはぴょいぴょいと飛んとんで行くいくのである。
開化かいかのあらゆる階段かいだんを順々じゅんじゅんに踏んふんで通るとおる余裕よゆうをもたないから、できるだけ大きなおおきな針はりでぼつぼつ縫っぬって過ぎるすぎるのである。
足あしの地面じめんに触れるふれる所ところは十じゅう尺さしを通過つうかするうちにわずか一いち尺さしぐらいなもので、他ほかの九きゅう尺さしは通らとおらないのと一般いっぱんである。
私わたくしの外発がいはつ的まとという意味いみはこれでほぼ御ご了解りょうかいになったろうと思いおもいます。
そういう外発がいはつ的まとの開化かいかが心理的しんりてきにどんな影響えいきょうを吾人ごじんに与うるあたうるかと云ういうとちょっと変へんなものになります。
心理学しんりがくの講筵こうえんでもないのにむずかしい事ことを申上げるもうしあげるのもいかがと存じぞんじますが、必要ひつようの個所かしょだけをごく簡易かんいに述べのべて再びふたたび本題ほんだいに戻るもどるつもりでありますから、しばらく御ご辛抱しんぼうを願いねがいます。
我々われわれの心こころは絶間たえまなく動いうごいている。
あなた方ほうは今いま私わたくしの講演こうえんを聴いきいておいでになる、私わたくしは今いまあなた方ほうを前まえに置いおいて何なんか言っいっている、双方そうほう共ともにこういう自覚じかくがある。
それに御ご互たがいの心こころは動いうごいている。
働いはたらいている。
これを意識いしきと云ういうのであります。
この意識いしきの一部分いちぶぶん、時じに積れつもれば一いち分間ぶんけんぐらいのところを絶間たえまなく動いうごいている大きなおおきな意識いしきから切り取っきりとって調べしらべてみるとやはり動いうごいている。
その動きうごき方ほうは別べつに私わたくしが発明はつめいした訳わけでも何なんでもない、ただ西洋せいようの学者がくしゃが書物しょもつに書いかいた通りとおりをもっともと思うおもうから紹介しょうかいするだけでありますが、すべて一いち分間ぶんけんの意識いしきにせよ三十さんじゅう秒間びょうかんの意識いしきにせよその内容ないようが明暸めいりょうに心こころに映ずるえいずる点てんから云えいえば、のべつ同どう程度ていどの強さつよさを有しゆうして時間じかんの経過けいかに頓着とんちゃくなくあたかも一いちつ所ところにこびりついたように固定こていしたものではない。
必ずかならず動くうごく。
動くうごくにつれて明かあきらかな点てんと暗いくらい点てんができる。
その高低こうていを線せんで示せしめせば平たいひらたい直線ちょくせんでは無理むりなので、やはり幾分いくぶんか勾配こうばいのついた弧線こせんすなわち弓形ゆみがたの曲線きょくせんで示さしめさなければならなくなる。
こんなに説明せつめいするとかえって込み入っこみいってむずかしくなるかも知れしれませんが、学者がくしゃは分っわかった事ことを分りわかりにくく言うゆうもので、素人しろうとは分らわからない事ことを分っわかったように呑込んのみこんだ顔かおをするものだから非難ひなんは五ご分ぶん五ご分ぶんである。
今いま云っいった弧線こせんとか曲線きょくせんとかいう事ことをそっと砕いくだいてお話はなしをすると、物ものをちょっと見るみるのにも、見みてこれが何なんであるかと云ういうことがハッキリはっきり分るわかるには或るある時間じかんを要するようするので、すなわち意識いしきが下したの方ほうから一定いっていの時間じかんを経きょうて頂点ちょうてんへ上っのぼって来きてハッキリはっきりして、ああこれだなと思うおもう時じがくる。
それをなお見つめみつめていると今度こんどは視覚しかくが鈍くにぶくなって多少たしょうぼんやりし始めるはじめるのだからいったん上うえの方ほうへ向いむかいた意識いしきの方向ほうこうがまた下またしたを向いむかいて暗くくらくなりかける。
これは実験じっけんして御覧ごらんになると分るわかる。
実験じっけんと云っいっても機械きかいなどは要らいらない。
頭あたまの中なかがそうなっているのだからただ試しためしさえすれば気きがつくのです。
本ほんを読むよむにしてもAと云ういう言葉ことばとBと云ういう言葉ことばとそれからCという言葉ことばが順々じゅんじゅんに並んならんでいればこの三さんつの言葉ことばを順々じゅんじゅんに理解りかいして行くいくのが当り前あたりまえだからAが明かあきらかに頭あたまに映るうつる時じはBはまだ意識いしきに上らのぼらない。
Bが意識いしきの舞台ぶたいに上りのぼり始めるはじめる時じにはもうAの方ほうは薄ぼんやりうすぼんやりしてだんだん識しき域いきの方ほうに近づいちかづいてくる。
BからCへ移るうつるときはこれと同じおなじ所作しょさを繰返すくりかえすに過ぎすぎないのだから、いくら例れいを長くながくしても同じおなじ事ことであります。
これは極めてきわめて短時間たんじかんの意識いしきを学者がくしゃが解剖かいぼうして吾々われわれに示ししめしたものでありますが、この解剖かいぼうは個人こじんの一いち分間ぶんけんの意識いしきのみならず、一般いっぱん社会しゃかいの集合しゅうごう意識いしきにも、それからまた一いち日ひ一いち月つきもしくは一いち年ねん乃至ないし十じゅう年ねんの間まの意識いしきにも応用おうようの利くきく解剖かいぼうで、その特色とくしょくは多人数たにんずうになったって、長時間ちょうじかんに亘っわたったって、いっこう変りかわりはない事ことと私わたくしは信じしんじているのであります。
例えたとえて見れみればあなた方ほうという多人数たにんずうの団体だんたいが今いまここで私わたくしの講演こうえんを聴いきいておいでになる。
聴いきいていない方ほうもあるかも知れしれないが、まアまあ聴いきいているとする。
そうするとその個人こじんでない集合体しゅうごうたいのあなた方ほうの意識いしきの上うえには今いま私わたくしの講演こうえんの内容ないようが明かあきらかに入るはいる。
と同時どうじに、この講演こうえんに来るくる前まえあなた方ほうが経験けいけんされた事こと、すなわち途中とちゅうで雨あめが降りふり出しだして着物きものが濡れぬれたとか、また蒸し暑くむしあつくて途中とちゅうが難儀なんぎであったとかいう意識いしきは講演こうえんの方ほうが心こころを奪ううばうにつれて、だんだん不ふ明暸めいりょう不ふ確実かくじつになってくる。
またこの講演こうえんが終っおわって場外じょうがいに出でて涼しいすずしい風かぜに吹かふかれでもすれば、ああ好いよい心持こころもちだという意識いしきに心こころを専せん領りょうされてしまって講演こうえんの方ほうはピッタリぴったり忘れわすれてしまう。
私わたくしから云えいえば全くまったくありがたくない話はなしだが事実じじつだからやむをえないのである。
私わたくしの講演こうえんを行住ぎょうじゅう坐臥ざが共ともに覚えおぼえていらっしゃいと言っいっても、心理しんり作用さように反しはんした注文ちゅうもんなら誰だれも承知しょうちする者ものはありません。
これと同じおなじようにあなた方ほうと云ういうやはり一いち箇の団体だんたいの意識いしきの内容ないようを検しけんして見るみるとたとえ一いちカ月かげつに亘ろうわたろうが一いち年ねんに亘ろうわたろうが一いちカ月かげつには一いちカ月かげつを括るくくるべき炳乎へいこたる意識いしきがあり、また一いち年ねんには一いち年ねんを纏めるまとめるに足るたる意識いしきがあって、それからそれへと順次じゅんじに消長しょうちょうしているものと私わたくしは断定だんていするのであります。
吾々われわれも過去かこを顧みかえりみて見るみると中学ちゅうがく時代じだいとか大学だいがく時代じだいとか皆みな特別とくべつの名なのつく時代じだいでその時代じだい時代じだいの意識いしきが纏っまとっております。
日本人にっぽんにん総体そうたいの集合しゅうごう意識いしきは過去かこ四五しご年ねん前まえには日露にちろ戦争せんそうの意識いしきだけになりきっておりました。
その後日ごじつ英えい同盟どうめいの意識いしきで占領せんりょうされた時代じだいもあります。
かく推論すいろんの結果けっか心理学しんりがく者ものの解剖かいぼうを拡張かくちょうして集合しゅうごうの意識いしきやまた長時間ちょうじかんの意識いしきの上うえに応用おうようして考えかんがえてみますと、人間にんげん活力かつりょくの発展はってんの経路けいろたる開化かいかというものの動くうごくラインらいんもまた波動はどうを描いえがいて弧線こせんを幾いく個こも幾いく個こも繋ぎつなぎ合せあわせて進んすすんで行くいくと云わいわなければなりません。
無論むろん描かえがかれる波なみの数すうは無限むげん無数むすうで、
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