現代日本の開化

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その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。ちょっとした話が私は今ここで演説をしている。するとそれを御聞きになるあなたがたの方から云えば初めの十分間くらいは私が何を主眼に云うかよく分らない、二十分目ぐらいになってようやく筋道がついて、三十分目くらいにはようやく油がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸が出る。とそう私の想像通り行くか行かないか分りませんが、もしそうだとするならば、私が無理にここで二時間も三時間もしゃべっては、あなた方の心理作用に反して我を張ると同じ事でけっして成功はできない。なぜかと云えばこの講演がその場合あなた方の自然に逆った外発的のものになるからであります。いくら咽喉を絞り声を嗄らして怒鳴ってみたってあなたがたはもう私の講演の要求の度を経過したのだからいけません。あなた方は講演よりも茶菓子が食いたくなったり酒が飲みたくなったり氷水が欲しくなったりする。その方が内発的なのだから自然の推移で無理のないところなのである。

第 2 章
これだけ説明せつめいしておいて現代げんだい日本にっぽんの開化かいかに後あと戻れいをしたらたいてい大丈夫だいじょうぶでしょう。
日本にっぽんの開化かいかは自然しぜんの波動はどうを描いえがいて甲こうの波なみが乙おつの波なみを生みうみ乙おつの波なみが丙へいの波なみを押し出すおしだすように内発的ないはつてきに進んすすんでいるかと云ういうのが当面とうめんの問題もんだいなのですが残念ざんねんながらそう行っいっていないので困るこまるのです。
行っいっていないと云ういうのは、先程さきほども申しもうした通りとおり活力かつりょく節約せつやく活力かつりょく消耗しょうもうの二に大おお方面ほうめんにおいてちょうど複雑ふくざつの程度ていど二十にじゅうを有しゆうしておったところへ、俄然がぜん外部がいぶの圧迫あっぱくで三十さんじゅう代だいまで飛びつかとびつかなければならなくなったのですから、あたかも天狗てんぐにさらわれた男おとこのように無我夢中むがむちゅうで飛びついとびついて行くいくのです。
その経路けいろはほとんど自覚じかくしていないくらいのものです。
元々もともと開化かいかが甲こうの波なみから乙おつの波なみへ移るうつるのはすでに甲こうは飽いあいていたたまれないから内部ないぶ欲求よっきゅうの必要ひつよう上うえずるりと新らしいあたらしい一いち波なみを開展かいてんするので甲こうの波なみの好所こうしょも悪所あくしょも酸いしいも甘いあまいも甞め尽しつくした上うえにようやく一いち生面せいめんを開いひらいたと云っいって宜しいよろしい。
したがって従来じゅうらい経験けいけんし尽しつくした甲こうの波なみには衣ころもを脱いぬいだ蛇へびと同様どうよう未練みれんもなければ残り惜しいのこりおしい心持こころもちもしない。
のみならず新たあらたに移っうつった乙おつの波なみに揉まもまれながら毫もごうも借り着かりぎをして世間体せけんたいを繕っつくろっているという感かんが起らおこらない。
ところが日本にっぽんの現代げんだいの開化かいかを支配しはいしている波なみは西洋せいようの潮流ちょうりゅうでその波なみを渡るわたる日本人にっぽんにんは西洋せいよう人ひとでないのだから、新らしいあたらしい波なみが寄せるよせるたびに自分じぶんがその中なかで食客しょっかくをして気兼きがねをしているような気持きもちになる。
新らしいあたらしい波なみはとにかく、今しがたいましがたようやくの思おもうで脱却だっきゃくした旧いふりい波なみの特質とくしつやら真相しんそうやらも弁えるわきまえるひまのないうちにもう棄てすてなければならなくなってしまった。
食膳しょくぜんに向っむかって皿さらの数すうを味いあじわい尽すつくすどころか元来がんらいどんな御馳走ごちそうが出でたかハッキリはっきりと眼めに映じえいじない前まえにもう膳ぜんを引いひいて新らしいあたらしいのを並べならべられたと同じおなじ事ことであります。
こういう開化かいかの影響えいきょうを受けるうける国民こくみんはどこかに空虚くうきょの感かんがなければなりません。
またどこかに不満ふまんと不安ふあんの念ねんを懐かふところかなければなりません。
それをあたかもこの開化かいかが内発的ないはつてきででもあるかのごとき顔かおをして得意とくいでいる人ひとのあるのは宜しくよろしくない。
それはよほどハイカラはいからです、宜しくよろしくない。
虚偽きょぎでもある。
軽薄けいはくでもある。
自分じぶんはまだ煙草たばこを喫っすっても碌にろくに味あじさえ分らわからない子供こどもの癖くせに、煙草たばこを喫っすってさも旨むねそうな風かぜをしたら生意気なまいきでしょう。
それをあえてしなければ立ち行かたちゆかない日本人にっぽんにんはずいぶん悲酸ひさんな国民こくみんと云わいわなければならない。
開化かいかの名なは下せくだせないかも知れしれないが、西洋せいよう人ひとと日本人にっぽんにんの社交しゃこうを見みてもちょっと気きがつくでしょう。
西洋せいよう人ひとと交際こうさいをする以上いじょう、日本にっぽん本位ほんいではどうしても旨くうまく行きいきません。
交際こうさいしなくともよいと云えいえばそれまでであるが、情けないなさけないかな交際こうさいしなければいられないのが日本にっぽんの現状げんじょうでありましょう。
しかして強いつよいものと交際こうさいすれば、どうしても己おのれを棄てすてて先方せんぽうの習慣しゅうかんに従わしたがわなければならなくなる。
我々われわれがあの人ひとは肉にく刺さしの持ちもちようも知らしらないとか、小刀しょうとうの持ちもちようも心得こころえないとか何なんとか云っいって、他ほかを批評ひひょうして得意とくいなのは、つまりは何なんでもない、ただ西洋せいよう人ひとが我々われわれより強いつよいからである。
我々われわれの方ほうが強けれつよければあっちこっちの真似まねをさせて主客しゅきゃくの位地いちを易えるかえるのは容易よういの事ことである。
がそう行かいかないからこっちで先方せんぽうの真似まねをする。
しかも自然しぜん天然てんねんに発展はってんしてきた風俗ふうぞくを急きゅうに変えるかえる訳わけにいかぬから、ただ器械きかい的まとに西洋せいようの礼式れいしきなどを覚えるおぼえるよりほかに仕方しかたがない。
自然しぜんと内うちに醗酵はっこうして醸さかもされた礼式れいしきでないから取っとってつけたようではなはだ見苦しいみぐるしい。
これは開化かいかじゃない、開化かいかの一端いっぱしとも云えいえないほどの些細ささいな事ことであるが、そういう些細ささいな事ことに至るいたるまで、我々われわれのやっている事ことは内発的ないはつてきでない、外発がいはつ的まとである。
これを一言ひとことにして云えいえば現代げんだい日本にっぽんの開化かいかは皮相ひそう上滑りうわすべりの開化かいかであると云ういう事ことに帰着きちゃくするのである。
無論むろん一いちから十じゅうまで何なんから何なんまでとは言わいわない。
複雑ふくざつな問題もんだいに対したいしてそう過激かげきの言葉ことばは慎まつつしまなければ悪いわるいが我々われわれの開化かいかの一部分いちぶぶん、あるいは大部分だいぶぶんはいくら己惚れうぬぼれてみても上滑りうわすべりと評するひょうするより致し方いたしかたがない。
しかしそれが悪いわるいからお止しよしなさいと云ういうのではない。
事実じじつやむをえない、涙なみだを呑んのんで上滑りうわすべりに滑っすべって行かいかなければならないと云ういうのです。
それでは子供こどもが背せに負わおわれて大人おとなといっしょに歩くあるくような真似まねをやめて、じみちに発展はってんの順序じゅんじょを尽しつくして進むすすむ事ことはどうしてもできまいかという相談そうだんが出るでるかも知れしれない。
そういう御ご相談そうだんが出れでれば私わたくしも無いない事こともないと御ご答こたえをする。
が西洋せいようで百ひゃく年ねんかかってようやく今日きょうに発展はってんした開化かいかを日本人にっぽんにんが十じゅう年ねんに年期ねんきをつづめて、しかも空虚くうきょの譏そしりを免かれるまぬかれるように、誰だれが見みても内発的ないはつてきであると認めるみとめるような推移すいいをやろうとすればこれまた由々しきゆゆしき結果けっかに陥るおちいるのであります。
百ひゃく年ねんの経験けいけんを十じゅう年ねんで上滑りうわすべりもせずやりとげようとするならば年限ねんげんが十じゅう分ぶん一いちに縮まるちぢまるだけわが活力かつりょくは十じゅう倍ばいに増さぞうさなければならんのは算術さんじゅつの初歩しょほを心得こころえたものさえ容易くたやすく首肯しゅこうするところである。
これは学問がくもんを例れいに御ご話はなしをするのが一番いちばん早分りはやわかりである。
西洋せいようの新らしいあたらしい説せつなどを生噛りなまかじりにして法螺ほらを吹くふくのは論外ろんがいとして、本当ほんとうに自分じぶんが研究けんきゅうを積んつんで甲こうの説せつから乙おつの説せつに移りうつりまた乙おつから丙へいに進んすすんで、毫もごうも流行りゅうこうを追うおうの陋態なく、またことさらに新奇しんきを衒うてらうの虚栄心きょえいしんなく、全くまったく自然しぜんの順序じゅんじょ階級かいきゅうを内発的ないはつてきに経きょうて、しかも彼かれら西洋せいよう人ひとが百ひゃく年ねんもかかってようやく到着とうちゃくし得とくた分化ぶんかの極端きょくたんに、我々われわれが維新いしん後あと四五十しごじゅう年ねんの教育きょういくの力ちからで達したっしたと仮定かていする。
体力たいりょく脳のう力ちから共ともに吾われらよりも旺盛おうせいな西洋せいよう人ひとが百ひゃく年ねんの歳月さいげつを費しついやしたものを、いかに先駆せんくの困難こんなんを勘定かんじょうに入れいれないにしたところでわずかその半はんに足らあしらぬ歳月さいげつで明々あかあか地ちに通過つうかし了るおわるとしたならば吾人ごじんはこの驚くおどろくべき知識ちしきの収穫しゅうかくを誇りほこり得るうると同時どうじに、一いち敗まけまた起つたつ能わあたわざるの神経しんけい衰弱すいじゃくに罹っかかって、気息きそく奄々えんえんとして今いまや路傍ろぼうに呻吟しんぎんしつつあるは必然ひつぜんの結果けっかとしてまさに起るおこるべき現象げんしょうでありましょう。
現にげんに少しすこし落ちついおちついて考えかんがえてみると、大学だいがくの教授きょうじゅを十じゅう年間ねんかん一生懸命いっしょうけんめいにやったら、たいていの者ものは神経しんけい衰弱すいじゃくに罹りかかりがちじゃないでしょうか。
ピンピンぴんぴんしているのは、皆みな嘘うその学者がくしゃだと申しもうしては語弊ごへいがあるが、まあどちらかと云えいえば神経しんけい衰弱すいじゃくに罹るかかる方ほうが当り前あたりまえのように思わおもわれます。
学者がくしゃを例れいに引いひいたのは単にたんに分りわかりやすいためで、理窟りくつは開化かいかのどの方面ほうめんへも応用おうようができるつもりです。
すでに開化かいかと云ういうものがいかに進歩しんぽしても、案外あんがいその開化かいかの賜たまものとして吾々われわれの受じゅくる安心あんしんの度どは微弱びじゃくなもので、競争きょうそうその他ほかからいらいらしなければならない心配しんぱいを勘定かんじょうに入れるいれると、吾人ごじんの幸福こうふくは野蛮やばん時代じだいとそう変りかわりはなさそうである事ことは前まえ御ご話しはなしした通りとおりである上うえに、今いま言っいった現代げんだい日本にっぽんが置かおかれたる特殊とくしゅの状況じょうきょうに因っよって吾々われわれの開化かいかが機械的きかいてきに変化へんかを余儀よぎなくされるためにただ上皮じょうひを滑っすべって行きいき、また滑るすべるまいと思っおもって踏張るふんばるために神経しんけい衰弱すいじゃくになるとすれば、どうも日本人にっぽんにんは気の毒きのどくと言わいわんか憐れあわれと言わいわんか、誠まことに言語げんご道断どうだんの窮状きゅうじょうに陥っおちいったものであります。
私わたくしの結論けつろんはそれだけに過ぎすぎない。
ああなさいとか、こうしなければならぬとか云ういうのではない。
どうすることもできない、実じつに困っこまったと嘆息たんそくするだけで極めてきわめて悲観的ひかんてきの結論けつろんであります。
こんな結論けつろんにはかえって到着とうちゃくしない方ほうが幸みゆきであったのでしょう。
真しんと云ういうものは、知らしらないうちは知りしりたいけれども、知っしってからはかえってアアああ知らしらない方ほうがよかったと思うおもう事ことが時々ときどきあります。
モーパサンの小説しょうせつに、或ある男おとこが内縁の妻ないえんのつまに厭気いやけがさしたところから、置手紙おけてがみか何なんかして、妻つまを置き去りおきざりにしたまま友人ゆうじんの家いえへ行っいって隠れかくれていたという話はなしがあります。
すると女おんなの方ほうでは大変たいへん怒っどってとうとう男おとこの所在しょざいを捜し当てさがしあてて怒鳴り込みどなりこみましたので男おとこは手切金てぎれきんを出しだして手てを切るきる談判だんぱんを始めるはじめると、女おんなはその金きんを床ゆかの上うえに叩きつけたたきつけて、こんなものが欲しいほしいので来きたのではない、もし本当ほんとうにあなたが私わたくしを捨てるすてる気きならば私わたくしは死んしんでしまう、そこにある(三さん階かいか四よん階かいの)窓まどから飛下りとびおりて死んしんでしまうと言っいった。
男おとこは平気へいきな顔かおを装っよそおってどうぞと云わいわぬばかりに女おんなを窓まどの方ほうへ誘うさそう所作しょさをした。
すると女おんなはいきなり馳はせけて行っいって窓まどから飛下りとびおりた。
死しにはしなかったが生れうまれもつかぬ不具ふぐになってしまいました。
男おとこもこれほど女おんなの赤心せきしんが眼めの前まえへ証拠しょうこ立てたてられる以上いじょう、普通ふつうの軽薄けいはくな売女ばいた同様どうようの観かんをなして、女おんなの貞節ていせつを今までいままで疑っうたがっていたのを後悔こうかいしたものと見えみえて、再びふたたびもとの夫婦ふうふに立ち帰ったちかえって、病妻びょうさいの看護かんごに身みを委ねゆだねたというのがモーパサンの小説しょうせつの筋すじですが、男おとこの疑ぎも好いよい加減かげんな程度ていどで留めとめておけばこれほどの大事だいじには至らいたらなかったかも知れしれないが、そうすれば彼かれの懐疑かいぎは一生いっしょう徹底的てっていてきに解けるとける日ひは来きなかったでしょう。
またここまで押しおしてみれば女おんなの真心まごころが明かあきらかになるにはなるが、取返しとりかえしのつかない残酷ざんこくな結果けっかに陥っおちいった後あとから回顧かいこして見れみれば、やはり真実しんじつ懸価かけねのない実相じっそうは分らわからなくても好いよいから、女おんなを片輪かたわにさせずにおきたかったでありましょう。
日本にっぽんの現代げんだい開化かいかの真相しんそうもこの話はなしと同様どうようで、分らわからないうちこそ研究けんきゅうもして見みたいが、こう露骨ろこつにその性質せいしつが分っわかって見るみるとかえって分らわからない昔むかしの方ほうが幸福こうふくであるという気きにもなります。
とにかく私わたくしの解剖かいぼうした事ことが本当ほんとうのところだとすれば我々われわれは日本にっぽんの将来しょうらいというものについてどうしても悲観ひかんしたくなるのであります。
外国人がいこくにんに対したいして乃公だいこうの国くにには富士山ふじやまがあるというような馬鹿ばかは今日きょうはあまり云わいわないようだが、戦争せんそう以後いご一等国いちとうこくになったんだという高慢こうまんな声こえは随所ずいしょに聞くきくようである。
なかなか気楽きらくな見方みかたをすればできるものだと思いおもいます。
ではどうしてこの急場きゅうばを切り抜けるきりぬけるかと質問しつもんされても、前まえ申しもうした通りとおり私わたくしには名案めいあんも何なんもない。
ただできるだけ神経しんけい衰弱すいじゃくに罹らかからない程度ていどにおいて、内発的ないはつてきに変化へんかして行くいくが好かろうよかろうというような体裁ていさいの好いよいことを言うゆうよりほかに仕方しかたがない。
苦いにがい真実しんじつを臆面おくめんなく諸君しょくんの前まえにさらけ出しさらけだして、幸福こうふくな諸君しょくんにたとい一いち時間じかんたりとも不快ふかいの念ねんを与えあたえたのは重々じゅうじゅう御ご詫わびを申し上げもうしあげますが、また私わたくしの述べのべ来きったところもまた相当そうとうの論拠ろんきょと応分おうぶんの思索しさくの結果けっかから出でた生真面目きまじめの意見いけんであるという点てんにも御ご同情どうじょうになって悪いわるいところは大目おおめに見みていただきたいのであります。
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