幻影の盾

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その三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三分二は既に死んだ様なものである。残る三分一は? 軍はまだない。

第 2 章
ウィリアムうぃりあむは身の丈みのたけ六ろく尺さし一いち寸すん、痩せやせてはいるが満身まんしんの筋肉きんにくを骨格こっかくの上うえへたたき付けたたきつけて出来上っできあがった様ような男おとこである。
四よん年ねん前まえの戦いくさに甲こうも棄てすて、鎧よろいも脱いぬいで丸裸まるはだかになって城壁じょうへきの裏うらに仕掛けしかけたる、カタパルトかたぱるとを彎いひいた事ことがある。
戦いくさが済んすんでからその有様ありさまを見みていた者ものがウィリアムうぃりあむの腕うでには鉄てつの瘤こぶが出るでるといった。
彼かれの眼めと髪かみは石炭せきたんの様ように黒いくろい。
その髪かみは渦うずを巻いまいて、彼かれが頭あたまを掉るふる度どにきらきらする。
彼かれの眼めの奥おくには又また一いち双そうの眼めがあって重なり合っかさなりあっている様ような光りひかりと深さふかさとが見えるみえる。
酒さけの味あじに命いのちを失いない、未了みりょうの恋こいに命いのちを失いないつつある彼かれは来るくるべき戦場せんじょうにもまた命いのちを失ううしなうだろうか。
彼かれは馬うまに乗っのって終日しゅうじつ終夜しゅうや野のを行くいくに疲れつかれた事ことのない男おとこである。
彼かれは一いち片かたの麺めん麭も食わくわず一いち滴しずくの水みずさえ飲まのまず、未明みめいより薄暮はくぼまで働きはたらき得るうる男おとこである。
年ねんは二十六にじゅうろく歳とし。
それで戦いくさが出来できぬであろうか。
それで戦いくさが出来できぬ位くらいなら武士ぶしの家いえに生れうまれて来きぬがよい。
ウィリアムうぃりあむ自身じしんもそう思っおもっている。
ウィリアムうぃりあむは幻影げんえいの盾たてを翳しかざして戦うたたかう機会きかいがあれば……と思っおもっている。
白城しらきの城主じょうしゅ狼おおかみのルーファスるーふぁすと夜よる鴉からすの城主じょうしゅとは二十にじゅう年ねん来きの好みこのみで家の子いえのこ郎党ろうとうの末すえに至るいたるまで互たがいに往き来ゆききせぬは稀まれな位くらい打ち解けうちとけた間柄あいだがらであった。
確執かくしつの起っおこったのは去年きょねんの春はるの初はつからである。
源みなもと因いんは私わたくしならぬ政治上せいじじょうの紛議ふんぎの果かとも云いいい、あるは鷹狩たかがりの帰りかえりに獲物えもの争いあらそいの口論こうろんからと唱えとなえ、又または夜よる鴉からすの城主じょうしゅの愛あい女おんなクララくららの身の上みのうえに係るかかる衝突しょうとつに本ほんづくとも言触らすいいふらす。
過すぎぐる日ひの饗きょう筵むしろに、卓上たくじょうの酒さけ尽きつきて、居並ぶいならぶ人ひとの舌したの根ねのしどろに緩むゆるむ時じ、首席しゅせきを占うらないむる隣り合せとなりあわせの二人ふたりが、何事なにごとか声高こわだかに罵るののしる声こえを聞かきかぬ者ものはなかった。
「月つきに吠ゆる狼おおかみの……ほざくは」と手てにしたる盃さかずきを地ちに抛っほうって、夜よる鴉からすの城主じょうしゅは立ち上るたちのぼる。
盃さかずきの底そこに残れるのこれる赤きあかき酒さけの、斑らまだらに床ゆかを染めそめて飽きたらあきたらず、摧けくだけたる※片かたと共ともにルーファスるーふぁすの胸むねのあたりまで跳ね上るはねあがる。
「夜よる迷いまよい烏からすの黒くろき翼つばさを、切っきって落せおとせば、地獄じごくの闇やみぞ」とルーファスるーふぁすは革かわに釣るつる重きおもき剣けんに手てを懸けかけてするすると四五しご寸すんばかり抜くぬく。
一座いちざの視線しせんは悉くことごとく二人ふたりの上うえに集まるあつまる。
高きたかき窓まど洩るもる夕日ゆうひを脊せいに負うおう、二人ふたりの黒くろき姿すがたの、この世このよの様ようとも思わおもわれぬ中なかに、抜きぬきかけた剣けんのみが寒きさむき光ひかりを放つはなつ。
この時じルーファスるーふぁすの次つぎに座ざを占めしめたるウィリアムうぃりあむが「渾名あだなこそ狼おおかみなれ、君きみが剣けんに刻めるきざめる文字もじに耻じはじずや」と右手みぎてを延ばしのばしてルーファスるーふぁすの腰こしのあたりを指すさす。
幅はば広きひろき刃はの鍔つばの真下ましたにprogloriaetpatriaと云ういう銘めいが刻んきざんである。
水みずを打っうった様ような静かしずかな中なかに、只ただルーファスるーふぁすが抜きぬきかけた剣けんを元もとの鞘さやに収おさむむる声こえのみが高くたかく響いひびいた。
これより両家りょうけの間まは長くながく中なか絶えたえて、ウィリアムうぃりあむの乗りのり馴れなれた栗毛くりげの馬うまは少しくすこしく肥えこえた様ように見えみえた。
近頃ちかごろは戦さいくさの噂うわささえ頻りしきりである。
睚眦の恨はんは人ひとを欺くあざむく笑わらいの衣ころもに包めつつめども、解けとけ難きがたき胸むねの乱れみだれは空そら吹くふく風かぜの音おとにもざわつく。
夜よるとなく日ひとなく磨きみがきに磨くみがく刃はの冴さえは、人ひとを屠るほふる遺恨いこんの刃はを磨くみがくのである。
君きみの為めため国くにの為めためなる美しきうつくしき名なを藉りかりて、毫釐ごうりの争そうに千里せんりの恨はんを報ぜほうぜんとする心こころからである。
正義まさよしと云いいい人道じんどうと云ういうは朝嵐あさあらしに翻がえすひるがえす旗はたにのみ染め出すそめだすべき文字もじで、繰り出すくりだす槍やりの穂先ほさきには瞋恚しんいの※が焼け付いやけついている。
狼おおかみは如何にいかにして鴉からすと戦うたたかうべき口実こうじつを得とくたか知らしらぬ。
鴉からすは何なんを叫んさけんで狼おおかみを誣ゆる積りつもりか分らわからぬ。
只ただ時じならぬ血潮ちしおとまで見えみえて迸ばしりたる酒さけの雫しずくの、胸むねを染めそめたる恨はんを晴さはらさでやとルーファスるーふぁすがセントせんと・ジョージじょーじに誓えるちかえるは事実じじつである。
尊きとうとき銘めいは剣けんにこそ彫れほれ、抜き放ちぬきはなちたる光ひかりの裏うらに遠吠とおぼえゆる狼おおかみを屠らほふらしめたまえとありとあらゆるセイントせいんとに夜よる鴉からすの城主じょうしゅが祈念きねんを凝しこらしたるも事実じじつである。
両家りょうけの間まの戦いくさは到底とうてい免かれまぬかれない。
いつというだけが問題もんだいである。
末の世すえのよの尽きつきて、その末の世すえのよの残るのこるまでと誓いちかいたる、クララくららの一門いちもんに弓ゆみをひくはウィリアムうぃりあむの好まこのまぬところである。
手創てきず負いおいて斃れたおれんとする父ちちとたよりなき吾われとを、敵てきの中なかより救いすくいたるルーファスるーふぁすの一家いっかに事ことありと云ういう日ひに、膝ひざを組んくんで動かうごかぬのはウィリアムうぃりあむの猶なお好まこのまぬところである。
封建ほうけんの代だいのならい、主ぬしと呼びよび従じゅうと名乗るなのる身みの危ききに赴かおもむかで、人ひとに卑怯ひきょうと嘲けらあざけらるるは彼かれの尤ももっとも好まこのまぬところである。
甲こうも着ようきよう、鎧よろいも繕おうつくろおう、槍やりも磨こうみがこう、すわという時じは真先まっさきに行こういこう……然ししかしクララくららはどうなるだろう。
負けれまければ打だ死しをする。
クララくららには逢えあえぬ。
勝てかてばクララくららが死ぬしぬかも知れしれぬ。
ウィリアムうぃりあむは覚えおぼえず空そらに向っむかって十字じゅうじを切るきる。
今いまの内うち姿すがたを窶しやつして、クララくららと落ち延びおちのびて北きたの方ほうへでも行こういこうか。
落ちおちた後あとで朋輩ほうばいが何なんというだろう。
ルーファスるーふぁすが人でなしひとでなしと云ういうだろう。
内懐うちぶところからクララくららのくれた一いち束ねたばねの髪の毛かみのけを出しだして見るみる。
長いながい薄色うすいろの毛けが、麻あさを砧きぬたで打っうって柔かにこやかにした様ようにゆるくうねってウィリアムうぃりあむの手てから下がるさがる。
ウィリアムうぃりあむは髪かみを見詰めみつめていた視線しせんを茫然ぼうぜんとわきへそらす。
それが器械きかい的まとに壁かべの上うえへ落ちるおちる。
壁かべの上うえにかけてある盾たての真中まなかで優しいやさしいクララくららの顔かおが笑っわらっている。
去年きょねん分れわかれた時じの顔かおと寸分すんぶん違わちがわぬ。
顔かおの周囲しゅういを巻いまいている髪の毛かみのけが……ウィリアムうぃりあむは呪わのろわれたる人ひとの如くごとくに、千里せんりの遠きとおきを眺めながめている様ような眼付めつきで石いしの如くごとく盾たてを見みている。
日ひの加減かげんか色いろが真青まっさおだ。
……顔かおの周囲しゅういを巻いまいている髪の毛かみのけが、先さきっきから流れるながれる水みずに漬けつけた様ようにざわざわと動いうごいている。
髪の毛かみのけではない無数むすうの蛇へびの舌したが断だん間まなく震動しんどうして五ご寸すんの円えんの輪わを揺りゆすり廻るまわるので、銀地ぎんじに絹糸けんしの様ように細いほそい炎ほのおが、見えみえたり隠れかくれたり、隠れかくれたり見えみえたり、渦うずを巻いまいたり、波なみを立てたてたりする。
全部ぜんぶが一度いちどに動いうごいて顔かおの周囲しゅういを廻転かいてんするかと思うおもうと、局部きょくぶが纔かわずかに動きうごきやんで、すぐその隣りとなりが動くうごく。
見るみる間まに次つぎへ次つぎへと波動はどうが伝わるつたわる様ようにもある。
動くうごく度どに舌したの摩れ合うすれあう音おとでもあろう微かかすかな声こえが出るでる。
微かかすかではあるが只ただ一いちつの声こえではない、漸くようやく鼓膜こまくに響くひびく位くらいの静かしずかな音おとのうちに――無数むすうの音おとが交っかっている。
耳みみに落つるおつる一いちの音おとが聴けきけば聴くきく程ほど多くおおくの音おとがかたまって出来上っできあがった様ように明かあきらかに聞き取らききとられる。
盾たての上うえに動くうごく物の数もののかず多きおおきだけ、音おとの数すうも多くおおく、又またその動くうごくものの定かさだかに見えみえぬ如くごとく、出るでる音おとも微かかすかであららかには鳴らならぬのである。
……ウィリアムうぃりあむは手てに下げさげたるクララくららの金毛きんけを三さんたび盾たてに向っむかって振りふりながら「盾たて! 最後さいごの望もちは幻影げんえいの盾たてにある」と叫んさけんだ。
戦いくさは潮しおの河かわに上るのぼる如くごとく次第しだいに近付いちかづいて来るくる。
鉄てつを打つうつ音おと、鋼はがねを鍛えるきたえる響ひびき、槌つちの音おと、やすりの響ひびきは絶えたえず中庭なかにわの一隅いちぐうに聞えるきこえる。
ウィリアムうぃりあむも人ひとに劣らおとらじと出陣しゅつじんの用意よういはするが、時じには殺伐さつばつな物音ものおとに耳みみを塞いせいで、高きたかき角櫓かどやぐらに上っのぼって遙かはるかに夜よる鴉からすの城しろの方ほうを眺めるながめる事ことがある。
霧深いきりぶかい国くにの事ことだから眼めに遮ぎるさえぎる程ほどの物ものはなくても、天気てんきの好いよい日ひに二十にじゅう哩先は見えみえぬ。
一面いちめんに茶渋ちゃしぶを流しながした様ような曠野こうやが逼らせまらぬ波なみを描いえがいて続くつづく間まに、白金はっきんの筋すじが鮮かあざやかに割り込んわりこんでいるのは、日毎ひごとの様ように浅瀬あさせを馬うまで渡しわたした河かわであろう。
白いしろい流れながれの際立ちきわだちて目めを牽くひくに付けつけて、夜よる鴉からすの城しろはあの見当けんとうだなと見送るみおくる。
城しろらしきものは霞かすみの奥おくに閉じとじられて眸ひとみ底そこには写らうつらぬが、流るるながるる銀ぎんの、烟けむりと化しかしはせぬかと疑わうたがわるまで末広すえひろに薄れうすれて、空そらと雲くもとの境さかいに入るはいる程ほどは、翳しかざしたる小手こての下したより遙かはるかに双そうの眼めに聚まってくる。
あの空そらとあの雲くもの間まが海うみで、浪なみの噛むかむ切立ちきりたち岩いわの上うえに巨巌きょがんを刻んきざんで地ちから生えはえた様ようなのが夜よる鴉からすの城しろであると、ウィリアムうぃりあむは見えみえぬ所ところを想像そうぞうで描き出すえがきだす。
若しもしその薄黒くうすぐろく潮風しおかぜに吹きふき曝ささらされた角窓かくまどの裏うらに一いち人物じんぶつを画きえがき足したしたなら死し竜りゅうは忽ちたちまち活きつきて天てんに騰るあがるのである。
天晴あっぱれに比ひすべきものは何人なんにんであろう、ウィリアムうぃりあむは聞かきかんでも能くよく知っしっている。
目めの廻るまわる程ほど急がしいいそがしい用意よういの為めために、昼ひるの間まはそれとなく気きが散っちって浮き立つうきたつ事こともあるが、初夜しょや過ぎすぎに吾がわが室むろに帰っかえって、冷たいつめたい臥床がしょうの上うえに六ろく尺さし一いち寸すんの長躯ちょうくを投げるなげる時じは考え出すかんがえだす。
初めてはじめてクララくららに逢っあったときは十じゅう二に三さんの小供こどもで知らしらぬ人ひとには口くちもきかぬ程ほど内気うちきであった。
只ただ髪の毛かみのけは今いまの様ように金色きんいろであった……ウィリアムうぃりあむは又また内懐うちぶところからクララくららの髪の毛かみのけを出しだして眺めるながめる。
クララくららはウィリアムうぃりあむを黒いくろい眼めの子こ、黒いくろい眼めの子こと云っいってからかった。
クララくららの説せつによると黒いくろい眼めの子こは意地いじが悪いわるい、人ひとがよくない、猶太なおふとし人ひとかジプシイでなければ黒いくろい眼色がんしょくのものはない。
ウィリアムうぃりあむは怒っどって夜よる鴉からすの城しろへはもう来きぬと云っいったらクララくららは泣きなき出しだして堪忍かんにんしてくれと謝ししゃした事ことがある。
……二人ふたりして城しろの庭にわへ出でて花はなを摘んつんだ事こともある。
赤いあかい花はな、黄きな花はな、紫むらさきの花はな――花はなの名なは覚えおぼえておらん――色々いろいろの花はなでクララくららの頭あたまと胸むねと袖そでを飾っかざってクイーンくいーんだクイーンくいーんだとその前まえに跪ずいたら、槍やりを持たもたない者ものはナイトないとでないとクララくららが笑っわらった。
……今いまは槍やりもある、ナイトないとでもある、然ししかしクララくららの前まえに跪くひざまずく機会きかいはもうあるまい。
ある時じは野のへ出でて蒲公英たんぽぽの蕊ずいを吹きふきくらをした。
花はなが散っちってあとに残るのこる、むく毛むくげを束ねたばねた様ように透明とうめいな球たまをとってふっと吹くふく。
残っのこった種しゅの数すうでうらないをする。
思うおもう事ことが成るなるかならぬかと云いいいながらクララくららが一いち吹きふきふくと種しゅの数すうが一いちつ足りたりないので思うおもう事ことが成らならぬと云ういう辻つじうらであった。
するとクララくららは急きゅうに元気げんきがなくなって俯向いうつむいてしまった。
何なんを思っおもって吹いふいたのかと尋ねたずねたら何なんでもいいと何時なんじになく邪慳じゃけんな返事へんじをした。
その日ひは碌々ろくろく口くちもきかないで塞ぎ込んふさぎこんでいた。
……春はるの野のにありとあらゆる蒲公英たんぽぽをむしって息いきの続つづくづかぬまで吹き飛ばしふきとばしても思う様おもうさまな辻占つじうらは出でぬ筈はずだとウィリアムうぃりあむは怒るおこる如くごとくに云ういう。
然ししかしまだ盾たてと云ういう頼みたのみがあるからと打消すうちけすように添えるそえる。
……これは互たがいに成人せいじんしてからの事ことである。
夏なつを彩どるいろどる薔薇ばらの茂みしげみに二人ふたり座ざをしめて瑠璃るりに似にた青空あおぞらの、鼠色ねずみいろに変るかわるまで語りかたり暮しくらした事ことがあった。
騎士きしの恋こいには四よん期きがあると云ういう事ことをクララくららに教えおしえたのはその時じだとウィリアムうぃりあむは当時とうじの光景こうけいを一度いちどに目めの前まえに浮べるうかべる。
「第だい一いちを躊躇ちゅうちょの時期じきと名づけるなづける、これは女おんなの方ほうでこの恋こいを斥けようしりぞけようか、受けよううけようかと思い煩うおもいわずらう間まの名なである」といいながらクララくららの方ほうを見みた時じに、クララくららは俯向いうつむいて、頬ほおのあたりに微かかすかなる笑わらいを漏ろうした。
「この時期じきの間まには男おとこの方ほうでは一言ひとことも恋こいをほのめかすことを許さゆるされぬ。只ただ眼めにあまる情けなさけと、息いきに漏るもるる嘆きなげきとにより、昼ひるは女おんなの傍そばえを、夜よるは女おんなの住居じゅうきょの辺りあたりを去らさらぬ誠まことによりて、我意がい中なかを悟れさとれかしと物もの言わいわぬうちに示すしめす」クララくららはこの時じ池いけの向うむこうに据えすえてある大理石だいりせきの像ぞうを余念よねんなく見みていた。
「第だい二にを祈念きねんの時期じきと云ういう。男おとこ、女おんなの前まえに伏しふして懇ろねんごろに我がわが恋こい叶えかなえたまえと願うねがう」クララくららは顔かおを背けそむけて紅くれないの薔薇ばらの花はなを唇くちびるにつけて吹くふく。
一いち弁べんは飛んとんで波なみなき池いけの汀なぎさに浮ぶうかぶ。
一いち弁べんは梅鉢うめばちの形かたちちに組んくんで池いけを囲えるかこえる石いしの欄干らんかんに中りあたりて敷石しきいしの上うえに落ちおちた。
「次つぎに来るくるは応諾おうだくの時期じきである。誠まことありと見抜くみぬく男おとこの心こころを猶なおも確めたしかめん為めため女おんな、男おとこに草々そうそうの課役かえきをかける。剣けんの力ちから、槍やりの力ちからで遂すいぐべき程ほどの事柄ことがらであるは言うゆうまでもない」クララくららは吾われを透すとおす大いなるおおいなる眼めを翻しひるがえして第だい四よんはと問うとう。
「第だい四よんの時期じきをDruerieと呼ぶよぶ。武夫たけおが君きみの前まえに額がく付いついて渝らかわらじと誓うちかう如くごとく男おとこ、女おんなの膝下しっかに跪ずき手てを合せあわせて女おんなの手ての間まに置くおく。女おんなかたの如くごとく愛あいの式しきを返しかえして男おとこに接吻せっぷんする」クララくらら遠とおき代きたいの人ひとに語るかたる如きごとき声こえにて君きみが恋こいは何れいずれの期きぞと問うとう。
思うおもう人ひとの接吻せっぷんさえ得とくなばとクララくららの方ほうに顔かおを寄せるよせる。
クララくらら頬ほおに紅くれないして手てに持てるもてる薔薇ばらの花はなを吾がわが耳みみのあたりに抛つなげうつ。
花びらはなびらは雪ゆきと乱れみだれて、ゆかしき香りかおりの一群れひとむれが二人ふたりの足あしの下したに散るちる。
……Druerieの時期じきはもう望めのぞめないわとウィリアムうぃりあむは六ろく尺さし一いち寸すんの身みを挙げあげてどさと寝返りねがえりを打つうつ。
間まにあまる壁かべを切りきりて、高くたかく穿てうがてる細ほそき窓まどから薄うす暗きくらき曙光しょこうが漏れもれて、物ものの色いろの定かさだかに見えみえぬ中なかに幻影げんえいの盾たてのみが闇やみに懸るかかる大蜘蛛おおくもの眼めの如くごとく光るひかる。
「盾たてがある、まだ盾たてがある」とウィリアムうぃりあむは烏からすの羽はねの様ような滑かなめらかな髪の毛かみのけを握っにぎってがばと跳ねはね起るおこる。
中庭なかにわの隅すみでは鉄てつを打つうつ音おと、鋼はがねを鍛えるきたえる響ひびき、槌つちの音おとやすりの響ひびきが聞えきこえ出すだす。
戦いくさは日ひ一日いちにちと逼っせまってくる。
その日ひの夕暮ゆうぐれに一いち城しろの大衆たいしゅうが、無下むげに天井てんじょうの高いたかい食堂しょくどうに会しかいして晩餐ばんさんの卓たくに就いついた時じ、戦いくさの時期じきは愈いよいよ狼おおかみ将軍しょうぐんの口くちから発布はっぷされた。
彼かれは先ずまず夜よる鴉からすの城主じょうしゅの武士道ぶしどうに背けるそむける罪つみを数えかぞえて一門いちもんの面目めんぼくを保つたもつ為めために七なな日ひの夜よるを期しきして、一挙いっきょにその城しろを屠れほふれと叫んさけんだ。
その声こえは堂どうの四よん壁かべを一いち周しゅうして、丸くまるく組み合せくみあわせたる高いたかい天井てんじょうに突き当るつきあたると思わおもわるる位くらい大きいおおきい。
戦いくさは固よりもとより近づきちかづきつつあった。
ウィリアムうぃりあむは戦いくさの近づきちかづきつつあるを覚悟かくごの前まえでこの日ひこの夜よるを過ごしすごしていた。
去れされど今いまルーファスるーふぁすの口くちから愈いよいよ七なな日ひの後あとと聞いきいた時じはさすがの覚悟かくごも蟹かにの泡あわの、蘆あしの根ねを繞らめぐらぬ淡あわき命いのちの如くごとくにいずくへか消え失せきえうせてしまった。
夢ゆめならぬを夢ゆめと思いおもいて、思いおもい終おわりせぬ時じは、無理むりながら事実じじつとあきらめる事こともある。
去れされどその事実じじつを事実じじつと証するしょうする程ほどの出来事できごとが驀地まっしぐらに現前げんぜんせぬうちは、夢ゆめと思うおもうてその日ひを過すすごすが人ひとの世よの習いならいである。
夢ゆめと思うおもうは嬉しくうれしく、思わおもわぬがつらいからである。
戦いくさは事実じじつであると思案しあんの臍へそを堅めかためたのは昨日きのうや今日きょうの事ことではない。
只ただ事実じじつに相違そういないと思い定めおもいさだめた戦いたたかいが、起らおこらんとして起らおこらぬ為めため、であれかしと願うねがう夢ゆめの思いおもいは却ってかえって「事実じじつになる」の念ねんを抑そもそもゆる事こともあったのであろう。
一いち年ねんは三百六十五さんびゃくろくじゅうご日ひ、過すぎぐるは束の間つかのまである。
七なな日ひとは一いち年ねんの五十ごじゅう分ぶん一いちにも足らあしらぬ。
右みぎの手てを挙げあげて左ひだりの指ゆびを二に本ほん加えれくわえればすぐに七ななである。
名なもなき鬼おにに襲わおそわれて、名ななき故こに鬼おににあらずと、強いてしいて思いおもいたるに突然とつぜん正体しょうたいを見付けみつけて今更いまさら眼力がんりきの違わちがわぬを口惜しくくやしく思うおもう時じの感じかんじと異なることなる事こともあるまい。
ウィリアムうぃりあむは真青まっさおになった。
隣りとなりに坐しざしたシワルドが病気びょうきかと問うとう。
否いなと答えこたえて盃さかずきを唇くちびるにつける。
充たみたざる酒さけの何なんに揺れゆれてか縁えんを越しこして卓たくの上うえを流れるながれる。
その時じルーファスるーふぁすは再びふたたび起っおこって夜よる鴉からすの城しろを、城しろの根ねに張るはる巌いわもろともに海うみに落せおとせと盃さかずきを眉まゆのあたりに上げあげて隼しゅんの如くごとく床ゆかの上うえに投げなげ下すくだす。
一座いちざの大衆たいしゅうはフラーふらーと叫んさけんで血ちの如きごとき酒さけを啜るすする。
ウィリアムうぃりあむもフラーふらーと叫んさけんで血ちの如きごとき酒さけを啜るすする。
シワルドもフラーふらーと叫んさけんで血ちの如きごとき酒さけを啜りすすりながら尻目しりめにウィリアムうぃりあむを見るみる。
ウィリアムうぃりあむは独りひとり立ったって吾われ室むろに帰りかえりて、人ひとの入らはいらぬ様ように内側うちがわから締りしまりをした。
盾たてだ愈いよいよ盾たてだとウィリアムうぃりあむは叫びさけびながら室むろの中なかをあちらこちらと歩むあゆむ。
盾たては依然いぜんとして壁かべに懸っかかっている。
ゴーゴンごーごん・メジューサめじゅーさとも較ややぶべき顔かおは例れいに由っよって天地人てんちにんを合せあわせて呪いのろい、過去かこ現世げんせ未来みらいに渉っわたって呪いのろい、近寄るちかよるもの、触るさわるるものは無論むろん、目めに入らはいらぬ草くさも木きも呪いのろい悉しつさでは已まやまぬ気色けしきである。
愈いよいよこの盾たてを使わつかわねばならぬかとウィリアムうぃりあむは盾たての下したにとまって壁間へきかんを仰ぐあおぐ。
室むろの戸とを叩くたたく音おとのする様ような気合きあいがする。
耳みみを峙てそばだてて聞くきくと何なんの音おとでもない。
ウィリアムうぃりあむは又また内懐うちぶところからクララくららの髪毛かみのけを出すだす。
掌てのひらに乗せのせて眺めるながめるかと思うおもうと今度こんどはそれを叮嚀ていねいに、室むろの隅すみに片寄せかたよせてある三さん本ほん脚あしの丸いまりいテーブルてーぶるの上うえに置いおいた。
ウィリアムうぃりあむは又また内懐うちぶところへ手てを入れいれて胸むねの隠しかくしの裏うらから何なんか書付かきつけの様ようなものを攫みつかみ出すだす。
室むろの戸口とぐちまで行っいって横よこにさした鉄てつの棒ぼうの抜けぬけはせぬかと振り動かしふりうごかして見るみる。
締しめは大丈夫だいじょうぶである。
ウィリアムうぃりあむは丸まる机つくえに倚っよって取り出しとりだした書付かきつけを徐ろにおもむろに開くひらく。
紙かみか羊皮ようひか慥かたしかには見えみえぬが色合いろあいの古びふるび具合ぐあいから推すおすと昨今さっこんの物ものではない。
風かぜなきに紙かみの表ひょうてが動くうごくのは紙かみが己れおのれと動くうごくのか、持つもつ手ての動くうごくのか。
書付かきつけの始めはじめには「幻影げんえいの盾たての由来ゆらい」とかいてある。
すれたものか文字もじのあとが微かかすかに残っのこっているばかりである。
「汝なんじが祖そウィリアムうぃりあむはこの盾たてを北きたの国くにの巨人きょじんに得とくたり。……」ここにウィリアムうぃりあむとあるはわが四よん世よの祖そだとウィリアムうぃりあむが独りひとり言うゆう。
「黒雲くろくもの地ちを渡るわたる日ひなり。北きたの国くにの巨人きょじんは雲くもの内うちより振り落さふりおとされたる鬼おにの如くごとくに寄せ来るよせくる。拳こぶしの如きごとき瘤こぶのつきたる鉄棒てつぼうを片手かたてに振り翳しふりかざして骨ほねも摧けくだけよと打てうてば馬うまも倒れたおれ人ひとも倒れたおれて、地ちを行くいく雲くもに血潮ちしおを含んふくんで、鳴るなる風かぜに火花ひばなをも見るみる。人ひとを斬るきるの戦いくさにあらず、脳のうを砕きくだき胴どうを潰しつぶして、人ひとという形かたちを滅せめっせざれば已まやまざる烈れつしき戦いくさなり。……」ウィリアムうぃりあむは猛たけしき者もの共ともよと眉まゆをひそめて、舌したを打つうつ。
「わが渡り合いわたりあいしは巨人きょじんの中なかの巨人きょじんなり。銅板どうばんに砂すなを塗れるまみれる如きごとき顔かおの中なかに眼め懸りかかりて稲妻いなずまを射るいる。我われを見みて南方なんぽうの犬尾いぬおを捲いまいて死ねしねと、かの鉄棒てつぼうを脳天のうてんより下すくだす。眼めを遮らさえぎらぬ空そらの二につに裂くさくる響しひびかして、鉄てつの瘤こぶはわが右みぎの肩先かたさきを滑べるすべる。繋ぎつなぎ合せあわせて肩かたを蔽えおおえる鋼鉄こうてつの延のべ板いたの、尤ももっとも外そとに向えむかえるが二につに折れおれて肉にくに入るはいる。吾がわがうちし太刀先たちさきは巨人きょじんの盾たてを斜しゃに斫っきって戞と鳴るなるのみ。……」ウィリアムうぃりあむは急きゅうに眼めを転じてんじて盾たての方ほうを見るみる。
彼かれの四よん世よの祖そが打ち込んうちこんだ刀痕とうこんは歴然れきぜんと残っのこっている。
ウィリアムうぃりあむは又また読みよみ続けるつづける。
「われ巨人きょじんを切るきる事こと三さん度ど、三さん度目どめにわが太刀たちは鍔元つばもとより三さんつに折れおれて巨人きょじんの戴くいただく甲こうの鉢金はちがねの、内側うちがわに歪むゆがむを見みたり。巨人きょじんの椎しいを下すくだすや四よんたび、四よんたび目めに巨人きょじんの足あしは、血ちを含むふくむ泥どろを蹴て、木枯こがらしの天狗てんぐの杉すぎを倒すたおすが如くごとく、薊あざみの花はなのゆらぐ中なかに、落雷らくらいも耻じよはじよとばかり※と横たわるよこたわる。横たわりよこたわりて起きおきぬ間まを、疾くとくも縫えるぬえるわが短刀たんとうの光ひかりを見よみよ。吾われながら又またなき手柄てがらなり。……」ブラヴォーぶらゔぉーとウィリアムうぃりあむは小声こごえに云ういう。
「巨人きょじんは云ういう、老おい牛うしの夕陽ゆうひに吼くゆるが如きごとき声こえにて云ういう。幻影げんえいの盾たてを南方なんぽうの豎子じゅしに付与ふよす、珍重ちんちょうに護持ごじせよと。われ盾たてを翳しかざしてその所以ゆえんを問うとうに黙しもくして答えこたえず。強いてしいて聞くきくとき、彼かれ両手りょうてを揚げあげて北きたの空そらを指しさして曰くいわく。ワルハラわるはらの国くにオジンおじんの座ざに近くちかく、火ひに溶けとけぬ黒鉄こくてつを、氷こおりの如きごとき白しろ炎ほのおに鋳いたるが幻影げんえいの盾たてなり。……」この時じ戸口とぐちに近くちかく、石いしよりも堅けんき廊下ろうかの床ゆかを踏みならすふみならす音おとがする。
ウィリアムうぃりあむは又また起っおこって扉とびらに耳みみを付けつけて聴くきく。
足音あしおとは部屋へやの前まえを通り越しとおりこして、次第しだいに遠ざかるとおざかる下したから、壁かべの射返すいかえす響ひびきのみが朗らかほがらかに聞えるきこえる。
何者なにものか暗あん窖あなぐらの中なかへ降りふりていったのであろう。
「この盾たて何なんの奇特きとくかあると巨人きょじんに問えとえば曰くいわく。盾たてに願えねがえ、願うねがうて聴かきかれざるなし只ただその身みを亡ぼすほろぼす事ことあり。人ひとに語るかたるな語るかたるとき盾たての霊れい去るさる。……汝なんじ盾たてを執っとって戦いくさに臨めのぞめば四囲しいの鬼神きしん汝なんじを呪うのろうことあり。呪わのろわれて後あと蓋ふた天蓋てんがい地ちの大おお歓喜かんきに逢うあうべし。只ただ盾たてを伝えつたえ受じゅくるものにこの秘密ひみつを許すゆるすと。南国なんごくの人ひとこの不祥ふしょうの具ぐを愛せあいせずと盾たてを棄てすてて去らさらんとすれば、巨人きょじん手てを振っふって云ういう。われ今いま浄土じょうどワルハラわるはらに帰るかえる、幻影げんえいの盾たてを要せようせず。百ひゃく年ねんの後あと南方なんぽうに赤衣しゃくえの美人びじんあるべし。その歌うたのこの盾たての面めんに触るさわるるとき、汝なんじの児孫じそん盾たてを抱いいだいて抃舞べんぶするものあらんと。……」汝なんじの児孫じそんとはわが事ことではないかとウィリアムうぃりあむは疑ううたがう。
表ひょうに足音あしおとがして室むろの戸との前まえに留っとめった様ようである。
「巨人きょじんは薊あざみの中なかに斃れたおれて、薊あざみの中なかに残れるのこれるはこの盾たてなり」と読みよみ終っおわってウィリアムうぃりあむが又また壁かべの上うえの盾たてを見るみると蛇へびの毛けは又また揺きわななき始めるはじめる。
隙間すきまなく縺れもつれた中なかを下したへ下したへと潜りもぐりて盾たての裏側うらがわまで抜けぬけはせぬかと疑わうたがわるる事こともあり、又また上うえへ上うえへともがき出でて五ご寸すんの円えんの輪廓りんかくだけが盾たてを離れはなれて浮き出うきではせぬかと思わおもわるる事こともある。
下したに動くうごくときも上うえに揺りゆすり出すだす時じも同じおなじ様ように清水しみずが滑かなめらかな石いしの間まを※る時じの様ような音おとが出るでる。
只ただその音おとが一いち本ほん々々の毛けが鳴っなって一いち束たばの音おとにかたまって耳朶みみたぶに達するたっするのは以前いぜんと異なることなる事ことはない。
動くうごくものは必ずかならず鳴るなると見えるみえるに、蛇へびの毛けは悉くことごとく動いうごいているからその音おとも蛇へびの毛けの数すうだけはある筈はずであるが――如何にいかにも低いひくい。
前まえの世よの耳語じごきを奈落ならくの底そこから夢ゆめの間まに伝えるつたえる様ように聞かきかれる。
ウィリアムうぃりあむは茫然ぼうぜんとしてこの微音びおんを聞いきいている。
戦いくさも忘れわすれ、盾たても忘れわすれ、我われ身みをも忘れわすれ、戸口とぐちに人足にんそくの留っとめったも忘れわすれて聞いきいている。
ことことと戸とを敲くたたくものがある。
ウィリアムうぃりあむは魔まがついた様ような顔かおをして動こううごこうともしない。
ことことと再びふたたび敲くたたく。
ウィリアムうぃりあむは両手りょうてに紙片しへんを捧げささげたまま椅子いすを離れはなれて立ち上るたちのぼる。
夢中むちゅうに行くいく人ひとの如くごとく、身みを向けむけて戸口とぐちの方ほうに三さん歩あゆみばかり近寄るちかよる。
眼めは戸との真中まなかを見みているが瞳孔どうこうに写っうつって脳裏のうりに印するいんする影かげは戸とではあるまい。
外そとの方ほうでは気きが急くせくか、厚いあつい樫かしの扉とびらを拳こぶしにて会釈えしゃくなく夜陰やいんに響けひびけと叩くたたく。
三さん度目どめに敲いたたいた音おとが、物静かものしずかな夜よるを四方しほうに破っやぶったとき、偶像ぐうぞうの如きごときウィリアムうぃりあむは氷盤ひょうばんを空裏くうりに撃砕げきさいする如くごとく一時いちじに吾われに返っかえった。
紙片しへんを急きゅうに懐ふところへかくす。
敲くたたく音おとは益えき逼っせまって絶間たえまなく響くひびく。
開けあけぬかと云ういう声こえさえ聞えるきこえる。
「戸とを敲くたたくは誰だれぞ」と鉄てつの栓せん張ちょうをからりと外すはずす。
切り岸きりぎしの様ような額がくの上うえに、赤黒せっこくき髪かみの斜めななめにかかる下したから、鋭どくするどく光るひかる二につの眼めが遠慮えんりょなく部屋へやの中なかへ進んすすんで来るくる。
「わしじゃ」とシワルドが、進めすすめぬ先さきから腰懸こしけんの上うえにどさと尻しりを卸すおろす。
「今日きょうの晩食ばんしょくに顔色かおいろが悪うわるう見えみえたから見舞みまいに来きた」と片足かたあしを宙ちゅうにあげて、残れるのこれる膝ひざの上うえに置くおく。
「さした事こともない」とウィリアムうぃりあむは瞬きまばたきして顔かおをそむける。
「夜よる鴉からすの羽搏きはばたきを聞かきかぬうちに、花はな多きおおき国くにに行くいく気きはないか」とシワルドは意味いみ有気ゆうきに問うとう。
「花はな多きおおき国くにとは?」「南みなみの事ことじゃ、トルバダウとるばだうの歌うたの聞けるきける国くにじゃ」「主ぬしがいにたいと云ういうのか」「わしは行かいかぬ、知れしれた事ことよ。もう六ろくつ、日の出ひのでを見れみれば、夜よる鴉からすの栖すみかを根ねから海うみへ蹴落すけおとす役目やくめがあるわ。日ひの永いながい国くにへ渡っわたったら主ぬしの顔色かおいろが善くよくなろうと思うおもうての親切しんせつからじゃ。ワハハハハわはははは」とシワルドは傍若ぼうじゃく無人むじんに笑うわらう。
「鳴かなかぬ烏からすの闇やみに滅めつり込むごむまでは……」と六ろく尺さし一いち寸すんの身みをのして胸板むないたを拊つ。
「霧深いきりぶかい国くにを去らさらぬと云ういうのか。その金色きんいろの髪かみの主ぬしとなら満更まんざら嫌いやでもあるまい」と丸まるテーブルてーぶるの上うえを指すさす。
テーブルてーぶるの上うえにはクララくららの髪かみが元もとの如くごとく乗っのっている。
内懐うちぶところへ収めるおさめるのをつい忘れわすれた。
ウィリアムうぃりあむは身みを伸しのしたまま口籠るくちごもる。
「鴉からすに交こうる白いしろい鳩はとを救うすくう気きはないか」と再びふたたび叢中そうちゅうに蛇へびを打つうつ。
「今いまから七なな日ひ過ぎすぎた後あとなら……」と叢中そうちゅうの蛇へびは不意ふいを打だれて已を得とくず首くびを擡げもたげかかる。
「鴉からすを殺しころして鳩はとだけ生かそういかそうと云ういう注文ちゅうもんか……それは少しすこし無理むりじゃ。然ししかし出来できぬ事こともあるまい。南みなみから来きて南みなみへ帰るかえる船ふねがある。待てまてよ」と指ゆびを折るおる。
「そうじゃ六ろく日ひ目めの晩ばんには間に合うまにあうだろう。城しろの東ひがしの船付ふねつけ場ばへ廻しまわして、あの金色きんいろの髪かみの主ぬしを乗せようのせよう。不断ふだんは帆柱ほばしらの先さきに白いしろい小旗しょうきを揚げるあげるが、女おんなが乗っのったら赤あかに易えかえさせよう。軍ぐんさは七なな日ひ目めの午うま過すぎからじゃ、城しろを囲めかこめば港みなとが見えるみえる。柱はしらの上うえに赤あかが見えみえたら天下てんか太平たいへい……」「白しろが見えみえたら……」とウィリアムうぃりあむは幻影げんえいの盾たてを睨むにらむ。
夜叉やしゃの髪の毛かみのけは動きうごきもせぬ、鳴りなりもせぬ。
クララくららかと思うおもう顔かおが一寸ちょっと見えみえて又またもとの夜叉やしゃに返るかえる。
「まあ、よいわ、どうにかなる心配しんぱいするな。それよりは南みなみの国くにの面白いおもしろい話はなしでもしょう」とシワルドは渋色しぶいろの髭ひげを無む雑作ぞうさに掻いかいて、若きわかき人ひとを慰めるなぐさめる為ためか話頭わとうを転ずるてんずる。
「海うみ一いちつ向むかいへ渡るわたると日の目ひのめが多いおおい、暖かあたたかじゃ。それに酒さけが甘くあまくて金きんが落ちおちている。土つち一いち升ますに金きん一いち升ます……うそじゃ無いない、本間ほんまの話はなしじゃ。手てを振るふるのは聞きききとも無いないと云ういうのか。もう落おち付いついて一所いっしょに話すはなす折おりもあるまい。シワルドの名残なごりの談義だんぎだと思うおもうて聞いきいてくれ。そう滅入らめいらんでもの事ことよ」宵よいに浴びあびた酒さけの気きがまだ醒めさめぬのかゲーげーと臭いくさいのをウィリアムうぃりあむの顔かおに吹きかけるふきかける。
「いやこれは御ご無礼ぶれい……何なんを話すはなす積りつもりであった。おおそれだ、その酒さけの湧くわく、金きんの土つちに交こうる海うみの向むかいでの」とシワルドはウィリアムうぃりあむを覗き込むのぞきこむ。
「主ぬしが女おんなに可愛かわいがられたと云ういうのか」「ワハハハわははは女おんなにも数多あまた近きん付ふはあるが、それじゃない。ボーシイルぼーしいるの会かいを見みたと云ういう事ことよ」「ボーシイルぼーしいるの会かい?」「知らしらぬか。薄黒いうすぐろい島国しまぐにに住んすんでいては、知らしらぬも道理どうりじゃ。プロヴォンサルの伯はくとツールースつーるーすの伯はくの和睦わぼくの会かいはあちらで誰れだれも知らしらぬものはないぞよ」「ふむそれが?」とウィリアムうぃりあむは浮かうきかぬ顔かおである。
「馬うまは銀ぎんの沓くつをはく、狗いぬは珠たまの首輪くびわをつける……」「金きんの林檎りんごを食うくう、月つきの露ろを湯ゆに浴びるあびる……」と平かたいらかならぬ人ひとのならい、ウィリアムうぃりあむは嘲るあざける様ように話はなしの糸いとを切るきる。
「まあ水みずを指さささずに聴けきけ。うそでも興きょうがあろう」と相手あいては切れきれた糸いとを接ぐはぐ。
「試合しあいの催しもよおしがあると、シミニアンしみにあんの太守たいしゅが二十四にじゅうよん頭あたまの白牛しろうしを駆っかって埒らちの内うちを奇麗きれいに地ならしじならしする。ならした後あとへ三万さんまん枚ばいの黄金おうごんを蒔くまく。するとアグーあぐーの太守たいしゅがわしは勝ちかち手てにとらせる褒美ほうびを受持とううけもとうと十万じゅうまん枚ばいの黄金おうごんを加えるくわえる。マルテロまるてろはわしは御馳走ごちそう役やくじゃと云ういうて蝋燭ろうそくの火ひで煮に焼やけした珍味ちんみを振舞うふるまうて、銀ぎんの皿さら小鉢こばちを引出物ひきでものに添えるそえる」「もう沢山たくさんじゃ」とウィリアムうぃりあむが笑いわらいながら云ういう。
「ま一いちつじゃ。仕舞しまいにレイモンれいもんが今までいままで誰だれも見みた事ことのない遊びあそびをやると云ういうて先ずまず試合しあいの柵さくの中なかへ三十さんじゅう本ほんの杭くいを植えるうえる。それに三十さんじゅう頭あたまの名馬めいばを繋ぐつなぐ。裸馬はだかうまではない鞍くらも置きおき鐙あぶみもつけ轡くつわ手綱たづなの華奢きゃしゃさえ尽しつくしてじゃ。よいか。そしてその真中まなかへ鎧よろい、刀かたなこれも三さん十人じゅうにん分ぶん、甲こうは無論むろん小手こて脛すね当とうまで添えそえて並べ立てならべたててた。金高きんだかにしたらマルテロまるてろの御馳走ごちそうよりも、嵩かさが張ろうはろう。それから周りまわりへ薪たきぎを山やまの様ように積んつんで、火ひを掛けかけての、馬うまも具足ぐそくも皆みな焼いやいてしもうた。何なんとあちらのものは豪ごう興きょうをやるではないか」と話しはなし終っおわってカラカラからからと心地よここちよげに笑うわらう。
「そう云ういう国くにへ行っいって見よみよと云ういうに主ぬしも余程よほど意地いじ張りばりだなあ」と又またウィリアムうぃりあむの胸むねの底そこへ探りさぐりの石いしを投げ込むなげこむ。
「そんな国くにに黒いくろい眼め、黒いくろい髪かみの男おとこは無用むようじゃ」とウィリアムうぃりあむは自らみずから嘲るあざける如くごとくに云ういう。
「やはりその金色きんいろの髪かみの主ぬしの居るいる所ところが恋しいこいしいと見えるみえるな」「言うゆうまでもない」とウィリアムうぃりあむはきっとなって幻影げんえいの盾たてを見るみる。
中庭なかにわの隅すみで鉄てつを打つうつ音おと、鋼はがねを鍛えるきたえる響ひびき、槌つちの音おと、ヤスリやすりの響ひびきが聞えきこえ出すだす。
夜よるはいつの間まにかほのぼのと明け渡るあけわたる。
七なな日ひに逼るせまる戦いくさは一日いちにちの命いのちを縮めちぢめて愈いよいよ六ろく日ひとなった。
ウィリアムうぃりあむはシーワルドしーわるどの勧すすむむるままにクララくららへの手紙てがみを認めるみとめる。
心こころが急くせくのと、わきが騒がしいさわがしいので思うおもう事ことの万まん分ぶん一いちも書けかけぬ。
「御身おんみの髪かみは猶なおわが懐ふところにあり、只ただこの使しと逃げ落ちよにげおちよ、疑えうたがえば魔ま多しおおし」とばかりで筆ふでを擱くおく。
この手紙てがみを受取っうけとってクララくららに渡すわたす者ものはいずこの何者なにものか分らわからぬ。
その頃ころ流行るはやる楽人がくじんの姿すがたとなって夜よる鴉からすの城しろに忍び込んしのびこんで、戦いくさあるべき前まえの晩ばんにクララくららを奪いうばい出しだして舟ふねに乗せるのせる。
万一まんいち手順てじゅんが狂えくるえば隙すきを見みて城しろへ火ひをかけても志こころざしを遂げるとげる。
これだけの事ことはシーワルドしーわるどから聞いきいた、そのあとは……幻影げんえいの盾たてのみ知るしる。
逢うあうはうれし、逢わあわぬは憂うれいし。
憂うれいし嬉しうれしの源みなもとから珠たまを欺くあざむく涙なみだが湧いわいて出るでる。
この清きよしき者ものに何故なぜ流れるながれるぞと問えとえば知らしらぬと云ういう。
知らしらぬとは自然しぜんと云ういう意いか。
マリアまりあの像ぞうの前まえに、跪いひざまずいて祈願きがんを凝せこらせるウィリアムうぃりあむが立ち上ったちのぼったとき、長いながい睫まつげがいつもより重たおもた気きに見えみえたが、なぜ重いおもいのか彼かれにも分らわからなかった。
誠まことは誠まことを自覚じかくすれどもその他ほかを知らしらぬ。
その夜よるの夢ゆめに彼れあれは五彩ごさいの雲くもに乗るのるマリアまりあを見みた。
マリアまりあと見えみえたるはクララくららを祭れるまつれる姿すがたで、クララくららとは地ちに住むすむマリアまりあであろう。
祈らいのらるる神かみ、祈らいのらるる人ひとは異なれことなれど、祈るいのる人ひとの胸むねには神かみも人ひとも同じおなじ願がんの影法師かげほうしに過ぎすぎぬ。
祭るまつる聖母せいぼは恋うこう人ひとの為めため、人ひと恋うこうは聖母せいぼに跪くひざまずく為めため。
マリアまりあとも云えいえ、クララくららとも云えいえ。
ウィリアムうぃりあむの心こころの中なかに二につのものは宿らやどらぬ。
宿るやどる余地よちあらばこの恋こいは嘘うその恋こいじゃ。
夢ゆめの続かつづか中庭なかにわの隅すみで鉄てつを打つうつ音おと、鋼はがねを鍛えるきたえる響ひびき、槌つちの音おと、ヤスリやすりの響ひびきが聞えきこえて、例れいの如くごとく夜よるが明けるあける。
戦いくさは愈いよいよせまる。
五ご日ひ目めから四よん日ひ目めに移るうつるは俯せうつぶせたる手てを翻がえすひるがえす間まと思わおもわれ、四よん日ひ目めから三さん日ひ目めに進むすすむは翻がえすひるがえす手てを故こに還すかえす間まと見えみえて、三さん日ひ、二に日ひより愈いよいよ戦いくさの日ひを迎えむかえたるときは、手てさえ動かすうごかすひまなきに襲いおそい来るくる如くごとく感ぜかんぜられた。
「飛ばせとばせ」とシーワルドしーわるどはウィリアムうぃりあむを顧みかえりみて云ういう。
並ぶならぶ轡くつわの間まから鼻はな嵐あらしが立ったって、二につの甲こうが、月下げっかに躍るおどる細ほそ鱗うろこの如くごとく秋あきの日ひを射返すいかえす。
「飛ばせとばせ」とシーワルドしーわるどが踵かかとを半ばなかば馬うまの太ふとし腹はらに蹴込むけこむ。
二人ふたりの頭あたまの上うえに長くながく挿しさしたる真白まっしろな毛けが烈しくはげしく風かぜを受けうけて、振り落さふりおとさるるまでに靡くなびく。
夜よる鴉からすの城壁じょうへきを斜めななめに見みて、小しょう高きたかき丘おかに飛ばとばせたるシーワルドしーわるどが右手みぎてを翳しかざして港みなとの方ほうを望むのぞむ。
「帆柱ほばしらに掲げかかげた旗はたは赤あかか白しろか」と後れおくれたるウィリアムうぃりあむは叫ぶさけぶ。
「白しろか赤あかか、赤あかか白しろか」と続け様つづけざまに叫ぶさけぶ。
鞍壺くらつぼに延びのび上っのぼったるシーワルドしーわるどは体からだをおろすと等しくひとしく馬うまを向け直しむけなおして一散いっさんに城門じょうもんの方ほうへ飛ばすとばす。
「続けつづけ、続けつづけ」とウィリアムうぃりあむを呼ぶよぶ。
「赤あかか、白しろか」とウィリアムうぃりあむは叫ぶさけぶ。
「阿呆あほう、丘おかへ飛ばすとばすより壕ごうの中なかへ飛ばとばせ」とシーワルドしーわるどはひたすらに城門じょうもんの方ほうへ飛ばすとばす。
港みなとの入口いりぐちには、埠頭ふとうを洗うあらう浪なみを食っしょくって、胴どうの高いたかい船ふねが心細くこころぼそく揺れゆれている。
魔まに襲わおそわれて夢ゆめ安からあんからぬ有様ありさまである。
左右さゆうに低きひくき帆柱ほばしらを控えひかえて、中なかに高きたかき一いち本ほんの真上まうえには――「白しろだッっ」とウィリアムうぃりあむは口くちの中なかで言いいいながら前歯まえばで唇くちびるを噛むかむ。
折柄おりから戦いくさの声こえは夜よる鴉からすの城しろを撼がして、淋しさびしき海うみの上うえに響くひびく。
城壁じょうへきの高さたかさは四よん丈たけ、丸まる櫓やぐらの高さたかさはこれを倍しばいして、所々ところどころに壁かべを突き抜いつきぬいて立つたつ。
天てんの柱はしらが落ちおちてその真中まなかに刺ささされた如くごとく見みゆるは本丸ほんまるであろう。
高さたかさ十九じゅうきゅう丈たけ壁かべの厚あつしは三さん丈たけ四よん尺さし、これを四よん階かいに分っわかって、最上さいじょうの一層いっそうにのみ窓まどを穿つうがつ。
真上まうえより真下ましたに降るふる井戸いどの如きごとき道みちありて、所謂いわゆるダンジョンだんじょんは尤ももっとも低くひくく尤ももっとも暗きくらき所ところに地獄じごくと壁かべ一いち重じゅうを隔てへだてて設けもうけらるる。
本丸ほんまるの左右さゆうに懸け離れかけはなれたる二につの櫓やぐらは本丸ほんまるの二に階かいから家根やね付ふの橋はしを渡しわたして出入でいりの便りたよりを計るはかる。
櫓やぐらを環かんる三々さんさん五々ごごの建物たてものには厩うまやもある。
兵士へいしの住居じゅうきょもある。
乱らんを避くるさくる領りょう内うちの細民さいみんが隠いんるる場所ばしょもある。
後ろうしろは切岸きりぎしに海うみの鳴るなる音おとを聞ききき、砕くくだくる浪なみの花はなの上うえに舞い下りまいおりては舞い上るまいあがる鴎かもめを見るみる。
前まえは牛うしを呑むのむアーチあーちの暗きくらき上うえより、石いしに響くひびく扉とびらを下しおろして、刎橋を鉄鎖てっさに引けひけば人ひとの踰えこえぬ濠ほりである。
濠ほりを渡せわたせば門もんも破ろうやぶろう、門もんを破れやぶれば天主てんしゅも抜こうぬこう、志こころざしある方ほうに道みちあり、道みちある方ほうに向えむかえとルーファスるーふぁすは打ち壊しうちこわしたる扉とびらの隙すきより、黒金くろがねにつつめる狼おおかみの顔かおを会釈えしゃくもなく突き出すつきだす。
あとに続けつづけと一人ひとりが従えしたがえば、尻しりを追えおえと又また一人ひとりが進むすすむ。
一人ひとり二人ふたりの後あとは只ただ我先われさきにと乱れみだれ入るはいる。
むくむくと湧くわく清水しみずに、こまかき砂すなの浮き上りうきあがりて一度いちどに漾う如くごとく見みゆる。
壁かべの上うえよりは、ありとある弓ゆみを伏せふせて蝟はりねずみの如くごとく寄手よせての鼻頭はながしらに、鉤はりと曲るまがる鏃やじりを集めるあつめる。
空そらを行くいく長きながき箭やの、一矢いっし毎まいに鳴りなりを起せきせば数千すうせんの鳴りなりは一いちと塊りかたまりとなって、地上ちじょうに蠢くうごめく黒影こくえいの響ひびきに和しわして、時じならぬ物音ものおとに、沖おきの鴎かもめを驚かすおどろかす。
狂えるくるえるは鳥とりのみならず。
秋あきの夕日ゆうひを受けうけつ潜りもぐりつ、甲こうの浪なみ鎧よろいの浪なみが寄せよせては崩れくずれ、崩れくずれては退くしりぞく。
退くしりぞくときは壁かべの上うえ櫓やぐらの上うえより、傾くかたむく日ひを海うみの底そこへ震いふるい落すおとす程ほどの鬨ときを作るつくる。
寄するときは甲こうの浪なみ、鎧よろいの浪なみの中なかより、吹きふき捲くまくる大風おおふうの息の根いきのねを一いち時じにとめるべき声こえを起すおこす。
退くしりぞく浪なみと寄する浪なみの間まにウィリアムうぃりあむとシーワルドしーわるどがはたと行き逢うゆきあう。
「生きいきておるか」とシーワルドしーわるどが剣けんで招けまねけば、「死ぬしぬところじゃ」とウィリアムうぃりあむが高くたかく盾たてを翳すかざす。
右みぎに峙つそばだつ丸まる櫓やぐらの上うえより飛びとび来るくる矢やが戞と夜叉やしゃの額がくを掠めかすめてウィリアムうぃりあむの足あしの下したへ落つるおつる。
この時じ崩れくずれかかる人ひと浪なみは忽ちたちまち二人ふたりの間まを遮っさえぎって、鉢金はちがねを蔽うおおう白毛しらがの靡きなびきさえ、暫くしばらくの間まに、旋る渦うずの中なかに捲き込ままきこまれて見えみえなくなる。
戦いくさは午うまを過すぎぐる二にた時じ余りあまりに起っおこって、五ご時じと六ろく時じの間まにも未だいまだ方ほう付かつかぬ。
一度いちどびは猛たけしき心こころに天主てんしゅをも屠るほふる勢いきおいであった寄手よせての、何なんにひるんでか蒼然そうぜんたる夜よるの色いろと共ともに城門じょうもんの外そとへなだれながら吐き出さはきだされる。
搏つうつ音おとの絶えたえたるは一時いちじの間まか。
暫らくしばらくは鳴りなりも静まるしずまる。
日ひは暮れくれ果てはてて黒くろき夜よるの一いち寸すんの隙間すきまなく人馬じんばを蔽うおおう中なかに、砕くくだくる波なみの音おとが忽ちたちまち高くたかく聞えるきこえる。
忽ちたちまち聞えるきこえるは始めはじめて海うみの鳴るなるにあらず、吾がわが鳴りなりの暫らくしばらく已んやんで空そらしき心こころの迎えむかえたるに過ぎすぎぬ。
この浪なみの音おとは何なん里さとの沖おきに萌しきざしてこの磯いその遠きとおきに崩ほうるるか、思えおもえば古きふるき響きひびきである。
時じの幾代いくよを揺がしゆるがして知らしられぬ未来みらいに響くひびく。
日ひを捨てすてず夜よるを捨てすてず、二六にろく時じ中なか繰り返すくりかえす真理しんりは永劫えいごう無む極きょくの響きひびきを伝えつたえて剣けん打つうつ音おとを嘲りあざけり、弓引くゆみひく音おとを笑うわらう。
百ひゃくと云いいい千せんと云ういう人ひとの叫びさけびの、はかなくて憐むあわれむべきを罵るののしるときかれる。
去れされど城しろを守るまもるものも、城しろを攻こうむるものも、おのが叫びさけびの纔かわずかにやんで、この深きふかき響きひびきを不用意ふよういに聞ききき得とくたるとき耻ずかしと思えるおもえるはなし。
ウィリアムうぃりあむは盾たてに凝るこる血ちの痕あとを見みて「汝なんじわれをも呪うのろうか」と剣けんを以いて三さんたび夜叉やしゃの面めんを叩くたたく。
ルーファスるーふぁすは「烏からすなれば闇やみにも隠れかくれん月つき照らてらぬ間まに斬っきって棄よ」と息いき捲くまく。
シーワルドしーわるどばかりは額がくの奥おくに嵌め込まはめこまれたる如きごとき双そうの眼めを放っはなって高くたかく天主てんしゅを見詰めみつめたるまま一言ひとこともいわぬ。
海うみより吹くふく風かぜ、海うみへ吹くふく風かぜと変りかわりて、砕くくだくる浪なみと浪なみの間まにも新たあらたに天地てんちの響ひびきを添えるそえる。
塔とうを繞るめぐる音おと、壁かべにあたる音おとの次第しだいに募るつのると思うおもううち、城しろの内うちにて俄かにわかに人ひとの騒ぐさわぐ気合きあいがする。
それが漸々ぜんぜん烈しくはげしくなる。
千里せんりの深きふかきより来るくる地震じしんの秒びょうを刻みきざみ分ぶんを刻んきざんで押し寄せるおしよせるなと心付けこころづけばそれが夜よる鴉からすの城しろの真下ましたで破裂はれつしたかと思うおもう響ひびきがする。
――シーワルドしーわるどの眉まゆは毛虫けむしを撲ちぶちたるが如くごとく反り返るそりかえる。
――櫓やぐらの窓まどから黒くろ烟りけむりが吹き出すふきだす。
夜よるの中なかに夜よるよりも黒くろき烟りけむりがむくむくと吹き出すふきだす。
狭きせまき出口でぐちを争うあらそうが為めためか、烟けむりの量りょうは見るみる間まに増しまして前まえなるは押さおされ、後あとなるは押しおし、並ぶならぶは互たがいに譲るゆずるまじとて同時どうじに溢れあふれ出ずるいずる様ように見えるみえる。
吹き募るふきつのる野分のわけは真ともまともに烟けむりを砕いくだいて、丸くまるく渦うずを巻いまいて迸るたばしる鼻はなを、元もとの如くごとく窓まどへ圧しおし返そうかえそうとする。
風かぜに喰いくい留めとめられた渦うずは一度いちどになだれて空そらに流れ込むながれこむ。
暫くしばらくすると吹き出すふきだす烟りけむりの中なかに火の粉ひのこが交じりまじり出すだす。
それが見るみる間まに殖えるふえる。
殖えふえた火の粉ひのこは烟けむり諸共もろとも風かぜに捲かまかれて大空おおぞらに舞い上るまいあがる。
城しろを蔽うおおう天てんの一部いちぶが櫓やぐらを中心ちゅうしんとして大おおなる赤きあかき円えんを描いえがいて、その円えんは不規則ふきそくに海うみの方ほうへと動いうごいて行くいく。
火の粉ひのこを梨地なしじに点じてんじた蒔絵まきえの、瞬時しゅんじの断だん間まもなく或はあるいは消えきえ或はあるいは輝きかがやきて、動いうごいて行くいく円えんの内部ないぶは一点いちてんとして活きつきて動かうごかぬ箇所かしょはない。
――「占めしめた」とシーワルドしーわるどは手てを拍っうって雀躍じゃくやくする。
黒くろ烟りけむりを吐き出しはきだして、吐きはき尽しつくしたる後あとは、太きふとき火ひ※が棒ぼうとなって、熱ねつを追うおうて突きつき上るのぼる風かぜ諸共もろとも、夜よるの世界せかいに流矢ながれやの疾きときを射るいる。
飴あめを煮にて四よん斗と樽そん大おおの喞筒の口くちから大空おおぞらに注ぐそそぐとも形容けいようされる。
沸にえぎる火ひの闇やみに詮なくせんなく消しょうゆるあとより又また沸にえぎる火ひが立ちたち騰るあがる。
深きふかき夜よるを焦せこがせとばかり煮え返るにえかえる※の声こえは、地ちにわめく人ひとの叫びさけびを小癪こしゃくなりとて空そら一面いちめんに鳴りなり渡るわたる。
鳴るなる中なかに※は砕けくだけて砕けくだけたる粉こなが舞い上りまいあがり舞い下りまいおりつつ海うみの方ほうへと広がるひろがる。
濁るにごる浪なみの憤るいきどおる色いろは、怒るおこる響ひびきと共ともに薄黒くうすぐろく認めみとめらるる位くらいなれば櫓やぐらの周囲しゅういは、煤すすを透すとおす日ひに照てらしさるるよりも明かあきらかである。
一いち枚ばいの火ひの、丸形まるがたに櫓やぐらを裏うらんで飽き足らあきたらず、横よこに這うはうて※の胸先むなさきにかかる。
炎ほのおは尺さしを計っけいって左ひだりへ左ひだりへと延びるのびる。
たまたま一陣いちじんの風かぜ吹いふいて、逆ぎゃくに舌先したさきを払えはらえば、左ひだりへ行くいくべき鋒きっさきを転じてんじて上うえに向うむこう。
旋る風かぜなれば後ろうしろより不意ふいを襲うおそう事こともある。
順じゅんに撫でなでて※を馳はせけ抜けるぬける時じは上うえに向えむかえるが又また向き直りむきなおりて行きいき過ぎすぎし風かぜを追うおう。
左ひだりへ左ひだりへと溶けとけたる舌したは見るみる間まに長くながくなり、又また広くひろくなる。
果かは此これ所ところにも一いち枚ばいの火ひが出来るできる、かしこにも一いち枚ばいの火ひが出来るできる。
火ひに包まつつまれたる※の上うえを黒くろき影かげが行きいきつ戻りもどりつする。
たまには暗きくらき上うえから明あきらるき中なかへ消えきえて入っはいったぎり再びふたたび出でて来きぬのもある。
焦しょうけ爛れただれたる高こう櫓やぐらの、機き熟しじゅくしてか、吹くふく風かぜに逆いさからいてしばらくは※と共ともに傾くかたむくと見えみえしが、奈落ならくまでも落ち入らおちいらでやはと、三さん分ぶん二にを岩いわに残しのこして、倒したおしまに崩れくずれかかる。
取り巻くとりまく※の一度いちどにパッぱっと天地てんちを燬く時じ、※の上うえに火ひの如きごとき髪かみを振り乱しふりみだして佇むたたずむ女おんながある。
「クララくらら!」とウィリアムうぃりあむが叫ぶさけぶ途端とたんに女おんなの影かげは消えるきえる。
焼け出さやけだされた二に頭あたまの馬うまが鞍くら付ふのまま宙ちゅうを飛んとんで来るくる。
疾くとく走るはしる尻尾しっぽを攫みつかみて根元ねもとよりスパすぱと抜けるぬける体からだなり、先さきなる馬うまがウィリアムうぃりあむの前まえにて礑とはたととまる。
とまる前足まえあしに力ちから余りあまりて堅けんき爪つめの半ばなかばは、斜めななめに土つちに喰い入るくいいる。
盾たてに当るあたる鼻づらはなづらの、二に寸すんを隔てへだてて夜叉やしゃの面めんに火ひの息いきを吹くふく。
「四つ足よつあしも呪わのろわれたか」とウィリアムうぃりあむは我われとはなしに鬣たてがみを握りにぎりてひらりと高きたかき脊せいに跨がるまたがる。
足乗せあしのせぬ鐙あぶみは手持無沙汰てもちむさたに太ふとし腹はらを打っうって宙ちゅうに躍るおどる。
この時じ何物なにものか「南みなみの国くにへ行けいけ」と鉄てつ被るかぶる剛きごうき手てを挙げあげて馬うまの尻しりをしたたかに打つうつ。
「呪わのろわれた」とウィリアムうぃりあむは馬うまと共ともに空そらを行くいく。
ウィリアムうぃりあむの馬うまを追うおうにあらず、馬うまのウィリアムうぃりあむに追わおわるるにあらず、呪いのろいの走るはしるなり。
風かぜを切りきり、夜よるを裂きさき、大地だいちに疳かん走るはしる音おとを刻んきざんで、呪いのろいの尽じんくる所ところまで走るはしるなり。
野のを走りはしり尽せつくせば丘おかに走りはしり、丘おかを走り下れはしりくだれば谷たにに走りはしり入るはいる。
夜よるは明けあけたのか日ひは高いたかいのか、暮れくれかかるのか、雨あめか、霰あられか、野分のわけか、木枯こがらしか――知らしらぬ。
呪いのろいは真一しんいち文字もじに走るはしる事ことを知るしるのみじゃ。
前まえに当るあたるものは親おやでも許さゆるさぬ、石いし蹴るける蹄ひづめには火花ひばなが鳴るなる。
行手ぎょうてを遮るさえぎるものは主ぬしでも斃せたおせ、闇やみ吹き散らすふきちらす鼻はな嵐あらしを見よみよ。
物凄ものすごき音おとの、物凄ものすごき人ひとと馬うまの影かげを包んつつんで、あっと見るみる睫まつげの合わあわぬ間まに過ぎ去るすぎさるばかりじゃ。
人ひとか馬うまか形かたちか影かげかと惑うまどうな、只ただ呪いのろいその物ものの吼くり狂うくるうて行かいかんと欲するほっする所ところに行くいく姿すがたと思えおもえ。
ウィリアムうぃりあむは何なん里さと飛ばしとばしたか知らしらぬ。
乗りのり斃したおした馬うまの鞍くらに腰こしを卸しおろして、右手みぎてに額がくを抑えおさえて何事なにごとをか考え出さかんがえださんと力めりきめている。
死ししたる人ひとの蘇るよみがえる時じに、昔むかししの我われと今いまの我われとの、あるは別人べつじんの如くごとく、あるは同人どうにんの如くごとく、繋ぐつなぐ鎖くさりりは情けなくなさけなく切れきれて、然もしかも何なん等とうかの関係かんけいあるべしと思い惑うおもいまどう様ようである。
半時はんときなりとも死せしせる人ひとの頭脳ずのうには、喜怒哀楽きどあいらくの影かげは宿るやどるまい。
空そらしき心こころのふと吾われに帰りかえりて在りありし昔むかしを想い起せおもいおこせば、油然ゆうぜんとして雲くもの湧くわくが如くごとくにその折々おりおりは簇がりむらがり来るくるであろう。
簇がりむらがり来るくるものを入るはいるる余地よちあればある程ほど、簇がるむらがる物ものは迅速じんそくに脳裏のうりを馳け廻るかけまわるであろう。
ウィリアムうぃりあむが吾われに醒めさめた時じの心こころが水みずの如くごとく涼しかっすずしかっただけ、今いま思い起すおもいおこすかれこれも送迎そうげいに遑いとまなきまで、糸いとと乱れみだれてその頭あたまを悩ましなやましている。
出陣しゅつじん、帆柱ほばしらの旗はた、戦いくさ……と順じゅんを立てたてて排列はいれつして見るみる。
皆みな事実じじつとしか思わおもわれぬ。
「その次つぎに」と頭あたまの奧おくを探るさぐるとぺらぺらと黄色きいろな※が見えるみえる。
「火事かじだ!」とウィリアムうぃりあむは思わおもわず叫ぶさけぶ。
火事かじは構わかまわぬが今いま心こころの眼めに思い浮べおもいうかべた※の中なかにはクララくららの髪の毛かみのけが漾っている。
何故なぜあの火ひの中なかへ飛び込んとびこんで同じおなじ所ところで死なしななかったのかとウィリアムうぃりあむは舌打ちしたうちをする。
「盾たての仕業しわざだ」と口くちの内うちでつぶやく。
見るみると盾たては馬うまの頭あたまを三さん尺さしばかり右みぎへ隔てへだてて表ひょうを空そらにむけて横わっよこたわっている。
「これが恋こいの果かか、呪いのろいが醒めさめても恋こいは醒めさめぬ」とウィリアムうぃりあむは又また額がくを抑えおさえて、己れおのれを煩悶はんもんの海うみに沈めるしずめる。
海うみの底そこに足あしがついて、世よに疎きうときまで思い入るおもいいるとき、何処どこよりか、微かかすかなる糸いとを馬の尾うまのおで摩るする様ような響ひびきが聞えるきこえる。
睡るねむるウィリアムうぃりあむは眼めを開いひらいてあたりを見廻すみまわす。
ここは何処どことも分らわからぬが、目めの届くとどく限りかぎりは一面いちめんの林はやしである。
林はやしとは云えいえ、枝えだを交えまじえて高きたかき日ひを遮ぎるさえぎる一抱えひとかかえ二に抱えかかえの大木たいぼくはない。
木きは一いち坪つぼに一いち本位ほんいの割わりでその大おおさも径けい六七ろくなな寸すん位くらいのもののみであろう。
不思議ふしぎにもそれが皆みな同じおなじ樹きである。
枝えだが幹みきの根ねを去るさる六ろく尺さし位くらいの所ところから上うえを向いむかいて、しなやかな線せんを描いえがいて生えはえている。
その枝えだが聚まって、中なかが膨れふくれ、上うえが尖がっとがって欄干らんかんの擬宝珠ぎぼうしか、筆ふでの穂ほの水みずを含んふくんだ形状けいじょうをする。
枝えだの悉くことごとくは丸いまりい黄きな葉はを以いて隙間すきまなきまでに綴らつづられているから、枝えだの重なるかさなる筆ふでの穂ほは色いろの変るかわる、面長おもながな葡萄ぶどうの珠たまで、穂ほの重なるかさなる林はやしの態たいは葡萄ぶどうの房ぼうの累々るいるいと連なるつらなる趣きおもむきがある。
下したより仰げあおげば少しすこしずつは空そらも青くあおく見みらるる。
只ただ眼めを放つはなつ遙かはるか向むかいの果かに、樹きの幹みきが互たがいに近づきちかづきつ、遠かりとおかりつ黒くくろくならぶ間まに、澄みすみ渡るわたる秋あきの空そらが鏡かがみの如くごとく光るひかるは心行くこころゆく眺めながめである。
時々ときどき鏡かがみの面めんを羅らが過ぎすぎ行こう様ようまで横よこから見えるみえる。
地面じめんは一面いちめんの苔こけで秋あきに入っはいって稍やや黄き食んはんだと思わおもわれる所ところもあり、又または薄茶うすちゃに枯れかれかかった辺へんもあるが、人ひとの踏んふんだ痕あとがないから、黄きは黄きなり、薄茶うすちゃは薄茶うすちゃのまま、苔こけと云ういう昔むかししの姿すがたを存しそんしている。
ここかしこに歯朶しだの茂りしげりが平かたいらかな面めんを破っやぶって幽情ゆうじょうを添えるそえるばかりだ。
鳥とりも鳴かなかぬ風かぜも渡らわたらぬ。
寂然じゃくねんとして太古たいこの昔むかしを至る所いたるところに描き出しえがきだしているが、樹きの高こうからぬのと秋あきの日ひの射い透すとおすので、さほど静かしずかな割合わりあいに怖しいおそろしい感じかんじが少ないすくない。
その秋あきの日ひは極めてきわめて明かあきらかな日ひである。
真上まうえから林はやしを照らすてらす光線こうせんが、かの丸いまりい黄きな無数むすうの葉はを一度いちどに洗っあらって、林はやしの中なかは存外ぞんがい明るいあかるい。
葉はの向きむきは固よりもとより一様いちようでないから、日ひを射返すいかえす具合ぐあいも悉くことごとく違うちがう。
同じおなじ黄きではあるが透明とうめい、半透明はんとうめい、濃こき、薄うすき、様々さまざまの趣向しゅこうをそれぞれに凝しこらしている。
それが乱れみだれ、雑りまざり、重なっかさなって苔こけの上うえを照らすてらすから、林はやしの中なかに居るいるものは琥珀こはくの屏へいを繞らしめぐらして間接かんせつに太陽たいようの光りひかりを浴びるあびる心地ここちである。
ウィリアムうぃりあむは醒めさめて苦しくくるしく、夢ゆめに落おち付くつくという容子ようこに見えるみえる。
糸いとの音おとが再びふたたび落ちつきおちつきかけた耳朶みみたぶに響くひびく。
今度こんどは怪しきあやしき音おとの方ほうへ眼めをむける。
幹みきをすかして空そらの見えるみえる反対はんたいの方角ほうがくを見るみると――西にしか東ひがしか無論むろんわからぬ――爰ここばかりは木きが重なりかさなり合あわせて一いち畝うね程ほどは際立つきわだつ薄暗うすぐらさを地ちに印するいんする中なかに池いけがある。
池いけは大きくおおきくはない、出来でき損いそこないの瓜うりの様ように狭きせまき幅はばを木陰こかげに横たえよこたえている。
これも太古たいこの池いけで中なかに湛えるたたえるのは同じくおなじく太古たいこの水みずであろう、寒気かんきがする程ほど青いあおい。
いつ散っちったものか黄きな小しょうさき葉はが水みずの上うえに浮いういている。
ここにも天が下あめがしたの風かぜは吹くふく事ことがあると見えみえて、浮ぶうかぶ葉はは吹き寄せふきよせられて、所々ところどころにかたまっている。
群ぐんを離れはなれて散っちっているのはもとより数えかぞえ切れきれぬ。
糸いとの音おとは三さんたび響くひびく。
滑かなめらかなる坂さかを、護謨ごむの輪わが緩々ゆるゆる練りねり上るのぼる如くごとく、低ていくきより自然しぜんに高きたかき調子ちょうしに移りうつりてはたとやむ。
ウィリアムうぃりあむの腰こしは鞍くらを離れはなれた。
池いけの方ほうに眼めを向けむけたまま音おとある方ほうへ徐ろにおもむろに歩あゆみを移すうつす。
ぼろぼろと崩ほうるる苔こけの皮かわの、厚くあつく柔らかやわらかなれば、あるく時じも、坐れるすわれる時じの如くごとく林はやしの中なかは森もりとして静かしずかである。
足音あしおとに我がわが動くうごくを知るしるものの、音おとなければ動くうごく事ことを忘るるわするるか、ウィリアムうぃりあむは歩むあゆむとは思わおもわず只ただふらふらと池いけの汀なぎさまで進み寄るすすみよる。
池いけ幅はばの少しくすこしく逼りせまりたるに、臥すふす牛うしを欺くあざむく程ほどの岩いわが向側むかいがわから半ばなかば岸きしに沿うそうて蹲つくばい踞れうずくまれば、ウィリアムうぃりあむと岩いわとの間まは僅かわずか一いち丈たけ余よならんと思わおもわれる。
その岩いわの上うえに一人ひとりの女おんなが、眩ゆまばゆしと見みゆるまでに紅くれないなる衣ころもを着きて、知らしらぬ世よの楽器がっきを弾くひくともなしに弾いひいている。
碧へきり積むつむ水みずが肌はだに沁むしむ寒きさむき色いろの中なかに、この女おんなの影かげを倒したおしまに※す。
投げ出しなげだしたる足あしの、長きながき裳もに隠いんくるる末すえまで明かあきらかに写るうつる。
水みずは元もとより動かうごかぬ、女おんなも動かうごかねば影かげも動かうごかぬ。
只ただ弓ゆみを擦るする右みぎの手てが糸いとに沿うそうてゆるく揺くわななく。
頭あたまを纏うまとう、糸いとに貫いつらぬいた真珠しんじゅの飾りかざりが、湛然たんねんたる水みずの底そこに明星みょうじょう程ほどの光ひかりを放つはなつ。
黒くろき眼めの黒くろき髪かみの女おんなである。
クララくららとは似にても似つかにつかぬ。
女おんなはやがて歌い出すうたいだす。
「岩いわの上うえなる我がわがまことか、水みずの下したなる影かげがまことか」 清くきよく淋しいさびしい声こえである。
風かぜの度らはからぬ梢こずえから黄きな葉はがはらはらと赤きあかき衣ころもにかかりて、池いけの面めんに落ちるおちる。
静かしずかな影かげがちょと動いうごいて、又また元もとに還るかえる。
ウィリアムうぃりあむは茫然ぼうぜんとして佇たたずまいずむ。
「まこととは思い詰めおもいつめたる心こころの影かげを。心こころの影かげを偽りいつわりと云ういうが偽りいつわり」女おんな静かしずかに歌うたいやんで、ウィリアムうぃりあむの方ほうを顧みるかえりみる。
ウィリアムうぃりあむは瞬きまばたきもせず女おんなの顔かおを打ち守るうちまもる。
「恋こいに口惜しくやしき命いのちの占うらないを、盾たてに問えとえかし、まぼろしの盾たて」 ウィリアムうぃりあむは崖がけを飛ぶとぶ牡鹿おじかの如くごとく、踵かかとをめぐらして、盾たてをとって来るくる。
女おんな「只ただ懸命けんめいに盾たての面めんを見み給えたまえ」と云ういう。
ウィリアムうぃりあむは無言むごんのまま盾たてを抱いいだいて、池いけの縁えんに坐るすわる。
寥廓なる天てんの下した、蕭しょう瑟しつなる林はやしの裏うら、幽ゆう冷れいなる池いけの上うえに音おとと云ういう程ほどの音おとは何になんにも聞えきこえぬ。
只ただウィリアムうぃりあむの見詰めみつめたる盾たての内輪うちわが、例れいの如くごとく環かんり出すだすと共ともに、昔むかししながらの微かかすかな声こえが彼かれの耳みみを襲うおそうのみである。
「盾たての中なかに何なんをか見るみる」と女おんなは水みずの向むかいより問うとう。
「ありとある蛇へびの毛けの動くうごくは」とウィリアムうぃりあむが眼めを放たはなたずに答えるこたえる。
「物音ものおとは?」「鵞が筆ふでの紙かみを走るはしる如くごとくなり」「迷いまよいては、迷いまよいてはしきりに動くうごく心こころなり、音おとなき方ほうに音おとをな聞きききそ、音おとをな聞きききそ」と女おんな半ばなかば歌ううたうが如くごとく、半ばなかば語るかたるが如くごとく、岸きしを隔てへだててウィリアムうぃりあむに向けむけて手てを波なみの如くごとくふる。
動くうごく毛けの次第しだいにやみて、鳴るなる音おとも自からみずから絶ぜっゆ。
見入るみいる盾たての模様もようは霞むかすむかと疑わうたがわれて程ほどなく盾たての面めんに黒くろき幕まくかかる。
見れみれども見えみえず、聞けきけども聞えきこえず、常闇とこやみの世よに住むすむ我われを怪しみあやしみて「暗しくらし、暗しくらし」と云ういう。
わが呼ぶよぶ声こえのわれにすら聞かきかれぬ位くらい幽かかすかなり。
「闇やみに烏からすを見みずと嘆かたんかば、鳴かなかぬ声こえさえ聞かきかんと恋わこわめ、――身みをも命いのちも、闇やみに捨てすてなば、身みをも命いのちも、闇やみに拾わじゅうわば、嬉しかろううれしかろうよ」と女おんなの歌ううたう声こえが百ひゃく尺さしの壁かべを洩れもれて、蜘蛛くもの囲かこいの細ほそき通い路かよいじより来るくる。
歌うたはしばし絶えたえて弓ゆみ擦るする音おとの風かぜ誘うさそう遠きとおきより高くたかく低くひくく、ウィリアムうぃりあむの耳みみに限りなきかぎりなき清涼せいりょうの気きを吹くふく。
その時じ暗きくらき中なかに一いち点てん白玉はくぎょくの光ひかりが点ぜてんぜらるる。
見るみるうちに大きくおおきくなる。
闇やみのひくか、光りひかりの進むすすむか、ウィリアムうぃりあむの眼めの及ぶおよぶ限りかぎりは、四よん面めん空そら蕩万里さとの層そう氷こおりを建てたて連れんらねたる如くごとく豁かになる。
頭あたまを蔽うおおう天てんもなく、足あしを乗のりする地ちもなく冷れい瓏虚無きょむの真中まなかに一人ひとり立つたつ。
「君きみは今いまいずくに居いわすぞ」と遙かはるかに問うとうはかの女おんなの声こえである。
「無むの中なかか、有ゆうの中なかか、玻璃はり瓶びんの中なかか」とウィリアムうぃりあむが蘇そがえれる人ひとの様ように答えるこたえる。
彼かれの眼めはまだ盾たてを離れはなれぬ。
女おんなは歌い出すうたいだす。
「以い太ふとし利亜りあの、以い太ふとし利亜りあの海うみ紫むらさきに夜明けよあけたり」「広いひろい海うみがほのぼのとあけて、……橙色だいだいいろの日ひが浪なみから出るでる」とウィリアムうぃりあむが云ういう。
彼かれの眼めは猶なお盾たてを見詰めみつめている。
彼かれの心こころには身みも世よも何なんもない。
只ただ盾たてがある。
髪毛かみのけの末すえから、足あしの爪先つまさきに至るいたるまで、五臓六腑ごぞうろっぷを挙げあげ、耳目じもく口鼻こうびを挙げあげて悉くことごとく幻影げんえいの盾たてである。
彼かれの総身そうみは盾たてになり切っきっている。
盾たてはウィリアムうぃりあむでウィリアムうぃりあむは盾たてである。
二につのものが純一じゅんいち無雑むざつの清浄せいじょう界さかいにぴたりと合うあうたとき――以い太ふとし利亜りあの空そらは自からみずから明けあけて、以い太ふとし利亜りあの日ひは自からみずから出るでる。
女おんなは又また歌ううたう。
「帆ほを張れはれば、舟ふねも行くいくめり、帆柱ほばしらに、何なんを掲げかかげて……」「赤あかだっ」とウィリアムうぃりあむは盾たての中なかに向っむかって叫ぶさけぶ。
「白いしろい帆ほが山影さんえいを横よこって、岸きしに近づいちかづいて来るくる。三さん本ほんの帆柱ほばしらの左右さゆうは知らしらぬ、中なかなる上うえに春風しゅんぷうを受けうけて棚たな曳くひくは、赤あかだ、赤あかだクララくららの舟ふねだ」……舟ふねは油あぶらの如くごとく平たいらなる海うみを滑っすべって難なくなんなく岸きしに近づいちかづいて来るくる。
舳へさきに金色きんいろの髪かみを日ひに乱しみだして伸び上るのびあがるは言うゆうまでもない、クララくららである。
ここは南みなみの国くにで、空そらには濃こき藍あいを流しながし、海うみにも濃こき藍あいを流しながしてその中なかに横わるよこたわる遠山えんざんもまた濃こき藍あいを含んふくんでいる。
只ただ春はるの波なみのちょろちょろと磯いそを洗うあらう端はしだけが際限さいげんなく長いながい一いち条じょうの白布しろぬのと見えるみえる。
丘おかには橄欖かんらんが深緑しんりょくりの葉はを暖かあたたかき日ひに洗わあらわれて、その葉裏はうらには百ひゃく千鳥ちどりをかくす。
庭にわには黄きな花はな、赤いあかい花はな、紫むらさきの花はな、紅くれないの花はな――凡てすべての春はるの花はなが、凡てすべての色いろを尽くしつくして、咲きさきては乱れみだれ、乱れみだれては散りちり、散りちりては咲いさいて、冬ふゆ知らしらぬ空そらを誰だれに向っむかって誇るほこる。
暖かあたたかき草くさの上うえに二人ふたりが坐っすわって、二人ふたり共ともに青絹あおぎぬを敷いしいた様ような海うみの面めんを遙かはるかの下したに眺めながめている。
二人ふたり共ともに斑入りふいりの大理石だいりせきの欄干らんかんに身みを靠せて、二人ふたり共ともに足あしを前まえに投げ出しなげだしている。
二人ふたりの頭あたまの上うえから欄干らんかんを斜めななめに林檎りんごの枝えだが花はなの蓋ふたをさしかける。
花はなが散るちると、あるときはクララくららの髪の毛かみのけにとまり、ある時じはウィリアムうぃりあむの髪の毛かみのけにかかる。
又またある時じは二人ふたりの頭あたまと二人ふたりの袖そでにはらはらと一度いちどにかかる。
枝えだから釣るつるす籠かごの内うちで鸚鵡おうむが時々ときどきけたたましい音おとを出すだす。
「南方なんぽうの日ひの露ろに沈ましずまぬうちに」とウィリアムうぃりあむは熱きねつき唇くちびるをクララくららの唇くちびるにつける。
二人ふたりの唇くちびるの間まに林檎りんごの花はなの一いち片かたがはさまって濡れぬれたままついている。
「この国くにの春はるは長えなげえぞ」とクララくらら窘めるたしなめる如くごとくに云ういう。
ウィリアムうぃりあむは嬉きしき声こえにDruerie!
と呼ぶよぶ。
クララくららも同じおなじ様ようにDruerie!
と云ういう。
籠かごの中なかなる鸚鵡おうむがDruerie!
と鋭するどどき声こえを立てるたてる。
遙かはるか下したなる春はるの海うみもドルエリどるえりと答えるこたえる。
海うみの向うむこうの遠山えんざんもドルエリどるえりと答えるこたえる。
丘おかを蔽うおおう凡てすべての橄欖かんらんと、庭にわに咲くさく黄きな花はな、赤いあかい花はな、紫むらさきの花はな、紅くれないの花はな――凡てすべての春はるの花はなと、凡てすべての春はるの物ものが皆みな一斉いっせいにドルエリどるえりと答えるこたえる。
――これは盾たての中なかの世界せかいである。
しかしてウィリアムうぃりあむは盾たてである。
百ひゃく年ねんの齢よわいいは目出度めでたも難なん有ゆうい。
然ししかしちと退屈たいくつじゃ。
楽らくも多かろうおおかろうが憂うれいも長かろうながかろう。
水臭いみずくさい麦酒びーるを日毎ひごとに浴びるあびるより、舌したを焼くやく酒精しゅせいを半はん滴しずく味わうあじわう方ほうが手間てまがかからぬ。
百ひゃく年ねんを十じゅうで割りわり、十じゅう年ねんを百ひゃくで割っわりって、剰すあますところの半時はんときに百ひゃく年ねんの苦楽くらくを乗じじょうじたらやはり百ひゃく年ねんの生なまを享けうけたと同じおなじ事ことじゃ。
泰山たいざんもカメラかめらの裏うらに収まりおさまり、水素すいそも冷れいゆれば液えきとなる。
終生しゅうせいの情けなさけを、分ぶんと縮めちぢめ、懸命けんめいの甘かんきを点てんと凝らしこらし得るうるなら――然ししかしそれが普通ふつうの人ひとに出来るできる事ことだろうか?
――この猛烈もうれつな経験けいけんを嘗めなめ得とくたものは古往こおう今来こんらいウィリアムうぃりあむ一人ひとりである。
(二に月つき十八じゅうはち日ひ)
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