アグニの神

6/6

六

第 6 章
その内うちに部屋へやの中なかからは、誰だれかのわつと叫ぶさけぶ声こえが、突然とつぜん暗やみくらやみに響きひびきました。
それから人ひとが床ゆかの上うえへ、倒れるたおれる音おとも聞えきこえたやうです。
遠藤えんどうは殆どほとんど気き違ひちがひのやうに、妙子たえこの名前なまえを呼びかけよびかけながら、全身ぜんしんの力ちからを肩かたに集めあつめて、何度なんども入口いりぐちの戸とへぶつかりました。
板いたの裂けるさける音おと、錠じょうのはね飛ぶはねとぶ音おと、――戸とはとうとう破れやぶれました。
しかし肝腎かんじんの部屋へやの中なかは、まだ香炉こうろに蒼白いあおじろい火ひがめらめら燃えもえてゐるばかり、人気にんきのないやうにしんとしてゐます。
遠藤えんどうはその光ひかりを便りたよりに、怯きょうづ怯きょうづあたりを見廻しみまわしました。
するとすぐに眼めにはひつたのは、やはりぢつと椅子いすにかけた、死人しにんのやうな妙子たえこです。
それが何故なぜか遠藤えんどうには、頭あたまに毫ごう光ひかりでもかかつてゐるやうに、厳かおごそかな感じかんじを起さおこさせました。
「御嬢ごじょうさん、御嬢ごじょうさん。」 遠藤えんどうは椅子いすの側がわへ行くいくと、妙子たえこの耳もとみみもとへ口くちをつけて、一生懸命いっしょうけんめいに叫び立てさけびたてました。
が、妙子たえこは眼めをつぶつたなり、何なんとも口くちを開きひらきません。
「御嬢ごじょうさん。しつかりおしなさい。遠藤えんどうです。」 妙子たえこはやつと夢ゆめがさめたやうに、かすかな眼めを開きひらきました。
「遠藤えんどうさん?」「さうです。遠藤えんどうです。もう大丈夫だいじょうぶですから、御ご安心あんしんなさい。さあ、早くはやく逃げにげませう。」 妙子たえこはまだ夢現ゆめうつつのやうに、弱々しいよわよわしい声こえを出しだしました。
「計略けいりゃくは駄目だめだつたわ。つい私わたくしが眠つねぶつてしまつたものだから、――堪忍かんにんして頂戴ちょうだいよ。」「計略けいりゃくが露顕ろけんしたのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私わたくしと約束やくそくした通りとおり、アグニあぐにの神かみの憑つた真似まねをやり了せりょうせたぢやありませんか?――そんなことはどうでも好いよいことです。さあ、早くはやく御ご逃げにげなさい。」 遠藤えんどうはもどかしさうに、椅子いすから妙子たえこを抱き起しだきおこしました。
「あら、嘘うそ。私わたくしは眠つねぶつてしまつたのですもの。どんなことを言ついつたか、知りしりはしないわ。」 妙子たえこは遠藤えんどうの胸むねに凭れもたれながら、呟くつぶやくやうにかう言ひいひました。
「計略けいりゃくは駄目だめだつたわ。とても私わたくしは逃げにげられなくてよ。」「そんなことがあるものですか。私わたくしと一しよいっしよにいらつしやい。今度こんどしくじつたら大変たいへんです。」「だつてお婆ばあさんがゐるでせう?」「お婆ばあさん。」 遠藤えんどうはもう一度いちど、部屋へやの中なかを見廻しみまわしました。
机つくえの上うえにはさつきの通りとおり、魔法まほうの書物しょもつが開いひらいてある、――その下したへ仰向きあおむきに倒れたおれてゐるのは、あの印度いんど人ひとの婆ばあさんです。
婆ばあさんは意外いがいにも自分じぶんの胸むねへ、自分じぶんのナイフないふを突き立てつきたててた儘まま、血だまりちだまりの中なかに死んしんでゐました。
「お婆ばあさんはどうして?」「死んしんでゐます。」 妙子たえこは遠藤えんどうを見上げみあげながら、美しいうつくしい眉まゆをひそめました。
「私わたくし、ちつとも知らしらなかつたわ。お婆ばあさんは遠藤えんどうさんが――あなたが殺しころしてしまつたの?」 遠藤えんどうは婆ばあさんの屍骸しがいから、妙子たえこの顔かおへ眼めをやりました。
今夜こんやの計略けいりゃくが失敗しっぱいしたことが、――しかしその為ために婆ばあさんも死ねしねば、妙子たえこも無事ぶじに取り返せとりかえせたことが、――運命うんめいの力ちからの不思議ふしぎなことが、やつと遠藤えんどうにもわかつたのは、この瞬間しゅんかんだつたのです。
「私わたくしが殺しころしたのぢやありません。あの婆ばあさんを殺しころしたのは今夜こんやここへ来きたアグニあぐにの神かみです。」 遠藤えんどうは妙子たえこを抱へかかへた儘まま、おごそかにかう囁きささやきました。
(大正たいしょう九きゅう年ねん十二じゅうに月つき)
6/6