闇中問答

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一

第 1 章
或ある声こえ お前おまえは俺おれの思惑おもわくとは全然ぜんぜん違いつた人間にんげんだつた。
僕ぼく それは僕ぼくの責任せきにんではない。
或ある声こえ しかしお前おまえはその誤解ごかいにお前おまえ自身じしんも協力きょうりょくしてゐる。
僕ぼく 僕ぼくは一度いちども協力きょうりょくしたことはない。
或ある声こえ しかしお前おまえは風流ふうりゅうを愛しあいした、――或はあるいは愛しあいしたやうに装そうつたらう。
僕ぼく 僕ぼくは風流ふうりゅうを愛しあいしてゐる。
或ある声こえ お前おまえはどちらかを愛しあいしてゐる?
風流ふうりゅうか?
それとも一人ひとりの女おんなか?
僕ぼく 僕ぼくはどちらも愛しあいしてゐる。
或ある声こえ (冷笑れいしょう)それを矛盾むじゅんとは思はおもうはないと見えるみえるな。
僕ぼく 誰だれが矛盾むじゅんと思ふおもふものか?
一人ひとりの女おんなを愛するあいするものは古ふる瀬戸せとの茶碗ちゃわんを愛さあいさないかも知れしれない。
しかしそれは古ふる瀬戸せとの茶碗ちゃわんを愛するあいする感覚かんかくを持たもたないからだ。
或ある声こえ 風流ふうりゅう人ひとはどちらかを選ばえらばなければならぬ。
僕ぼく 僕ぼくは生憎あいにく風流ふうりゅう人ひとよりもずつと多さわ慾よくに生まれついうまれついてゐる。
しかし将来しょうらいは一人ひとりの女おんなよりも古ふる瀬戸せとの茶碗ちゃわんを選ぶえらぶかも知れしれない。
或ある声こえ ではお前おまえは不徹底ふてっていだ。
僕ぼく 若しもしそれを不徹底ふてっていと云ふいふならば、インフルエンザいんふるえんざに罹つた後あとも冷水れいすい摩擦まさつをやつてゐるものは誰だれよりも徹底てっていしてゐるだらう。
或ある声こえ もう強がるつよがるのはやめにしてしまへ。
お前おまえは内心ないしんは弱じゃくつてゐる。
しかし当然とうぜんお前おまえの受けるうける社会的しゃかいてき非難ひなんをはね返すはねかえす為ためにそんなことを言ついつてゐるだけだらう。
僕ぼく 僕ぼくは勿論もちろんそのつもりだ。
第一だいいち考へかんがへて見るみるが善いよい。
はね返さはねかえさなかつたが最後さいご、押しつぶさおしつぶされてしまふ。
或ある声こえ お前おまえは何なんと云ふいふ図々しいずうずうしい奴やつだ。
僕ぼく 僕ぼくは少しすこしも図々しくずうずうしくはない。
僕ぼくの心臓しんぞうは瑣細ささいな事ことにあつても氷こおりのさはつたやうにひやひやとしてゐる。
或ある声こえ お前おまえは多さわ力者りきしゃのつもりでゐるな?
僕ぼく 勿論もちろん僕ぼくは多さわ力者りきしゃの一人ひとりだ。
しかし最大さいだいの多さわ力者りきしゃではない。
若しもし最大さいだいの多さわ力者りきしゃだつたとすれば、あのゲエテと云ふいふ男おとこのやうに安んじやすんじて偶像ぐうぞうになつてゐたであらう。
或ある声こえ ゲエテの恋愛れんあいは純潔じゅんけつだつた。
僕ぼく それは※だ。
文芸ぶんげい史ふみ家いえの※だ。
ゲエテは丁度ちょうど三十五さんじゅうごの年ねんに突然とつぜん伊太利いたりーへ逃走とうそうしてゐる。
さうだ。
逃走とうそうと云ふいふ外そとはない。
あの秘密ひみつを知ちつてゐるものはゲエテ自身じしんを例外れいがいにすれば、シユタイン夫人ふじん一人ひとりだけだらう。
或ある声こえ お前おまえの言ふいふことは自己じこ弁護べんごだ。
自己じこ弁護べんご位くらい手て易いやすいものはない。
僕ぼく 自己じこ弁護べんごは容易よういではない。
若しもし手て易いやすいものとすれば、弁護士べんごしと云ふいふ職業しょくぎょうは成り立たなりたたない筈はずだ。
或ある声こえ 口巧者くちこうしゃな横着おうちゃくものめ!
誰だれももうお前おまえを相手あいてにしないぞ。
僕ぼく 僕ぼくはまだ僕ぼくに感激かんげきを与へあたへる樹木じゅもくや水みずを持つもつてゐる。
それから和漢わかん東西とうざいの本ほんを三百さんびゃく冊さつ以上いじょう持つもつてゐる。
或ある声こえ しかしお前おまえは永久えいきゅうにお前おまえの読者どくしゃを失つうしなつてしまふぞ。
僕ぼく 僕ぼくは将来しょうらいに読者どくしゃを持つもつてゐる。
或ある声こえ 将来しょうらいの読者どくしゃはパンぱんをくれるか?
僕ぼく 現世げんせの読者どくしゃさへ碌にろくにくれない。
僕ぼくの最高さいこうの原稿料げんこうりょうは一いち枚ばい十じゅう円えんに限かぎりつてゐた。
或ある声こえ しかしお前おまえは資産しさんを持つもつてゐたらう?
僕ぼく 僕ぼくの資産しさんは本所ほんじょにある猫ねこの額がくほどの地面じめんだけだ。
僕ぼくの月収げっしゅうは最高さいこうの時じでも三百さんびゃく円えんを越えこえたことはない。
或ある声こえ しかしお前おまえは家いえを持つもつてゐる。
それから近代きんだい文芸ぶんげい読本とくほんの……僕ぼく あの家いえの棟木むなぎは僕ぼくには重たいおもたい。
近代きんだい文芸ぶんげい読本とくほんの印税いんぜいはいつでもお前おまえに用立てようだててやる。
僕ぼくの貰もらえつたのは四五百しごひゃく円えんだから。
或ある声こえ しかしお前おまえはあの読本とくほんの編者へんしゃだ。
それだけでもお前おまえは恥ぢはぢなければならぬ。
僕ぼく 何なんを僕ぼくに恥ぢはぢろと云ふいふのだ?
或ある声こえ お前おまえは教育家きょういくかの仲間入りなかまいりをした。
僕ぼく それは※だ。
教育家きょういくかこそ僕ぼく等とうの仲間入りなかまいりをしてゐる。
僕ぼくはその仕事しごとを取り戻しとりもどしたのだ。
或ある声こえ お前おまえはそれでも夏目なつめ先生せんせいの弟子でしか?
僕ぼく 僕ぼくは勿論もちろん夏目なつめ先生せんせいの弟子でしだ。
お前おまえは文ぶん墨すみに親しんしたしんだ漱石そうせき先生せんせいを知ちつてゐるかも知れしれない。
しかしあの気き違ひちがひじみた天才てんさいの夏目なつめ先生せんせいを知らしらないだらう。
或ある声こえ お前おまえには思想しそうと云ふいふものはない。
偶々たまたまあるのは矛盾むじゅんだらけの思想しそうだ。
僕ぼく それは僕ぼくの進歩しんぽする証拠しょうこだ。
阿呆あほうはいつまでも太陽たいようは盥たらいよりも小さいちいさいと思つおもつてゐる。
或ある声こえ お前おまえの傲慢ごうまんはお前おまえを殺すころすぞ。
僕ぼく 僕ぼくは時々ときどきかう思つおもつてゐる。
――或はあるいは僕ぼくは畳たたみの上うえでは往生おうじょうしない人間にんげんかも知れしれない。
或ある声こえ お前おまえは死しを恐れおそれないと見えるみえるな?
な?
僕ぼく 僕ぼくは死ぬしぬことを怖れおそれてゐる。
が、死ぬしぬことは困難こんなんではない。
僕ぼくは二三にさん度ど頸くびをくくつたものだ。
しかし二十にじゅう秒びょうばかり苦しんくるしんだ後あとは或ある快感かいかんさへ感じかんじて来るくる。
僕ぼくは死しよりも不快ふかいなことに会かいへば、いつでも死ぬしぬのにためらはないつもりだ。
或ある声こえ ではなぜお前おまえは死なしなないのだ?
お前おまえは誰だれの目めから見みても、法律上ほうりつじょうの罪人ざいにんではないか?
僕ぼく 僕ぼくはそれも承知しょうちしてゐる。
ヴエルレエンのやうに、ワグナアのやうに、或はあるいは又また大いなるおおいなるストリントベリイすとりんとべりいのやうに。
或ある声こえ しかしお前おまえは贖はない。
僕ぼく いや、僕ぼくは贖つてゐる。
苦しみくるしみにまさる贖ひはない。
或ある声こえ お前おまえは仕しかたのない悪人あくにんだ。
僕ぼく 僕ぼくは寧ろむしろ善ぜん男子だんしだ。
若しもし悪人あくにんだつたとすれば、僕ぼくのやうに苦しみくるしみはしない。
のみならず必ずかならず恋愛れんあいを利用りようし、女おんなから金きんを絞るしぼるだらう。
或ある声こえ ではお前おまえは阿呆あほうかも知れしれない。
僕ぼく さうだ。
僕ぼくは阿呆あほうかも知れしれない。
あの「痴人ちじんの懺悔ざんげ」などと云ふいふ本ほんは僕ぼくに近いちかい阿呆あほうの書いかいたものだ。
或ある声こえ その上うえお前おまえは世間せけん見みずだ。
僕ぼく 世間せけん知りしりを最上さいじょうとすれば、実業家じつぎょうかは何なんよりも高等こうとうだらう。
或ある声こえ お前おまえは恋愛れんあいを軽蔑けいべつしてゐた。
しかし今いまになつて見れみれば、畢竟ひっきょう恋愛れんあい至上しじょう主義者しゅぎしゃだつた。
僕ぼく いや、僕ぼくは今日きょうでも断じだんじて恋愛れんあい至上しじょう主義者しゅぎしゃではない。
僕ぼくは詩人しじんだ。
芸術家げいじゅつかだ。
或ある声こえ しかしお前おまえは恋愛れんあいの為ために父母ふぼ妻子さいしを抛つなげうつたではないか?
僕ぼく ※をつけ。
僕ぼくは唯ただ僕ぼく自身じしんの為ために父母ふぼ妻子さいしを抛つなげうつたのだ。
或ある声こえ ではお前おまえはエゴイストえごいすとだ。
僕ぼく 僕ぼくは生憎あいにくエゴイストえごいすとではない。
しかしエゴイストえごいすとになりたいのだ。
或ある声こえ お前おまえは不幸ふこうにも近代きんだいのエゴえご崇拝すうはいにかぶれてゐる。
僕ぼく それでこそ僕ぼくは近代きんだい人ひとだ。
或ある声こえ 近代きんだい人ひとは古人こじんに若わかかない。
僕ぼく 古人こじんも亦また一度いちどは近代きんだい人ひとだつたのだ。
或ある声こえ お前おまえは妻子さいしを憐まあわれまないのか?
僕ぼく 誰だれか憐まあわれまずにゐられたものがあるか?
ゴオギヤアンの手紙てがみを読んよんで見ろみろ。
或ある声こえ お前おまえはお前おまえのしたことをどこまでも是認ぜにんするつもりだな。
僕ぼく どこまでも是認ぜにんしてゐるとすれば、何なんもお前おまえと問答もんどうなどはしない。
或ある声こえ ではやはり是認ぜにんしずにゐるか?
僕ぼく 僕ぼくは唯ただあきらめてゐる。
或ある声こえ しかしお前おまえの責任せきにんはどうする?
僕ぼく 四よん分ぶんの一いちは僕ぼくの遺伝いでん、四よん分ぶんの一いちは僕ぼくの境遇きょうぐう、四よん分ぶんの一いちは僕ぼくの偶然ぐうぜん、――僕ぼくの責任せきにんは四よん分ぶんの一いちだけだ。
或ある声こえ お前おまえは何なんと云ふいふ下等したとうな奴やつだ!
僕ぼく 誰だれでも僕ぼく位くらいは下等したとうだらう。
或ある声こえ ではお前おまえは悪魔あくま主義者しゅぎしゃだ。
僕ぼく 僕ぼくは生憎あいにく悪魔あくま主義者しゅぎしゃではない。
殊にことに安全地帯あんぜんちたいの悪魔あくま主義者しゅぎしゃには常つねに軽蔑けいべつを感じかんじてゐる。
或ある声こえ (暫くしばらく無言むごん)兎に角とにかくお前おまえは苦しんくるしんでゐる。
それだけは認めみとめてやつても善いよい。
僕ぼく いや、うつかり買かいひ冠るかぶるな。
僕ぼくは或はあるいは苦しんくるしんでゐることに誇りほこりを持つもつてゐるかも知れしれない。
のみならず「得れえれば失しつふを惧るおそる」は多さわ力者りきしゃのすることではないだらう。
或ある声こえ お前おまえは或はあるいは正直しょうじき者ものかも知れしれない。
しかし又また或はあるいは道化者どうけしゃかも知れしれない。
僕ぼく 僕ぼくも亦またどちらかと思つおもつてゐる。
或ある声こえ お前おまえはいつもお前おまえ自身じしんを現実主義者げんじつしゅぎしゃと信じしんじてゐた。
僕ぼく 僕ぼくはそれほど理想りそう主義者しゅぎしゃだつたのだ。
或ある声こえ お前おまえは或はあるいは滅びるほろびるかも知れしれない。
僕ぼく しかし僕ぼくを造つくりつたものは第だい二にの僕ぼくを造るつくるだらう。
或ある声こえ では勝手にかってに苦しむくるしむが善いよい。
俺おれはもうお前おまえに別れるわかれるばかりだ。
僕ぼく 待てまて。
どうかその前まえに聞かきかせて呉れくれ。
絶えたえず僕ぼくに問ひとひかけるお前おまえは、――目めに見えみえないお前おまえは何ものなにものだ?
或ある声こえ 俺おれか?
俺おれは世界せかいの夜明けよあけにヤコブやこぶと力ちからを争そうつた天使てんしだ。
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