闇中問答

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三

第 3 章
或ある声こえ お前おまえは何なんをしてゐるのだ?
僕ぼく 僕ぼくは唯ただ書いかいてゐるのだ。
或ある声こえ なぜお前おまえは書いかいてゐるのだ。
僕ぼく 唯ただ書かかかずにはゐられないからだ。
或ある声こえ では書けかけ。
死ぬしぬまで書けかけ。
僕ぼく 勿論もちろん、――第だい一いちその外そとに仕しかたはない。
或ある声こえ お前おまえは存外ぞんがい落ち着いおちついてゐる。
僕ぼく いや、少しすこしも落ち着いおちついてはゐない。
若しもし僕ぼくを知ちつてゐる人々ひとびとならば、僕ぼくの苦しみくるしみを知ちつてゐるだらう。
或ある声こえ お前おまえの微笑びしょうはどこへ行つおこなつた?
僕ぼく 天上てんじょうの神々かみがみへ帰つかえつてしまつた。
人生じんせいに微笑びしょうを送るおくる為ために第だい一いちには吊りつり合あわせひの取れとれた性格せいかく、第だい二にに金きん、第だい三さんに僕ぼくよりも逞しいたくましい神経しんけいを持つもつてゐなければならぬ。
或ある声こえ しかしお前おまえは気軽きがるになつたらう。
僕ぼく うん、僕ぼくは気軽きがるになつた。
その代りかわりに裸はだかの肩かたの上うえに一生いっしょうの重荷おもにを背負はせおいはなければならぬ。
或ある声こえ お前おまえはお前おまえなりに生きるいきる外そとはない。
或はあるいは又またお前おまえなりに……僕ぼく さうだ。
僕ぼくなりに死ぬしぬ外そとはない。
或ある声こえ お前おまえは在来ざいらいのお前おまえとは違いつた、新らしいあたらしいお前おまえになるだらう。
僕ぼく 僕ぼくはいつでも僕ぼく自身じしんだ。
唯ただ皮かわは変るかわるだらう。
蛇へびの皮かわを脱ぎぬぎ変へるかえるやうに。
或ある声こえ お前おまえは何なんも彼かれも承知しょうちしてゐる。
僕ぼく いや、僕ぼくは承知しょうちしてゐない。
僕ぼくの意識いしきしてゐるのは僕ぼくの魂たましいの一部分いちぶぶんだけだ。
僕ぼくの意識いしきしてゐない部分ぶぶんは、――僕ぼくの魂たましいのアフリカあふりかはどこまでも茫々ぼうぼうと広ひろしがつてゐる。
僕ぼくはそれを恐れおそれてゐるのだ。
光ひかりの中なかには怪物かいぶつは棲ますまない。
しかし無辺むへんの闇やみの中なかには何なんかがまだ眠つねぶつてゐる。
或ある声こえ お前おまえも亦また俺おれの子供こどもだつた。
僕ぼく 誰だれだ、僕ぼくに接吻せっぷんしたお前おまえは?
いや、僕ぼくはお前おまえを知ちつてゐる。
或ある声こえ では俺おれを誰だれだと思ふおもふ?
僕ぼく 僕ぼくの平和へいわを奪つうばつたものだ。
僕ぼくのエピキユリアニズムを破はつたものだ。
僕ぼくの、――いや、僕ぼくばかりではない。
昔むかし支那しなの聖人せいじんの教へきょうへた中庸ちゅうようの精神せいしんを失はしつはせるものだ。
お前おまえの犠牲ぎせいになつたものは至る所いたるところに横よこはつてゐる。
文学史ぶんがくしの上うえにも、新聞しんぶん記事きじの上うえにも。
或ある声こえ それをお前おまえは何なんと呼んよんでゐる?
僕ぼく 僕ぼくは――僕ぼくは何なんと呼ぶよぶかは知らしらない。
しかし他人たにんの言葉ことばを借りれかりれば、お前おまえは僕ぼく等とうを超えこえた力ちからだ。
僕ぼく等とうを支配しはいする だ。
或ある声こえ お前おまえはお前おまえ自身じしんを祝福しゅくふくしろ。
俺おれは誰だれにでも話しはなしには来きない。
僕ぼく いや、僕ぼくは誰だれよりもお前おまえの来るくるのを警戒けいかいするつもりだ。
お前おまえの来るくる所ところに平和へいわはない。
しかもお前おまえはレントゲンれんとげんのやうにあらゆるものを滲透しんとうして来るくるのだ。
或ある声こえ では今後こんごも油断ゆだんするな。
僕ぼく 勿論もちろん今後こんごは油断ゆだんしない。
唯ただペンぺんを持つもつてゐる時じには……或ある声こえ ペンぺんを持つもつてゐる時じには来いこいと云ふいふのだな。
僕ぼく 誰だれが来いこいと云ふいふものか!
僕ぼくは群小ぐんしょう作家さっかの一人ひとりだ。
又また群小ぐんしょう作家さっかの一人ひとりになりたいと思つおもつてゐるものだ。
平和へいわはその外そとに得とくられるものではない。
しかしペンぺんを持つもつてゐる時じにはお前おまえの俘になるかも知れしれない。
或ある声こえ ではいつも気きをつけてゐろよ。
第一だいいち俺おれはお前おまえの言葉ことばを一々いちいち実行じっこうに移すうつすかも知れしれない。
ではさやうなら。
いつか又またお前おまえに会かいひに来るくるから。
僕ぼく (一人ひとりになる。
)芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ!
芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ、お前おまえの根ねをしつかりとおろせ。
お前おまえは風かぜに吹かふかれてゐる葦あしだ。
空模様そらもようはいつ何なん時じ変るかわるかも知れしれない。
唯ただしつかり踏んふんばつてゐろ。
それはお前おまえ自身じしんの為ためだ。
同時どうじに又またお前おまえの子供たちこどもたちの為ためだ。
うぬ惚れるほれるな。
同時どうじに卑屈ひくつにもなるな。
これからお前おまえはやり直すやりなおすのだ。
(昭和しょうわ二に年ねん、遺稿いこう)
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