闇中問答

二

第 2 章
或ある声こえ お前おまえは感心かんしんに勇気ゆうきを持つもつてゐる。
僕ぼく いや、僕ぼくは勇気ゆうきを持つもつてゐない。
若しもし勇気ゆうきを持つもつてゐるとすれば、僕ぼくは獅子ししの口くちに飛び込まとびこまずに獅子ししの食ふくふのを待つまつてゐるだらう。
或ある声こえ しかしお前おまえのしたことは人間にんげんらしさを具へぐへてゐる。
僕ぼく 最ももっとも人間にんげんらしいことは同時どうじに又また動物どうぶつらしいことだ。
或ある声こえ お前おまえのしたことは悪いわるいことではない。
お前おまえは唯ただ現代げんだいの社会しゃかい制度せいどの為ために苦しんくるしんでゐるのだ。
僕ぼく 社会しゃかい制度せいどは変へんつたとしても、僕ぼくの行為こういは何人なんにんかの人ひとを不幸ふこうにするのに極まつきわまつてゐる。
或ある声こえ しかしお前おまえは自殺じさつしなかつた。
兎に角とにかくお前おまえは力ちからを持つもつてゐる。
僕ぼく 僕ぼくは度たびたびたび自殺じさつしようとした。
殊にことに自然しぜんらしい死にしにかたをする為ために一いち日ひに蠅はえを十じゅう匹ひきづつ食つくつた。
蠅はえを細かこまかにむしつた上うえ、のみこんでしまふのは何なんでもない。
しかし噛みつぶすかみつぶすのはきたない気きがした。
或ある声こえ その代りかわりお前おまえは偉大いだいになるだらう。
僕ぼく 僕ぼくは偉大いだいさなどを求めもとめてゐない。
欲しいほしいのは唯ただ平和へいわだけだ。
ワグネルの手紙てがみを読んよんで見ろみろ。
愛するあいする妻つまと二三にさん人ひとの子供こどもと暮らしくらしに困らこまらない金きんさへあれば、偉大いだいな芸術げいじゅつなどは作らつくらずとも満足まんぞくすると書いかいてゐる。
ワグネルでさへこの通りとおりだ。
あの我われの強いつよいワグネルでさへ。
或ある声こえ お前おまえは兎に角とにかく苦しんくるしんでゐる。
お前おまえは良心りょうしんのない人間にんげんではない。
僕ぼく 僕ぼくは良心りょうしんなどを持つもつてゐない。
持つもつてゐるのは神経しんけいばかりだ。
或ある声こえ お前おまえの家庭かてい生活せいかつは不幸ふこうだつた。
僕ぼく しかし僕ぼくの細君さいくんはいつも僕ぼくに忠実ちゅうじつだつた。
或ある声こえ お前おまえの悲劇ひげきは他ほかの人々ひとびとよりも逞しいたくましい理智りちを持つもつてゐることだ。
僕ぼく ※をつけ。
僕ぼくの喜劇きげきは他ほかの人々ひとびとよりも乏しいとぼしい世間せけん智さとしを持つもつてゐることだ。
或ある声こえ しかしお前おまえは正直しょうじきだ。
お前おまえは何ごとなにごとも露れあらわれないうちにお前おまえの愛しあいしてゐる女おんなの夫おっとへ一切いっさいの事情じじょうを打ち明けうちあけてしまつた。
僕ぼく それも※だ。
僕ぼくは打ち明けうちあけずにはゐられない気もちきもちになるまでは打ち明けうちあけなかつた。
或ある声こえ お前おまえは詩人しじんだ。
芸術家げいじゅつかだ。
お前おまえには何ごとなにごとも許さゆるされてゐる。
僕ぼく 僕ぼくは詩人しじんだ。
芸術家げいじゅつかだ。
けれども又また社会しゃかいの一いち分子ぶんしだ。
僕ぼくの十字架じゅうじかを負ふおふのは不思議ふしぎではない。
それでもまだ軽けい過ぎるすぎるだらう。
或ある声こえ お前おまえはお前おまえのエゴえごを忘れわすれてゐる。
お前おまえの個性こせいを尊重そんちょうし、俗悪ぞくあくな民衆みんしゅうを軽蔑けいべつしろ。
僕ぼく 僕ぼくはお前おまえに言はげんはれずとも僕ぼくの個性こせいを尊重そんちょうしてゐる。
しかし民衆みんしゅうを軽蔑けいべつしない。
僕ぼくはいつかかう言ついつた。
――「玉たまは砕けくだけても、瓦かわらは砕けくだけない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松ちかまつ門左衛門もんざえもんはいつか一度いちどは滅びるほろびるであらう。
しかれ彼かれ等とうを生んうんだ胎はらは、――大いなるおおいなる民衆みんしゅうは滅びほろびない。
あらゆる芸術げいじゅつは形かたちを変へかえても、必ずかならずそのうちから生まれるうまれるであらう。
或ある声こえ お前おまえの書いかいたものは独創的どくそうてきだ。
僕ぼく いや、決してけっして独創的どくそうてきではない。
第一だいいち誰だれが独創的どくそうてきだつたのだ?
古今ここんの天才てんさいの書いかいたものでもプロトタイプぷろとたいぷは至る所いたるところにある。
就中なかんずく僕ぼくは度たびたびたび盗んぬすんだ。
或ある声こえ しかしお前おまえは教へきょうへてもゐる。
僕ぼく 僕ぼくの教へきょうへたのは出来できないことだけだ。
僕ぼくに出来るできることだつたとすれば、教へきょうへない前まえにしてしまつたであらう。
或ある声こえ お前おまえは超人ちょうじんだと確信かくしんしろ。
僕ぼく いや、僕ぼくは超人ちょうじんではない。
僕ぼく等とうは皆みな超人ちょうじんではない。
超人ちょうじんは唯ただツアラトストラだけだ。
しかもそのツアラトストラのどう云ふいふ死しを迎へむかへたかはニイチエにいちえ自身じしんも知らしらないのだ。
或ある声こえ お前おまえさへ社会しゃかいを怖れるおそれるのか?
僕ぼく 誰だれが社会しゃかいを怖れおそれなかつたか?
或ある声こえ 牢獄ろうごくに三さん年ねんもゐたワイルドわいるどを見ろみろ。
ワイルドわいるどは「妄りみだりに自殺じさつするのは社会しゃかいに負けるまけるのだ」と言ついつてゐる。
僕ぼく ワイルドわいるどは牢獄ろうごくにゐた時じに何度なんども自殺じさつを計けいつてゐる。
しかも自殺じさつしなかつたのは唯ただその方法ほうほうのなかつたばかりだ。
或ある声こえ お前おまえは善悪ぜんあくを蹂躙じゅうりんしてしまへ。
僕ぼく 僕ぼくは今後こんごもいやが上うえにも善人ぜんにんにならうと思つおもつてゐる。
或ある声こえ お前おまえは余りあまり単純たんじゅん過ぎるすぎる。
僕ぼく いや、僕ぼくは複雑ふくざつ過ぎるすぎるのだ。
或ある声こえ しかしお前おまえは安心あんしんしろ。
お前おまえの読者どくしゃは絶えたえないだらう。
僕ぼく それは著作権ちょさくけんのなくなつた後あとだ。
或ある声こえ お前おまえは愛あいの為ために苦しんくるしんでゐるのだ。
僕ぼく 愛あいの為ために?
文学ぶんがく青年せいねんじみたお世辞おせじは好いよい加減かげんにしろ。
僕ぼくは唯ただ情事じょうじに躓いつまずいただけだ。
或ある声こえ 誰だれも情事じょうじには躓きつまずき易いやすい。
僕ぼく それは誰だれも金銭きんせんの慾よくに溺れおぼれ易いやすいと云ふいふことだけだ。
或ある声こえ お前おまえは人生じんせいの十字架じゅうじかにかかつてゐる。
僕ぼく それは僕ぼくの自慢じまんにはならない。
情婦じょうふ殺しころしや拐帯かいたい犯人はんにんも人生じんせいの十字架じゅうじかにかかつてゐるのだ。
或ある声こえ 人生じんせいはそんなに暗いくらいものではない。
僕ぼく 人生じんせいは「選ばえらばれたる少数しょうすう」を除けよけば、誰だれにも暗いくらいのはわかつてゐる。
しかも又また「選ばえらばれたる少数しょうすう」とは阿呆あほうと悪人あくにんとの異名いみょうなのだ。
或ある声こえ では勝手にかってに苦しんくるしんでゐろ。
お前おまえは俺おれを知ちつてゐるか?
折角せっかくお前おまえを慰めなぐさめに来きた俺おれを?
僕ぼく お前おまえは犬いぬだ。
昔むかしあのフアウストふあうすとの部屋へやへ犬いぬになつてはひつて行つおこなつた悪魔あくまだ。