二
第 2 章
或声 お前は感心に勇気を持つてゐる。
僕 いや、僕は勇気を持つてゐない。
若し勇気を持つてゐるとすれば、僕は獅子の口に飛び込まずに獅子の食ふのを待つてゐるだらう。
或声 しかしお前のしたことは人間らしさを具へてゐる。
僕 最も人間らしいことは同時に又動物らしいことだ。
或声 お前のしたことは悪いことではない。
お前は唯現代の社会制度の為に苦しんでゐるのだ。
僕 社会制度は変つたとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするのに極まつてゐる。
或声 しかしお前は自殺しなかつた。
兎に角お前は力を持つてゐる。
僕 僕は度たび自殺しようとした。
殊に自然らしい死にかたをする為に一日に蠅を十匹づつ食つた。
蠅を細かにむしつた上、のみこんでしまふのは何でもない。
しかし噛みつぶすのはきたない気がした。
或声 その代りお前は偉大になるだらう。
僕 僕は偉大さなどを求めてゐない。
欲しいのは唯平和だけだ。
ワグネルの手紙を読んで見ろ。
愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。
ワグネルでさへこの通りだ。
あの我の強いワグネルでさへ。
或声 お前は兎に角苦しんでゐる。
お前は良心のない人間ではない。
僕 僕は良心などを持つてゐない。
持つてゐるのは神経ばかりだ。
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつた。
或声 お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持つてゐることだ。
僕 ※をつけ。
僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。
或声 しかしお前は正直だ。
お前は何ごとも露れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。
僕 それも※だ。
僕は打ち明けずにはゐられない気もちになるまでは打ち明けなかつた。
或声 お前は詩人だ。
芸術家だ。
お前には何ごとも許されてゐる。
僕 僕は詩人だ。
芸術家だ。
けれども又社会の一分子だ。
僕の十字架を負ふのは不思議ではない。
それでもまだ軽過ぎるだらう。
或声 お前はお前のエゴを忘れてゐる。
お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。
僕 僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。
しかし民衆を軽蔑しない。
僕はいつかかう言つた。
――「玉は砕けても、瓦は砕けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるであらう。
しかれ彼等を生んだ胎は、――大いなる民衆は滅びない。
あらゆる芸術は形を変へても、必ずそのうちから生まれるであらう。
或声 お前の書いたものは独創的だ。
僕 いや、決して独創的ではない。
第一誰が独創的だつたのだ?
古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。
就中僕は度たび盗んだ。
或声 しかしお前は教へてもゐる。
僕 僕の教へたのは出来ないことだけだ。
僕に出来ることだつたとすれば、教へない前にしてしまつたであらう。
或声 お前は超人だと確信しろ。
僕 いや、僕は超人ではない。
僕等は皆超人ではない。
超人は唯ツアラトストラだけだ。
しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知らないのだ。
或声 お前さへ社会を怖れるのか?
僕 誰が社会を怖れなかつたか?
或声 牢獄に三年もゐたワイルドを見ろ。
ワイルドは「妄りに自殺するのは社会に負けるのだ」と言つてゐる。
僕 ワイルドは牢獄にゐた時に何度も自殺を計つてゐる。
しかも自殺しなかつたのは唯その方法のなかつたばかりだ。
或声 お前は善悪を蹂躙してしまへ。
僕 僕は今後もいやが上にも善人にならうと思つてゐる。
或声 お前は余り単純過ぎる。
僕 いや、僕は複雑過ぎるのだ。
或声 しかしお前は安心しろ。
お前の読者は絶えないだらう。
僕 それは著作権のなくなつた後だ。
或声 お前は愛の為に苦しんでゐるのだ。
僕 愛の為に?
文学青年じみたお世辞は好い加減にしろ。
僕は唯情事に躓いただけだ。
或声 誰も情事には躓き易い。
僕 それは誰も金銭の慾に溺れ易いと云ふことだけだ。
或声 お前は人生の十字架にかかつてゐる。
僕 それは僕の自慢にはならない。
情婦殺しや拐帯犯人も人生の十字架にかかつてゐるのだ。
或声 人生はそんなに暗いものではない。
僕 人生は「選ばれたる少数」を除けば、誰にも暗いのはわかつてゐる。
しかも又「選ばれたる少数」とは阿呆と悪人との異名なのだ。
或声 では勝手に苦しんでゐろ。
お前は俺を知つてゐるか?
折角お前を慰めに来た俺を?
僕 お前は犬だ。
昔あのフアウストの部屋へ犬になつてはひつて行つた悪魔だ。