永日小品

1/3

その二間を行き尽くすとまた二間ばかり先が見えて来る。世の中が二間四方に縮まったかと思うと、歩けば歩るくほど新しい二間四方が露われる。その代り今通って来た過去の世界は通るに任せて消えて行く。

第 1 章
四つ角よつかどでバスばすを待ち合せまちあわせていると、鼠色ねずみいろの空気くうきが切り抜かきりぬきかれて急きゅうに眼めの前まえへ馬うまの首くびが出でた。
それだのにバスばすの屋根やねにいる人ひとは、まだ霧きりを出で切らきらずにいる。
こっちから霧きりを冒しおかして、飛乗っとびのって下したを見るみると、馬うまの首くびはもう薄ぼんやりうすぼんやりしている。
バスばすが行き逢うゆきあうときは、行き逢っゆきあった時じだけ奇麗きれいだなと思うおもう。
思うおもう間まもなく色いろのあるものは、濁っにごった空そらの中なかに消えきえてしまう。
漠々ばくばくとして無色むしょくの裡りに包まつつまれて行っいった。
ウェストミンスターうぇすとみんすたー橋はしを通るとおるとき、白いしろいものが一二いちに度ど眼めを掠めかすめて翻こぼしがえった。
眸ひとみを凝らしこらして、その行方ゆくえを見つめみつめていると、封じ込めふうじこめられた大気たいきの裡りに、鴎かもめが夢ゆめのように微かかすかに飛んとんでいた。
その時じ頭あたまの上うえでビッグベンびっぐべんが厳にげんに十じゅう時じを打ち出しうちだした。
仰ぐあおぐと空そらの中なかでただ音おとだけがする。
ヴィクトリヤで用ようを足したして、テートてーと画が館やかたの傍そばを河かわ沿そいにバタシーばたしーまで来るくると、今までいままで鼠色ねずみいろに見えみえた世界せかいが、突然とつぜんと四方しほうからばったり暮れくれた。
泥炭でいたんを溶いといて濃くこく、身みの周囲しゅういに流しながしたように、黒いくろい色いろに染めそめられた重たいおもたい霧きりが、目めと口くちと鼻はなとに逼っせまって来きた。
外套がいとうは抑えおさえられたかと思うおもうほど湿っしめっている。
軽いかるい葛湯くずゆを呼吸こきゅうするばかりに気息きそくが詰まるつまる。
足元あしもとは無論むろん穴蔵あなぐらの底そこを踏むふむと同然どうぜんである。
自分じぶんはこの重苦しいおもくるしい茶褐色ちゃかっしょくの中なかに、しばらく茫然ぼうぜんと佇立ちょりつんだ。
自分じぶんの傍そばを人ひとが大勢おおぜい通るとおるような心持こころもちがする。
けれども肩かたが触れ合わふれあわない限りかぎりははたして、人ひとが通っとおっているのかどうだか疑わしいうたがわしい。
その時じこの濛々もうもうたる大海たいかいの一いち点てんが、豆まめぐらいの大きさおおきさにどんよりと黄色くきいろく流れながれた。
自分じぶんはそれを目標もくひょうに、四よん歩あゆみばかりを動かしうごかした。
するとある店先みせさきの窓まど硝子がらすの前まえへ顔かおが出でた。
店みせの中なかでは瓦斯がすを点けつけている。
中なかは比較的ひかくてき明かあきらかである。
人ひとは常つねのごとくふるまっている。
自分じぶんはやっと安心あんしんした。
バタシーばたしーを通り越しとおりこして、手探りてさぐりをしないばかりに向うむこうの岡おかへ足あしを向けむけたが、岡おかの上うえは仕舞屋しもたやばかりである。
同じおなじような横町よこちょうが幾筋いくすじも並行へいこうして、青天せいてんの下したでも紛れまぎれやすい。
自分じぶんは向っむかって左ひだりの二につ目めを曲っきょくったような気きがした。
それから二に町まちほど真直まっすぐに歩いあるいたような心持こころもちがした。
それから先さきはまるで分らわからなくなった。
暗いくらい中なかにたった一人ひとり立ったって首くびを傾けかたむけていた。
右みぎの方ほうから靴くつの音おとが近寄っちかよって来きた。
と思うおもうと、それが四五しご間ま手前てまえまで来きて留まっとまった。
それからだんだん遠退いとおのいて行くいく。
しまいには、全くまったく聞えきこえなくなった。
あとは寂としんとしている。
自分じぶんはまた暗いくらい中なかにたった一人ひとり立ったって考えかんがえた。
どうしたら下宿げしゅくへ帰れるかえれるかしらん。
懸物かけもの
大刀たち老人ろうじんは亡妻ぼうさいの三さん回忌かいきまでにはきっと一いち基もとの石碑せきひを立てたててやろうと決心けっしんした。
けれども倅せがれの痩やせ腕うでを便びんに、ようやく今日きょうを過すすごすよりほかには、一いち銭せんの貯蓄ちょちくもできかねて、また春はるになった。
あれの命日めいにちも三さん月つき八はち日ひだがなと、訴えるうったえるような顔かおをして、倅せがれに云ういうと、はあ、そうでしたっけと答えこたえたぎりである。
大刀たち老人ろうじんは、とうとう先祖せんぞ伝来でんらいの大切たいせつな一いち幅はばを売払っうりはらって、金きんの工面くめんをしようときめた。
倅せがれに、どうだろうと相談そうだんすると、倅せがれは恨めしいうらめしいほど無む雑作ぞうさにそれがいいでしょうと賛成さんせいしてくれた。
倅せがれは内務ないむ省しょうの社寺しゃじ局きょくへ出でて四十よんじゅう円えんの月給げっきゅうを貰っもらっている。
女房にょうぼうに二人ふたりの子供こどもがある上うえに、大刀たち老人ろうじんに孝養こうようを尽くすつくすのだから骨ほねが折れるおれる。
老人ろうじんがいなければ大切たいせつな懸物かけものも、とうに融通ゆうずうの利くきくものに変形へんけいしたはずである。
この懸物かけものは方ほう一いち尺さしほどの絹地きぬじで、時代じだいのために煤竹すすたけのような色いろをしている。
暗いくらい座敷ざしきへ懸けるかけると、暗澹あんたんとして何なんが画いえがいてあるか分らわからない。
老人ろうじんはこれを王おう若水わかみずの画いえがいた葵あおいだと称ししょうしている。
そうして、月つきに一二いちに度どぐらいずつ袋ふくろ戸棚とだなから出しだして、桐きりの箱ばこの塵ごみを払っはらって、中なかのものを丁寧ていねいに取り出しとりだして、直じかに三さん尺さしの壁かべへ懸けかけては、眺めながめている。
なるほど眺めながめていると、煤けすすけたうちに、古血ふるちのような大きなおおきな模様もようがある。
緑青ろくしょうの剥げはげた迹かと怪しまあやしまれる所ところも微かかすかに残っのこっている。
老人ろうじんはこの模糊もこたる唐画とうがの古蹟こせきに対ったいって、生き過ぎいきすぎたと思うおもうくらいに住み古しすみふるした世の中よのなかを忘れわすれてしまう。
ある時じは懸物かけものをじっと見つめみつめながら、煙草たばこを吹かすふかす。
または御ご茶ちゃを飲むのむ。
でなければただ見つめみつめている。
御ご爺じいさん、これ、なあにと小供こどもが来きて指ゆびを触ふれけようとすると、始めはじめて月日つきひに気きがついたように、老人ろうじんは、触っさわってはいけないよと云いいいながら、静かしずかに立ったって、懸物かけものを巻きまきにかかる。
すると、小供こどもが御ご爺じいさん鉄砲玉てっぽうたまはと聞くきく。
うん鉄砲玉てっぽうたまを買っかって来るくるから、悪戯いたずらをしてはいけないよと云いいいながら、そろそろと懸物かけものを巻いまいて、桐きりの箱ばこへ入れいれて、袋ふくろ戸棚とだなへしまって、そうしてそこいらを散歩さんぽしに出るでる。
帰りかえりには町内ちょうないの飴屋あめやへ寄っよって、薄荷はっか入いりの鉄砲玉てっぽうたまを二に袋ふくろ買っかって来きて、そら鉄砲玉てっぽうたまと云っいって、小供こどもにやる。
倅せがれが晩婚ばんこんなので小供こどもは六ろくつと四よんつである。
倅せがれと相談そうだんをした翌日よくじつ、老人ろうじんは桐きりの箱ばこを風呂敷ふろしきに包んつつんで朝あさ早くはやくから出でた。
そうして四よん時じ頃ころになって、また桐きりの箱ばこを持っもって帰っかえって来きた。
小供こどもが上り口あがりぐちまで出でて、御ご爺じいさん鉄砲玉てっぽうたまはと聞くきくと、老人ろうじんは何になんにも云わいわずに、座敷ざしきへ来きて、箱ばこの中なかから懸物かけものを出しだして、壁かべへ懸けかけて、ぼんやり眺めながめ出しだした。
四五しご軒のきの道具屋どうぐやを持っもって廻っまわったら、落款らっかんがないとか、画がが剥げはげているとか云っいって、老人ろうじんの予期よきしたほどの尊敬そんけいを、懸物かけものに払うはらうものがなかったのだそうである。
倅せがれは道具屋どうぐやは廃しはいしになさいと云っいった。
老人ろうじんも道具屋どうぐやはいかんと云っいった。
二に週間しゅうかんほどしてから、老人ろうじんはまた桐きりの箱ばこを抱えかかえて出でた。
そうして倅せがれの課長かちょうさんの友達ともだちの所ところへ、紹介しょうかいを得とくて見せみせに行っいった。
その時じも鉄砲玉てっぽうたまを買っかって来きなかった。
倅せがれが帰るかえるや否いなや、あんな眼めの明かあきらかない男おとこにどうして譲れるゆずれるものか、あすこにあるものは、みんな贋物にせものだ、とさも倅せがれの不徳義ふとくぎのように云っいった。
倅せがれは苦笑くしょうしていた。
二に月つきの初旬しょじゅんに偶然ぐうぜん旨いうまい伝手つてができて、老人ろうじんはこの幅はばを去るさる好事家こうずかに売っうった。
老人ろうじんは直じかに谷中やなかへ行っいって、亡妻ぼうさいのために立派りっぱな石碑せきひを誂えあつらえた。
そうしてその余りあまりを郵便ゆうびん貯金ちょきんにした。
それから五ご日ひほど立ったって、常つねのごとく散歩さんぽに出でたが、いつもよりは二に時間じかんほど後れおくれて帰っかえって来きた。
その時じ両手りょうてに大きなおおきな鉄砲玉てっぽうたまの袋ふくろを二につ抱えかかえていた。
売り払っうりはらった懸物かけものが気きにかかるから、もう一いち遍へん見せみせて貰いもらいに行っいったら、四よん畳たたみ半はんの茶ちゃ座敷ざしきにひっそりと懸かっかかっていて、その前まえには透き徹るすきとおるような臘梅ろうばいが活けいけてあったのだそうだ。
老人ろうじんはそこで御ご茶ちゃの御馳走ごちそうになったのだという。
おれが持っもっているよりも安心あんしんかも知れしれないと老人ろうじんは倅せがれに云っいった。
倅せがれはそうかも知れしれませんと答えこたえた。
小供こどもは三さん日間かかん鉄砲玉てっぽうたまばかり食っしょくっていた。
紀元節きげんせつ
南向きみなみむきの部屋へやであった。
明かるいあかるい方ほうを背中せなかにした三さん十人じゅうにんばかりの小供こどもが黒いくろい頭あたまを揃えそろえて、塗板とばんを眺めながめていると、廊下ろうかから先生せんせいが這入っはいって来きた。
先生せんせいは背せの低いひくい、眼めの大きいおおきい、瘠せやせた男おとこで、顎あごから頬ほおへ掛けかけて、髯ひげが爺じい汚くきたなく生えはえかかっていた。
そうしてそのざらざらした顎あごの触るさわる着物きものの襟えりが薄黒くうすぐろく垢あか附いついて見えみえた。
この着物きものと、この髯ひげの不精ぶしょうに延びるのびるのと、それから、かつて小言こごとを云っいった事ことがないのとで、先生せんせいはみなから馬鹿ばかにされていた。
先生せんせいはやがて、白墨はくぼくを取っとって、黒板こくばんに記き元節もとふしと大きくおおきく書いかいた。
小供こどもはみんな黒いくろい頭あたまを机つくえの上うえに押しつけるおしつけるようにして、作文さくぶんを書き出しかきだした。
先生せんせいは低いひくい背せを伸ばしのばして、一同いちどうを見廻しみまわしていたが、やがて廊下ろうか伝いつたいに部屋へやを出でて行っいった。
すると、後あとから三さん番目ばんめの机つくえの中ほどなかほどにいた小供こどもが、席せきを立ったって先生せんせいの洋よう卓たくの傍そばへ来きて、先生せんせいの使っつかった白墨はくぼくを取っとって、塗板とばんに書いかいてある記き元節もとふしの記きの字じへ棒ぼうを引いひいて、その傍そばへ新しくあたらしく紀きと肉太にくぶとに書いかいた。
ほかの小供こどもは笑いわらいもせずに驚いおどろいて見みていた。
さきの小供こどもが席せきへ帰っかえってしばらく立つたつと、先生せんせいも部屋へやへ帰っかえって来きた。
そうして塗板とばんに気きがついた。
「誰だれか記きを紀きと直しなおしたようだが、記きと書いかいても好いよいんですよ」と云っいってまた一同いちどうを見廻しみまわした。
一同いちどうは黙っだまっていた。
記きを紀きと直しなおしたものは自分じぶんである。
明治めいじ四十二よんじゅうに年ねんの今日きょうでも、それを思い出すおもいだすと下等したとうな心持こころもちがしてならない。
そうして、あれが爺むさいじじむさい福田ふくだ先生せんせいでなくって、みんなの怖こわがっていた校長こうちょう先生せんせいであればよかったと思わおもわない事ことはない。
儲口
「あっちは栗くりの出るでる所ところでしてね。まあ相場そうばがざっと両りょうに四よん升ますぐらいのもんでしょうかね。それをこっちへ持っもって来るくると、升ますに一いち円えん五十ごじゅう銭せんもするんですよ。それでね、私わたくしがちょうど向うむこうにいた時分じぶんでしたが、浜はまから千八百せんはっぴゃく俵たわらばかり注文ちゅうもんがありました。旨くうまく行くいくと一いち升ます二に円えん以上いじょうにつくんですから、さっそくやりましたよ。千八百せんはっぴゃく俵たわら拵えこしらえて、私わたくしが自分じぶんで栗くりといっしょに浜はままで持っもって行くいくと、――なに相手あいては支那しな人ひとで、本国ほんごくへ送り出すおくりだすんでさあ。すると、支那しな人ひとが出でて来きて、宜しいよろしいと云ういうから、もう済んすんだのかと思うおもうと、蔵くらの前まえへ高さたかさ一いち間まもあろうと云ういう大きなおおきな樽そんを持ち出しもちだして、水みずをその中なかへどんどん汲み込まくみこませるんです。――いえ何なんのためだか私わたくしにもいっこう分らわからなかったんで。何しろなにしろ大きなおおきな樽そんですからね、水みずを張るはるんだって容易よういなこっちゃありません。かれこれ半日はんじつかかっちまいました。それから何なんをするかと思っおもって見みていると、例れいの栗くりをね、俵たわらをほどいて、どんどん樽そんの中なかへ放り込むほうりこむんですよ。――私わたくしも実じつに驚いおどろいたが、支那しな人ひとてえ奴やつは本当ほんとうに食えくえないもんだと後あとになって、ようやく気きがついたんです。栗くりを水みずの中なかに打ち込むうちこむとね、たしかな奴やつは尋常じんじょうに沈みしずみますが、虫むしの食っしょくった奴やつだけはみんな浮いういちまうんです。それを支那しな人ひとの野郎やろう笊ざるでしゃくってね、ペケぺけだって、俵たわらの目方めかたから引いひいてしまうんだからたまりません。私わたくしは傍そばで見みていてはらはらしました。何しろなにしろ七なな分ぶん通りとおり虫むしが入っはいってたんだから弱りよわりました。大変たいへんな損そんでさあ。――虫むしの食っしょくったんですか。いまいましいから、みんな打だ遣っつかって来きました。支那しな人ひとの事ことですから、やっぱり知らしらん顔かおをして、俵たわらにして、おおかた本国ほんごくへ送っおくったでげしょう。 「それから薩摩芋さつまいもを買い込んかいこんだこともありまさあ。一いち俵たわら四よん円えんで、二千にせん俵たわらの契約けいやくでね。ところが注文ちゅうもんの来きたのが月つき半はん、十四じゅうよん日ひでして二十五にじゅうご日ひまでにと云ういうんだから、どう骨ほねを折っおったって二千にせん俵たわらと云ういう数すうが寄りよりっこありませんや。とうてい駄目だめだからって、一応いちおう断りことわりました。実じつを云ういうと残念ざんねんでしたがな。すると商館しょうかんの番頭ばんとうがいうには、否いな契約書けいやくしょには二十五にじゅうご日ひとあるけれども、けっしてその通りとおりには厳行げんこうしないからと、再三さいさん勧めるすすめるもんだから、ついその気きになりましてね。――いえ芋いもは支那しなへ行くいくんじゃありません。亜米利加あめりかでした。やッぱりやっぱり亜米利加あめりかにも薩摩芋さつまいもを食うくう奴やつがあると見えるみえるんですよ。妙みょうな事ことがあるもんで、――で、さっそく買収ばいしゅうにかかりました。埼玉さいたまから川越かわごえの方ほうをな。だが口くちでこそ二千にせん俵たわらですが、いざ買い占めるかいしめるとなるとなかなか大したたいしたもんですからな。でもようやくの事ことで、とうとう二十八にじゅうはち日ひ過ぎすぎに約束やくそく通りとおりの俵たわらを持っもって、行きいきますと、――実じつに狡猾こうかつな奴やつがいるもんで、約定やくじょう書しょのうちに、もしはなはだしい日限にちげんの違約いやくがあるときは、八千はっせん円えんの損害賠償そんがいばいしょうを出すだすと云ういう項目こうもくがあるんですよ。ところが彼かれはその条じょう款かんを応用おうようしちまって、どうしても代金だいきんを渡さわたさないんです。もっとも手付てつけは四千よんせん円えん取っとっておきましたがね。そうこうしている内うちに、先方せんぽうでは芋いもを船ふねへ積み込んつみこんじまったから、どうする事こともできない訳わけになりました。あんまり業腹ごうはらだから、千せん円えんの保証金ほしょうきんを納めおさめましてね、現物げんぶつ取とり押おうを申請しんせいして、とうとう芋いもを取り押えとりおさえてやりました。ところが上うえには上うえがあるもんで、先方せんぽうは八千はっせん円えんの保証金ほしょうきんを納めおさめて、構わかまわず船ふねを出しだしちまったんです。でいよいよ裁判さいばんになったにはなったんですが、何しろなにしろ約定やくじょう書しょが入れいれてあるもんだから、しようがない。私わたくしは裁判官さいばんかんの前まえで泣きなきましたね。芋いもはただ取らとられる、裁判さいばんには負けるまける、こんな馬鹿ばかな事ことはない、少しすこしは、まあ私わたくしの身みになって考えかんがえて見みて下さいくださいって。裁判官さいばんかんも腹はらのなかでは、だいぶ私わたくしの方ほうに同情どうじょうした様子ようすでしたが、法律ほうりつの力ちからじゃ、どうする事こともできないもんですからな。とうとう負けまけました」
行列ぎょうれつ
ふと机つくえから眼めを上げあげて、入口いりぐちの方ほうを見るみると、書斎しょさいの戸とがいつの間まにか、半分はんぶん明いあいて、広いひろい廊下ろうかが二に尺さしばかり見えるみえる。
廊下ろうかの尽きるつきる所ところは唐とうめいた手摺てすりに遮らさえぎられて、上うえには硝子戸がらすとが立てたて切っきってある。
青いあおい空そらから、まともに落ちおちて来るくる日ひが、軒端のきばを斜しゃに、硝子がらすを通しとおして、縁側えんがわの手前てまえだけを明るくあかるく色づけいろづけて、書斎しょさいの戸口とぐちまでぱっと暖かあたたかに射ししゃした。
しばらく日ひの照るてる所ところを見つめみつめていると、眼めの底そこに陽炎かげろうが湧いわいたように、春はるの思いおもいが饒かになる。
その時じこの二に尺さしあまりの隙間すきまに、空そらを踏んふんで、手摺てすりの高さたかさほどのものがあらわれた。
赤あかに白くしろく唐草からくさを浮き織りうきおりにした絹紐きぬひもを輪わに結んむすんで、額がくから髪かみの上うえへすぽりと嵌めはめた間まに、海棠かいどうと思わおもわれる花はなを青いあおい葉はごと、ぐるりと挿しさした。
黒髪くろかみの地ちに薄紅うすべにの莟つぼみが大きなおおきな雫しずくのごとくはっきり見えみえた。
割合わりあいに詰っなじった顎あごの真下ましたから、一いち襞ひだになって、ただ一いち枚ばいの紫むらさきが縁えんまでふわふわと動いうごいている。
袖そでも手ても足あしも見えみえない。
影かげは廊下ろうかに落ちおちた日ひを、するりと抜けるぬけるように通っとおった。
後あとから、―― 今度こんどは少しすこし低いひくい。
真紅しんくの厚いあつい織物おりものを脳天のうてんから肩先かたさきまで被っかぶって、余るあまる背中せなかに筋違すじかいの笹ささの葉はの模様もようを背負っせおっている。
胴中どうなかにただ一いち葉は、消炭けしずみ色いろの中なかに取り残さとりのこされた緑みどりが見えるみえる。
それほど笹ささの模様もようは大きかっおおきかった。
廊下ろうかに置くおく足あしよりも大きかっおおきかった。
その足あしが赤くあかくちらちらと三さん足あしほど動いうごいたら、低いひくいものは、戸口とぐちの幅はばを、音おとなく行きいき過ぎすぎた。
第だい三さんの頭巾ずきんは白しろと藍あいの弁慶べんけいの格子こうしである。
眉まゆ廂ひさしの下したにあらわれた横顔よこがおは丸くまるく膨らんふくらんでいる。
その片頬かたほおの真中まなかが林檎りんごの熟しじゅくしたほどに濃いこい。
尻しりだけ見えるみえる茶褐色ちゃかっしょくの眉毛まゆげの下したが急きゅうに落ち込んおちこんで、思わおもわざる辺へんから丸いまりい鼻はなが膨れふくれた頬ほおを少しすこし乗り越しのりこして、先さきだけ顔かおの外そとへ出でた。
顔かおから下したは一面いちめんに黄色いきいろい縞しまで包まつつまれている。
長いながい袖そでを三さん寸すん余よも縁えんに牽いひいた。
これは頭あたまより高いたかい胡麻ごま竹たけの杖つえを突いついて来きた。
杖つえの先さきには光ひかりを帯びおびた鳥とりの羽はねをふさふさと着けつけて、照るてる日ひに輝かしかがやかした。
縁えんに牽くひく黄色いきいろい縞しまの、袖そでらしい裏うらが、銀ぎんのように光っひかりったと思っおもったらこれも行きいき過ぎすぎた。
すると、すぐ後あとから真白まっしろな顔かおがあらわれた。
額がくから始まっはじまって、平たいひらたい頬ほおを塗っぬって、顎あごから耳みみの附ふ根ねまで遡ぼって、壁かべのように静かしずかである。
中なかに眸ひとみだけが活きつきていた。
唇くちびるは紅くれないの色いろを重ねかさねて、青くあおく光線こうせんを反射はんしゃした。
胸むねのあたりは鳩はとの色いろのように見えみえて、下したは裾すそまでばっと視線しせんを乱しみだしている中なかに、小さなちいさなヴァイオリンゔぁいおりんを抱えかかえて、長いながい弓ゆみを厳かおごそかに担いにないでいる。
二に足あしで通り過ぎるとおりすぎる後あとには、背中せなかへ黒いくろい繻子しゅすの四角しかくな片かたをあてて、その真中まなかにある金糸きんしの刺繍ししゅうが、一度いちどに日ひに浮いういた。
最後さいごに出でたものは、全くまったく小さいちいさい。
手摺てすりの下したから転げ落ちころげおちそうである。
けれども大きなおおきな顔かおをしている。
その中なかでも頭あたまはことに大きいおおきい。
それへ五色ごしきの冠かんを戴いいただいてあらわれた。
冠かんの中央ちゅうおうにあるぽっちが高くたかく聳えそびえているように思わおもわれる。
身みには井いの字じの模様もようのある筒袖つつそでに、藤鼠ふじねずの天鵞絨びろーどの房ぼうの下っしたったものを、背せから腰こしの下したまで三角さんかくに垂れたれて、赤いあかい足袋たびを踏んふんでいた。
手てに持っもった朝鮮ちょうせんの団扇うちわが身体しんたいの半分はんぶんほどある。
団扇うちわには赤あかと青あおと黄きで巴ともえを漆うるしで描いえがいた。
行列ぎょうれつは静かしずかに自分じぶんの前まえを過ぎすぎた。
開け放しあけはなしになった戸とが、空しいむなしい日ひの光ひかりを、書斎しょさいの入口いりぐちに送っおくって、縁側えんがわに幅はば四よん尺さしの寂しさびしさを感じかんじた時じ、向うむこうの隅すみで急きゅうにヴァイオリンゔぁいおりんを擦るする音おとがした。
ついで、小さいちいさい咽喉のどが寄り合っよりあって、どっと笑うわらう声こえがした。
宅たくの小供こどもは毎日まいにち母ははの羽織はおりや風呂敷ふろしきを出しだして、こんな遊戯ゆうぎをしている。
昔むかし
ピトロクリぴとろくりの谷たには秋あきの真下ましたにある。
十じゅう月つきの日ひが、眼めに入るはいる野のと林はやしを暖かいあたたかい色いろに染めそめた中なかに、人ひとは寝ねたり起きおきたりしている。
十じゅう月つきの日ひは静かしずかな谷たにの空気くうきを空そらの半途はんとで包んつつんで、じかには地ちにも落ちおちて来きぬ。
と云っいって、山向やまむきへ逃げにげても行かいかぬ。
風かぜのない村むらの上うえに、いつでも落ちついおちついて、じっと動かうごかずに靄んもやんでいる。
その間まに野のと林はやしの色いろがしだいに変っかわって来るくる。
酸いしいものがいつの間まにか甘くあまくなるように、谷たに全体ぜんたいに時代じだいがつく。
ピトロクリぴとろくりの谷たには、この時じ百ひゃく年ねんの昔むかしし、二百にひゃく年ねんの昔むかしにかえって、やすやすと寂びさびてしまう。
人ひとは世よに熟れこなれた顔かおを揃えそろえて、山の背やまのせを渡るわたる雲くもを見るみる。
その雲くもは或ある時じは白くしろくなり、或ある時じは灰色はいいろになる。
折々おりおりは薄いうすい底そこから山やまの地ちを透かすかせて見せるみせる。
いつ見みても古いふるい雲くもの心地ここちがする。
自分じぶんの家いえはこの雲くもとこの谷たにを眺めるながめるに都合つごう好くよく、小さなちいさな丘おかの上うえに立ったっている。
南みなみから一面いちめんに家いえの壁かべへ日ひがあたる。
幾いく年ねん十じゅう月つきの日ひが射ししゃしたものか、どこもかしこも鼠色ねずみいろに枯れかれている西にしの端はしに、一いち本ほんの薔薇ばらが這いはいかかって、冷たいつめたい壁かべと、暖かいあたたかい日ひの間まに挟まっはさまった花はなをいくつか着けつけた。
大きなおおきな弁べんは卵色たまごいろに豊かゆたかな波なみを打っうって、萼がくから翻えるひるがえるように口くちを開けあけたまま、ひそりとところどころに静まり返っしずまりかえっている。
香こうは薄いうすい日光にっこうに吸わすわれて、二に間まの空気くうきの裡りに消えきえて行くいく。
自分じぶんは
1/3