その二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓の届かぬ限りを尽くして真直に聳えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄の奥から落ちて来る。
第 2 章
足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥の下が、平たく色で埋まっている。
その向う側の山へ上る所は層々と樺の黄葉が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。
明かで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿って動いている。
泥炭を含んだ渓水は、染粉を溶いたように古びた色になる。
この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
後から主人が来た。
主人の髯は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。
形装も尋常ではない。
腰にキルトというものを着けている。
俥の膝掛のように粗い縞の織物である。
それを行灯袴に、膝頭まで裁って、竪に襞を置いたから、膝脛は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。
歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。
肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
主人は毛皮で作った、小さい木魚ほどの蟇口を前にぶら下げている。
夜煖炉の傍へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草を出す。
そうしてぷかりぷかりと夜長を吹かす。
木魚の名をスポーランと云う。
主人といっしょに崖を下りて、小暗い路に這入った。
スコッチ・ファーと云う常磐木の葉が、刻み昆布に雲が這いかかって、払っても落ちないように見える。
その黒い幹をちょろちょろと栗鼠が長く太った尾を揺って、駆け上った。
と思うと古く厚みのついた苔の上をまた一匹、眸から疾く駆け抜けたものがある。
苔は膨れたまま動かない。
栗鼠の尾は蒼黒い地を払子のごとくに擦って暗がりに入った。
主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指さした。
黒い河は依然としてその真中を流れている。
あの河を一里半北へ溯るとキリクランキーの峡間があると云った。
高地人と低地人とキリクランキーの峡間で戦った時、屍が岩の間に挟って、岩を打つ水を塞いた。
高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪おうと決心した。
崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散っていた。
声
豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる。
始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。
それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。
明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。
窓の外でしきりに鋸の音がする。
豊三郎は坐ったまま手を延して障子を明けた。
すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐の枝をおろしている。
可なり大きく延びた奴を、惜気もなく股の根から、ごしごし引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい夥しくなった。
同時に空しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した。
豊三郎は机に頬杖を突いて、何気なく、梧桐の上を高く離れた秋晴を眺めていた。
豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。
その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、懐かしい故郷の記憶が、点を打ったように、