あの頃の自分の事

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一

第 1 章
十一じゅういち月つきの或ある晴れはれた朝あさである。
久しぶりひさしぶりに窮屈きゅうくつな制服せいふくを着きて、学校がっこうへ行つおこなつたら、正門せいもん前まえでやはり制服せいふくを着きた成瀬なるせに遇つた。
こつちで「やあ」と云ふいふと、向うむこうでも「やあ」と云ついつた。
一しよいっしよに角帽かくぼうを並べならべて、法文ほうぶん科かの古いふるい煉瓦れんが造つくりの中なかへはいつたら、玄関げんかんの掲示けいじ場ばの前まえに、又また和服わふくの松岡まつおかがゐた。
我々われわれはもう一度いちど「やあ」と云ついつた。
立ちたちながら三さん人ひとで、近々ちかぢか出さういださうとしてゐる同人雑誌どうにんざっし『新しん思潮しちょう』の話はなしをした。
それから松岡まつおかがこの間ま、珍しくめずらしく学校がっこうへ出でて来きて、西洋せいよう哲学史てつがくしか何なんかの教室きょうしつへはいつたが、何時なんじまで待つまつても、先生せんせいは勿論もちろん学生がくせいも来るくる容子ようこがない。
妙みょうだと思つおもつて、外そとへ出でて小使こづかいに尋いきいて見みたら、休日きゅうじつだつたと云ふいふ話はなしをした。
彼かれは電車でんしゃへ乗るのる心算しんさんで、十じゅう銭せん持つもつて歩きあるきながら、途中とちゅうで気きが変へんつて、煙草屋たばこやへはいると、平然へいぜんとして「往復おうふくを一いちつ」と云ついつた人間にんげんだからこんな事ことは家常かじょう茶飯さはんである。
その中なかに、傴僂せむしのやうな小使こづかいが朝あさの時間じかんを知らしらせる鐘かねを振つふるつて、大急ぎおおいそぎで玄関げんかんを通りとおりすぎた。
朝あさの時間じかんはもう故人こじんになつたロオレンスろおれんす先生せんせいのマクベスまくべすの講義こうぎである。
松岡まつおかと分れわかれて、成瀬なるせと二に階かいの教室きょうしつへ行くいくと、もう大ぜいおおぜい学生がくせいが集しゅうつて、ノオトのおとを読み合せよみあわせたり、むだ話むだばなしをしたりしてゐた。
我々われわれも隅すみの方ほうの机つくえに就いてついて、新しん思潮しちょうへ書かかかうとしてゐる我々われわれの小説しょうせつの話はなしをした。
我々われわれの頭あたまの上うえの壁かべには、禁煙きんえんと云ふいふ札さつが貼つてあつた。
が、我々われわれは話しはなしながら、ポケツトから敷島しきしまを出しだして吸きゅうひ始めはじめた。
勿論もちろん我々われわれの外そとの学生がくせいも、平気へいきで煙草たばこをふかしてゐた。
すると急きゅうにロオレンスろおれんす先生せんせいが、鞄かばんをかかへて、はいつて来きた。
自分じぶんは敷島しきしまを一いち本ほん完全かんぜんに吸きゅうつてしまつて、殻からも窓まどからすてた後あとだつたから、更にさらに恐れるおそれる所ところなく、ノオトのおとを開いひらいた。
しかし成瀬なるせはまだ煙草たばこを啣へくはへてゐたから、すぐにそれを下したへ捨てるすてると、慌てあわてて靴くつで踏み消しふみけした。
幸みゆき、ロオレンスろおれんす先生せんせいは我々われわれの机つくえの間まから立昇るたちのぼる、縷々るるとした一条いちじょうの煙けむりに気きがつかなかつた。
だから出席簿しゅっせきぼをつけてしまふと、早速さっそく毎時まいじもの通りとおり講義こうぎにとりかかつた。
講義こうぎのつまらない事ことは、当時とうじ定評ていひょうがあつた。
が、その朝あさは殊にことにつまらなかつた。
始はじめからのべつ幕まくなしに、梗概こうがいばかり聴かさきかされる。
それも一々いちいちAct1,Scene2と云ふいふ調子ちょうしで、一くさりひとくさりづつやるのだから、その退屈たいくつさは人間にんげん以上いじょうだつた。
自分じぶんは以前いぜんはかう云ふいふ時じに、よく何なんの因果いんがで大学だいがくへなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひおもひおもひした。
が、今いまではそんな事ことも考へかんがへない程ほど、この非凡ひぼんな講義こうぎを聴くきく可くべく余儀よぎなくされた運命うんめいに、すつかり黙従もくじゅうし切つきつてゐた。
だからその時間じかんも、機械的きかいてきにペンぺんを動かしうごかして、帝劇ていげきの筋書すじがきの英訳えいやくのやうなものを根気こんきよく筆記ひっきした。
が、その中なかに教室きょうしつに通つうつてゐるステイイムすていいむの加減かげんで、だんだん眠くねむくなつて来きた。
そこで勿論もちろん、眠るねむる事ことにした。
うとうとして、ノオトのおとに一いち頁ぺーじばかりブランクぶらんくが出来できた時分じぶん、ロオレンスろおれんす先生せんせいが、何なんだか異様いような声こえを出しだしたので、眼めがさめた。
始めはじめはちよいと居睡りいねむりが見みつかつて、叱らしかられたかと思つおもつたが、見るみると先生せんせいは、マクベスまくべすの本ほんをふり廻しふりまわしながら、得意とくいになつて、門番もんばんの声色こわいろを使しつてゐる。
自分じぶんもあの門番もんばんの類るいだなと思つおもつたら、急きゅうに可笑しくおかしくなつて、すつかり眠気ねむけがさめてしまつた。
隣となりでは成瀬なるせがノオトのおとをとりながら、時々ときどき自分じぶんの方ほうを見みて、くすくす独りひとりで笑わらいつてゐた。
それから又また、二三にさん頁ぺーじノオトのおとをよごしたらやつと時間じかんの鐘かねが鳴なるつた。
さうして自分じぶんたちは、ロオレンスろおれんす先生せんせいの後あとから、ぞろぞろ教室きょうしつの外そとの廊下ろうかへ溢れ出しあふれだした。
廊下ろうかへ出でて、黄いろいきいろい葉はを垂らしたらした庭にわの樹木じゅもくを見下しみくだしてゐると、豊田とよだ実じつ君きみが来きて、「ちよいとノオトのおとを見せみせてくれ給へたまへ」と云ついつた。
それからノオトのおとを開けあけて見せるみせると、豊田とよだ君きみの見みたがつてゐる所ところは、丁度ちょうど自分じぶんの居眠りいねむりをした所ところだつたので、流石さすがに少しすこし恐縮きょうしゅくした。
豊田とよだ君きみは「ぢやようござんす」と云ついつて、悠然ゆうぜんと向うむこうへ行つおこなつてしまつた。
悠然ゆうぜんと云ふいふのは、決してけっして好いよい加減かげんな形容けいようぢやない。
実際じっさい君きみは何時なんじでも、悠然ゆうぜんと歩いあるいてゐた。
豊田とよだ君きみは今いまどこで何なんをしてゐるか、判然はんぜんとした事ことは承知しょうちしないが、ロオレンスろおれんす先生せんせいに好意こういを持ちもち、若しくはもしくはロオレンスろおれんす先生せんせいが好意こういを持つもつた学生がくせいの中なかで、我々われわれ――と云ついつて悪るけれわるければ、少くすくなくとも自分じぶんが、常つねに或ある程度ていどの親しみしたしみを感じかんじてゐた、たつた一人ひとりの人間にんげんである。
自分じぶんはこれを書いかいてゐる今いまでも、君きみの悠然ゆうぜんとした歩きあるき方ほうを思ひ出すおもひだすと、もう一いち度ど君きみと大学だいがくの廊下ろうかに立つたつて、平凡へいぼんな時候じこうの挨拶あいさつでも交換こうかんしたいやうな気きがしないでもない。
その中なかに又また、鐘かねが鳴なるつて、我々われわれは二人ふたりとも下したの教室きょうしつへ行くいく事ことになつた。
今度こんどは藤岡ふじおか勝二かつじ博士はかせの言語学げんごがくの講義こうぎである。
外そとの連中れんちゅうは皆みな先さきへ行つおこなつて、ちやんと前まえの方ほうへ席せきをとつて置くおくが、なまけ者なまけものの我々われわれは、何時なんじでも後あとからはいつて行つおこなつて、一番いちばん隅すみの机つくえを占領せんりょうした。
その朝あさもやはりかう云ふいふ伝つてで、愈いよいよ鐘かねが鳴るなる間際まぎわまで、見晴しみはらしの好いよい二に階かいの廊下ろうかに※徊してゐたのである。
藤岡ふじおか博士はかせの言語学げんごがくの講義こうぎは、その朗々ろうろうたる音吐おんととグロテスクぐろてすくな諧謔かいぎゃくとを聞くきくだけでも、存在そんざいの権利けんりのあるものだつた。
尤ももっとも自分じぶんの如くごとく、生来せいらい言語学げんごがく的まとな頭脳ずのうに乏しいとぼしい人間にんげんにとつては、それだけで存在そんざいの権利けんりがあつたと云ひいひ直しなおしても別べつに差支へさしつかへはない。
だから今日きょうも、ノオトのおとをとつたりやめたりしながら、半分はんぶんはさう云ふいふ興味きょうみで、マツクスまつくす・ミユラアがどうとかしたとか云ふいふ講義こうぎを面白おもしろがつて聴いきいてゐた。
すると自分じぶんの前まえの席せきに、髪の毛かみのけの長いながい学生がくせいが坐ざつてゐて、その人ひとの髪の毛かみのけが、時々ときどき自分じぶんのノオトのおとの上うえを、掃くはくやうにさらさら通りとおりすぎた。
自分じぶんは相手あいてが名前なまえも知らしらない人ひとの事ことだから、どう云ふいふ了見りょうけんで、あんな長髪ちょうはつを蓄ちくへてゐるのだか、つい今日きょうに至るいたるまで問ひとひ質すただす機会きかいを失つうしなつてしまつたが、兎に角とにかくそれが彼かれ自身じしんの美的びてき要求ようきゅうには合しごうしてゐても、他人たにんの実際的じっさいてき要求ようきゅうと矛盾むじゅんし得るうる事ことを発見はっけんしたのは、正にまさにこの言語学げんごがくの講義こうぎを聞いきいてゐた時間じかんである。
しかし幸みゆき、その講義こうぎを聴かきかうと云ふいふ、自分じぶんの実際的じっさいてき要求ようきゅうがそれ程ほど痛切つうせつでなかつたから、髪の毛かみのけが邪魔じゃまになつた所ところだけは、ノオトのおとをとらずに捨てすてて置いおいた。
その中なかには邪魔じゃまにならない所ところでも、ノオトのおとの代りかわりに画がを描くえがく事ことにした。
処ところが向うむこうに坐ざつてゐる、何なんとか云ふいふ恐しくおそろしくハイカラはいからな学生がくせいの横顔よこがおを、半分はんぶんがた描いえがいた処ところで運うん悪くわるく鐘かねが鳴なるつた。
講義こうぎの終おわりを知らしらせると同時どうじに、午うまになつた事ことを知らしらせる鐘かねである。
我々われわれは一しよいっしよに大学だいがく前まえの一白いっぱく舎しゃの二に階かいへ行つおこなつて、曹達水そーだすいに二十にじゅう銭せんの弁当べんとうを食つくつた。
食ひくひながらいろんな事ことを弁じべんじ合あわせつた。
自分じぶんと成瀬なるせとの間まには、可也かな懸隔けんかくてのない友情ゆうじょうが通つうつてゐた。
その上うえその頃ころは思想しそうの上うえでも、一致いっちする点てんが少くすくなくなかつた。
殊にことに二人ふたりとも、偶然ぐうぜん同時どうじに「ジアンじあん・クリストフくりすとふ」を読みよみ出しだして、同時どうじにそれに感服かんぷくしてゐた。
だからかう云ふいふ時じになると、毎日まいにちのやうに顔かおを合せあわせてゐる癖くせに、やはり話はなしがはずみ勝ちかちだつた。
すると二人ふたりのゐる所ところへ、給仕きゅうじの谷たにがやつて来きて、相場そうばの話はなしをし始めはじめた。
それも「まかり間ま違いつたら、これになる覚悟かくごでなくつちや駄目だめですね」と、手てを後あとへまはして見せみせたのだから盛さかんである。
成瀬なるせは「莫迦ばかだな」と云ついつて、取とり合あわせはなかつたが、当時とうじ「財布さいふ」と云ふいふ小説しょうせつを考へかんがへてゐた自分じぶんは、さまざまな意味いみで面白おもしろかつたから、食事しょくじをしまふまで谷たにの相手あいてになつた。
さうして妙みょうな相場そうばの熟語じゅくごを、十じゅうばかり一度いちどに教へきょうへられた。
午後ごごは講義こうぎがなかつたから、一白いっぱく舎しゃを出るでると二人ふたりで、近所きんじょの宮裏みやうらに下宿げしゅくしてゐる久米くめの所ところへ遊びあそびに行つおこなつた。
久米くめは我々われわれ以上いじょうのなまけ者なまけものだから、大抵たいていは教室きょうしつへも出でずに、下宿げしゅくで小説しょうせつや芝居しばいを書いかいてゐたのである。
行つおこなつて見るみると、やはり机つくえの側がわに置おけ炬燵こたつを据すえゑて、「カラマゾフ兄弟きょうだい」か何なんか読んよんでゐた。
あたれと云ふいふから、我々われわれもその置おけ炬燵こたつへはいつたら、掛蒲団かかりふとんの脂あぶら臭いくさい匂においが、火ひ臭いくさい匂においと一しよいっしよに鼻はなを打つうつた。
久米くめは今いま、彼かれの幼年ようねん時代じだいに自殺じさつした阿父あちちさんの事ことを、短篇たんぺんにして書いかいてゐると云ついつた。
小説しょうせつはこれが処女作しょじょさく同様どうようだから、見当けんとうがつかなくて困るこまるとも云ついつた。
が、相そう不変ふへん元気げんきの好よしみささうな顔かおをして、余りあまり困こんつてゐるらしい容子ようこもなかつた。
その後そのあとで「君きみはどうした」と訊くきくから、「やつと『鼻はな』を半分はんぶんばかり書いかいた」と答へこたえへた。
成瀬なるせも今年ことしの夏なつ、日本にっぽんアルプスあるぷすへ行つおこなつた時じの話はなしを書きかきかけてゐると云ふいふ事ことだつた。
それから三さん人ひとで、久米くめの拵こしらえへた珈琲こーひーを飲みのみながら、創作そうさく上うえの話はなしを長いながい間ました。
久米くめは文壇ぶんだん的まと閲歴えつれきの上うえから云ついつて、ずつと我々われわれより先輩せんぱいだつた。
と同時どうじに又また表現ひょうげん上うえの手腕しゅわんから云ついつても、やはり我々われわれに比べるくらべると、一いち日ひの長なががある事ことは事実じじつだつた。
特にとくに自分じぶんはこの点てんで、久米くめが三さん幕まく物ものや一幕ひとまく物ものを容易よういにしかも短いみじかい時間じかんで、書き上げるかきあげる技倆ぎりょうに驚嘆きょうたんしてゐた。
だから我々われわれの中なかで久米くめだけは、彼かれ自身じしんの占めしめてゐる、或はあるいは占めんしめんとする、文壇ぶんだん的まと地位ちいに相当そうとうな自信じしんを持つもつてゐた。
さうしてその自信じしんが又また一方いっぽうでは、絶えたえず眼高がんこう手低しゅていの歎たんを抱いいだいてゐる我々われわれに、我々われわれ自身じしんの自信じしんを呼び起すよびおこす力ちからとしても働いはたらいてゐた。
実際じっさい自分じぶんの如きごときは、もし久米くめと友人ゆうじんでなかつたら、即そく彼かれの煽動せんどうによつて、人工的じんこうてきにインスピレエシヨンを製造せいぞうする機会きかいがなかつたなら、生涯しょうがい一介いっかいの読書どくしょ子こたるに満足まんぞくして、小説しょうせつなぞは書かかかなかつたかも知れしれない。
さう云ふいふ次第しだいだから創作そうさく上うえの話はなしになると――と云ふいふより文壇ぶんだんに関係かんけいした話はなしになると、勢いきおい何時もいつも我々われわれの中なかでは、久米くめが牛耳ぎゅうじを執るとる形かたちがあつた。
その日ひも彼かれが音頭おんどとりで、大分おおいた議論ぎろんを上下じょうげしたが、何なんかの関係かんけいで田山たやま花袋かたい氏しが度々たびたび問題もんだいに上うえつたやうに記憶きおくする。
今いまになつて公平こうへいに考へれかんがへれば、自然主義しぜんしゅぎ運動うんどうがあれ丈たけ大きなおおきな波動はどうを文壇ぶんだんに与へあたへたのも、全くまったく一いちつは田山たやま氏しの人格じんかくの力ちからが然らしからしめたのに相違そういない。
その限りかぎりに於おて田山たやま氏しは、氏しの「妻つま」や「田舎いなか教師きょうし」が如何にいかに退屈たいくつであるにしても、乃至ないし又また氏しの平面へいめん描写びょうしゃ論ろんが如何にいかに幼稚ようちであるにしても、確かくに我々われわれ後輩こうはいの敬意けいい――とまで行かいかなければ、少くすくなくとも興味きょうみ位くらいは惹くひくに足るたる人物じんぶつだつた。
が、遺憾いかんながら当時とうじの我々われわれは、まだこの情熱じょうねつに富んとんだ氏しの人格じんかくを、評価ひょうかするだけの雅量がりょうに乏しとぼしかつた。
だから我々われわれは氏しの小説しょうせつを一貫いっかんして、月光げっこうと性慾せいよくとを除いのぞいては、何ものなにものも発見はっけんする事ことは出来できなかつた。
と同時どうじに氏しの感想かんそうや評論ひょうろんも、その怪しあやしげな の入信にゅうしん生活せいかつを聞かさきかされる度どに、先さきDurtalと田山たやま花袋かたい氏しとの滑稽こっけいな対照たいしょうを思ひ出さおもひださせて、徒とに我々われわれの冷笑れいしょうを買かいふばかりだつた。
では我々われわれは氏しを目しもくして、全然ぜんぜんハムバツグはむばつぐとしてゐたかと云ふいふと必しひっしも亦またさうぢやない。
成程なるほど小説家しょうせつかとしての氏しや思想家しそうかとしての氏しは、更にさらに本質的ほんしつてきなものだとは思はおもうはなかつたが、それらに先立つさきだつて我々われわれは、紀行文きこうぶん家いえとしての田山たやま氏しを認めみとめてゐた。
Sentimentallandscape-painter――これが当時とうじの自分じぶんが、田山たやま氏しへ冠らかぶらせてゐた渾名あだなだつた。
実際じっさい氏しは、小説しょうせつや評論ひょうろんを書くかく合ひ間あひまに、根気こんきよく紀行文きこうぶんを書いかいてゐた。
いや少しすこし誇張こちょうして云へいえば、小説しょうせつの多くおおくも紀行文きこうぶんで、その中なかにVenusLibentinaの信者しんじゃたる男女だんじょを点てん出しだしたものに過ぎすぎなかつた。
さうしてその紀行文きこうぶんを書いかいてゐる時じの氏しは、自由じゆうで、快活かいかつで、正直しょうじきで、如何にいかにも青いあおい艸くさを得とくた驢馬ろばのやうに、純真じゅんしん無垢むくな所ところがあつた。
従じゅうつてそれだけの領域りょういきでは、田山たやま氏しはユニイクゆにいくだと云はういはうが何なんだらうが差支へさしつかへない。
が、氏しを自然主義しぜんしゅぎの小説家しょうせつかたり、且かつ思想家しそうかたる文壇ぶんだんの泰斗たいとと考へるかんがへる事ことは、今いまよりも更にさらに出来でき憎ぞうかつた。
遠慮えんりょのない所ところを云ふいふと、自然主義しぜんしゅぎ運動うんどうに於けおける氏しの功績こうせきの如きごときも、「何しろなにしろ時代じだいが時代じだいだつたからね」なぞと軽蔑けいべつしてゐたものである。
大体だいたいこんなやうな気焔きえんをあげてから、又また成瀬なるせと二人ふたりで、久米くめの下宿げしゅくを出でた。
出でた時分じぶんには、短いみじかい冬ふゆの日脚ひあしが、もう往来おうらいへ長いながい影かげを落しおとしてゐた。
我々われわれは我々われわれのよく知ちつてゐる、しかも常つねになつかしい興奮こうふんを感じかんじながら、本郷三丁目ほんごうさんちょうめの角かくまで歩いあるいて行つおこなつて、それから別々べつべつの電車でんしゃへ乗のりつた。
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