あの頃の自分の事

二

第 2 章
三四さんよん日ひたつた、これも好いよい天気てんきの日ひの事ことである。
自分じぶんは午前ごぜんの講義こうぎに出席しゅっせきしてから、成瀬なるせと二人ふたりで久米くめの下宿げしゅくへ行つおこなつて、そこで一しよいっしよに昼飯ちゅうはんを食つくつた。
久米くめは京都きょうとの菊池きくちが、今朝けさ送つてよこしたと云ふいふ戯曲ぎきょくの原稿げんこうを見せみせた。
それは「坂田さかた藤十郎とうじゅうろうの恋こい」と云ふいふ、徳川とくがわ時代じだいの名高いなだかい役者やくしゃを主人公しゅじんこうにした一幕ひとまく物ものだつた。
読めよめと云ふいふから読んよんで見るみると、テエマてえまが面白いおもしろいのにも関らかかわらず、無暗むやみに友染ともそめ縮緬ちりめんのやうな台辞だいじが多くおおくつて、どうも永井ながい荷風かふう氏しや谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう氏しの糟粕そうはくを嘗めなめてゐるやうな観かんがあつた。
だから自分じぶんは言下げんかに悪作おさだとけなしつけた。
成瀬なるせも読んよんで見みて、やはり同感どうかんは出来できないと云ついつた。
久米くめも我々われわれの批評ひひょうを聞いきいて、「僕ぼくも感服かんぷく出来できないんだ。一体いったいに少しすこし高等学校こうとうがっこう情調じょうちょうがありすぎるよ」と、同意どういを表しあらわした。
それから久米くめが我々われわれ一同いちどうを代表だいひょうして、菊池きくちの所ところへその意味いみの批評ひひょうを、手紙てがみで書いかいてやる事ことにした。
そこへ幸みゆきひ松岡まつおかも遊びあそびに来きた。
松岡まつおかは我々われわれ三さん人ひとが英文科えいぶんかに籍せきを置いおいてゐるのにも関らかかわらず、独りひとり哲学科てつがくかへはいつてゐた。
が、勿論もちろん我々われわれと同じおなじやうに、創作そうさくもする心算しんさんだつた。
彼かれは我々われわれの中なかで、一番いちばん久米くめと親おやしかつた。
一しきりひとしきりは二人ふたりで、同じおなじ家いえに下宿げしゅくしてゐた事こともあつた。
それは砲兵ほうへい工廠こうしょうの裏うらにある、職工しょっこう服ふくを造るつくる家いえだつた。
実生活じつせいかつ上うえのロマンテイケルだつた久米くめは、今いまにあの青いあおい職工しょっこう服ふくを着きて、アトリエあとりえのやうな書斎しょさいへ西洋せいよう机つくえを据すえゑて、その書斎しょさいを久米くめ正雄まさお工房こうぼうと名づけなづけたいなどと云ふいふ、途方とほうもない夢ゆめをよく見みてゐた。
自分じぶんは彼かれ等とうをその下宿げしゅくに訪問ほうもんすると、毎時まいじもかう云ふいふ久米くめの夢ゆめを思ひ出しおもひだしたものだつた。
が、松岡まつおかはその時分じぶんから、余りあまり職工しょっこう服ふくとは縁えんのない思想しそうなり心もちこころもちなりを持つもつてゐるらしかつた。
まだ感傷かんしょう癖くせこそ脱しだっしなかつたが、彼かれの中なかには宗教しゅうきょうの匂においのするものが、もうふんだんに磅※してゐた。
彼かれはその東洋とうようとも西洋せいようともつかないイエルサレムいえるされむの建設けんせつをもくろみながらキエルケガアドを愛読あいどくしたり、怪しあやしげな水彩画すいさいがを描いえがいて見みたりした。
当時とうじ彼かれの描いえがいた水彩画すいさいがの一いちつにさかさまにした方ほうが遙はるかに画がらしくなるもののあつたのは、今いまでもよく覚えおぼえてゐる。
その後そのあと松岡まつおかは久米くめが宮裏みやうらへ移るうつると共ともに、本郷ほんごう五丁目ごちょうめへ下宿げしゅくを移しうつした。
さうして今いまでもそこにゐて、釈迦しゃか伝つてから材料ざいりょうを取とりつた三さん幕まく物ものの戯曲ぎきょくを書いかいてゐた。
我々われわれ四よん人ひとは、又また久米くめの手製てせいの珈琲こーひーを啜りすすりながら、煙草たばこの煙けむりの濛々もうもうとたなびく中なかで、盛さかんにいろんな問題もんだいをしやべり合あわせつた。
その頃ころは丁度ちょうど武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ氏しが、将しょうにパルナスぱるなすの頂上ちょうじょうへ立たたたうとしてゐる頃ころだつた。
従じゅうつて我々われわれの間までも、屡しばしば氏しの作品さくひんやその主張しゅちょうが話題わだいに上うえつた。
我々われわれは大抵たいてい、武者小路むしゃのこうじ氏しが文壇ぶんだんの天窓てんまどを開け放つあけはなつて、爽そうな空気くうきを入れいれた事ことを愉快ゆかいに感じかんじてゐるものだつた。
恐らくおそらくこの愉快ゆかいは、氏しの踵かかとに接しせっして来きた我々われわれの時代じだい、或はあるいは我々われわれ以後いごの時代じだいの青年せいねんのみが、特にとくに痛感つうかんした心もちこころもちだらう。
だから我々われわれ以前いぜんと我々われわれ以後いごとでは、文壇ぶんだん及およびそれ以外いがいの鑑賞かんしょう家いえの氏しに対するたいする評価ひょうかの大小だいしょうに、径庭けいていがあつたのは已むやむを得とくない。
それは丁度ちょうど我々われわれ以前いぜんと我々われわれ以後いごとで、田山たやま花袋かたい氏しに対するたいする評価ひょうかが、相違そういするのと同じおなじ事ことである。
(唯ただ、その相違そういの程度ていどが、武者小路むしゃのこうじ氏しと田山たやま氏しとで、どちらが真しんに近いちかいかは疑問ぎもんである。
念ねんの為ために断つたつて置くおくが、自分じぶんが同じおなじ事ことだと云ふいふのは、程度ていどまで含んふくんでゐる心算しんさんぢやない。
)が、当時とうじの我々われわれも、武者小路むしゃのこうじ氏しに文壇ぶんだんのメシヤめしやを見みはしなかつた。
作家さっかとしての氏しを見るみる眼めと、思想家しそうかとしての氏しを見るみる眼めと――この二につの間まには、又また自らみずからな相違そういがあつた。
作家さっかとしての武者小路むしゃのこうじ氏しは、作品さくひんの完成かんせいを期するきする上うえに、余りあまりに性急せいきゅうな憾があつた。
形式けいしきと内容ないようとの不即ふそく不離ふりな関係かんけいは、屡しばしば氏し自身じしんが「雑感ざっかん」の中なかで書いかいてゐるのにも関らかかわらず、忍耐にんたいよりも興奮こうふんに依頼いらいした氏しは、屡しばしば実際じっさいの創作そうさくの上うえでは、この微妙びみょうな関係かんけいを等閑なおざりに附しふして顧みかえりみなかつた。
だから氏しが従来じゅうらい冷眼れいがんに見みてゐた形式けいしきは、「その妹いもうと」以後いご一いち作さく毎まいに、徐々じょじょとして氏しに謀叛むほんを始めはじめた。
さうして氏しの脚本きゃくほんからは、次第しだいにその秀抜しゅうばつな戯曲ぎきょく的まと要素ようそが失はしつはれて、(全くまったくとは云はいはない。
一部いちぶの批評家ひひょうかが戯曲ぎきょくでないやうに云ふいふ「或ある青年せいねんの夢ゆめ」でさへ、一いち齣こま一いち齣こまの上うえで云へいえばやはり戯曲ぎきょく的まとに力強いちからづよい表現ひょうげんを得とくた個所かしょがある。
)氏し自身じしんのみを語るかたる役割やくわりが、己おのれ自身じしんを語るかたる性格せいかくの代りかわりに続々ぞくぞくとしてそこへはいつて来きた。
しかもそこに語らかたられた思想しそうなり感情かんじょうなりは、必然性ひつぜんせいに乏しいとぼしい戯曲ぎきょく的まとな表現ひょうげんを借りかりてゐるだけ、それだけ一層いっそう氏しの「雑感ざっかん」に書かかかれたものより稀薄きはくだつた。
「或ある家庭かてい」の昔むかしから氏しの作品さくひんに親しんしたしんでゐた我々われわれは、その頃ころの――「その妹いもうと」の以後いごのかう云ふいふ氏しの傾向けいこうには、慊らあきたりらない所ところが多さわかつた。
が、それと同時どうじに、又また氏しの「雑感ざっかん」の多くおおくの中なかには、我々われわれの中なかに燃えもえてゐた理想主義りそうしゅぎの火ひを吹いふいて、一時いちじに光焔ひかりほのおを放たはなたしめるだけの大風おおふうのやうな雄々しいおおしい力ちからが潜んひそんでゐる事ことも事実じじつだつた。
往々おうおうにして一部いちぶの批評家ひひょうかは、氏しの「雑感ざっかん」を支持しじすべき論理ろんりの欠陥けっかんを指摘してきする。
が、論理ろんりを待つまつて確めたしかめられたもののみが、真理しんりである事ことを認めるみとめるには、余りあまりに我々われわれは人間的にんげんてきな素質そしつを多量たりょうに持ちもちすぎてゐる。
いや、何なんよりもその人間的にんげんてきな素質そしつの前まえに真面目まじめであれと云ふいふ、それこそ氏しの闡明せんめいした、大いなるおおいなる真理しんりの一いちつだつた。
久しくひさしく自然主義しぜんしゅぎの淤泥おでいにまみれて、本来ほんらいの面目めんぼくを失ししっしてゐた人道じんどうが、あのエマヲえまをのクリストくりすとの如くごとく「日ひ昃きて暮くれに及んおよんだ」文壇ぶんだんに再さい姿すがたを現しあらわした時じ、如何いかがに我々われわれは氏しと共ともに、「われらが心こころ熱しねっし」事ことを感じかんじたらう。
現にげんに自分じぶんの如くごとく世間せけんからは、氏しと全然ぜんぜん反対はんたいの傾向けいこうにある作家さっかの一人ひとりに数すうへられてゐる人間にんげんでさへ、今日きょうも猶なお氏しの「雑感ざっかん」を読み返すよみかえすと、常つねに昔むかしの澎湃ほうはいとした興奮こうふんが、一種いっしゅのなつかしさと共ともに還つて来るくる。
我々われわれは――少くすくなくとも自分じぶんは氏しによつて、「驢馬ろばの子こに乗りのり爾なんじに来るくる」人道じんどうを迎へむかへる為ために、「その衣ころもを途とに布きしき或はあるいは樹きの枝えだを伐りきりて途とに布くしく」先例せんれいを示ししめして貰もらえつたのである。
散々さんざん話はなしをした後あとで、我々われわれは皆みな一しよいっしよに、久米くめの下宿げしゅくを出でた。
それから本郷三丁目ほんごうさんちょうめで成瀬なるせと松岡まつおかとに別れわかれた。
久米くめと自分じぶんとは電車でんしゃで銀座ぎんざへ行つおこなつて、カツフエかつふえ・ライオンらいおんで少しすこし早いはやい晩飯ばんめしをすませてから、ちよいと歌舞伎座かぶきざの立見たちみへはいつた。
はいると新しん狂言きょうげんの二に番目ばんめもので、筋すじは勿論もちろん外題げだいさへ、更にさらに不案内ふあんないなものだつた。
舞台ぶたいには悪くわるく納おさめつた茶室ちゃしつがあつて、造花ぞうかの白梅はくばいが所々ところどころに、貝殻かいがら細工さいくのやうな花はなを綴つづりつてゐた。
さうしてその茶室ちゃしつの縁側えんがわで、今いまの中車ちゅうしゃの侍さむらいが、歌右衛門うたえもんの娘むすめを口説いくどいてゐた。
東京とうきょうの下町したまちに育ちそだちながら、更にさらに江戸えど趣味しゅみなるものに興味きょうみのない自分じぶんは、芝居しばいに対したいしても同様どうように、滅多めったにドラマテイツク・イリユウジヨンは起すおこす事ことが出来できない程ほど、冷淡れいたんに出来でき上うえつた人間にんげんだつた。
(或はあるいは冷淡れいたんにならされた人間にんげんかも知れしれない。
芝居しばいを見るみる事ことは二に歳とし位くらいの頃ころから、よく家いえのものと一しよいっしよに見みた。
)だから芝居しばいより役者やくしゃの芸げいが、役者やくしゃの芸げいよりも土間どま桟敷さじきの見物けんぶつが、余程よほど自分じぶんには面白おもしろかつた。
その時じも自分じぶんの隣となりにゐた、どこかの御店者おたなものらしい、鳥打帽とりうちぼうをかぶつた男おとこが、甘栗あまぐりを食ひくひながら、熱心ねっしんに舞台ぶたいを見みてゐる方ほうが、天下てんかの名優めいゆうよりも興味きょうみがあつた。
この男おとこは熱心ねっしんに舞台ぶたいを見みてゐると云ついつたが、同時どうじに又また甘栗あまぐりもやはり熱心ねっしんに食つくつてゐた。
それが懐ふところへ手てを入れいれたかと思ふおもふと、甘栗あまぐりを一いちつつまみ出しつまみだして、割るわれるが早いはやいか口くちへ入れるいれる、口くちへ入れいれたと思ふおもふと、又また懐ふところへ手てを入れいれて、つまみ出すつまみだすが早いはやいか割わりつて食ふくふ。
しかもその間ま中なか、眼めは終始しゅうし一貫いっかんして、寸分すんぶんも舞台ぶたいを離れはなれない。
自分じぶんはこの視覚しかくと味覚みかくとの敏捷びんしょうな使しひ分けわけに感心かんしんして、暫くしばらくはその男おとこの横顔よこがおばかり眺めながめてゐたが、とうとうしまひに彼かれ自身じしんはどちらを真剣しんけんにやつてゐる心算しんさんだか、尋いきいて見みたいやうな気きがして来きた。
するとその時じ、自分じぶんの側がわで、久米くめがいきなり「橘屋たちばなやあ」と、無鉄砲むてっぽうに大きなおおきな声こえを出しだした。
自分じぶんはびつくりして、思はおもうはず眼めを舞台ぶたいの方ほうへやつた。
見るみると成程なるほど、女おんなをたらすより外そとには何なん等とうの能のうもなささうな羽左衛門うざえもんの若侍わかざむらいが、従容しょうようとして庭にわ伝つてひに歩いあるいて来るくる所ところだつた。
が、隣となりの御店者おたなものは、久米くめの「橘屋たちばなや」も耳みみにはいらないやうに、依然いぜんとして甘栗あまぐりを食ひくひながら、食ひくひつくやうな眼めで舞台ぶたいを眺めながめてゐる。
自分じぶんも今度こんどはその滑稽こっけいさが、笑わらいふには余りあまりに真剣しんけんすぎるやうな気きがして来きた。
さうして又またそこに小説しょうせつめいた心もちこころもちも感じかんじられた。
しかし舞台ぶたいの上うえの芝居しばいは、折角せっかくその「橘屋たちばなや」が御出でおいでになつても、池田いけだ輝方てるかた氏しの画が以上いじょうに俗悪ぞくあくだつた。
自分じぶんはとうとう一幕ひとまくが待ちまち切れきれなくつて、舞台ぶたいが廻めぐるつたのを潮しおに、久米くめをひつぱつて外そとへ出でた。
星月夜ほしつきよの往来おうらいへ出でてから「あんな声こえを出しだして、莫迦ばかだな」と云ついつたが、久米くめは「何なん、あれだつて中々なかなか好いよい声こえだよ」と自慢じまんして容易よういにその愚ぐを認めみとめなかつた。
今いまでもあの時じの事ことを考へるかんがへると、彼かれはカツフエかつふえ・ライオンらいおんで飲んのんだウイスキイういすきいに祟らたたられてゐたものとしか思はおもうはれない。