あの頃の自分の事

四

第 4 章
十一じゅういち月つきもそろそろ末すえにならうとしてゐる或ある晩ばん、成瀬なるせと二人ふたりで帝劇ていげきのフイルふいる・ハアモニイ会かいを聞きききに行つおこなつた。
行つおこなつたら、向うむこうで我々われわれと同じくおなじく制服せいふくを着きた久米くめに遇つた。
その頃ころ自分じぶんは、我々われわれの中なかで一番いちばん音楽おんがく通つうだつた。
と云ふいふのは自分じぶんが一番いちばん音楽おんがく通つうだつた程ほど、それ程ほど我々われわれは音楽おんがくに縁えんが遠いとおい人間にんげんだつたのである。
が、その自分じぶんも無暗むやみに音楽会おんがくかいを聞いきいて歩いあるいただけで、鑑賞かんしょうは元もとより、了解りょうかいする事ことも頗怪しかつた。
先さき一番いちばんよくわかるものは、リストりすとに止めとめをさしてゐた。
何時なんじか帝国ホテルていこくほてるで、あのペツツオルド夫人ふじんと云ふいふお婆ばあさんが、リストりすとのderheiligeAntoniusschreitendaufdenWellen(だと思ふおもふ。
ちがつたら御免ごめんなさい。
)を弾いひいた時じも、そのピアノぴあのの音おとの一いちつ一いちつは、寸刻すんこくも流動りゅうどうして止らとまらない、しかも不思議ふしぎに鮮なすくな画面がめんを、ありありと眼めの前まえへ浮ばうかばせてくれた。
その画面がめんの中なかには、どこを見みても、際限さいげんなく波なみが動いうごいてゐた。
それからその波なみの上うえには、一足いっそく毎まいに波紋はもんを作るつくる人間にんげんの足あしが動いうごいてゐた。
最後さいごにその波なみと足あしとの上うえに、煌々こうこうたる光ひかりがあつて、それが風かぜの中なかの太陽たいようのやうに、眩くまばゆく空中くうちゅうで動いうごいてゐた。
この明いあい幻まぼろしを息いきもつかずに眺めながめてゐた自分じぶんは、演奏えんそうが終おわりつて拍手はくしゅの声こえが起つたつた時じに、音楽おんがくの波動はどうが消えきえてしまつた、空虚くうきょな周囲しゅういの寂しさびしさがしみじみ情なくなさけなく感じかんじられた。
が、こんな事ことは前まえにも云ついつた通りとおり、リストりすとが精々せいぜい行きどまりいきどまりで、ベエトオフエンなどと云ふいふ代物しろものは、好いよいと思へおもへば好いよいやうだし、悪いわるいと思へおもへば悪いわるいやうだし、更にさらに見当けんとうがつかなかつた。
だからフイルふいる・ハアモニイ会かいを聞くきくと云ついつても、一向いっこう芸術家げいじゅつからしくない、怪しあやしげな耳みみをそば立てそばだてて、楽器がっきの森もりから吹いふいて来るくるオオケストラおおけすとらの風かぜの音おとを、漫然まんぜんと聞いきいてゐたのである。
当夜とうやは閑院宮かんいんのみや殿下でんかも御ご臨場りんじょうになつたので、帝劇ていげきのボックスぼっくすや我々われわれのゐるオオケストラおおけすとら・ストオルには、模様もようを着きた奥さんおくさんや御嬢ごじょうさんが大分おおいた方々かたがたに並んならんでゐた。
現にげんに自分じぶんの隣となりなぞにも、白粉おしろいをつけた骨ほねと皮かわばかりの老夫ろうふ人ひとが、金きんの指環ゆびわをはめて金きんの時計とけいの鎖くさりを下げさげて、金きんの帯留おびどめの金物かなものをして、その上うえにもまだ慊らあきたりらず、歯はにも一面いちめんに金きんを入れいれて、(これは欠伸あくびをした時じに見えみえたのである。
)端然たんぜんとして控ひかえへてゐた。
が、前まえに歌舞伎座かぶきざの立見たちみをした時じとは異なつことなつて、今夜こんやは見物けんぶつの紳士しんし淑女しゅくじょより、シオパンしおぱんやシユウベルトの方ほうが面白おもしろかつたから、それ以上いじょう自分じぶんはこの白粉おしろいと金きんとに埋つてゐる老夫ろうふ人ひとに、注意ちゅういを払はらいはなかつた。
尤ももっとも彼女かのじょ自身じしんは、自分じぶんに輪わをかけた、デイスイリユウジヨンそれ自身じしんのやうな豪傑ごうけつだつたと見えみえて、舞台ぶたいの上うえで指揮しき杖つえを振つふるつてゐる山田やまだ耕作こうさく氏しには目めもくれず、頻ひんに周囲しゅういばかりを見廻しみまわしてゐた。
その中なかに山田やまだ夫人ふじんの独唱どくしょうか何なんかで、途中とちゅうの休憩時間きゅうけいじかんになると、我々われわれは三さん人ひと揃つて、二に階かいの喫煙室きつえんしつへ出かけでかけて行つおこなつた。
するとそこの入口いりぐちに、黒いくろい背広せびろの下したへ赤いあかいチヨツキちよつきを着きた、背せの低いひくい人ひとが佇んたたずんで、袴はかま羽織はおりの連れつれと一しよいっしよに金口きんぐちの煙草たばこを吸きゅうつてゐた。
久米くめはその人ひとの姿すがたを見るみると、我々われわれの耳みみへ口くちをつけるやうにして、「谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうだぜ」と教へきょうへてくれた。
自分じぶんと成瀬なるせとはその人ひとの前まえを通りとおりながら、この有名ゆうめいな耽美たんび主義しゅぎの作家さっかの顔かおを、偸むぬすむやうにそつと見みた。
それは動物的どうぶつてきな口くちと、精神的せいしんてきな眼めとが、互たがいに我われを張り合はりあいつてゐるやうな、特色とくしょくのある顔かおだつた。
我々われわれは喫煙室きつえんしつの長椅子ちょういすに腰こしを下しおろして、一いち箱ばこの敷島しきしまを吸きゅうひ合あわせひながら、谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう論ろんを少しすこしやつた。
当時とうじ谷崎たにざき氏しは、在来ざいらい氏しが開拓かいたくして来きた、妖気ようき靉靆あいたいたる耽美たんび主義しゅぎの畠はたけに、「お艶あで殺しころし」の如きごとき、「神童しんどう」の如きごとき、或はあるいは又また「お才おさいと巳之助みのすけ」の如きごとき、文字もじ通りとおり底気味ていきみの悪いわるいFleursduMalを育てそだててゐた。
が、その斑猫はんみょうのやうな色いろをした、美しいうつくしい悪わるの花はなは、氏しの傾倒けいとうしてゐるポオぽおやボオドレエルぼおどれえると、同じおなじ荘厳そうごんな腐敗ふはいの香こうを放ちはなちながら、或ある一いち点てんでは彼かれ等とうのそれと、全くまったく趣おもむきが違いつてゐた。
彼かれ等とうの病的びょうてきな耽美たんび主義しゅぎは、その背景はいけいに恐るおそる可きべき冷酷れいこくな心こころを控ひかえへてゐる。
彼かれ等とうはこのごろた石ごろたいしのやうな心こころを抱いいだいた因果いんがに、嫌いやでも道徳どうとくを捨てすてなければならなかつた。
嫌いやでも神かみを捨てすてなければならなかつた。
さうして又また嫌いやでも恋愛れんあいを捨てすてなければならなかつた。
が、彼かれ等とうはデカダンスでかだんすの古沼こぬまに身みを沈めしずめながら、それでも猶なおこの仕末しまつに了りょうへない心こころと――の心こころと睨みにらみ合あわせつてゐなければならなかつた。
だから彼かれ等とうの耽美たんび主義しゅぎは、この心こころに劫こうかされた彼かれ等とうの魂たましいのどん底どんぞこから、やむを得とくずとび立つとびたつた蛾がの一いち群だつむらだつた。
従じゅうつて彼かれ等とうの作品さくひんには、常つねに と云ふいふせつぱつまつた嘆声たんせいが、瘴気しょうきの如くごとく纏綿てんめんしてゐた。
我々われわれが彼かれ等とうの耽美たんび主義しゅぎから、厳粛げんしゅくな感激かんげきを浴びせあびせられるのは、実じつにこの「地獄じごくのドンどん・ジユアン」のやうな冷酷れいこくな心こころの苦しみくるしみを見せつけみせつけられるからである。
しかし谷崎たにざき氏しの耽美たんび主義しゅぎには、この動きうごきのとれない息苦しいきぐるしさの代りかわりに、余りあまりに享楽的きょうらくてきな余裕よゆうがあり過ぎすぎた。
氏しは罪悪ざいあくの夜よる光虫こうちゅうが明滅めいめつする海うみの上うえを、まるでエル・ドラドえる・どらどでも探しさがして行くいくやうな意気込みいきこみで、悠々ゆうゆうと船ふねを進めすすめて行つおこなつた。
その点てんが氏しは我々われわれに、氏しの寧ねい軽蔑けいべつするゴオテイエを髣髴ほうふつさせる所以ゆえんだつた。
ゴオテイエの病的びょうてき傾向けいこうは、ボオドレエルぼおどれえるのそれとひとしく世紀末せいきまつの色彩しきさいは帯びおびてゐても、云はいはば活力かつりょくに満ちみちた病的びょうてき傾向けいこうだつた。
更にさらに洒落れしゃれて形容けいようすれば、宝石ほうせきの重みおもみを苦くにしてゐる、肥満ひまんしたサルタンさるたんの病的びょうてき傾向けいこうだつた。
だから彼かれには谷崎たにざき氏しと共ともに、ポオぽおやボオドレエルぼおどれえるに共通きょうつうする切迫せっぱくした感じかんじが欠けかけてゐた。
が、その代りかわりに感覚かんかく的まとな美びを叙述じょじゅつする事ことにかけては、滾々こんこんとして百里ひゃくりの波なみを飜はんす河かわのやうな、驚くおどろく可きべき雄弁ゆうべんを備へそなへてゐた。
(最近さいきん広津ひろつ和郎かずお氏しが谷崎たにざき氏しを評しひょうして、余りあまり健康けんこうなのを憾とすると云ついつたのは、この活力かつりょくに満ちみちた病的びょうてき傾向けいこうを指摘してきしたものだらうと思ふおもふ。
が、如何にいかに活力かつりょくに溢れあふれてゐても、脂肪しぼう過多症かたしょうの患者かんじゃが存在そんざいし得るうる限りかぎり、やはり氏しのそれは病的びょうてき傾向けいこうに相違そういない。
)さうして此これの耽美たんび主義しゅぎに慊らあきたりらなかつた我々われわれも、流石さすがにその非凡ひぼんな力ちからを認めみとめない訳わけに行かいかなかつたのは、この滔々とうとうたる氏しの雄弁ゆうべんである。
氏しはありとあらゆる日本語にっぽんごや漢語かんごを浚ひ出しだして、ありとあらゆる感覚かんかく的まとな美びを(或はあるいは醜しゅうを)、「刺青しせい」以後いごの氏しの作品さくひんに螺鈿らでんの如くごとく鏤めちりばめて行つおこなつた。
しかもその氏しの は、朗々ろうろうたるリズムりずむの糸いとで始はじめから終おわりまで、見事みごとにずつと貫かつらぬかれてゐた。
自分じぶんは今日きょうでも猶なお、氏しの作品さくひんを読むよむ機会きかいがあると、一いち字じ一句いっくの意味いみよりも、寧ねいその流れながれて尽きつきない文章ぶんしょうのリズムりずむから、半ばなかば生理的せいりてきな快感かいかんを感じるかんじる事ことが度々たびたびある。
ここに至るいたるとその頃ころも、氏しはやはり今いまの如くごとく、比類ひるいない語ごの織物おりもの師しだつた。
たとひ氏しは暗澹あんたんたる文壇ぶんだんの空そらに、「恐怖きょうふの星ほし」はともさなかつたにしても、氏しの培つた斑猫はんみょう色いろの花はなの下したには、時じならない日本にっぽんの魔女まじょのサバトさばとが開かひらかれたのである。
―― やがて又また演奏えんそうの始まりはじまりを知らしらせる相図あいずのベルべると共ともに、我々われわれは谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう論ろんを切り上げきりあげて、下したの我々われわれの席せきへ帰つかえつた。
帰るかえる途中とちゅうで久米くめが、「一体いったい君きみは音楽おんがくがわかるのかい」と云ふいふから、「隣となりの金きんと骨ほねと皮かわと白粉おしろいとよりはわかりさうだ」と答へこたえへた。
それから又またその老夫ろうふ人ひとの隣となりへ腰こしを下しおろして、シヨルツ氏しのピアノぴあのを聞いきいた。
確かく、シオパンしおぱんのノクテユルヌとか何なんとか云ふいふものだつたと思ふおもふ。
シモンズしもんずと云ふいふ男おとこは、子供こどもの時じにシオパンしおぱんの葬式そうしきの行進曲こうしんきょくを聞いきいて、ちやんとわかつたと広告こうこくして居るいるが、自分じぶんはシヨルツ氏しの器用きように動くうごく指ゆびを眺めながめながら、年齢ねんれいの差さを勘定かんじょうに入れいれないでも、この点てんではシモンズしもんずに到底とうてい及ばおよばないと観念かんねんした。
そのあとは何なんがあつたか、もう今いまは覚えおぼえてゐない。
が、会かいが終おわりつて外そとへ出でたら、車寄くるまよせのまはりに馬車ばしゃや自働じどう車くるまが、通りぬけとおりぬけられない程ほど沢山たくさん並んならんでゐた。
さうしてその中なかの一いちつの自働じどう車くるまには、あの金きんと白粉おしろいとの老夫ろうふ人ひとが毛皮けがわに顔かおを埋めうめながら、乗らのらうとしてゐる所ところだつた。
我々われわれは外套がいとうの襟えりを立てたてて、その間まをやつと風かぜの寒いさむい往来おうらいへ出でた。
ふと見るみると、我々われわれの前まえには、警視けいし庁ちょうの殺風景さっぷうけいな建物たてものが、黒くくろく空そらを衝いついて聳えそびえてゐた。
自分じぶんは歩きあるきながら、何なんだかそこに警視けいし庁ちょうのある事ことが不安ふあんになつた。
で、思はおもうはず「妙みょうだな」と云ついつたら、成瀬なるせが「何なんが?」と聞き咎めききとがめた。
自分じぶんはいやとか何なんとか云ついつて、好いよい加減かげんに返事へんじを胡麻化しごまかした。
その時じはもう我々われわれの左右さゆうを、馬車ばしゃや自働じどう車くるまが盛んさかんに通りとおりすぎてゐた。