文芸の哲学的基礎

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その一方を代表なさる諸君が文学の方面にも一種の興味をもたれて、われわれのような不調法ものの講話を御参考に供して下さるのは、この両者の接触上から見て、諸君の前に卑見を開陳すべき第一の機会を捕えた私は多大の名誉と感ずる次第であります。できない演説を無理にやるのは全くこのためで、やりつけないものを受け合ったからと云って、けっして恩に着せる訳ではありません。全く大なる光栄と心得てここへ出て来たのである。が繰返して云う通り、演説はできず講義としては纏まらず、定めて聞苦しい事もあるだろうと思います。その辺はあらかじめ御容赦を願います。

第 1 章
まずこれからそろそろやり始めはじめます。
やり始めはじめますよと断ることわると何なんだかえらそうに聞えるきこえるが、その実じつは何なんでもない。
ここに三四さんよん頁ぺーじばかり書いかいたノートのーとがあります。
これから御ご話はなしをする事ことはこの三四さんよん頁ぺーじの内容ないように過ぎんすぎんのでありますからすらすらとやってしまうと十五じゅうご分ぶんくらいですぐすんでしまう。
いくらついでにする演説えんぜつでもそれではあまり情ないなさけない。
からこの三四さんよん頁ぺーじを口くちから出まかせでまかせに敷衍ふえんして進行しんこうして行きいきます。
敷衍ふえんしかたをあらかじめ考えかんがえていないから、どこをどっちへ敷衍ふえんするか分らわからない。
時じによると飛んとんだ寄り道よりみちをして、出るでる所ところへも出でられず、帰るかえる所ところへも帰れかえれないかも知れしれないと云ういうすこぶる心細いこころぼそい敷衍ふえん法ほうを用いもちいます。
のみならず冒頭ぼうとうが何なんだか訳わけの分らわからない事ことから始まるはじまるかも知れしれないから、けっして驚いおどろいてはいけません。
いずれ結末けつまつには美術びじゅつとか文学ぶんがくとか御ご互たがいに縁えんの深いぶかい方面ほうめんへずり落ちずりおちて行くいく事ことと安心あんしんして聴いきいていただきたい。
――ただいま正木まさき会長かいちょうの御ご演説えんぜつ中なかに市し気き匠気しょうきと云ういう語ごがありましたが、私わたくしの御ご話はなしも出立しゅったつ地ちこそぼうっとして何なんとなく稀有けうの思おもうはあるが、落ち行くおちゆく先さきはと云ういうと、これでも会長かいちょうといっしょに市し気き匠気しょうきまで行くいくつもりであります。
まず――私わたくしはここに立ったっております。
そうしてあなた方ほうはそこに坐っすわっておられる。
私わたくしは低いひくい所ところに立ったっている、あなた方ほうは高いたかい所ところに坐っすわっておられる、かように私わたくしが立ったっているという事ことと、あなた方ほうが坐っすわっておらるると云ういう事ことが――事実じじつであります。
この事実じじつと云ういうのを他ほかの言葉ことばで現しあらわして見ようみようならば、私わたくしは我われと云ういうもの、あなた方ほうは私わたくしに対したいして私わたくし以外いがいのものと云ういう意味いみであります。
もっとむずかしい表現ひょうげん法ほうを用いるもちいると物我ぶつが対立たいりつと云ういう事実じじつであります。
すなわち世界せかいは我われと物ものとの相待そうたいの関係かんけいで成立せいりつしていると云ういう事ことになる。
あなた方ほうも定めさだめてそう思わおもわれるでありましょう、私わたくしもそう思うおもうております。
誰だれしもそう心得こころえているのである。
それから私わたくしが、こうやってここに立ったっており、あなた方ほうが、そうして、そこに坐っすわってござると、その間まに距離きょりというものがある。
一間いちけんの距離きょりとか、二に間まの距離きょりとかあるいは十じゅう間ま二十にじゅう間ま――この講堂こうどうの大きさおおきさはどのくらいありますか――とにかく幾いく坪つぼかの広がりひろがりがあって、その中なかに私わたくしが立ったっており、その中なかにあなた方ほうが坐っすわっていることになる。
この広がりひろがりを空間くうかんと申しもうします。
(申さもうさなくっても御承知ごしょうちである)つまりはスペースすぺーすと云ういうものがあって、万物ばんぶつはその中なかに、各かく、ある席せきを占めしめている。
次つぎに今日きょうの演説えんぜつは一時いちじから始まりはじまります。
そうしていつ終るおわるか分りわかりませんが、まあいつか終るおわるでしょう。
大概たいがいは日ひが暮れるくれる前まえに終るおわる事ことと思いおもいます。
私わたくしがこうやって好よしみ加減かげんな事ことをしゃべって、それが済むすむとあとから、上田うえださんが代っかわってまた面白いおもしろい講話こうわがある。
それから散会さんかいとなる。
私わたくしの講話こうわも、上田うえださんの演説えんぜつも皆みな経過けいかする事件じけんでありまして、この経過けいかは時間じかんと云ういうものがなければ、どうしても起るおこる訳わけに参りまいりません。
これも明暸めいりょうな事ことで別段べつだん改めてあらためて申上げるもうしあげる必要ひつようはない。
最後さいごに、なぜ私わたくしがここにこうやって出でて来きて、しきりに口くちを動かしうごかしているかと云えいえば、これは酔狂すいきょうや物もの数奇すうきで飛出しとびだして来きたと思わおもわれては少しすこし迷惑めいわくであります。
そこにはそれ相当そうとうな因縁いんねん、すなわち先刻せんこく申上げもうしあげた大村おおむら君きみの鄭重ていちょうなる御ご依頼いらいとか、私わたくしの安あん受合うけあいとか、受合っうけあったあとの義務ぎむ心こころとか、いろいろの因縁いんねんが和合わごうしたその結果けっかかくのごとくフロックコートふろっくこーとを着きて参りまいりました。
この関係かんけいを(人事じんじ、自然しぜんに通じつうじて)因果いんがの法則ほうそくと称えとなえております。
すると、こうですな。
この世界せかいには私わたくしと云ういうものがありまして、あなた方ほうと云ういうものがありまして、そうして広いひろい空間くうかんの中なかにおりまして、この空間くうかんの中なかで御ご互たがいに芝居しばいをしまして、この芝居しばいが時間じかんの経過けいかで推移すいいして、この推移すいいが因果いんがの法則ほうそくで纏めまとめられている。
と云ういうのでしょう。
そこでそれにはまず私わたくしと云ういうものがあると見みなければならぬ、あなた方ほうがあると見みなければならぬ。
空間くうかんというものがあると見みなければならぬ。
時間じかんと云ういうものがあると見みなければならぬ。
また因果いんがの法則ほうそくと云ういうものがあって、吾人ごじんを支配しはいしていると見みなければならん。
これは誰だれも疑ううたがうものはあるまい。
私わたくしもそう思うおもう。
ところがよくよく考えかんがえて見るみると、それがはなはだ怪しいあやしい。
よほど怪しいあやしい。
通俗つうぞくには誰だれもそう考えかんがえている。
私わたくしも通俗つうぞくにそう考えかんがえている。
しかし退いしりぞいて不ふ通俗つうぞくに考えかんがえて見るみるとそれがすこぶるおかしい。
どうもそうでないらしい。
なぜかと云ういうと元来がんらいこの私わたくしと云ういう――こうしてフロックコートふろっくこーとを着きて高こう襟えりをつけて、髭ひげを生やしはやして厳然げんぜんと存在そんざいしているかのごとくに見えるみえる、この私わたくしの正体しょうたいがはなはだ怪しいあやしいものであります。
フロックふろっくも高こう襟えりも目めに見えるみえる、手てに触れるふれると云ういうまでで自分じぶんでないにはきまっている。
この手て、この足あし、痒いかゆいときには掻きかき、痛いいたいときには撫でるなでるこの身体しんたいが私わたくしかと云ういうと、そうも行かいかない。
痒いかゆい痛いいたいと申すもうす感じかんじはある。
撫でるなでる掻くかくと云ういう心持ちこころもちはある。
しかしそれより以外いがいに何になんにもない。
あるものは手てでもない足あしでもない。
便宜べんぎのために手てと名づけなづけ足あしと名づけるなづける意識いしき現象げんしょうと、痛いいたい痒いかゆいと云ういう意識いしき現象げんしょうであります。
要するようするに意識いしきはある。
また意識いしきすると云ういう働きはたらきはある。
これだけはたしかであります、これ以上いじょうは証明しょうめいする事ことはできないが、これだけは証明しょうめいする必要ひつようもないくらいに炳乎へいことして争うあらそうべからざる事実じじつであります。
して見るみると普通ふつうに私わたくしと称ししょうしているのは客観的きゃっかんてきに世の中よのなかに実在じつざいしているものではなくして、ただ意識いしきの連続れんぞくして行くいくものに便宜上べんぎじょう私わたくしと云ういう名なを与えあたえたのであります。
何なんが故こに平地へいちに風波ふうはを起しおこして、余計よけいな私わたくしと云ういうものを建立こんりゅうするのが便宜べんぎかと申すもうすと、「私わたくし」と、一いちたび建立こんりゅうするとその裏うらには、「あなた方ほう」と、私わたくし以外いがいのものも建立こんりゅうする訳わけになりますから、物我ぶつがの区別くべつがこれでつきます。
そこがいらざる葛藤かっとうで、また必要ひつような便宜べんぎなのであります。
こう云ういうと、私わたくしは自分じぶん(普通ふつうに云ういう自分じぶん)の存在そんざいを否定ひていするのみならず、かねてあなた方ほうの存在そんざいをも否定ひていする訳わけになって、かように大勢おおぜい傍聴ぼうちょうしておられるにもかかわらず、有れあれども無きなきがごとくではなはだ御ご気の毒きのどくの至りいたりであります。
御腹おなかも御ご立ちたちになるでしょうが、根本的こんぽんてきの議論ぎろんなのだから、まず議論ぎろんとして御ご聴きききを願いねがいたい。
根本的こんぽんてきに云ういうと失礼しつれいな申さる条じょうだがあなた方ほうは私わたくしを離れはなれて客観的きゃっかんてきに存在そんざいしてはおられません。
――私わたくしを離れはなれてと申しもうしたが、その私わたくしさえいわゆる私わたくしとしては存在そんざいしないのだから、いわんやあなた方ほうにおいてをやであります。
いくら怒らおこられても駄目だめであります。
あなた方ほうはそこにござる。
ござると思っおもってござる。
私わたくしもまあちょっとそう思っおもっています。
います事ことは、いますがただかりにそう思っおもって差し上げるさしあげるまでの事ことであります。
と云ういうものは、いくらそれ以上いじょうに思っおもって上げあげたくてもそれだけの証拠しょうこがないのだから仕方しかたがありません。
普通ふつうに物ものの存在そんざいを確めるたしかめるにはまず眼めで見みますかね。
眼めで見みた上うえで手てで触れふれて見るみる。
手てで触れふれたあとで、嗅いかいでみる、あるいは舐めなめてみる。
――あなた方ほうの存在そんざいを確めるたしかめるにはそれほど手数てすうはかからぬかも知れしれぬが。
けれども前まえにも申しもうした通りとおり眼めで見ようみようが、耳みみできこうが、根本的こんぽんてきに云えいえば、ただ視覚しかくと聴覚ちょうかくを意識いしきするまでで、この意識いしきが変じへんじて独立どくりつした物ものとも、人ひとともなりよう訳わけがない。
見るみるときに触るさわるるときに、黒いくろい制服せいふくを着きた、金きん釦ぼたんの学生がくせいの、姿すがたを、私わたくしの意識いしき中なかに現象げんしょうとしてあらわし来るくると云ういうまでに過ぎすぎないのであります。
これを外そとにしてあなた方ほうの存在そんざいと云ういう事実じじつを認めるみとめることができようはずがない。
すると煎じ詰めせんじつめたところが私わたくしもなければ、あなた方ほうもない。
あるものは、真しんにあるものは、ただ意識いしきばかりである。
金きん釦ぼたんが眼めに映ずるえいずる、金きん釦ぼたんを意識いしきする。
講堂こうどうの天井てんじょうが黒くくろくなっている、その黒いくろい所ところを意識いしきする。
――これは悪口わるぐちではありません。
美術びじゅつ学校がっこうの天井てんじょうが黒いくろいと云ういうのではない、ただ黒いくろいと意識いしきするので、客観的きゃっかんてき存在そんざいは認めみとめておらん悪口わるぐちだから構わかまわないでしょう。
まずこれだけの話はなしであります。
すると通俗つうぞくの考えかんがえを離れはなれて物我ぶつがの世界せかいを見みたところでは、物ものが自分じぶんから独立どくりつして現存げんそんしていると云ういう事ことも云えいえず、自分じぶんが物ものを離れはなれて生存せいぞんしていると云ういう事ことも申さもうされない。
換言かんげんして見るみると己おのれを離れはなれて物ものはない、また物ものを離れはなれて己おのれはないはずとなりますから、いわゆる物我ぶつがなるものは契合けいごう一致いっちしなければならん訳わけになります。
物我ぶつがの二に字じを用いるもちいるのはすでに分りわかりやすいためにするのみで、根本こんぽん義ぎから云ういうと、実じつはこの両面りょうめんを区別くべつしようがない、区別くべつする事ことができぬものに一致いっちなどと云ういう言語げんごも必要ひつようではないのであります。
だからただ明かあきらかに存在そんざいしているのは意識いしきであります。
そうしてこの意識いしきの連続れんぞくを称ししょうして俗ぞくに命いのちと云ういうのであります。
連続れんぞくと云ういう字じを使用しようする以上いじょうは意識いしきが推移すいいして行くいくと云ういう意味いみを含んふくんでおって、推移すいいと云ういう意味いみがある以上いじょうは(一いち)意識いしきに単位たんいがなければならぬと云ういう事ことと(二に)この単位たんいが互たがいに消長しょうちょうすると云ういう事ことと(三さん)は消長しょうちょうが分明ふんみょうであるくらいに単位たんい意識いしきが明暸めいりょうでなければならぬと云ういう事ことと(四よん)意識いしきの推移すいいがある法則ほうそくに支配しはいせらるるやと云ういう事ことになりますから、問題もんだいがよほど込入っこみいって来きますが、今いまはそんな面倒めんどうな事ことを御ご話はなしする場合ばあいでないから、諸君しょくんの御ご研究けんきゅうに一任いちにんする事こととして講話こうわを進めすすめます。
もっとも今いま申しもうした四よんカ条かじょうのうち、意識いしき推移すいいの原則げんそくについては私わたくしの「文学ぶんがく論ろん」の第だい五ご篇へんに不完全ふかんぜんながら自分じぶんの考えかんがえだけは述べのべておきましたから、御ご参考さんこうを願いねがいたいと思いおもいます。
ついでに「文学ぶんがく論ろん」も一部いちぶずつ御ご求めもとめを願いねがいたいと思いおもいます。
――とにかく意識いしきがある。
物ものもない、我われもないかも知れしれないが意識いしきだけはたしかにある。
そうしてこの意識いしきが連続れんぞくする。
なぜ連続れんぞくするかは哲学的てつがくてきにまたは進化しんか的まとに説明せつめいがつくにしても、つかぬにしても連続れんぞくするのはたしかであるから、これを事実じじつとして歩あゆみを進めすすめて行くいく。
そこでちょっと留まっとまって、この講話こうわの冒頭ぼうとうを顧みるかえりみると少々しょうしょう妙みょうであります。
最初さいしょには私わたくしと云ういうものがあると申しもうしました。
あなた方ほうもたしかにおいでになると申しもうしました。
そうして、御ご互たがいに空間くうかんと云ういう怪しいあやしいものの中なかに這入りはいり込んこんで、時間じかんと云ういう分らわからぬものの流れながれに棹さしさおさして、因果いんがの法則ほうそくと云ういう恐ろしいおそろしいものに束縛そくばくせられて、ぐうぐう云っいっていると申しもうしました。
ところが不ふ通俗つうぞくに考えかんがえた結果けっかによるとまるで反対はんたいになってしまいました。
物我ぶつがなどと云ういう関門かんもんは最初さいしょからない事ことになりました。
天地てんちすなわち自己じこと云ういうえらい事ことになりました。
いつの間まにこう豹変ひょうへんしたのか分らわからないが、全くまったく矛盾むじゅんしてしまいました。
(空間くうかん、時間じかん、因果律いんがりつもやはりこの豹変ひょうへんのうちに含んふくんでいます。
それは講話こうわの都合つごうで後廻しあとまわしにしましたから、今いまにだんだんわかります) なぜこんな矛盾むじゅんが起っおこったのだろうか。
よく考えるかんがえると何になんにもないのに、通俗つうぞくでは森羅万象しんらばんしょういろいろなものが掃蕩そうとうしても掃蕩そうとうしきれぬほど雑然ざつぜんとして宇宙うちゅうに充みつる※している。
戸張とばり君きみではないが天地てんち前まえにあり、竹たけ風かぜここにありと云いいいたくなるくらいであります。
――なぜこんな矛盾むじゅんが起っおこったのであろうか。
これはすこぶる大おお問題もんだいである。
面倒めんどうにむずかしく論じろんじて来きたら大分おおいた暇ひまがかかりましょう。
私わたくしは必要ひつよう上うえ、ごく粗末そまつなところを、はなはだ短いみじかい時間じかん内うちに御ご話はなしするのであるから、無論むろん豪いえらい哲学者てつがくしゃなどが聞いきいておられたら、不完全ふかんぜんだと云っいって攻撃こうげきせられるだろうと思いおもいます。
しかしこの短いみじかい時間じかん内うちに、こんな大袈裟おおげさな問題もんだいを片づけるかたづけるのだから、無論むろん完全かんぜんな事ことを云ういうはずがない、不完全ふかんぜんは無論むろん不完全ふかんぜんだが、あの度胸どきょうが感心かんしんだと賞めほめていただきたい。
もっとも時間じかんは幾らいくらでも与えるあたえるから、もっと立派りっぱに言えいえと注文ちゅうもんされても私わたくしの手際てぎわでは覚束ないおぼつかないかも知れしれない。
まあちょうどよいのです。
どうして、こんな矛盾むじゅんが起るおこるかと云ういう問題もんだいに対したいして、ただ一口ひとくちに説明せつめいしてしまえば訳わけはない。
前まえに申すもうす通りとおり吾々われわれの生命せいめいは――吾々われわれと云ういうと自他じたを樹立じゅりつする語弊ごへいはあるがしばらく便宜べんぎのために使用しようします――吾々われわれの生命せいめいは意識いしきの連続れんぞくであります。
そうしてどういうものかこの連続れんぞくを切断せつだんする事ことを欲しほしないのであります。
他ほかの言葉ことばで云ういうと死ぬしぬ事ことを希望きぼうしないのであります。
もう一いちつ他ほかの言葉ことばで云ういうとこの連続れんぞくをつづけて行くいく事ことが大好きだいすきなのであります。
なぜ好むこのむかとなると説明せつめいはできない。
誰だれが出でて来きても説明せつめいはできない。
ただそれが事実じじつであると認めるみとめるよりほかに道みちはない。
もちろん進化論しんかろん者ものに云わいわせるとこの願望がんぼうも長いながい間まに馴致じゅんち発展はってんし来きったのだと幾分いくぶんかその発展はってんの順序じゅんじょを示すしめす事ことができるかも知れしれない。
と云ういうものはそんな傾向けいこうをもっておらないようなもの、その傾向けいこうに応じおうじて世の中よのなかに処ししょして来きなかったものは皆みな死んしんでしまったので、今いま残っのこっているやつは命いのちの欲しいほしい欲張りよくばりばかりになったのだと論ずるろんずる事こともできるからであります。
御ご互たがいのように命いのちについては極めてきわめて執着しゅうちゃくの多いおおい、奇麗きれいでない、思い切りおもいきりのわるい連中れんちゅうが、こうしてぴんぴんしているような訳わけかも知れしれません。
これでも多少たしょうの説明せつめいにはなります。
しかしもっと進んすすんでこの傾向けいこうの大おお原因げんいんを極めようきわめようとすると駄目だめであります。
万まん法一ほういちに帰すきす、一いちいずれの所ところにか帰すきすというような禅学ぜんがくの公案こうあん工夫くふうに似にたものを指定していしなければならんようになります。
ショペンハウワーと云ういう人ひとは生なま欲よくの盲動もうどう的まと意志いしと云ういう語ごでこの傾向けいこうをあらわしております。
まことに重宝ちょうほうな文句もんくであります。
私わたくしもちょっと拝借はいしゃくしようと思うおもうのですが、前まえに述べのべた意識いしきの連続れんぞく以外いがいにこんな変へん挺ちょうなものを建立こんりゅうすると、意識いしきの連続れんぞく以外いがいに何になんにもないと申しもうした言質げんちに対したいして申訳もうしわけが立ちたちませんから、残念ざんねんながらやめに致しいたして、この傾向けいこうは意識いしきの内容ないようを構成こうせいしている一部分いちぶぶんすなわち属性ぞくせいと見做しみなしてしまいます。
そうして「この傾向けいこう」と云ういうような概念がいねんは抽象ちゅうしょうの結果けっか、よほど発達はったつした後あとに「この傾向けいこう」として放出ほうしゅつしたものと認めるみとめるのであります。
それは、ともかくも「吾人ごじんは意識いしきの連続れんぞくを求めるもとめる」と云ういう事ことだけを事実じじつとして受けとらうけとらねばならぬのであります。
もっと明暸めいりょうに云ういうと「意識いしきには連続的れんぞくてき傾向けいこうがある」と云い切っいいきってこれを事実じじつとして受けとるうけとるのであります。
意識いしきと云いいい、連続れんぞくと云いいい、連続的れんぞくてき傾向けいこうと云ういうとそのうちに意識いしきの分化ぶんかと云ういう事ことと統一とういつと云ういう事ことは自然しぜんと含まっふくまっております。
すでに連続れんぞくとある以上いじょうは甲こうと乙おつと連続れんぞくしたと云ういう事実じじつを意識いしきせねばならぬ、すなわち甲こうと乙おつと差別さべつがつくほどに両りょう意識いしきが明暸めいりょうでなければなりません。
差別さべつがつくと云ういうのは、同時どうじに同じおなじ意識いしきもしくは類似るいじの意識いしきを統一とういつし得るうると云ういう意味いみと同じおなじ事ことになります。
例えたとえてみれば視覚しかくとなづける意識いしきは、分化ぶんかの結果けっか、触覚しょっかくや味覚みかくと差別さべつがつくと、同時どうじにあらゆる視覚的しかくてき意識いしきを統一とういつする事ことができて始めてはじめてできる言語げんごであります。
意識いしきにこれだけの分化ぶんか作用さようができて、その分化ぶんかした意識いしきと、眼球がんきゅうと云ういう器械きかいを結びつけむすびつけて、この種しゅの意識いしきは眼球がんきゅうが司どるつかさどるのだと思いつくおもいつく。
しばらく視覚しかくの意識いしきと眼球がんきゅうの作用さようを混同こんどうして云ういうと、昔むかしし分化ぶんか作用さようの行わおこなわれぬうちは視力しりょくは必ずかならずしも眼球がんきゅうに集中しゅうちゅうしておらなかったろう。
私わたくしも遠いとおい昔むかしでは、からだ全体ぜんたいで物ものを見みていたかも知れしれぬ、あるいは背中せなかで物ものを舐めなめていたかも知れしれぬ。
眼め耳鼻じび舌したと分業ぶんぎょうが行わおこなわれ出しだしたのは、つい近頃ちかごろの事ことであると思いおもいます。
こう分業ぶんぎょうが行わおこなわれだすと融通ゆうずうが利かりかなくなります。
ちょっと舌癌ぜつがんにかかったからと云ういうて踵かかとで飯めしを食うくう訳わけには行かいかず、不幸ふこうにして痳疾りんしつを患いわずらいたからと申しもうして臍へそで用ようを弁ずるべんずる事ことができなくなりました。
はなはだ不都合ふつごうであります。
しかし意識いしきの連続れんぞくと云ういう以上いじょうは、――連続れんぞくの意義いぎが明暸めいりょうになる以上いじょうは、――連続れんぞくを形かたちちづくる意識いしきの内容ないようが明暸めいりょうでなければならぬはずであります。
明暸めいりょうでない意識いしきは連続れんぞくしているか、連続れんぞくしていないか判然はんぜんしない。
つまり吾人ごじんの根本的こんぽんてき傾向けいこうに反するはんする。
否いな意識いしきそのものの根本的こんぽんてき傾向けいこうに反するはんするのであります。
意識いしきの分化ぶんかと統一とういつとはこの根本的こんぽんてき傾向けいこうから自然しぜんと発展はってんして参りまいります。
向後こうごどこまで分化ぶんかと統一とういつが行わおこなわれるかほとんど想像そうぞうがつかない。
しかしてこれに応ずるおうずる官能かんのうもどのくらい複雑ふくざつになるか分りわかりません。
今日きょうでは目めに見えみえぬもの、手てに触れるふれる事ことのできぬもの、あるいは五感ごかん以上いじょうに超然ちょうぜんたるものがしだいに意識いしきの舞台ぶたいに上るのぼる事ことであろうと思いおもいますから、まず気きを長くながくして待っまっていたらよかろうと思いおもいます。
もう一遍いちぺん繰返しくりかえして「意識いしきの連続れんぞく」と申しもうします。
この句くを割っわりって見るみると意識いしきと云ういう字じと連続れんぞくと云ういう字じになります。
こうして意識いしきの内容ないようのいかんと、この連続れんぞくの順序じゅんじょのいかんと二につに分れわかれて問題もんだいは提起ていきされる訳わけであります。
これを合すれがっすれば、いかなる内容ないようの意識いしきをいかなる順序じゅんじょに連続れんぞくさせるかの問題もんだいに帰着きちゃくします。
吾人ごじんがこの問題もんだいに逢着ほうちゃくしたとき――吾人ごじんは必ずかならずこの問題もんだいに逢着ほうちゃくするに相違そういない。
意識いしき及およびその連続れんぞくを事実じじつと認めるみとめる裏うらにはすでにこの問題もんだいが含まふくまれております。
そうしてこの問題もんだいの裏面りめんには選択せんたくと云ういう事ことが含まふくまれております。
ある程度ていどの自由じゆうがない以上いじょうは、また幾分いくぶんか選択せんたくの余裕よゆうがないならばこの問題もんだいの出ようでようはずがない。
この問題もんだいが出るでるのはこの問題もんだいが一通りひととおり以上いじょうに解決かいけつされ得るうるからである。
この解決かいけつの標準ひょうじゅんを理想りそうというのであります。
これを纏めまとめて一口ひとくちに云ういうと吾人ごじんは生きいきたいと云ういう傾向けいこうをもっている。
(意識いしきには連続的れんぞくてき傾向けいこうがあると云ういう方ほうが明確めいかくかも知れしれぬが)この傾向けいこうからして選択せんたくが出るでる。
この選択せんたくから理想りそうが出るでる。
すると今までいままではただ生きれいきればいいと云ういう傾向けいこうが発展はってんして、ある特別とくべつの意義いぎを有するゆうする命いのちが欲しくほしくなる。
すなわちいかなる順序じゅんじょに意識いしきを連続れんぞくさせようか、またいかなる意識いしきの内容ないようを選ぼうえらぼうか、理想りそうはこの二につになって漸々ぜんぜんと発展はってんする。
後あとに御ご話はなしをする文学者ぶんがくしゃの理想りそうもここから出でて参るまいるのであります。
次つぎに連続れんぞくと云ういう字義じぎをもう一遍いちぺん吟味ぎんみしてみますと、前まえにも申すもうす通りとおり、ははあ連続れんぞくしている哩と相互そうごの区別くべつができるくらいに、連続れんぞくしつつある意識いしきは明暸めいりょうでなければならぬはずであります。
そうして、かように区別くべつし得るうる程度ていどにおいて明暸めいりょうなる意識いしきが、新陳代謝しんちんたいしゃすると見るみると、甲こうが去っさって乙おつが来るくると云ういう順序じゅんじょがなければならぬはずであります。
順序じゅんじょがあるからには甲乙こうおつが共ともに意識いしきせられるのではない。
甲こうが去っさった後あとで、乙おつを意識いしきするのであるから、乙おつを意識いしきしているときはすでに甲こうは意識いしきしておらん訳わけです。
それにもかかわらず甲こうと乙おつとを区別くべつする事ことができるならば、明暸めいりょうなる乙おつの意識いしきの下したには、比較的ひかくてき不ふ明暸めいりょうかは知らしらぬが、やはり甲こうの意識いしきが存在そんざいしていると見做さみなさなければなりません。
俗ぞくにこの不ふ明暸めいりょうな意識いしきを称ししょうして記憶きおくと云ういうのであります。
だからして記憶きおくの最高さいこう度どはもっとも明暸めいりょうなる上層じょうそうの意識いしきで、その最低さいてい度どはもっとも不ふ明暸めいりょうなる下層かそうの意識いしきに過ぎんすぎんのであります。
すると意識いしきの連続れんぞくは是非ぜひ共とも記憶きおくを含んふくんでおらねばならず、記憶きおくというと是非ぜひ共とも時間じかんを含んふくんで来きなければならなくなります。
からして時間じかんと云ういうものは内容ないようのある意識いしきの連続れんぞくを待っまって始めてはじめて云ういうべき事ことで、これと関係かんけいなく時間じかんが独立どくりつして世の中よのなかに存在そんざいするものではない。
換言かんげんすれば意識いしきと意識いしきの間まに存するそんする一種いっしゅの関係かんけいであって、意識いしきがあってこそこの関係かんけいが出るでるのであります。
だから意識いしきを離れはなれてこの関係かんけいのみを独立どくりつさせると云ういう事ことは便宜上べんぎじょうの抽象ちゅうしょうとして差支さしつかえないが、それ自身じしんに存在そんざいするものと見るみる訳わけには参りまいりません。
ちょうどここにある水指みずさしのなかから白いしろい色いろだけをとって、そうして物質ぶっしつを離れはなれて白いしろい色いろが存在そんざいすると主張しゅちょうするようなものであります。
ちょっと考えるかんがえると時間じかんと云ういうものが流れながれていて、その永劫えいごうの流れながれのなかに事件じけんが発展はってん推移すいいするように見えみえますが、それは前まえに申しもうした分化ぶんか統一とういつの力ちからが、ここまで進んすすんだ結果けっか時間じかんと云ういうものを抽象ちゅうしょうして便宜上べんぎじょうこれに存在そんざいを許しゆるしたとの意味いみにほかならんのであります。
薔薇ばらの中なかから香水こうすいを取っとって、香水こうすいのうちに薔薇ばらがあると云っいったような論鋒ろんぽうと思いおもいます。
私わたくしの考えかんがえでは薔薇ばらのなかに香水こうすいがあると云っいった方ほうが適当てきとうと思いおもいます。
もっともこの時間じかん及びおよびあとから御ご話はなしをする空間くうかんと云ういうのは大分おおいたむずかしい問題もんだいで、哲学者てつがくしゃに云わいわせると大変たいへんやかましいものでありますから、私わたくしのような粗末そまつな考えかんがえを好いよい加減かげんに云ういう時じは、あまり御ご信じしんじにならん方ほうがよいかも知れしれませんが、――しかしあまり信じしんじなくってもいけません。
まず演説えんぜつの終るおわるまで信じしんじておって、御宅ごたくへ御ご帰りかえりになる頃ころに信じしんじなくなるのがちょうどいい加減いいかげんであろうと思いおもいます。
次つぎに今いま云ういう意識いしきの連続れんぞく――すなわち甲こうが去っさって乙おつがくるときに、こう云ういう場合ばあいがある。
まず甲こうを意識いしきして、それから乙おつを意識いしきする。
今度こんどはその順じゅんを逆ぎゃくにして、乙おつを意識いしきしてから甲こうに移るうつる。
そうしてこの両りょうつのものを意識いしきする時間じかんを延しのしても縮めちぢめても、両りょう意識いしきの関係かんけいが変らかわらない。
するとこの関係かんけいは比較的ひかくてき時間じかんと独立どくりつした関係かんけいであって、しかもある一定いっていの関係かんけいであるという事ことがわかる。
その時じに吾人ごじんはこれを時間じかんの関係かんけいに帰着きちゃくせしむる事ことができない事ことを悟っさとって、これに空間的くうかんてき関係かんけいの名なを与えるあたえるのであります。
だからしてこれも両りょう意識いしきの間まに存するそんする一種いっしゅの関係かんけいであって、意識いしきそのものを離れはなれて空間くうかんなるものが存在そんざいしているはずがない。
空間くうかん自存じそんの概念がいねんが起るおこるのはやはり発達はったつした抽象ちゅうしょうを認めみとめて実在じつざいと見做しみなした結果けっかにほかならぬ。
文法ぶんぽうと云ういうものは言葉ことばの排列はいれつ上うえにおける相互そうごの関係かんけいを法則ほうそくにまとめたものであるが、小児しょうには文法ぶんぽうがあって、それから文章ぶんしょうがあるように考えかんがえている。
文法ぶんぽうは文章ぶんしょうがあって、言葉ことばがあって、その言葉ことばの関係かんけいを示すしめすものに過ぎんすぎんのだからして、文法ぶんぽうこそ文章ぶんしょうのうちに含まふくまれていると云っいってしかるべきであるごとく空間くうかんの概念がいねんも具体的ぐたいてきなる両りょう意識いしきのうちに含まふくまれていると云っいってもよろしいと思うおもう。
それを便宜べんぎのために抽象ちゅうしょうして離しはなしてしまって広いひろい空間くうかんを勝手次第かってしだいに抛り出すほうりだすと、無辺際むへんざいのうちにぽつりぽつりと物ものが散点さんてんしているような心持ちこころもちになります。
もっともこの空間くうかん論ろんも大分おおいた難物なんぶつのようで、ニュートンにゅーとんと云ういう人ひとは空間くうかんは客観的きゃっかんてきに存在そんざいしていると主張しゅちょうしたそうですし、カントかんとは直覚ちょっかくだとか云っいったそうですから、私わたくしの云ういう事ことは、あまり当とうにはなりません。
あなた方ほうが当にまさになさらんでも、私わたくしはたしかにそう思っおもってるんだから毫もごうも差支さしつかえはありません。
ただ自分じぶんだけで、そう思っおもっていればすむ事ことを、かように何なんのかのと申し上げるもうしあげるのは、演説えんぜつを御ご頼みたのみになった因果いんがでやむをえず申し上げるもうしあげるので、もしこれを申し上げもうしあげないと、いつまでたっても文学ぶんがく談だんに移るうつる事ことはできないのであります。
さて抽象ちゅうしょうの結果けっかとして、時間じかんと空間くうかんに客観的きゃっかんてき存在そんざいを与えるあたえると、これを有意義ゆういぎならしむるために数すうというものを製造せいぞうして、この両りょうつのものを測るはかる便宜べんぎ法ほうを講ずるこうずるのであります。
世の中よのなかに単にたんに数すうというような間まの抜けぬけた実質じっしつのないものはかつて存在そんざいした試しためしがない。
今いまでもありません。
数すうと云ういうのは意識いしきの内容ないように関係かんけいなく、ただその連続的れんぞくてき関係かんけいを前後ぜんごに左右さゆうにもっとも簡単かんたんに測るはかる符牒ふちょうで、こんな正体しょうたいのない符牒ふちょうを製造せいぞうするにはよほど骨ほねが折れおれたろうと思わおもわれます。
それから意識いしきの連続れんぞくのうちに、二につもしくは二につ以上いじょう、いつでも同じおなじ順序じゅんじょにつながって出でて来るくるのがあります。
甲こうの後あとには必ずかならず乙おつが出るでる。
いつでも出るでる。
順序じゅんじょにおいて毫もごうも変るかわる事ことがない。
するとこの一種いっしゅの関係かんけいに対したいして吾人ごじんは因果いんがの名なを与えるあたえるのみならず、この関係かんけいだけを切り離しきりはなして因果いんがの法則ほうそくと云ういうものを捏造でつぞうするのであります。
捏造でつぞうと云ういうと妙みょうな言葉ことばですが、実際じっさいありもせぬものをつくり出すつくりだすのだから捏造でつぞうに相違そういない。
意識いしき現象げんしょうに附着ふちゃくしない因果いんがはからの因果いんがであります。
因果いんがの法則ほうそくなどと云ういうものは全くまったくからのもので、やはり便宜上べんぎじょうの仮定かていに過ぎすぎません。
これを知らしらないで天地てんちの大おお法ほうに支配しはいせられて……などと云っいってすましているのは、自分じぶんで張子はりこの虎とらを造っつくってその前まえで慄えふるえているようなものであります。
いわゆる因果いんが法ほうと云ういうものはただ今までいままでがこうであったと云ういう事ことを一目いちもくに見せるみせるための索引さくいんに過ぎんすぎんので、便利べんりではあるが、未来みらいにこの法ほうを超越ちょうえつした連続れんぞくが出でて来きないなどと思うおもうのは愚ぐの極きょくであります。
それだから、よく分っわかった人ひとは俗人ぞくじんの不思議ふしぎに思うおもうような事ことを毫もごうも不思議ふしぎと思わおもわない。
今までいままで知れしれた因果いんが以外いがいにいくらでも因果いんががあり得るうるものだと承知しょうちしているからであります。
ドンどんが鳴るなると必ずかならず昼飯ちゅうはんだと思うおもう連中れんちゅうとは少々しょうしょう違っちがっています。
ここいらで前段ぜんだんに述べのべた事ことを総括そうかつしておいて、それから先さきへ進行しんこうしようと思いおもいます。
(一いち)吾々われわれは生きいきたいと云ういう念々ねんねんに支配しはいせられております。
意識いしきの方ほうから云ういうと、意識いしきには連続的れんぞくてき傾向けいこうがある。
(二に)この傾向けいこうが選択せんたくを生ずるしょうずる。
(三さん)選択せんたくが理想りそうを孕むはらむ。
(四よん)次つぎにこの理想りそうを実現じつげんして意識いしきが特殊とくしゅなる連続的れんぞくてき方向ほうこうを取るとる。
(五ご)その結果けっかとして意識いしきが分化ぶんかする、明暸めいりょうになる、統一とういつせられる。
(六ろく)一定いっていの関係かんけいを統一とういつして時間じかんに客観的きゃっかんてき存在そんざいを与えるあたえる。
(七なな)一定いっていの関係かんけいを統一とういつして空間くうかんに客観的きゃっかんてき存在そんざいを与えるあたえる。
(八はち)時間じかん、空間くうかんを有意義ゆういぎならしむるために数すうを抽象ちゅうしょうしてこれを使用しようする。
(九きゅう)時間じかん内うちに起るおこる一定いっていの連続れんぞくを統一とういつして因果いんがの名なを附しふして、因果いんがの法則ほうそくを抽象ちゅうしょうする。
まずざっと、こんなものであります。
してみると空間くうかんというものも時間じかんというものも因果いんがの法則ほうそくというものも皆みな便宜上べんぎじょうの仮定かていであって、真実しんじつに存在そんざいしているものではない。
これは私わたくしがそう云ういうのです。
諸君しょくんがそうでないと云えいえばそれでもよい。
御ご随意ずいいである。
とにかく今日きょうだけはそう仮定かていしたいものだと思いおもいます。
それでないと話はなしが進行しんこうしません。
なぜこんな余計よけいな仮定かていをして平気へいきでいるかというと、そこが人間にんげんの下司げすな了簡りょうけんで、我々われわれはただ生きいきたい生きいきたいとのみ考えかんがえている。
生きいきさえすれば、どんな嘘うそでも吐くはく、どんな間ま違いでも構わかまわず遂行すいこうする、真しんにあさましいものどもでありますから、空間くうかんがあるとしないと生活せいかつ上うえ不便ふべんだと思うおもうと、すぐ空間くうかんを捏造でつぞうしてしまう。
時間じかんがないと不都合ふつごうだと勘づくかんづくと、よろしい、それじゃ時間じかんを製造せいぞうしてやろうと、すぐ時間じかんを製造せいぞうしてしまいます。
だからいろいろな抽象ちゅうしょうや種々しゅじゅな仮定かていは、みんな背せに腹はらは代えかえられぬ切なせつなさのあまりから割り出しわりだした嘘うそであります。
そうして嘘うそから出でた真実しんじつであります。
いかにこの嘘うそが便宜べんぎであるかは、何なん年ねんとなく嘘うそをつき習っならった、末世まっせ澆季ぎょうきの今日きょうでは、私わたくしもこの嘘うそを真実しんじつと思いおもい、あなた方ほうもこの嘘うそを真実しんじつと思っおもって、誰だれも怪しむあやしむものもなく、疑ううたがうものもなく、公々こう然さ憚るはばかるところなく、仮定かていを実在じつざいと認識にんしきして嬉しうれしがっているのでも分りわかります。
貧しひんして鈍なまくらすとも、窮すれきゅうすれば濫みだりすとも申しもうして、生活難せいかつなんに追わおわれるとみんなこう堕落だらくして参りまいります。
要するようするに生活せいかつ上うえの利害りがいから割り出しわりだした嘘うそだから、大晦日おおみそかに女郎じょろうのこぼす涙なみだと同じおなじくらいな実じつは含んふくんでおります。
なぜと云っいって御覧ごらんなさい。
もし時間じかんがあると思わおもわなければ、また時間じかんを計るはかる数すうと云ういうものがなければ、土曜どように演説えんぜつを受け合っうけあって日曜にちように来るくるかも知れしれない。
御ご互たがいの損そんになります。
空間くうかんがあると心得こころえなければ、また空間くうかんを計るはかる数すうと云ういうものがなければ、電車でんしゃを避けるさける事こともできず、二に階かいから下りるおりる事こともできず、交番こうばんへ突き当っつきあたったり、犬いぬの尾おを踏んふんだり、はなはだ嬉しくうれしくない結果けっかになります。
普通ふつうに知れ渡っしれわたった因果いんがの法則ほうそくもこの通りとおりであります。
だからすべてこれらに存在そんざいの権利けんりを与えあたえないと吾われ身みが危ういあやういのであります。
わが身みが危うけれあやうければどんな無理むりな事ことでもしなければなりません。
そんな無法むほうがあるものかと力ちから味あじでいる人ひとは死ぬしぬばかりであります。
だから現今げんこんぴんぴん生息せいそくしている人間にんげんは皆みな不正直ふしょうじきもので、律義りちぎな連中れんちゅうはとくの昔むかしに、汽車きしゃに引かひかれたり、川かわへ落ちおちたり、巡査じゅんさにつかまったりして、ことごとく死んしんでしまったと御承知ごしょうちになれば大したたいした間ま違いはありません。
すでに空間くうかんができ、時間じかんができれば意識いしきを割いさいて我われと物ものとの二につにする事ことは容易よういであります。
容易よういなどころの騒ぎさわぎじゃない。
実じつは我われと物ものを区別くべつしてこれを手際てぎわよく安置あんちするために空間くうかんと時間じかんの御堂みどうを建立こんりゅうしたも同然どうぜんである。
御堂みどうができるや否いなや待ち構えまちかまえていた我々われわれは意識いしきを攫んつかんでは抛げなげ、攫んつかんでは抛げなげ、あたかも粟餅あわもち屋やが餅もちをちぎって黄きナな粉こなの中なかへ放り込むほうりこむような勢いきおいで抛げなげつけます。
この黄きナな粉こなが時間じかんだと、過去かこの餅もち、現在げんざいの餅もち、未来みらいの餅もちになります。
この黄きナな粉こなが空間くうかんだと、遠いとおい餅もち、近いちかい餅もち、ここの餅もち、あすこの餅もちになります。
今いまでも私わたくしの前まえにあなた方ほうが百五ひゃくご十人じゅうにんばかりならんでおられる。
これは失礼しつれいながら私わたくしが便宜べんぎのため、そこへ抛げなげ出しだしたのであります。
すでに空間くうかんのできた今日きょうであるから、嘘うそにもせよせっかく出来上っできあがったものを使わつかわないのも宝たからの持腐れもちぐされであるから、都合つごうにより、ぴしゃぴしゃ投出すなげだすと約やく百ひゃく余人よにんちゃんと、そこに行儀ぎょうぎよく並んならんでおられて至極しごく便利べんりであります。
投げるなげると申すもうすと失敬しっけいに当りあたりますが、粟餅あわもちとは認めみとめていないのだから、大したたいした非礼ひれいにはなるまいと思いおもいます。
この放射ほうしゃ作用さようと前まえに申しもうした分化ぶんか作用さようが合併がっぺいして我われ以外いがいのものを、単にたんに我われ以外いがいのものとしておかないで、これにいろいろな名称めいしょうを与えあたえて互たがいに区別くべつするようになります。
例えばたとえば感覚かんかく的まとなものと超ちょう感覚かんかく的まとなもの(あるかないか知らしらないが幽霊ゆうれいとか神かみとか云ういう正体しょうたいの分らわからぬものを指すさすのです)に分類ぶんるいする。
その感覚かんかく的まとなものをまた眼めで見るみる色いろや形かたち、耳みみで聴くきく音おとや響ひびき、鼻はなで嗅ぐかぐ香こう、舌したでしる味あじなどに区別くべつする。
かくのごとく区別くべつされたものを、まただんだんに細かくこまかく割っわりって行くいく。
分化ぶんか作用さようが行わおこなわれて、感覚かんかくが鋭敏えいびんになればなるほどこの区別くべつは微かすか精せいになって来きます。
のみならず同一どういつに統一とういつ作用さようが行わおこなわれるからして、一方いっぽうでは草くさとなり、木きとなり、動物どうぶつとなり、人間にんげんとなるのみならず。
草くさは菫すみれとなり、蒲公英たんぽぽとなり、桜草さくらそうとなり、木きは梅うめとなり、桃ももとなり、松まつとなり、檜ひのきとなり、動物どうぶつは牛うし、馬うま、猿さる、犬いぬ、人間にんげんは士し、農のう、工こう、商しょう、あるいは老おい、若わか、男おとこ、女おんな、もしくは貴たか、賤しず、長なが、幼よう、賢けん、愚ぐ、正ただし、邪じゃ、いくらでも分岐ぶんきして来きます。
現にげんに今日きょうでも植物学しょくぶつがく者ものの見分けみわけ得るうる草くさや花はなの種類しゅるいはほとんど吾人ごじんの幾いく百ひゃく倍ばいに上るのぼるであろうと思いおもいます。
また諸君しょくんのような画家がかの鑑別かんべつする色合いろあいは普通ふつう人ひとの何十なんじゅう倍ばいに当るあたるか分らわからんでしょう。
それも何なんのためかと云えいえば、元もとに還っかえって考えかんがえて見るみると、つまりは、うまく生きいきて行こういこうの一念いちねんに、この分化ぶんかを促さうながされたに過ぎすぎないのであります。
ある一種いっしゅの意識いしき連続れんぞくを自由じゆうに得とくんがために(選択せんたくの区域くいきに出来でき得るうるだけの余裕よゆうを与えあたえんがために)あらかじめ意識いしきの範囲はんいを広くひろくすると云ういう意味いみにほかならんのであります。
私わたくし共ともはどの草くさを見みても皆みな一様いちように青くあおく見えるみえる。
青あおのうちでいろいろな種類しゅるいを意識いしきしたいと思っおもっても、いかんせん分化ぶんか作用さようがそこまで達したっしておらんから皆無かいむ駄目だめである。
少くすくなくとも色いろについて変化へんかに富んとんだ複雑ふくざつの生活せいかつは送れおくれない事ことに帰着きちゃくする。
盲もう眼めの毛けの生えはえたものであります。
情ないなさけない次第しだいだと思いおもいます。
或るある評ひょう家いえの語ごに吾人ごじんが一色いっしょくを認にんむるところにおいてチチアンちちあんは五十ごじゅう色いろを認めるみとめるとあります。
これは単にたんに画家がかだから重宝ちょうほうだと云ういうばかりではありません。
人間にんげんとして比較的ひかくてき融通ゆうずうの利くきく生活せいかつが遂げとげらるると云ういう意味いみになります。
意識いしきの材料ざいりょうが多けれおおければ多いおおいほど、選択せんたくの自由じゆうが利いきいて、ある意識いしきの連続れんぞくを容易よういに実行じっこうできる――即ちすなわち自己じこの理想りそうを実行じっこうしやすい地位ちいに立つたつ――人ひとと云わいわなければならぬから、融通ゆうずうの利くきく人ひとと申すもうすのであります。
単にたんに色いろばかりではありません。
例えばたとえば思想しそうの乏しいとぼしい人ひとの送るおくる内うち生涯しょうがいと云ういうものも色いろにおける吾々われわれと同じくおなじく、気の毒きのどくなほど憐れんなものです。
いくら金銭きんせんに不自由ふじゆうがなくても、いくら地位ちい門閥もんばつが高くたかくても、意識いしきの連続れんぞくは単調たんちょうで、平凡へいぼんで、毫もごうも理想りそうがなくて、高こう、下した、雅みやび、俗ぞく、正ただし、邪じゃ、曲きょく、直じかの区別くべつさえ分らわからなくて昏々こんこん濛々もうもうとしてアミーバあみーばのような生活せいかつを送りおくります。
こんな連中れんちゅうは人間にんげんさえ見れみれば誰だれも彼かれもみな同じおなじ物ものだと思っおもって働きかけはたらきかけます。
それは頭あたまが不ふ明暸めいりょうなんだからだと注意ちゅういしてやると、かえって吾々われわれを軽蔑けいべつしたり、罵倒ばとうしたりするから厄介やっかいです――しかしこれはここで云ういう事ことではない。
演説えんぜつの足あしが滑っすべって泥溝どろどぶの中なかへちょっと落ちおちたのです。
すぐ這い上っはいのぼって真直まっすぐに進行しんこうします。
吾人ごじんは今いま申すもうす通りとおり我われに対するたいする物ものを空間くうかんに放射ほうしゃして、分化ぶんか作用さようでこれを精細せいさいに区別くべつして行きいきます。
同時どうじに我われに対したいしてもまた同様どうようの分化ぶんか作用さようを発展はってんさせて、身体しんたいと精神せいしんとを区別くべつする。
その精神せいしん作用さようを知ち、情じょう、意い、の三さんに区別くべつします。
それからこの知ちを割りわり、情じょうを割りわり、その作用さようの特性とくせいによってまたいろいろに識別しきべつして行きいきます。
この方面ほうめんは主ぬしとして心理学しんりがく者ものと云ういうものが専門せんもんとして担任たんにんしているから、これらの人ひとに聞くきくのが一番いちばんわかりやすい。
もっとも心理学しんりがく者もののやる事ことは心こころの作用さようを分解ぶんかいして抽象ちゅうしょうしてしまう弊へいがある。
知情ちじょう意いは当とうを得とくた分類ぶんるいかも知れしれぬが、三さんつの作用さようが各かく独立どくりつして、他ほかと交渉こうしょうなく働いはたらいているものではありません。
心こころの作用さようはどんなに立入ったちいって細かいこまかい点てんに至っいたっても、これを全体ぜんたいとして見るみるとやはり知情ちじょう意いの三さんつを含んふくんでいる場合ばあいが多いおおい。
だからこの三さん作用さようを截然さいぜんと区別くべつするのは全くまったく便宜上べんぎじょうの抽象ちゅうしょうである。
この抽象ちゅうしょう法ほうを用いもちいないで、しかも極度きょくどの分化ぶんか作用さようによる微細びさいなる心こころの働きはたらき(全体ぜんたいとして)を写しうつして人ひとに示すしめすのはおもに文学者ぶんがくしゃがやっている。
だから文学者ぶんがくしゃの仕事しごともこの分化ぶんか発展はってんにつれてだんだんと、朦朧もうろうたるものを明暸めいりょうに意識いしきし、意識いしきしたるものを仔細しさいに区別くべつして行きいきます。
例えばたとえば昔むかしの竹取たけとり物語ものがたりとか、太平たいへい記きとかを見るみると、いろいろな人間にんげんが出でて来るくるがみんな同じおなじ人間にんげんのようであります。
西鶴さいかくなどに至っいたってもやはりそうであります。
つまりああいう著者ちょしゃには人間にんげんがたいてい同様どうようにぼうっと見えみえたのでありましょう。
分化ぶんか作用さようの発展はってんした今日きょうになると人間にんげん観かんがそう鷹揚おうようではいけない。
彼かれらの精神せいしん作用さようについて微妙びみょうな細いほそい割りわり方ほうをして、しかもその割っわりった部分ぶぶんを明細めいさいに描写びょうしゃする手際てぎわがなければ時勢じせいに釣り合わつりあわない。
これだけの眼識がんしきのないものが人間にんげんを写そううつそうと企てるくわだてるのは、あたかも色盲しきもうが絵えをかこうと発心ほっしんするようなものでとうてい成功せいこうはしないのであります。
画がを専門せんもんになさる、あなた方ほうの方ほうから云ういうと、同じおなじ白色はくしょくを出すだすのに白紙はくしの白しろさと、食卓しょくたく布ぬのの白しろさを区別くべつするくらいな視覚しかく力ちからがないと視覚しかくの発達はったつした今日きょうにおいて充分じゅうぶん理想りそう通りとおりの色いろを表現ひょうげんする事ことができないと同様どうようの意義いぎで、――文学者ぶんがくしゃの方ほうでも同性どうせい質しつ、同どう傾向けいこう、同どう境遇きょうぐう、同年輩どうねんぱいの男おとこでも、その間まに微妙びみょうな区別くべつを認めみとめ得るうるくらいな眼光がんこうがないと、人ひとを視るみる力ちからの発達はったつした今日きょうにおいては、性格せいかくを描写びょうしゃしたとは申さもうされないのであります。
したがって人間にんげんをかく文学者ぶんがくしゃは、単にたんに文学者ぶんがくしゃではならん、要するようするに人間にんげんを識別しきべつする能力のうりょくが発達はったつした人ひとでなくてはならんのです。
進んすすんだる世の中よのなかに、もっとも進んすすんだる眼識がんしきを具えそなえた男おとこ――特にとくに文学者ぶんがくしゃとしてではない、一般いっぱん人間にんげんとしてこの方面ほうめんに立派りっぱな腕前うでまえのある男おとこ――でなければ手ては出せだせぬはずであります。
世の中よのなかはそう思っおもっておりません。
何なんの小説家しょうせつかがと、小説家しょうせつかをもってあたかも指物師さしものしとか経師屋きょうじやのごとく単にたんに筆ふでを舐っねぶって衣ころも食するしょくする人ひとのように考えかんがえている。
小説家しょうせつかよりも大学だいがくの先生せんせいの方ほうが遥はるかにえらいと考えかんがえている。
内務ないむ省しょうの地方ちほう局きょく長ながの方ほうがなお遥はるかにえらいと思っおもっている。
大臣だいじんや金持かねもちや華族かぞく様ようはなおなお遥はるかにえらいと思っおもっている。
妙みょうな事ことであります。
もし我々われわれが小説家しょうせつかから、人間にんげんと云ういうものは、こんなものであると云ういう新しん事実じじつを教えおしえられたならば、我々われわれは我々われわれの分化ぶんか作用さようの径路けいろにおいて、この小説家しょうせつかのために一いち歩あゆみの発展はってんを促さうながされて、開化かいかの進路しんろにあたる一いち叢くさむらの荊棘ばらを切り開いきりひらいて貰っもらったと云わいわねばならんだろうと思いおもいます。
(小説家しょうせつかの功力くりきはこの一いち点てんに限るかぎると云ういう意味いみではない。
この一いち点てんを挙げあげて考えかんがえても局きょく長ながさんや博士はかせさんに劣るおとるものでないと云ういうのであります)もし諸君しょくんがそんな小説家しょうせつかは現今げんこん日本にっぽんに一人ひとりもないではないかと云わいわれるならば、私わたくしはこう答えるこたえる。
それは小説家しょうせつかの罪つみではない。
現今げんこん日本にっぽんの小説家しょうせつか(私わたくしも
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