その一方を代表なさる諸君が文学の方面にも一種の興味をもたれて、われわれのような不調法ものの講話を御参考に供して下さるのは、この両者の接触上から見て、諸君の前に卑見を開陳すべき第一の機会を捕えた私は多大の名誉と感ずる次第であります。できない演説を無理にやるのは全くこのためで、やりつけないものを受け合ったからと云って、けっして恩に着せる訳ではありません。全く大なる光栄と心得てここへ出て来たのである。が繰返して云う通り、演説はできず講義としては纏まらず、定めて聞苦しい事もあるだろうと思います。その辺はあらかじめ御容赦を願います。
第 1 章
まずこれからそろそろやり始めます。
やり始めますよと断ると何だかえらそうに聞えるが、その実は何でもない。
ここに三四頁ばかり書いたノートがあります。
これから御話をする事はこの三四頁の内容に過ぎんのでありますからすらすらとやってしまうと十五分くらいですぐすんでしまう。
いくらついでにする演説でもそれではあまり情ない。
からこの三四頁を口から出まかせに敷衍して進行して行きます。
敷衍しかたをあらかじめ考えていないから、どこをどっちへ敷衍するか分らない。
時によると飛んだ寄り道をして、出る所へも出られず、帰る所へも帰れないかも知れないと云うすこぶる心細い敷衍法を用います。
のみならず冒頭が何だか訳の分らない事から始まるかも知れないから、けっして驚いてはいけません。
いずれ結末には美術とか文学とか御互に縁の深い方面へずり落ちて行く事と安心して聴いていただきたい。
――ただいま正木会長の御演説中に市気匠気と云う語がありましたが、私の御話も出立地こそぼうっとして何となく稀有の思はあるが、落ち行く先はと云うと、これでも会長といっしょに市気匠気まで行くつもりであります。
まず――私はここに立っております。
そうしてあなた方はそこに坐っておられる。
私は低い所に立っている、あなた方は高い所に坐っておられる、かように私が立っているという事と、あなた方が坐っておらるると云う事が――事実であります。
この事実と云うのを他の言葉で現して見ようならば、私は我と云うもの、あなた方は私に対して私以外のものと云う意味であります。
もっとむずかしい表現法を用いると物我対立と云う事実であります。
すなわち世界は我と物との相待の関係で成立していると云う事になる。
あなた方も定めてそう思われるでありましょう、私もそう思うております。
誰しもそう心得ているのである。
それから私が、こうやってここに立っており、あなた方が、そうして、そこに坐ってござると、その間に距離というものがある。
一間の距離とか、二間の距離とかあるいは十間二十間――この講堂の大きさはどのくらいありますか――とにかく幾坪かの広がりがあって、その中に私が立っており、その中にあなた方が坐っていることになる。
この広がりを空間と申します。
(申さなくっても御承知である)つまりはスペースと云うものがあって、万物はその中に、各、ある席を占めている。
次に今日の演説は一時から始まります。
そうしていつ終るか分りませんが、まあいつか終るでしょう。
大概は日が暮れる前に終る事と思います。
私がこうやって好加減な事をしゃべって、それが済むとあとから、上田さんが代ってまた面白い講話がある。
それから散会となる。
私の講話も、上田さんの演説も皆経過する事件でありまして、この経過は時間と云うものがなければ、どうしても起る訳に参りません。
これも明暸な事で別段改めて申上げる必要はない。
最後に、なぜ私がここにこうやって出て来て、しきりに口を動かしているかと云えば、これは酔狂や物数奇で飛出して来たと思われては少し迷惑であります。
そこにはそれ相当な因縁、すなわち先刻申上げた大村君の鄭重なる御依頼とか、私の安受合とか、受合ったあとの義務心とか、いろいろの因縁が和合したその結果かくのごとくフロックコートを着て参りました。
この関係を(人事、自然に通じて)因果の法則と称えております。
すると、こうですな。
この世界には私と云うものがありまして、あなた方と云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則で纏められている。
と云うのでしょう。
そこでそれにはまず私と云うものがあると見なければならぬ、あなた方があると見なければならぬ。
空間というものがあると見なければならぬ。
時間と云うものがあると見なければならぬ。
また因果の法則と云うものがあって、吾人を支配していると見なければならん。
これは誰も疑うものはあるまい。
私もそう思う。
ところがよくよく考えて見ると、それがはなはだ怪しい。
よほど怪しい。
通俗には誰もそう考えている。
私も通俗にそう考えている。
しかし退いて不通俗に考えて見るとそれがすこぶるおかしい。
どうもそうでないらしい。
なぜかと云うと元来この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟をつけて、髭を生やして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであります。
フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。
この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。
痒い痛いと申す感じはある。
撫でる掻くと云う心持ちはある。
しかしそれより以外に何にもない。
あるものは手でもない足でもない。
便宜のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。
要するに意識はある。
また意識すると云う働きはある。
これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎として争うべからざる事実であります。
して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。
何が故に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立するのが便宜かと申すと、「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。
そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります。
こう云うと、私は自分(普通に云う自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方の存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくではなはだ御気の毒の至りであります。
御腹も御立ちになるでしょうが、根本的の議論なのだから、まず議論として御聴きを願いたい。
根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。
――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。
いくら怒られても駄目であります。
あなた方はそこにござる。
ござると思ってござる。
私もまあちょっとそう思っています。
います事は、いますがただかりにそう思って差し上げるまでの事であります。
と云うものは、いくらそれ以上に思って上げたくてもそれだけの証拠がないのだから仕方がありません。
普通に物の存在を確めるにはまず眼で見ますかね。
眼で見た上で手で触れて見る。
手で触れたあとで、嗅いでみる、あるいは舐めてみる。
――あなた方の存在を確めるにはそれほど手数はかからぬかも知れぬが。
けれども前にも申した通り眼で見ようが、耳できこうが、根本的に云えば、ただ視覚と聴覚を意識するまでで、この意識が変じて独立した物とも、人ともなりよう訳がない。
見るときに触るるときに、黒い制服を着た、金釦の学生の、姿を、私の意識中に現象としてあらわし来ると云うまでに過ぎないのであります。
これを外にしてあなた方の存在と云う事実を認めることができようはずがない。
すると煎じ詰めたところが私もなければ、あなた方もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。
金釦が眼に映ずる、金釦を意識する。
講堂の天井が黒くなっている、その黒い所を意識する。
――これは悪口ではありません。
美術学校の天井が黒いと云うのではない、ただ黒いと意識するので、客観的存在は認めておらん悪口だから構わないでしょう。
まずこれだけの話であります。
すると通俗の考えを離れて物我の世界を見たところでは、物が自分から独立して現存していると云う事も云えず、自分が物を離れて生存していると云う事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義から云うと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに一致などと云う言語も必要ではないのであります。
だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命と云うのであります。
連続と云う字を使用する以上は意識が推移して行くと云う意味を含んでおって、推移と云う意味がある以上は(一)意識に単位がなければならぬと云う事と(二)この単位が互に消長すると云う事と(三)は消長が分明であるくらいに単位意識が明暸でなければならぬと云う事と(四)意識の推移がある法則に支配せらるるやと云う事になりますから、問題がよほど込入って来ますが、今はそんな面倒な事を御話する場合でないから、諸君の御研究に一任する事として講話を進めます。
もっとも今申した四カ条のうち、意識推移の原則については私の「文学論」の第五篇に不完全ながら自分の考えだけは述べておきましたから、御参考を願いたいと思います。
ついでに「文学論」も一部ずつ御求めを願いたいと思います。
――とにかく意識がある。
物もない、我もないかも知れないが意識だけはたしかにある。
そうしてこの意識が連続する。
なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明がつくにしても、つかぬにしても連続するのはたしかであるから、これを事実として歩を進めて行く。
そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧みると少々妙であります。
最初には私と云うものがあると申しました。
あなた方もたしかにおいでになると申しました。
そうして、御互に空間と云う怪しいものの中に這入り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹さして、因果の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っていると申しました。
ところが不通俗に考えた結果によるとまるで反対になってしまいました。
物我などと云う関門は最初からない事になりました。
天地すなわち自己と云うえらい事になりました。
いつの間にこう豹変したのか分らないが、全く矛盾してしまいました。
(空間、時間、因果律もやはりこの豹変のうちに含んでいます。
それは講話の都合で後廻しにしましたから、今にだんだんわかります) なぜこんな矛盾が起ったのだろうか。
よく考えると何にもないのに、通俗では森羅万象いろいろなものが掃蕩しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充※している。
戸張君ではないが天地前にあり、竹風ここにありと云いたくなるくらいであります。
――なぜこんな矛盾が起ったのであろうか。
これはすこぶる大問題である。
面倒にむずかしく論じて来たら大分暇がかかりましょう。
私は必要上、ごく粗末なところを、はなはだ短い時間内に御話するのであるから、無論豪い哲学者などが聞いておられたら、不完全だと云って攻撃せられるだろうと思います。
しかしこの短い時間内に、こんな大袈裟な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云うはずがない、不完全は無論不完全だが、あの度胸が感心だと賞めていただきたい。
もっとも時間は幾らでも与えるから、もっと立派に言えと注文されても私の手際では覚束ないかも知れない。
まあちょうどよいのです。
どうして、こんな矛盾が起るかと云う問題に対して、ただ一口に説明してしまえば訳はない。
前に申す通り吾々の生命は――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します――吾々の生命は意識の連続であります。
そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。
他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。
もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が大好きなのであります。
なぜ好むかとなると説明はできない。
誰が出て来ても説明はできない。
ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。
もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を示す事ができるかも知れない。
と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。
御互のように命については極めて執着の多い、奇麗でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴんぴんしているような訳かも知れません。
これでも多少の説明にはなります。
しかしもっと進んでこの傾向の大原因を極めようとすると駄目であります。
万法一に帰す、一いずれの所にか帰すというような禅学の公案工夫に似たものを指定しなければならんようになります。
ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。
まことに重宝な文句であります。
私もちょっと拝借しようと思うのですが、前に述べた意識の連続以外にこんな変挺なものを建立すると、意識の連続以外に何にもないと申した言質に対して申訳が立ちませんから、残念ながらやめに致して、この傾向は意識の内容を構成している一部分すなわち属性と見做してしまいます。
そうして「この傾向」と云うような概念は抽象の結果、よほど発達した後に「この傾向」として放出したものと認めるのであります。
それは、ともかくも「吾人は意識の連続を求める」と云う事だけを事実として受けとらねばならぬのであります。
もっと明暸に云うと「意識には連続的傾向がある」と云い切ってこれを事実として受けとるのであります。
意識と云い、連続と云い、連続的傾向と云うとそのうちに意識の分化と云う事と統一と云う事は自然と含まっております。
すでに連続とある以上は甲と乙と連続したと云う事実を意識せねばならぬ、すなわち甲と乙と差別がつくほどに両意識が明暸でなければなりません。
差別がつくと云うのは、同時に同じ意識もしくは類似の意識を統一し得ると云う意味と同じ事になります。
例えてみれば視覚となづける意識は、分化の結果、触覚や味覚と差別がつくと、同時にあらゆる視覚的意識を統一する事ができて始めてできる言語であります。
意識にこれだけの分化作用ができて、その分化した意識と、眼球と云う器械を結びつけて、この種の意識は眼球が司どるのだと思いつく。
しばらく視覚の意識と眼球の作用を混同して云うと、昔し分化作用の行われぬうちは視力は必ずしも眼球に集中しておらなかったろう。
私も遠い昔では、からだ全体で物を見ていたかも知れぬ、あるいは背中で物を舐めていたかも知れぬ。
眼耳鼻舌と分業が行われ出したのは、つい近頃の事であると思います。
こう分業が行われだすと融通が利かなくなります。
ちょっと舌癌にかかったからと云うて踵で飯を食う訳には行かず、不幸にして痳疾を患いたからと申して臍で用を弁ずる事ができなくなりました。
はなはだ不都合であります。
しかし意識の連続と云う以上は、――連続の意義が明暸になる以上は、――連続を形ちづくる意識の内容が明暸でなければならぬはずであります。
明暸でない意識は連続しているか、連続していないか判然しない。
つまり吾人の根本的傾向に反する。
否意識そのものの根本的傾向に反するのであります。
意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるかほとんど想像がつかない。
しかしてこれに応ずる官能もどのくらい複雑になるか分りません。
今日では目に見えぬもの、手に触れる事のできぬもの、あるいは五感以上に超然たるものがしだいに意識の舞台に上る事であろうと思いますから、まず気を長くして待っていたらよかろうと思います。
もう一遍繰返して「意識の連続」と申します。
この句を割って見ると意識と云う字と連続と云う字になります。
こうして意識の内容のいかんと、この連続の順序のいかんと二つに分れて問題は提起される訳であります。
これを合すれば、いかなる内容の意識をいかなる順序に連続させるかの問題に帰着します。
吾人がこの問題に逢着したとき――吾人は必ずこの問題に逢着するに相違ない。
意識及その連続を事実と認める裏にはすでにこの問題が含まれております。
そうしてこの問題の裏面には選択と云う事が含まれております。
ある程度の自由がない以上は、また幾分か選択の余裕がないならばこの問題の出ようはずがない。
この問題が出るのはこの問題が一通り以上に解決され得るからである。
この解決の標準を理想というのであります。
これを纏めて一口に云うと吾人は生きたいと云う傾向をもっている。
(意識には連続的傾向があると云う方が明確かも知れぬが)この傾向からして選択が出る。
この選択から理想が出る。
すると今まではただ生きればいいと云う傾向が発展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。
すなわちいかなる順序に意識を連続させようか、またいかなる意識の内容を選ぼうか、理想はこの二つになって漸々と発展する。
後に御話をする文学者の理想もここから出て参るのであります。
次に連続と云う字義をもう一遍吟味してみますと、前にも申す通り、ははあ連続している哩と相互の区別ができるくらいに、連続しつつある意識は明暸でなければならぬはずであります。
そうして、かように区別し得る程度において明暸なる意識が、新陳代謝すると見ると、甲が去って乙が来ると云う順序がなければならぬはずであります。
順序があるからには甲乙が共に意識せられるのではない。
甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときはすでに甲は意識しておらん訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事ができるならば、明暸なる乙の意識の下には、比較的不明暸かは知らぬが、やはり甲の意識が存在していると見做さなければなりません。
俗にこの不明暸な意識を称して記憶と云うのであります。
だからして記憶の最高度はもっとも明暸なる上層の意識で、その最低度はもっとも不明暸なる下層の意識に過ぎんのであります。
すると意識の連続は是非共記憶を含んでおらねばならず、記憶というと是非共時間を含んで来なければならなくなります。
からして時間と云うものは内容のある意識の連続を待って始めて云うべき事で、これと関係なく時間が独立して世の中に存在するものではない。
換言すれば意識と意識の間に存する一種の関係であって、意識があってこそこの関係が出るのであります。
だから意識を離れてこの関係のみを独立させると云う事は便宜上の抽象として差支ないが、それ自身に存在するものと見る訳には参りません。
ちょうどここにある水指のなかから白い色だけをとって、そうして物質を離れて白い色が存在すると主張するようなものであります。
ちょっと考えると時間と云うものが流れていて、その永劫の流れのなかに事件が発展推移するように見えますが、それは前に申した分化統一の力が、ここまで進んだ結果時間と云うものを抽象して便宜上これに存在を許したとの意味にほかならんのであります。
薔薇の中から香水を取って、香水のうちに薔薇があると云ったような論鋒と思います。
私の考えでは薔薇のなかに香水があると云った方が適当と思います。
もっともこの時間及びあとから御話をする空間と云うのは大分むずかしい問題で、哲学者に云わせると大変やかましいものでありますから、私のような粗末な考えを好い加減に云う時は、あまり御信じにならん方がよいかも知れませんが、――しかしあまり信じなくってもいけません。
まず演説の終るまで信じておって、御宅へ御帰りになる頃に信じなくなるのがちょうどいい加減であろうと思います。
次に今云う意識の連続――すなわち甲が去って乙がくるときに、こう云う場合がある。
まず甲を意識して、それから乙を意識する。
今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。
そうしてこの両つのものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。
するとこの関係は比較的時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる。
その時に吾人はこれを時間の関係に帰着せしむる事ができない事を悟って、これに空間的関係の名を与えるのであります。
だからしてこれも両意識の間に存する一種の関係であって、意識そのものを離れて空間なるものが存在しているはずがない。
空間自存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在と見做した結果にほかならぬ。
文法と云うものは言葉の排列上における相互の関係を法則にまとめたものであるが、小児は文法があって、それから文章があるように考えている。
文法は文章があって、言葉があって、その言葉の関係を示すものに過ぎんのだからして、文法こそ文章のうちに含まれていると云ってしかるべきであるごとく空間の概念も具体的なる両意識のうちに含まれていると云ってもよろしいと思う。
それを便宜のために抽象して離してしまって広い空間を勝手次第に抛り出すと、無辺際のうちにぽつりぽつりと物が散点しているような心持ちになります。
もっともこの空間論も大分難物のようで、ニュートンと云う人は空間は客観的に存在していると主張したそうですし、カントは直覚だとか云ったそうですから、私の云う事は、あまり当にはなりません。
あなた方が当になさらんでも、私はたしかにそう思ってるんだから毫も差支はありません。
ただ自分だけで、そう思っていればすむ事を、かように何のかのと申し上げるのは、演説を御頼みになった因果でやむをえず申し上げるので、もしこれを申し上げないと、いつまでたっても文学談に移る事はできないのであります。
さて抽象の結果として、時間と空間に客観的存在を与えると、これを有意義ならしむるために数というものを製造して、この両つのものを測る便宜法を講ずるのであります。
世の中に単に数というような間の抜けた実質のないものはかつて存在した試しがない。
今でもありません。
数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測る符牒で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます。
それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。
甲の後には必ず乙が出る。
いつでも出る。
順序において毫も変る事がない。
するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造するのであります。
捏造と云うと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。
意識現象に附着しない因果はからの因果であります。
因果の法則などと云うものは全くからのもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。
これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子の虎を造ってその前で慄えているようなものであります。
いわゆる因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出て来ないなどと思うのは愚の極であります。
それだから、よく分った人は俗人の不思議に思うような事を毫も不思議と思わない。
今まで知れた因果以外にいくらでも因果があり得るものだと承知しているからであります。
ドンが鳴ると必ず昼飯だと思う連中とは少々違っています。
ここいらで前段に述べた事を総括しておいて、それから先へ進行しようと思います。
(一)吾々は生きたいと云う念々に支配せられております。
意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。
(二)この傾向が選択を生ずる。
(三)選択が理想を孕む。
(四)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る。
(五)その結果として意識が分化する、明暸になる、統一せられる。
(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。
(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。
(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。
(九)時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。
まずざっと、こんなものであります。
してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも皆便宜上の仮定であって、真実に存在しているものではない。
これは私がそう云うのです。
諸君がそうでないと云えばそれでもよい。
御随意である。
とにかく今日だけはそう仮定したいものだと思います。
それでないと話が進行しません。
なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司な了簡で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。
生きさえすれば、どんな嘘でも吐く、どんな間違でも構わず遂行する、真にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないと生活上不便だと思うと、すぐ空間を捏造してしまう。
時間がないと不都合だと勘づくと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。
だからいろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。
そうして嘘から出た真実であります。
いかにこの嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季の今日では、私もこの嘘を真実と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものもなく、公々然憚るところなく、仮定を実在と認識して嬉しがっているのでも分ります。
貧して鈍すとも、窮すれば濫すとも申して、生活難に追われるとみんなこう堕落して参ります。
要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります。
なぜと云って御覧なさい。
もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と云うものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。
御互の損になります。
空間があると心得なければ、また空間を計る数と云うものがなければ、電車を避ける事もできず、二階から下りる事もできず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はなはだ嬉しくない結果になります。
普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。
だからすべてこれらに存在の権利を与えないと吾身が危ういのであります。
わが身が危うければどんな無理な事でもしなければなりません。
そんな無法があるものかと力味でいる人は死ぬばかりであります。
だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もので、律義な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません。
すでに空間ができ、時間ができれば意識を割いて我と物との二つにする事は容易であります。
容易などころの騒ぎじゃない。
実は我と物を区別してこれを手際よく安置するために空間と時間の御堂を建立したも同然である。
御堂ができるや否や待ち構えていた我々は意識を攫んでは抛げ、攫んでは抛げ、あたかも粟餅屋が餅をちぎって黄ナ粉の中へ放り込むような勢で抛げつけます。
この黄ナ粉が時間だと、過去の餅、現在の餅、未来の餅になります。
この黄ナ粉が空間だと、遠い餅、近い餅、ここの餅、あすこの餅になります。
今でも私の前にあなた方が百五十人ばかりならんでおられる。
これは失礼ながら私が便宜のため、そこへ抛げ出したのであります。
すでに空間のできた今日であるから、嘘にもせよせっかく出来上ったものを使わないのも宝の持腐れであるから、都合により、ぴしゃぴしゃ投出すと約百余人ちゃんと、そこに行儀よく並んでおられて至極便利であります。
投げると申すと失敬に当りますが、粟餅とは認めていないのだから、大した非礼にはなるまいと思います。
この放射作用と前に申した分化作用が合併して我以外のものを、単に我以外のものとしておかないで、これにいろいろな名称を与えて互に区別するようになります。
例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類する。
その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅ぐ香、舌でしる味などに区別する。
かくのごとく区別されたものを、まただんだんに細かく割って行く。
分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来ます。
のみならず同一に統一作用が行われるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず。
草は菫となり、蒲公英となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して来ます。
現に今日でも植物学者の見分け得る草や花の種類はほとんど吾人の幾百倍に上るであろうと思います。
また諸君のような画家の鑑別する色合は普通人の何十倍に当るか分らんでしょう。
それも何のためかと云えば、元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促されたに過ぎないのであります。
ある一種の意識連続を自由に得んがために(選択の区域に出来得るだけの余裕を与えんがために)あらかじめ意識の範囲を広くすると云う意味にほかならんのであります。
私共はどの草を見ても皆一様に青く見える。
青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。
少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。
盲眼の毛の生えたものであります。
情ない次第だと思います。
或る評家の語に吾人が一色を認むるところにおいてチチアンは五十色を認めるとあります。
これは単に画家だから重宝だと云うばかりではありません。
人間として比較的融通の利く生活が遂げらるると云う意味になります。
意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。
単に色ばかりではありません。
例えば思想の乏しい人の送る内生涯と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐なものです。
いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、毫も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々としてアミーバのような生活を送ります。
こんな連中は人間さえ見れば誰も彼もみな同じ物だと思って働きかけます。
それは頭が不明暸なんだからだと注意してやると、かえって吾々を軽蔑したり、罵倒したりするから厄介です――しかしこれはここで云う事ではない。
演説の足が滑って泥溝の中へちょっと落ちたのです。
すぐ這い上って真直に進行します。
吾人は今申す通り我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。
同時に我に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。
その精神作用を知、情、意、の三に区別します。
それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行きます。
この方面は主として心理学者と云うものが専門として担任しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。
もっとも心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊がある。
知情意は当を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。
心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。
だからこの三作用を截然と区別するのは全く便宜上の抽象である。
この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き(全体として)を写して人に示すのはおもに文学者がやっている。
だから文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細に区別して行きます。
例えば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、いろいろな人間が出て来るがみんな同じ人間のようであります。
西鶴などに至ってもやはりそうであります。
つまりああいう著者には人間がたいてい同様にぼうっと見えたのでありましょう。
分化作用の発展した今日になると人間観がそう鷹揚ではいけない。
彼らの精神作用について微妙な細い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際がなければ時勢に釣り合わない。
これだけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでとうてい成功はしないのであります。
画を専門になさる、あなた方の方から云うと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力がないと視覚の発達した今日において充分理想通りの色を表現する事ができないと同様の意義で、――文学者の方でも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光がないと、人を視る力の発達した今日においては、性格を描写したとは申されないのであります。
したがって人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要するに人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんのです。
進んだる世の中に、もっとも進んだる眼識を具えた男――特に文学者としてではない、一般人間としてこの方面に立派な腕前のある男――でなければ手は出せぬはずであります。
世の中はそう思っておりません。
何の小説家がと、小説家をもってあたかも指物師とか経師屋のごとく単に筆を舐って衣食する人のように考えている。
小説家よりも大学の先生の方が遥にえらいと考えている。
内務省の地方局長の方がなお遥にえらいと思っている。
大臣や金持や華族様はなおなお遥にえらいと思っている。
妙な事であります。
もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促されて、開化の進路にあたる一叢の荊棘を切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。
(小説家の功力はこの一点に限ると云う意味ではない。
この一点を挙げて考えても局長さんや博士さんに劣るものでないと云うのであります)もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もないではないかと云われるならば、私はこう答える。
それは小説家の罪ではない。
現今日本の小説家(私も