その一線だけでは画は成立せぬにも関わらず)勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もできますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりましょうし、あるいは婉約の情、温厚な感を蓄える事もありましょう。(知、情の理想が比較的顕著でないのは性質上やむをえません)こうなると線と点だけが理想を含むようになります。ちょうど金石文字や法帖と同じ事で、書を見ると人格がわかるなどと云う議論は全くこれから出るのであろうと考えられます。だから、この技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄して参ります。しかし前種の技巧、すなわち物に対する明暸なる知覚をそのままにあらわす手際は、全然理想と没交渉と云う訳には参りませんが、比較的にこれとは独立したものであります。これをわかりやすく申しますと、物をかいて、現物のように出来上っても、知、情、意、の働きのあらわれておらんのがあります。何だか気乗りのしないのがあります。どことなく機械的なのがあります。私の技巧と云うのは、この種の技巧を云うのであります。私の非難したいのは、この種の技巧だけで画工になろうと云う希望を抱く人々であります。無論諸君は、画工になるにはこの種の技巧だけで充分だと御考えになってはおられますまい。しかし技巧をおもにして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間に、ついこの弊に陥る事がないとは限らんと思います。再び前段に立ち帰って根本的に申しますと、前に述べた通り、文芸は感覚的な或物を通じて、ある理想をあらわすものであります。だからしてその第一主義を云えばある理想が感覚的にあらわれて来なければ、存在の意義が薄くなる訳であります。この理想を感覚的にする方便として始めて技巧の価値が出てくるものと存じます。この理想のない技巧家を称して、いわゆる市気匠気のある芸術家と云うのだろうと考えます。市気匠気のある絵画がなぜ下品かと云うと、その画面に何らの理想があらわれておらんからである。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小で、卑俗で、毫も人生に触れておらんからであります。
第 6 章
私は近頃流行する言語を拝借して、人生に触れておらんと申しました。
私のいわゆる人生に触れると申す意味は、前段からの議論で大概は御分りになったろうとは思いますが、御約束だから形式的に説明致しますと、比較的簡単で明暸であります。
少くとも私だけにはそう思われます。
我々は意識の連続を希望します。
連続の方法と意識の内容の変化とが吾人に選択の範囲を与えます。
この範囲が理想を与えます。
そうしてこの理想を実現するのを、人生に触れると申します。
これ以外に人生に触れたくても触れられよう訳がありません。
そうしてこの理想は真、美、善、壮の四種に分れますからして、この四種の理想を実現し得る人は、同等の程度に人生に触れた人であります。
真の理想をあらわし得る人は、美の理想をあらわし得る人と、同様の権利と重みとをもって、人生に触れるのであります。
善の理想を示し得る人は壮の理想を示し得る人と、同様の権利と重みをもって、人生に触れたものであります。
いずれの理想をあらわしても、同じく人生に触れるのであります。