文芸の哲学的基礎

その四種がまたいろいろに分化して行く事も前に述べたごとくであります。この四種の理想は文芸家の理想ではあるが、ある意味から云うと一般人間の理想でありますからして、この四面に渉ってもっとも高き理想を有している文芸家は同時に人間としてももっとも高くかつもっとも広き理想を有した人であります。人間としてもっとも広くかつ高き理想を有した人で始めて他を感化する事ができるのでありますから、文芸は単なる技術ではありません。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を与うるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱であります。偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉として末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれると云う意味で云うのではありません。作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の心に浸み渡って、その血となり肉となって彼らの子々孫々まで伝わると云う意味であります。文芸に従事するものはこの意味で後世に伝わらなくては、伝わる甲斐がないのであります。人名辞書に二行や三行かかれる事は伝わるのではない。自分が伝わるのではない。活版だけが伝わるのであります。自己が真の意味において一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事する事の閑事業でない事を自覚するのであります。始めて自己が一個人でない、社会全体の精神の一部分であると云う事実を意識するのであります。始めて文芸が世道人心に至大の関係があるのを悟るのであります。我々は生慾の念から出立して、分化の理想を今日まで持続したのでありますから、この理想をある手段によって実現するものは、我々生存の目的を、一層高くかつ大いにした功蹟のあるものであります。もっとも偉大なる理想をもっともよく実現するものは我々生存の目的をもっともよく助長する功蹟のあるものであります。文芸の士はこの意味においてけっして閑人ではありません。芭蕉のごとく消極的な俳句を造るものでも李白のような放縦な詩を詠ずるものでもけっして閑人ではありません。普通の大臣豪族よりも、有意義な生活を送って、皆それぞれに人生の大目的に貢献しております。

第 5 章
理想りそうとは何なんでもない。
いかにして生存せいぞんするがもっともよきかの問題もんだいに対したいして与えあたえたる答案とうあんに過ぎんすぎんのであります。
画家がかの画が、文士ぶんしの文ぶん、は皆みなこの答案とうあんであります。
文芸家ぶんげいかは世間せけんからこの問題もんだいを呈出ていしゅつされるからして、いろいろの方便ほうべんによって各自かくじが解釈かいしゃくした答案とうあんを呈出ていしゅつ者ものに与えあたえてやるに過ぎんすぎんのであります。
答案とうあんが有力ゆうりょくであるためには明暸めいりょうでなければならん、せっかくの名答めいとうも不ふ明暸めいりょうであるならば、相互そうごの意志いしが疏通そつうせぬような不都合ふつごうに陥りおちいります。
いわゆる技巧ぎこうと称するしょうするものは、この答案とうあんを明暸めいりょうにするために文芸ぶんげいの士しが利用りようする道具どうぐであります。
道具どうぐは固よりもとより本体ほんたいではない。
そこで諸君しょくんはわかったと云わいわれるかも知れしれぬ。
またはわからぬと云わいわれるかも知れしれぬ。
分っわかった方ほうはそれでよろしいが、分らわからぬ方ほうには少々しょうしょう説明せつめいをしなければなりません。
ただいま技巧ぎこうは道具どうぐだと申しもうしました。
そう一概いちがいに云ういうと明暸めいりょうなようであるが退いしりぞいて考えるかんがえるとなかなかわかりにくい。
技巧ぎこうとは何なんだと聴かきかれた時じに、たいてい困りこまります。
普通ふつうは思想しそうをあらわす、手段しゅだんだと云いいいますが、その手段しゅだんによって発表はっぴょうされる思想しそうだからして、思想しそうを離れはなれて、手段しゅだんだけを考えるかんがえる訳わけには行かいかず、また手段しゅだんを離れはなれて思想しそうだけを拝見はいけんする訳わけには無論むろん行きいきません。
それでだんだん論じろんじつめて行くいくと、どこまでが手段しゅだんで、どこからが思想しそうだかはなはだ曖昧あいまいになります。
ちょうどこの白墨はくぼくについて云ういうと、白いしろい色いろと白墨はくぼくの形かたちとを切離すきりはなすようなものでこの格段かくだんな白墨はくぼくを目安めやすにして論ずるろんずると白いしろい色いろをとれば形かたちはなくなってしまいますし、またこの形かたちをとれば白いしろい色いろも消えきえてしまいます。
両りょうつのものは二ににして一いち、一いちにして二にと云っいってもしかるべきものであります。
そこで哲理てつり的まとに論ずるろんずるとなかなか面倒めんどうですから、分りわかりやすいために実例じつれいで説明せつめいしようと思いおもいます。
せんだって大学だいがくで講義こうぎの時じに引用いんようした例れいがありますから、ちょっとそれで用ようを弁じべんじておきます。
ここに二につの文章ぶんしょうがあります。
最初さいしょのは沙翁しゃおうの句くで、次つぎのはデフォーでふぉーと云ういう男おとこの句くであります。
これを比較ひかくすると技巧ぎこうと内容ないようの区別くべつが自らみずから判然はんぜんするだろうと思いおもいます。
Uneasyliestheheadthatwearsacrown. Kingsfrequentlylamentedthemiserableconsequencesofbeingborntogreatthings,andwishedtheyhadbeeninthemiddleofthetwoextremes,betweenthemeanandthegreat. 大体だいたいの意味いみは説明せつめいする必要ひつようもないまでに明暸めいりょうであります。
すなわち冠かんを戴くいただく頭あたまは安きやすきひまなしと云ういうのが沙翁しゃおうの句くで、高貴こうきの身みに生れうまれたる不幸ふこうを悲しんかなしんで、両極りょうきょくの中なか、上下じょうげの間まに世よを送りおくりたく思うおもうは帝王ていおうの習いならいなりと云ういうのがデフォーでふぉーの句くであります。
無論むろん前者ぜんしゃは韻語いんごの一行いっこうで、後者こうしゃは長いながい散文さんぶん小説しょうせつ中なかの一句いっくであるから、前後ぜんごに関係かんけいして云ういうと、種々しゅじゅな議論ぎろんもできますが、この二に句くだけを独立どくりつさせて評しひょうして見るみると、その技巧ぎこうの点てんにおいて大変たいへんな差違さいがあります。
それはあとから説明せつめいするとして、二に句くの内容ないようは、二に句く共ともに大同小異だいどうしょういである事ことは、誰だれも疑わうたがわぬほどに明かあきらかでありましょう。
だから思想しそうから見るみると双方そうほう共ともに同様どうようと見みても差支さしつかえないとします。
思想しそうが同様どうようであるにも関わらかかわらず、この二に句くを読んよんで得るうる感じかんじには大変たいへんな違いがあります。
私わたくしはせんだって中なかデフォーでふぉーの作物さくもつを批評ひひょうする必要ひつようがあって、その作物さくもつを読よみ直すなおすときに偶然ぐうぜんこの句くに出合いであいまして、ふと沙翁しゃおうのヘンリーへんりー四よん世よ中なかの語ごを思い出しおもいだして、その内容ないようの同じおなじきにも関らかかわらず、その感じかんじに大変たいへんな相違そういのあるに驚きおどろきましたが、なぜこんな相違そういがあるかに至っいたっては解剖かいぼうして見るみるまでは判然はんぜんと自分じぶんにもわからなかったのであります。
そこでこれから御ご話しはなしをするのは私わたくしの当時とうじの感じかんじを解剖かいぼうした所ところであります。
沙翁しゃおうの方ほうから述べのべますと――あの句くは帝王ていおうが年中ねんじゅう(十じゅう年ねんでもよい、二十にじゅう年ねんでもよい。
いやしくも彼かれが位くらいにある間まだけ)の身心しんしん状態じょうたいを、長いながい時間じかんに通ずるつうずる言葉ことばであらわさないで、これを一刻いっこくにつづめて示ししめしている。
そこが一いちつの手際てぎわであります。
その意味いみをもっと詳しくくわしく説明せつめいするとこうなります。
uneasy(不安ふあん)と云ういう語ごは漠然ばくぜんたる心こころの状態じょうたいをあらわすようであるが実じつは非常ひじょうに鋭敏えいびんなよく利くきく言葉ことばであります。
例えばたとえば椅子いすの足あしの折れおれかかったのに腰こしをかけてuneasyであるとか、ズボンずぼん釣りつりを忘れわすれたためズボンずぼんが擦り落ちすりおちそうでuneasyであるとか、すべて落ちつかおちつかぬ様子ようすであります。
もちろん落ちつかおちつかぬ様子ようすと云ういうのは、ある時間じかんの経過けいかを含むふくむ状態じょうたいには相違そういないが、長時間ちょうじかんの経過けいかを待たまたないで、すぐ眼めに映るうつる状態じょうたいであります。
だからこのuneasyと云ういう語ごは、長いながい間ま持続じぞくする状態じょうたいでも、これを一刻いっこくもしくは一いち分ぶんに縮めちぢめて画がのようにとっさの際さいに頭脳ずのうの裏うらに描き出しえがきだし得るうる状態じょうたいであります。
ある人ひとはこう云っいって、私わたくしの説せつを攻撃こうげきするかも知れしれぬ。
――なるほど君きみの云ういうようなuneasyな状態じょうたいもあるかも知れしれない。
しかしそれは身体しんたいのuneasyな場合ばあいで心こころのuneasyな場合ばあいではない。
身体しんたいのuneasyな状態じょうたいは長いながい時間じかんを切っきって断面だんめん的まとにこれを想像そうぞうの鏡かがみに写すうつす事こともできようが、心こころのuneasyな場合ばあいすなわち心配しんぱいとか、気がかりきがかりというようなものは、そういう風かぜに印象いんしょうを構成こうせいする訳わけには行かいかんだろうと。
私わたくしはその攻撃こうげきに対したいしては、こう答えるこたえる。
――そういうuneasyな状態じょうたいはあるに相違そういない。
ないが、ここにはそんな事ことを考えるかんがえる必要ひつようはない。
よし帝王ていおうのuneasinessが精神的せいしんてきであっても、そう考えるかんがえる必要ひつようはない。
必要ひつようはないと云ういうよりもそんな余裕よゆうはない。
uneasyの下したにliesすなわち横わるよこたわるとある。
liesと云ういうと有形ゆうけい的まとな物体ぶったいに適用てきようせらるる文字もじである。
だからuneasyと読んよんで、どちらのuneasyかと迷うまよう間まもなく、直じかliesと云ういう字じに接続せつぞくするからしてuneasyの意味いみは明確めいかくになってくる。
するとまたこう非難ひなんする人ひとが出るでるかも知れしれぬ。
――liesにも両様りょうようがある。
有形物ゆうけいぶつについて云ういう事ことは無論むろんであるが無形物むけいぶつについてもよく使うつかう字じである。
だからuneasyliesでは君きみの云ういうように判然はんぜんたる印象いんしょうは起っおこって来きないと。
この非難ひなんに対するたいする私わたくしの弁解べんかいはこうであります。
uneasyliesでは印象いんしょうが起らおこらぬと云ういうなら第だい三さん字じ目めのheadという字じを読んよんで見るみるがよかろう。
headは具体的ぐたいてきのものである。
よしheadまでも比喩的ひゆてきな意味いみに解せげせられるとしてもuneasyliestheheadと続けつづけて読んよんで、しかもこのheadを抽象的ちゅうしょうてきな能力のうりょくとか知力ちりょくとか解釈かいしゃくする者ものはあるまい。
誰だれでも具体的ぐたいてきの髪かみの生えはえた頭あたまと解釈かいしゃくするであろう。
headを具体的ぐたいてきと解するかいする以上いじょうはliesも無論むろん有形物ゆうけいぶつのlieする有様ありさまに相違そういない。
してみるとuneasyもまた形態けいたいに関係かんけいのない目めに見えみえぬ意味いみとは取りとりにくい。
しかもそのuneasyな有様ありさまはいつまで続くつづくか無論むろんわからないが、よし長なが時間じかん続くつづく状態じょうたいにしても、いやしくも続いつづいている間まは、いつでも目めに見えるみえる状態じょうたいである。
いつでも見えるみえる状態じょうたいであるからして、そのいずれの一瞬いっしゅん間まを截ち切ったちきってもその断面だんめんは長いながい全部ぜんぶを代表だいひょうする事ことができる、語ごを換えかえて云えいえば、十じゅう年ねん二十にじゅう年ねんの状態じょうたいを一瞬いっしゅんの間まにつづめたもの、煮つめにつめたもの、煎じつめせんじつめたものを脳裏のうりに呼び起すよびおこすことができると。
そこでこの煮つめにつめたところ、煎じつめせんじつめたところが沙翁しゃおうの詩的してきなところで、読者どくしゃに電光でんこうの機鋒きほうをちらっと見せるみせるところかと思いおもいます。
これは時間じかんの上うえの話はなしであります。
長いながい時間じかんの状態じょうたいを一いち時じに示すしめす詩的してきな作用さようであります。
ところで沙翁しゃおうには今一ついまひとつの特色とくしょくがあります。
上述じょうじゅつの時間的じかんてきなるに対したいしてこれは空間的くうかんてきと云ういうてもよかろうと思いおもいます。
すなわちこういう解剖かいぼうなのです。
帝王ていおうと云ういう字じは具体ぐたいの名詞めいしか抽象ちゅうしょうの名詞めいしかと問えとえば、誰だれも具体ぐたいと答えるこたえるだろうと思いおもいます。
なるほど具体ぐたい名詞めいしに相違そういないです。
けれどもただ具体的ぐたいてきだと承知しょうちするばかりで、明暸めいりょうな印象いんしょうは比較的ひかくてき出でにくいのです。
帝王ていおうの画がを眼前がんぜんでかいて見ろみろと云わいわれても、すぐと図案ずあんは拵えこしらえられんだろうと思いおもいます。
私わたくし共ともの脳のう中なかにはこの帝王ていおうと云ういうものがすこぶる漠然ばくぜんとして纏らまとまらない図ずになって畳み込またたみこまれています。
ところへtheheadthatwearsacorwnと云わいわれると、帝王ていおうと云ういう観念かんねんが急きゅうに判然はんぜんとします。
なぜかと云ういうと、今までいままでは具体ぐたいであるということだけが解っわかっていたけれど、局部きょくぶの知識ちしきはすこぶる曖昧あいまいで取とめとりとめがつかなかったのであります。
あたかも度どの合わあわぬ眼鏡めがねで物ものを見るみるように、その物ものは独立どくりつして存在そんざいしているが他ほかの物ものと独立どくりつしている事ことだけが明暸めいりょうで、その物ものの内容ないようは朦朧もうろうとしておったのであります。
ところがuneasyliestheheadthatwearsacrownと云わいわれたので焼点しょうてんが急きゅうにきまったような心持こころもちがするのであります。
帝王ていおうと云えいえば個人こじんとして帝王ていおうの全部ぜんぶを想像そうぞうせねばならん、全部ぜんぶを想像そうぞうすると勢いきおいぼんやりする。
ぼんやりしないために、局部きょくぶを想像そうぞうしようとすると、局部きょくぶがたくさんあるので、どこを想像そうぞうしてよいか分りわかりません。
そこで沙翁しゃおうは多くおおくある局部きょくぶのうちで、ここを想像そうぞうするのが一番いちばんいいと教えおしえてくれたのであります。
その教えおしえてくれたのは、帝王ていおうの足あしでもない、手てでもない。
乃至ないしは背骨せぼねでもない。
もしくは帝王ていおうの腹はらの中なかでもない。
彼かれが指さしゆびさして、あすこだけを注意ちゅういして御覧ごらん、kingがよく見えるみえると教えおしえてくれた所ところは、燦爛さんらんたる冠かんを戴くいただく彼かれの頭あたまであります。
この注意ちゅういをうけた吾々われわれは今までいままで全局ぜんきょくに眼めをちらつかせて要領ようりょうを得んえんのに苦しんくるしんでいたのに、かく注意ちゅういを受けうけたから、試みこころみにその方ほうへ視線しせんをむけると、なるほどkingが見えみえたのであります。
明暸めいりょうなのは局部きょくぶに過ぎすぎぬけれども、この局部きょくぶがkingを代表だいひょうしてしかるべき精髄せいずいであるからして、ここが明暸めいりょうに見えれみえれば全体ぜんたいを明暸めいりょうに見みたと同じおなじ事ことになる。
取とりも直さなおさず物ものを見るみるべき要点ようてんを沙翁しゃおうが我々われわれに教えおしえてくれたのであります。
この要点ようてんは全体ぜんたいを明かあきらかにするにおいて功力くりきがあるのみならず、要点ようてん以外いがいに気きを散らすちらす必要ひつようがなく、不要ふようの部分ぶぶんをことごとく切り棄てるきりすてる事こともできるからして、読者どくしゃから云えいえば注意力ちゅういりょくの経済けいざいになる。
この要点ようてんを空間くうかんに配しはいして云ういうと、沙翁しゃおうはkingと云ういう大きなおおきなものを縮めちぢめて、単なるたんなる「冠かんを戴くいただく頭あたま」に変化へんかさしてくれたのであります。
かくして六ろく尺さしの人ひとは一いち尺さしに足らあしらぬ頭あたまと煎じつめせんじつめられたのであります。
してみると沙翁しゃおうの句くは一方いっぽうにおいて時間じかんを煎じつめせんじつめ、一方いっぽうでは空間くうかんを煎じつめせんじつめて、そうして鮮かあざやかに長時間ちょうじかんと広ひろし空間くうかんとを見せみせてくれております。
あたかも肉眼にくがんで遠景えんけいを見るみると漠然ばくぜんとしているが、一いちたび双眼鏡そうがんきょうをかけると大きなおおきな尨大ぼうだいなものが奇麗きれいに縮まっちぢまって眸ひとみ裡りに印するいんするようなものであります。
そうしてこの双眼鏡そうがんきょうの度どを合わしあわしてくれるのがすなわち沙翁しゃおうなのであります。
これが沙翁しゃおうの句くを読んよんで詩的してきだと感ずるかんずる所以ゆえんであります。
ところがデフォーでふぉーの文章ぶんしょうを読んよんで見るみるとまるで違っちがっております。
この男おとこのかき方ほうは長いながいものは長いながいなり、短いみじかいものは短いみじかいなりに書きかき放しはなして毫もごうも煎じつめせんじつめたところがありません。
遠景えんけいを見るみるのに肉眼にくがんで見みています。
度どを合せあわせぬのみか、双眼鏡そうがんきょうを用いようもちいようともしません。
まあ智慧ちえのない叙方ほうと云っいってよいでしょう。
あるいは心配しんぱいして読者どくしゃの便宜べんぎをはかってくれぬ書き方かきかた、呑気のんきもしくは不親切ふしんせつな書き方かきかたと云っいっても悪くわるくはありますまい。
もしくは伸縮しんしゅく方ほうを解せげせぬ、弾力性だんりょくせいのない文章ぶんしょうと評しひょうしても構わかまわないでしょう。
汽車きしゃ電車でんしゃは無論むろん人力じんりきさえ工夫くふうする手段しゅだんを知らしらないで、どこまでも親譲りおやゆずりの二に本ほん足あしでのそのそ歩いあるいて行くいく文章ぶんしょうであります。
したがって散文的さんぶんてきの感かんがあるのです。
散文的さんぶんてきな文章ぶんしょうとは馬うまへも乗れのれず、車くるまへも乗れのれず、何なんらの才覚さいかくがなくって、ただ地道じみちに御ご拾いひろいでおいでになる文章ぶんしょうを云ういうのであります。
これはけっして悪口わるぐちではありません、御ご拾いひろいも時々ときどきは結構けっこうであります。
ただ年ねんが年中ねんじゅう足あしを擂木にして、火事かじ見舞みまいに行くいくんでも、葬式そうしきの供ともに立つたつんでも同じおなじ心得こころえで、てくてくやっているのは、本人ほんにんの勝手かってだと云えいえば云ういうようなものの、あまり器量きりょうのない話はなしであります。
デフォーでふぉーははなはだ達筆たっぴつで生涯しょうがいに三百さんびゃく何なん部ぶと云ういう書物しょもつをかきました。
まあ車夫しゃふのような文章家ぶんしょうかなのです。
これで二に家いえの文章ぶんしょうの批評ひひょうは了りおわります。
この批評ひひょうによって、我々われわれの得とくた結論けつろんは何なんであるかと云ういうと、文芸ぶんげいに在っあって技巧ぎこうは大切たいせつなものであると云ういう事ことであります。
もし技巧ぎこうがなければせっかくの思想しそうも、気の毒きのどくな事ことに、さほどな利目ききめが出でて来きない。
沙翁しゃおうとデフォーでふぉーは同じおなじ思想しそうをあらわしたのでありますが、その結果けっかは以上いじょうのごとく、大変たいへんな相違そういを来しきします。
思想しそうが同じいおなじいのにこれほどな相違そういが出るでるのは全くまったく技巧ぎこうのためだと結論けつろんします。
近頃ちかごろ日本にっぽんの文学者ぶんがくしゃのある人々ひとびとは技巧ぎこうは無用むようだとしきりに主張しゅちょうするそうですが、いまだ明暸めいりょうなる御ご考えかんがえを承っうけたまわった事ことがないから、何なんとも申さもうされませんが、以上いじょうの説明せつめいによると、文芸家ぶんげいかである以上いじょうは、技巧ぎこうはどうしても捨てるすてる訳わけには、参るまいるまいと信じしんじます。
そうして以上いじょうの説明せつめいはけっして論理ろんりその他ほかの誤謬ごびゅうを含んふくんでおらんと信じしんじます。
有名ゆうめいな人ひとの作曲さっきょくさえやれば、どんな下手へたが奏しそうしても構わかまわないと云ういう御ご主意しゅいならば文章ぶんしょうも技巧ぎこうは無用むようかも知れしれませんが、私わたくしにはそうは思わおもわれません。
そうして技巧ぎこうを無用むよう視みせらるる方ほうのうちには人生じんせいに触れふれなくては駄目だめだ、技巧ぎこうはどうでもよい、人生じんせいに触れるふれるのが目的もくてきだと言わいわれる人ひとが大分おおいたあるようですが、これもまだ明暸めいりょうな説明せつめいを承っうけたまわった事ことがないから何なんの意味いみだか了解りょうかいできませんが、この言葉ことばを承わるうけたまわるたびに何なんだか妙みょうな心持こころもちがします。
ただ触れろふれろ触れろふれろと仰あおぐがあっても、触れるふれる見当けんとうがつかなければ、作家さっかは途方とほうに暮れくれます。
むやみに人生じんせいだ人生じんせいだと騒いさわいでも、何なんが人生じんせいだか御ご説明せつめいにならん以上いじょうは、火ひの見えみえないのに半鐘はんしょうを擦るするようなもので、ちょっと景気けいきはいいようだが、どいたどいたと駆けかけて行くいく連中れんちゅうは、あとから大におおいに迷惑めいわく致すいたすだろうと察せさっせられます。
人生じんせいに触れろふれろと御ご注文ちゅうもんが出るでる前まえに、人生じんせいとはこんなもの、触れるふれるとはあんなもの、すべてのあんな、こんなを明暸めいりょうにしておいてさてかような訳わけだから技巧ぎこうは無用むようじゃないかと仰せおおせられたなら、その時じ始めはじめて御ご相手あいてを致しいたしても遅くおそくはなかろうと思っおもって、それまでは差し控えるさしひかえる事ことに致しいたしております。
もし私わたくしの方ほうで申すもうす人生じんせいに触れるふれるという意味いみが御承知ごしょうちになりたければ今いまじきに明暸めいりょうなる御ご答えこたえを仕っつかまつってもよろしいが、ついでもある事ことだから、次つぎの節ふしまで待っまっていただきましょう。
御ご待遠まちどおだといかぬから、すぐさま次つぎの節ふしに移っうつって弁じべんじます。
文学者ぶんがくしゃの一部分いちぶぶんで、しきりに触れろふれろ触れろふれろと云いいい、技巧ぎこうは無用むようだ無用むようだと云っいっているに反しはんして、画家がかの方ほうでは――画家がかは我々われわれのように騒々しくそうぞうしくない、おとなしく勉強べんきょうしておられるから、むやみに三さんつ番ばんは敲かたたきかれぬようであるが――しかしその実行じっこうしておられるところを拝見はいけんすると、触れるふれるの触れふれぬのと云ういう事ことは頓着とんちゃくなくただ熱心ねっしんに技術ぎじゅつを研いみがいておられるように見受けみうけます。
申すもうすまでもなく私わたくしは極めてきわめて画道がどうには暗いくらい人間にんげんであります。
だから画がの事ことに関しかんして嘴くちばしを容れるいれる権利けんりは無論むろんないのですが、門外漢もんがいかんの云ういう事ことも時じには御ご参考さんこうになるだろうし、こうして諸君しょくんに御ご目めにかかる機会きかいも滅多めったにありませず、かつ文芸ぶんげい全体ぜんたいに通じつうじての議論ぎろんですから、大胆だいたんなところを述べのべてしまいます。
――あなた方ほうの方ほうでは人間にんげんを御ごかきになるときはモデルもでるを御ご使いつかいになります、草くさや木きを御ごかきになるときは野外やがいもしくは室内しつないで写生しゃせいをなさいます。
これはまことに結構けっこうな事ことで、我々われわれ文学者ぶんがくしゃが四よん畳たたみ半はんのなかで、夢ゆめのような不都合ふつごうな人物じんぶつ、景色けしき、事件じけんを想像そうぞうして好よしみ加減かげんな事ことを並べならべて平気へいきでいるよりも遥はるかに熱心ねっしんな御ご研究けんきゅうであります。
その効能こうのうは固よりもとより御承知ごしょうちの事ことで、私わたくしなどがかれこれ申すもうすのも釈迦しゃかに何なんとかいう類るいになりますが、まず講話こうわの順序じゅんじょとして分らわからぬながら、分っわかったと思うおもう事ことだけを述べのべます。
こう云ういう修業しゅぎょうで得るうる点てんは私わたくしの考えかんがえではまず二に通りとおりになるだろうと思いおもいます。
一いちつは物ものの大小だいしょう形状けいじょう及びおよびその色合いろあいなどについて知覚ちかくが明暸めいりょうになりますのと、この明暸めいりょうになったものを、精細せいさいに写し出すうつしだす事ことが巧者こうしゃにかつ迅速じんそくにできる事ことだと信じしんじます。
二にはこれを描き出すえがきだすに当っあたって使用しようする線せん及びおよび点てんが、描き出さえがきだされる物ものの形状けいじょうや色合いろあいとは比較的ひかくてき独立どくりつして、それ自身じしんにおいて、一種いっしゅの手際てぎわを帯びおびて来るくる事ことであります。
この第だい二にの技術ぎじゅつは技術ぎじゅつでありかつ理想りそうをもあらわしているからして純然じゅんぜんたる技巧ぎこうと見るみる訳わけには参りまいりません。
現にげんに日本にっぽん在来ざいらいの絵画かいがはおもにこの技巧ぎこうだけで価値かちを保ったもったものであります。
それにも関わらかかわらず、これに対したいして鑑賞かんしょうの眼めを恣ほしいままにすると、それぞれに一種いっしゅの理想りそうをあらわしている、すなわち画家がかの人格じんかくを示ししめしている、ために大おおなる感興かんきょうを引くひく事ことが多いおおいのであります。
たとえば一線いっせんの引きひき方ほうでも、(