その一人と御認めになってよろしい)の罪である。局長にでもがあるごとく、博士にでもがあるごとく、小説家にでもがあるのも御互様と申さねばならぬのであります。――また泥溝の中へ落ちました。
第 2 章
実はまだ文学の御話をするほどに講演の歩を進めておらんのであります。
分化作用を述べる際につい口が滑って文学者ことに小説家の眼識に論及してしまったのであります。
だからこれをもって彼らの使命の全般をつくしたとは申されない。
前にも云う通りついでだから分化作用に即して彼らの使命の一端を挙げたのに過ぎんのである。
したがって文学全体に渉っての御話をするときには今少し概括的に出て来なければならぬ訳です。
これから追々そこまで漕ぎつけて行きます。
かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分って自然と人間(物として観たる人間)と超感覚的な神(我を離れて神の存在を認める場合に云うのであります)とし、我を分って知、情、意の三とします。
この我なる三作用と我以外の物とを結びつけると、明かに三の場合が成立します。
すなわち物に向って知を働かす人と、物に向って情を働かす人と、それから物に向って意を働かす人であります。
無論この三作用は元来独立しておらんのだから、ここで知を働かし、情を働かし、意を働かすと云うのは重に働かすと云う意味で、全然他の作用を除却して、それのみを働かすと云うつもりではありません。
そこでこのうちで知を働かす人は、物の関係を明める人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云います。
情を働かす人は、物の関係を味わう人で俗にこれを文学者もしくは芸術家と称えます。
最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で俗にこれを軍人とか、政治家とか、豆腐屋とか、大工とか号しております。
かように意識の内容が分化して来ると、内容の連続も多種多様になるから、前に申した理想、すなわちいかなる意識の連続をもって自己の生命を構成しようかと云う選択の区域も大分自由になります。
ある人は比較的知の作用のみを働かす意識の連続を得て生存せんと冀い、ついに学者になります。
またある人は比較的情を働かす意識の連続をもって生活の内容としたいと云う理想からとうとう文士とか、画家とか、音楽家になってしまいます。
またある人は意志を多く働かし得る意識の連続を希望する結果百姓になったり、車引になったり――これはたんとないかも知れぬが、軍をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりするのは大分あるでしょう。
かく人間の理想を三大別したところで、我々、すなわち今日この席で講演の栄誉を有している私と、その講演を御聴き下さる諸君の理想は何であるかと云うと、云うまでもなく第二に属するものであります。
情を働かして生活したい、知意を働かせたくないと云うのではないが、情を離れて活きていたくないと云うのが我々の理想であります。
しかしただ「情が理想」では合点が行かない。
御互になるほどと合点が参るためには、今少し詳細に「情を理想とする」とは、こんなものだと小かく割って御話しをしなければなるまいと思います。
情を働かす人は物の関係を味わうんだと申しました。
物の関係を味わう人は、物の関係を明めなくてはならず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味が出て来ないからして、情の人はかねて、知意の人でなくてはならず、文芸家は同時に哲学者で同時に実行的の人(創作家)であるのは無論であります。
しかし関係を明める方を専らにする人は、明めやすくするために、味わう事のできない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れません。
林檎が三つあると、三と云う関係を明かにさえすればよいと云うので、肝心の林檎は忘れて、ただ三の数だけに重きをおくようになります。
文芸家にとっても関係を明かにする必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよくこの関係を味わい得るために、明かにするのだからして、いくら明かになるからと云うて、この関係を味わい得ぬ程度までに明かにしては何にもならんのであります。
だから三と云う関係を知るのは結構だが林檎と云う果物を忘るる事はとうてい文芸家にはできんのであります。
文芸家の意志を働かす場合もその通りであります。
物の関係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得るために改造するのである。
からして情の活動に反する程度までにこの関係を新にしてしまうのは、文芸家の断じてやらぬ事であります。
松の傍に石を添える事はあるでしょうが、松を切って湯屋に売払う事はよほど貧乏しないとできにくい。
せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。
して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいささか明暸になったようであります。
すなわち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事ができなくなる。
したがってどこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。
――まずこうなります。
すると文芸家の理想はとうてい感覚的なものを離れては成立せんと云う事になります。
(この事を詳しく論ずるといろいろの疑問が起って来ますが、今は時間がありませんから述べません。
まず大体の上においてこの命題は確然たる根拠のあるものと御考えになっても差支はなかろうと思います)早い話しが無臭無形の神の事でもかこうとすると何か感覚的なものを借りて来ないと文章にも絵にもなりません。
だから旧約全書の神様や希臘の神様はみんな声とか形とかあるいはその他の感覚的な力を有しています。
それだから吾人文芸家の理想は感覚的なる或物を通じて一種の情をあらわすと云うても宜しかろうと存じます。
そこで問題は二つになります。
一は感覚的なものとは何だと云う問題で二はいわゆる一種の情とは、感覚的なものの、どの部分によって、どんな具合にあらわされるかまた、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情をあらわすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題であります。
この問題を解釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体見当がつきます。
第一問の解釈、第二問の解釈として順を追うては述べませんが、ただ秩序を立てて分りやすくするためにやはり一二の番号をふって説明して行きます。
(一)私は最前空間、時間の建立からして、物我の二世界を作ると申しました。
その物なるものは自然である、人間である、(単に物として見たる)神である(我以外に存在するとすれば)と申しました。
このうちで神は感覚的なものでないから問題になりません。
もし文芸に神が出現するときは感覚的な或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同じ分類のなかに這入るからしてやはり問題にする必要はありません。
すると残るものは自然と人間であります。
そうして我々は自然とこの人間とに対して一種の情を有しております。
換言すれば感覚的なる自然と感覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるものに対して趣味、すなわち好悪、すなわち情、を有しております。
だからこれらの感覚的な物の関係を味わう事ができます。
のみならずそのうちでもっとも優れたる関係を意識したくなります。
その意識したい理想を実現する一方法として詩ができます、画ができます。
この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的情操と云います。
(実は美的理想以外にもいろいろな理想が起る訳であります。
あるいは一種の関係に突兀と云う名を与え、あるいは他種の関係に飄逸と云う名を与えて、突兀的情操、飄逸的情操と云うのを作っても差支ない。
分化作用が発達すれば自然とここへ来るにきまっています。
西洋人の唱え出した美とか美学とか云うもののために我々は大に迷惑します)かようにして美的理想を自然物の関係で実現しようとするものは山水専門の画家になったり、天地の景物を咏ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家のようなものになります。
それからまた、この美的理想を人物の関係において実現しようとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人ができたり、これを写す事の御得意な画家になります。
現今西洋でも日本でもやかましく騒いでいる裸体画などと云うものは全くこの局部の理想を生涯の目的として苦心しているのであります。
技術としてはむずかしいかも知れぬが文芸家の理想としては、ほんの一部分に過ぎんのであります。
人によると裸体画さえかけば、画の能事は尽きたように吹聴している。
私は画の方は心得がないから、何とも申しかねるが、あれは仏国の現代の風潮が東漸した結果ではないでしょうか。
とにかく、画でも詩でも文でも構わない。
感覚物として見たる人間がすでに感覚物の一部分に過ぎん上に、美的情操と云うのがまた、この感覚物として見たる人間に対する情操の一部に過ぎんと判然した以上は、裸体美と云うものは尊いものかは知れぬが、狭いものには相違ないでしょう。
美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の関係を味う時の味い方で、そのいずれを選ぶかは文芸家の理想できまるべき問題でありますから、分化の結果理想が殖えれば、どこまで割れて行くか分りません。
しかしいくら割れても、ここに云う理想は、感覚物を感覚物として見た時にその関係から生ずるのであります。
すなわちこの際における情操は、感覚物そのものを目的物として見た時に起るので、これを道具に使って、その媒介によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操と混同してはならんのであります。
(二)物我のうち物に対する理想と情操とは以上で大抵御分りになったろうと思います。
すると今度は我の番でありますから、こちらを少々説明します。
(い)我の作用を知情意に区別することは前に述べた通りで、この知の働きを主にして物の関係を明かにするものは哲学者もしくは科学者だと申しました。
なるほど関係を明かにすると云う点より見れば哲学科学の領分に相違ないが、関係を明かにするために一種の情が起るならば、情が起ると云う点において、知の働きであるにもかかわらず文芸的作用と云わねばならんかと思います。
ところが知を働かして情の満足を得るためには前に説明した通り感覚的なものを離れて、単に物の関係のみを抽象してあらわしてはならんのであります。
換言すると文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になります。
そうすると、ここに新しい文芸上の理想が出来上ります。
すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明かにして情の満足を得ると云う理想であります。
この理想を真に対する理想と云います。
だからして真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想にもなります。
ただし後者は具体を通じて真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異なるのであります。
そうしてこの真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけるごとく人間を純感覚物と見做さないのである)あらかじめ吾人の予想した因果律と一致するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります。
たとえば父子が激論をしていると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。
その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩を忘れて、互に相援けて門外に逃げるところを小説にかく。
すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。
すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情の満足を得せしむるのであります。
または反対に、大変中のよかった夫婦が飢饉のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。
するとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れない。
(人間の精神作用から云うと真はいろいろである。
時には相反しても依然として双方共真である)好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云います。
(ろ)吾人の有する第二の精神作用は情であります。
この情を理想として働かせる人を文芸家と云う事は前に述べた通りでありますが、説いてここに至ると混雑を生じやすいからして、少々弁じた上進行します。
単に情と云うと曖昧であります。
なぜなれば我々が情の活動を得んがために、文芸上の作物を仕上げたり、またはこれを味う時に働かしむる情は、作物中に材料として使用する情とは区別する必要があるからであります。
我々は感覚物を感覚物として見るときに一種の情を起します、この情はすなわち文芸家の理想の一であります。
我々はまた感覚物を通じて知を働かせるときに一種の情を起します。
この情もまた文芸家の理想の一であります。
次に我々は同じく感覚物を通じて情を働かせるときにまた一種の情を得ねばならぬ訳であります。
この両の情はたとえその内容において彼此相一致するとしても、これを同体同物としては議論の上において混雑を生ずる訳であります。
例えばある感覚物を通じて怒と云う情をあらわすとすれば、この作物より得る吾人の情もまた同性質の怒かも知れぬけれども(時には異性質の情を起す事あるはもちろんである)両者同物ではない。
前の怒りは原因で後の怒りは結果である。
わかりやすく言い直すと、前の怒りは感覚物に附着した怒である。
(たといその源は我の有する作用中の怒りを我以外に放射して創設せるものにもせよ)後の怒は我と云う自己中に起る怒りである。
だから混同を防ぐためにこの二つを区別しておいて歩を進めます。
しかしその論法は大体において(い)の場合、すなわち吾人は知の働きを愛して、これに一種の情を付与すと云う条りに説明したものと変りはありません。
吾人の心裏に往来する喜怒哀楽は、それ自身において、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、その発現を客観的にして、これをいわゆる物(多くの場合においては人間であります)において認めた時にもまた大に吾人の情を刺激するものであります。
けれどもこの刺激は前に述べた条件に基いて、ある具体、ことに人間を通じて情があらわるるときに始めて享受する事ができるのであります。
情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。
もっとも当体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、これを詳しく説明する余裕がないから略します。
そこでこの種の理想に在っても分化の結果いろいろになりますが、まず標準を云うと、物を通して――物と云うより人と云う方が分りやすいから人としましょう。
――人を通じて愛の関係をあらわすもの、これは十中八九いわゆる小説家の理想になっております。
その愛の関係も分化するといろいろになります。
相愛して夫婦になったり、恋の病に罹ったり――もっとも近頃の小説にはそんな古風なのは滅多にないようですが、それからもっと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩を始めたり、いろいろな理想――理想と云うのもおかしいようだ――とにかくいろいろできます。
次には忠、孝、義侠心、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になります。
この徳義的情操を標準にしたものを総称して善の理想と呼ぶ事ができます。
この事はもっと委細に御話したいが時間がないから略して次に移ります。
(は)精神作用の第三は意志であります。
この意志が文芸的にあらわれ得るためには、やはり前述の条件に従って、感覚的な物を通じて具体化されなくてはなりません。
そうすると、感覚的な物は道具であって、この道具のために意志の働きが判然とあらわれてくる。
しかし道具はどこまでも道具で、意志があらわれるから道具も尊くなる。
例えば徳利のようなものであります。
徳利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が抜けて酒を盛るに堪えなかったならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事はできんのであります。
今かりに大弾丸の空裏を飛ぶ様を写すとする。
するとこれを見る方に二通りある。
一は単に感覚的で、第一に述べたような場合に属する。
一はこの感覚的なるものを通して非常に猛烈な勢――ただの勢では写す事もどうする事もできんから――をあらわす。
すると弾丸は客で、実の目的は弾丸のあらわす猛勢である。
自然ながら、器械的ながら一種の意志の作用である。
冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。
なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。
貴重な生命を賭して海峡を泳いで見たり、沙漠を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。
したがってこれを文芸的にあらわせばやはり文芸的にならんとは断言できません。
いわんや国のためとか、道のためとか、人のためとか、(ろ)の場合に述べた徳義的理想と合するように意志が発現してくると非常な高尚な情操を引き起します。
いわゆる懦夫をして起たしむとはこの時の事であります。
英語ではこれをheroismと名づけます。
吾人のheroismに対して起す情緒は実際偉大なものに相違ありません。
私は今日ここへ参りがけに砲兵工厰の高い煙突から黒煙がむやみにむくむく立ち騰るのを見て一種の感を得ました。
考えると煤煙などは俗なものであります。
世の中に何が汚ないと云って石炭たきほどきたないものは滅多にない。
そうして、あの黒いものはみんな金がとりたいとりたいと云って煙突が吐く呼吸だと思うとなおいやです。
その上あの煙は肺病によくない。
――しかし私はそんな事は忘れて一種の感を得た。
その感じは取も直さず、意志の発現に対して起る感じの一部分であります。
砲兵工厰の煙ですらこうだから真正のheroismに至っては実に壮烈な感じがあるだろうと思います。
文芸家のうちではこの種の情緒を理想とするものは現代においてはほとんどないように思います。
この理想にも分化があるのは無論です。
楠公が湊川で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡ぼさんと云いながら刺しちがえて死んだのは一例であります。
跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。
分化はいろいろできます。
しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うてよろしかろうと思います。
これで文芸家の理想の種類及びその説明はまず一と通り済みました。
概括すると、一が感覚物そのものに対する情緒。
(その代表は美的理想)二が感覚物を通じて知、情、意の三作用が働く場合でこれを分って、(い)知の働く場合(代表は真に対する理想)(ろ)情の働く場合(代表は愛に対する理想及び道義に対する理想)(は)意志の働く場合(代表は荘厳に対する理想)となります。
この四大別の上に連想から来る情緒がいかにして混入するかを論じなければならんのですが、これも時間がないからやめます。
文芸家の理想をようやくこの四種に分けました。
この分類は私が文学論のなかに分けておいたものとは少々違いますが、これは出立地が違うのだから仕方がありません。
もっともこの分け方の方が、明暸で適切のように思われますから、双方違っていてもけっして諸君の御損にはなりません。
さて前にも申す通り、知、情、意なる我々の精神的作用は区別のできるにもかかわらず、区別されたまま、他と関係なく発現するものでない、のみならず文芸にあっては皆感覚物を通じてその作用を現すのであるからして、この四種の理想に対する情操も、互に混合錯雑して、事実上はかように明暸に区劃を受けて、作物中に出てくるものではありません。
それにもかかわらず理想は四種あるので、四種以下にはならんのであります。
しかも或る格段なる作物を取って検して見ると、四種のうちのいずれかがもっとも著しく眼につきます。
したがってこの作はどの理想に属するものだと云う事はある程度まで云えます。
そうしてこの四種の理想が、時代により、個人により、その勢力の消長遷移に影響を受けつつあるは疑うべからざる事実であります。
ある時代には、美の要求を満足しなければ文芸上の作品でないとまで見做される事もありましょう。
また次の時代には理想が推移して美はとにかく真は是非共あらわさなくては文芸の二字を冠らする資格がないと評します。
またある人はどこかで道義心に満足を与えない作物は、作りたくない読みたくないと断言します。
また他の人は意思の発現に伴う荘厳の情緒を得なければ、文芸上のあるものを味うた気がしないとまで主張するかも知れない。
これらの時代もこれらの人々もことごとく正しいのであります。
また四種のいずれでも構わないと云う人があれば、その人の趣味はもっとも広い人でまたもっとも正しい人と判断してもよかろうと思います。
この四種のいずれがいかなる時勢に流行し、いずれがいかなる人にもっとも歓迎さるるかは大分興味ある問題でありますが、これも時間がないから抜きに致します。
ただちょっと御断りをしておきたいのは、この四種は名前の示すごとく四種であって互にそれ相当の主張を有して、文芸の理想となっているものでありますから、甲をもって乙に隷属すべき理由はどうしても発見できんのであります。
この四つのうちに、重要の度からして差等の点数をつけて見ろと云われた時に、何人もこれをあえてする事はできないはずと思います。
もしあるとすれば答案を調べずに点数をつける乱暴な教員と同じもので、言語道断の不心得であります。
ただ吾は時勢の影響を受けているから、しかじかの理想に属するものを好むと云うならばそれでよろしい。
吾は個性としてかくかくの理想の下に包含せらるべきものを択むと云うならば、それで勘弁してもよい。
好悪は理窟にはならんのだから、いやとか好きとか云うならそれまでであるが、根拠のない好悪を発表するのを恥じて、理窟もつかぬところに、いたずらな理窟をつけて、弁解するのは、消化がわるいから僕は蛸が嫌だというような口上で、もし好物であったなら、いかほど不消化でも、だまって、足は八本共に平げるほどな覚悟だろうと思います。
この故にこれら四種の理想は、互に平等な権利を有して、相冒すべからざる標準であります。
だから美の標準のみを固執して真の理想を評隲するのは疝気筋の飛車取り王手のようなものであります。
朝起を標準として人の食慾を批判するようなものでしょう。
御前は朝寝坊だ、朝寝坊だからむやみに食うのだと判断されては誰も心服するものはない。
枡を持ち出して、反物の尺を取ってやるから、さあ持って来いと号令を下したって誰も号令に応ずるものはありません。
寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さはよほどあるよと云う連中は、寒暖計を験温器の代りにして逆上の程度でも計ったらよかろうと思う。
もっともここに見当違いの批評と云うのは、美をあらわした作物を見て、ここには真がないと否定する意味ではない。
真がないから駄目だ作物にならんと云う批評を云うのである。
真はないかも知れぬ、なければないでよい。
無いものを有ると云うて貰いたいとは誰も云わないでしょう。
しかし現にある美だけは見てやらなくっては、せっかく作った作物の生命がなくなる訳であります。
頭は薬缶だが鬚だけは白いと云えば公平であるが、薬缶じゃ御話しにならんよと、一言で退けられたなら、鬚こそいい災難である。
運慶の仁王は意志の発動をあらわしている。
しかしその体格は解剖には叶っておらんだろうと思います。
あれを評して真を欠いてるから駄目だと云うのは、云う方が駄目です。
ミレーの晩祈の図は一種の幽遠な情をあらわしている。
そこに目がつけば、それでたくさんである。
この画には意志の発動がないと云うのは、我慢して聞いてやっても好い。
発動がないから画にならんと云うなら、発動の管から文芸の世界を見る蛙のようなものであります。
しかしながら、一の理想をあらわすときに、他の理想を欠いている場合と、積極的に他の理想を打ち崩している場合とは少々違うのであります。
欠いているのはただ含んでおらんと云うまでで、打ち壊すとなると明かにその理想に違背しているのですからして、この場合には作家の標準にした理想が、すべての他を忘却せしめ得るほどな手際でうまく作物にあらわれておらねばならん。
けれどもこれは天才でもはなはだむずかしい。
したがって普通の場合には功罪が帳消しになって余す所は棒だけになります。
いくら藤村の羊羹でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。
そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常稀有の羊羹好きでなければなりません。
あれも学才があって教師には至極だが、どうも放蕩をしてと云う事になるととうてい及第はできかねます。
品行が方正でないというだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊びをして、二尺に余る料理屋のつけを懐中に呑んで、蹣跚として登校されるようでは、教場内の令名に関わるのは無論であります。
だからいかな長所があっても、この長所を傷ける短所があって、この短所を忘れ得せしむるだけに長所が卓然としていない作物は、惜しいけれども文句がつきます。
私はとくに惜しいけれどもと云いたい。
惜しいと云うのは、すでに長所を認めた上の批評であり、かつ短所をも知り抜いた上の判断で、一本調子に搦手ばかり、五年も六年も突ついている陣笠連とは歩調を一にしたくないからこう云うのであります。
そこでいよいよ現代文芸の理想に移って、少々気焔を述べたいと思います。
現代文芸の理想は何でありましょう。
美?
美ではない。
画の方、彫刻の方でもおそらく、単純な美ではないかも知れないが、それは不案内だから、諸君の御一考を煩わすとして、文学について申すとけっして美ではない。
美と云うものを唯一の生命にしてかいたものは、短詩のほかにはないだろうと思います。
小説には無論ありますまい。
脚本は固よりです。
詳しく云うと、暇がかかるから、このくらいで御免蒙って先へ進みます。
現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか。
この種の理想は無論幾多の作物中に経となり緯となりて織り込まれているには相違ないが、これが現代の理想だと云うには、遥に微弱すぎると思います。
それでは荘厳だろうか。
荘厳が現代の理想ならばいささか頼母しい気持もするが、実際はかえって反対である。
現代の世ほどheroismに欠乏した世はなく、また現代の文学ほどheroismを発揚しない文学は少かろうと思います。
現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つも出ないのでも分ります。
現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない。
例を引けば長くなる、証を挙げれば大変である。
仕方がないから、ただ真の一字が現代文芸ことに文学の理想であると云い放っておきます。
しばらくこれを事実と御承認を願いたい。
ところでこの真なるものも、いわゆる分化作用で、いろいろの種類と程度を有しているには相違ない、英仏独露の諸書を猟渉したらばその変形のおもなものを指摘する事はできる事になりましょう。
私はそれに対してけっして不平を云うつもりではありません。
前に云うごとく、真は四理想の一であって、