文芸の哲学的基礎

その一人と御認めになってよろしい)の罪である。局長にでもがあるごとく、博士にでもがあるごとく、小説家にでもがあるのも御互様と申さねばならぬのであります。――また泥溝の中へ落ちました。

第 2 章
実じつはまだ文学ぶんがくの御ご話はなしをするほどに講演こうえんの歩あゆみを進めすすめておらんのであります。
分化ぶんか作用さようを述べるのべる際さいについ口くちが滑っすべって文学者ぶんがくしゃことに小説家しょうせつかの眼識がんしきに論及ろんきゅうしてしまったのであります。
だからこれをもって彼かれらの使命しめいの全般ぜんぱんをつくしたとは申さもうされない。
前まえにも云ういう通りとおりついでだから分化ぶんか作用さように即しそくして彼かれらの使命しめいの一端いっぱしを挙げあげたのに過ぎんすぎんのである。
したがって文学ぶんがく全体ぜんたいに渉っわたっての御ご話はなしをするときには今いま少しすこし概括がいかつ的まとに出でて来きなければならぬ訳わけです。
これから追々おいおいそこまで漕ぎつけこぎつけて行きいきます。
かく分化ぶんか作用さようで、吾々われわれは物ものと我われとを分ちわかち、物ものを分っわかって自然しぜんと人間にんげん(物ものとして観かんたる人間にんげん)と超ちょう感覚かんかく的まとな神かみ(我われを離れはなれて神かみの存在そんざいを認めるみとめる場合ばあいに云ういうのであります)とし、我われを分っわかって知ち、情じょう、意いの三さんとします。
この我われなる三作さんさく用ようと我われ以外いがいの物ものとを結びつけるむすびつけると、明かあきらかに三さんの場合ばあいが成立せいりつします。
すなわち物ものに向っむかって知ちを働かすはたらかす人ひとと、物ものに向っむかって情じょうを働かすはたらかす人ひとと、それから物ものに向っむかって意いを働かすはたらかす人ひとであります。
無論むろんこの三さん作用さようは元来がんらい独立どくりつしておらんのだから、ここで知ちを働かしはたらかし、情じょうを働かしはたらかし、意いを働かすはたらかすと云ういうのは重じゅうに働かすはたらかすと云ういう意味いみで、全然ぜんぜん他ほかの作用さようを除却じょきゃくして、それのみを働かすはたらかすと云ういうつもりではありません。
そこでこのうちで知ちを働かすはたらかす人ひとは、物ものの関係かんけいを明あきらめる人ひとで俗ぞくにこれを哲学者てつがくしゃもしくは科学者かがくしゃと云いいいます。
情じょうを働かすはたらかす人ひとは、物ものの関係かんけいを味わうあじわう人ひとで俗ぞくにこれを文学者ぶんがくしゃもしくは芸術家げいじゅつかと称えとなえます。
最後さいごに意いを働かすはたらかす人ひとは、物ものの関係かんけいを改造かいぞうする人ひとで俗ぞくにこれを軍人ぐんじんとか、政治家せいじかとか、豆腐とうふ屋やとか、大工だいくとか号しごうしております。
かように意識いしきの内容ないようが分化ぶんかして来るくると、内容ないようの連続れんぞくも多種たしゅ多様たようになるから、前まえに申しもうした理想りそう、すなわちいかなる意識いしきの連続れんぞくをもって自己じこの生命せいめいを構成こうせいしようかと云ういう選択せんたくの区域くいきも大分おおいた自由じゆうになります。
ある人ひとは比較的ひかくてき知ちの作用さようのみを働かすはたらかす意識いしきの連続れんぞくを得とくて生存せいぞんせんと冀いこいねがい、ついに学者がくしゃになります。
またある人ひとは比較的ひかくてき情じょうを働かすはたらかす意識いしきの連続れんぞくをもって生活せいかつの内容ないようとしたいと云ういう理想りそうからとうとう文士ぶんしとか、画家がかとか、音楽家おんがくかになってしまいます。
またある人ひとは意志いしを多くおおく働かしはたらかし得るうる意識いしきの連続れんぞくを希望きぼうする結果けっか百姓ひゃくしょうになったり、車引くるまひきになったり――これはたんとないかも知れしれぬが、軍ぐんをしたり、冒険ぼうけんに出でたり、革命かくめいを企てくわだてたりするのは大分おおいたあるでしょう。
かく人間にんげんの理想りそうを三さん大別たいべつしたところで、我々われわれ、すなわち今日きょうこの席せきで講演こうえんの栄誉えいよを有しゆうしている私わたくしと、その講演こうえんを御ご聴ききき下さるくださる諸君しょくんの理想りそうは何なんであるかと云ういうと、云ういうまでもなく第だい二にに属するぞくするものであります。
情じょうを働かしはたらかして生活せいかつしたい、知意ちいを働かはたらかせたくないと云ういうのではないが、情じょうを離れはなれて活きつきていたくないと云ういうのが我々われわれの理想りそうであります。
しかしただ「情じょうが理想りそう」では合点がてんが行かいかない。
御ご互たがいになるほどと合点がてんが参るまいるためには、今いま少しすこし詳細しょうさいに「情じょうを理想りそうとする」とは、こんなものだと小しょうかく割わりって御ご話しはなしをしなければなるまいと思いおもいます。
情じょうを働かすはたらかす人ひとは物ものの関係かんけいを味わうあじわうんだと申しもうしました。
物ものの関係かんけいを味わうあじわう人ひとは、物ものの関係かんけいを明あきらめなくてはならず、また場合ばあいによってはこの関係かんけいを改造かいぞうしなくては味あじが出でて来きないからして、情じょうの人ひとはかねて、知意ちいの人ひとでなくてはならず、文芸家ぶんげいかは同時どうじに哲学者てつがくしゃで同時どうじに実行じっこう的まとの人ひと(創作家そうさくか)であるのは無論むろんであります。
しかし関係かんけいを明あきらめる方ほうを専らもっぱらにする人ひとは、明あきらめやすくするために、味わうあじわう事ことのできない程度ていどまでにこの関係かんけいを抽象ちゅうしょうしてしまうかも知れしれません。
林檎りんごが三さんつあると、三さんと云ういう関係かんけいを明かあきらかにさえすればよいと云ういうので、肝心かんじんの林檎りんごは忘れわすれて、ただ三さんの数すうだけに重きおもきをおくようになります。
文芸家ぶんげいかにとっても関係かんけいを明かあきらかにする必要ひつようはあるが、これを明かあきらかにするのは従前じゅうぜんよりよくこの関係かんけいを味わいあじわい得るうるために、明かあきらかにするのだからして、いくら明かあきらかになるからと云ういうて、この関係かんけいを味わいあじわい得とくぬ程度ていどまでに明かあきらかにしては何になんにもならんのであります。
だから三さんと云ういう関係かんけいを知るしるのは結構けっこうだが林檎りんごと云ういう果物くだものを忘るるわするる事ことはとうてい文芸家ぶんげいかにはできんのであります。
文芸家ぶんげいかの意志いしを働かすはたらかす場合ばあいもその通りとおりであります。
物ものの関係かんけいを改造かいぞうするのが目的もくてきではない、よりよく情じょうを働かしはたらかし得るうるために改造かいぞうするのである。
からして情じょうの活動かつどうに反するはんする程度ていどまでにこの関係かんけいを新しんにしてしまうのは、文芸家ぶんげいかの断じだんじてやらぬ事ことであります。
松まつの傍そばに石いしを添えるそえる事ことはあるでしょうが、松まつを切っきって湯屋ゆやに売払ううりはらう事ことはよほど貧乏びんぼうしないとできにくい。
せっかくの松まつを一いち片かたの煙けむりとしてしまうともう、情じょうを働かすはたらかす余地よちがなくなるからであります。
して見るみると文芸家ぶんげいかは「物ものの関係かんけいを味わうあじわうものだ」と云ういう句くの意味いみがいささか明暸めいりょうになったようであります。
すなわち物ものの関係かんけいを味わいあじわい得とくんがためには、その物ものがどこまでも具体的ぐたいてきでなくてはならぬ、知意ちいの働きはたらきで、具体的ぐたいてきのものを打ち壊しうちこわしてしまうや否いなや、文芸家ぶんげいかはこの関係かんけいを味わうあじわう事ことができなくなる。
したがってどこまでも具体的ぐたいてきのものに即しそくして、情じょうを働かはたらかせる、具体ぐたいの性質せいしつを破壊はかいせぬ範囲はんい内うちにおいて知ち、意いを働かはたらかせる。
――まずこうなります。
すると文芸家ぶんげいかの理想りそうはとうてい感覚かんかく的まとなものを離れはなれては成立せいりつせんと云ういう事ことになります。
(この事ことを詳しくくわしく論ずるろんずるといろいろの疑問ぎもんが起っおこって来きますが、今いまは時間じかんがありませんから述べのべません。
まず大体だいたいの上うえにおいてこの命題めいだいは確然かくぜんたる根拠こんきょのあるものと御ご考えかんがえになっても差支さしつかえはなかろうと思いおもいます)早いはやい話しはなしが無臭むしゅう無形むけいの神かみの事ことでもかこうとすると何なんか感覚かんかく的まとなものを借りかりて来きないと文章ぶんしょうにも絵えにもなりません。
だから旧約きゅうやく全書ぜんしょの神かみ様ようや希臘ぎりしゃの神かみ様ようはみんな声こえとか形かたちとかあるいはその他ほかの感覚かんかく的まとな力ちからを有しゆうしています。
それだから吾人ごじん文芸家ぶんげいかの理想りそうは感覚かんかく的まとなる或ある物ものを通じつうじて一種いっしゅの情じょうをあらわすと云ういうても宜しかろうよろしかろうと存じぞんじます。
そこで問題もんだいは二につになります。
一いちは感覚かんかく的まとなものとは何なんだと云ういう問題もんだいで二にはいわゆる一種いっしゅの情じょうとは、感覚かんかく的まとなものの、どの部分ぶぶんによって、どんな具合ぐあいにあらわされるかまた、「感覚かんかく的まとなものを通じつうじて」と云ういうのは感覚かんかく的まとなものを使っつかって、この道具どうぐの方便ほうべんである情じょうをあらわすと云ういうのか、しからずんば感覚かんかく的まとなもの、それ自身じしんがこの情じょうをあらわす目的物もくてきぶつかという問題もんだいであります。
この問題もんだいを解釈かいしゃくすると文芸家ぶんげいかの理想りそうの分化ぶんかする模様もようが大体だいたい見当けんとうがつきます。
第だい一いち問もんの解釈かいしゃく、第だい二に問もんの解釈かいしゃくとして順じゅんを追うおうては述べのべませんが、ただ秩序ちつじょを立てたてて分りわかりやすくするためにやはり一二いちにの番号ばんごうをふって説明せつめいして行きいきます。
(一いち)私わたくしは最前さいぜん空間くうかん、時間じかんの建立こんりゅうからして、物我ぶつがの二に世界せかいを作るつくると申しもうしました。
その物ものなるものは自然しぜんである、人間にんげんである、(単にたんに物ものとして見みたる)神かみである(我われ以外いがいに存在そんざいするとすれば)と申しもうしました。
このうちで神かみは感覚かんかく的まとなものでないから問題もんだいになりません。
もし文芸ぶんげいに神かみが出現しゅつげんするときは感覚かんかく的まとな或ある物ものを通じつうじてくるのだから、出現しゅつげんするとしても、他ほかと同じおなじ分類ぶんるいのなかに這入るはいるからしてやはり問題もんだいにする必要ひつようはありません。
すると残るのこるものは自然しぜんと人間にんげんであります。
そうして我々われわれは自然しぜんとこの人間にんげんとに対したいして一種いっしゅの情じょうを有しゆうしております。
換言かんげんすれば感覚かんかく的まとなる自然しぜんと感覚かんかく的まとなる人間にんげんそのものの色合いろあいやら、線せんの配合はいごうやら、大小だいしょうやら、比例ひれいやら、質しつの軟やわ硬かたやら、光線こうせんの反射はんしゃ具合ぐあいやら、彼かれらの有するゆうする音声おんせいやら、すべてこれらの感覚かんかく的まとなるものに対したいして趣味しゅみ、すなわち好悪こうお、すなわち情じょう、を有しゆうしております。
だからこれらの感覚かんかく的まとな物ものの関係かんけいを味わうあじわう事ことができます。
のみならずそのうちでもっとも優れすぐれたる関係かんけいを意識いしきしたくなります。
その意識いしきしたい理想りそうを実現じつげんする一いち方法ほうほうとして詩しができます、画がができます。
この理想りそうに対するたいする情じょうのもっとも著しあらわしきものを称ししょうして美的びてき情操じょうそうと云いいいます。
(実じつは美的びてき理想りそう以外いがいにもいろいろな理想りそうが起るおこる訳わけであります。
あるいは一種いっしゅの関係かんけいに突とっ兀こつと云ういう名なを与えあたえ、あるいは他種たしゅの関係かんけいに飄逸ひょういつと云ういう名なを与えあたえて、突とっ兀こつ的まと情操じょうそう、飄逸ひょういつ的まと情操じょうそうと云ういうのを作っつくっても差支さしつかえない。
分化ぶんか作用さようが発達はったつすれば自然しぜんとここへ来るくるにきまっています。
西洋せいよう人ひとの唱えとなえ出しだした美びとか美学びがくとか云ういうもののために我々われわれは大におおいに迷惑めいわくします)かようにして美的びてき理想りそうを自然しぜん物ものの関係かんけいで実現じつげんしようとするものは山水さんすい専門せんもんの画家がかになったり、天地てんちの景物けいぶつを咏ずる事ことを好むこのむ支那しな詩人しじんもしくは日本にっぽんの俳句はいく家いえのようなものになります。
それからまた、この美的びてき理想りそうを人物じんぶつの関係かんけいにおいて実現じつげんしようとすると、美人びじんを咏ずる事ことの好きすきな詩人しじんができたり、これを写すうつす事ことの御得意ごとくいな画家がかになります。
現今げんこん西洋せいようでも日本にっぽんでもやかましく騒いさわいでいる裸体らたい画がなどと云ういうものは全くまったくこの局部きょくぶの理想りそうを生涯しょうがいの目的もくてきとして苦心くしんしているのであります。
技術ぎじゅつとしてはむずかしいかも知れしれぬが文芸家ぶんげいかの理想りそうとしては、ほんの一部分いちぶぶんに過ぎんすぎんのであります。
人ひとによると裸体らたい画がさえかけば、画がの能事のうじは尽きつきたように吹聴ふいちょうしている。
私わたくしは画がの方ほうは心得こころえがないから、何なんとも申しもうしかねるが、あれは仏国ふつこくの現代げんだいの風潮ふうちょうが東漸とうぜんした結果けっかではないでしょうか。
とにかく、画がでも詩しでも文ぶんでも構わかまわない。
感覚かんかく物ものとして見みたる人間にんげんがすでに感覚かんかく物ものの一部分いちぶぶんに過ぎんすぎん上うえに、美的びてき情操じょうそうと云ういうのがまた、この感覚かんかく物ものとして見みたる人間にんげんに対するたいする情操じょうそうの一部いちぶに過ぎんすぎんと判然はんぜんした以上いじょうは、裸体らたい美びと云ういうものは尊いとうといものかは知れしれぬが、狭いせまいものには相違そういないでしょう。
美的びてきにせよ、突とっ兀こつ的まとにせよ、飄逸ひょういつ的まとにせよ、皆みな吾人ごじんの物ものの関係かんけいを味うあじわう時じの味いあじわい方ほうで、そのいずれを選ぶえらぶかは文芸家ぶんげいかの理想りそうできまるべき問題もんだいでありますから、分化ぶんかの結果けっか理想りそうが殖えれふえれば、どこまで割れわれて行くいくか分りわかりません。
しかしいくら割れわれても、ここに云ういう理想りそうは、感覚かんかく物ものを感覚かんかく物ものとして見みた時じにその関係かんけいから生ずるしょうずるのであります。
すなわちこの際さいにおける情操じょうそうは、感覚かんかく物ものそのものを目的物もくてきぶつとして見みた時じに起るおこるので、これを道具どうぐに使っつかって、その媒介ばいかいによって、感覚かんかく物もの以外いがいの或るあるものに対したいして起すおこす情操じょうそうと混同こんどうしてはならんのであります。
(二に)物我ぶつがのうち物ものに対するたいする理想りそうと情操じょうそうとは以上いじょうで大抵たいてい御ご分りわかりになったろうと思いおもいます。
すると今度こんどは我われの番ばんでありますから、こちらを少々しょうしょう説明せつめいします。
(い)我われの作用さようを知情ちじょう意いに区別くべつすることは前まえに述べのべた通りとおりで、この知ちの働きはたらきを主におもにして物ものの関係かんけいを明かあきらかにするものは哲学者てつがくしゃもしくは科学者かがくしゃだと申しもうしました。
なるほど関係かんけいを明かあきらかにすると云ういう点てんより見れみれば哲学てつがく科学かがくの領分りょうぶんに相違そういないが、関係かんけいを明かあきらかにするために一種いっしゅの情じょうが起るおこるならば、情じょうが起るおこると云ういう点てんにおいて、知ちの働きはたらきであるにもかかわらず文芸ぶんげい的まと作用さようと云わいわねばならんかと思いおもいます。
ところが知ちを働かしはたらかして情じょうの満足まんぞくを得るうるためには前まえに説明せつめいした通りとおり感覚かんかく的まとなものを離れはなれて、単にたんに物ものの関係かんけいのみを抽象ちゅうしょうしてあらわしてはならんのであります。
換言かんげんすると文芸ぶんげい的まとに知ちを働かはたらかせるため感覚かんかく的まとの具体ぐたいを藉りかりて来きなければ成立せいりつしない、具体ぐたいを藉りかりてその媒介ばいかいを待てまてば知ちの働きはたらきといえどもこれを文芸ぶんげい化ばけするを得とくべしと云ういう事ことになります。
そうすると、ここに新しいあたらしい文芸ぶんげい上うえの理想りそうが出来上りできあがります。
すなわち物ものを道具どうぐに使っつかって、知ちを働かしはたらかし、その関係かんけいを明かあきらかにして情じょうの満足まんぞくを得るうると云ういう理想りそうであります。
この理想りそうを真しんに対するたいする理想りそうと云いいいます。
だからして真しんに対するたいする理想りそうは哲学者てつがくしゃ及びおよび科学者かがくしゃの理想りそうであると同時どうじに文芸家ぶんげいかの理想りそうにもなります。
ただし後者こうしゃは具体ぐたいを通じつうじて真しんをあらわすと云ういう条件じょうけんに束縛そくばくされただけが、前者ぜんしゃと異なることなるのであります。
そうしてこの真しんのあらわし方ほう、すなわち知ちを働かすはたらかす具合ぐあいも分化ぶんかしていろいろになりますが、おもに人間にんげんの精神せいしん作用さようが、(この場合ばあいには(一いち)におけるごとく人間にんげんを純じゅん感覚かんかく物ものと見做さみなさないのである)あらかじめ吾人ごじんの予想よそうした因果律いんがりつと一致いっちするか、またはこの因果律いんがりつに一いち歩あゆみの分化ぶんかを加えくわえたる新しん意義いぎに応じおうじて発展はってんする場合ばあいに多くおおく用いもちいられるのであります。
たとえば父子ふしが激論げきろんをしていると、急きゅうに火事かじが起っおこって、家いえが煙けむりにつつまれる。
その時じ今までいままで激論げきろんをしていた親子おやこが、急きゅうに喧嘩けんかを忘れわすれて、互たがいに相そう援けたすけて門もん外そとに逃げるにげるところを小説しょうせつにかく。
すると書いかいた人ひとは無論むろん読むよむ人ひともなるほどさもありそうだと思うおもう。
すなわちこの小説しょうせつはある地位ちいにある親子おやこの関係かんけいを明かあきらかにしたと云ういう点てんにおいて、作者さくしゃ及びおよび読者どくしゃの知ちを働かしはたらかし得とくて、真しんに対するたいする情じょうの満足まんぞくを得とくせしむるのであります。
または反対はんたいに、大変たいへん中なかのよかった夫婦ふうふが飢饉ききんのときに、平生へいぜいの愛あいを忘れわすれて、妻つまの食うくうべき粥かゆを夫おっとが奪っうばって食うくうと云ういう事ことを小説しょうせつにかく。
するとこれもある位地いち境遇きょうぐうにある夫婦ふうふの関係かんけいを明かあきらかにすると云ういう点てんで同様どうようの満足まんぞくを作者さくしゃと読者どくしゃに与えるあたえるかも知れしれない。
(人間にんげんの精神せいしん作用さようから云ういうと真しんはいろいろである。
時じには相反しあいはんしても依然いぜんとして双方そうほう共とも真しんである)好んこのんでこう言うゆう事ことをかく文芸家ぶんげいかを真しんを理想りそうにする文芸家ぶんげいかと云いいいます。
(ろ)吾人ごじんの有するゆうする第だい二にの精神せいしん作用さようは情じょうであります。
この情じょうを理想りそうとして働かはたらかせる人ひとを文芸家ぶんげいかと云ういう事ことは前まえに述べのべた通りとおりでありますが、説いといてここに至るいたると混雑こんざつを生じしょうじやすいからして、少々しょうしょう弁じべんじた上うえ進行しんこうします。
単にたんに情じょうと云ういうと曖昧あいまいであります。
なぜなれば我々われわれが情じょうの活動かつどうを得とくんがために、文芸ぶんげい上うえの作物さくもつを仕上げしあげたり、またはこれを味うあじわう時じに働かはたらかしむる情じょうは、作物さくもつ中なかに材料ざいりょうとして使用しようする情じょうとは区別くべつする必要ひつようがあるからであります。
我々われわれは感覚かんかく物ものを感覚かんかく物ものとして見るみるときに一種いっしゅの情じょうを起しおこします、この情じょうはすなわち文芸家ぶんげいかの理想りそうの一いちであります。
我々われわれはまた感覚かんかく物ものを通じつうじて知ちを働かはたらかせるときに一種いっしゅの情じょうを起しおこします。
この情じょうもまた文芸家ぶんげいかの理想りそうの一いちであります。
次つぎに我々われわれは同じくおなじく感覚かんかく物ものを通じつうじて情じょうを働かはたらかせるときにまた一種いっしゅの情じょうを得とくねばならぬ訳わけであります。
この両りょうの情じょうはたとえその内容ないようにおいて彼此かれこれ相そう一致いっちするとしても、これを同体どうたい同どう物ものとしては議論ぎろんの上うえにおいて混雑こんざつを生ずるしょうずる訳わけであります。
例えばたとえばある感覚かんかく物ものを通じつうじて怒どと云ういう情じょうをあらわすとすれば、この作物さくもつより得るうる吾人ごじんの情じょうもまた同性どうせい質しつの怒どかも知れしれぬけれども(時じには異性いせい質しつの情じょうを起すおこす事ことあるはもちろんである)両者りょうしゃ同どう物ものではない。
前まえの怒りいかりは原因げんいんで後あとの怒りいかりは結果けっかである。
わかりやすく言い直すいいなおすと、前まえの怒りいかりは感覚かんかく物ものに附着ふちゃくした怒どである。
(たといその源みなもとは我われの有するゆうする作用さよう中なかの怒りいかりを我われ以外いがいに放射ほうしゃして創設そうせつせるものにもせよ)後あとの怒どは我われと云ういう自己じこ中なかに起るおこる怒りいかりである。
だから混同こんどうを防ぐふせぐためにこの二につを区別くべつしておいて歩あゆみを進めすすめます。
しかしその論法ろんぽうは大体だいたいにおいて(い)の場合ばあい、すなわち吾人ごじんは知ちの働きはたらきを愛しあいして、これに一種いっしゅの情じょうを付与ふよすと云ういう条じょうりに説明せつめいしたものと変りかわりはありません。
吾人ごじんの心裏しんりに往来おうらいする喜怒哀楽きどあいらくは、それ自身じしんにおいて、吾人ごじんの意識いしきの大部分だいぶぶんを構成こうせいするのみならず、その発現はつげんを客観的きゃっかんてきにして、これをいわゆる物もの(多くおおくの場合ばあいにおいては人間にんげんであります)において認めみとめた時じにもまた大おおに吾人ごじんの情じょうを刺激しげきするものであります。
けれどもこの刺激しげきは前まえに述べのべた条件じょうけんに基いもとづいて、ある具体ぐたい、ことに人間にんげんを通じつうじて情じょうがあらわるるときに始めはじめて享受きょうじゅする事ことができるのであります。
情じょうにおいて興味きょうみを有するゆうするからと云ういうて心理学しんりがく者もののように情じょうだけを抽象ちゅうしょうして、これを死物しぶつとして取扱えとりあつかえば文芸ぶんげい的まとにはなり兼ねるかねるのであります。
もっとも当体とうたいが情じょうであるだけに、知意ちいに比するひすると比較的ひかくてき抽象化ちゅうしょうかしても物ものにならんとは限りかぎりませんが、これを詳しくくわしく説明せつめいする余裕よゆうがないから略しりゃくします。
そこでこの種しゅの理想りそうに在っあっても分化ぶんかの結果けっかいろいろになりますが、まず標準ひょうじゅんを云ういうと、物ものを通しとおして――物ものと云ういうより人ひとと云ういう方ほうが分りわかりやすいから人ひととしましょう。
――人ひとを通じつうじて愛あいの関係かんけいをあらわすもの、これは十中じゅうちゅう八九はちきゅういわゆる小説家しょうせつかの理想りそうになっております。
その愛あいの関係かんけいも分化ぶんかするといろいろになります。
相愛そうあいして夫婦ふうふになったり、恋こいの病やまいに罹っかかったり――もっとも近頃ちかごろの小説しょうせつにはそんな古風こふうなのは滅多めったにないようですが、それからもっと皮肉ひにくなのになると、嫁よめに行きいきながら他ほかの男おとこを慕っしたって見みたり、ようやく思おもうが遂げとげていっしょになる明くる日あくるひから喧嘩けんかを始めはじめたり、いろいろな理想りそう――理想りそうと云ういうのもおかしいようだ――とにかくいろいろできます。
次つぎには忠ただし、孝こう、義侠ぎきょう心こころ、友情ゆうじょう、おもな徳義とくぎ的まと情操じょうそうはその分化ぶんかした変形へんけいと共ともに皆みな標準ひょうじゅんになります。
この徳義とくぎ的まと情操じょうそうを標準ひょうじゅんにしたものを総称そうしょうして善ぜんの理想りそうと呼ぶよぶ事ことができます。
この事ことはもっと委細いさいに御ご話しはなしたいが時間じかんがないから略しりゃくして次つぎに移りうつります。
(は)精神せいしん作用さようの第だい三さんは意志いしであります。
この意志いしが文芸ぶんげい的まとにあらわれ得るうるためには、やはり前述ぜんじゅつの条件じょうけんに従っしたがって、感覚かんかく的まとな物ものを通じつうじて具体化ぐたいかされなくてはなりません。
そうすると、感覚かんかく的まとな物ものは道具どうぐであって、この道具どうぐのために意志いしの働きはたらきが判然はんぜんとあらわれてくる。
しかし道具どうぐはどこまでも道具どうぐで、意志いしがあらわれるから道具どうぐも尊くとうとくなる。
例えばたとえば徳利とっくりのようなものであります。
徳利とっくり自身じしんに貴重きちょうな陶器とうきがないとは限らかぎらぬが、底そこが抜けぬけて酒さけを盛るもるに堪えこらえなかったならば、杯盤はいばんの間まに周旋しゅうせんして主人しゅじんの御意ぎょいに入るはいる事ことはできんのであります。
今いまかりに大おお弾丸だんがんの空裏くうりを飛ぶとぶ様ようを写すうつすとする。
するとこれを見るみる方ほうに二に通りとおりある。
一いちは単にたんに感覚かんかく的まとで、第だい一いちに述べのべたような場合ばあいに属するぞくする。
一いちはこの感覚かんかく的まとなるものを通しとおして非常ひじょうに猛烈もうれつな勢いきおい――ただの勢いきおいでは写すうつす事こともどうする事こともできんから――をあらわす。
すると弾丸だんがんは客きゃくで、実じつの目的もくてきは弾丸だんがんのあらわす猛勢もうせいである。
自然しぜんながら、器械きかい的まとながら一種いっしゅの意志いしの作用さようである。
冬ふゆ富士山ふじやまへ登るのぼるものを見るみると人ひとは馬鹿ばかと云いいいます。
なるほど馬鹿ばかには相違そういないが、この馬鹿ばかを通しとおして一種いっしゅの意志いしが発現はつげんされるとすれば、馬鹿ばか全体ぜんたいに眼めをつける必要ひつようはない、ただその意志いしのあらわれるところ、文芸ぶんげい的まとなるところだけを見みてやればよいかも知れしれません。
貴重きちょうな生命せいめいを賭しとして海峡かいきょうを泳いえいいで見みたり、沙漠さばくを横ぎっよこぎって見みたりする馬鹿ばかは、みんな意志いしを働かすはたらかす意識いしきの連続れんぞくを得とくんがために他ほかを犠牲ぎせいに供するきょうするのであります。
したがってこれを文芸ぶんげい的まとにあらわせばやはり文芸ぶんげい的まとにならんとは断言だんげんできません。
いわんや国くにのためとか、道みちのためとか、人ひとのためとか、(ろ)の場合ばあいに述べのべた徳義とくぎ的まと理想りそうと合するがっするように意志いしが発現はつげんしてくると非常ひじょうな高尚こうしょうな情操じょうそうを引き起しひきおこします。
いわゆる懦夫だふをして起たたたしむとはこの時じの事ことであります。
英語えいごではこれをheroismと名づけなづけます。
吾人ごじんのheroismに対したいして起すおこす情緒じょうちょは実際じっさい偉大いだいなものに相違そういありません。
私わたくしは今日きょうここへ参りまいりがけに砲兵ほうへい工こう厰しょうの高いたかい煙突えんとつから黒煙こくえんがむやみにむくむく立ちたち騰るあがるのを見みて一種いっしゅの感かんを得とくました。
考えるかんがえると煤煙ばいえんなどは俗ぞくなものであります。
世の中よのなかに何なんが汚ないきたないと云っいって石炭せきたんたきほどきたないものは滅多めったにない。
そうして、あの黒いくろいものはみんな金きんがとりたいとりたいと云っいって煙突えんとつが吐くはく呼吸こきゅうだと思うおもうとなおいやです。
その上うえあの煙けむりは肺病はいびょうによくない。
――しかし私わたくしはそんな事ことは忘れわすれて一種いっしゅの感かんを得とくた。
その感じかんじは取とりも直さなおさず、意志いしの発現はつげんに対したいして起るおこる感じかんじの一部分いちぶぶんであります。
砲兵ほうへい工こう厰しょうの煙けむりですらこうだから真正しんせいのheroismに至っいたっては実じつに壮烈そうれつな感じかんじがあるだろうと思いおもいます。
文芸家ぶんげいかのうちではこの種しゅの情緒じょうちょを理想りそうとするものは現代げんだいにおいてはほとんどないように思いおもいます。
この理想りそうにも分化ぶんかがあるのは無論むろんです。
楠公なんこうが湊川みなとがわで、願がんくは七ななたび人間にんげんに生れうまれて朝敵ちょうてきを亡ぼさほろぼさんと云いいいながら刺しちがえさしちがえて死んしんだのは一いち例れいであります。
跛びっこで結伽けつとぎのできなかった大燈だいとう国師こくしが臨終りんじゅうに、今日きょうこそ、わが言うゆう通りとおりになれと満足まんぞくでない足あしをみしりと折っおって鮮血せんけつが法衣ほういを染めるそめるにも頓着とんちゃくなく座禅ざぜんのまま往生おうじょうしたのも一いち例れいであります。
分化ぶんかはいろいろできます。
しかしその標準ひょうじゅんを云ういうとまず荘厳そうごんに対するたいする情操じょうそうと云ういうてよろしかろうと思いおもいます。
これで文芸家ぶんげいかの理想りそうの種類しゅるい及びおよびその説明せつめいはまず一いちと通りとおり済みすみました。
概括がいかつすると、一いちが感覚かんかく物ものそのものに対するたいする情緒じょうちょ。
(その代表だいひょうは美的びてき理想りそう)二にが感覚かんかく物ものを通じつうじて知ち、情じょう、意いの三さん作用さようが働くはたらく場合ばあいでこれを分っわかって、(い)知ちの働くはたらく場合ばあい(代表だいひょうは真しんに対するたいする理想りそう)(ろ)情じょうの働くはたらく場合ばあい(代表だいひょうは愛あいに対するたいする理想りそう及びおよび道義どうぎに対するたいする理想りそう)(は)意志いしの働くはたらく場合ばあい(代表だいひょうは荘厳そうごんに対するたいする理想りそう)となります。
この四よん大別たいべつの上うえに連想れんそうから来るくる情緒じょうちょがいかにして混入こんにゅうするかを論じろんじなければならんのですが、これも時間じかんがないからやめます。
文芸家ぶんげいかの理想りそうをようやくこの四よん種しゅに分けわけました。
この分類ぶんるいは私わたくしが文学ぶんがく論ろんのなかに分けわけておいたものとは少々しょうしょう違いちがいますが、これは出立しゅったつ地ちが違うちがうのだから仕方しかたがありません。
もっともこの分けわけ方ほうの方ほうが、明暸めいりょうで適切てきせつのように思わおもわれますから、双方そうほう違っちがっていてもけっして諸君しょくんの御ご損そんにはなりません。
さて前まえにも申すもうす通りとおり、知ち、情じょう、意いなる我々われわれの精神的せいしんてき作用さようは区別くべつのできるにもかかわらず、区別くべつされたまま、他ほかと関係かんけいなく発現はつげんするものでない、のみならず文芸ぶんげいにあっては皆みな感覚かんかく物ものを通じつうじてその作用さようを現すあらわすのであるからして、この四よん種しゅの理想りそうに対するたいする情操じょうそうも、互たがいに混合こんごう錯雑さくざつして、事実上じじつじょうはかように明暸めいりょうに区劃くかくを受けうけて、作物さくもつ中なかに出でてくるものではありません。
それにもかかわらず理想りそうは四よん種しゅあるので、四よん種しゅ以下いかにはならんのであります。
しかも或るある格段かくだんなる作物さくもつを取っとって検しけんして見るみると、四よん種しゅのうちのいずれかがもっとも著しくいちじるしく眼めにつきます。
したがってこの作さくはどの理想りそうに属するぞくするものだと云ういう事ことはある程度ていどまで云えいえます。
そうしてこの四よん種しゅの理想りそうが、時代じだいにより、個人こじんにより、その勢力せいりょくの消長しょうちょう遷移せんいに影響えいきょうを受けうけつつあるは疑ううたがうべからざる事実じじつであります。
ある時代じだいには、美びの要求ようきゅうを満足まんぞくしなければ文芸ぶんげい上うえの作品さくひんでないとまで見做さみなされる事こともありましょう。
また次つぎの時代じだいには理想りそうが推移すいいして美びはとにかく真しんは是非ぜひ共ともあらわさなくては文芸ぶんげいの二に字じを冠らかぶらする資格しかくがないと評しひょうします。
またある人ひとはどこかで道みち義心ぎしんに満足まんぞくを与えあたえない作物さくもつは、作りつくりたくない読みよみたくないと断言だんげんします。
また他ほかの人ひとは意思いしの発現はつげんに伴うともなう荘厳そうごんの情緒じょうちょを得とくなければ、文芸ぶんげい上うえのあるものを味うあじわうた気きがしないとまで主張しゅちょうするかも知れしれない。
これらの時代じだいもこれらの人々ひとびともことごとく正しいただしいのであります。
また四よん種しゅのいずれでも構わかまわないと云ういう人ひとがあれば、その人ひとの趣味しゅみはもっとも広いひろい人ひとでまたもっとも正しいただしい人ひとと判断はんだんしてもよかろうと思いおもいます。
この四よん種しゅのいずれがいかなる時勢じせいに流行りゅうこうし、いずれがいかなる人ひとにもっとも歓迎かんげいさるるかは大分おおいた興味きょうみある問題もんだいでありますが、これも時間じかんがないから抜きぬきに致しいたします。
ただちょっと御ご断りことわりをしておきたいのは、この四よん種しゅは名前なまえの示すしめすごとく四よん種しゅであって互たがいにそれ相当そうとうの主張しゅちょうを有しゆうして、文芸ぶんげいの理想りそうとなっているものでありますから、甲こうをもって乙おつに隷属れいぞくすべき理由りゆうはどうしても発見はっけんできんのであります。
この四よんつのうちに、重要じゅうようの度どからして差さ等とうの点数てんすうをつけて見ろみろと云わいわれた時じに、何人なんにんもこれをあえてする事ことはできないはずと思いおもいます。
もしあるとすれば答案とうあんを調べしらべずに点数てんすうをつける乱暴らんぼうな教員きょういんと同じおなじもので、言語げんご道断どうだんの不心得ふこころえであります。
ただ吾われは時勢じせいの影響えいきょうを受けうけているから、しかじかの理想りそうに属するぞくするものを好むこのむと云ういうならばそれでよろしい。
吾われは個性こせいとしてかくかくの理想りそうの下したに包含ほうがんせらるべきものを択たくむと云ういうならば、それで勘弁かんべんしてもよい。
好悪こうおは理窟りくつにはならんのだから、いやとか好きすきとか云ういうならそれまでであるが、根拠こんきょのない好悪こうおを発表はっぴょうするのを恥じはじて、理窟りくつもつかぬところに、いたずらな理窟りくつをつけて、弁解べんかいするのは、消化しょうかがわるいから僕ぼくは蛸たこが嫌いやだというような口上こうじょうで、もし好物こうぶつであったなら、いかほど不消化ふしょうかでも、だまって、足あしは八はち本ほん共ともに平げるたいらげるほどな覚悟かくごだろうと思いおもいます。
この故こにこれら四よん種しゅの理想りそうは、互たがいに平等びょうどうな権利けんりを有しゆうして、相そう冒すおかすべからざる標準ひょうじゅんであります。
だから美びの標準ひょうじゅんのみを固執こしつして真しんの理想りそうを評ひょう隲するのは疝気筋せんきすじの飛車ひしゃ取りとり王手おうてのようなものであります。
朝あさ起きを標準ひょうじゅんとして人ひとの食慾しょくよくを批判ひはんするようなものでしょう。
御前ごぜんは朝寝坊あさねぼうだ、朝寝坊あさねぼうだからむやみに食うくうのだと判断はんだんされては誰だれも心服しんぷくするものはない。
枡ますを持ち出しもちだして、反物たんものの尺さしを取っとってやるから、さあ持っもって来いこいと号令ごうれいを下しおろしたって誰だれも号令ごうれいに応ずるおうずるものはありません。
寒暖計かんだんけいを眺めながめて、どうもあの山やまの高さたかさはよほどあるよと云ういう連中れんちゅうは、寒暖計かんだんけいを験げん温おん器うつわの代りかわりにして逆上ぎゃくじょうの程度ていどでも計っけいったらよかろうと思うおもう。
もっともここに見当けんとう違いちがいの批評ひひょうと云ういうのは、美びをあらわした作物さくもつを見みて、ここには真しんがないと否定ひていする意味いみではない。
真しんがないから駄目だめだ作物さくもつにならんと云ういう批評ひひょうを云ういうのである。
真しんはないかも知れしれぬ、なければないでよい。
無いないものを有るあると云ういうて貰いもらいたいとは誰だれも云わいわないでしょう。
しかし現にげんにある美びだけは見みてやらなくっては、せっかく作っつくった作物さくもつの生命せいめいがなくなる訳わけであります。
頭あたまは薬缶やかんだが鬚ひげだけは白いしろいと云えいえば公平こうへいであるが、薬缶やかんじゃ御ご話しはなしにならんよと、一言ひとことで退けしりぞけられたなら、鬚ひげこそいい災難さいなんである。
運慶うんけいの仁王におうは意志いしの発動はつどうをあらわしている。
しかしその体格たいかくは解剖かいぼうには叶っかなっておらんだろうと思いおもいます。
あれを評しひょうして真しんを欠いかいてるから駄目だめだと云ういうのは、云ういう方ほうが駄目だめです。
ミレーみれーの晩ばん祈いのりの図ずは一種いっしゅの幽遠ゆうえんな情じょうをあらわしている。
そこに目めがつけば、それでたくさんである。
この画がには意志いしの発動はつどうがないと云ういうのは、我慢がまんして聞いきいてやっても好いよい。
発動はつどうがないから画がにならんと云ういうなら、発動はつどうの管かんから文芸ぶんげいの世界せかいを見るみる蛙かわずのようなものであります。
しかしながら、一いちの理想りそうをあらわすときに、他ほかの理想りそうを欠いかいている場合ばあいと、積極的せっきょくてきに他ほかの理想りそうを打ち崩しうちくずしている場合ばあいとは少々しょうしょう違うちがうのであります。
欠いかいているのはただ含んふくんでおらんと云ういうまでで、打ち壊すぶちこわすとなると明かあきらかにその理想りそうに違背いはいしているのですからして、この場合ばあいには作家さっかの標準ひょうじゅんにした理想りそうが、すべての他ほかを忘却ぼうきゃくせしめ得るうるほどな手際てぎわでうまく作物さくもつにあらわれておらねばならん。
けれどもこれは天才てんさいでもはなはだむずかしい。
したがって普通ふつうの場合ばあいには功罪こうざいが帳消しちょうけしになって余すあます所ところは棒ぼうだけになります。
いくら藤村ふじむらの羊羹ようかんでもおまるの中なかに入れいれてあると、少しすこし答えこたえます。
そのおまるたると否いなとを問わとわず、むしゃむしゃ食うくうものに至っいたっては非常ひじょう稀有けうの羊羹ようかん好きすきでなければなりません。
あれも学才がくさいがあって教師きょうしには至極しごくだが、どうも放蕩ほうとうをしてと云ういう事ことになるととうてい及第きゅうだいはできかねます。
品行ひんこうが方正ほうせいでないというだけなら、まだしもだが、大におおいに駄々だだ羅ら遊びあそびをして、二に尺さしに余るあまる料理屋りょうりやのつけを懐中かいちゅうに呑んのんで、蹣跚まんさんとして登校とうこうされるようでは、教場きょうじょう内うちの令名れいめいに関わるかかわるのは無論むろんであります。
だからいかな長所ちょうしょがあっても、この長所ちょうしょを傷けるきずつける短所たんしょがあって、この短所たんしょを忘れわすれ得とくせしむるだけに長所ちょうしょが卓然たくぜんとしていない作物さくもつは、惜しいおしいけれども文句もんくがつきます。
私わたくしはとくに惜しいおしいけれどもと云いいいたい。
惜しいおしいと云ういうのは、すでに長所ちょうしょを認めみとめた上うえの批評ひひょうであり、かつ短所たんしょをも知りしり抜いぬいた上うえの判断はんだんで、一本調子いちぽんちょうしに搦手からめてばかり、五ご年ねんも六ろく年ねんも突ついつついている陣笠じんがさ連れんとは歩調ほちょうを一いちにしたくないからこう云ういうのであります。
そこでいよいよ現代げんだい文芸ぶんげいの理想りそうに移っうつって、少々しょうしょう気焔きえんを述べのべたいと思いおもいます。
現代げんだい文芸ぶんげいの理想りそうは何なんでありましょう。
美び?
美びではない。
画がの方ほう、彫刻ちょうこくの方ほうでもおそらく、単純たんじゅんな美びではないかも知れしれないが、それは不案内ふあんないだから、諸君しょくんの御ご一考いっこうを煩わすわずらわすとして、文学ぶんがくについて申すもうすとけっして美びではない。
美びと云ういうものを唯一ゆいいつの生命せいめいにしてかいたものは、短詩たんしのほかにはないだろうと思いおもいます。
小説しょうせつには無論むろんありますまい。
脚本きゃくほんは固よりもとよりです。
詳しくくわしく云ういうと、暇ひまがかかるから、このくらいで御免ごめん蒙っこうむって先さきへ進みすすみます。
現代げんだいの理想りそうが美びでなければ、善ぜんであろうか、愛あいであろうか。
この種しゅの理想りそうは無論むろん幾多いくたの作物さくもつ中なかに経きょうとなり緯ぬきとなりて織り込まおりこまれているには相違そういないが、これが現代げんだいの理想りそうだと云ういうには、遥はるかに微弱びじゃくすぎると思いおもいます。
それでは荘厳そうごんだろうか。
荘厳そうごんが現代げんだいの理想りそうならばいささか頼母しいたのもしい気持きもちもするが、実際じっさいはかえって反対はんたいである。
現代げんだいの世よほどheroismに欠乏けつぼうした世よはなく、また現代げんだいの文学ぶんがくほどheroismを発揚はつようしない文学ぶんがくは少かろうすくなかろうと思いおもいます。
現代げんだいの世よに荘厳そうごんの感かんを起すおこす悲劇ひげきは一いちつも出でないのでも分りわかります。
現代げんだい文芸ぶんげいの理想りそうが美びにもあらず、善ぜんにもあらずまた荘厳そうごんにもあらざる以上いじょうは、その理想りそうは真しんの一いち字じにあるに相違そういない。
例れいを引けひけば長くながくなる、証あかしを挙げれあげれば大変たいへんである。
仕方しかたがないから、ただ真しんの一いち字じが現代げんだい文芸ぶんげいことに文学ぶんがくの理想りそうであると云い放っいいはなっておきます。
しばらくこれを事実じじつと御ご承認しょうにんを願いねがいたい。
ところでこの真しんなるものも、いわゆる分化ぶんか作用さようで、いろいろの種類しゅるいと程度ていどを有しゆうしているには相違そういない、英仏えいぶつ独露どくろの諸書しょしょを猟りょう渉わたるしたらばその変形へんけいのおもなものを指摘してきする事ことはできる事ことになりましょう。
私わたくしはそれに対したいしてけっして不平ふへいを云ういうつもりではありません。
前まえに云ういうごとく、真しんは四よん理想りそうの一いちであって、