文芸の哲学的基礎

その一たる真が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上銀杏返しがすたれて束髪が流行すると同じように、やむをえぬ次第と考えられます。しかしこれについて一言御参考のために申し上げておきたいのは、ほかでありませんが、こういう事なんです。

第 3 章
人間にんげんの観察かんさつと云ういう者ものは深くふかくなると狭くせまくなるものです。
世の中よのなかに何なんが狭いせまいと云っいって専門家せんもんかほど狭いせまいものはないのでも御ご分りわかりになるでしょう。
狭いせまいと云ういう事ことは別段べつだんわるいと云ういう意味いみは含んふくんでおりませんから、構わかまわないと主張しゅちょうされるかも知れしれませんが、狭いせまいと云ういうと不都合ふつごうな事ことになります。
医者いしゃがあまり熱心ねっしんになって狭いせまい専門せんもんの範囲はんいを、寝ねても覚めさめても出るでる事ことができないと、ついには妻つまに毒薬どくやくを飲ましのまして、その結果けっかを実験じっけんして見みたいなどととんでもない事ことを工夫くふうするかも知れしれません。
世の中よのなかは広いひろいものです、広いひろい世の中よのなかに一いち本ほんの木綿もめん糸いとをわたして、傍目はためも触らさわらず、その上うえを御ご叮嚀ていねいにあるいて、そうして、これが世界せかいだと心得るこころえるのはすでに気の毒きのどくな話はなしであります。
ただ気の毒きのどくなだけなら本人ほんにんさえ我慢がまんすればそれですみますが、こう一本調子いちぽんちょうしに行かいかれては、大におおいにはたのものが迷惑めいわくするような訳わけになります。
往来おうらいをあるくのでも分りわかります。
いくら巡査じゅんさが左ひだりへ左ひだりへと、月給げっきゅうを時間割じかんわりにしたほどな声こえを出しだして、制しせいしても、東西南北とうざいなんぼくへ行くいく人ひとをことごとく一直線いちちょくせんに、同どう方向ほうこうに、同どう速力そくりょくに向けるむける事ことはできません。
広いひろい世界せかいを、広いひろい世界せかいに住むすむ人間にんげんが、随意ずいいの歩調ほちょうで、勝手かってな方角ほうがくへあるいているとすれば、御ご互たがいに行き合ういきあうとき、突き当りつきあたりそうなときは、格別かくべつの理由りゆうのない限りかぎり、両方りょうほうで路みちを譲り合わゆずりあわねばならない。
四よん種しゅの理想りそうは皆みな同等どうとうの権利けんりを有しゆうして人生じんせいをあるいている。
あるくのは御ご随意ずいいだが、権利けんりが同等どうとうであるときまったなら、衝突しょうとつしそうな場合ばあいには御ご互たがいに示談じだんをして、好いよい加減かげんに折りおり合あわせをつけなければならない訳わけです。
この折りおり合あわせをつけるためには、自分じぶんが一人ひとり合点がてんで、自分じぶん一人ひとりの路みちをあるいていてはできない。
つまり向うむこうから来るくる人ひと、横よこから来るくる人ひとも、それぞれ相当そうとうの用事ようじもあり、理由りゆうもあるんだと認めるみとめるだけに、世間せけんが広くひろくなければなりません。
ところが狭くせまく深くふかくなると前まえに云ういうた御ご医者いしゃのようにそれができなくなる。
抽出法ちゅうしゅつほうと云っいって、自分じぶんの熱心ねっしんなところだけへ眼めをつけて他ほかの事ことは皆みな抽出ちゅうしゅつして度外どがいに置いおいてしまう。
度外どがいに置くおく訳わけである。
他ほかの事ことは頭あたまから眼めに這入っはいって来きないのであります。
そうなると本人ほんにんのためには至極しごく結構けっこうであるが、他人たにんすなわち同どう方向ほうこうに進んすすんで行かいかない人ひとにはずいぶん妨害ぼうがいになる事ことがあります。
妨害ぼうがいになると云ういう事ことを知っしっていれば改良かいりょうもするだろうが、自己じこの世界せかいが狭くせまくて、この狭いせまい世界せかい以外いがいに住むすむ人ひとのある事ことを認識にんしきしない原因げんいんから起るおこるとすれば、どうする事こともできません。
現代げんだいの文芸ぶんげいで真しんを重んずるおもんずるの弊へいは、こうなりはしまいかと思うおもうのであります。
否いな現にげんにこうなりつつあると私わたくしは認めみとめているのであります。
真しんを重んずるおもんずるの結果けっか、真しんに到着とうちゃくすれば何なんを書いかいても構わかまわない事こととなる。
真しんを発揮はっきするの結果けっか、美びを構わかまわない、善ぜんを構わかまわない、荘厳そうごんを構わかまわないまではよいが、一歩いちほを超えこえて真しんのために美びを傷つけるきずつける、善ぜんをそこなう、荘厳そうごんを踏み潰すふみつぶすとなっては、真しん派はの人ひとはそれで万歳ばんざいをあげる気きかも知れしれぬが美び党とう、善ぜん党とう、荘厳そうごん党とうは指ゆびを啣えて、ごもっともと屏息へいそくしている訳わけには行くいくまいと思いおもいます。
目的もくてきが違うちがうんだから仕方しかたがないと云ういうのは、他ほかに累るいを及ぼさおよぼさない範囲はんい内うちにおいて云ういう事ことであります。
他ほかに累るいを及ぼさおよぼさざるものが厳いわおとして存在そんざいしていると云ういう事ことすら自覚じかくしないで、真しんの世界せかいだ、真しんの世界せかいだと騒ぎさわぎ廻るまわるのは、交通こうつう便利べんりの世よだ、交通こうつう便利べんりの世よだと、鈴すずをふり立てふりたてて、電車でんしゃが自分勝手じぶんかってな道路どうろを、むちゃくちゃに駆けるかけるようなものである。
電車でんしゃに乗らのらなければ動かうごかないと云ういうほどな電車でんしゃ贔屓ひいきの人ひとなら、それで満足まんぞくかも知れしれぬが、あるいたり、ただの車くるまへ乗っのったり、自転車じてんしゃを用いもちいたりするもののためには不都合ふつごうこの上うえもない事ことと存じぞんじます。
もっとも文芸ぶんげいと云ういうものは鑑賞かんしょうの上うえにおいても、創作そうさくの上うえにおいても、多少たしょうの抽出法ちゅうしゅつほうを含むふくむものであります。
(抽出法ちゅうしゅつほうについては文学ぶんがく論ろん中なかに愚見ぐけんを述べのべてありますから御ご参考さんこうを願いねがいたい)その極端きょくたんに至るいたると妙みょうな現象げんしょうが生じしょうじます。
たとえば、かの裸体らたい画がが公々こう然さと青天白日せいてんはくじつの下したに曝ささらされるようなものであります。
一般いっぱん社会しゃかいの風紀ふうきから云ういうと裸体らたいと云ういうものは、見苦しいみぐるしい不体裁ふていさいであります。
西洋せいよう人ひとが何なんと云おういおうと、そうに違いありません。
私わたくしが保証ほしょうします。
しかしながら、人体じんたいの感覚かんかく美びをあらわすためには、是非ぜひ共とも裸体らたいにしなければならん、この不体裁ふていさいを冒さおかさねばならん事こととなります。
衝突しょうとつはここに存するそんするのです。
この衝突しょうとつは文明ぶんめいが進むすすむに従っしたがって、ますます烈れつ敷しきなるばかりでけっして調停ちょうていのしようがないにきまっています。
これを折り合わおりあわせるためには社会しゃかいの習慣しゅうかんを変えるかえるか、肉体にくたいの感覚かんかく美びを棄てるすてるか、どっちかにしなければなりません、が両方りょうほう共とも強情ごうじょだから、収まりおさまりがつきにくいところを、無理むりに収まりおさまりをつけて、頓珍漢とんちんかんな一種いっしゅの約束やくそくを作りつくりました。
その約束やくそくはこうであります。
「肉体にくたいの感覚かんかく美びに打たうたれているうちは、裸体らたいの社会的しゃかいてき不体裁ふていさいを忘るわすれるべし」と云ういうのであります。
最前さいぜん用いもちいた難かしいむずかしい言葉ことばを使うつかうと不体裁ふていさいの感かんを抽出ちゅうしゅつして、裸体らたい画がは見るみるべきものであると云ういう事ことに帰着きちゃくします。
この約束やくそくが成立せいりつしてから裸体らたい画がはようやくその生命せいめいを繋ぐつなぐ事ことができたのであって、ある画工がこうや文芸ぶんげい批評家ひひょうかの考えるかんがえるように、世間せけん晴れはれて裸体らたい画がが大きなおおきな顔かおをされた義理ぎりではありません。
電車でんしゃは危険きけんだが、交通こうつうに便びんだから、一定いっていの道路どうろに限っかぎって、危険きけんの念ねんを抽出ちゅうしゅつして、あるいてやろうと云ういう条件じょうけんの下したに、東鉄ひがしてつや電鉄でんてつが存在そんざいすると同じおなじ事ことであります。
裸体らたい画がも、東鉄ひがしてつも、電鉄でんてつも、あまり威張れいばれば存在そんざいの権利けんりを取上げとりあげてよいくらいのものであります。
しかし一度いちどび抽出ちゅうしゅつの約束やくそくが成り立てなりたてば構わかまわない。
真しんもその通りとおりであります。
真しんを発揮はっきした作物さくもつに対したいして、他ほかの理想りそうをことごとく忘れるわすれる、抽出ちゅうしゅつすると云ういう条件じょうけんさえ成立せいりつすればそれで宜しいよろしい。
――宜しいよろしいと云っいったって大きなおおきな顔かおをして宜しいよろしいと云ういうのではない、存在そんざいしても宜しいよろしいと云ういうのであります。
他ほかの理想りそう諸君しょくんへは御ご気の毒きのどくだが、僕ぼくも困るこまるから、少しすこし辛抱しんぼうしてくれたまえくらいの態度たいどなら宜しいよろしいと云ういうのであります。
しかしこの条件じょうけんを成立せいりつせしむるためには真しんに対したいして起すおこす情緒じょうちょが強烈きょうれつで、他ほかの理想りそうを忘れわすれ得るうるほどに、うまく発揮はっきされなくてはならん訳わけであります。
今いまの作物さくもつにこれだけの仕事しごとができているかが疑問ぎもんであります。
あまり議論ぎろんが抽象的ちゅうしょうてきになりますから、実例じつれいについて少々しょうしょう自分じぶんの考えかんがえを述べのべて見みましょう。
ここに贋にせの唖おうしが一人ひとりあるとします。
何なんか不審ふしんの件けんがあって警察けいさつへ拘引こういんされる。
尋問じんもんに答えるこたえるのが不利益ふりえきだと悟っさとって、いよいよ唖おうしの真似まねをする。
警官けいかんもやむをえず、そのまま繋留けいりゅうしておくと、翌朝よくあさになって、唖おうしは大変たいへん腹はらが減っへって来きた。
始めはじめは唖おうしだから黙っだまって辛抱しんぼうしたが、とうとう堪えこらえられなくなって、飯めしを食わしくわしてくれろと大きなおおきな声こえを出すだすと云ういう筋すじをかいたら、どんなものでしょう。
面白いおもしろい小説しょうせつになる、ならんの手際てぎわは、問題もんだいとして、とにかくある境遇きょうぐうにおける、ある男おとこについて、一種いっしゅの真しんをあらわす事ことはできる。
面白味おもしろみはそこにあるでしょう。
しかしこれだけでは美びな所ところも、善ぜんな所ところも、また荘厳そうごんな所ところも無論むろんない。
すなわち真しん以外いがいの理想りそうは毫もごうも含んふくんでおらんのです。
そこが疵きずかと云ういうと私わたくしはそうは認めみとめません。
と云ういうものは他ほかの理想りそうを含んふくんでおらんと云ういうまでで、毫もごうもこれを害しがいしてはおりません。
したがって真しんに対するたいする面白味おもしろみを感ずるかんずるのみで、他ほかの理想りそうはことごとく抽出ちゅうしゅつして読みよみ終るおわる事ことが出来でき得るうるからであります。
次つぎにこんな事ことを書いかいたら、どうなりましょう。
一人ひとりの乞食こじきがいる。
諸所しょしょ放浪ほうろうしているうちに、或ある日ひ、或ある時じ、或ある村むらへ差しかかるさしかかると、しきりに腹はらが減るへる。
幸みゆきひっそりとした一いち構えかまえに、人ひとの気はいけはいもない様子ようすを見届けみとどけて、麺めん麭と葡萄酒ぶどうしゅを盗み出しぬすみだして、口腹こうふくの慾よくを充分じゅうぶん充たしみたした上うえ、村外れむらはずれへ出るでると、眠くねむくなって、うとうとしている所ところへ、村むらの女おんなが通りかかるとおりかかる。
腹はらが張っちょうって、酒さけの気きが廻っまわって、当分とうぶんの間まほかの慾よくがなくなった乞食こじきは、女おんなを見るみるや否いなや急きゅうに獣慾じゅうよくを遂行すいこうする。
――この話しはなしはモーパッサンもーぱっさんの書いかいたものにあるそうですが、私わたくしは読んよんだ事ことがありません。
私わたくしにこの話はなしをして聞かしきかした人ひとはしきりに面白いおもしろいと云っいっていました。
なるほど面白いおもしろいでしょう。
しかしその面白いおもしろいと云ういうのは、やはりある境遇きょうぐうにあるものが、ある境遇きょうぐうに移るうつると、それ相応そうおうな事ことをやると云ういう真相しんそうを、臆面おくめんなく書いかいた所ところにあるのでしょう。
しかしこの面白味おもしろみは、前まえの唖おうしの話はなしと違っちがって、ただ真しんを発揮はっきしたばかりではない。
他ほかの理想りそうを打ち壊しうちこわしています。
その打ち壊さぶちこわされた理想りそうを全然ぜんぜん忘れわすれない以上いじょうは、せっかくの面白味おもしろみは打ち消さうちけされてしまうから役やくに立たたたんのみか、他ほかの理想りそうを主におもにする人ひとからさんざんに悪口わるぐちされる場合ばあいが多いおおいだろうと思いおもいます。
こう云ういう場合ばあいに抽出ちゅうしゅつの約束やくそくは成立せいりつしそうにもない。
約束やくそくが成立せいりつしない以上いじょうは、この作物さくもつの生命せいめいはないと云ういうより、生命せいめいを許しゆるし得とくないと云ういう方ほうがよかろうと思いおもいます。
一般いっぱんの世の中よのなかが腐敗ふはいして道義どうぎの観念かんねんが薄くうすくなればなるほどこの種しゅの理想りそうは低くひくくなります。
つまり一般いっぱんの人間にんげんの徳義とくぎ的まと感覚かんかくが鈍くにぶくなるから、作家さっか批評家ひひょうかの理想りそうも他ほかの方面ほうめんへ走っはしって、こちらは御ご留守るすになる。
ついに善ぜんなどはどうでも真しんさえあらわせばと云ういう気分きぶんになるんではありますまいか。
日本にっぽんの現代げんだいがそう云ういう社会しゃかいなら致し方いたしかたもないが、西洋せいようの社会しゃかいがかく腐敗ふはいして文芸ぶんげいの理想りそうが真しんの一方いっぽうに傾いかたむいたものとすれば、前後ぜんごの考えかんがえもなく、すぐそれを担いにないで、神戸こうべや横浜よこはまから輸入ゆにゅうするのはずいぶん気きの早いはやい話はなしであります。
外国がいこくからペストぺすとの種しゅを輸入ゆにゅうして喜ぶよろこぶ国民こくみんは古来こらい多くおおくあるまいと考えるかんがえる。
私わたくしがこう云ういうとあまり極端きょくたんな言語げんごを弄するろうするようでありますが、実際じっさい外国人がいこくにんの書いかいたものを見るみると、私わたくし等とうには抽出法ちゅうしゅつほうがうまく行わおこなわれないために不快ふかいを感ずるかんずる事ことがしばしばあるのだから仕方しかたがありません。
現代げんだいの作物さくもつではないが沙翁しゃおうのオセロおせろなどは