硝子戸の中

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十

第 10 章
向い合っむかいあって座ざを占めしめたOと私わたくしとは、何なんより先さきに互たがいの顔かおを見返しみかえして、そこにまだ昔むかししのままの面影おもかげが、懐かしいなつかしい夢ゆめの記念きねんのように残っのこっているのを認めみとめた。
しかしそれはあたかも古いふるい心こころが新しいあたらしい気分きぶんの中なかにぼんやり織り込まおりこまれていると同じおなじ事ことで、薄暗くうすぐらく一いち面めんに霞んかすんでいた。
恐ろしいおそろしい「時じ」の威力いりょくに抵抗ていこうして、再びふたたびもとの姿すがたに返るかえる事ことは、二人ふたりにとってもう不可能ふかのうであった。
二人ふたりは別れわかれてから今いま会うあうまでの間まに挟まっはさまっている過去かこという不思議ふしぎなものを顧みかえりみない訳わけに行かいかなかった。
Oは昔むかしし林檎りんごのように赤いあかい頬ほおと、人一倍ひといちばい大きなおおきな丸いまりい眼めと、それから女おんなに適してきしたほどふっくりした輪廓りんかくに包まつつまれた顔かおをもっていた。
今いま見みてもやはり赤いあかい頬ほおと丸いまりい眼めと、同じくおなじく骨張らほねばらない輪廓りんかくの持主もちぬしではあるが、それが昔むかししとはどこか違っちがっている。
私わたくしは彼かれに私わたくしの口髭くちひげと揉み上げもみあげを見せみせた。
彼かれはまた私わたくしのために自分じぶんの頭あたまを撫でなでて見せみせた。
私わたくしのは白くしろくなって、彼かれのは薄くうすく禿げはげかかっているのである。
「人間にんげんも樺太からふとまで行けいけば、もう行く先ゆくさきはなかろうな」と私わたくしが調ちょう戯たわむれうと、彼かれは「まあそんなものだ」と答えこたえて、私わたくしのまだ見みた事ことのない樺太からふとの話はなしをいろいろして聞かきかせた。
しかし私わたくしは今いまそれをみんな忘れわすれてしまった。
夏なつは大変たいへん好いよい所ところだという事ことを覚えおぼえているだけである。
私わたくしは幾いく年ねんぶりかで、彼かれといっしょに表ひょうへ出でた。
彼かれはフロックふろっくの上うえへ、とんびのような外套がいとうをぶわぶわに着きていた。
そうして電車でんしゃの中なかで釣つり革かわにぶら下りぶらさがりながら、隠いん袋ふくろから手帛はんけちに包んつつんだものを出しだして私わたくしに見せみせた。
私わたくしは「なんだ」と訊いきいた。
彼かれは「栗饅頭りつまんじゅうだ」と答えこたえた。
栗饅頭りつまんじゅうは先刻せんこく彼かれが私わたくしの宅たくにいた時じに出しだした菓子かしであった。
彼かれがいつの間まに、それを手帛はんけちに包んつつんだろうかと考えかんがえた時じ、私わたくしはちょっと驚かさおどろかされた。
「あの栗饅頭りつまんじゅうを取っとって来きたのか」「そうかも知れしれない」 彼かれは私わたくしの驚いおどろいた様子ようすを馬鹿ばかにするような調子ちょうしでこう云っいったなり、その手帛はんけちの包つつみをまた隠いん袋ふくろに収めおさめてしまった。
我々われわれはその晩ばん帝劇ていげきへ行っいった。
私わたくしの手てに入れいれた二に枚ばいの切符きっぷに北側きたがわから入れいれという注意ちゅういが書いかいてあったのを、つい間違えまちがえて、南側みなみがわへ廻ろうまわろうとした時じ、彼かれは「そっちじゃないよ」と私わたくしに注意ちゅういした。
私わたくしはちょっと立ち留まったちどまって考えかんがえた上うえ、「なるほど方角ほうがくは樺太からふとの方ほうが確かくなようだ」と云いいいながら、また指定していされた入口いりぐちの方ほうへ引き返しひきかえした。
彼かれは始めはじめから帝劇ていげきを知っしっていると云っいっていた。
しかし晩餐ばんさんを済ましすました後あとで、自分じぶんの席せきへ帰ろうかえろうとするとき、誰だれでもやる通りとおり、二に階かいと一いち階かいの扉とびらを間違えまちがえて、私わたくしから笑わわらわれた。
折々おりおり隠いん袋ふくろから金縁きんぶちの眼鏡めがねを出しだして、手てに持っもった摺物すりものを読んよんで見るみる彼かれは、その眼鏡めがねを除さじょさずに遠いとおい舞台ぶたいを平気へいきで眺めながめていた。
「それは老眼鏡ろうがんきょうじゃないか。よくそれで遠いとおい所ところが見えるみえるね」「なにチャブドーちゃぶどーだ」 私わたくしにはこのチャブドーちゃぶどーという意味いみが全くまったく解らわからなかった。
彼かれはそれを大差たいさなしという支那しな語ごだと云っいって説明せつめいしてくれた。
その夜よるの帰りかえりに電車でんしゃの中なかで私わたくしと別れわかれたぎり、彼かれはまた遠いとおい寒いさむい日本にっぽんの領地りょうちの北きたの端れはしくれに行っいってしまった。
私わたくしは彼かれを想い出すおもいだすたびに、達人たつじんという彼かれの名なを考えるかんがえる。
するとその名ながとくに彼かれのために天てんから与えあたえられたような心持こころもちになる。
そうしてその達人たつじんが雪ゆきと氷こおりに鎖ざさとざされた北きたの果かに、まだ中なか学校長がっこうちょうをしているのだなと思うおもう。
十一じゅういち
ある奥さんおくさんがある女おんなの人ひとを私わたくしに紹介しょうかいした。
「何なんか書いかいたものを見みていただきたいのだそうでございます」 私わたくしは奥さんおくさんのこの言葉ことばから、頭あたまの中なかでいろいろの事ことを考えかんがえさせられた。
今までいままで私わたくしの所ところへ自分じぶんの書いかいたものを読んよんでくれと云っいって来きたものは何人なんにんとなくある。
その中なかには原稿げんこう紙かみの厚あつしさで、一寸ちょっとまたは二に寸すんぐらいの嵩かさになる大部たいぶのものも交っかっていた。
それを私わたくしは時間じかんの都合つごうの許すゆるす限りかぎりなるべく読んよんだ。
そうして簡単かんたんな私わたくしはただ読みよみさえすれば自分じぶんの頼またのまれた義務ぎむを果しはてしたものと心得こころえて満足まんぞくしていた。
ところが先方せんぽうでは後あとから新聞しんぶんに出しだしてくれと云っいったり、雑誌ざっしへ載せのせて貰いもらいたいと頼んたのんだりするのが常つねであった。
中なかには他ほかに読まよませるのは手段しゅだんで、原稿げんこうを金きんに換えるかえるのが本来ほんらいの目的もくてきであるように思わおもわれるのも少なくすくなくはなかった。
私わたくしは知らしらない人ひとの書いかいた読みよみにくい原稿げんこうを好意的こういてきに読むよむのがだんだん厭いやになって来きた。
もっとも私わたくしの時間じかんに教師きょうしをしていた頃ころから見るみると、多少たしょうの弾力性だんりょくせいができてきたには相違そういなかった。
それでも自分じぶんの仕事しごとにかかれば腹はらの中なかはずいぶん多忙たぼうであった。
親切しんせつずくで見みてやろうと約束やくそくした原稿げんこうすら、なかなか埒らちのあかない場合ばあいもないとは限らかぎらなかった。
私わたくしは私わたくしの頭あたまで考えかんがえた通りとおりの事ことをそのまま奥さんおくさんに話しはなした。
奥さんおくさんはよく私わたくしのいう意味いみを領解りょうかいして帰っかえって行っいった。
約束やくそくの女おんなが私わたくしの座敷ざしきへ来きて、座蒲団ざふとんの上うえに坐っすわったのはそれから間まもなくであった。
佗びしいわびしい雨あめが今いまにも降りふり出しだしそうな暗いくらい空そらを、硝子がらす戸越とごしに眺めながめながら、私わたくしは女おんなにこんな話はなしをした。
――「これは社交しゃこうではありません。御ご互たがいに体裁ていさいの好いよい事ことばかり云い合っいいあっていては、いつまで経っきょうったって、啓発けいはつされるはずも、利益りえきを受けるうける訳わけもないのです。あなたは思い切っおもいきって正直しょうじきにならなければ駄目だめですよ。自分じぶんさえ充分じゅうぶんに開放かいほうして見せれみせれば、今いまあなたがどこに立ったってどっちを向いむかいているかという実際じっさいが、私わたくしによく見えみえて来るくるのです。そうした時じ、私わたくしは始めはじめてあなたを指導しどうする資格しかくを、あなたから与えあたえられたものと自覚じかくしても宜しいよろしいのです。だから私わたくしが何なんか云っいったら、腹はらに答えこたえべき或ある物ものを持っもっている以上いじょう、けっして黙っだまっていてはいけません。こんな事ことを云っいったら笑わわらわれはしまいか、恥はじを掻きかきはしまいか、または失礼しつれいだといって怒らおこられはしまいかなどと遠慮えんりょして、相手あいてに自分じぶんという正体しょうたいを黒くくろく塗り潰しぬりつぶした所ところばかり示すしめす工夫くふうをするならば、私わたくしがいくらあなたに利益りえきを与えようあたえようと焦慮しょうりょても、私わたくしの射るいる矢やはことごとく空矢そらやになってしまうだけです。 「これは私わたくしのあなたに対するたいする注文ちゅうもんですが、その代りかわり私わたくしの方ほうでもこの私わたくしというものを隠しかくしは致しいたしません。ありのままを曝け出すさらけだすよりほかに、あなたを教えるおしえる途とはないのです。だから私わたくしの考えかんがえのどこかに隙すきがあって、その隙すきをもしあなたから見破らみやぶられたら、私わたくしはあなたに私わたくしの弱点じゃくてんを握らにぎられたという意味いみで敗北はいぼくの結果けっかに陥るおちいるのです。教きょうを受けるうける人ひとだけが自分じぶんを開放かいほうする義務ぎむをもっていると思うおもうのは間違っまちがっています。教えるおしえる人ひとも己れおのれをあなたの前まえに打ち明けるうちあけるのです。双方そうほうとも社交しゃこうを離れはなれて勘破かんぱし合うあうのです。 「そういう訳わけで私わたくしはこれからあなたの書いかいたものを拝見はいけんする時じに、ずいぶん手ひどいてひどい事ことを思い切っおもいきって云ういうかも知れしれませんが、しかし怒っどってはいけません。あなたの感情かんじょうを害するがいするためにいうのではないのですから。その代りかわりあなたの方ほうでも腑ふに落ちおちない所ところがあったらどこまでも切り込んきりこんでいらっしゃい。あなたが私わたくしの主意しゅいを了解りょうかいしている以上いじょう、私わたくしはけっして怒るおこるはずはありませんから。 「要するようするにこれはただ現状げんじょう維持いじを目的もくてきとして、上滑りうわすべりな円滑えんかつを主位しゅいに置くおく社交しゃこうとは全くまったく別物べつものなのです。解りわかりましたか」 女おんなは解っわかったと云っいって帰っかえって行っいった。
十二じゅうに
私わたくしに短冊たんざくを書けかけの、詩しを書けかけのと云っいって来るくる人ひとがある。
そうしてその短冊たんざくやら絖ぬめやらをまだ承諾しょうだくもしないうちに送っおくって来るくる。
最初さいしょのうちはせっかくの希望きぼうを無むにするのも気の毒きのどくだという考かんがえから、拙いつたない字じとは思いおもいながら、先方せんぽうの云ういうなりになって書いかいていた。
けれどもこうした好意こういは永続えいぞくしにくいものと見えみえて、だんだん多くおおくの人ひとの依頼いらいを無むにするような傾向けいこうが強くつよくなって来きた。
私わたくしはすべての人間にんげんを、毎日まいにち毎日まいにち恥はじを掻くかくために生れうまれてきたものだとさえ考えるかんがえる事こともあるのだから、変へんな字じを他ほかに送っおくってやるくらいの所作しょさは、あえてしようと思えおもえば、やれないとも限らかぎらないのである。
しかし自分じぶんが病気びょうきのとき、仕事しごとの忙がしいいそがしい時じ、またはそんな真似まねのしたくない時じに、そういう注文ちゅうもんが引き続いひきつづいて起っおこってくると、実際じっさい弱らよわらせられる。
彼かれらの多くおおくは全くまったく私わたくしの知らしらない人ひとで、そうして自分じぶん達とおるの送っおくった短冊たんざくを再びふたたび送り返すおくりかえすこちらの手数てすうさえ、まるで眼中がんちゅうに置いおいていないように見えるみえるのだから。
そのうちで一番いちばん私わたくしを不愉快ふゆかいにしたのは播州ばんしゅうの坂越さこしにいる岩崎いわさきという人ひとであった。
この人ひとは数すう年ねん前まえよく端書はしがきで私わたくしに俳句はいくを書いかいてくれと頼んたのんで来きたから、その都度つど向うむこうのいう通りとおり書いかいて送っおくった記憶きおくのある男おとこである。
その後そのあとの事ことであるが、彼かれはまた四角しかくな薄いうすい小包こづつみを私わたくしに送っおくった。
私わたくしはそれを開けるあけるのさえ面倒めんどうだったから、ついそのままにして書斎しょさいへ放り出しほうりだしておいたら、下女げじょが掃除そうじをする時じ、つい書物しょもつと書物しょもつの間まへ挟み込んはさみこんで、まず体からだよくしまい失くしなくした姿すがたにしてしまった。
この小包こづつみと前後ぜんごして、名古屋なごやから茶ちゃの缶かんが私わたくし宛ずつで届いとどいた。
しかし誰だれが何なんのために送っおくったものかその意味いみは全くまったく解らわからなかった。
私わたくしは遠慮えんりょなくその茶ちゃを飲んのんでしまった。
するとほどなく坂越さこしの男おとこから、富士ふじ登山とざんの画がを返しかえしてくれと云っいってきた。
彼かれからそんなものを貰っもらった覚さとしのない私わたくしは、打ちうちやっておいた。
しかし彼かれは富士ふじ登山とざんの画がを返せかえせ返せかえせと三さん度ども四よん度ども催促さいそくしてやまない。
私わたくしはついにこの男おとこの精神せいしん状態じょうたいを疑いうたがい出しだした。
「大方おおかた気違きちがいだろう。」私わたくしは心こころの中なかでこうきめたなり向うむこうの催促さいそくにはいっさい取り合わとりあわない事ことにした。
それから二三にさんカ月かげつ経っきょうった。
たしか夏なつの初はつの頃ころと記憶きおくしているが、私わたくしはあまり乱雑らんざつに取り散らさとりちらされた書斎しょさいの中なかに坐っすわっているのがうっとうしくなったので、一人ひとりでぽつぽつそこいらを片づけかたづけ始めはじめた。
その時じ書物しょもつの整理せいりをするため、好いよい加減かげんに積み重ねつみかさねてある字引じびきや参考書さんこうしょを、一いち冊さつずつ改めてあらためて行くいくと、思いがけおもいがけなく坂越さこしの男おとこが寄こしよこした例れいの小包こづつみが出でて来きた。
私わたくしは今までいままで忘れわすれていたものを、眼めのあたり見みて驚ろいおどろいた。
さっそく封ふうを解いといて中なかを検べしらべたら、小さくちいさく畳んたたんだ画がが一いち枚ばい入っはいっていた。
それが富士ふじ登山とざんの図ずだったので、私わたくしはまた吃驚びっくりした。
包つつみのなかにはこの画がのほかに手紙てがみが一いち通つう添えそえてあって、それに画がの賛さんをしてくれという依頼いらいと、御礼ごれいに茶ちゃを送るおくるという文句もんくが書いかいてあった。
私わたくしはいよいよ驚ろいおどろいた。
しかしその時じの私わたくしはとうてい富士ふじ登山とざんの図ずなどに賛さんをする勇気ゆうきをもっていなかった。
私わたくしの気分きぶんが、そんな事こととは遥かはるか懸け離れかけはなれた所ところにあったので、その画がに調和ちょうわするような俳句はいくを考えかんがえている暇ひまがなかったのである。
けれども私わたくしは恐縮きょうしゅくした。
私わたくしは丁寧ていねいな手紙てがみを書いかいて、自分じぶんの怠慢たいまんを謝ししゃした。
それから茶ちゃの御礼ごれいを云っいった。
最後さいごに富士ふじ登山とざんの図ずを小包こづつみにして返しかえした。
十三じゅうさん
私わたくしはこれで一段落いちだんらくついたものと思っおもって、例れいの坂越さこしの男おとこの事ことを、それぎり念頭ねんとうに置かおかなかった。
するとその男おとこがまた短冊たんざくを封じふうじて寄こしよこした。
そうして今度こんどは義士ぎしに関係かんけいのある句くを書いかいてくれというのである。
私わたくしはそのうち書こうかこうと云っいってやった。
しかしなかなか書くかく機会きかいが来きなかったので、ついそのままになってしまった。
けれども執濃いこいこの男おとこの方ほうではけっしてそのままに済ますすます気きはなかったものと見えみえて、むやみに催促さいそくを始めはじめ出しだした。
その催促さいそくは一いち週しゅうに一いち遍へんか、二に週しゅうに一遍いちぺんの割わりできっと来きた。
それが必ずかならず端書はしがきに限っかぎっていて、その書き出しかきだしには、必ずかならず「拝啓はいけい失敬しっけい申しもうし候えそうらえども」とあるにきまっていた。
私わたくしはその人ひとの端書はしがきを見るみるのがだんだん不愉快ふゆかいになって来きた。
同時どうじに向うむこうの催促さいそくも、今までいままで私わたくしの予期よきしていなかった変へんな特色とくしょくを帯びるおびるようになった。
最初さいしょには茶ちゃをやったではないかという言葉ことばが見えみえた。
私わたくしがそれに取り合わとりあわずにいると、今度こんどはあの茶ちゃを返しかえしてくれという文句もんくに改あらためたまった。
私わたくしは返すかえす事ことはたやすいが、その手数てすうが面倒めんどうだから、東京とうきょうまで取りとりに来れこれば返しかえしてやると云っいってやりたくなった。
けれども坂越さこしの男おとこにそういう手紙てがみを出すだすのは、自分じぶんの品格ひんかくに関わるかかわるような気きがしてあえてし切れきれなかった。
返事へんじを受け取らうけとらない先方せんぽうはなおの事こと催促さいそくをした。
茶ちゃを返さかえさないならそれでも好いよいから、金きん一円いちえんをその代価だいかとして送っおくって寄こせよこせというのである。
私わたくしの感情かんじょうはこの男おとこに対したいしてしだいに荒んすさんで来きた。
しまいにはとうとう自分じぶんを忘れるわすれるようになった。
茶ちゃは飲んのんでしまった、短冊たんざくは失くしなくしてしまった、以来いらい端書はしがきを寄こすよこす事ことはいっさい無用むようであると書いかいてやった。
そうして心こころのうちで、非常ひじょうに苦々しいにがにがしい気分きぶんを経験けいけんした。
こんな非ひ紳士的しんしてきな挨拶あいさつをしなければならないような穴あなの中なかへ、私わたくしを追い込んおいこんだのは、この坂越さこしの男おとこであると思っおもったからである。
こんな男おとこのために、品格ひんかくにもせよ人格じんかくにもせよ、幾分いくぶんの堕落だらくを忍ばしのばなければならないのかと考えるかんがえると情なかっなさけなかったからである。
しかし坂越さこしの男おとこは平気へいきであった。
茶ちゃは飲んのんでしまい、短冊たんざくは失くしなくしてしまうとは、余りあまりと申せもうせば……とまた端書はしがきに書いかいて来きた。
そうしてその冒頭ぼうとうには依然いぜんとして拝啓はいけい失敬しっけい申しもうし候えそうらえどもという文句もんくが規則きそく通りとおり繰り返さくりかえされていた。
その時じ私わたくしはもうこの男おとこには取り合うとりあうまいと決心けっしんした。
けれども私わたくしの決心けっしんは彼かれの態度たいどに対したいして何なんの効果こうかのあるはずはなかった。
彼かれは相そう変らかわらず催促さいそくをやめなかった。
そうして今度こんどは、もう一度いちど書いかいてくれれば、また茶ちゃを送っおくってやるがどうだと云っいって来きた。
それから事こといやしくも義士ぎしに関するかんするのだから、句くを作っつくっても好いよいだろうと云っいって来きた。
しばらく端書はしがきが中絶ちゅうぜつしたと思うおもうと、今度こんどはそれが封書ふうしょに変っかわった。
もっともその封筒ふうとうは区役所くやくしょなどで使うつかう極めてきわめて安いやすい鼠色ねずみいろのものであったが、彼かれはわざとそれに切手きってを貼らはらないのである。
その代りかわり裏うらに自分じぶんの姓名せいめいも書かかかずに投函とうかんしていた。
私わたくしはそれがために、倍ばいの郵税ゆうぜいを二に度どほど払わはらわせられた。
最後さいごに私わたくしは配達はいたつ夫おっとに彼かれの氏名しめいと住所じゅうしょとを教えおしえて、封ふうのまま先方せんぽうへ逆送ぎゃくそうして貰っもらった。
彼かれはそれで六ろく銭せん取らとられたせいか、ようやく催促さいそくを断念だんねんしたらしい態度たいどになった。
ところが二にカ月かげつばかり経っきょうって、年ねんが改まるあらたまると共ともに、彼かれは私わたくしに普通ふつうの年始状ねんしじょうを寄こしよこした。
それが私わたくしをちょっと感心かんしんさせたので、私わたくしはつい短冊たんざくへ句くを書いかいて送るおくる気きになった。
しかしその贈物おくりものは彼かれを満足まんぞくさせるに足りたりなかった。
彼かれは短冊たんざくが折れおれたとか、汚れよごれたとか云っいって、しきりに書き直しかきなおしを請求せいきゅうしてやまない。
現にげんに今年ことしの正月しょうがつにも、「失敬しっけい申しもうし候えそうらえども……」という依頼いらい状じょうが七八しちはち日ひ頃ころに届いとどいた。
私わたくしがこんな人ひとに出会っであったのは生れうまれて始めてはじめてである。
十四じゅうよん
ついこの間ま昔むかしし私わたくしの家いえへ泥棒どろぼうの入っはいった時じの話はなしを比較的ひかくてき詳しくくわしく聞いきいた。
姉あねがまだ二人ふたりとも嫁よめづかずにいた時分じぶんの事ことだというから、年代ねんだいにすると、多分たぶん私わたくしの生れるうまれる前後ぜんごに当るあたるのだろう、何しろなにしろ勤王きんのうとか佐幕さばくとかいう荒々しいあらあらしい言葉ことばの流行っりゅうこうったやかましい頃ころなのである。
ある夜よる一いち番目ばんめの姉あねが、夜中よなかに小用こように起きおきた後あと、手てを洗うあらうために、潜戸くぐりどを開けるあけると、狭いせまい中庭なかにわの隅すみに、壁かべを圧しおしつけるような勢いきおいで立ったっている梅うめの古木こぼくの根方ねかたが、かっと明るくあかるく見えみえた。
姉あねは思慮しりょをめぐらす暇ひまもないうちに、すぐ潜戸くぐりどを締めしめてしまったが、締めしめたあとで、今いま目前もくぜんに見みた不思議ふしぎな明るさあかるさをそこに立ちたちながら考えかんがえたのである。
私わたくしの幼心おさなごころに映っうつったこの姉あねの顔かおは、いまだに思い起そうおもいおこそうとすれば、いつでも眼めの前まえに浮ぶうかぶくらい鮮かあざやかである。
しかしその幻像げんぞうはすでに嫁よめに行っいって歯はを染めそめたあとの姿すがたであるから、その時じ縁側えんがわに立ったって考えかんがえていた娘盛りむすめざかりの彼女かのじょを、今いま胸むねのうちに描き出すえがきだす事ことはちょっと困難こんなんである。
広いひろい額がく、浅黒いあさぐろい皮膚ひふ、小さいちいさいけれども明確めいかくした輪廓りんかくを具えそなえている鼻はな、人並ひとなみより大きいおおきい二重瞼にじゅうまぶたの眼め、それから御沢おさわという優しいやさしい名な、――私わたくしはただこれらを綜合そうごうして、その場合ばあいにおける姉あねの姿すがたを想像そうぞうするだけである。
しばらく立ったったまま考えかんがえていた彼女かのじょの頭あたまに、この時じもしかすると火事かじじゃないかという懸念けねんが起っおこった。
それで彼女かのじょは思い切っおもいきってまた切戸きりどを開けあけて外そとを覗こうのぞこうとする途端とたんに、一いち本ほんの光るひかる抜身ぬきみが、闇やみの中なかから、四角しかくに切っきった潜戸くぐりどの中なかへすうと出でた。
姉あねは驚いおどろいて身みを後あとへ退いしりぞいた。
その隙すきに、覆面ふくめんをした、龕灯がんとう提灯ちょうちんを提げさげた男おとこが、抜刀ばっとうのまま、小さいちいさい潜戸くぐりどから大勢おおぜい家いえの中なかへ入っはいって来きたのだそうである。
泥棒どろぼうの人数にんずうはたしか八はち人ひととか聞いきいた。
彼かれらは、他ほかを殺めるあやめるために来きたのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家いえのものに危害きがいは加えくわえない、その代りかわり軍用金ぐんようきんを借かりせと云っいって、父ちちに迫っせまった。
父ちちはないと断っことわった。
しかし泥棒どろぼうはなかなか承知しょうちしなかった。
今角こんかくの小倉おぐら屋やという酒屋さかやへ入っはいって、そこで教えおしえられて来きたのだから、隠しかくしても駄目だめだと云っいって動かうごかなかった。
父ちちは不精ぶしょう無性むしょうに、とうとう何枚なんまいかの小判こばんを彼かれらの前まえに並べならべた。
彼かれらは金額きんがくがあまり少なすくな過ぎるすぎると思っおもったものか、それでもなかなか帰ろうかえろうとしないので、今までいままで床ゆかの中なかに寝ねていた母ははが、「あなたの紙入かみいれに入っはいっているのもやっておしまいなさい」と忠告ちゅうこくした。
その紙入かみいれの中なかには五十ごじゅう両りょうばかりあったとかいう話はなしである。
泥棒どろぼうが出でて行っいったあとで、「余計よけいな事ことをいう女おんなだ」と云っいって、父ちちは母ははを叱りつけしかりつけたそうである。
その事ことがあって以来いらい、私わたくしの家いえでは柱はしらを切りきり組くみにして、その中なかへあり金きんを隠すかくす方法ほうほうを講じこうじたが、隠すかくすほどの財産ざいさんもできず、また黒装束くろしょうぞくを着けつけた泥棒どろぼうも、それぎり来きないので、私わたくしの生長せいちょうする時分じぶんには、どれが切せつ組くみにしてある柱はしらかまるで分らわからなくなっていた。
泥棒どろぼうが出でて行くいく時じ、「この家いえは大変たいへん締りしまりの好いよい宅たくだ」と云っいって賞めほめたそうだが、その締りしまりの好いよい家いえを泥棒どろぼうに教えおしえた小倉おぐら屋やの半兵衛はんべえさんの頭あたまには、あくる日あくるひから擦り傷すりきずがいくつとなくできた。
これは金きんはありませんと断わることわるたびに、泥棒どろぼうがそんなはずがあるものかと云っいっては、抜身ぬきみの先さきでちょいちょい半兵衛はんべえさんの頭あたまを突とっッっついたからだという。
それでも半兵衛はんべえさんは、「どうしても宅たくにはありません、裏うらの夏目なつめさんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情ごうじょを張りばり通しとおして、とうとう金きんは一いち文ぶんも奪らとられずにしまった。
私わたくしはこの話はなしを妻つまから聞いきいた。
妻つまはまたそれを私わたくしの兄あにから茶ちゃ受話じゅわに聞いきいたのである。
十五じゅうご
私わたくしが去年きょねんの十一じゅういち月つき学習がくしゅう院いんで講演こうえんをしたら、薄謝はくしゃと書いかいた紙包かみづつみを後あとから届けとどけてくれた。
立派りっぱな水引みずひきがかかっているので、それを除しじょして中なかを改めるあらためると、五ご円えん札さつが二に枚ばい入っはいっていた。
私わたくしはその金きんを平生へいぜいから気の毒きのどくに思っおもっていた、或ある懇意こんいな芸術家げいじゅつかに贈ろうおくろうかしらと思っおもって、暗にあんに彼かれの来るくるのを待ち受けまちうけていた。
ところがその芸術家げいじゅつかがまだ見えみえない先さきに、何なんか寄附きふの必要ひつようができてきたりして、つい二に枚ばいとも消費しょうひしてしまった。
一口ひとくちでいうと、この金きんは私わたくしにとってけっして無用むようなものではなかったのである。
世間せけんの通りとおり相場そうばで、立派りっぱに私わたくしのために消費しょうひされたというよりほかに仕方しかたがないのである。
けれどもそれを他ほかにやろうとまで思っおもった私わたくしの主観しゅかんから見れみれば、そんなにありがたみの附着ふちゃくしていない金きんには相違そういなかったのである。
打ち明けうちあけた私わたくしの心持こころもちをいうと、こうした御礼ごれいを受けるうけるより受けうけない時じの方ほうがよほど颯爽さっそうしていた。
畔柳くろやなぎ芥舟かいしゅう君きみが樗牛ちょぎゅう会かいの講演こうえんの事ことで見えみえた時じ、私わたくしは話はなしのついでとして一通りひととおりその理由りゆうを述べのべた。
「この場合ばあい私わたくしは労力ろうりょくを売りうりに行っいったのではない。好意こういずくで依頼いらいに応じおうじたのだから、向うむこうでも好意こういだけで私わたくしに酬いむくいたらよかろうと思うおもう。もし報酬ほうしゅう問題もんだいとする気きなら、最初さいしょから御礼ごれいはいくらするが、来きてくれるかどうかと相談そうだんすべきはずでしょう」 その時じK君きみは納得なっとくできないといったような顔かおをした。
そうしてこう答えこたえた。
「しかしどうでしょう。その十じゅう円えんはあなたの労力ろうりょくを買っかったという意味いみでなくって、あなたに対するたいする感謝かんしゃの意いを表するひょうする一いちつの手段しゅだんと見みたら。そう見るみる訳わけには行かいかないのですか」「品物しなものなら判然はんぜんそう解釈かいしゃくもできるのですが、不幸ふこうにも御礼ごれいが普通ふつう営業えいぎょう的まとの売買ばいばいに使用しようする金きんなのですから、どっちとも取れるとれるのです」「どっちとも取れるとれるなら、この際さい善意ぜんいの方ほうに解釈かいしゃくした方ほうが好くよくはないでしょうか」 私わたくしはもっともだとも思っおもった。
しかしまたこう答えこたえた。
「私わたくしは御存じごぞんじの通りとおり原稿料げんこうりょうで衣ころも食しょくしているくらいですから、無論むろん富裕ふゆうとは云えいえません。しかしどうかこうか、それだけで今日きょうを過ごしすごして行かいかれるのです。だから自分じぶんの職業しょくぎょう以外いがいの事ことにかけては、なるべく好意的こういてきに人ひとのために働いはたらいてやりたいという考えかんがえを持っもっています。そうしてその好意こういが先方せんぽうに通じるつうじるのが、私わたくしにとっては、何なんよりも尊みこととい報酬ほうしゅうなのです。したがって金きんなどを受けるうけると、私わたくしが人ひとのために働いはたらいてやるという余地よち、――今いまの私わたくしにはこの余地よちがまた極めてきわめて狭いせまいのです。――その貴重きちょうな余地よちを腐蝕ふしょくさせられたような心持こころもちになります」 K君きみはまだ私わたくしの云ういう事ことを肯わうけがわない様子ようすであった。
私わたくしも強情ごうじょであった。
「もし岩崎いわさきとか三井みついとかいう大富豪だいふごうに講演こうえんを頼むたのむとした場合ばあいに、後あとから十じゅう円えんの御礼ごれいを持っもって行くいくでしょうか、あるいは失礼しつれいだからと云っいって、ただ挨拶あいさつだけにとどめておくでしょうか。私わたくしの考かんがえではおそらく金銭きんせんは持っもって行くいくまいと思うおもうのですが」「さあ」といっただけでK君きみは判然はんぜんした返事へんじを与えあたえなかった。
私わたくしにはまだ云ういう事ことが少しすこし残っのこっていた。
「己おのれ惚ぼけかは知りしりませんが、私わたくしの頭あたまは三井みつい岩崎いわさきに比べるくらべるほど富んとんでいないにしても、一般いっぱん学生がくせいよりはずっと金持かねもちに違いちがいないと信じしんじています」「そうですとも」とK君きみは首肯いうなずいた。
「もし岩崎いわさきや三井みついに十じゅう円えんの御礼ごれいを持っもって行くいく事ことが失礼しつれいならば、私わたくしの所ところへ十じゅう円えんの御礼ごれいを持っもって来るくるのも失礼しつれいでしょう。それもその十じゅう円えんが物質ぶっしつ上うえ私わたくしの生活せいかつに非常ひじょうな潤沢じゅんたくを与えるあたえるなら、またほかの意味いみからこの問題もんだいを眺めるながめる事こともできるでしょうが、現にげんに私わたくしはそれを他ほかにやろうとまで思っおもったのだから。――私わたくしの現下げんかの経済的けいざいてき生活せいかつは、この十じゅう円えんのために、ほとんど目めに立つたつほどの影響えいきょうを蒙らこうむらないのだから」「よく考えかんがえて見みましょう」といったK君きみはにやにや笑いわらいながら帰っかえって行っいった。
十六じゅうろく
宅たくの前まえのだらだら坂さかを下りるおりると、一間いちけんばかりの小川おがわに渡しわたした橋はしがあって、その橋向うはしむこうのすぐ左側ひだりがわに、小さなちいさな床屋とこやが見えるみえる。
私わたくしはたった一度いちどそこで髪かみを刈っかって貰っもらった事ことがある。
平生へいぜいは白いしろい金巾かなきんの幕まくで、硝子戸がらすとの奥おくが、往来おうらいから見えみえないようにしてあるので、私わたくしはその床屋とこやの土間どまに立ったって、鏡かがみの前まえに座ざを占めるしめるまで、亭主ていしゅの顔かおをまるで知らしらずにいた。
亭主ていしゅは私わたくしの入っはいってくるのを見るみると、手てに持っもった新聞紙しんぶんしを放り出しほうりだしてすぐ挨拶あいさつをした。
その時じ私わたくしはどうもどこかで会っかいった事ことのある男おとこに違いないという気きがしてならなかった。
それで彼かれが私わたくしの後あとへ廻っまわって、鋏はさみをちょきちょき鳴らしならし出しだした頃ころを見計らっみはからって、こっちから話はなしを持ちかけもちかけて見みた。
すると私わたくしの推察すいさつ通りとおり、彼かれは昔むかしし寺町てらまちの郵便局ゆうびんきょくの傍そばに店みせを持っもって、今いまと同じおなじように、散髪さんぱつを渡世とせいとしていた事ことが解っわかった。
「高田たかだの旦那だんななどにもだいぶ御世話ごせわになりました」 その高田たかだというのは私わたくしの従兄じゅうけいなのだから、私わたくしも驚いおどろいた。
「へえ高田たかだを知っしってるのかい」「知っしってるどころじゃございません。始終しじゅう徳とく、徳とく、って贔屓ひいきにして下すっくだすったもんです」 彼かれの言葉遣いことばづかいはこういう職人しょくにんにしてはむしろ丁寧ていねいな方ほうであった。
「高田たかだも死んしんだよ」と私わたくしがいうと、彼かれは吃驚びっくりした調子ちょうしで「へッっ」と声こえを揚げあげた。
「いい旦那だんなでしたがね、惜しいおしい事ことに。いつ頃いつごろ御ご亡くなりなくなりになりました」「なに、つい此間このまさ。今日きょうで二に週間しゅうかんになるか、ならないぐらいのものだろう」 彼かれはそれからこの死んしんだ従兄じゅうけいについて、いろいろ覚えおぼえている事ことを私わたくしに語っごった末すえ、「考えるかんがえると早いはやいもんですね旦那だんな、つい昨日きのうの事こととしっきゃ思わおもわれないのに、もう三十さんじゅう年ねん近くちかくにもなるんですから」と云っいった。
「あのそら求きゅう友とも亭てぃんの横町よこちょうにいらしってね、……」と亭主ていしゅはまた言葉ことばを継ぎ足しつぎたした。
「うん、あの二に階かいのある家いえだろう」「ええ御ご二に階かいがありましたっけ。あすこへ御ご移りうつりになった時じなんか、方々かたがた様ようから御ご祝い物いわいものなんかあって、大変たいへん御ご盛さかんでしたがね。それから後あとでしたっけか、行願寺ぎょうがんじの寺てら内うちへ御ご引越ひっこしなすったのは」 この質問しつもんは私わたくしにも答えこたえられなかった。
実じつはあまり古いふるい事ことなので、私わたくしもつい忘れわすれてしまったのである。
「あの寺内てらうちも今いまじゃ大変たいへん変っかわったようだね。用ようがないので、それからつい入っはいって見みた事こともないが」「変っかわったの変らかわらないのってあなた、今いまじゃまるで待合まちあいばかりでさあ」 私わたくしは肴町さかなちょうを通るとおるたびに、その寺てら内うちへ入るはいる足袋たび屋やの角かくの細いほそい小路こうじの入口いりぐちに、ごたごた掲げかかげられた四角しかくな軒灯けんとうの多いおおいのを知っしっていた。
しかしその数すうを勘定かんじょうして見るみるほどの道楽どうらく気きも起らおこらなかったので、つい亭主ていしゅのいう事ことには気きがつかずにいた。
「なるほどそう云えいえば誰だれが袖そでなんて看板かんばんが通りとおりから見えるみえるようだね」「ええたくさんできましたよ。もっとも変るかわるはずですね、考えかんがえて見るみると。もうやがて三十さんじゅう年ねんにもなろうと云ういうんですから。旦那だんなも御承知ごしょうちの通りとおり、あの時分じぶんは芸者げいしゃ屋やったら、寺内てらうちにたった一いち軒のきしきゃ無かっなかったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田たかだの旦那だんなの真向まっこうでしたろう、東家あずまやの御神灯ごしんとうのぶら下がっぶらさがっていたのは」
十七じゅうなな
私わたくしはその東ひがし家いえをよく覚えおぼえていた。
従兄じゅうけいの宅たくのつい向むかいなので、両方りょうほうのものが出入りでいりのたびに、顔かおを合わせあわせさえすれば挨拶あいさつをし合うしあうぐらいの間柄あいだがらであったから。
その頃ころ従兄じゅうけいの家いえには、私わたくしの二に番目ばんめの兄あにがごろごろしていた。
この兄あには大おおの放蕩ほうとうもので、よく宅たくの懸物かけものや刀剣とうけん類るいを盗み出しぬすみだしては、それを二に束たば三さん文ぶんに売り飛ばすうりとばすという悪いわるい癖くせがあった。
彼かれが何なんで従兄じゅうけいの家いえに転がり込んころがりこんでいたのか、その時じの私わたくしには解らわからなかったけれども、今いま考えるかんがえると、あるいはそうした乱暴らんぼうを働はたらけらいた結果けっか、しばらく家いえを追い出さおいだされていたかも知れしれないと思うおもう。
その兄あにのほかに、まだ庄しょうさんという、これも私わたくしの母方ははかたの従兄じゅうけいに当るあたる男おとこが、そこいらにぶらぶらしていた。
こういう連中れんちゅうがいつでも一いちつ所ところに落ち合っおちあっては、寝そべっねそべったり、縁側えんがわへ腰こしをかけたりして、勝手かってな出で放題ほうだいを並べならべていると、時々ときどき向うむこうの芸者げいしゃ屋やの竹たけ格子こうしの窓まどから、「今日はきょうは」などと声こえをかけられたりする。
それをまた待ち受けまちうけてでもいるごとくに、連中れんちゅうは「おいちょっとおいで、好いよいものあるから」とか何なんとか云っいって、女おんなを呼び寄せようよびよせようとする。
芸者げいしゃの方ほうでも昼間ひるまは暇ひまだから、三さん度どに一度いちどは御ご愛嬌あいきょうに遊びあそびに来るくる。
といった風かぜの調子ちょうしであった。
私わたくしはその頃ころまだ十じゅう七なな八はちだったろう、その上うえ大変たいへんな羞恥しゅうち屋やで通っとおっていたので、そんな所ところに居合わしいあわしても、何になんにも云わいわずに黙っだまって隅すみの方ほうに引込んひきこんでばかりいた。
それでも私わたくしは何なんかの拍子ひょうしで、これらの人々ひとびとといっしょに、その芸者げいしゃ屋やへ遊びあそびに行っいって、トランプとらんぷをした事ことがある。
負けまけたものは何なんか奢らおごらなければならないので、私わたくしは人ひとの買っかった寿司すしや菓子かしをだいぶ食っしょくった。
一いち週間しゅうかんほど経っきょうってから、私わたくしはまたこののらくらの兄あにに連れつれられて同じおなじ宅たくへ遊びあそびに行っいったら、例れいの庄しょうさんも席せきに居合わせいあわせて話はなしがだいぶはずんだ。
その時じ咲さき松まつという若いわかい芸者げいしゃが私わたくしの顔かおを見みて、「またトランプとらんぷをしましょう」と云っいった。
私わたくしは小倉おぐらの袴はかまを穿いはいて四よん角張っかくばっていたが、懐中かいちゅうには一いち銭せんの小遣こづかいさえ無かっなかった。
「僕ぼくは銭せんがないから厭いやだ」「好いよいわ、私わたくしが持っもってるから」 この女おんなはその時じ眼めを病んやんででもいたのだろう、こういいいい、綺麗きれいな襦袢じゅばんの袖そででしきりに薄赤くうすあかくなった二重瞼にじゅうまぶたを擦っすっていた。
その後そのあと私わたくしは「御ご作さくが好いよい御客ごきゃくに引かさひかされた」という噂うわさを、従兄じゅうけいの家いえで聞いきいた。
従兄じゅうけいの家いえでは、この女おんなの事ことを咲さき松まつと云わいわないで、常つねに御ご作さく御ご作さくと呼んよんでいたのである。
私わたくしはその話はなしを聞いきいた時じ、心こころの内うちでもう御ご作さくに会うあう機会きかいも来きないだろうと考えかんがえた。
ところがそれからだいぶ経っきょうって、私わたくしが例れいの達人たつじんといっしょに、芝しばの山内やまうちの勧工場かんこうじょうへ行っいったら、そこでまたぱったり御ご作さくに出会っであった。
こちらの書生しょせい姿すがたに引きひき易えかえて、彼女かのじょはもう品しなの好いよい奥様おくさまに変っかわっていた。
旦那だんなというのも彼女かのじょの傍そばについていた。
…… 私わたくしは床屋とこやの亭主ていしゅの口くちから出でた東家あずまやという芸者げいしゃ屋やの名前なまえの奥おくに潜んひそんでいるこれだけの古いふるい事実じじつを急きゅうに思い出しおもいだしたのである。
「あすこにいた御ご作さくという女おんなを知っしってるかね」と私わたくしは亭主ていしゅに聞いきいた。
「知っしってるどころか、ありゃ私わたくしの姪めいでさあ」「そうかい」 私わたくしは驚ろいおどろいた。
「それで、今いまどこにいるのかね」「御ご作さくは亡くなりなくなりましたよ、旦那だんな」 私わたくしはまた驚ろいおどろいた。
「いつ」「いつって、もう昔むかしの事ことになりますよ。たしかあれが二十三にじゅうさんの年ねんでしたろう」「へええ」「しかも浦塩うらじおで亡くなっなくなったんです。旦那だんなが領事館りょうじかんに関係かんけいのある人ひとだったもんですから、あっちへいっしょに行きいきましてね。それから間まもなくでした、死んしんだのは」 私わたくしは帰っかえって硝子戸がらすとの中なかに坐っすわって、まだ死なしなずにいるものは、自分じぶんとあの床屋とこやの亭主ていしゅだけのような気きがした。
十八じゅうはち
私わたくしの座敷ざしきへ通さとおされたある若いわかい女おんなが、「どうも自分じぶんの周囲しゅういがきちんと片づかかたづかないで困りこまりますが、どうしたら宜しいよろしいものでしょう」と聞いきいた。
この女おんなはある親戚しんせきの宅たくに寄寓きぐうしているので、そこが手狭てぜまな上うえに、子供こどもなどが蒼蠅さばえいのだろうと思っおもった私わたくしの答こたえは、すこぶる簡単かんたんであった。
「どこかさっぱりした家いえを探しさがして下宿げしゅくでもしたら好いよいでしょう」「いえ部屋へやの事ことではないので、頭あたまの中なかがきちんと片づかかたづかないで困るこまるのです」 私わたくしは私わたくしの誤解ごかいを意識いしきすると同時どうじに、女おんなの意味いみがまた解らわからなくなった。
それでもう少しすこし進んすすんだ説明せつめいを彼女かのじょに求めもとめた。
「外そとからは何なんでも頭あたまの中なかに入っはいって来きますが、それが心こころの中心ちゅうしんと折合おりあわせがつかないのです」「あなたのいう心こころの中心ちゅうしんとはいったいどんなものですか」「どんなものと云っいって、真直まっすぐな直線ちょくせんなのです」 私わたくしはこの女おんなの数学すうがくに熱心ねっしんな事ことを知っしっていた。
けれども心こころの中心ちゅうしんが直線ちょくせんだという意味いみは無論むろん私わたくしに通じつうじなかった。
その上うえ中心ちゅうしんとははたして何なんを意味いみするのか、それもほとんど不可解ふかかいであった。
女おんなはこう云っいった。
「物ものには何なんでも中心ちゅうしんがございましょう」「それは眼めで見るみる事ことができ、尺度しゃくどで計るはかる事ことのできる物体ぶったいについての話はなしでしょう。心こころにも形かたちがあるんですか。そんならその中心ちゅうしんというものをここへ出しだして御覧ごらんなさい」 女おんなは出せるだせるとも出せだせないとも云わいわずに、庭にわの方ほうを見みたり、膝ひざの上うえで両手りょうてを擦っすったりしていた。
「あなたの直線ちょくせんというのは比喩ひゆじゃありませんか。もし比喩ひゆなら、円えんと云っいっても四角しかくと云っいっても、つまり同じおなじ事ことになるのでしょう」「そうかも知れしれませんが、形かたちや色いろが始終しじゅう変っかわっているうちに、少しすこしも変らかわらないものが、どうしてもあるのです」「その変るかわるものと変らかわらないものが、別々べつべつだとすると、要するようするに心こころが二につある訳わけになりますが、それで好いよいのですか。変るかわるものはすなわち変らかわらないものでなければならないはずじゃありませんか」 こう云っいった私わたくしはまた問題もんだいを元もとに返しかえして女おんなに向っむかった。
「すべて外界がいかいのものが頭あたまのなかに入っはいって、すぐ整然せいぜんと秩序ちつじょなり段落だんらくなりがはっきりするように納まるおさまる人ひとは、おそらくないでしょう。失礼しつれいながらあなたの年齢ねんれいや教育きょういくや学問がくもんで、そうきちんと片づけかたづけられる訳わけがありません。もしまたそんな意味いみでなくって、学問がくもんの力ちからを借りかりずに、徹底的てっていてきにどさりと納おさめまりをつけたいなら、私わたくしのようなものの所ところへ来きても駄目だめです。坊ぼうさんの所ところへでもいらっしゃい」 すると女おんなが私わたくしの顔かおを見みた。
「私わたくしは始めはじめて先生せんせいを御ご見上げみあげ申しもうした時じに、先生せんせいの心こころはそういう点てんで、普通ふつうの人ひと以上いじょうに整せいのっていらっしゃるように思いおもいました」「そんなはずがありません」「でも私わたくしにはそう見えみえました。内臓ないぞうの位置いちまでが調っととのっていらっしゃるとしか考えかんがえられませんでした」「もし内臓ないぞうがそれほど具合ぐあいよく調節ちょうせつされているなら、こんなに始終しじゅう病気びょうきなどはしません」「私わたくしは病気びょうきにはなりません」とその時女ときおんなは突然とつぜん自分じぶんの事ことを云っいった。
「それはあなたが私わたくしより偉いえらい証拠しょうこです」と私わたくしも答えこたえた。
女おんなは蒲団ふとんを滑り下りすべりおりた。
そうして、「どうぞ御ご身体しんたいを御ご大切たいせつに」と云っいって帰っかえって行っいった。
十九じゅうきゅう
私わたくしの旧宅きゅうたくは今いま私わたくしの住んすんでいる所ところから、四五しご町まち奥おくの馬場下ばばしたという町まちにあった。
町まちとは云いいい条じょう、その実じつ小さなちいさな宿場しゅくばとしか思わおもわれないくらい、小供こどもの時じの私わたくしには、寂れさびれ切っきってかつ淋しくさびしく見えみえた。
もともと馬場下ばばしたとは高田たかだの馬場ばばの下したにあるという意味いみなのだから、江戸えど絵図えずで見みても、朱引しゅびき内うちか朱引しゅびき外そとか分らわからない辺鄙へんぴな隅すみの方ほうにあったに違いないのである。
それでも内蔵ないぞう造つくりの家いえが狭いせまい町内ちょうないに三四さんよん軒のきはあったろう。
坂さかを上るのぼると、右側みぎがわに見えるみえる近江屋おうみや伝兵衛でんべえという薬種やくしゅ屋やなどはその一いちつであった。
それから坂さかを下りくだり切っきった所ところに、間口まぐちの広いひろい小倉おぐら屋やという酒屋さかやもあった。
もっともこの方ほうは倉くら造りつくりではなかったけれども、堀部ほりべ安兵衛やすべえが高田たかだの馬場ばばで敵てきを打つうつ時じに、ここへ立ち寄ったちよって、枡酒ますざけを飲んのんで行っいったという履歴りれきのある家柄いえがらであった。
私わたくしはその話はなしを小供こどもの時分じぶんから覚えおぼえていたが、ついぞそこにしまってあるという噂うわさの安兵衛やすべえが口くちを着けつけた枡ますを見みたことがなかった。
その代りかわり娘むすめの御ご北きたさんの長唄ながうたは何度なんどとなく聞いきいた。
私わたくしは小供こどもだから上手じょうずだか下手へただかまるで解らわからなかったけれども、私わたくしの宅たくの玄関げんかんから表ひょうへ出るでる敷石しきいしの上うえに立ったって、通りとおりへでも行こういこうとすると、御ご北きたさんの声こえがそこからよく聞こえきこえたのである。
春はるの日ひの午うま過すぎなどに、私わたくしはよく恍惚こうこつとした魂たましいを、麗かうららかな光ひかりに包みつつみながら、御ご北きたさんの御浚いおさらいを聴くきくでもなく聴かきかぬでもなく、ぼんやり私わたくしの家いえの土蔵どぞうの白壁しらかべに身みを靠たせて、佇立ちょりつんでいた事ことがある。
その御蔭みかげで私わたくしはとうとう「旅たびの衣ころもは篠懸すずかけの」などという文句もんくをいつの間まにか覚えおぼえてしまった。
このほかには棒屋ぼうやが一いち軒のきあった。
それから鍛冶屋かじやも一いち軒のきあった。
少しすこし八幡はちまん坂さかの方ほうへ寄っよった所ところには、広いひろい土間どまを屋根やねの下したに囲い込んかこいこんだやっちゃ場やっちゃばもあった。
私わたくしの家いえのものは、そこの主人しゅじんを、問屋とんやの仙太郎せんたろうさんと呼んよんでいた。
仙太郎せんたろうさんは何なんでも私わたくしの父ちちとごく遠いとおい親類しんるいつづきになっているんだとか聞いきいたが、交際こうさいからいうと、まるで疎まばら濶ひろであった。
往来おうらいで行き会うゆきあう時じだけ、「好いよい御ご天気てんきで」などと声こえをかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎすぎなかったらしく思わおもわれる。
この仙太郎せんたろうさんの一人娘ひとりむすめが講釈師こうしゃくしの貞てい水みずと好いよい仲なかになって、死ぬしぬの生きるいきるのという騒ぎさわぎのあった事ことも人ひと聞ききに聞いきいて覚えおぼえてはいるが、纏まっまとまった記憶きおくは今頭いまあたまのどこにも残っのこっていない。
小供こどもの私わたくしには、それよりか仙太郎せんたろうさんが高いたかい台だいの上うえに腰こしをかけて、矢立やたてと帳面ちょうづらを持っもったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢いせいの好いよい声こえで下したにいる大勢おおぜいの顔かおを見渡すみわたす光景こうけいの方ほうがよっぽど面白かっおもしろかった。
下したからはまた二十にじゅう本ほんも三十さんじゅう本ほんもの手てを一度いちどに挙げあげて、みんな仙太郎せんたろうさんの方ほうを向きむきながら、ろんじだのがれんだのという符ふ徴しるしを、罵しるののしるように呼び上げるよびあげるうちに、薑や茄子なすや唐茄子とうなすの籠かごが、それらの節太ふしふとしの手てで、どしどしどこかへ運び去らはこびさられるのを見みているのも勇ましかっいさましかった。
どんな田舎いなかへ行っいってもありがちな豆腐とうふ屋やは無論むろんあった。
その豆腐とうふ屋やには油あぶらの臭においの染み込んしみこんだ縄なわ暖簾のれんがかかっていて門口かどぐちを流れるながれる下水げすいの水みずが京都きょうとへでも行っいったように綺麗きれいだった。
その豆腐とうふ屋やについて曲るまがると半町はんちょうほど先さきに西にし閑かん寺てらという寺てらの門もんが小高くこだかく見えみえた。
赤くあかく塗らぬられた門もんの後あとは、深いぶかい竹藪たけやぶで一面いちめんに掩わおおわれているので、中なかにどんなものがあるか通りとおりからは全くまったく見えみえなかったが、その奥おくでする朝晩あさばんの御ご勤きんの鉦かねの音おとは、今いまでも私わたくしの耳みみに残っのこっている。
ことに霧きりの多いおおい秋あきから木枯こがらしの吹くふく冬ふゆへかけて、カンカンかんかんと鳴るなる西にし閑かん寺てらの鉦かねの音おとは、いつでも私わたくしの心こころに悲しくかなしくて冷たいつめたい或ある物ものを叩き込むたたきこむように小さいちいさい私わたくしの気分きぶんを寒くさむくした。
二十にじゅう
この豆腐とうふ屋やの隣となりに寄席よせが一いち軒のきあったのを、私わたくしは夢幻むげんのようにまだ覚えおぼえている。
こんな場末ばすえに人ひと寄場よせばのあろうはずがないというのが、私わたくしの記憶きおくに霞かすみをかけるせいだろう、私わたくしはそれを思い出すおもいだすたびに、奇異きいな感じかんじに打たうたれながら、不思議ふしぎそうな眼めを見張っみはって、遠いとおい私わたくしの過去かこをふり返るふりかえるのが常つねである。
その席亭せきていの主人しゅじんというのは、町内ちょうないの鳶頭とびがしらで、時々ときどき目め暗あん縞しまの腹掛はらがけに赤いあかい筋すじの入っはいった印しるし袢纏はんてんを着きて、突っかけつっかけ草履ぞうりか何なんかでよく表ひょうを歩いあるいていた。
そこにまた御藤おふじさんという娘むすめがあって、その人ひとの容色ようしょくがよく家いえのものの口くちに上っのぼった事ことも、まだ私わたくしの記憶きおくを離れはなれずにいる。
後あとには養子ようしを貰っもらったが、それが口髭くちひげを生やしはやした立派りっぱな男おとこだったので、私わたくしはちょっと驚ろかさおどろかされた。
御藤おふじさんの方ほうでも自慢じまんの養子ようしだという評判ひょうばんが高かったかかったが、後あとから聞いきいて見るみると、この人ひとはどこかの区役所くやくしょの書記しょきだとかいう話はなしであった。
この養子ようしが来るくる時分じぶんには、もう寄席よせもやめて、しもうた屋やになっていたようであるが、私わたくしはそこの宅たくの軒先のきさきにまだ薄暗いうすぐらい看板かんばんが淋しさびしそうに懸っかかっていた頃ころ、よく母ははから小遣こづかいを貰っもらってそこへ講釈こうしゃくを聞きききに出かけでかけたものである。
講釈師こうしゃくしの名前なまえはたしか、南みなみ麟りんとかいった。
不思議ふしぎな事ことに、この寄席よせへは南みなみ麟りんよりほかに誰だれも出でなかったようである。
この男おとこの家いえはどこにあったか知らしらないが、どの見当けんとうから歩いあるいて来るくるにしても、道みち普請ふしんができて、家並いえなみの揃っそろった今いまから見れみれば大おお事業じぎょうに相違そういなかった。
その上客じょうきゃくの頭数とうすうはいつでも十五じゅうごか二十にじゅうくらいなのだから、どんなに想像そうぞうを逞ましくたくましくしても、夢ゆめとしか考えかんがえられないのである。
「もうしもうし花魁おいらんえ、と云わいわれて八ツ橋やつはしなんざますえとふり返るふりかえる、途端とたんに切り込むきりこむ刃はの光ひかり」という変へんな文句もんくは、私わたくしがその時分じぶん南みなみ麟りんから教わっおそわったのか、それとも後あとになって落語家らくごかのやる講釈師こうしゃくしの真似まねから覚えおぼえたのか、今いまでは混雑こんざつしてよく分らわからない。
当時とうじ私わたくしの家いえからまず町まちらしい町まちへ出ようでようとするには、どうしても人気にんきのない茶畠ちゃはたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長いながい田圃たんぼ路みちとかを通り抜けとおりぬけなければならなかった。
買物かいものらしい買物かいものはたいてい神楽坂かぐらざかまで出るでる例れいになっていたので、そうした必要ひつように馴らさならされた私わたくしに、さした苦痛くつうのあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂さかを上っのぼって酒井さかい様ようの火の見ひのみ櫓やぐらを通り越しとおりこして寺町てらまちへ出ようでようという、あの五六ごろく町まちの一筋ひとすじ道みちなどになると、昼ひるでも陰森いんしんとして、大空おおぞらが曇っくもったように始終しじゅう薄暗かっうすぐらかった。
あの土手どての上うえに二に抱かかえも三さん抱えかかえもあろうという大木たいぼくが、何本なんぽんとなく並んならんで、その隙間すきま隙間すきまをまた大きなおおきな竹藪たけやぶで塞いせいでいたのだから、日の目ひのめを拝むおがむ時間じかんと云っいったら、一いち日ひのうちにおそらくただの一刻いっこくもなかったのだろう。
下町したまちへ行こういこうと思っおもって、日和下駄ひよりげたなどを穿いはいて出ようでようものなら、きっと非道いひどい目めにあうにきまっていた。
あすこの霜しも融とおるは雨あめよりも雪ゆきよりも恐ろしいおそろしいもののように私わたくしの頭あたまに染み込んしみこんでいる。
そのくらい不便ふべんな所ところでも火事かじの虞おそれはあったものと見えみえて、やっぱり町まちの曲り角まがりかどに高いたかい梯子はしごが立ったっていた。
そうしてその上うえに古いふるい半鐘はんしょうも型かたのごとく釣るつるしてあった。
私わたくしはこうしたありのままの昔むかしをよく思い出すおもいだす。
その半鐘はんしょうのすぐ下したにあった小さなちいさな一いち膳ぜん飯屋めしやもおのずと眼め先さきに浮かんうかんで来るくる。
縄なわ暖簾のれんの隙間すきまからあたたかそうな煮〆にしめの香こうが煙けむりと共ともに往来おうらいへ流れ出しながれだして、それが夕暮ゆうぐれの靄もやに融けとけ込んこんで行くいく趣おもむきなども忘れるわすれる事ことができない。
私わたくしが子規しきのまだ生きいきているうちに、「半鐘はんしょうと並んならんで高きたかき冬木ふゆき哉な」という句くを作っつくったのは、実じつはこの半鐘はんしょうの記念きねんのためであった。
二十一にじゅういち
私わたくしの家いえに関するかんする私わたくしの記憶きおくは、惣じてそうじてこういう風かぜに鄙びひなびている。
そうしてどこかに薄ら寒いうすらさみい憐れあわれな影かげを宿しやどしている。
だから今いま生き残っいきのこっている兄あにから、つい此間このま、うちの姉あね達とおるが芝居しばいに行っいった当時とうじの様子ようすを聴いきいた時じには驚ろいおどろいたのである。
そんな派出はしゅつな暮しくらしをした昔むかしもあったのかと思うおもうと、私わたくしはいよいよ夢ゆめのような心持こころもちになるよりほかはない。
その頃ころの芝居しばい小屋こやはみんな猿若町さるわかちょうにあった。
電車でんしゃも俥くるまもない時分じぶんに、高田たかだの馬場ばばの下したから浅草あさくさの観音かんのん様ようの先さきまで朝あさ早くはやく行き着こういきつこうと云ういうのだから、たいていの事ことではなかったらしい。
姉あね達とおるはみんな夜半やはんに起きおきて支度したくをした。
途中とちゅうが物騒ぶっそうだというので、用心ようじんのため、下男げなんがきっと供ともをして行っいったそうである。
彼かれらは筑土ちくどを下りくだりて、柿の木かきのき横町よこちょうから揚場ようじょうへ出でて、かねてそこの船宿ふなやどにあつらえておいた屋根船やねぶねに乗るのるのである。
私わたくしは彼かれらがいかに予期よきに充ちみちた心こころをもって、のろのろ砲兵ほうへい工こう厰しょうの前まえから御茶の水おちゃのみずを通り越しとおりこして柳橋やぎはしまで漕がこがれつつ行っいっただろうと想像そうぞうする。
しかも彼かれらの道中どうちゅうはけっしてそこで終りおわりを告げるつげる訳わけに行かいかないのだから、時間じかんに制限せいげんをおかなかったその昔むかしがなおさら回顧かいこの種しゅになる。
大川おおかわへ出でた船ふねは、流りゅうを溯っさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けとおりぬけて、今戸いまどの有明ありあけ楼ろうの傍そばに着けつけたものだという。
姉あね達とおるはそこから上っのぼって芝居しばい茶屋ちゃやまで歩いあるいて、それからようやく設けもうけの席せきにつくべく、小屋こやへ送らおくられて行くいく。
設けもうけの席せきというのは必ずかならず高土間こうどまに限らかぎられていた。
これは彼かれらの服装ふくそうなり顔かおなり、髪かみ飾かざりなりが、一般いっぱんの眼めによく着くつく便利べんりのいい場所ばしょなので、派出はしゅつを好むこのむ人ひと達とおるが、争っあらそって手てに入れいれたがるからであった。
幕まくの間まには役者やくしゃに随いしたがいている男おとこが、どうぞ楽屋がくやへお遊びあそびにいらっしゃいましと云っいって案内あんないに来るくる。
すると姉あね達とおるはこの縮緬ちりめんの模様もようのある着物きものの上うえに袴はかまを穿いはいた男おとこの後あとに跟いて、田之助たのすけとか訥とつ升ますとかいう贔屓ひいきの役者やくしゃの部屋へやへ行っいって、扇子せんすに画がなどを描いえがいて貰っもらって帰っかえってくる。
これが彼かれらの見栄みえだったのだろう。
そうしてその見栄みえは金きんの力ちからでなければ買えかえなかったのである。
帰りかえりには元もと来きた路みちを同じおなじ舟ふねで揚場ようじょうまで漕ぎこぎ戻すもどす。
無む要心ようじんだからと云っいって、下男げなんがまた提灯ちょうちんを点けつけて迎むかえに行くいく。
宅たくへ着くつくのは今いまの時計とけいで十二じゅうに時じくらいにはなるのだろう。
だから夜半やはんから夜半やはんまでかかって彼かれらはようやく芝居しばいを見るみる事ことができたのである。
…… こんな華麗かれいな話はなしを聞くきくと、私わたくしははたしてそれが自分じぶんの宅たくに起っおこった事ことか知らしらんと疑いうたがいたくなる。
どこか下町したまちの富裕ふゆうな町家まちやの昔むかしを語らかたられたような気きもする。
もっとも私わたくしの家いえも侍さむらい分ぶんではなかった。
派出はしゅつな付合ふごうをしなければならない名主なぬしという町人ちょうにんであった。
私わたくしの知っしっている父ちちは、禿頭とくとうの爺じいさんであったが、若いわかい時分じぶんには、一いち中なか節ふしを習っならったり、馴染なじめの女おんなに縮緬ちりめんの積せき夜具やぐをしてやったりしたのだそうである。
青山あおやまに田地でんじがあって、そこから上っのぼって来るくる米べいだけでも、家いえのものが食うくうには不足ふそくがなかったとか聞いきいた。
現にげんに今いま生き残っいきのこっている三さん番目ばんめの兄あになどは、その米べいを舂くうすずく音おとを始終しじゅう聞いきいたと云っいっている。
私わたくしの記憶きおくによると、町内ちょうないのものがみんなして私わたくしの家いえを呼んよんで、玄関げんかん玄関げんかんと称えとなえていた。
その時分じぶんの私わたくしには、どういう意味いみか解らわからなかったが、今いま考えるかんがえると、式台しきだいのついた厳めしいいかめしい玄関げんかん付ふの家いえは、町内ちょうないにたった一いち軒のきしかなかったからだろうと思うおもう。
その式台しきだいを上っのぼった所ところに、突棒つくぼうや、袖そで搦からみや刺股さすまたや、また古ぼけふるぼけた馬上ばじょう提灯ちょうちんなどが、並んならんで懸けかけてあった昔むかしなら、私わたくしでもまだ覚えおぼえている。
二十二にじゅうに
この二三にさん年ねん来き私わたくしはたいてい年ねんに一度いちどくらいの割わりで病気びょうきをする。
そうして床ゆかについてから床ゆかを上げるあげるまでに、ほぼ一いち月つきの日数にっすうを潰しつぶしてしまう。
私わたくしの病気びょうきと云えいえば、いつもきまった胃いの故障こしょうなので、いざとなると、絶食ぜっしょく療法りょうほうよりほかに手ての着けつけようがなくなる。
医者いしゃの命令めいれいばかりか、病気びょうきの性質せいしつそのものが、私わたくしにこの絶食ぜっしょくを余儀よぎなくさせるのである。
だから病みやみ始めはじめより回復期かいふくきに向っむかった時じの方ほうが、余計よけい痩せこけやせこけてふらふらする。
一いちカ月かげつ以上いじょうかかるのもおもにこの衰弱すいじゃくが祟るたたるからのように思わおもわれる。
私わたくしの立居たちいが自由じゆうになると、黒枠くろわくのついた摺物すりものが、時々ときどき私わたくしの机つくえの上うえに載せのせられる。
私わたくしは運命うんめいを苦笑くしょうする人ひとのごとく、絹きぬ帽ぼうなどを被っかぶって、葬式そうしきの供ともに立つたつ、俥くるまを駆っかって斎場さいじょうへ駈けつけるかけつける。
死んしんだ人ひとのうちには、御ご爺じいさんも御ご婆ばあさんもあるが、時じには私わたくしよりも年歯ねんしが若くわかくって、平生へいぜいからその健康けんこうを誇っほこっていた人ひとも交っかっている。
私わたくしは宅たくへ帰っかえって机つくえの前まえに坐っすわって、人間にんげんの寿命じゅみょうは実じつに不思議ふしぎなものだと考えるかんがえる。
多病たびょうな私わたくしはなぜ生き残っいきのこっているのだろうかと疑っうたがって見るみる。
あの人ひとはどういう訳わけで私わたくしより先さきに死んしんだのだろうかと思うおもう。
私わたくしとしてこういう黙想もくそうに耽るふけるのはむしろ当然とうぜんだといわなければならない。
けれども自分じぶんの位地いちや、身体しんたいや、才能さいのうや――すべて己れおのれというもののおり所ところを忘れわすれがちな人間にんげんの一人ひとりとして、私わたくしは死なしなないのが当り前あたりまえだと思いおもいながら暮らしくらしている場合ばあいが多いおおい。
読経どきょうの間まですら、焼香しょうこうの際さいですら、死んしんだ仏ふつのあとに生き残っいきのこった、この私わたくしという形骸けいがいを、ちっとも不思議ふしぎと心得こころえずに澄ましすましている事ことが常つねである。
或人あるひとが私わたくしに告げつげて、「他ほかの死ぬしぬのは当り前あたりまえのように見えみえますが、自分じぶんが死ぬしぬという事ことだけはとても考えかんがえられません」と云っいった事ことがある。
戦争せんそうに出でた経験けいけんのある男おとこに、「そんなに隊たいのものが続々ぞくぞく斃れるたおれるのを見みていながら、自分じぶんだけは死なしなないと思っおもっていられますか」と聞いきいたら、その人ひとは「いられますね。おおかた死ぬしぬまでは死なしなないと思っおもってるんでしょう」と答えこたえた。
それから大学だいがくの理科りかに関係かんけいのある人ひとに、飛行機ひこうきの話はなしを聴かさきかされた時じに、こんな問答もんどうをした覚えおぼえもある。
「ああして始終しじゅう落ちおちたり死んしんだりしたら、後あとから乗るのるものは怖いこわいだろうね。今度こんどはおれの番ばんだという気きになりそうなものだが、そうでないかしら」「ところがそうでないと見えみえます」「なぜ」「なぜって、まるで反対はんたいの心理状態しんりじょうたいに支配しはいされるようになるらしいのです。やッぱりやっぱりあいつは墜落ついらくして死んしんだが、おれは大丈夫だいじょうぶだという気きになると見えみえますね」 私わたくしも恐らくおそらくこういう人ひとの気分きぶんで、比較的ひかくてき平気へいきにしていられるのだろう。
それもそのはずである。
死ぬしぬまでは誰だれしも生きいきているのだから。
不思議ふしぎな事ことに私わたくしの寝ねている間まには、黒枠くろわくの通知つうちがほとんど来きない。
去年きょねんの秋あきにも病気びょうきが癒っなおった後あとで、三四さんよん人ひとの葬儀そうぎに列しれっしたのである。
その三四さんよん人ひとの中なかに社しゃの佐藤さとう君きみも這入っはいっていた。
私わたくしは佐藤さとう君きみがある宴会えんかいの席せきで、社しゃから貰っもらった銀盃ぎんぱいを持っもって来きて、私わたくしに酒さけを勧めすすめてくれた事ことを思い出しおもいだした。
その時じ彼かれの踊っおどった変へんな踊おどりもまだ覚えおぼえている。
この元気げんきな崛強な人ひとの葬式そうしきに行っいった私わたくしは、彼かれが死んしんで私わたくしが生残っいきのこっているのを、別段べつだんの不思議ふしぎとも思わおもわずにいる時じの方ほうが多いおおい。
しかし折々おりおり考えるかんがえると、自分じぶんの生きいきている方ほうが不自然ふしぜんのような心持こころもちにもなる。
そうして運命うんめいがわざと私わたくしを愚弄ぐろうするのではないかしらと疑いうたがいたくなる。
二十三にじゅうさん
今いま私わたくしの住んすんでいる近所きんじょに喜き久井町くいまちという町まちがある。
これは私わたくしの生れうまれた所ところだから、ほかの人ひとよりもよく知っしっている。
けれども私わたくしが家いえを出でて、方々かたがた漂浪ひょうろうして帰っかえって来きた時じには、その喜き久井くい町まちがだいぶ広がっひろがって、いつの間まにか根来ねごろの方ほうまで延びのびていた。
私わたくしに縁故えんこの深いぶかいこの町まちの名なは、あまり聞ききき慣れなれて育っそだったせいか、ちっとも私わたくしの過去かこを誘い出すさそいだす懐かしいなつかしい響ひびきを私わたくしに与えあたえてくれない。
しかし書斎しょさいに独りひとり坐っすわって、頬杖つらづえを突いついたまま、流れながれを下るくだる舟ふねのように、心こころを自由じゆうに遊ばあそばせておくと、時々ときどき私わたくしの聯想れんそうが、喜き久井町くいまちの四よん字じにぱたりと出会っであったなり、そこでしばらく※徊し始めるはじめる事ことがある。
この町まちは江戸えどと云っいった昔むかしには、多分たぶん存在そんざいしていなかったものらしい。
江戸えどが東京とうきょうに改まっあらたまった時じか、それともずっと後あとになってからか、年代ねんだいはたしかに分らわからないが、何なんでも私わたくしの父ちちが拵えこしらえたものに相違そういないのである。
私わたくしの家いえの定紋じょうもんが井桁いげたに菊きくなので、それにちなんだ菊きくに井戸いどを使っつかって、喜き久井町くいまちとしたという話はなしは、父ちち自身じしんの口くちから聴いきいたのか、または他ほかのものから教わっおそわったのか、何しろなにしろ今いまでもまだ私わたくしの耳みみに残っのこっている。
父ちちは名主なぬしがなくなってから、一時いちじ区長くちょうという役やくを勤めつとめていたので、あるいはそんな自由じゆうも利いきいたかも知れしれないが、それを誇ほこりにした彼かれの虚栄心きょえいしんを、今いまになって考えかんがえて見るみると、厭いやな心持こころもちは疾くとくに消え去っきえさって、ただ微笑びしょうしたくなるだけである。
父ちちはまだその上うえに自宅じたくの前まえから南みなみへ行くいく時じに是非ぜひ共とも登らのぼらなければならない長いながい坂さかに、自分じぶんの姓せいの夏目なつめという名なをつけた。
不幸ふこうにしてこれは喜き久井くい町まちほど有名ゆうめいにならずに、ただの坂さかとして残っのこっている。
しかしこの間ま、或人あるひとが来きて、地図ちずでこの辺へんの名前なまえを調べしらべたら、夏目なつめ坂さかというのがあったと云っいって話しはなしたから、ことによると父ちちの付けつけた名なが今いまでも役やくに立ったっているのかも知れしれない。
私わたくしが早稲田わせだに帰っかえって来きたのは、東京とうきょうを出でてから何なん年ねんぶりになるだろう。
私わたくしは今いまの住居じゅうきょに移るうつる前まえ、家いえを探すさがす目的もくてきであったか、また遠足えんそくの帰り路かえりみちであったか、久しぶりひさしぶりで偶然ぐうぜん私わたくしの旧家きゅうかの横よこへ出でた。
その時じ表ひょうから二に階かいの古ふる瓦かわらが少しすこし見えみえたので、まだ生き残っいきのこっているのかしらと思っおもったなり、私わたくしはそのまま通り過ぎとおりすぎてしまった。
早稲田わせだに移っうつってから、私わたくしはまたその門前もんぜんを通っとおって見みた。
表ひょうから覗くのぞくと、何なんだかもとと変らかわらないような気きもしたが、門もんには思いおもいも寄らよらない下宿屋げしゅくやの看板かんばんが懸っかかっていた。
私わたくしは昔むかしの早稲田わせだ田圃たんぼが見みたかった。
しかしそこはもう町まちになっていた。
私わたくしは根来ねごろの茶畠ちゃはたけと竹藪たけやぶを一目いちもく眺めながめたかった。
しかしその痕迹こんせきはどこにも発見はっけんする事ことができなかった。
多分たぶんこの辺へんだろうと推測すいそくした私わたくしの見当けんとうは、当っあたっているのか、外れはずれているのか、それさえ不明ふめいであった。
私わたくしは茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。
なぜ私わたくしの家いえだけが過去かこの残骸ざんがいのごとくに存在そんざいしているのだろう。
私わたくしは心こころのうちで、早くはやくそれが崩れくずれてしまえば好いよいのにと思っおもった。
「時じ」は力ちからであった。
去年きょねん私わたくしが高田たかだの方ほうへ散歩さんぽしたついでに、何気なんげなくそこを通り過ぎるとおりすぎると、私わたくしの家いえは綺麗きれいに取り壊さとりこわされて、そのあとに新らしいあたらしい下宿屋げしゅくやが建てたてられつつあった。
その傍そばには質屋しちやもできていた。
質屋しちやの前まえに疎らまばらな囲かこいをして、その中なかに庭木にわきが少しすこし植えうえてあった。
三さん本ほんの松まつは、見るみる影かげもなく枝えだを刈り込まかりこまれて、ほとんど畸形きけい児このようになっていたが、どこか見覚みかくのあるような心持こころもちを私わたくしに起さおこさせた。
昔むかしし「影かげ参差しんし松まつ三さん本ほんの月夜つきよかな」と咏っうたったのは、あるいはこの松まつの事ことではなかったろうかと考えかんがえつつ、私わたくしはまた家いえに帰っかえった。
二十四にじゅうよん
「そんな所ところに生い立っおいたって、よく今日きょうまで無事ぶじにすんだものですね」「まあどうかこうか無事ぶじにやって来きました」 私達わたくしたちの使っつかった無事ぶじという言葉ことばは、男女だんじょの間まに起るおこる恋こいの波瀾はらんがないという意味いみで、云わいわば情事じょうじの反対はんたいを指しさしたようなものであるが、私わたくしの追窮ついきゅう心こころは簡単かんたんなこの一句いっくの答こたえで満足まんぞくできなかった。
「よく人ひとが云いいいますね、菓子屋かしやへ奉公ほうこうすると、いくら甘いあまいものの好よしみな男おとこでも、菓子かしが厭いやになるって、御ご彼岸ひがんに御萩おはぎなどを拵えこしらえているところを宅たくで見みていても分るわかるじゃありませんか、拵えるこしらえるものは、ただ御萩おはぎを御ご重じゅうに詰めるつめるだけで、もうげんなりした顔かおをしているくらいだから。あなたの場合ばあいもそんな訳わけなんですか」「そういう訳わけでもないようです。とにかく廿にじゅう歳とし少しすこし過ぎすぎまでは平気へいきでいたのですから」 その人ひとはある意味いみにおいて好男子こうだんしであった。
「たといあなたが平気へいきでいても、相手あいてが平気へいきでいない場合ばあいがないとも限らかぎらないじゃありませんか。そんな時じには、どうしたって誘わさそわれがちになるのが当り前あたりまえでしょう」「今いまからふり返っふりかえって見るみると、なるほどこういう意味いみでああいう事ことをしたのだとか、あんな事ことを云っいったのだとか、いろいろ思い当るおもいあたる事ことがないでもありません」「じゃ全くまったく気きがつかずにいたのですね」「まあそうです。それからこちらで気きのついたのも一いちつありました。しかし私わたくしの心こころはどうしても、その相手あいてに惹きつけひきつけられる事ことができなかったのです」 私わたくしはそれが話はなしの終りおわりかと思っおもった。
二人ふたりの前まえには正月しょうがつの膳ぜんが据えすえてあった。
客きゃくは少しすこしも酒さけを飲まのまないし、私わたくしもほとんど盃さかずきに手てを触れふれなかったから、献酬けんしゅうというものは全くまったくなかった。
「それだけで今日きょうまで経過けいかして来きられたのですか」と私わたくしは吸物すいものをすすりながら念ねんのために訊いきいて見みた。
すると客きゃくは突然とつぜんこんな話はなしを私わたくしにして聞かきかせた。
「まだ使用人しようにんであった頃ころに、ある女おんなと二に年ねんばかり会っかいっていた事ことがあります。相手あいては無論むろん素人しろうとではないのでした。しかしその女おんなはもういないのです。首くびを縊っくびって死んしんでしまったのです。年ねんは十九じゅうきゅうでした。十じゅう日ひばかり会わあわないでいるうちに死んしんでしまったのです。その女おんなにはね、旦那だんなが二人ふたりあって、双方そうほうが意地いじずくで、身受しんじゅの金きんを競り上げせりあげにかかったのです。それに双方そうほう共とも老妓ろうぎを味方みかたにして、こっちへ来いこい、あっちへ行くいくなと義理ぎり責せめにもしたらしいのです。……」「あなたはそれを救っすくってやる訳わけに行かいかなかったのですか」「当時とうじの私わたくしは丁稚でっちの少しすこし毛けの生えはえたようなもので、とてもどうもできないのです」「しかしその芸妓げいぎはあなたのために死んしんだのじゃありませんか」「さあ……。一度いちどに双方そうほうの旦那だんなに義理ぎりを立てるたてる訳わけに行かいかなかったからかも知れしれませんが。……しかし私わたくしら二人ふたりの間まに、どこへも行かいかないという約束やくそくはあったに違いないのです」「するとあなたが間接かんせつにその女おんなを殺しころした事ことになるのかも知れしれませんね」「あるいはそうかも知れしれません」「あなたは寝覚ねざめが悪わるかありませんか」「どうも好くよくないのです」 元日がんじつに込み合っこみあった私わたくしの座敷ざしきは、二に日ひになって淋しいさびしいくらい静かしずかであった。
私わたくしはその淋しいさびしい春はるの松の内まつのうちに、こういう憐れあわれな物語りものがたりを、その年賀ねんがの客きゃくから聞いきいたのである。
客きゃくは真面目まじめな正直しょうじきな人ひとだったから、それを話すはなすにも、ほとんど艶あでっぽい言葉ことばを使わつかわなかった。
二十五にじゅうご
私わたくしがまだ千駄木せんだぎにいた頃ころの話はなしだから、年数ねんすうにすると、もうだいぶ古いふるい事ことになる。
或ある日ひ私わたくしは切通しきりどおしの方ほうへ散歩さんぽした帰りかえりに、本郷ほんごう四丁目よんちょうめの角かくへ出るでる代りかわりに、もう一いちつ手前てまえの細いほそい通りとおりを北きたへ曲っきょくった。
その曲り角まがりかどにはその頃ころあった牛屋うしやの傍そばに、寄席よせの看板かんばんがいつでも懸っかかっていた。
雨あめの降るふる日ひだったので、私わたくしは無論むろん傘かさをさしていた。
それが鉄てつ御ご納戸なんどの八はち間まの深しん張ちょうで、上うえから洩っもってくる雫しずくが、自然しぜん木きの柄がらを伝わっつたわって、私わたくしの手てを濡らしぬらし始めはじめた。
人通りひとどおりの少ないすくないこの小路こうじは、すべての泥どろを雨あめで洗い流しあらいながしたように、足駄あしだの歯はに引いんっ懸るかかる汚ないきたないものはほとんどなかった。
それでも上うえを見れみれば暗くくらく、下したを見れみれば佗びしかっわびしかった。
始終しじゅう通りとおりつけているせいでもあろうが、私わたくしの周囲しゅういには何なん一いちつ私わたくしの眼めを惹くひくものは見えみえなかった。
そうして私わたくしの心こころはよくこの天気てんきとこの周囲しゅういに似にていた。
私わたくしには私わたくしの心こころを腐蝕ふしょくするような不愉快ふゆかいな塊かたまりが常つねにあった。
私わたくしは陰欝いんうつな顔かおをしながら、ぼんやり雨あめの降るふる中なかを歩いあるいていた。
日蔭町ひかげちょうの寄席よせの前まえまで来きた私わたくしは、突然とつぜん一いち台だいの幌ほろ俥くるまに出合っであった。
私わたくしと俥くるまの間まには何なんの隔りへだたりもなかったので、私わたくしは遠くとおくからその中なかに乗っのっている人ひとの女おんなだという事ことに気きがついた。
まだセルロイドせるろいどの窓まどなどのできない時分じぶんだから、車上しゃじょうの人ひとは遠くとおくからその白いしろい顔かおを私わたくしに見せみせていたのである。
私わたくしの眼めにはその白いしろい顔かおが大変たいへん美しくうつくしく映っうつった。
私わたくしは雨あめの中なかを歩きあるきながらじっとその人ひとの姿すがたに見惚れみとれていた。
同時どうじにこれは芸者げいしゃだろうという推察すいさつが、ほとんど事実じじつのように、私わたくしの心こころに働らきはたらきかけた。
すると俥くるまが私わたくしの一いち間まばかり前まえへ来きた時じ、突然とつぜん私わたくしの見みていた美しいうつくしい人ひとが、鄭てい寧ねいな会釈えしゃくを私わたくしにして通り過ぎとおりすぎた。
私わたくしは微笑びしょうに伴なうともなうその挨拶あいさつとともに、相手あいてが、大塚おおつか楠くすのき緒いとぐちさんであった事ことに、始めはじめて気きがついた。
次つぎに会っかいったのはそれから幾いく日ひ目めだったろうか、楠くすのき緒いとぐちさんが私わたくしに、「この間まは失礼しつれいしました」と云っいったので、私わたくしは私わたくしのありのままを話すはなす気きになった。
「実じつはどこの美びくしい方ほうかと思っおもって見みていました。芸者げいしゃじゃないかしらとも考えかんがえたのです」 その時じ楠くすのき緒いとぐちさんが何なんと答えこたえたか、私わたくしはたしかに覚えおぼえていないけれども、楠くすのき緒いとぐちさんはちっとも顔かおを赧らめあからめなかった。
それから不愉快ふゆかいな表情ひょうじょうも見せみせなかった。
私わたくしの言葉ことばをただそのままに受け取っうけとったらしく思わおもわれた。
それからずっと経っきょうって、ある日ひ楠くすのき緒いとぐちさんがわざわざ早稲田わせだへ訪ねたずねて来きてくれた事ことがある。
しかるにあいにく私わたくしは妻つまと喧嘩けんかをしていた。
私わたくしは厭いやな顔かおをしたまま、書斎しょさいにじっと坐っすわっていた。
楠くすのき緒いとぐちさんは妻つまと十じゅう分ぶんばかり話はなしをして帰っかえって行っいった。
その日ひはそれですんだが、ほどなく私わたくしは西片町にしかたまちへ詫わびまりに出かけでかけた。
「実じつは喧嘩けんかをしていたのです。妻つまも定めさだめて無愛想むあいそでしたろう。私わたくしはまた苦々しいにがにがしい顔かおを見せるみせるのも失礼しつれいだと思っおもって、わざと引込んひきこんでいたのです」 これに対するたいする楠くすのき緒いとぐちさんの挨拶あいさつも、今いまでは遠いとおい過去かこになって、もう呼び出すよびだす事ことのできないほど、記憶きおくの底そこに沈んしずんでしまった。
楠くすのき緒いとぐちさんが死んしんだという報知ほうちの来きたのは、たしか私わたくしが胃腸いちょう病院びょういんにいる頃ころであった。
死去しきょの広告こうこく中なかに、私わたくしの名前なまえを使っつかって差支さしつかえないかと電話でんわで問いとい合さあわされた事ことなどもまだ覚えおぼえている。
私わたくしは病院びょういんで「ある程ほどの菊きく投げ入れよなげいれよ棺ひつぎの中なか」という手向たむけの句くを楠くすのき緒いとぐちさんのために咏んだ。
それを俳句はいくの好きすきなある男おとこが嬉しうれしがって、わざわざ私わたくしに頼んたのんで、短冊たんざくに書かかかせて持っもって行っいったのも、もう昔むかしになってしまった。
二十六にじゅうろく
益えきさんがどうしてそんなに零落れいらくたものか私わたくしには解らわからない。
何しろなにしろ私わたくしの知っしっている益えきさんは郵便ゆうびん脚夫きゃくふであった。
益えきさんの弟おとうとの庄しょうさんも、家いえを潰しつぶして私わたくしの所ところへ転がり込んころがりこんで食客しょっかくになっていたが、これはまだ益えきさんよりは社会的しゃかいてき地位ちいが高かったかかった。
小供こどもの時分じぶん本町ほんちょうの鰯屋いわしやへ奉公ほうこうに行っいっていた時じ、浜はまの西洋せいよう人ひとが可愛かわいがって、外国がいこくへ連れつれて行くいくと云っいったのを断っことわったのが、今いま考えるかんがえると残念ざんねんだなどと始終しじゅう話しはなしていた。
二人ふたりとも私わたくしの母方ははかたの従兄じゅうけいに当るあたる男おとこだったから、その縁故えんこで、益えきさんは弟おとうとに会うあうため、また私わたくしの父ちちに敬意けいいを表するひょうするため、月つきに一遍いちぺんぐらいは、牛込うしごめの奥おくまで煎餅せんべいの袋ふくろなどを手土産てみやげに持っもって、よく訪ねたずねて来きた。
益えきさんはその時じ何なんでも芝しばの外れはずれか、または品川しながわ近くちかくに世帯せたいを持っもって、一人暮しひとりぐらしの呑気のんきな生活せいかつを営んいとなんでいたらしいので、宅たくへ来るくるとよく泊まっとまって行っいった。
たまに帰ろうかえろうとすると、兄達あにたちが寄っよってたかって、「帰るかえると承知しょうちしないぞ」などと威嚇いかくしたものである。
当時とうじ二に番目ばんめと三さん番目ばんめの兄あには、まだ南みなみ校こうへ通っとおっていた。
南みなみ校こうというのは今いまの高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうの位置いちにあって、そこを卒業そつぎょうすると、開成かいせい学校がっこうすなわち今日きょうの大学だいがくへ這入るはいる組織そしきになっていたものらしかった。
彼かれらは夜よるになると、玄関げんかんに桐きりの机つくえを並べならべて、明日あすの下した読よみをする。
下した読よみと云っいったところで、今いまの書生しょせいのやるのとはだいぶ違っちがっていた。
グードリッチぐーどりっちの英国えいこく史ふみといったような本ほんを、一節いっせつぐらいずつ読んよんで、それからそれを机つくえの上うえへ伏せふせて、口くちの内うちで今いま読んよんだ通りとおりを暗誦あんしょうするのである。
その下した読よみが済むすむと、だんだん益えきさんが必要ひつようになって来るくる。
庄しょうさんもいつの間まにかそこへ顔かおを出すだす。
一いち番目ばんめの兄あにも、機嫌きげんの好いよい時じは、わざわざ奥おくから玄関げんかんまで出張っしゅっちょうって来るくる。
そうしてみんないっしょになって、益えきさんに調ちょう戯たわむれい始めるはじめる。
「益えきさん、西洋せいよう人ひとの所ところへ手紙てがみを配達はいたつする事こともあるだろう」「そりゃ商売しょうばいだから厭いやだって仕方しかたがありません、持っもって行きいきますよ」「益えきさんは英語えいごができるのかね」「英語えいごができるくらいならこんな真似まねをしちゃいません」「しかし郵便ゆうびんッとっとか何なんとか大きなおおきな声こえを出さださなくっちゃならないだろう」「そりゃ日本語にっぽんごで間に合いまにあいますよ。異人いじんだって、近頃ちかごろは日本語にっぽんごが解りわかりますもの」「へええ、向むかいでも何なんとか云ういうのかね」「云いいいますとも。ペロリぺろりの奥さんおくさんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語にっぽんごで挨拶あいさつをするくらいです」 みんなは益えきさんをここまでおびき出しおびきだしておいて、どっと笑うわらうのである。
それからまた「益えきさん何なんて云ういうんだって、その奥さんおくさんは」と何なん遍へんも一いちつ事ことを訊いきいては、いつまでも笑いわらいの種しゅにしようと巧たくみらんでかかる。
益えきさんもしまいには苦笑いにがわらいをして、とうとう「あなたよろしい」をやめにしてしまう。
すると今度こんどは「じゃ益えきさん、野中のなかの一本杉いちぽんすぎをやって御覧ごらんよ」と誰だれかが云いいい出すだす。
「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」「まあ好いよいから、おやりよ。いよいよ野中のなかの一本杉いちぽんすぎの所ところまで参りまいりますと……」 益えきさんはそれでもにやにやして応じおうじない。
私わたくしはとうとう益えきさんの野中のなかの一本杉いちぽんすぎというものを聴かきかずにしまった。
今いま考えるかんがえると、それは何なんでも講釈こうしゃくか人情にんじょう噺はなしの一節いっせつじゃないかしらと思うおもう。
私わたくしの成人せいじんする頃ころには益えきさんももう宅たくへ来きなくなった。
おおかた死んしんだのだろう。
生きいきていれば何なんか消息しょうそくのあるはずである。
しかし死んしんだにしても、いつ死んしんだのか私わたくしは知らしらない。
二十七にじゅうなな
私わたくしは芝居しばいというものに余りあまり親しみしたしみがない。
ことに旧劇きゅうげきは解らわからない。
これは古来こらいからその方面ほうめんで発達はったつして来きた演芸えんげい上うえの約束やくそくを知らしらないので、舞台ぶたいの上うえに開展かいてんされる特別とくべつの世界せかいに、同化どうかする能力のうりょくが私わたくしに欠けかけているためだとも思うおもう。
しかしそればかりではない。
私わたくしが旧劇きゅうげきを見みて、最ももっとも異様いように感ずるかんずるのは、役者やくしゃが自然しぜんと不自然ふしぜんの間まを、どっちつかずにぶらぶら歩いあるいている事ことである。
それが私わたくしに、中腰ちゅうごしと云っいったような落ちつけおちつけない心持こころもちを引き起さひきおこさせるのも恐らくおそらく理りの当然とうぜんなのだろう。
しかし舞台ぶたいの上うえに子供こどもなどが出でて来きて、甲こうの高いたかい声こえで、憐れあわれっぽい事ことなどを云ういう時じには、いかな私わたくしでも知らしらず知らしらず眼めに涙なみだが滲み出るにじみでる。
そうしてすぐ、ああ騙さだまされたなと後悔こうかいする。
なぜあんなに安っぽいやすっぽい涙なみだを零しこぼしたのだろうと思うおもう。
「どう考えかんがえても騙さだまされて泣くなくのは厭いやだ」と私わたくしはある人ひとに告げつげた。
芝居しばい好よしみのその相手あいては、「それが先生せんせいの常態じょうたいなのでしょう。平生へいぜい涙なみだを控え目ひかえめにしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意ちゅういした。
私わたくしはその説せつに不服ふふくだったので、いろいろの方面ほうめんから向むかいを納得なっとくさせようとしているうちに、話題わだいがいつか絵画かいがの方ほうに滑っすべって行っいった。
その男おとこはこの間ま参考さんこう品しなとして美術びじゅつ協会きょうかいに出でた若冲じゃくちゅうの御ご物ものを大変たいへんに嬉しうれしがって、その評論ひょうろんをどこかの雑誌ざっしに載せるのせるとかいう噂うわさであった。
私わたくしはまたあの鶏にわとりの図ずがすこぶる気きに入らはいらなかったので、ここでも芝居しばいと同じおなじような議論ぎろんが二人ふたりの間まに起っおこった。
「いったい君きみに画がを論ずるろんずる資格しかくはないはずだ」と私わたくしはついに彼かれを罵倒ばとうした。
するとこの一言ひとことが本ほんになって、彼かれは芸術げいじゅつ一元論いちげんろんを主張しゅちょうし出しだした。
彼かれの主意しゅいをかいつまんで云ういうと、すべての芸術げいじゅつは同じおなじ源みなもとから湧いわいて出るでるのだから、その内うちの一いちつさえうんと腹はらに入れいれておけば、他ほかは自ずからおのずから解しかいし得とくられる理窟りくつだというのである。
座ざにいる人ひとのうちで、彼かれに同意どういするものも少なくすくなくなかった。
「じゃ小説しょうせつを作れつくれば、自然しぜん柔道じゅうどうも旨くうまくなるかい」と私わたくしが笑談しょうだん半分はんぶんに云っいった。
「柔道じゅうどうは芸術げいじゅつじゃありませんよ」と相手あいても笑いわらいながら答えこたえた。
芸術げいじゅつは平等びょうどう観かんから出立しゅったつするのではない。
よしそこから出立しゅったつするにしても、差別さべつ観かんに入っはいって始めはじめて、花はなが咲くさくのだから、それを本来ほんらいの昔むかしへ返せかえせば、絵えも彫刻ちょうこくも文章ぶんしょうも、すっかり無むに帰しかえしてしまう。
そこに何なんで共通きょうつうのものがあろう。
たとい有っあったにしたところで、実際じっさいの役やくには立たたたない。
彼我ひが共通きょうつうの具体的ぐたいてきのものなどの発見はっけんもできるはずがない。
こういうのがその時じの私わたくしの論旨ろんしであった。
そうしてその論旨ろんしはけっして充分じゅうぶんなものではなかった。
もっと先方せんぽうの主張しゅちょうを取り入れとりいれて、周到しゅうとうな解釈かいしゃくを下しおろしてやる余地よちはいくらでもあったのである。
しかしその時じ座ざにいた一人ひとりが、突然とつぜん私わたくしの議論ぎろんを引き受けひきうけて相手あいてに向いむかい出しだしたので、私わたくしも面倒めんどうだからついそのままにしておいた。
けれども私わたくしの代りかわりになったその男おとこというのはだいぶ酔っよいっていた。
それで芸術げいじゅつがどうだの、文芸ぶんげいがどうだのと、しきりに弁ずるべんずるけれども、あまり要領ようりょうを得とくた事ことは云わいわなかった。
言葉遣いことばづかいさえ少しすこしへべれけであった。
初めはじめのうちは面白おもしろがって笑っわらっていた人ひと達とおるも、ついには黙っだまってしまった。
「じゃ絶交ぜっこうしよう」などと酔っよいった男おとこがしまいに云いいい出しだした。
私わたくしは「絶交ぜっこうするなら外そとでやってくれ、ここでは迷惑めいわくだから」と注意ちゅういした。
「じゃ外そとへ出でて絶交ぜっこうしようか」と酔っよいった男おとこが相手あいてに相談そうだんを持ちかけもちかけたが、相手あいてが動かうごかないので、とうとうそれぎりになってしまった。
これは今年ことしの元日がんじつの出来事できごとである。
酔っよいった男おとこはそれからちょいちょい来るくるが、その時じの喧嘩けんかについては一口ひとくちも云わいわない。
二十八にじゅうはち
ある人ひとが私わたくしの家いえの猫ねこを見みて、「これは何なん代目だいめの猫ねこですか」と訊いきいた時じ、私わたくしは何気なんげなく「二に代目だいめです」と答えこたえたが、あとで考えるかんがえると、二に代目だいめはもう通り越しとおりこして、その実じつ三代さんだい目めになっていた。
初代しょだいは宿やどなしであったにかかわらず、ある意味いみからして、だいぶ有名ゆうめいになったが、それに引きかえひきかえて、二に代目だいめの生涯しょうがいは、主人しゅじんにさえ忘れわすれられるくらい、短命たんめいだった。
私わたくしは誰だれがそれをどこから貰っもらって来きたかよく知らしらない。
しかし手ての掌てのひらに載せれのせれば載せのせられるような小さいちいさい恰好かっこをして、彼かれがそこいら中なか這いはい廻っまわっていた当時とうじを、私わたくしはまだ記憶きおくしている。
この可憐かれんな動物どうぶつは、ある朝家ちょうかのものが床ゆかを揚げるあげる時じ、誤っあやまって上うえから踏み殺しふみころしてしまった。
ぐうという声こえがしたので、蒲団ふとんの下したに潜り込んもぐりこんでいる彼かれをすぐ引き出しひきだして、相当そうとうの手当てあてをしたが、もう間に合わまにあわなかった。
彼かれはそれから一いち日ひ二に日ひしてついに死んしんでしまった。
その後そのあとへ来きたのがすなわち真黒まっくろな今いまの猫ねこである。
私わたくしはこの黒猫くろねこを可愛かわいがっても憎ぞうがってもいない。
猫ねこの方ほうでも宅たく中なかのそのそ歩き廻るあるきまわるだけで、別べつに私わたくしの傍そばへ寄りつこうよりつこうという好意こういを現わしあらわした事ことがない。
ある時じ彼かれは台所だいどころの戸棚とだなへ這入っはいって、鍋なべの中なかへ落ちおちた。
その鍋なべの中なかには胡麻ごまの油あぶらがいっぱいあったので、彼かれの身体しんたいはコスメチックこすめちっくでも塗りつけぬりつけたように光りひかり始めはじめた。
彼かれはその光るひかる身体しんたいで私わたくしの原稿げんこう紙かみの上うえに寝ねたものだから、油あぶらがずっと下したまで滲み通っにじみかよって私わたくしをずいぶんな目めに逢わあわせた。
去年きょねん私わたくしの病気びょうきをする少しすこし前まえに、彼かれは突然とつぜん皮膚病ひふびょうに罹っかかった。
顔かおから額がくへかけて、毛けがだんだん抜けぬけて来るくる。
それをしきりに爪つめで掻くかくものだから、瘡くさ葢おおいがぼろぼろ落ちおちて、痕あとが赤裸あかはだかになる。
私わたくしはある日ひ食事しょくじ中なかこの見苦しいみぐるしい様子ようすを眺めながめて厭いやな顔かおをした。
「ああ瘡くさ葢おおいを零しこぼして、もし小供こどもにでも伝染でんせんするといけないから、病院びょういんへ連れつれて行っいって早くはやく療治りょうじをしてやるがいい」 私わたくしは家いえのものにこういったが、腹はらの中なかでは、ことによると病気びょうきが病気びょうきだから全治ぜんちしまいとも思っおもった。
昔むかしし私わたくしの知っしっている西洋せいよう人ひとが、ある伯爵はくしゃくから好いよい犬いぬを貰っもらって可愛かわいがっていたところ、いつかこんな皮膚病ひふびょうに悩まさなやまされ出しだしたので、気の毒きのどくだからと云っいって、医者いしゃに頼んたのんで殺しころして貰っもらった事ことを、私わたくしはよく覚えおぼえていたのである。
「クロロくろろフォームふぉーむか何なんかで殺しころしてやった方ほうが、かえって苦痛くつうがなくって仕合せしあわせだろう」 私わたくしは三四さんよん度ど同じおなじ言葉ことばを繰り返しくりかえして見みたが、猫ねこがまだ私わたくしの思うおもう通りとおりにならないうちに、自分じぶんの方ほうが病気びょうきでどっと寝ねてしまった。
その間ま私わたくしはついに彼かれを見るみる機会きかいをもたなかった。
自分じぶんの苦痛くつうが直接ちょくせつ自分じぶんを支配しはいするせいか、彼かれの病気びょうきを考えるかんがえる余裕よゆうさえ出でなかった。
十じゅう月つきに入っはいって、私わたくしはようやく起きおきた。
そうして例れいのごとく黒いくろい彼かれを見みた。
すると不思議ふしぎな事ことに、彼かれの醜いみにきい赤裸あかはだかの皮膚ひふにもとのような黒いくろい毛けが生えはえかかっていた。
「おや癒るなおるのかしら」 私わたくしは退屈たいくつな病後びょうごの眼めを絶えたえず彼かれの上うえに注いそそいでいた。
すると私わたくしの衰弱すいじゃくがだんだん回復かいふくするにつれて、彼かれの毛けもだんだん濃くこくなって来きた。
それが平生へいぜいの通りとおりになると、今度こんどは以前いぜんより肥えこえ始めはじめた。
私わたくしは自分じぶんの病気びょうきの経過けいかと彼かれの病気びょうきの経過けいかとを比較ひかくして見みて、時々ときどきそこに何なんかの因縁いんねんがあるような暗示あんじを受けるうける。
そうしてすぐその後そのあとから馬鹿ばからしいと思っおもって微笑びしょうする。
猫ねこの方ほうではただにやにや鳴くなくばかりだから、どんな心持こころもちでいるのか私わたくしにはまるで解らわからない。
二十九にじゅうきゅう
私わたくしは両親りょうしんの晩年ばんねんになってできたいわゆる末すえッ子っこである。
私わたくしを生んうんだ時じ、母はははこんな年歯ねんしをして懐妊かいにんするのは面目めんぼくないと云っいったとかいう話はなしが、今いまでも折々おりおりは繰り返さくりかえされている。
単にたんにそのためばかりでもあるまいが、私わたくしの両親りょうしんは私わたくしが生れ落ちるうまれおちると間まもなく、私わたくしを里さとにやってしまった。
その里さとというのは、無論むろん私わたくしの記憶きおくに残っのこっているはずがないけれども、成人せいじんの後あと聞いきいて見るみると、何なんでも古道具こどうぐの売買ばいばいを渡世とせいにしていた貧しいまずしい夫婦ふうふものであったらしい。
私わたくしはその道具屋どうぐやの我楽多がらくたといっしょに、小さいちいさい笊ざるの中なかに入れいれられて、毎晩まいばん四谷よつやの大通りおおどおりの夜店よみせに曝ささらされていたのである。
それをある晩ばん私わたくしの姉あねが何なんかのついでにそこを通りかかっとおりかかった時じ見つけみつけて、可哀想かわいそうとでも思っおもったのだろう、懐ふところへ入れいれて宅たくへ連れつれて来きたが、私わたくしはその夜よるどうしても寝つかねつかずに、とうとう一いち晩ばん中なか泣きなき続けつづけに泣いないたとかいうので、姉あねは大いにおおいに父ちちから叱らしかられたそうである。
私わたくしはいつ頃いつごろその里さとから取り戻さとりもどされたか知らしらない。
しかしじきまたある家いえへ養子ようしにやられた。
それはたしか私わたくしの四よんつの歳としであったように思うおもう。
私わたくしは物心ものごころのつく八九はちきゅう歳としまでそこで成長せいちょうしたが、やがて養家ようかに妙みょうなごたごたが起っおこったため、再びふたたび実家じっかへ戻るもどるような仕儀しぎとなった。
浅草あさくさから牛込うしごめへ遷さうつされた私わたくしは、生れうまれた家いえへ帰っかえったとは気きがつかずに、自分じぶんの両親りょうしんをもと通りもとどおり祖父母そふぼとのみ思っおもっていた。
そうして相そう変らかわらず彼かれらを御ご爺じいさん、御ご婆ばあさんと呼んよんで毫もごうも怪しまあやしまなかった。
向むかいでも急きゅうに今までいままでの習慣しゅうかんを改めるあらためるのが変へんだと考えかんがえたものか、私わたくしにそう呼ばよばれながら澄ましすました顔かおをしていた。
私わたくしは普通ふつうの末すえッ子っこのようにけっして両親りょうしんから可愛かわいがられなかった。
これは私わたくしの性質せいしつが素直すなおでなかったためだの、久しくひさしく両親りょうしんに遠ざかっとおざかっていたためだの、いろいろの原因げんいんから来きていた。
とくに父ちちからはむしろ苛酷かこくに取扱とりあつかいかわれたという記憶きおくがまだ私わたくしの頭あたまに残っのこっている。
それだのに浅草あさくさから牛込うしごめへ移さうつされた当時とうじの私わたくしは、なぜか非常ひじょうに嬉しかっうれしかった。
そうしてその嬉しさうれしさが誰だれの目めにもつくくらいに著るきるしく外そとへ現われあらわれた。
馬鹿ばかな私わたくしは、本当ほんとうの両親りょうしんを爺婆じじばばとのみ思い込んおもいこんで、どのくらいの月日つきひを空そらに暮らしくらしたものだろう、それを訊かきかれるとまるで分らわからないが、何なんでも或ある夜よるこんな事ことがあった。
私わたくしがひとり座敷ざしきに寝ねていると、枕元まくらもとの所ところで小さなちいさな声こえを出しだして、しきりに私わたくしの名なを呼ぶよぶものがある。
私わたくしは驚ろいおどろいて眼めを覚ましさましたが、周囲しゅういが真暗まっくらなので、誰だれがそこに蹲踞そんきょっているのか、ちょっと判断はんだんがつかなかった。
けれども私わたくしは小供こどもだからただじっとして先方せんぽうの云ういう事ことだけを聞いきいていた。
すると聞いきいているうちに、それが私わたくしの家いえの下女げじょの声こえである事ことに気きがついた。
下女げじょは暗いくらい中なかで私わたくしに耳語じごをするようにこういうのである。
――「あなたが御ご爺じいさん御ご婆ばあさんだと思っおもっていらっしゃる方ほうは、本当ほんとうはあなたの御ご父さんちちさんと御ご母さんははさんなのですよ。先刻せんこくね、おおかたそのせいであんなにこっちの宅たくが好よしみなんだろう、妙みょうなものだな、と云っいって二人ふたりで話しはなしていらしったのを私わたくしが聞いきいたから、そっとあなたに教えおしえて上げるあげるんですよ。誰だれにも話しはなしちゃいけませんよ。よござんすか」 私わたくしはその時じただ「誰だれにも云わいわないよ」と云っいったぎりだったが、心こころの中なかでは大変たいへん嬉しかっうれしかった。
そうしてその嬉しさうれしさは事実じじつを教えおしえてくれたからの嬉しさうれしさではなくって、単にたんに下女げじょが私わたくしに親切しんせつだったからの嬉しさうれしさであった。
不思議ふしぎにも私わたくしはそれほど嬉しくうれしく思っおもった下女げじょの名なも顔かおもまるで忘れわすれてしまった。
覚えおぼえているのはただその人ひとの親切しんせつだけである。
三十さんじゅう
私わたくしがこうして書斎しょさいに坐っすわっていると、来るくる人ひとの多くおおくが「もう御ご病気びょうきはすっかり御ご癒りなおりですか」と尋ねたずねてくれる。
私わたくしは何度なんども同じおなじ質問しつもんを受けうけながら、何度なんども返答へんとうに躊躇ちゅうちょした。
そうしてその極きょくいつでも同じおなじ言葉ことばを繰り返すくりかえすようになった。
それは「ええまあどうかこうか生きいきています」という変へんな挨拶あいさつに異ならことならなかった。
どうかこうか生きいきている。
――私わたくしはこの一句いっくを久しいひさしい間ま使用しようした。
しかし使用しようするごとに、何なんだか不穏当ふおんとうな心持こころもちがするので、自分じぶんでも実じつはやめられるならばと思っおもって考えかんがえてみたが、私わたくしの健康状態けんこうじょうたいを云いいい現わすあらわすべき適当てきとうな言葉ことばは、他ほかにどうしても見つからみつからなかった。
ある日ひT君きみが来きたから、この話はなしをして、癒っなおったとも云えいえず、癒らなおらないとも云えいえず、何なんと答えこたえて好いよいか分らわからないと語っごったら、T君きみはすぐ私わたくしにこんな返事へんじをした。
「そりゃ癒っなおったとは云わいわれませんね。そう時々ときどき再発さいはつするようじゃ。まあもとの病気びょうきの継続けいぞくなんでしょう」 この継続けいぞくという言葉ことばを聞いきいた時じ、私わたくしは好いよい事ことを教えおしえられたような気きがした。
それから以後いごは、「どうかこうか生きいきています」という挨拶あいさつをやめて、「病気びょうきはまだ継続けいぞく中なかです」と改あらためためた。
そうしてその継続けいぞくの意味いみを説明せつめいする場合ばあいには、必ずかならず欧洲おうしゅうの大乱たいらんを引合ひきあいに出しだした。
「私わたくしはちょうど独どく乙おつが聯合れんごう軍ぐんと戦争せんそうをしているように、病気びょうきと戦争せんそうをしているのです。今いまこうやってあなたと対坐たいざしていられるのは、天下てんかが太平たいへいになったからではないので、塹壕ざんごうの中なかに這入っはいって、病気びょうきと睨めにらめっくらをしているからです。私わたくしの身体しんたいは乱世らんせいです。いつどんな変へんが起らおこらないとも限りかぎりません」 或人あるひとは私わたくしの説明せつめいを聞いきいて、面白おもしろそうにははと笑っわらった。
或人あるひとは黙っだまっていた。
また或人あるひとは気の毒きのどくらしい顔かおをした。
客きゃくの帰っかえったあとで私わたくしはまた考えかんがえた。
――継続けいぞく中なかのものはおそらく私わたくしの病気びょうきばかりではないだろう。
私わたくしの説明せつめいを聞いきいて、笑談しょうだんだと思っおもって笑うわらう人ひと、解らわからないで黙っだまっている人ひと、同情どうじょうの念ねんに駆らかられて気の毒きのどくらしい顔かおをする人ひと、――すべてこれらの人ひとの心こころの奥おくには、私わたくしの知らしらない、また自分じぶん達とおるさえ気きのつかない、継続けいぞく中なかのものがいくらでも潜んひそんでいるのではなかろうか。
もし彼かれらの胸むねに響くひびくような大きなおおきな音おとで、それが一度いちどに破裂はれつしたら、彼かれらははたしてどう思うおもうだろう。
彼かれらの記憶きおくはその時じもはや彼かれらに向っむかって何物なにものをも語らかたらないだろう。
過去かこの自覚じかくはとくに消えきえてしまっているだろう。
今いまと昔むかしとまたその昔むかしの間まに何なんらの因果いんがを認めるみとめる事ことのできない彼かれらは、そういう結果けっかに陥っおちいった時じ、何なんと自分じぶんを解釈かいしゃくして見るみる気きだろう。
所詮しょせん我々われわれは自分じぶんで夢ゆめの間まに製造せいぞうした爆裂弾ばくれつだんを、思い思いおもいおもいに抱きいだきながら、一人ひとり残らのこらず、死しという遠いとおい所ところへ、談笑だんしょうしつつ歩いあるいて行くいくのではなかろうか。
ただどんなものを抱いいだいているのか、他ほかも知らしらず自分じぶんも知らしらないので、仕合せしあわせなんだろう。
私わたくしは私わたくしの病気びょうきが継続けいぞくであるという事ことに気きがついた時じ、欧洲おうしゅうの戦争せんそうもおそらくいつの世よからかの継続けいぞくだろうと考えかんがえた。
けれども、それがどこからどう始まっはじまって、どう曲折きょくせつして行くいくかの問題もんだいになると全くまったく無む知識ちしきなので、継続けいぞくという言葉ことばを解しかいしない一般いっぱんの人ひとを、私わたくしはかえって羨ましくうらやましく思っおもっている。
三十一さんじゅういち
私わたくしがまだ小学校しょうがっこうに行っいっていた時分じぶんに、喜きいちゃんという仲なかの好いよい友達ともだちがあった。
喜きいちゃんは当時とうじ中町なかちょうの叔父おじさんの宅たくにいたので、そう道程どうていの近くちかくない私わたくしの所ところからは、毎日まいにち会いあいに行くいく事ことが出来でき悪かっわるかった。
私わたくしはおもに自分じぶんの方ほうから出かけでかけないで、喜きいちゃんの来るくるのを宅たくで待っまっていた。
喜きいちゃんはいくら私わたくしが行かいかないでも、きっと向うむこうから来るくるにきまっていた。
そうしてその来るくる所ところは、私わたくしの家いえの長屋ながやを借りかりて、紙かみや筆ふでを売るうる松まつさんの許もとであった。
喜きいちゃんには父母ふぼがないようだったが、小供こどもの私わたくしには、それがいっこう不思議ふしぎとも思わおもわれなかった。
おそらく訊いきいて見みた事こともなかったろう。
したがって喜きいちゃんがなぜ松まつさんの所ところへ来るくるのか、その訳わけさえも知らしらずにいた。
これはずっと後あとで聞いきいた話はなしであるが、この喜きいちゃんの御ご父さんちちさんというのは、昔むかしし銀座ぎんざの役人やくにんか何なんかをしていた時じ、贋金にせがねを造っつくったとかいう嫌疑けんぎを受けうけて、入牢にゅうろうしたまま死んしんでしまったのだという。
それであとに取り残さとりのこされた細君さいくんが、喜きいちゃんを先夫せんぷの家いえへ置いおいたなり、松まつさんの所ところへ再縁さいえんしたのだから、喜きいちゃんが時々ときどき生なまの母ははに会いあいに来るくるのは当り前あたりまえの話はなしであった。
何になんにも知らしらない私わたくしは、この事情じじょうを聞いきいた時じですら、別段べつだん変へんな感じかんじも起さおこさなかったくらいだから、喜きいちゃんとふざけまわって遊ぶあそぶ頃ころに、彼かれの境遇きょうぐうなどを考えかんがえた事ことはただの一度いちどもなかった。
喜きいちゃんも私わたくしも漢学かんがくが好きすきだったので、解りわかりもしない癖くせに、よく文章ぶんしょうの議論ぎろんなどをして面白おもしろがった。
彼かれはどこから聴いきいてくるのか、調べしらべてくるのか、よくむずかしい漢籍かんせきの名前なまえなどを挙げあげて、私わたくしを驚ろかすおどろかす事ことが多かっおおかった。
彼かれはある日ひ私わたくしの部屋へや同様どうようになっている玄関げんかんに上り込んあがりこんで、懐ふところから二に冊さつつづきの書物しょもつを出しだして見せみせた。
それは確かくに写本しゃほんであった。
しかも漢文かんぶんで綴っつづってあったように思うおもう。
私わたくしは喜きいちゃんから、その書物しょもつを受け取っうけとって、無意味むいみにそこここを引いんっ繰返しくりかえして見みていた。
実じつは何なんが何なんだか私わたくしにはさっぱり解らわからなかったのである。
しかし喜きいちゃんは、それを知っしってるかなどと露骨ろこつな事ことをいう性質せいしつではなかった。
「これは太田おおた南畝なんぽの自筆じひつなんだがね。僕ぼくの友達ともだちがそれを売りうりたいというので君きみに見せみせに来きたんだが、買っかってやらないか」 私わたくしは太田おおた南畝なんぽという人ひとを知らしらなかった。
「太田おおた南畝なんぽっていったい何なんだい」「蜀山人しょくさんじんの事ことさ。有名ゆうめいな蜀山人しょくさんじんさ」 無学むがくな私わたくしは蜀山人しょくさんじんという名前なまえさえまだ知らしらなかった。
しかし喜きいちゃんにそう云わいわれて見るみると、何なんだか貴重きちょうの書物しょもつらしい気きがした。
「いくらなら売るうるのかい」と訊いきいて見みた。
「五十ごじゅう銭せんに売りうりたいと云ういうんだがね。どうだろう」 私わたくしは考えかんがえた。
そうして何しろなにしろ価あたい切っきって見るみるのが上策じょうさくだと思いついおもいついた。
「二十五にじゅうご銭せんなら買っかっても好いよい」「それじゃ二十五にじゅうご銭せんでも構わかまわないから、買っかってやりたまえ」 喜きいちゃんはこう云いいいつつ私わたくしから二十五にじゅうご銭せん受取っうけとっておいて、またしきりにその本ほんの効能こうのうを述べ立てのべたてた。
私わたくしには無論むろんその書物しょもつが解らわからないのだから、それほど嬉しくうれしくもなかったけれども、何しろなにしろ損そんはしないだろうというだけの満足まんぞくはあった。
私わたくしはその夜よる南畝なんぽ莠はぐさ言げん――たしかそんな名前なまえだと記憶きおくしているが、それを机つくえの上うえに載せのせて寝ねた。
三十二さんじゅうに
翌日よくじつになると、喜きいちゃんがまたぶらりとやって来きた。
「君きみ昨日きのう買っかって貰っもらった本ほんの事ことだがね」 喜きいちゃんはそれだけ云っいって、私わたくしの顔かおを見みながらぐずぐずしている。
私わたくしは机つくえの上うえに載せのせてあった書物しょもつに眼めを注いそそいだ。
「あの本ほんかい。あの本ほんがどうかしたのかい」「実じつはあすこの宅たくの阿爺あやに知れしれたものだから、阿爺あやが大変たいへん怒っどってね。どうか返しかえして貰っもらって来きてくれって僕ぼくに頼むたのむんだよ。僕ぼくも一遍いちぺん君きみに渡しわたしたもんだから厭いやだったけれども仕方しかたがないからまた来きたのさ」「本ほんを取りとりにかい」「取りとりにって訳わけでもないけれども、もし君きみの方ほうで差支さしつかえがないなら、返しかえしてやってくれないか。何しろなにしろ二十五にじゅうご銭せんじゃ安あん過ぎるすぎるっていうんだから」 この最後さいごの一言ひとことで、私わたくしは今までいままで安くやすく買いかい得とくたという満足まんぞくの裏うらに、ぼんやり潜んひそんでいた不快ふかい、――不善ふぜんの行為こういから起るおこる不快ふかい――を判然はんぜん自覚じかくし始めはじめた。
そうして一方いっぽうでは狡猾こうかつい私わたくしを怒るおこると共ともに、一方いっぽうでは二十五にじゅうご銭せんで売っうった先方せんぽうを怒っどった。
どうしてこの二につの怒りいかりを同時どうじに和らげやわらげたものだろう。
私わたくしは苦いにがい顔かおをしてしばらく黙っだまっていた。
私わたくしのこの心理状態しんりじょうたいは、今いまの私わたくしが小供こどもの時じの自分じぶんを回顧かいこして解剖かいぼうするのだから、比較的ひかくてき明瞭めいりょうに描き出さえがきだされるようなものの、その場合ばあいの私わたくしにはほとんど解らわからなかった。
私わたくしさえただ苦いにがい顔かおをしたという結果けっかだけしか自覚じかくし得とくなかったのだから、相手あいての喜きいちゃんには無論むろんそれ以上いじょう解るわかるはずがなかった。
括弧かっこの中なかでいうべき事ことかも知れしれないが、年齢ねんれいを取っとった今日きょうでも、私わたくしにはよくこんな現象げんしょうが起っおこってくる。
それでよく他ほかから誤解ごかいされる。
喜きいちゃんは私わたくしの顔かおを見みて、「二十五にじゅうご銭せんでは本当ほんとうに安あん過ぎるすぎるんだとさ」と云っいった。
私わたくしはいきなり机つくえの上うえに載せのせておいた書物しょもつを取っとって、喜きいちゃんの前まえに突き出しつきだした。
「じゃ返そうかえそう」「どうも失敬しっけいした。何しろなにしろ安あん公こうの持っもってるものでないんだから仕方しかたがない。阿爺あやの宅たくに昔むかしからあったやつを、そっと売っうって小遣こづかいにしようって云ういうんだからね」 私わたくしはぷりぷりして何なんとも答えこたえなかった。
喜きいちゃんは袂たもとから二十五にじゅうご銭せん出しだして私わたくしの前まえへ置きおきかけたが、私わたくしはそれに手てを触れようふれようともしなかった。
「その金きんなら取らとらないよ」「なぜ」「なぜでも取らとらない」「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本ほんだけ返すかえすのは。本ほんを返すかえすくらいなら二十五にじゅうご銭せんも取りとりたまいな」 私わたくしはたまらなくなった。
「本ほんは僕ぼくのものだよ。いったん買っかった以上いじょうは僕ぼくのものにきまってるじゃないか」「そりゃそうに違いちがいない。違いちがいないが向むかいの宅たくでも困っこまってるんだから」「だから返すかえすと云っいってるじゃないか。だけど僕ぼくは金きんを取るとる訳わけがないんだ」「そんな解らわからない事ことを云わいわずに、まあ取っとっておきたまいな」「僕ぼくはやるんだよ。僕ぼくの本ほんだけども、欲しけれほしければやろうというんだよ。やるんだから本ほんだけ持っもってったら好いよいじゃないか」「そうかそんなら、そうしよう」 喜きいちゃんは、とうとう本ほんだけ持っもって帰っかえった。
そうして私わたくしは何なんの意味いみなしに二十五にじゅうご銭せんの小遣こづかいを取らとられてしまったのである。
三十三さんじゅうさん
世の中よのなかに住むすむ人間にんげんの一人ひとりとして、私わたくしは全くまったく孤立こりつして生存せいぞんする訳わけに行かいかない。
自然しぜん他ほかと交渉こうしょうの必要ひつようがどこからか起っおこってくる。
時候じこうの挨拶あいさつ、用談ようだん、それからもっと込み入っこみいった懸合けんごう――これらから脱却だっきゃくする事ことは、いかに枯淡こたんな生活せいかつを送っおくっている私わたくしにもむずかしいのである。
私わたくしは何なんでも他ほかのいう事ことを真しんに受けうけて、すべて正面しょうめんから彼かれらの言語げんご動作どうさを解釈かいしゃくすべきものだろうか。
もし私わたくしが持っもって生れうまれたこの単純たんじゅんな性情せいじょうに自己じこを託したくして顧みかえりみないとすると、時々ときどき飛んとんでもない人ひとから騙さだまされる事ことがあるだろう。
その結果けっか蔭かげで馬鹿ばかにされたり、冷評れいひょうかされたりする。
極端きょくたんな場合ばあいには、自分じぶんの面前めんぜんでさえ忍ぶしのぶべからざる侮辱ぶじょくを受けうけないとも限らかぎらない。
それでは他ほかはみな擦れすれ枯らしからしの嘘うそ吐とばかりと思っおもって、始めはじめから相手あいての言葉ことばに耳みみも借かりさず、心こころも傾けかたむけず、或ある時じはその裏面りめんに潜んひそんでいるらしい反対はんたいの意味いみだけを胸むねに収めおさめて、それで賢いかしこい人ひとだと自分じぶんを批評ひひょうし、またそこに安住あんじゅうの地ちを見出しみだし得るうるだろうか。
そうすると私わたくしは人ひとを誤解ごかいしないとも限らかぎらない。
その上うえ恐るおそるべき過失かしつを犯すおかす覚悟かくごを、初手しょてから仮定かていして、かからなければならない。
或ある時じは必然ひつぜんの結果けっかとして、罪つみのない他ほかを侮辱ぶじょくするくらいの厚顔こうがんを準備じゅんびしておかなければ、事ことが困難こんなんになる。
もし私わたくしの態度たいどをこの両面りょうめんのどっちかに片づけようかたづけようとすると、私わたくしの心こころにまた一種いっしゅの苦悶くもんが起るおこる。
私わたくしは悪いわるい人ひとを信じしんじたくない。
それからまた善いよい人ひとを少しすこしでも傷けきずつけたくない。
そうして私わたくしの前まえに現われあらわれて来るくる人ひとは、ことごとく悪人あくにんでもなければ、またみんな善人ぜんにんとも思えおもえない。
すると私わたくしの態度たいども相手あいてしだいでいろいろに変っかわって行かいかなければならないのである。
この変化へんかは誰だれにでも必要ひつようで、また誰だれでも実行じっこうしている事ことだろうと思うおもうが、それがはたして相手あいてにぴたりと合っあって寸分すんぶん間ま違いのない微妙びみょうな特殊とくしゅな線せんの上うえをあぶなげもなく歩いあるいているだろうか。
私わたくしの大いなるおおいなる疑問ぎもんは常つねにそこに蟠とぐろまっている。
私わたくしの僻を別べつにして、私わたくしは過去かこにおいて、多くおおくの人ひとから馬鹿ばかにされたという苦いにがい記憶きおくをもっている。
同時どうじに、先方せんぽうの云ういう事ことや為るなる事ことを、わざと平たくひらたく取らとらずに、暗にあんにその人ひとの品性ひんせいに恥はじを掻かかかしたと同じおなじような解釈かいしゃくをした経験けいけんもたくさんありはしまいかと思うおもう。
他ほかに対するたいする私わたくしの態度たいどはまず今までいままでの私わたくしの経験けいけんから来るくる。
それから前後ぜんごの関係かんけいと四囲しいの状況じょうきょうから出るでる。
最後さいごに、曖昧あいまいな言葉ことばではあるが、私わたくしが天てんから授かっさずかった直覚ちょっかくが何なん分ぶんか働はたらけらく。
そうして、相手あいてに馬鹿ばかにされたり、また相手あいてを馬鹿ばかにしたり、稀まれには相手あいてに彼かれ相当そうとうな待遇たいぐうを与えあたえたりしている。
しかし今までいままでの経験けいけんというものは、広いひろいようで、その実じつはなはだ狭いせまい。
ある社会しゃかいの一部分いちぶぶんで、何度なんどとなく繰り返さくりかえされた経験けいけんを、他ほかの一部分いちぶぶんへ持っもって行くいくと、まるで通用つうようしない事ことが多いおおい。
前後ぜんごの関係かんけいとか四囲しいの状況じょうきょうとか云っいったところで、千差せんさ万まん別べつなのだから、その応用おうようの区域くいきが限らかぎられているばかりか、その実じつ千差万別せんさばんべつに思慮しりょを廻らさめぐらさなければ役やくに立たたたなくなる。
しかもそれを廻らすめぐらす時間じかんも、材料ざいりょうも充分じゅうぶん給与きゅうよされていない場合ばあいが多いおおい。
それで私わたくしはともすると事実じじつあるのだか、またないのだか解らわからない、極めてきわめてあやふやな自分じぶんの直覚ちょっかくというものを主位しゅいに置いおいて、他ほかを判断はんだんしたくなる。
そうして私わたくしの直覚ちょっかくがはたして当っあたったか当らあたらないか、要するようするに客観的きゃっかんてき事実じじつによって、それを確めるたしかめる機会きかいをもたない事ことが多いおおい。
そこにまた私わたくしの疑いうたがいが始終しじゅう靄もやのようにかかって、私わたくしの心こころを苦しめくるしめている。
もし世の中よのなかに全知全能ぜんちぜんのうの神かみがあるならば、私わたくしはその神かみの前まえに跪ずいて、私わたくしに毫ごう髪かみの疑ぎを挟むはさむ余地よちもないほど明らかあきらかな直覚ちょっかくを与えあたえて、私わたくしをこの苦悶くもんから解脱げだつせしめん事ことを祈るいのる。
でなければ、この不明ふめいな私わたくしの前まえに出でて来るくるすべての人ひとを、玲瓏れいろう透徹とうてつな正直しょうじきものに変化へんかして、私わたくしとその人ひととの魂たましいがぴたりと合うあうような幸福こうふくを授けさずけたまわん事ことを祈るいのる。
今いまの私わたくしは馬鹿ばかで人ひとに騙さだまされるか、あるいは疑い深くうたがいぶかくて人ひとを容れるいれる事ことができないか、この両方りょうほうだけしかないような気きがする。
不安ふあんで、不透明ふとうめいで、不愉快ふゆかいに充ちみちている。
もしそれが生涯しょうがいつづくとするならば、人間にんげんとはどんなに不幸ふこうなものだろう。
三十四さんじゅうよん
私わたくしが大学だいがくにいる頃ころ教えおしえたある文学ぶんがく士しが来きて、「先生せんせいはこの間ま高等こうとう工業こうぎょうで講演こうえんをなすったそうですね」というから、「ああやった」と答えるこたえると、その男おとこが「何なんでも解らわからなかったようですよ」と教えおしえてくれた。
それまで自分じぶんの云っいった事ことについて、その方面ほうめんの掛かかり念ねんをまるでもっていなかった私わたくしは、彼かれの言葉ことばを聞くきくとひとしく、意外いがいの感かんに打たうたれた。
「君きみはどうしてそんな事ことを知っしってるの」 この疑問ぎもんに対するたいする彼かれの説明せつめいは簡単かんたんであった。
親戚しんせきだか知人ちじんだか知らしらないが、何しろなにしろ彼かれに関係かんけいのある或ある家いえの青年せいねんが、その学校がっこうに通っとおっていて、当日とうじつ私わたくしの講演こうえんを聴いきいた結果けっかを、何なんだか解らわからないという言葉ことばで彼かれに告げつげたのである。
「いったいどんな事ことを講演こうえんなすったのですか」 私わたくしは席上せきじょうで、彼かれのためにまたその講演こうえんの梗※を繰り返しくりかえした。
「別べつにむずかしいとも思えおもえない事ことだろう君きみ。どうしてそれが解らわからないかしら」「解らわからないでしょう。どうせ解りゃわかりゃしません」 私わたくしには断乎だんこたるこの返事へんじがいかにも不思議ふしぎに聞こえきこえた。
しかしそれよりもなお強くつよく私わたくしの胸むねを打っうったのは、止せよせばよかったという後悔こうかいの念ねんであった。
自白じはくすると、私わたくしはこの学校がっこうから何度なんどとなく講演こうえんを依頼いらいされて、何度なんどとなく断っことわったのである。
だからそれを最後さいごに引き受けひきうけた時じの私わたくしの腹はらには、どうかしてそこに集まるあつまる聴衆ちょうしゅうに、相当そうとうの利益りえきを与えあたえたいという希望きぼうがあった。
その希望きぼうが、「どうせ解りゃわかりゃしません」という簡単かんたんな彼かれの一言ひとことで、みごとに粉砕ふんさいされてしまって見るみると、私わたくしはわざわざ浅草あさくさまで行くいく必要ひつようがなかったのだと、自分じぶんを考えかんがえない訳わけに行かいかなかった。
これはもう一二いちに年ねん前まえの古いふるい話はなしであるが去年きょねんの秋あきまたある学校がっこうで、どうしても講演こうえんをやらなければ義理ぎりが悪いわるい事ことになって、ついにそこへ行っいった時じ、私わたくしはふと私わたくしを後悔こうかいさせた前年ぜんねんを思い出しおもいだした。
それに私わたくしの論じろんじたその時じの題目だいもくが、若いわかい聴衆ちょうしゅうの誤解ごかいを招きまねきやすい内容ないようを含んふくんでいたので、私わたくしは演壇えんだんを下りるおりる間際まぎわにこう云っいった。
――「多分たぶん誤解ごかいはないつもりですが、もし私わたくしの今いま御ご話しはなしたうちに、判然はんぜんしないところがあるなら、どうぞ私宅したくまで来きて下さいください。できるだけあなたがたに御ご納得なっとくの行くいくように説明せつめいして上げるあげるつもりですから」 私わたくしのこの言葉ことばが、どんな風かぜに反響はんきょうをもたらすだろうかという予期よきは、当時とうじの私わたくしにはほとんど無かっなかったように思うおもう。
しかしそれから四五しご日ひ経っきょうって、三さん人ひとの青年せいねんが私わたくしの書斎しょさいに這入っはいって来きたのは事実じじつである。
そのうちの二人ふたりは電話でんわで私わたくしの都合つごうを聞き合せききあわせた。
一人ひとりは鄭てい寧ねいな手紙てがみを書いかいて、面会めんかいの時間じかんを拵えこしらえてくれと注文ちゅうもんして来きた。
私わたくしは快よくこころよくそれらの青年せいねんに接しせっした。
そうして彼かれらの来意らいいを確かめたしかめた。
一人ひとりの方ほうは私わたくしの予想よそう通りとおり、私わたくしの講演こうえんについての筋道すじみちの質問しつもんであったが、残るのこる二人ふたりの方ほうは、案外あんがいにも彼かれらの友人ゆうじんがその家庭かていに対したいして採るとるべき方針ほうしんについての疑義ぎぎを私わたくしに訊こうきこうとした。
したがってこれは私わたくしの講演こうえんを、どう実社会じつしゃかいに応用おうようして好いよいかという彼かれらの目前もくぜんに逼っせまった問題もんだいを持っもって来きたのである。
私わたくしはこれら三さん人ひとのために、私わたくしの云ういうべき事ことを云いいい、説明せつめいすべき事ことを説明せつめいしたつもりである。
それが彼かれらにどれほどの利益りえきを与えあたえたか、結果けっかからいうとこの私わたくしにも分らわからない。
しかしそれだけにしたところで私わたくしには満足まんぞくなのである。
「あなたの講演こうえんは解らわからなかったそうです」と云わいわれた時じよりも遥はるかに満足まんぞくなのである。
三十五さんじゅうご
私わたくしは小供こどもの時分じぶんよく日本橋にほんばしの瀬戸物町せとものまちにある伊勢本いせほんという寄席よせへ講釈こうしゃくを聴きききに行っいった。
今いまの三越みつこしの向側むかいがわにいつでも昼ひる席せきの看板かんばんがかかっていて、その角かくを曲るまがると、寄席よせはつい小半こなから町まち行くいくか行かいかない右手みぎてにあったのである。
この席せきは夜よるになると、色物いろものだけしかかけないので、私わたくしは昼ひるよりほかに足あしを踏み込んふみこんだ事ことがなかったけれども、席数せきすうからいうと一番いちばん多くおおく通っとおった所ところのように思わおもわれる。
当時とうじ私わたくしのいた家いえは無論むろん高田たかだの馬場ばばの下したではなかった。
しかしいくら地理ちりの便びんが好かっよかったからと云っいって、どうしてあんなに講釈こうしゃくを聴きききに行くいく時間じかんが私わたくしにあったものか、今いま考えるかんがえるとむしろ不思議ふしぎなくらいである。
これも今いまからふり返っふりかえって遠いとおい過去かこを眺めるながめるせいでもあろうが、そこは寄席よせとしてはむしろ上品じょうぼんな気分きぶんを客きゃくに起さおこさせるようにできていた。
高座こうざの右側みぎがわには帳場ちょうば格子こうしのような仕切しきりを二方にほうに立て廻したてまわして、その中なかに定連ていれんの席せきが設けもうけてあった。
それから高座こうざの後あとが縁側えんがわで、その先さきがまた庭にわになっていた。
庭にわには梅うめの古木こぼくが斜めななめに井桁いげたの上うえに突き出つきでたりして、窮屈きゅうくつな感じかんじのしないほどの大空おおぞらが、縁えんから仰があおがれるくらいに余分よぶんの地面じめんを取り込んとりこんでいた。
その庭にわを東ひがしに受けうけて離れはなれ座敷ざしきのような建物たてものも見えみえた。
帳場ちょうば格子こうしのうちにいる連中れんちゅうは、時間じかんが余っよって使いつかい切れきれない有福ありふくな人ひと達とおるなのだから、みんな相応そうおうな服装ふくそうをして、時々ときどき呑気のんきそうに袂たもとから毛抜けぬきなどを出しだして根気こんきよく鼻毛はなげを抜いぬいていた。
そんな長閑のどかな日ひには、庭にわの梅うめの樹きに鶯うぐいすが来きて啼くなくような気持きもちもした。
中入なかいりになると、菓子かしを箱入はこいりのまま茶ちゃを売るうる男おとこが客きゃくの間まへ配っくばって歩くあるくのがこの席せきの習慣しゅうかんになっていた。
箱ばこは浅いあさい長方形ちょうほうけいのもので、まず誰だれでも欲しいほしいと思うおもう人ひとの手ての届くとどく所ところに一いちつと云っいった風かぜに都合つごうよく置かおかれるのである。
菓子かしの数すうは一いち箱ばこに十じゅうぐらいの割わりだったかと思うおもうが、それを食べたべたいだけ食べたべて、後あとからその代価だいかを箱ばこの中なかに入れるいれるのが無言むごんの規約きやくになっていた。
私わたくしはその頃ころこの習慣しゅうかんを珍らしいめずらしいもののように興きょうがって眺めながめていたが、今いまとなって見るみると、こうした鷹揚おうようで呑気のんきな気分きぶんは、どこの人ひと寄場よせばへ行っいっても、もう味わうあじわう事ことができまいと思うおもうと、それがまた何なんとなく懐しいなつかしい。
私わたくしはそんなおっとりと物寂びものさびた空気くうきの中なかで、古めかしいふるめかしい講釈こうしゃくというものをいろいろの人ひとから聴いきいたのである。
その中なかには、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙みょうな言葉ことばを使うつかう男おとこもいた。
これは田辺たなべ南竜なんりゅうと云っいって、もとはどこかの下足げそく番ばんであったとかいう話はなしである。
そのすととこ、のんのん、ずいずいははなはだ有名ゆうめいなものであったが、その意味いみを理解りかいするものは一人ひとりもなかった。
彼かれはただそれを軍勢ぐんぜいの押し寄せるおしよせる形容詞けいようしとして用いもちいていたらしいのである。
この南竜なんりゅうはとっくの昔むかしに死んしんでしまった。
そのほかのものもたいていは死んしんでしまった。
その後そのあとの様子ようすをまるで知らしらない私わたくしには、その時分じぶん私わたくしを喜こばよろこばせてくれた人ひとのうちで生きいきているものがはたして何人なんにんあるのだか全くまったく分らわからなかった。
ところがいつか美音びおん会かいの忘年会ぼうねんかいのあった時じ、その番組ばんぐみを見みたら、吉原よしわらの幇間ほうかんの茶番ちゃばんだの何なんだのが列べならべて書いかいてあるうちに、私わたくしはたった一人ひとりの当時とうじの旧友きゅうゆうを見出しみだした。
私わたくしは新富しんとみ座ざへ行っいって、その人ひとを見みた。
またその声こえを聞いきいた。
そうして彼かれの顔かおも咽喉のども昔むかしとちっとも変っかわっていないのに驚ろいおどろいた。
彼かれの講釈こうしゃくも全くまったく昔むかしの通りとおりであった。
進歩しんぽもしない代りかわりに、退歩たいほもしていなかった。
廿にじゅう世紀せいきのこの急劇きゅうげきな変化へんかを、自分じぶんと自分じぶんの周囲しゅういに恐ろしくおそろしく意識いしきしつつあった私わたくしは、彼かれの前まえに坐りすわりながら、絶えたえず彼かれと私わたくしとを、心こころのうちで比較ひかくして一種いっしゅの黙想もくそうに耽っふけっていた。
彼かれというのは馬琴ばきんの事ことで、昔むかし伊勢本いせほんで南竜なんりゅうの中入なかいり前まえをつとめていた頃ころには、琴こと凌りょうと呼ばよばれた若手わかてだったのである。
三十六さんじゅうろく
私わたくしの長兄ちょうけいはまだ大学だいがくとならない前まえの開成かいせい校こうにいたのだが、肺はいを患っわずらって中途ちゅうとで退学たいがくしてしまった。
私わたくしとはだいぶ年歯ねんしが違うちがうので、兄弟きょうだいとしての親しみしたしみよりも、大人おとな対たい小供こどもとしての関係かんけいの方ほうが、深くふかく私わたくしの頭あたまに浸み込んしみこんでいる。
ことに怒らおこられた時じはそうした感じかんじが強くつよく私わたくしを刺戟しげきしたように思うおもう。
兄あには色いろの白いしろい鼻筋はなすじの通っとおった美びくしい男おとこであった。
しかし顔だちかおだちから云っいっても、表情ひょうじょうから見みても、どこかに峻しゅんしい相そうを具えそなえていて、むやみに近寄れちかよれないと云っいった風かぜの逼っせまった心持こころもちを他ほかに与えあたえた。
兄あにの在学中ざいがくちゅうには、まだ地方ちほうから出でて来きた貢進生こうしんせいなどのいる頃ころだったので、今いまの青年せいねんには想像そうぞうのできないような気風きふうが校内こうないのそこここに残っのこっていたらしい。
兄あには或ある上級生じょうきゅうせいに艶書えんしょをつけられたと云っいって、私わたくしに話しはなした事ことがある。
その上級生じょうきゅうせいというのは、兄あになどよりもずっと年歯ねんし上うえの男おとこであったらしい。
こんな習慣しゅうかんの行なわおこなわれない東京とうきょうで育っそだった彼かれは、はたしてその文ぶんをどう始末しまつしたものだろう。
兄あにはそれ以後いご学校がっこうの風呂ふろでその男おとこと顔かおを見合せるみあわせるたびに、きまりの悪いわるい思おもうをして困っこまったと云っいっていた。
学校がっこうを出でた頃ころの彼かれは、非常ひじょうに四角しかく四面しめんで、始終しじゅう堅苦しくかたくるしく構えかまえていたから、父ちちや母ははも多少たしょう彼かれに気きをおく様子ようすが見えみえた。
その上うえ病気びょうきのせいでもあろうが、常つねに陰気いんき臭いくさい顔かおをして、宅たくにばかり引込んひきこんでいた。
それがいつとなく融けとけて来きて、人柄ひとがらが自ずとおのずと柔らかやわらかになったと思うおもうと、彼かれはよく古渡こわたり唐桟とうざんの着物きものに角帯かくおびなどを締めしめて、夕方ゆうがたから宅たくを外そとにし始めはじめた。
時々ときどきは紫色むらさきいろで亀甲きっこう型かたを一いち面めんに摺っすった亀かめ清きよしの団扇うちわなどが茶の間ちゃのまに放り出さほうりだされるようになった。
それだけならまだ好いよいが、彼かれは長火鉢ながひばちの前まえへ坐っすわったまま、しきりに仮かり色いろを遣いつかい出しだした。
しかし宅たくのものは別段べつだんそれに頓着とんちゃくする様子ようすも見えみえなかった。
私わたくしは無論むろん平気へいきであった。
仮かり色いろと同時どうじに藤八拳とうはちけんも始まっはじまった。
しかしこの方ほうは相手あいてが要るいるので、そう毎晩まいばんは繰り返さくりかえされなかったが、何しろなにしろ変へんに無器用むきような手てを上げあげたり下げさげたりして、熱心ねっしんにやっていた。
相手あいてはおもに三さん番目ばんめの兄あにが勤めつとめていたようである。
私わたくしは真面目まじめな顔かおをして、ただ傍観ぼうかんしているに過ぎすぎなかった。
この兄あにはとうとう肺病はいびょうで死んしんでしまった。
死んしんだのはたしか明治めいじ二十にじゅう年ねんだと覚えおぼえている。
すると葬式そうしきも済みすみ、待夜まちやも済んすんで、まず一いち片かた付ふというところへ一人ひとりの女おんなが尋ねたずねて来きた。
三さん番目ばんめの兄あにが出でて応接おうせつして見るみると、その女おんなは彼かれにこんな事ことを訊いきいた。
「兄さんあにさんは死ぬしぬまで、奥さんおくさんを御ご持ちもちになりゃしますまいね」 兄あには病気びょうきのため、生涯しょうがい妻帯さいたいしなかった。
「いいえしまいまで独身どくしんで暮らしくらしていました」「それを聞いきいてやっと安心あんしんしました。妾めかけのようなものは、どうせ旦那だんながなくっちゃ生きいきて行かいかれないから、仕方しかたがありませんけれども、……」 兄あにの遺骨いこつの埋めうめられた寺てらの名なを教わっおそわって帰っかえって行っいったこの女おんなは、わざわざ甲州こうしゅうから出でて来きたのであるが、元柳もとりゅう橋はしの芸者げいしゃをしている頃ころ、兄あにと関係かんけいがあったのだという話はなしを、私わたくしはその時じ始めはじめて聞いきいた。
私わたくしは時々ときどきこの女おんなに会っかいって兄あにの事ことなどを物語っものがたりって見みたい気きがしないでもない。
しかし会っかいったら定めしさだめし御ご婆ばあさんになって、昔むかしとはまるで違っちがった顔かおをしていはしまいかと考えるかんがえる。
そうしてその心こころもその顔かお同様どうように皺しわが寄っよって、からからに乾いかわいていはしまいかとも考えるかんがえる。
もしそうだとすると、彼女かのじょが今いまになって兄あにの弟おとうとの私わたくしに会うあうのは、彼女かのじょにとってかえって辛いつらい悲しいかなしい事ことかも知れしれない。
三十七さんじゅうなな
私わたくしは母ははの記念きねんのためにここで何なんか書いかいておきたいと思うおもうが、あいにく私わたくしの知っしっている母ははは、私わたくしの頭あたまに大したたいした材料ざいりょうを遺しのこして行っいってくれなかった。
母ははの名なは千枝ちえといった。
私わたくしは今いまでもこの千枝ちえという言葉ことばを懐かしいなつかしいものの一いちつに数えかぞえている。
だから私わたくしにはそれがただ私わたくしの母ははだけの名前なまえで、けっしてほかの女おんなの名前なまえであってはならないような気きがする。
幸いさいわいに私わたくしはまだ母はは以外いがいの千枝ちえという女おんなに出会っであった事ことがない。
母ははは私わたくしの十じゅう三さん四よんの時じに死んしんだのだけれども、私わたくしの今いま遠くとおくから呼び起すよびおこす彼女かのじょの幻像げんぞうは、記憶きおくの糸いとをいくら辿ったどって行っいっても、御ご婆ばあさんに見えるみえる。
晩年ばんねんに生れうまれた私わたくしには、母ははの水々しいみずみずしい姿すがたを覚えおぼえている特権とっけんがついに与えあたえられずにしまったのである。
私わたくしの知っしっている母ははは、常つねに大きなおおきな眼鏡めがねをかけて裁縫さいほうをしていた。
その眼鏡めがねは鉄縁てつぶちの古風こふうなもので、球たまの大きさおおきさが直径ちょっけい二に寸すん以上いじょうもあったように思わおもわれる。
母はははそれをかけたまま、すこし顋あごを襟元えりもとへ引きつけひきつけながら、私わたくしをじっと見るみる事ことがしばしばあったが、老眼ろうがんの性質せいしつを知らしらないその頃ころの私わたくしには、それがただ彼女かのじょの癖くせとのみ考えかんがえられた。
私わたくしはこの眼鏡めがねと共ともに、いつでも母ははの背景はいけいになっていた一いち間まの襖ふすまを想い出すおもいだす。
古びふるびた張交はりまぜの中なかに、生死せいし事大じだい無常むじょう迅速じんそく云々うんぬんと書いかいた石摺いしずりなども鮮やかあざやかに眼めに浮んうかんで来るくる。
夏なつになると母ははは始終しじゅう紺こん無地むじの絽ろの帷子かたびらを着きて、幅はばの狭いせまい黒くろ繻子しゅすの帯おびを締めしめていた。
不思議ふしぎな事ことに、私わたくしの記憶きおくに残っのこっている母ははの姿すがたは、いつでもこの真夏まなつの服装ふくそうで頭あたまの中なかに現われるあらわれるだけなので、それから紺こん無地むじの絽ろの着物きものと幅はばの狭いせまい黒くろ繻子しゅすの帯おびを取り除くとりのぞくと、後あとに残るのこるものはただ彼女かのじょの顔かおばかりになる。
母ははがかつて縁えん鼻はなへ出でて、兄あにと碁ごを打っうっていた様子ようすなどは、彼かれら二人ふたりを組み合わせくみあわせた図柄ずがらとして、私わたくしの胸むねに収めおさめてある唯一ゆいいつの記念きねんなのだが、そこでも彼女かのじょはやはり同じおなじ帷子かたびらを着きて、同じおなじ帯おびを締めしめて坐っすわっているのである。
私わたくしはついぞ母ははの里さとへ伴れつれて行かいかれた覚さとしがないので、長いながい間ま母ははがどこから嫁よめに来きたのか知らしらずに暮らしくらしていた。
自分じぶんから求めもとめて訊きききたがるような好奇心こうきしんはさらになかった。
それでその点てんもやはりぼんやり霞んかすんで見えるみえるよりほかに仕方しかたがないのだが、母ははが四ツ谷よつや大おお番町ばんちょうで生れうまれたという話はなしだけは確かたしかに聞いきいていた。
宅たくは質屋しちやであったらしい。
蔵くらが幾戸いくこ前まえとかあったのだと、かつて人ひとから教えおしえられたようにも思うおもうが、何しろなにしろその大番おおばん町まちという所ところを、この年ねんになるまで今いまだに通っとおった事ことのない私わたくしのことだから、そんな細かこまかな点てんはまるで忘れわすれてしまった。
たといそれが事実じじつであったにせよ、私わたくしの今いまもっている母ははの記念きねんのなかに蔵屋敷くらやしきなどはけっして現われあらわれて来きないのである。
おおかたその頃ころにはもう潰れつぶれてしまったのだろう。
母ははが父ちちの所ところへ嫁よめにくるまで御殿ごてん奉公ほうこうをしていたという話はなしも朧気おぼろきに覚えおぼえているが、どこの大名だいみょうの屋敷やしきへ上っのぼって、どのくらい長くながく勤めつとめていたものか、御殿ごてん奉公ほうこうの性質せいしつさえよく弁えわきまえない今いまの私わたくしには、ただ淡いあわい薫かおるを残しのこして消えきえた香こうのようなもので、ほとんどとりとめようのない事実じじつである。
しかしそう云えいえば、私わたくしは錦絵にしきえに描いえがいた御殿ごてん女中じょちゅうの羽織っはおっているような華美かびな総そう模様もようの着物きものを宅たくの蔵くらの中なかで見みた事ことがある。
紅絹裏もみうらを付けつけたその着物きものの表ひょうには、桜さくらだか梅うめだかが一面いちめんに染め出さそめだされて、ところどころに金糸きんしや銀糸ぎんしの刺繍ししゅうも交っかっていた。
これは恐らくおそらく当時とうじの裲襠うちかけとかいうものなのだろう。
しかし母ははがそれを打ち掛けうちかけた姿すがたは、今いま想像そうぞうしてもまるで眼めに浮かばうかばない。
私わたくしの知っしっている母ははは、常つねに大きなおおきな老眼鏡ろうがんきょうをかけた御ご婆ばあさんであったから。
それのみか私わたくしはこの美びくしい裲襠うちかけがその後あと小しょう掻巻かいまきに仕立したて直さなおされて、その頃ころ宅たくにできた病人びょうにんの上うえに載せのせられたのを見みたくらいだから。
三十八さんじゅうはち
私わたくしが大学だいがくで教わっおそわったある西洋せいよう人ひとが日本にっぽんを去るさる時じ、私わたくしは何なんか餞別せんべつを贈ろうおくろうと思っおもって、宅たくの蔵くらから高蒔絵こうまきえの緋ひの房ぼうの付いついた美しいうつくしい文箱ふばこを取り出しとりだして来きた事ことも、もう古いふるい昔むかしである。
それを父ちちの前まえへ持っもって行っいって貰い受けもらいうけた時じの私わたくしは、全くまったく何なんの気きもつかなかったが、今いまこうして筆ふでを執っとって見るみると、その文箱ふばこも小しょう掻巻かいまきに仕立したて直さなおされた紅絹裏もみうらの裲襠うちかけ同様どうように、若いわかい時分じぶんの母ははの面影おもかげを濃こかに宿しやどしているように思わおもわれてならない。
母ははは生涯しょうがい父ちちから着物きものを拵えこしらえて貰っもらった事ことがないという話はなしだが、はたして拵えこしらえて貰わもらわないでもすむくらいな支度したくをして来きたものだろうか。
私わたくしの心こころに映るうつるあの紺こん無地むじの絽ろの帷子かたびらも、幅はばの狭いせまい黒くろ繻子しゅすの帯おびも、やはり嫁よめに来きた時じからすでに箪笥たんすの中なかにあったものなのだろうか。
私わたくしは再びふたたび母ははに会っかいって、万事ばんじをことごとく口ずからくちずから訊いきいて見みたい。
悪戯いたずらで強情ごうじょな私わたくしは、けっして世間せけんの末すえッ子っこのように母ははから甘くあまく取扱とりあつかいかわれなかった。
それでも宅たく中なかで一番いちばん私わたくしを可愛かわいがってくれたものは母ははだという強いつよい親しみしたしみの心こころが、母ははに対するたいする私わたくしの記憶きおくの中なかには、いつでも籠っこもっている。
愛憎あいぞうを別べつにして考えかんがえて見みても、母はははたしかに品位ひんいのある床しいゆかしい婦人ふじんに違いなかった。
そうして父ちちよりも賢こかしこそうに誰だれの目めにも見えみえた。
気むずかしいきむずかしい兄あにも母ははだけには畏敬いけいの念ねんを抱いいだいていた。
「御ご母さんははさんは何になんにも云わいわないけれども、どこかに怖いこわいところがある」 私わたくしは母ははを評しひょうした兄あにのこの言葉ことばを、暗いくらい遠くとおくの方ほうから明らかあきらかに引張ひっぱり出しだしてくる事ことが今いまでもできる。
しかしそれは水みずに融けとけて流れながれかかった字体じたいを、きっとなってやっと元もとの形かたちに返しかえしたような際どいきわどい私わたくしの記憶きおくの断片だんぺんに過ぎすぎない。
そのほかの事ことになると、私わたくしの母はははすべて私わたくしにとって夢ゆめである。
途切れ途切れとぎれとぎれに残っのこっている彼女かのじょの面影おもかげをいくら丹念たんねんに拾い集めひろいあつめても、母ははの全体ぜんたいはとても髣髴ほうふつする訳わけに行かいかない。
その途と切せつ途と切にせつに残っのこっている昔むかしさえ、半ばなかば以上いじょうはもう薄れうすれ過ぎすぎて、しっかりとは掴めつかめない。
或ある時じ私わたくしは二に階かいへ上っのぼって、たった一人ひとりで、昼寝ひるねをした事ことがある。
その頃ころの私わたくしは昼寝ひるねをすると、よく変へんなものに襲わおそわれがちであった。
私わたくしの親指おやゆびが見るみる間まに大きくおおきくなって、いつまで経っきょうっても留らとまらなかったり、あるいは仰あおぐ向むかいに眺めながめている天井てんじょうがだんだん上うえから下りくだりて来きて、私わたくしの胸むねを抑えつけおさえつけたり、または眼めを開いひらいて普段ふだんと変らかわらない周囲しゅういを現にげんに見みているのに、身体しんたいだけが睡魔すいまの擒とりことなって、いくらもがいても、手足てあしを動かすうごかす事ことができなかったり、後あとで考えかんがえてさえ、夢ゆめだか正気せいきだか訳わけの分らわからない場合ばあいが多かっおおかった。
そうしてその時じも私わたくしはこの変へんなものに襲わおそわれたのである。
私わたくしはいつどこで犯しおかした罪つみか知らしらないが、何しろなにしろ自分じぶんの所有しょゆうでない金銭きんせんを多額たがくに消費しょうひしてしまった。
それを何なんの目的もくてきで何なんに遣っつかったのか、その辺へんも明瞭めいりょうでないけれども、小供こどもの私わたくしにはとても償うつぐなう訳わけに行かいかないので、気きの狭いせまい私わたくしは寝ねながら大変たいへん苦しみくるしみ出しだした。
そうしてしまいに大きなおおきな声こえを揚げあげて下したにいる母ははを呼んよんだのである。
二に階かいの梯子段はしごだんは、母ははの大おお眼鏡めがねと離すはなす事ことのできない、生死せいし事大じだい無常むじょう迅速じんそく云々うんぬんと書いかいた石摺いしずりの張交はりまぜにしてある襖ふすまの、すぐ後あとについているので、母ははは私わたくしの声こえを聞きつけるききつけると、すぐ二に階かいへ上っのぼって来きてくれた。
私わたくしはそこに立ったって私わたくしを眺めながめている母ははに、私わたくしの苦しみくるしみを話しはなして、どうかして下さいくださいと頼んたのんだ。
母はははその時じ微笑びしょうしながら、「心配しんぱいしないでも好いよいよ。御ご母さんははさんがいくらでも御ご金きんを出しだして上げるあげるから」と云っいってくれた。
私わたくしは大変たいへん嬉しかっうれしかった。
それで安心あんしんしてまたすやすや寝ねてしまった。
私わたくしはこの出来事できごとが、全部ぜんぶ夢ゆめなのか、または半分はんぶんだけ本当ほんとうなのか、今いまでも疑っうたがっている。
しかしどうしても私わたくしは実際じっさい大きなおおきな声こえを出しだして母ははに救を求めもとめ、母はははまた実際じっさいの姿すがたを現わしあらわして私わたくしに慰藉いしゃの言葉ことばを与えあたえてくれたとしか考えかんがえられない。
そうしてその時じの母ははの服装ふくそうは、いつも私わたくしの眼めに映るうつる通りとおり、やはり紺こん無地むじの絽ろの帷子かたびらに幅はばの狭いせまい黒くろ繻子しゅすの帯おびだったのである。
三十九さんじゅうきゅう
今日きょうは日曜にちようなので、小供こどもが学校がっこうへ行かいかないから、下女げじょも気きを許しゆるしたものと見えみえて、いつもより遅くおそく起きおきたようである。
それでも私わたくしの床ゆかを離れはなれたのは七なな時じ十五じゅうご分ぶん過すぎであった。
顔かおを洗っあらってから、例れいの通りとおり焼やけ麺めん麭と牛乳ぎゅうにゅうと半熟はんじゅくの鶏卵けいらんを食べたべて、厠かわやに上ろうのぼろうとすると、あいにく肥こえ取とりが来きているので、私わたくしはしばらく出でた事ことのない裏庭うらにわの方ほうへ歩あゆみを移しうつした。
すると植木屋うえきやが物置ものおきの中なかで何なんか片づけかたづけものをしていた。
不要ふようの炭俵すみだわらを重ねかさねた下したから威勢いせいの好いよい火ひが燃えあがるもえあがる周囲しゅういに、女の子おんなのこが三さん人ひとばかり心持こころもちよさそうに煖を取っとっている様子ようすが私わたくしの注意ちゅういを惹いひいた。
「そんなに焚火たきびに当るあたると顔かおが真黒まっくろになるよ」と云っいったら、末すえの子こが、「いやあーだ」と答えこたえた。
私わたくしは石垣いしがきの上うえから遠くとおくに見えるみえる屋根瓦やねがわらの融けとけつくした霜しもに濡れぬれて、朝日あさひにきらつく色いろを眺めながめたあと、また家いえの中なかへ引き返しひきかえした。
親類しんるいの子こが来きて掃除そうじをしている書斎しょさいの整頓せいとんするのを待っまって、私わたくしは机つくえを縁側えんがわに持ち出しもちだした。
そこで日当りひあたりの好いよい欄干らんかんに身みを靠たせたり、頬杖つらづえを突いついて考えかんがえたり、またしばらくはじっと動かうごかずにただ魂たましいを自由じゆうに遊ばあそばせておいてみたりした。
軽いかるい風かぜが時々ときどき鉢植はちうえの九きゅう花はな蘭らんの長いながい葉はを動かしうごかしにきた。
庭木にわきの中なかで鶯うぐいすが折々おりおり下手へたな囀りさえずりを聴かきかせた。
毎日まいにち硝子戸がらすとの中なかに坐っすわっていた私わたくしは、まだ冬ふゆだ冬ふゆだと思っおもっているうちに、春はるはいつしか私わたくしの心こころを蕩揺し始めはじめたのである。
私わたくしの冥想めいそうはいつまで坐っすわっていても結晶けっしょうしなかった。
筆ふでをとって書こうかこうとすれば、書くかく種しゅは無尽蔵むじんぞうにあるような心持こころもちもするし、あれにしようか、これにしようかと迷いまよい出すだすと、もう何なんを書いかいてもつまらないのだという呑気のんきな考かんがえも起っおこってきた。
しばらくそこで佇たたずまいずんでいるうちに、今度こんどは今までいままで書いかいた事ことが全くまったく無意味むいみのように思わおもわれ出しだした。
なぜあんなものを書いかいたのだろうという矛盾むじゅんが私わたくしを嘲弄ちょうろうし始めはじめた。
ありがたい事ことに私わたくしの神経しんけいは静まっしずまっていた。
この嘲弄ちょうろうの上うえに乗っのってふわふわと高いたかい冥想めいそうの領分りょうぶんに上っのぼって行くいくのが自分じぶんには大変たいへんな愉快ゆかいになった。
自分じぶんの馬鹿ばかな性質せいしつを、雲くもの上うえから見下しみくだして笑いわらいたくなった私わたくしは、自分じぶんで自分じぶんを軽蔑けいべつする気分きぶんに揺られゆられながら、揺籃ようらんの中なかで眠るねむる小供こどもに過ぎすぎなかった。
私わたくしは今までいままで他ほかの事ことと私わたくしの事ことをごちゃごちゃに書いかいた。
他ほかの事ことを書くかくときには、なるべく相手あいての迷惑めいわくにならないようにとの掛かかり念ねんがあった。
私わたくしの身の上みのうえを語るかたる時分じぶんには、かえって比較的ひかくてき自由じゆうな空気くうきの中なかに呼吸こきゅうする事ことができた。
それでも私わたくしはまだ私わたくしに対したいして全くまったく色気いろけを取り除きとりのぞき得るうる程度ていどに達したっしていなかった。
嘘うそを吐いはいて世間せけんを欺くあざむくほどの衒気げんきがないにしても、もっと卑しいいやしい所ところ、もっと悪いわるい所ところ、もっと面目めんぼくを失するしっするような自分じぶんの欠点けってんを、つい発表はっぴょうしずにしまった。
聖せいオーガスチンおーがすちんの懺悔ざんげ、ルソーるそーの懺悔ざんげ、オピアムイーターの懺悔ざんげ、――それをいくら辿ったどって行っいっても、本当ほんとうの事実じじつは人間にんげんの力ちからで叙述じょじゅつできるはずがないと誰だれかが云っいった事ことがある。
まして私わたくしの書いかいたものは懺悔ざんげではない。
私わたくしの罪つみは、――もしそれを罪つみと云いいい得るうるならば、――すこぶる明るいあかるいところからばかり写さうつされていただろう。
そこに或人あるひとは一種いっしゅの不快ふかいを感ずるかんずるかも知れしれない。
しかし私自身わたくしじしんは今いまその不快ふかいの上うえに跨がっまたがって、一般いっぱんの人類じんるいをひろく見渡しみわたしながら微笑びしょうしているのである。
今までいままでつまらない事ことを書いかいた自分じぶんをも、同じおなじ眼めで見渡しみわたして、あたかもそれが他人たにんであったかの感かんを抱きいだきつつ、やはり微笑びしょうしているのである。
まだ鶯うぐいすが庭にわで時々ときどき鳴くなく。
春風しゅんぷうが折々おりおり思い出しおもいだしたように九きゅう花はな蘭らんの葉はを揺かわななかしに来るくる。
猫ねこがどこかで痛くいたく噛まかまれた米べい噛を日ひに曝しさらして、あたたかそうに眠っねむっている。
先刻せんこくまで庭にわで護謨ごむ風船ふうせんを揚げあげて騒いさわいでいた小供こども達とおるは、みんな連れ立っつれだって活動かつどう写真しゃしんへ行っいってしまった。
家いえも心こころもひっそりとしたうちに、私わたくしは硝子戸がらすとを開け放っあけはなって、静かしずかな春はるの光ひかりに包まつつまれながら、恍惚こうこつとこの稿こうを書きかき終るおわるのである。
そうした後あとで、私わたくしはちょっと肱ひじを曲げまげて、この縁側えんがわに一眠りひとねむり眠るねむるつもりである。
(二に月つき十四じゅうよん日ひ)
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