門

1/10

一

第 1 章
宗助そうすけは先刻せんこくから縁側えんがわへ坐ざ蒲団ふとんを持ち出しもちだして、日当りひあたりの好さよさそうな所ところへ気楽きらくに胡坐こざをかいて見みたが、やがて手てに持っもっている雑誌ざっしを放り出すほうりだすと共ともに、ごろりと横よこになった。
秋日和あきびよりと名なのつくほどの上うえ天気てんきなので、往来おうらいを行くいく人ひとの下駄げたの響ひびきが、静かしずかな町まちだけに、朗らかほがらかに聞えきこえて来るくる。
肱枕ひじまくらをして軒のきから上うえを見上げるみあげると、奇麗きれいな空そらが一面いちめんに蒼くあおく澄んすんでいる。
その空そらが自分じぶんの寝ねている縁側えんがわの、窮屈きゅうくつな寸法すんぽうに較べくらべて見るみると、非常ひじょうに広大こうだいである。
たまの日曜にちようにこうして緩くゆるくり空そらを見るみるだけでもだいぶ違うちがうなと思いおもいながら、眉まゆを寄せよせて、ぎらぎらする日ひをしばらく見つめみつめていたが、眩しくまぶしくなったので、今度こんどはぐるりと寝返りねがえりをして障子しょうじの方ほうを向いむかいた。
障子しょうじの中なかでは細君さいくんが裁縫さいほうをしている。
「おい、好いよい天気てんきだな」と話しかけはなしかけた。
細君さいくんは、「ええ」と云っいったなりであった。
宗助そうすけも別べつに話はなしがしたい訳わけでもなかったと見えみえて、それなり黙っだまってしまった。
しばらくすると今度こんどは細君さいくんの方ほうから、「ちっと散歩さんぽでもしていらっしゃい」と云っいった。
しかしその時じは宗助そうすけがただうんと云ういう生なま返事へんじを返しかえしただけであった。
二三にさん分ぶんして、細君さいくんは障子しょうじの硝子がらすの所ところへ顔かおを寄せよせて、縁側えんがわに寝ねている夫おっとの姿すがたを覗いのぞいて見みた。
夫おっとはどう云ういう了見りょうけんか両膝りょうひざを曲げまげて海老えびのように窮屈きゅうくつになっている。
そうして両手りょうてを組み合わしくみあわして、その中なかへ黒いくろい頭あたまを突っ込んつっこんでいるから、肱ひじに挟まはさまれて顔かおがちっとも見えみえない。
「あなたそんな所ところへ寝るねると風邪かぜ引いひいてよ」と細君さいくんが注意ちゅういした。
細君さいくんの言葉ことばは東京とうきょうのような、東京とうきょうでないような、現代げんだいの女おんな学生がくせいに共通きょうつうな一種いっしゅの調子ちょうしを持っもっている。
宗助そうすけは両肱りょうひじの中なかで大きなおおきな眼めをぱちぱちさせながら、「寝ねやせん、大丈夫だいじょうぶだ」と小声こごえで答えこたえた。
それからまた静かしずかになった。
外そとを通るとおる護謨ごむ車くるまのベルべるの音おとが二三にさん度ど鳴っなった後あとから、遠くとおくで鶏にわとりの時音じおんをつくる声こえが聞えきこえた。
宗助そうすけは仕立したておろしの紡績ぼうせき織おりの背中せなかへ、自然しぜんと浸み込んしみこんで来るくる光線こうせんの暖だん味あじを、襯衣の下したで貪どんぼるほど味いあじわいながら、表ひょうの音おとを聴くきくともなく聴いきいていたが、急きゅうに思い出しおもいだしたように、障子しょうじ越しこしの細君さいくんを呼んよんで、「御ご米べい、近来きんらいの近きんの字じはどう書いかいたっけね」と尋ねたずねた。
細君さいくんは別べつに呆れあきれた様子ようすもなく、若いわかい女おんなに特有とくゆうなけたたましい笑声しょうせいも立てたてず、「近江おうみのおうの字じじゃなくって」と答えこたえた。
「その近江おうみのおうの字じが分らわからないんだ」 細君さいくんは立てたて切っきった障子しょうじを半分はんぶんばかり開けあけて、敷居しきいの外そとへ長いながい物指ものさしを出しだして、その先さきで近きんの字じを縁側えんがわへ書いかいて見せみせて、「こうでしょう」と云っいったぎり、物指ものさしの先さきを、字じの留っとめった所ところへ置いおいたなり、澄みすみ渡っわたった空そらを一しきりひとしきり眺め入っながめいった。
宗助そうすけは細君さいくんの顔かおも見みずに、「やっぱりそうか」と云っいったが、冗談じょうだんでもなかったと見えみえて、別べつに笑わらいもしなかった。
細君さいくんも近きんの字じはまるで気きにならない様子ようすで、「本当ほんとうに好いよい御ご天気てんきだわね」と半ばなかば独り言ひとりごとのように云いいいながら、障子しょうじを開けあけたまままた裁縫さいほうを始めはじめた。
すると宗助そうすけは肱ひじで挟んはさんだ頭あたまを少しすこし擡げもたげて、「どうも字じと云ういうものは不思議ふしぎだよ」と始めはじめて細君さいくんの顔かおを見みた。
「なぜ」「なぜって、いくら容易いたやしい字じでも、こりゃ変へんだと思っおもって疑ぐりうたぐり出すだすと分らわからなくなる。この間まも今日きょうの今いまの字じで大変たいへん迷っまよった。紙かみの上うえへちゃんと書いかいて見みて、じっと眺めながめていると、何なんだか違っちがったような気きがする。しまいには見れみれば見るみるほど今いまらしくなくなって来るくる。――御前ごぜんそんな事ことを経験けいけんした事ことはないかい」「まさか」「おれだけかな」と宗助そうすけは頭あたまへ手てを当てあてた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」「やっぱり神経しんけい衰弱すいじゃくのせいかも知れしれない」「そうよ」と細君さいくんは夫おっとの顔かおを見みた。
夫おっとはようやく立ち上ったちのぼった。
針箱はりばこと糸屑いとくずの上うえを飛び越すとびこすように跨いまたいで、茶の間ちゃのまの襖ふすまを開けるあけると、すぐ座敷ざしきである。
南みなみが玄関げんかんで塞がさいがれているので、突き当りつきあたりの障子しょうじが、日向ひなたから急きゅうに這入っはいって来きた眸ひとみには、うそ寒くうそさむく映っうつった。
そこを開けるあけると、廂ひさしに逼るせまるような勾配こうばいの崖がけが、縁えん鼻はなから聳えそびえているので、朝あさの内うちは当っあたって然るしかるべきはずの日ひも容易よういに影かげを落さおとさない。
崖がけには草くさが生えはえている。
下したからして一いち側がわも石いしで畳んたたんでないから、いつ壊れるこわれるか分らわからない虞おそれがあるのだけれども、不思議ふしぎにまだ壊れこわれた事ことがないそうで、そのためか家主やぬしも長いながい間ま昔むかしのままにして放っはなってある。
もっとも元もとは一面いちめんの竹藪たけやぶだったとかで、それを切り開くきりひらく時じに根ねだけは掘り返さほりかえさずに土堤どていの中なかに埋めうめて置いおいたから、地ちは存外ぞんがい緊きんっていますからねと、町内ちょうないに二十にじゅう年ねんも住んすんでいる八百屋やおやの爺じいが勝手口かってぐちでわざわざ説明せつめいしてくれた事ことがある。
その時じ宗助そうすけはだって根ねが残っのこっていれば、また竹たけが生えはえて藪やぶになりそうなものじゃないかと聞き返しききかえして見みた。
すると爺じいは、それがね、ああ切り開かきりひらかれて見るみると、そう甘くあまく行くいくもんじゃありませんよ。
しかし崖がけだけは大丈夫だいじょうぶです。
どんな事ことがあったって壊かいえっこはねえんだからと、あたかも自分じぶんのものを弁護べんごでもするように力んりきんで帰っかえって行っいった。
崖がけは秋あきに入っはいっても別べつに色づくいろづく様子ようすもない。
ただ青いあおい草くさの匂においが褪めさめて、不揃ぶそろにもじゃもじゃするばかりである。
薄うすだの蔦つただのと云ういう洒落しゃれたものに至っいたってはさらに見当らみあたらない。
その代りかわり昔むかしの名残りなごりの孟宗もうそうが中途ちゅうとに二に本ほん、上うえの方ほうに三さん本ほんほどすっくりと立ったっている。
それが多少たしょう黄きに染まっそまって、幹みきに日ひの射すさすときなぞは、軒のきから首くびを出すだすと、土手どての上うえに秋あきの暖だん味あじを眺めながめられるような心持こころもちがする。
宗助そうすけは朝あさ出でて四よん時じ過すぎに帰るかえる男おとこだから、日ひの詰まるつまるこの頃このごろは、滅多めったに崖がけの上うえを覗くのぞく暇ひまを有ゆうたなかった。
暗いくらい便所べんじょから出でて、手水鉢ちょうずばちの水みずを手てに受けうけながら、ふと廂ひさしの外そとを見上げみあげた時じ、始めはじめて竹たけの事ことを思い出しおもいだした。
幹みきの頂いただきに濃こかな葉はが集まっあつまって、まるで坊主頭ぼうずあたまのように見えるみえる。
それが秋あきの日ひに酔っよいって重くおもく下したを向いむかいて、寂さびそりと重なっかさなった葉はが一いち枚ばいも動かうごかない。
宗助そうすけは障子しょうじを閉へいてて座敷ざしきへ帰っかえって、机つくえの前まえへ坐っすわった。
座敷ざしきとは云いいいながら客きゃくを通すとおすからそう名づけるなづけるまでで、実じつは書斎しょさいとか居間いまとか云ういう方ほうが穏当おんとうである。
北側きたがわに床ゆかがあるので、申訳もうしわけのために変へんな軸じくを掛けかけて、その前まえに朱泥しゅでいの色いろをした拙つたなな花はな活かつが飾っかざってある。
欄間らんまには額がくも何なんもない。
ただ真鍮しんちゅうの折おり釘くぎだけが二に本ほん光っひかりっている。
その他ほかには硝子戸がらすとの張っちょうった書棚しょだなが一いちつある。
けれども中なかには別べつにこれと云っいって目立つめだつほどの立派りっぱなものも這入っはいっていない。
宗助そうすけは銀ぎん金具かなぐの付いついた机つくえの抽出ちゅうしゅつを開けあけてしきりに中なかを検べしらべ出しだしたが、別べつに何なんも見つけみつけ出さださないうちに、はたりと締めしめてしまった。
それから硯箱すずりばこの葢おおいを取っとって、手紙てがみを書きかき始めはじめた。
一いち本ほん書いかいて封ふうをして、ちょっと考えかんがえたが、「おい、佐伯さえきのうちは中なか六番町ろくばんちょう何なん番地ばんちだったかね」と襖ふすま越こしに細君さいくんに聞いきいた。
「二十五にじゅうご番地ばんちじゃなくって」と細君さいくんは答えこたえたが、宗助そうすけが名宛なあてを書きかき終るおわる頃ころになって、「手紙てがみじゃ駄目だめよ、行っいってよく話はなしをして来きなくっちゃ」と付け加えつけくわえた。
「まあ、駄目だめまでも手紙てがみを一いち本ほん出しだしておこう。それでいけなかったら出掛けるでかけるとするさ」と云い切っいいきったが、細君さいくんが返事へんじをしないので、「ねえ、おい、それで好いよいだろう」と念ねんを押しおした。
細君さいくんは悪いわるいとも云いいい兼ねけんねたと見えみえて、その上うえ争いあらそいもしなかった。
宗助そうすけは郵便ゆうびんを持っもったまま、座敷ざしきから直ぐすぐ玄関げんかんに出でた。
細君さいくんは夫おっとの足音あしおとを聞いきいて始めはじめて、座ざを立ったったが、これは茶の間ちゃのまの縁えん伝いつたいに玄関げんかんに出でた。
「ちょっと散歩さんぽに行っいって来るくるよ」「行っいっていらっしゃい」と細君さいくんは微笑びしょうしながら答えこたえた。
三十さんじゅう分ぶんばかりして格子こうしががらりと開いひらいたので、御ご米べいはまた裁縫さいほうの手てをやめて、縁えん伝いつたいに玄関げんかんへ出でて見るみると、帰っかえったと思うおもう宗助そうすけの代りかわりに、高等学校こうとうがっこうの制帽せいぼうを被っかぶった、弟おとうとの小六しょうろくが這入っはいって来きた。
袴はかまの裾すそが五六ごろく寸すんしか出でないくらいの長いながい黒くろ羅紗らしゃのマントまんとの釦ぼたんを外しはずしながら、「暑いあつい」と云っいっている。
「だって余よまりだわ。この御ご天気てんきにそんな厚いあついものを着きて出るでるなんて」「何なん、日ひが暮れくれたら寒いさむいだろうと思っおもって」と小六しょうろくは云訳を半分はんぶんしながら、嫂ねーの後あとに跟いて、茶の間ちゃのまへ通っとおったが、縫い掛けぬいかけてある着物きものへ眼めを着けつけて、「相そう変らかわらず精せいが出でますね」と云っいったなり、長火鉢ながひばちの前まえへ胡坐こざをかいた。
嫂ねーは裁縫さいほうを隅すみの方ほうへ押しやっおしやっておいて、小六しょうろくの向むかいへ来きて、ちょっと鉄瓶てつびんをおろして炭すみを継ぎつぎ始めはじめた。
「御ご茶ちゃならたくさんです」と小六しょうろくが云っいった。
「厭いや?」と女学生じょがくせい流りゅうに念ねんを押しおした御ご米べいは、「じゃ御菓子ごかしは」と云っいって笑いかけわらいかけた。
「あるんですか」と小六しょうろくが聞いきいた。
「いいえ、無いないの」と正直しょうじきに答えこたえたが、思い出しおもいだしたように、「待っまってちょうだい、あるかも知れしれないわ」と云いいいながら立ち上がるたちあがる拍子ひょうしに、横よこにあった炭取すみとりを取り退けとりのけて、袋ふくろ戸棚とだなを開けあけた。
小六しょうろくは御ご米べいの後姿うしろすがたの、羽織はおりが帯おびで高くたかくなった辺へんを眺めながめていた。
何なんを探すさがすのだかなかなか手間てまが取れとれそうなので、「じゃ御菓子ごかしも廃しはいしにしましょう。それよりか、今日きょうは兄さんあにさんはどうしました」と聞いきいた。
「兄さんあにさんは今いまちょいと」と後あと向むかいのまま答えこたえて、御ご米べいはやはり戸棚とだなの中なかを探しさがしている。
やがてぱたりと戸とを締めしめて、「駄目だめよ。いつの間まにか兄さんあにさんがみんな食べたべてしまった」と云いいいながら、また火鉢ひばちの向むかいへ帰っかえって来きた。
「じゃ晩ばんに何なんか御馳走ごちそうなさい」「ええしてよ」と柱時計はしらとけいを見るみると、もう四よん時じ近くちかくである。
御ご米べいは「四よん時じ、五ご時じ、六ろく時じ」と時間じかんを勘定かんじょうした。
小六しょうろくは黙っだまって嫂ねーの顔かおを見みていた。
彼かれは実際じっさい嫂ねーの御馳走ごちそうには余りあまり興味きょうみを持ちもち得とくなかったのである。
「姉さんあねさん、兄さんあにさんは佐伯さえきへ行っいってくれたんですかね」と聞いきいた。
「この間まから行くいく行くいくって云っいってる事ことは云っいってるのよ。だけど、兄さんあにさんも朝あさ出でて夕方ゆうがたに帰るかえるんでしょう。帰るかえると草臥れくたびれちまって、御ご湯ゆに行くいくのも大儀たいぎそうなんですもの。だから、そう責めるせめるのも実際じっさい御ご気の毒きのどくよ」「そりゃ兄さんあにさんも忙がしいいそがしいには違いなかろうけれども、僕ぼくもあれがきまらないと気がかりきがかりで落ちついおちついて勉強べんきょうもできないんだから」と云いいいながら、小六しょうろくは真鍮しんちゅうの火箸ひばしを取っとって火鉢ひばちの灰はいの中なかへ何なんかしきりに書き出しかきだした。
御ご米べいはその動くうごく火箸ひばしの先さきを見みていた。
「だから先刻せんこく手紙てがみを出しだしておいたのよ」と慰めるなぐさめるように云っいった。
「何なんて」「そりゃ私わたくしもつい見みなかったの。けれども、きっとあの相談そうだんよ。今いまに兄さんあにさんが帰っかえって来きたら聞いきいて御覧ごらんなさい。きっとそうよ」「もし手紙てがみを出しだしたのなら、その用ようには違いないでしょう」「ええ、本当ほんとうに出しだしたのよ。今いま兄さんあにさんがその手紙てがみを持っもって、出しだしに行っいったところなの」 小六しょうろくはこれ以上いじょう弁解べんかいのような慰藉いしゃのような嫂ねーの言葉ことばに耳みみを借かりしたくなかった。
散歩さんぽに出るでる閑かんがあるなら、手紙てがみの代りかわりに自分じぶんで足あしを運んはこんでくれたらよさそうなものだと思うおもうと余りあまり好いよい心持こころもちでもなかった。
座敷ざしきへ来きて、書棚しょだなの中なかから赤いあかい表紙ひょうしの洋書ようしょを出しだして、方々かたがた頁ぺーじを剥っへずって見みていた。
1/10