門

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四

第 4 章
小六しょうろくの苦くにしていた佐伯さえきからは、予期よきの通りとおり二三にさん日ひして返事へんじがあったが、それは極めてきわめて簡単かんたんなもので、端書はしがきでも用ようの足りるたりるところを、鄭重ていちょうに封筒ふうとうへ入れいれて三さん銭せんの切手きってを貼っはった、叔母おばの自筆じひつに過ぎすぎなかった。
役所やくしょから帰っかえって、筒袖つつそでの仕事着しごとぎを、窮屈きゅうくつそうに脱ぎぬぎ易えかえて、火鉢ひばちの前まえへ坐るすわるや否いなや、抽出ちゅうしゅつから一いち寸すんほどわざと余しよして差し込んさしこんであった状袋じょうぶくろに眼めが着いついたので、御ご米べいの汲んくんで出すだす番茶ばんちゃを一口ひとくち呑んのんだまま、宗助そうすけはすぐ封ふうを切っきった。
「へえ、安あんさんは神戸こうべへ行っいったんだってね」と手紙てがみを読みよみながら云っいった。
「いつ?」と御ご米べいは湯呑ゆのみを夫おっとの前まえに出しだした時じの姿勢しせいのままで聞いきいた。
「いつとも書いかいてないがね。何しろなにしろ遠からとおからぬうちには帰京ききょう仕るするべく候こう間まと書いかいてあるから、もうじき帰っかえって来るくるんだろう」「遠からとおからぬうちなんて、やっぱり叔母おばさんね」 宗助そうすけは御ご米べいの批評ひひょうに、同意どういも不同意ふどういも表しあらわしなかった。
読んよんだ手紙てがみを巻き納めまきおさめて、投げるなげるようにそこへ放り出しほうりだして、四五しご日ひ目めになる、ざらざらした腮を、気味きみわるそうに撫でなで廻しまわした。
御ご米べいはすぐその手紙てがみを拾っじゅうったが、別べつに読もうよもうともしなかった。
それを膝ひざの上うえへ乗せのせたまま、夫おっとの顔かおを見みて、「遠からとおからぬうちには帰京ききょう仕るするべく候こう間ま、どうだって云ういうの」と聞いきいた。
「いずれ帰っかえったら、安之助やすのすけと相談そうだんして何なんとか御ご挨拶あいさつを致しいたしますと云ういうのさ」「遠からとおからぬうちじゃ曖昧あいまいね。いつ帰るかえるとも書いかいてなくって」「いいや」 御ご米べいは念ねんのため、膝ひざの上うえの手紙てがみを始めはじめて開いひらいて見みた。
そうしてそれを元もとのように畳んたたんで、「ちょっとその状袋じょうぶくろを」と手てを夫おっとの方ほうへ出しだした。
宗助そうすけは自分じぶんと火鉢ひばちの間まに挟まっはさまっている青いあおい封筒ふうとうを取っとって細君さいくんに渡しわたした。
御ご米べいはそれをふっと吹いふいて、中なかを膨らましふくらまして手紙てがみを収めおさめた。
そうして台所だいどころへ立ったった。
宗助そうすけはそれぎり手紙てがみの事ことには気きを留めとめなかった。
今日きょう役所やくしょで同僚どうりょうが、この間ま英吉利いぎりすから来遊らいゆうしたキチナーきちなー元帥げんすいに、新橋しんばしの傍そばで逢っあったと云ういう話はなしを思い出しおもいだして、ああ云ういう人間にんげんになると、世界中せかいちゅうどこへ行っいっても、世間せけんを騒がさわがせるようにできているようだが、実際じっさいそういう風かぜに生れうまれついて来きたものかも知れしれない。
自分じぶんの過去かこから引き摺っひきずってきた運命うんめいや、またその続きつづきとして、これから自分じぶんの眼前がんぜんに展開てんかいされべき将来しょうらいを取っとって、キチナーきちなーと云ういう人ひとのそれに比べくらべて見るみると、とうてい同じおなじ人間にんげんとは思えおもえないぐらい懸け隔たっかけへだたっている。
こう考えかんがえて宗助そうすけはしきりに煙草たばこを吹かしふかした。
表ひょうは夕方ゆうがたから風かぜが吹き出しふきだして、わざと遠くとおくの方ほうから襲っおそって来るくるような音おとがする。
それが時々ときどきやむと、やんだ間まは寂としんとして、吹き荒れるふきあれる時じよりはなお淋しいさびしい。
宗助そうすけは腕組うでぐみをしながら、もうそろそろ火事かじの半鐘はんしょうが鳴りなり出すだす時節じせつだと思っおもった。
台所だいどころへ出でて見るみると、細君さいくんは七輪しちりんの火ひを赤くあかくして、肴さかなの切身きりみを焼いやいていた。
清きよしは流し元ながしもとに曲きょくんで漬物つけものを洗っあらっていた。
二人ふたりとも口くちを利かりかずにせっせと自分じぶんのやる事ことをやっている。
宗助そうすけは障子しょうじを開けあけたなり、しばらく肴さかなから垂しでる汁しるか膏あぶらの音おとを聞いきいていたが、無言むごんのまままた障子しょうじを閉へいてて元もとの座ざへ戻っもどった。
細君さいくんは眼めさえ肴さかなから離さはなさなかった。
食事しょくじを済ましすまして、夫婦ふうふが火鉢ひばちを間まに向い合っむかいあった時じ、御ご米べいはまた「佐伯さえきの方ほうは困るこまるのね」と云いいい出しだした。
「まあ仕方しかたがない。安あんさんが神戸こうべから帰るかえるまで待つまつよりほかに道みちはあるまい」「その前まえにちょっと叔母おばさんに逢っあって話はなしをしておいた方ほうが好かよしみかなくって」「そうさ。まあそのうち何なんとか云っいって来るくるだろう。それまで打だ遣っつかっておこうよ」「小六しょうろくさんが怒っどってよ。よくって」と御ご米べいはわざと念ねんを押しおしておいて微笑びしょうした。
宗助そうすけは下した眼めを使っつかって、手てに持っもった小楊枝しょうようじを着物きものの襟えりへ差しさした。
中なか一いち日ひ置いおいて、宗助そうすけはようやく佐伯さえきからの返事へんじを小六しょうろくに知らしらせてやった。
その時じも手紙てがみの尻しりに、まあそのうちどうかなるだろうと云ういう意味いみを、例れいのごとく付け加えつけくわえた。
そうして当分とうぶんはこの事件じけんについて肩かたが抜けぬけたように感じかんじた。
自然しぜんの経過けいかがまた窮屈きゅうくつに眼めの前まえに押し寄せおしよせて来るくるまでは、忘れわすれている方ほうが面倒めんどうがなくって好いよいぐらいな顔かおをして、毎日まいにち役所やくしょへ出でてはまた役所やくしょから帰っかえって来きた。
帰りかえりも遅いおそいが、帰っかえってから出かけるでかけるなどという億劫おっくうな事ことは滅多めったになかった。
客きゃくはほとんど来きない。
用ようのない時じは清きよしを十じゅう時じ前まえに寝かすねかす事ことさえあった。
夫婦ふうふは毎夜まいよ同じおなじ火鉢ひばちの両側りょうがわに向き合っむきあって、食後しょくご一いち時間じかんぐらい話はなしをした。
話はなしの題目だいもくは彼かれらの生活せいかつ状態じょうたいに相応そうおうした程度ていどのものであった。
けれども米屋こめやの払はらいを、この三十日さんじゅうにちにはどうしたものだろうという、苦しいくるしい世帯せたい話はなしは、いまだかつて一度いちども彼かれらの口くちには上らのぼらなかった。
と云っいって、小説しょうせつや文学ぶんがくの批評ひひょうはもちろんの事こと、男おとこと女おんなの間まを陽炎かげろうのように飛び廻るとびまわる、花やかはなやかな言葉ことばのやりとりはほとんど聞かきかれなかった。
彼かれらはそれほどの年輩ねんぱいでもないのに、もうそこを通り抜けとおりぬけて、日ごとひごとに地味じみになって行くいく人ひとのようにも見えみえた。
または最初さいしょから、色彩しきさいの薄いうすい極めてきわめて通俗つうぞくの人間にんげんが、習慣しゅうかん的まとに夫婦ふうふの関係かんけいを結ぶむすぶために寄り合っよりあったようにも見えみえた。
上部じょうぶから見るみると、夫婦ふうふともそう物ものに屈托くったくする気色けしきはなかった。
それは彼かれらが小六しょうろくの事ことに関しかんして取っとった態度たいどについて見みてもほぼ想像そうぞうがつく。
さすが女おんなだけに御ご米べいは一二いちに度ど、「安あんさんは、まだ帰らかえらないんでしょうかね。あなた今度こんどの日曜にちようぐらいに番町ばんちょうまで行っいって御覧ごらんなさらなくって」と注意ちゅういした事ことがあるが、宗助そうすけは、「うん、行っいっても好いよい」ぐらいな返事へんじをするだけで、その行っいっても好いよい日曜にちようが来るくると、まるで忘れわすれたように済ましすましている。
御ご米べいもそれを見みて、責めるせめる様子ようすもない。
天気てんきが好いよいと、「ちと散歩さんぽでもしていらっしゃい」と云ういう。
雨あめが降っふったり、風かぜが吹いふいたりすると、「今日きょうは日曜にちようで仕合せしあわせね」と云ういう。
幸みゆきにして小六しょうろくはその後あと一度いちどもやって来きない。
この青年せいねんは、至っていたって凝り性こりしょうの神経質しんけいしつで、こうと思うおもうとどこまでも進んすすんで来るくるところが、書生しょせい時代じだいの宗助そうすけによく似にている代りかわりに、ふと気きが変るかわると、昨日きのうの事ことはまるで忘れわすれたように引っ繰り返っひっくりかえって、けろりとした顔かおをしている。
そこも兄弟きょうだいだけあって、昔むかしの宗助そうすけにそのままである。
それから、頭脳ずのうが比較的ひかくてき明暸めいりょうで、理路りろに感情かんじょうを注ぎ込むそそぎこむのか、または感情かんじょうに理窟りくつの枠わくを張るはるのか、どっちか分らわからないが、とにかく物ものに筋道すじみちを付けつけないと承知しょうちしないし、また一いち返かえし筋道すじみちが付くつくと、その筋道すじみちを生かさいかさなくってはおかないように熱中ねっちゅうしたがる。
その上うえ体質たいしつの割合わりあいに精力せいりょくがつづくから、若いわかい血気けっきに任せまかせて大抵たいていの事ことはする。
宗助そうすけは弟おとうとを見るみるたびに、昔むかしの自分じぶんが再びふたたび蘇生そせいして、自分じぶんの眼めの前まえに活動かつどうしているような気きがしてならなかった。
時じには、はらはらする事こともあった。
また苦々しくにがにがしく思うおもう折おりもあった。
そう云ういう場合ばあいには、心こころのうちに、当時とうじの自分じぶんが一いち図ずに振舞っふるまった苦いにがい記憶きおくを、できるだけしばしば呼び起さよびおこさせるために、とくに天てんが小六しょうろくを自分じぶんの眼めの前まえに据え付けるすえつけるのではなかろうかと思っおもった。
そうして非常ひじょうに恐ろしくおそろしくなった。
こいつもあるいはおれと同一どういつの運命うんめいに陥るおちいるために生れうまれて来きたのではなかろうかと考えるかんがえると、今度こんどは大いにおおいに心こころがかりになった。
時じによると心こころがかりよりは不愉快ふゆかいであった。
けれども、今日きょうまで宗助そうすけは、小六しょうろくに対したいして意見いけんがましい事ことを云っいった事こともなければ、将来しょうらいについて注意ちゅういを与えあたえた事こともなかった。
彼かれの弟おとうとに対するたいする待遇たいぐう方ほうはただ普通ふつう凡庸ぼんようのものであった。
彼かれの今いまの生活せいかつが、彼かれのような過去かこを有っあっている人ひととは思えおもえないほどに、沈んしずんでいるごとく、彼かれの弟おとうとを取り扱うとりあつかう様子ようすにも、過去かこと名なのつくほどの経験けいけんを有っあった年長者ねんちょうしゃの素もと振ぶりは容易よういに出でなかった。
宗助そうすけと小六しょうろくの間まには、まだ二人ふたりほど男の子おとこのこが挟まっはさまっていたが、いずれも早世そうせいしてしまったので、兄弟きょうだいとは云いいいながら、年ねんは十じゅうばかり違っちがっている。
その上うえ宗助そうすけはある事情じじょうのために、一いち年ねんの時じ京都きょうとへ転学てんがくしたから、朝夕あさゆういっしょに生活せいかつしていたのは、小六しょうろくの十じゅう二に三さんの時じまでである。
宗助そうすけは剛つよし情なじょうな聴かきかぬ気きの腕白わんぱく小僧こぞうとしての小六しょうろくをいまだに記憶きおくしている。
その時分じぶんは父ちちも生きいきていたし、家いえの都合つごうも悪くわるくはなかったので、抱かかえ車夫しゃふを邸内ていないの長屋ながやに住まわしすまわして、楽らくに暮しくらしていた。
この車夫しゃふに小六しょうろくよりは三さんつほど年下とししたの子供こどもがあって、始終しじゅう小六しょうろくの御ご相手あいてをして遊んあそんでいた。
ある夏なつの日盛りひざかりに、二人ふたりして、長いながい竿さおのさきへ菓子かし袋ふくろを括り付けくくりつけて、大きなおおきな柿の木かきのきの下したで蝉せみの捕りとりくらをしているのを、宗助そうすけが見みて、兼けん坊ぼうそんなに頭あたまを日ひに照らしてらしつけると霍乱かくらんになるよ、さあこれを被れこうむれと云っいって、小六しょうろくの古いふるい夏帽なつぼうを出しだしてやった。
すると、小六しょうろくは自分じぶんの所有物しょゆうぶつを兄あにが無断むだんで他ほかにくれてやったのが、癪しゃくに障っさわったので、突然とつぜん兼けん坊ぼうの受取っうけとった帽子ぼうしを引ったくっひったくって、それを地面じめんの上うえへ抛げなげつけるや否いなや、馳はせけ上がるあがるようにその上うえへ乗っのって、くしゃりと麦藁むぎわら帽ぼうを踏み潰しふみつぶしてしまった。
宗助そうすけは縁えんから跣足せんそくで飛んとんで下りくだりて、小六しょうろくの頭あたまを擲りなぐりつけた。
その時じから、宗助そうすけの眼めには、小六しょうろくが小しょう悪わるらしい小僧こぞうとして映っうつった。
二に年ねんの時じ宗助そうすけは大学だいがくを去らさらなければならない事ことになった。
東京とうきょうの家いえへも帰えれかえれない事ことになった。
京都きょうとからすぐ広島ひろしまへ行っいって、そこに半年はんとしばかり暮らしくらしているうちに父ちちが死んしんだ。
母ははは父ちちよりも六ろく年ねんほど前まえに死んしんでいた。
だから後あとには二に十じゅう五ご六ろくになる妾めかけと、十六じゅうろくになる小六しょうろくが残っのこっただけであった。
佐伯さえきから電報でんぽうを受け取っうけとって、久しぶりひさしぶりに出京しゅっきょうした宗助そうすけは、葬式そうしきを済ましすました上うえ、家いえの始末しまつをつけようと思っおもってだんだん調べしらべて見るみると、あると思っおもった財産ざいさんは案外あんがいに少なくすくなくって、かえって無いないつもりの借金しゃっきんがだいぶあったに驚ろかさおどろかされた。
叔父おじの佐伯さえきに相談そうだんすると、仕方しかたがないから邸やしきを売るうるが好かろうよかろうと云ういう話はなしであった。
妾めかけは相当そうとうの金きんをやってすぐ暇ひまを出すだす事ことにきめた。
小六しょうろくは当分とうぶん叔父おじの家いえに引き取っひきとって世話せわをして貰うもらう事ことにした。
しかし肝心かんじんの家屋敷いえやしきはすぐ右みぎから左ひだりへと売れるうれる訳わけには行かいかなかった。
仕方しかたがないから、叔父おじに一時いちじの工面くめんを頼んたのんで、当座とうざの片かたをつけて貰っもらった。
叔父おじは事業家じぎょうかでいろいろな事ことに手てを出しだしては失敗しっぱいする、云わいわば山気やまきの多いおおい男おとこであった。
宗助そうすけが東京とうきょうにいる時分じぶんも、よく宗助そうすけの父ちちを説きつけときつけては、旨いうまい事ことを云っいって金きんを引き出しひきだしたものである。
宗助そうすけの父ちちにも慾よくがあったかも知れしれないが、この伝つてで叔父おじの事業じぎょうに注ぎ込んそそぎこんだ金高きんだかはけっして少ないすくないものではなかった。
父ちちの亡くなっなくなったこの際さいにも、叔父おじの都合つごうは元もとと余りあまり変っかわっていない様子ようすであったが、生前せいぜんの義理ぎりもあるし、またこう云ういう男おとこの常つねとして、いざと云ういう場合ばあいには比較的ひかくてき融通ゆうずうのつくものと見えみえて、叔父おじは快よくこころよく整理せいりを引き受けひきうけてくれた。
その代りかわり宗助そうすけは自分じぶんの家屋敷いえやしきの売却ばいきゃく方ほうについていっさいの事ことを叔父おじに一任いちにんしてしまった。
早くはやく云ういうと、急場きゅうばの金策きんさくに対するたいする報酬ほうしゅうとして土地とち家屋かおくを提供ていきょうしたようなものである。
叔父おじは、「何しろなにしろ、こう云ういうものは買手かいてを見みて売らうらないと損そんだからね」と云っいった。
道具どうぐ類るいも積せきばかり取っとって、金目かねめにならないものは、ことごとく売り払っうりはらったが、五六ごろく幅はばの掛かかり物ものと十じゅう二に三さん点てんの骨董品こっとうひんだけは、やはり気長きながに欲しほしがる人ひとを探ささがさないと損そんだと云ういう叔父おじの意見いけんに同意どういして、叔父おじに保管ほかんを頼むたのむ事ことにした。
すべてを差し引いさしひいて手元てもとに残っのこった有金ありがねは、約やく二千にせん円えんほどのものであったが、宗助そうすけはそのうちの幾分いくぶんを、小六しょうろくの学資がくしとして、使わつかわなければならないと気きがついた。
しかし月々つきづき自分じぶんの方ほうから送るおくるとすると、今日きょうの位置いちが堅固けんごでない当時とうじ、はなはだ実行じっこうしにくい結果けっかに陥りおちいりそうなので、苦しくくるしくはあったが、思い切っおもいきって、半分はんぶんだけを叔父おじに渡しわたして、何なん分ぶん宜しくよろしくと頼んたのんだ。
自分じぶんが中途ちゅうとで失敗っしっぱいったから、せめて弟おとうとだけは物ものにしてやりたい気きもあるので、この千せん円えんが尽きつきたあとは、またどうにか心配しんぱいもできようしまたしてくれるだろうぐらいの不ふ慥たしかな希望きぼうを残しのこして、また広島ひろしまへ帰っかえって行っいった。
それから半年はんとしばかりして、叔父おじの自筆じひつで、家いえはとうとう売れうれたから安心あんしんしろと云ういう手紙てがみが来きたが、いくらに売れうれたとも何なんとも書いかいてないので、折り返しおりかえして聞き合せるききあわせると、二に週間しゅうかんほど経っきょうっての返事へんじに、優にゆうに例れいの立替たてかえを償うつぐなうに足るたる金額きんがくだから心配しんぱいしなくても好いよいとあった。
宗助そうすけはこの返事へんじに対したいして少なからすくなからず不満ふまんを感じかんじたには感じかんじたが、同じおなじ書信しょしんの中なかに、委細いさいはいずれ御ご面会めんかいの節ふし云々うんぬんとあったので、すぐにも東京とうきょうへ行きいきたいような気きがして、実じつはこうこうだがと、相談そうだん半分はんぶん細君さいくんに話しはなして見るみると、御ご米べいは気の毒きのどくそうな顔かおをして、「でも、行けいけないんだから、仕方しかたがないわね」と云っいって、例れいのごとく微笑びしょうした。
その時じ宗助そうすけは始めはじめて細君さいくんから宣告せんこくを受けうけた人ひとのように、しばらく腕組うでぐみをして考えかんがえたが、どう工夫くふうしたって、抜けるぬける事ことのできないような位地いちと事情じじょうの下したに束縛そくばくされていたので、ついそれなりになってしまった。
仕方しかたがないから、なお三四さんよん回かい書面しょめんで往復おうふくを重ねかさねて見みたが、結果けっかはいつも同じおなじ事ことで、版行はんこうで押しおしたようにいずれ御ご面会めんかいの節ふしを繰り返しくりかえして来るくるだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助そうすけは腹はらが立ったったような顔かおをして御ご米べいを見みた。
三さんカ月かげつばかりして、ようやく都合つごうがついたので、久し振りひさしぶりに御ご米べいを連れつれて、出京しゅっきょうしようと思うおもう矢先やさきに、つい風邪かぜを引いひいて寝ねたのが元もとで、腸ちょう窒扶斯ちふすに変化へんかしたため、六十ろくじゅう日ひ余りあまりを床ゆかの上うえに暮らしくらした上うえに、あとの三十さんじゅう日ひほどは充分じゅうぶん仕事しごともできないくらい衰えおとろえてしまった。
病気びょうきが本復ほんぶくしてから間まもなく、宗助そうすけはまた広島ひろしまを去っさって福岡ふくおかの方ほうへ移らうつらなければならない身みとなった。
移るうつる前まえに、好いよい機会きかいだからちょっと東京とうきょうまで出でたいものだと考えかんがえているうちに、今度こんどもいろいろの事情じじょうに制せせいせられて、ついそれも遂行すいこうせずに、やはり下りくだり列車れっしゃの走るはしる方ほうに自己じこの運命うんめいを托したくした。
その頃ころは東京とうきょうの家いえを畳むたたむとき、懐ふところにして出でた金きんは、ほとんど使い果たしつかいはたしていた。
彼かれの福岡ふくおか生活せいかつは前後ぜんご二に年ねんを通じつうじて、なかなかの苦闘くとうであった。
彼かれは書生しょせいとして京都きょうとにいる時分じぶん、種々しゅじゅの口実こうじつの下したに、父ちちから臨時りんじ随意ずいいに多額たがくの学資がくしを請求せいきゅうして、勝手かってしだいに消費しょうひした昔むかしをよく思い出しおもいだして、今いまの身分みぶんと比較ひかくしつつ、しきりに因果いんがの束縛そくばくを恐れおそれた。
ある時じはひそかに過ぎすぎた春はるを回顧かいこして、あれが己おのれの栄華えいがの頂点ちょうてんだったんだと、始めはじめて醒めさめた眼めに遠いとおい霞かすみを眺めるながめる事こともあった。
いよいよ苦しくくるしくなった時じ、「御ご米べい、久しくひさしく放っはなっておいたが、また東京とうきょうへ掛合っかけあってみようかな」と云いいい出しだした。
御ご米べいは無論むろん逆いさからいはしなかった。
ただ下したを向いむかいて、「駄目だめよ。だって、叔父おじさんに全くまったく信用しんようがないんですもの」と心細こころぼそそうに答えこたえた。
「向うむこうじゃこっちに信用しんようがないかも知れしれないが、こっちじゃまた向うむこうに信用しんようがないんだ」と宗助そうすけは威張っいばって云いいい出しだしたが、御ご米べいの俯目ふしめになっている様子ようすを見るみると、急きゅうに勇気ゆうきが挫けるくじける風かぜに見えみえた。
こんな問答もんどうを最初さいしょは月つきに一二いちに返かえしぐらい繰り返しくりかえしていたが、後あとには二に月つきに一いち返かえしになり、三さん月つきに一いち返かえしになり、とうとう、「好いよいや、小六しょうろくさえどうかしてくれれば。あとの事ことはいずれ東京とうきょうへ出でたら、逢っあった上うえで話はなしをつけらあ。ねえ御ご米べい、そうすると、しようじゃないか」と云いいい出しだした。
「それで、好よしみござんすとも」と御ご米べいは答えこたえた。
宗助そうすけは佐伯さえきの事ことをそれなり放っはなってしまった。
単なるたんなる無心むしんは、自分じぶんの過去かこに対したいしても、叔父おじに向っむかって云いいい出せるだせるものでないと、宗助そうすけは考えかんがえていた。
したがってその方ほうの談判だんぱんは、始めはじめからいまだかつて筆ふでにした事ことがなかった。
小六しょうろくからは時々ときどき手紙てがみが来きたが、極めてきわめて短かいみじかい形式的けいしきてきのものが多かっおおかった。
宗助そうすけは父ちちの死んしんだ時じ、東京とうきょうで逢っあった小六しょうろくを覚えおぼえているだけだから、いまだに小六しょうろくを他愛たあいない小供こどもぐらいに想像そうぞうするので、自分じぶんの代理だいりに叔父おじと交渉こうしょうさせようなどと云ういう気きは無論むろん起らおこらなかった。
夫婦ふうふは世の中よのなかの日の目ひのめを見みないものが、寒ささむさに堪えこらえかねて、抱き合っだきあって暖だんを取るとるような具合ぐあいに、御ご互たがい同志どうしを頼りたよりとして暮らしくらしていた。
苦しいくるしい時じには、御ご米べいがいつでも、宗助そうすけに、「でも仕方しかたがないわ」と云っいった。
宗助そうすけは御ご米べいに、「まあ我慢がまんするさ」と云っいった。
二人ふたりの間まには諦めあきらめとか、忍耐にんたいとか云ういうものが断だんえず動いうごいていたが、未来みらいとか希望きぼうと云ういうものの影かげはほとんど射さささないように見えみえた。
彼かれらは余りあまり多くおおく過去かこを語らかたらなかった。
時じとしては申し合わせもうしあわせたように、それを回避かいひする風かぜさえあった。
御ご米べいが時じとして、「そのうちにはまたきっと好いよい事ことがあってよ。そうそう悪いわるい事ことばかり続くつづくものじゃないから」と夫おっとを慰さめるなぐさめるように云ういう事ことがあった。
すると、宗助そうすけにはそれが、真心まごころある妻つまの口くちを藉りかりて、自分じぶんを翻弄ほんろうする運命うんめいの毒舌どくぜつのごとくに感ぜかんぜられた。
宗助そうすけはそう云ういう場合ばあいには何になんにも答えこたえずにただ苦笑くしょうするだけであった。
御ご米べいがそれでも気きがつかずに、なにか云いいい続けるつづけると、「我々われわれは、そんな好いよい事ことを予期よきする権利けんりのない人間にんげんじゃないか」と思い切っおもいきって投げ出しなげだしてしまう。
細君さいくんはようやく気きがついて口くちを噤んつぐんでしまう。
そうして二人ふたりが黙っだまって向き合っむきあっていると、いつの間まにか、自分じぶん達とおるは自分じぶん達とおるの拵えこしらえた、過去かこという暗いくらい大きなおおきな窖あなぐらの中なかに落ちおちている。
彼かれらは自業自得じごうじとくで、彼かれらの未来みらいを塗抹とまつした。
だから歩いあるいている先さきの方ほうには、花やかはなやかな色彩しきさいを認めるみとめる事ことができないものと諦たいらめて、ただ二人ふたり手てを携えたずさえて行くいく気きになった。
叔父おじの売り払っうりはらったと云ういう地面じめん家作かさくについても、固よりもとより多くおおくの期待きたいは持っもっていなかった。
時々ときどき考え出しかんがえだしたように、「だって、近頃ちかごろの相場そうばなら、捨売すてうりにしたって、あの時じ叔父おじの拵らえこしらえてくれた金きんの倍ばいにはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいばかばかしいからね」と宗助そうすけが云いいい出すだすと、御ご米べいは淋しさびしそうに笑っわらって、「また地面じめん? いつまでもあの事ことばかり考えかんがえていらっしゃるのね。だって、あなたが万事ばんじ宜しくよろしく願いねがいますと、叔父おじさんにおっしゃったんでしょう」と云ういう。
「そりゃ仕方しかたがないさ。あの場合ばあいああでもしなければ方ほうがつかないんだもの」と宗助そうすけが云ういう。
「だからさ。叔父おじさんの方ほうでは、御ご金きんの代りかわりに家いえと地面じめんを貰っもらったつもりでいらっしゃるかも知れしれなくってよ」と御ご米べいが云ういう。
そう云わいわれると、宗助そうすけも叔父おじの処置しょちに一理いちりあるようにも思わおもわれて、口くちでは、「そのつもりが好くよくないじゃないか」と答弁とうべんするようなものの、この問題もんだいはその都度つどしだいしだいに背景はいけいの奥おくに遠ざかっとおざかって行くいくのであった。
夫婦ふうふがこんな風かぜに淋しくさびしく睦まじくむつまじく暮らしくらして来きた二に年ねん目めの末すえに、宗助そうすけはもとの同級生どうきゅうせいで、学生時代がくせいじだいには大変たいへん懇意こんいであった杉原すぎはらと云ういう男おとこに偶然ぐうぜん出逢っであった。
杉原すぎはらは卒業後そつぎょうご高等こうとう文官ぶんかん試験しけんに合格ごうかくして、その時じすでに或ある省しょうに奉職ほうしょくしていたのだが、公務こうむ上福岡かみふくおかと佐賀さがへ出張しゅっちょうすることになって、東京とうきょうからわざわざやって来きたのである。
宗助そうすけは所ところの新聞しんぶんで、杉原すぎはらのいつ着いついて、どこに泊っとまっているかをよく知っしってはいたが、失敗しっぱい者ものとしての自分じぶんに顧みかえりみて、成せい効かい者ものの前まえに頭あたまを下げるさげる対照たいしょうを恥ずかしくはずかしく思っおもった上うえに、自分じぶんは在学ざいがく当時とうじの旧友きゅうゆうに逢うあうのを、特にとくに避けさけたい理由りゆうを持っもっていたので、彼かれの旅館りょかんを訪ねるたずねる気きは毛頭もうとうなかった。
ところが杉原すぎはらの方ほうでは、妙みょうな引掛りひっかかりから、宗助そうすけのここに燻ぶっふすぶっている事ことを聞き出しききだして、強いてしいて面会めんかいを希望きぼうするので、宗助そうすけもやむを得とくず我われを折っおった。
宗助そうすけが福岡ふくおかから東京とうきょうへ移れるうつれるようになったのは、全くまったくこの杉原すぎはらの御蔭みかげである。
杉原すぎはらから手紙てがみが来きて、いよいよ事ことがきまったとき、宗助そうすけは箸はしを置いおいて、「御ご米べい、とうとう東京とうきょうへ行けるいけるよ」と云っいった。
「まあ結構けっこうね」と御ご米べいが夫おっとの顔かおを見みた。
東京とうきょうに着いついてから二三にさん週間しゅうかんは、眼めの回るまわるように日ひが経っきょうった。
新らしくあたらしく世帯せたいを有っあって、新らしいあたらしい仕事しごとを始めるはじめる人ひとに、あり勝ちかちな急忙しあわただしなさと、自分じぶん達とおるを包むつつむ大都だいとの空気くうきの、日夜にちや劇しくはげしく震盪しんとうする刺戟しげきとに駆らかられて、何事なにごとをもじっと考えるかんがえる閑かんもなく、また落ちついおちついて手てを下すくだす分別ぶんべつも出でなかった。
夜汽車よるきしゃで新橋しんばしへ着いついた時じは、久しぶりひさしぶりに叔父おじ夫婦ふうふの顔かおを見みたが、夫婦ふうふとも灯あかりのせいか晴れやかはれやかな色いろには宗助そうすけの眼めに映らうつらなかった。
途中とちゅうに事故じこがあって、着きの時間じかんが珍らしくめずらしく三十さんじゅう分ぶんほど後れおくれたのを、宗助そうすけの過失かしつででもあるかのように、待まち草臥れくたびれた気色けしきであった。
宗助そうすけがこの時じ叔母おばから聞いきいた言葉ことばは、「おや宗そうさん、しばらく御ご目めに掛からかかりからないうちに、大変たいへん御ご老けふけなすった事こと」という一句いっくであった。
御ご米べいはその折おり始めはじめて叔父おじ夫婦ふうふに紹介しょうかいされた。
「これがあの……」と叔母おばは逡巡しゅんじゅんって宗助そうすけの方ほうを見みた。
御ご米べいは何なんと挨拶あいさつのしようもないので、無言むごんのままただ頭あたまを下げさげた。
小六しょうろくも無論むろん叔父おじ夫婦ふうふと共ともに二人ふたりを迎いむかいに来きていた。
宗助そうすけは一いち眼めその姿すがたを見みたとき、いつの間まにか自分じぶんを凌ぐしのぐように大きくおおきくなった、弟おとうとの発育はついくに驚ろかさおどろかされた。
小六しょうろくはその時じ中学ちゅうがくを出でて、これから高等学校こうとうがっこうへ這入ろうはいろうという間際まぎわであった。
宗助そうすけを見みて、「兄さんあにさん」とも「御ご帰りかえりなさい」とも云わいわないで、ただ不器用ふきように挨拶あいさつをした。
宗助そうすけと御ご米べいは一いち週しゅうばかり宿屋やどや住居じゅうきょをして、それから今いまの所ところに引き移っひきうつった。
その時じは叔父おじ夫婦ふうふがいろいろ世話せわを焼いやいてくれた。
細々しいこまごましい台所だいどころ道具どうぐのようなものは買うかうまでもあるまい、古いふるいのでよければと云ういうので、小しょう人数にんずうに必要ひつようなだけ一通りひととおり取り揃えとりそろえて送っおくって来きた。
その上うえ、「御前ごぜんも新しん世帯せたいだから、さぞ物もの要ようが多かろうおおかろう」と云っいって金きんを六十ろくじゅう円えんくれた。
家いえを持っもってかれこれ取り紛れとりまぎれているうちに、早はや半月はんつき余よも経っきょうったが、地方ちほうにいる時分じぶんあんなに気きにしていた家いえ邸やしきの事ことは、ついまだ叔父おじに言いいい出さださずにいた。
ある時じ御ご米べいが、「あなたあの事ことを叔父おじさんにおっしゃって」と聞いきいた。
宗助そうすけはそれで急きゅうに思い出しおもいだしたように、「うん、まだ云わいわないよ」と答えこたえた。
「妙みょうね、あれほど気きにしていらしったのに」と御ご米べいがうす笑わらいをした。
「だって、落ちついおちついて、そんな事ことを云いいい出すだす暇ひまがないんだもの」と宗助そうすけが弁解べんかいした。
また十じゅう日ひほど経っきょうった。
すると今度こんどは宗助そうすけの方ほうから、「御ご米べい、あの事ことはまだ云わいわないよ。どうも云ういうのが面倒めんどうで厭いやになった」と云いいい出しだした。
「厭いやなのを無理むりにおっしゃらなくってもいいわ」と御ご米べいが答えこたえた。
「好いよいかい」と宗助そうすけが聞き返しききかえした。
「好いよいかいって、もともとあなたの事ことじゃなくって。私わたくしは先さきからどうでも好いよいんだわ」と御ご米べいが答えこたえた。
その時じ宗助そうすけは、「じゃ、鹿爪らしくしかつめらしく云いいい出すだすのも何なんだか妙みょうだから、そのうち機会きかいがあったら、聞くきくとしよう。なにそのうち聞いきいて見るみる機会きかいがきっと出でて来るくるよ」と云っいって延ばしのばしてしまった。
小六しょうろくは何なん不足ふそくなく叔父おじの家いえに寝ね起しおこしていた。
試験しけんを受けうけて高等学校こうとうがっこうへ這入れれはいれれば、寄宿きしゅくへ入舎にゅうしゃしなければならないと云ういうので、その相談そうだんまですでに叔父おじと打合せうちあわせがしてあるようであった。
新らしくあたらしく出京しゅっきょうした兄あにからは別段べつだん学資がくしの世話せわを受けうけないせいか、自分じぶんの身の上みのうえについては叔父おじほどに親しいしたしい相談そうだんも持ち込んもちこんで来きなかった。
従兄弟いとこの安之助やすのすけとは今までいままでの関係かんけい上うえ大変たいへん仲なかが好かっよかった。
かえってこの方ほうが兄弟きょうだいらしかった。
宗助そうすけは自然しぜん叔父おじの家いえに足あしが遠くとおくなるようになった。
たまに行っいっても、義理ぎり一遍いちぺんの訪問ほうもんに終るおわる事ことが多いおおいので、帰り路かえりみちにはいつもつまらない気きがしてならなかった。
しまいには時候じこうの挨拶あいさつを済ますすますと、すぐ帰りかえりたくなる事こともあった。
こう云ういう時じには三さん十分じゅうふんと坐っすわって、世間せけん話はなしに時間じかんを繋ぐつなぐのにさえ骨ほねが折れおれた。
向うむこうでも何なんだか気きが置けおけて窮屈きゅうくつだと云ういう風かぜが見えみえた。
「まあいいじゃありませんか」と叔母おばが留めとめてくれるのが例れいであるが、そうすると、なおさらいにくい心持こころもちがした。
それでも、たまには行かいかないと、心こころのうちで気きが咎めるとがめるような不安ふあんを感ずるかんずるので、また行くいくようになった。
折々おりおりは、「どうも小六しょうろくが御ご厄介やっかいになりまして」とこっちから頭あたまを下げさげて礼れいを云ういう事こともあった。
けれども、それ以上いじょうは、弟おとうとの将来しょうらいの学資がくしについても、また自分じぶんが叔父おじに頼んたのんで、留守るす中なかに売り払っうりはらって貰っもらった地所じしょ家作かさくについても、口くちを切るきるのがつい面倒めんどうになった。
しかし宗助そうすけが興味きょうみを有ゆうたない叔父おじの所ところへ、不精ぶしょう無精むせいにせよ、時たまときたま出掛けでかけて行くいくのは、単にたんに叔父おじ甥おいの血ち属ぞく関係かんけいを、世間せけん並なみに持ち堪えるもちこたえるための義務ぎむ心こころからではなくって、いつか機会きかいがあったら、片かたをつけたい或ある物ものを胸むねの奥おくに控えひかえていた結果けっかに過ぎすぎないのは明かあきらかであった。
「宗そうさんはどうもすっかり変っかわっちまいましたね」と叔母おばが叔父おじに話すはなす事ことがあった。
すると叔父おじは、「そうよなあ。やっぱり、ああ云ういう事ことがあると、永くながくまで後あとへ響くひびくものだからな」と答えこたえて、因果いんがは恐ろしいおそろしいと云ういう風かぜをする。
叔母おばは重ねかさねて、「本当ほんとうに、怖いこわいもんですね。元もとはあんな寝入っねいった子こじゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるすぎるくらい活溌かっぱつでしたからね。それが二三にさん年ねん見みないうちに、まるで別べつの人ひとみたように老けふけちまって。今いまじゃあなたより御ご爺じいさん御ご爺じいさんしていますよ」と云ういう。
「真逆まさか」と叔父おじがまた答えるこたえる。
「いえ、頭あたまや顔かおは別べつとして、様子ようすがさ」と叔母おばがまた弁解べんかいする。
こんな会話かいわが老夫婦ろうふうふの間まに取りとり換かえわされたのは、宗助そうすけが出京しゅっきょうして以来いらい一度いちどや二に度どではなかった。
実際じっさい彼かれは叔父おじの所ところへ来るくると、老人ろうじんの眼めに映るうつる通りとおりの人間にんげんに見えみえた。
御ご米べいはどう云ういうものか、新橋しんばしへ着いついた時じ、老人ろうじん夫婦ふうふに紹介しょうかいされたぎり、かつて叔父おじの家いえの敷居しきいを跨いまたいだ事ことがない。
むこうから見えれみえれば叔父おじさん叔母おばさんと丁寧ていねいに接待せったいするが、帰りがけかえりがけに、「どうです、ちと御ご出かけでかけなすっちゃ」などと云わいわれると、ただ、「ありがとう」と頭あたまを下げるさげるだけで、ついぞ出掛けでかけた試みはなかった。
さすがの宗助そうすけさえ一度いちどは、「叔父おじさんの所ところへ一度いちど行っいって見みちゃ、どうだい」と勧めすすめた事ことがあるが、「でも」と変へんな顔かおをするので、宗助そうすけはそれぎりけっしてその事ことを云いいい出さださなかった。
両りょう家族かぞくはこの状態じょうたいで約やく一いち年ねんばかりを送っおくった。
すると宗助そうすけよりも気分きぶんは若いわかいと許さゆるされた叔父おじが突然とつぜん死んしんだ。
病症びょうしょうは脊髄せきずい脳膜炎のうまくえんとかいう劇症げきしょうで、二三にさん日ひ風邪かぜの気味きみで寝ねていたが、便所べんじょへ行っいった帰りかえりに、手てを洗おうあらおうとして、柄杓ひしゃくを持っもったまま卒倒そっとうしたなり、一日いちにち経つたつか経たへたないうちに冷たくつめたくなってしまったのである。
「御ご米べい、叔父おじはとうとう話はなしをしずに死んしんでしまったよ」と宗助そうすけが云っいった。
「あなたまだ、あの事ことを聞くきくつもりだったの、あなたも随分ずいぶん執念しゅうねん深いぶかいのね」と御ご米べいが云っいった。
それからまた一いち年ねんばかり経っきょうったら、叔父おじの子この安之助やすのすけが大学だいがくを卒業そつぎょうして、小六しょうろくが高等学校こうとうがっこうの二に年生ねんせいになった。
叔母おばは安之助やすのすけといっしょに中なか六ろく番ばん町まちに引き移っひきうつった。
三さん年ねん目めの夏休みなつやすみに小六しょうろくは房州ぼうしゅうの海水浴かいすいよくへ行っいった。
そこに一いち月つき余りあまりも滞在たいざいしているうちに九きゅう月つきになり掛けなりかけたので、保田やすだから向うむこうへ突とっ切っきって、上総かずさの海岸かいがんを九十九里くじゅうくり伝いつたいに、銚子ちょうしまで来きたが、そこから思い出しおもいだしたように東京とうきょうへ帰っかえった。
宗助そうすけの所ところへ見えみえたのは、帰っかえってから、まだ二三にさん日ひしか立たたたない、残暑ざんしょの強いつよい午後ごごである。
真黒まっくろに焦げこげた顔かおの中なかに、眼めだけ光らしひからして、見違えるみちがえるように蛮ばん色いろを帯びおびた彼かれは、比較的ひかくてき日ひの遠いとおい座敷ざしきへ這入っはいったなり横よこになって、兄あにの帰りかえりを待ち受けまちうけていたが、宗助そうすけの顔かおを見るみるや否いなや、むっくり起き上がっおきあがって、「兄さんあにさん、少しすこし御ご話はなしがあって来きたんですが」と開き直らひらきなおられたので、宗助そうすけは少しすこし驚ろいおどろいた気味きみで、暑苦しいあつくるしい洋服ようふくさえ脱ぎぬぎ更さらえずに、小六しょうろくの話はなしを聞いきいた。
小六しょうろくの云ういうところによると、二三にさん日ひ前まえ彼かれが上総かずさから帰っかえった晩ばん、彼かれの学資がくしはこの暮くれ限りかぎり、気の毒きのどくながら出しだしてやれないと叔母おばから申し渡さもうしわたされたのだそうである。
小六しょうろくは父ちちが死んしんで、すぐと叔父おじに引き取らひきとられて以来いらい、学校がっこうへも行けるいけるし、着物きものも自然しぜんにできるし、小遣こづかいも適宜てきぎに貰えるもらえるので、父ちちの存生ぞんじょう中なかと同じおなじように、何なん不足ふそくなく暮らせくらせて来きた惰性だせいから、その日ひその晩ばんまでも、ついぞ学資がくしと云ういう問題もんだいを頭あたまに思い浮べおもいうかべた事ことがなかったため、叔母おばの宣告せんこくを受けうけた時じは、茫然ぼうぜんしてとかくの挨拶あいさつさえできなかったのだと云ういう。
叔母おばは気の毒きのどくそうに、なぜ小六しょうろくの世話せわができなくなったかを、女おんなだけに、一いち時間じかんも掛かっかかって委しくくわしく説明せつめいしてくれたそうである。
それには叔父おじの亡くなっなくなった事ことやら、継いつづいで起るおこる経済上けいざいじょうの変化へんかやら、また安之助やすのすけの卒業そつぎょうやら、卒業後そつぎょうごに控えひかえている結婚けっこん問題もんだいやらが這入っはいっていたのだと云ういう。
「できるならば、せめて高等学校こうとうがっこうを卒業そつぎょうするまでと思っおもって、今日きょうまでいろいろ骨ほねを折っおったんだけれども」 叔母おばはこう云っいったと小六しょうろくは繰り返しくりかえした。
小六しょうろくはその時じふと兄あにが、先年せんねん父ちちの葬式そうしきの時じに出京しゅっきょうして、万事ばんじを片づけかたづけた後あと、広島ひろしまへ帰るかえるとき、小六しょうろくに、御前ごぜんの学資がくしは叔父おじさんに預けあずけてあるからと云っいった事ことがあるのを思い出しおもいだして、叔母おばに始めはじめて聞いきいて見るみると、叔母おばは案外あんがいな顔かおをして、「そりゃ、あの時じ、宗そうさんが若干じゃっかんか置いおいて行きいきなすった事ことは、行きいきなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父おじさんのまだ生きいきて御ご出での時分じぶんから、御前ごぜんの学資がくしは融通ゆうずうして来きたんだから」と答えこたえた。
小六しょうろくは兄あにから自分じぶんの学資がくしがどれほどあって、何なん年ねん分ぶんの勘定かんじょうで、叔父おじに預けあずけられたかを、聞いきいておかなかったから、叔母おばからこう云わいわれて見るみると、一言ひとことも返しかえしようがなかった。
「御前ごぜんも一人ひとりじゃなし、兄さんあにさんもある事ことだからよく相談そうだんをして見みたら好いよいだろう。その代りかわり私わたくしも宗そうさんに逢っあって、とっくり訳わけを話しはなしましょうから。どうも、宗そうさんも余よまり近頃ちかごろは御出でおいでないし、私わたくしも御無沙汰ごむさたばかりしているのでね、つい御前ごぜんの事ことは御ご話はなしをする訳わけにも行かいかなかったんだよ」と叔母おばは最後さいごにつけ加えつけくわえたそうである。
小六しょうろくから一部いちぶ始終しじゅうを聞いきいた時じ、宗助そうすけはただ弟おとうとの顔かおを眺めながめて、一口ひとくち、「困っこまったな」と云っいった。
昔むかしのように赫あかと激しげきして、すぐ叔母おばの所ところへ談判だんぱんに押し掛けるおしかける気色けしきもなければ、今までいままで自分じぶんに対したいして、世話せわにならないでも済むすむ人ひとのように、よそよそしく仕向けしむけて来きた弟おとうとの態度たいどが、急きゅうに方向ほうこうを転じてんじたのを、悪いわるいと思うおもう様子ようすも見えみえなかった。
自分じぶんの勝手かってに作り上げつくりあげた美びくしい未来みらいが、半分はんぶん壊れこわれかかったのを、さも傍そばの人ひとのせいででもあるかのごとく心こころを乱しみだしている小六しょうろくの帰るかえる姿すがたを見送っみおくった宗助そうすけは、暗いくらい玄関げんかんの敷居しきいの上うえに立ったって、格子こうしの外そとに射すさす夕日ゆうひをしばらく眺めながめていた。
その晩ばん宗助そうすけは裏うらから大きなおおきな芭蕉ばしょうの葉はを二に枚ばい剪って来きて、それを座敷ざしきの縁えんに敷いしいて、その上うえに御ご米べいと並んならんで涼みすずみながら、小六しょうろくの事ことを話しはなした。
「叔母おばさんは、こっちで、小六しょうろくさんの世話せわをしろって云ういう気きなんじゃなくって」と御ご米べいが聞いきいた。
「まあ、逢っあって聞いきいて見みないうちは、どう云ういう料簡りょうけんか分らわからないがね」と宗助そうすけが云ういうと、御ご米べいは、「きっとそうよ」と答えこたえながら、暗がりくらがりで団扇うちわをはたはた動かしうごかした。
宗助そうすけは何なんも云わいわずに、頸くびを延ばしのばして、庇ひさしと崖がけの間まに細くほそく映るうつる空そらの色いろを眺めながめた。
二人ふたりはそのまましばらく黙っだまっていたが、良りょうあって、「だってそれじゃ無理むりね」と御ご米べいがまた云っいった。
「人間にんげん一人ひとり大学だいがくを卒業そつぎょうさせるなんて、おれの手際てぎわじゃ到底とうてい駄目だめだ」と宗助そうすけは自分じぶんの能力のうりょくだけを明らかあきらかにした。
会話かいわはそこで別べつの題目だいもくに移っうつって、再びふたたび小六しょうろくの上うえにも叔母おばの上うえにも帰っかえって来きなかった。
それから二三にさん日ひするとちょうど土曜どようが来きたので、宗助そうすけは役所やくしょの帰りかえりに、番町ばんちょうの叔母おばの所ところへ寄っよって見みた。
叔母おばは、「おやおや、まあ御ご珍らしいめずらしい事こと」と云っいって、いつもよりは愛想あいそよく宗助そうすけを款待かんたいしてくれた。
その時じ宗助そうすけは厭いやなのを我慢がまんして、この四五しご年ねん来き溜めためて置いおいた質問しつもんを始めはじめて叔母おばに掛けかけた。
叔母おばは固よりもとよりできるだけは弁解べんかいしない訳わけに行かいかなかった。
叔母おばの云ういうところによると、宗助そうすけの邸宅ていたくを売払っうりはらった時じ、叔父おじの手てに這入っはいった金きんは、たしかには覚えおぼえていないが、何なんでも、宗助そうすけのために、急場きゅうばの間まに合せあわせた借財しゃくざいを返しかえした上うえ、なお四千五百よんせんごひゃく円えんとか四千三百よんせんさんびゃく円えんとか余っよったそうである。
ところが叔父おじの意見いけんによると、あの屋敷やしきは宗助そうすけが自分じぶんに提供ていきょうして行っいったのだから、たといいくら余ろうあまろうと、余っよった分ぶんは自分じぶんの所得しょとくと見傚しみなして差支さしつかえない。
しかし宗助そうすけの邸宅ていたくを売っうって儲けもうけたと云わいわれては心持こころもちが悪いわるいから、これは小六しょうろくの名義めいぎで保管ほかんして置いおいて、小六しょうろくの財産ざいさんにしてやる。
宗助そうすけはあんな事ことをして廃嫡はいちゃくにまでされかかった奴やつだから、一いち文ぶんだって取るとる権利けんりはない。
「宗そうさん怒っどっちゃいけませんよ。ただ叔父おじさんの云っいった通りとおりを話すはなすんだから」と叔母おばが断っことわった。
宗助そうすけは黙っだまってあとを聞いきいていた。
小六しょうろくの名義めいぎで保管ほかんされべき財産ざいさんは、不幸ふこうにして、叔父おじの手腕しゅわんで、すぐ神田かんだの賑やかにぎやかな表通りおもてどおりの家屋かおくに変形へんけいした。
そうして、まだ保険ほけんをつけないうちに、火事かじで焼けやけてしまった。
小六しょうろくには始めはじめから話しはなしてない事ことだから、そのままにして、わざと知らしらせずにおいた。
「そう云ういう訳わけでね、まことに宗そうさんにも、御ご気の毒きのどくだけれども、何しろなにしろ取っとって返しかえしのつかない事ことだから仕方しかたがない。運うんだと思っおもって諦たいらめて下さいください。もっとも叔父おじさんさえ生きいきていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六しょうろく一人ひとりぐらいそりゃ訳わけはありますまいよ。よしんば、叔父おじさんがいなさらない、今いまにしたって、こっちの都合つごうさえ好けれよければ、焼けやけた家いえと同じおなじだけのものを、小六しょうろくに返すかえすか、それでなくっても、当人とうにんの卒業そつぎょうするまでぐらいは、どうにかして世話せわもできるんですけれども」と云っいって叔母おばはまたほかの内幕うちまく話はなしをして聞かきかせた。
それは安之助やすのすけの職業しょくぎょうについてであった。
安之助やすのすけは叔父おじの一人息子ひとりむすこで、この夏なつ大学だいがくを出でたばかりの青年せいねんである。
家庭かていで暖かあたたかに育っそだった上うえに、同級どうきゅうの学生がくせいぐらいよりほかに交際こうさいのない男おとこだから、世の中よのなかの事ことにはむしろ迂濶うかつと云っいってもいいが、その迂濶うかつなところにどこか鷹揚おうような趣おもむきを具えそなえて実社会じつしゃかいへ顔かおを出しだしたのである。
専門せんもんは工科こうかの器械きかい学がくだから、企業きぎょう熱ねつの下火したびになった今日きょうといえども、日本にっぽん中なかにたくさんある会社かいしゃに、相応そうおうの口くちの一いちつや二につあるのは、もちろんであるが、親譲りおやゆずりの山気やまきがどこかに潜んひそんでいるものと見えみえて、自分じぶんで自分じぶんの仕事しごとをして見みたくてならない矢先やさきへ、同じおなじ科かの出身しゅっしんで、小規模しょうきぼながら専有せんゆうの工場こうじょうを月島つきしま辺へんに建てたてて、独立どくりつの経営けいえいをやっている先輩せんぱいに出逢っであったのが縁えんとなって、その先輩せんぱいと相談そうだんの上うえ、自分じぶんも幾分いくぶんかの資本しほんを注ぎ込んそそぎこんで、いっしょに仕事しごとをしてみようという考かんがえになった。
叔母おばの内幕うちまく話はなしと云っいったのはそこである。
「でね、少しすこしあった株かぶをみんなその方ほうへ廻すまわす事ことにしたもんだから、今いまじゃ本当ほんとうに一いち文なしもんなし同然どうぜんな仕儀しぎでいるんですよ。それは世間せけんから見るみると、人数にんずうは少なしすくなし、家いえ邸やしきは持っもっているし、楽らくに見えるみえるのも無理むりのないところでしょうさ。この間まも原はらの御ご母さんははさんが来きて、まああなたほど気楽きらくな方ほうはない、いつ来きて見みても万年青おもとの葉はばかり丹念たんねんに洗っあらっているってね。真逆まさかそうでも無いないんですけれども」と叔母おばが云っいった。
宗助そうすけが叔母おばの説明せつめいを聞いきいた時じは、ぼんやりしてとかくの返事へんじが容易よういに出でなかった。
心こころのなかで、これは神経しんけい衰弱すいじゃくの結果けっか、昔むかしのように機敏きびんで明快めいかいな判断はんだんを、すぐ作り上げるつくりあげる頭あたまが失くなっなくなった証拠しょうこだろうと自覚じかくした。
叔母おばは自分じぶんの云ういう通りとおりが、宗助そうすけに本当ほんとうと受けうけられないのを気きにするように、安之助やすのすけから持ち出しもちだした資本しほんの高こうまで話しはなした。
それは五千ごせん円えんほどであった。
安之助やすのすけは当分とうぶんの間ま、わずかな月給げっきゅうと、この五千ごせん円えんに対するたいする利益りえき配当はいとうとで暮らさくらさなければならないのだそうである。
「その配当はいとうだって、まだどうなるか分りゃわかりゃしないんでさあね。旨くうまく行っいったところで、一いち割わりか一いち割わり五ご分ぶんぐらいなものでしょうし、また一いちつ間違えまちがえばまるで煙けむりにならないとも限らかぎらないんですから」と叔母おばがつけ加えつけくわえた。
宗助そうすけは叔母おばの仕打しうちに、これと云ういう目立っめだった阿漕あこぎなところも見えみえないので、心こころの中なかでは少なからすくなからず困っこまったが、小六しょうろくの将来しょうらいについて一口ひとくちの掛合かけやもせずに帰るかえるのはいかにも馬鹿馬鹿しいばかばかしい気きがした。
そこで今までいままでの問題もんだいはそこに据えすえっきりにして置いおいて、自分じぶんが当時とうじ小六しょうろくの学資がくしとして叔父おじに預けあずけて行っいった千せん円えんの所ところ置おけを聞き糺しききただして見るみると、叔母おばは、「宗そうさん、あれこそ本当ほんとうに小六しょうろくが使っつかっちまったんですよ。小六しょうろくが高等学校こうとうがっこうへ這入っはいってからでも、もうかれこれ七百ななひゃく円えんは掛かっかかっているんですもの」と答えこたえた。
宗助そうすけはついでだから、それと同時どうじに、叔父おじに保管ほかんを頼んたのんだ書画しょがや骨董品こっとうひんの成行なりゆきを確かめたしかめて見みた。
すると、叔母おばは、「ありあとんだ馬鹿ばかな目めに逢っあって」と云いいいかけたが、宗助そうすけの様子ようすを見みて、「宗そうさん、何なんですか、あの事ことはまだ御ご話はなしをしなかったんでしたかね」と聞いきいた。
宗助そうすけがいいえと答えるこたえると、「おやおや、それじゃ叔父おじさんが忘れわすれちまったんですよ」と云いいいながら、その顛末てんまつを語っごって聞かしきかした。
宗助そうすけが広島ひろしまへ帰るかえると間まもなく、叔父おじはその売捌うりさばき方ほうを真田さなだとかいう懇意こんいの男おとこに依頼いらいした。
この男おとこは書画しょが骨董こっとうの道みちに明るいあかるいとかいうので、平生へいぜいそんなものの売買ばいばいの周旋しゅうせんをして諸方しょほうへ出入でいりするそうであったが、すぐさま叔父おじの依頼いらいを引き受けひきうけて、誰某だれそれが何なんを欲しいほしいと云ういうから、ちょっと拝見はいけんとか、何々なになに氏しがこう云ういう物ものを希望きぼうだから、見せみせましょうとか号しごうして、品物しなものを持っもって行っいったぎり、返しかえして来きない。
催促さいそくすると、まだ先方せんぽうから戻っもどって参りまいりませんからとか何なんとか言訳いいわけをするだけでかつて埒らちの明いあいた試みがなかったが、とうとう持ちもち切れきれなくなったと見えみえて、どこかへ姿すがたを隠しかくしてしまった。
「でもね、まだ屏風びょうぶが一いちつ残っのこっていますよ。この間ま引越ひっこしの時じに、気きがついて、こりゃ宗そうさんのだから、今度こんどついでがあったら届けとどけて上げあげたらいいだろうって、安あんがそう云っいっていましたっけ」 叔母おばは宗助そうすけの預けあずけて行っいった品物しなものにはまるで重きおもきを置いおいていないような、ものの云いいい方ほうをした。
宗助そうすけも今日きょうまで放っはなっておくくらいだから、あまりその方面ほうめんには興味きょうみを有ゆうち得とくなかったので、少しすこしも良心りょうしんに悩まさなやまされている気色けしきのない叔母おばの様子ようすを見みても、別べつに腹はらは立たたたなかった。
それでも、叔母おばが、「宗そうさん、どうせ家いえじゃ使っつかっていないんだから、なんなら持っもっておいでなすっちゃどうです。この頃このごろはああいうものが、大変たいへん価あたいが出でたと云ういう話はなしじゃありませんか」と云っいったときは、実際じっさいそれを持っもって帰るかえる気きになった。
納戸なんどから取り出しとりだして貰っもらって、明るいあかるい所ところで眺めるながめると、たしかに見覚みかくのある二に枚ばい折おりであった。
下したに萩はぎ、桔梗ききょう、芒ぼう、葛くず、女郎花おみなえしを隙間すきまなく描いえがいた上うえに、真丸まんまるな月つきを銀ぎんで出しだして、その横よこの空いむなしいた所ところへ、野路のじや空そら月つきの中なかなる女郎花おみなえし、其その一いちと題しだいしてある。
宗助そうすけは膝ひざを突いついて銀ぎんの色いろの黒くくろく焦げこげた辺へんから、葛くずの葉はの風かぜに裏うらを返しかえしている色いろの乾いかわいた様ようから、大福だいふくほどな大きなおおきな丸いまりい朱しゅの輪廓りんかくの中なかに、抱一ほういつと行書ぎょうしょで書いかいた落款らっかんをつくづくと見みて、父ちちの生きいきている当時とうじを憶い起さおもいおこさずにはいられなかった。
父ちちは正月しょうがつになると、きっとこの屏風びょうぶを薄暗いうすぐらい蔵くらの中なかから出しだして、玄関げんかんの仕切りしきりに立てたてて、その前まえへ紫檀したんの角かくな名な刺入しにゅうを置いおいて、年賀ねんがを受けうけたものである。
その時じはめでたいからと云ういうので、客間きゃくまの床ゆかには必ずかならず虎とらの双幅そうふくを懸けかけた。
これは岸駒がんくじゃない岸きし岱たいだと父ちちが宗助そうすけに云っいって聞かきかせた事ことがあるのを、宗助そうすけはいまだに記憶きおくしていた。
この虎とらの画がには墨すみが着いついていた。
虎とらが舌したを出しだして谷たにの水みずを呑んのんでいる鼻柱はなばしらが少しすこし汚さきたなされたのを、父ちちは苛くむごく気きにして、宗助そうすけを見るみるたびに、御前ごぜんここへ墨すみを塗っぬった事ことを覚えおぼえているか、これは御前ごぜんの小さいちいさい時分じぶんの悪戯いたずらだぞと云っいって、おかしいような恨めしいうらめしいような一種いっしゅの表情ひょうじょうをした。
宗助そうすけは屏風びょうぶの前まえに畏まっかしこまって、自分じぶんが東京とうきょうにいた昔むかしの事ことを考えかんがえながら、「叔母おばさん、じゃこの屏風びょうぶはちょうだいして行きいきましょう」と云っいった。
「ああああ、御ご持ちもちなさいとも。何なんなら使しに持たもたせて上げあげましょう」と叔母おばは好意こういから申し添えもうしそえた。
宗助そうすけは然るしかるべく叔母おばに頼んたのんで、その日ひはそれで切り上げきりあげて帰っかえった。
晩食ばんしょくの後あと御ご米べいといっしょにまた縁側えんがわへ出でて、暗いくらい所ところで白地しろじの浴衣ゆかたを並べならべて、涼みすずみながら、画がの話はなしをした。
「安あんさんには、御ご逢いあいなさらなかったの」と御ご米べいが聞いきいた。
「ああ、安あんさんは土曜どようでも何なんでも夕方ゆうがたまで、工場こうじょうにいるんだそうだ」「随分ずいぶん骨ほねが折れるおれるでしょうね」 御ご米べいはそう云っいったなり、叔父おじや叔母おばの処置しょちについては、一言ひとことの批評ひひょうも加えくわえなかった。
「小六しょうろくの事ことはどうしたものだろう」と宗助そうすけが聞くきくと、「そうね」と云ういうだけであった。
「理窟りくつを云えいえば、こっちにも云いいい分ぶんはあるが、云いいい出せだせば、とどのつまりは裁判さいばん沙汰さたになるばかりだから、証拠しょうこも何なんもなければ勝てるかてる訳わけのものじゃなし」と宗助そうすけが極端きょくたんを予想よそうすると、「裁判さいばんなんかに勝たかたなくたってもいいわ」と御ご米べいがすぐ云っいったので、宗助そうすけは苦笑くしょうしてやめた。
「つまりおれがあの時じ東京とうきょうへ出でられなかったからの事ことさ」「そうして東京とうきょうへ出でられた時じは、もうそんな事ことはどうでもよかったんですもの」 夫婦ふうふはこんな話はなしをしながら、また細いほそい空そらを庇ひさしの下したから覗いのぞいて見みて、明日あすの天気てんきを語り合っかたりあって蚊帳かやに這入っはいった。
次つぎの日曜にちように宗助そうすけは小六しょうろくを呼んよんで、叔母おばの云っいった通りとおりを残らのこらず話しはなして聞かきかせて、「叔母おばさんが御前ごぜんに詳しいくわしい説明せつめいをしなかったのは、短兵急たんぺいきゅうな御前ごぜんの性質せいしつを知っしってるせいか、それともまだ小供こどもだと思っおもってわざと略しりゃくしてしまったのか、そこはおれにも分らわからないが、何しろなにしろ事実じじつは今いま云っいった通りとおりなんだよ」と教えおしえた。
小六しょうろくにはいかに詳しいくわしい説明せつめいも腹はらの足したしにはならなかった。
ただ、「そうですか」と云っいってむずかしい不満ふまんな顔かおをして宗助そうすけを見みた。
「仕方しかたがないよ。叔母おばさんだって、安あんさんだって、そう悪いわるい料簡りょうけんはないんだから」「そりゃ、分っわかっています」と弟おとうとは峻しゅんしい物ものの云いいい方ほうをした。
「じゃおれが悪いわるいって云ういうんだろう。おれは無論むろん悪いわるいよ。昔むかしから今日きょうまで悪いわるいところだらけな男おとこだもの」 宗助そうすけは横よこになって煙草たばこを吹かしふかしながら、これより以上いじょうは何なんとも語らかたらなかった。
小六しょうろくも黙っだまって、座敷ざしきの隅すみに立てたててあった二に枚ばい折おりの抱一ほういつの屏風びょうぶを眺めながめていた。
「御前ごぜんあの屏風びょうぶを覚えおぼえているかい」とやがて兄あにが聞いきいた。
「ええ」と小六しょうろくが答えこたえた。
「一昨いっさく日ひ佐伯さえきから届けとどけてくれた。御ご父さんちちさんの持っもってたもので、おれの手てに残っのこったのは、今いまじゃこれだけだ。これが御前ごぜんの学資がくしになるなら、今いますぐにでもやるが、剥げはげた屏風びょうぶ一いち枚ばいで大学だいがくを卒業そつぎょうする訳わけにも行かいかずな」と宗助そうすけが云っいった。
そうして苦笑くしょうしながら、「この暑いあついのに、こんなものを立てたてて置くおくのは、気狂きちがいじみているが、入れいれておく所ところがないから、仕方しかたがない」と云ういう述懐じゅっかいをした。
小六しょうろくはこの気楽きらくなような、ぐずのような、自分じぶんとは余りあまりに懸け隔たっかけへだたっている兄あにを、いつも物もの足りたりなくは思うおもうものの、いざという場合ばあいに、けっして喧嘩けんかはし得とくなかった。
この時じも急きゅうに癇癪かんしゃくの角かくを折らおられた気味きみで、「屏風びょうぶはどうでも好いよいが、これから先さき僕ぼくはどうしたもんでしょう」と聞き出しききだした。
「それは問題もんだいだ。何しろなにしろことしいっぱいにきまれば好いよい事ことだから、まあよく考えるかんがえるさ。おれも考えかんがえて置こうおこう」と宗助そうすけが云っいった。
弟おとうとは彼かれの性質せいしつとして、そんな中ぶらりんちゅうぶらりんの姿すがたは嫌いやである、学校がっこうへ出でても落ちついおちついて稽古けいこもできず、下した調ちょうも手てにつかないような境遇きょうぐうは、とうてい自分じぶんには堪えこらえられないと云ういう訴うったえを切にせつにやり出しだしたが、宗助そうすけの態度たいどは依然いぜんとして変らかわらなかった。
小六しょうろくがあまり癇かんの高いたかい不平ふへいを並べるならべると、「そのくらいな事ことでそれほど不平ふへいが並べならべられれば、どこへ行っいったって大丈夫だいじょうぶだ。学校がっこうをやめたって、いっこう差支さしつかえない。御前ごぜんの方ほうがおれよりよっぽどえらいよ」と兄あにが云っいったので、話はなしはそれぎり頓挫とんざして、小六しょうろくはとうとう本郷ほんごうへ帰っかえって行っいった。
宗助そうすけはそれから湯ゆを浴びあびて、晩食ばんしょくを済ましすまして、夜よるは近所きんじょの縁日えんにちへ御ご米べいといっしょに出掛けでかけた。
そうして手頃てごろな花物はなものを二に鉢ばち買っかって、夫婦ふうふして一いちつずつ持っもって帰っかえって来きた。
夜露よつゆにあてた方ほうがよかろうと云ういうので、崖下がいかの雨戸あまどを明けあけて、庭先にわさきにそれを二につ並べならべて置いおいた。
蚊帳かやの中なかへ這入っはいった時じ、御ご米べいは、「小六しょうろくさんの事ことはどうなって」と夫おっとに聞くきくと、「まだどうもならないさ」と宗助そうすけは答えこたえたが、十じゅう分ぶんばかりの後あと夫婦ふうふともすやすや寝入っねいった。
翌日よくじつ眼めが覚めさめて役所やくしょの生活せいかつが始まるはじまると、宗助そうすけはもう小六しょうろくの事ことを考えるかんがえる暇ひまを有ゆうたなかった。
家いえへ帰っかえって、のっそりしている時じですら、この問題もんだいを確かく的まと眼めの前まえに描いえがいて明らかあきらかにそれを眺めるながめる事ことを憚かっはばかった。
髪の毛かみのけの中なかに包んつつんである彼かれの脳のうは、その煩わしわずらわしさに堪えこらえなかった。
昔むかしは数学すうがくが好きすきで、随分ずいぶん込み入っこみいった幾何きかの問題もんだいを、頭あたまの中なかで明暸めいりょうな図ずにして見るみるだけの根気こんきがあった事ことを憶い出すおもいだすと、時日じじつの割わりには非常ひじょうに烈しくはげしく来きたこの変化へんかが自分じぶんにも恐ろしくおそろしく映っうつった。
それでも日ひに一度いちどぐらいは小六しょうろくの姿すがたがぼんやり頭あたまの奥おくに浮いういて来るくる事ことがあって、その時じだけは、あいつの将来しょうらいも何なんとか考えかんがえておかなくっちゃならないと云ういう気きも起っおこった。
しかしすぐあとから、まあ急ぐいそぐにも及ぶおよぶまいぐらいに、自分じぶんと打ち消しうちけしてしまうのが常つねであった。
そうして、胸むねの筋すじが一いち本ほん鉤はりに引っ掛っひっかかったような心こころを抱いいだいて、日ひを暮らしくらしていた。
そのうち九きゅう月つきも末すえになって、毎晩まいばん天の河あまのがわが濃くこく見えるみえるある宵よいの事こと、空そらから降っふったように安之助やすのすけがやって来きた。
宗助そうすけにも御ご米べいにも思い掛けおもいかけないほど稀まれな客きゃくなので、二人ふたりとも何なんか用ようがあっての訪問ほうもんだろうと推しおしたが、はたして小六しょうろくに関するかんする件けんであった。
この間ま月島つきしまの工場こうじょうへひょっくり小六しょうろくがやって来きて云ういうには、自分じぶんの学資がくしについての詳しいくわしい話はなしは兄あにから聞いきいたが、自分じぶんも今までいままで学問がくもんをやって来きて、とうとう大学だいがくへ這入れはいれずじまいになるのはいかにも残念ざんねんだから、借金しゃっきんでも何なんでもして、行けるいけるところまで行きいきたいが、何なんか好いよい工夫くふうはあるまいかと相談そうだんをかけるので、安之助やすのすけはよく宗そうさんにも話しはなして見ようみようと答えるこたえると、小六しょうろくはたちまちそれを遮ぎっさえぎって、兄あにはとうてい相談そうだんになってくれる人ひとじゃない。
自分じぶんが大学だいがくを卒業そつぎょうしないから、他ほかも中途ちゅうとでやめるのは当然とうぜんだぐらいに考えかんがえている。
元来がんらい今度こんどの事ことも元もとを糺せただせば兄あにが責任者せきにんしゃであるのに、あの通りとおりいっこう平気へいきなもので、他ほかが何なんを云っいっても取り合っとりあってくれない。
だから、ただ頼りたよりにするのは君きみだけだ。
叔母おばさんに正式せいしきに断わらことわられながら、また君きみに依頼いらいするのはおかしいようだが、君きみの方ほうが叔母おばさんより話はなしが分るわかるだろうと思っおもって来きたと云っいって、なかなか動きうごきそうもなかったそうである。
安之助やすのすけは、そんな事ことはない、宗そうさんも君きみの事ことではだいぶ心配しんぱいして、近いちかいうちまた家いえへ相談そうだんに来るくるはずになっているんだからと慰めなぐさめて、小六しょうろくを帰しかえしたんだと云ういう。
帰るかえるときに、小六しょうろくは袂たもとから半紙はんしを何枚なんまいも出しだして、欠席けっせき届とどけが入用にゅうようだからこれに判はんを押しおしてくれと請求せいきゅうして、僕ぼくは退学たいがくか在学ざいがくか片かたがつくまでは勉強べんきょうができないから、毎日まいにち学校がっこうへ出るでる必要ひつようはないんだと云っいったそうである。
安之助やすのすけは忙がしいいそがしいとかで、一いち時間じかん足らあしらず話しはなして帰っかえって行っいったが、小六しょうろくの所ところ置おけについては、両人りょうにんの間まに具体的ぐたいてきの案あんは別べつに出でなかった。
いずれ緩くゆるくりみんなで寄っよってきめよう、都合つごうがよければ小六しょうろくも列席れっせきするが好かろうよかろうというのが別れるわかれる時じの言葉ことばであった。
二人ふたりになったとき、御ご米べいは宗助そうすけに、「何なんを考えかんがえていらっしゃるの」と聞いきいた。
宗助そうすけは両手りょうてを兵児帯へこおびの間まに挟んはさんで、心持こころもち肩かたを高くたかくしたなり、「おれももう一いち返かえし小六しょうろくみたようになって見みたい」と云っいった。
「こっちじゃ、向むかいがおれのような運命うんめいに陥るおちいるだろうと思っおもって心配しんぱいしているのに、向むかいじゃ兄貴あにきなんざあ眼中がんちゅうにないから偉いえらいや」 御ご米べいは茶器ちゃきを引いひいて台所だいどころへ出でた。
夫婦ふうふはそれぎり話はなしを切り上げきりあげて、また床ゆかを延べのべて寝ねた。
夢ゆめの上うえに高いたかい銀河ぎんがが涼しくすずしく懸っかかった。
次つぎの週間しゅうかんには、小六しょうろくも来きず、佐伯さえきからの音信おんしんもなく、宗助そうすけの家庭かていはまた平日へいじつの無事ぶじに帰っかえった。
夫婦ふうふは毎朝まいあさ露ろに光るひかる頃ころ起きおきて、美しいうつくしい日ひを廂ひさしの上うえに見みた。
夜よるは煤竹すすたけの台だいを着けつけた洋灯ようとうの両側りょうがわに、長いながい影かげを描いえがいて坐っすわっていた。
話はなしが途切れとぎれた時じはひそりとして、柱時計はしらとけいの振子しんしの音おとだけが聞えるきこえる事ことも稀まれではなかった。
それでも夫婦ふうふはこの間まに小六しょうろくの事ことを相談そうだんした。
小六しょうろくがもしどうしても学問がくもんを続けるつづける気きなら無論むろんの事こと、そうでなくても、今いまの下宿げしゅくを一時いちじ引き上げひきあげなければならなくなるのは知れしれているが、そうすればまた佐伯さえきへ帰るかえるか、あるいは宗助そうすけの所ところへ置くおくよりほかに途とはない。
佐伯さえきではいったんああ云いいい出しだしたようなものの、頼んたのんで見みたら、当分とうぶん宅たくへ置くおくぐらいの事ことは、好意こうい上うえしてくれまいものでもない。
が、その上うえ修業しゅぎょうをさせるとなると、月謝げっしゃ小遣こづかいその他ほかは宗助そうすけの方ほうで担任たんにんしなければ義理ぎりが悪いわるい。
ところがそれは家計かけい上うえ宗助そうすけの堪えるこたえるところでなかった。
月々つきづきの収支しゅうしを事細かことこまかに計算けいさんして見みた両人りょうにんは、「とうてい駄目だめだね」「どうしたって無理むりですわ」と云っいった。
夫婦ふうふの坐っすわっている茶の間ちゃのまの次つぎが台所だいどころで、台所だいどころの右みぎに下女げじょ部屋へや、左ひだりに六ろく畳たたみが一いち間まある。
下女げじょを入れいれて三さん人ひとの小しょう人数にんずうだから、この六ろく畳たたみには余りあまり必要ひつようを感じかんじない御ご米べいは、東向ひがしむきの窓側まどがわにいつも自分じぶんの鏡台きょうだいを置いおいた。
宗助そうすけも朝あさ起きおきて顔かおを洗っあらって、飯めしを済ますすますと、ここへ来きて着物きものを脱ぎぬぎ更さらえた。
「それよりか、あの六ろく畳たたみを空けあけて、あすこへ来きちゃいけなくって」と御ご米べいが云いいい出しだした。
御ご米べいの考えかんがえでは、こうして自分じぶんの方ほうで部屋へやと食物しょくもつだけを分担ぶんたんして、あとのところを月々つきづきいくらか佐伯さえきから助すけて貰っもらったら、小六しょうろくの望みのぞみ通りとおり大学卒業だいがくそつぎょうまでやって行かいかれようと云ういうのである。
「着物きものは安あんさんの古いふるいのや、あなたのを直しなおして上げあげたら、どうかなるでしょう」と御ご米べいが云いいい添えそえた。
実じつは宗助そうすけにもこんな考かんがえが、多少たしょう頭あたまに浮かんうかんでいた。
ただ御ご米べいに遠慮えんりょがある上うえに、それほど気きが進ますすまなかったので、つい口くちへ出さださなかったまでだから、細君さいくんからこう反対はんたいに相談そうだんを掛けかけられて見るみると、固よりもとよりそれを拒むこばむだけの勇気ゆうきはなかった。
小六しょうろくにその通りとおりを通知つうちして、御前ごぜんさえそれで差支さしつかえなければ、おれがもう一遍いちぺん佐伯さえきへ行っいって掛合っかけあって見るみるがと、手紙てがみで問い合せるといあわせると、小六しょうろくは郵便ゆうびんの着いついた晩ばん、すぐ雨あめの降るふる中なかを、傘かさに音おとを立てたててやって来きて、もう学資がくしができでもしたように嬉しうれしがった。
「何なん、叔母おばさんの方ほうじゃ、こっちでいつまでもあなたの事ことを放り出しほうりだしたまんま、構わかまわずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんあにさんだって、もう少しすこし都合つごうが好けれよければ、疾うとうにもどうにかしたんですけれども、御存じごぞんじの通りとおりだから実際じっさいやむを得とくなかったんですわ。しかしこっちからこう云っいって行けいけば、叔母おばさんだって、安あんさんだって、それでも否いなだとは云わいわれないわ。きっとできるから安心あんしんしていらっしゃい。私わたくし受合ううけあうわ」 御ご米べいにこう受合っうけあって貰っもらった小六しょうろくは、また雨あめの音おとを頭あたまの上うえに受けうけて本郷ほんごうへ帰っかえって行っいった。
しかし中なか一日いちにち置いおいて、兄さんあにさんはまだ行かいかないんですかと聞きききに来きた。
また三さん日ひばかり過ぎすぎてから、今度こんどは叔母おばさんの所ところへ行っいって聞いきいたら、兄さんあにさんはまだ来きないそうだから、なるべく早くはやく行くいくように勧めすすめてくれと催促さいそくして行っいった。
宗助そうすけが行くいく行くいくと云っいって、日ひを暮らしくらしているうちに世の中よのなかはようやく秋あきになった。
その朗らかほがらかな或ある日曜にちようの午後ごごに、宗助そうすけはあまり佐伯さえきへ行くいくのが後れるおくれるので、この要件ようけんを手紙てがみに認めみとめて番町ばんちょうへ相談そうだんしたのである。
すると、叔母おばから安之助やすのすけは神戸こうべへ行っいって留守るすだと云ういう返事へんじが来きたのである。
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