坑夫

その一人が、まぐれ当りに自分に廻り合せると云う運勢をもって生れて来なくっちゃ、とても商売にならないはずだ。だから大川端で眼の下三尺の鯉を釣るよりもよっぽどの根気仕事だと、始めから腰を据えてかかるのが当然なんだが、長蔵さんはとんとそんな自覚は無用だと云わぬばかりの顔をして、これが世間もっとも普通の商売であると社会から公認されたような態度で、わるびれずに往来の男を捉まえる。するとその捉まえられた男が、不思議な事に、一も二もなく、すぐにうんと云う。何となくこれが世間もっとも普通の商売じゃあるまいかと疑念を起すように成功する。これほど成功する商売なら、日本に一人じゃとても間に合わない、幾人あっても差支ないと云う気になる。――当人は無論そう思ってるんだろう。自分もそう思った。

第 3 章
この呑気のんきな長蔵ちょうぞうさんと、さらに呑気のんきな小僧こぞうに赤毛あかげ布ぬのと、それから見み様よう見真似みまねで、大いにおおいに呑気のんきになりかけた自分じぶんと、都合つごう四よん人ひとで橋向うはしむこうの小路こうじを左ひだりへ切れきれた。
これから川かわに沿っそって登りのぼりになるんだから、気きをつけるが好いよいと云ういう注意ちゅういを受けうけた。
自分じぶんは今いま芋いもを食っしょくったばかりだから、もう空腹くうふくじゃない。
足あしは昨夕さくゆうから歩きあるき続けつづけで草臥れくたびれてはいるが、あるけばまだ歩けるあるける。
そこで注意ちゅういの通りとおり、なるべく気きをつけて、長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのの後あとを跟けつけて行っいった。
路みちがあまり広くひろくないので四よん人ひとは一行いっこうに並べならべない。
だから後あとを跟けるつける事ことにした。
小僧こぞうは小さいちいさいからこれも一足いっそく後れおくれて、自分じぶんと摺々すりくらいになって食っしょくっついてくる。
自分じぶんは腹はらが重いおもいのと、足あしが重いおもいのとの両方りょうほうで、口くちを利くきくのが厭いやになった。
長蔵ちょうぞうさんも橋はしを渡っわたってから以後いごとんと御前ごぜんさんを使わつかわなくなった。
赤毛あかげ布ぬのはさっき一いち膳ぜん飯屋めしやの前まえで談判だんぱんをした時じから、余りあまり多弁たべんではなかったが、どう云ういうものかここに至っいたってますます無口むくちとなっちまった。
小僧こぞうの無口むくちはさらにはなはだしかった。
穿いはいている冷飯ひやめし草履ぞうりがぴちゃぴちゃ鳴るなるばかりである。
こう、みんな黙っだまってしまうと、山路やまじは静かしずかなものである。
ことに夜よるだからなお淋しいさびしい。
夜よると云っいったって、まだ日ひが落ちおちたばかりだから、歩いあるいてる道みちだけはどうか、こうか分るわかる。
左手ひだりてを落ちおちて行くいく水みずが、気きのせいか、少しすこしずつ光っひかりって見えるみえる。
もっともきらきら光るひかるんじゃない。
なんだか、どす黒くどすぐろく動くうごく所ところが光るひかるように見えるみえるだけだ。
岩いわにあたって砕けるくだける所ところは比較的ひかくてき判然はんぜんと白くしろくなっている。
そうしてその声こえがさあさあと絶え間たえまなくする。
なかなかやかましい。
それでなかなか淋しいさびしい。
その中なか細いほそい道みちが少しすこしずつ、上りのぼりになるような気持きもちがしだした。
上りのぼりだけならこのくらいな事ことはそう骨ほねは折れおれないんだが、路みちが何なんだか凸凹でこぼこする。
岩いわの根ねが川かわの底そこから続いつづいて来きて、急きゅうに地面じめんの上うえへ出でたり、引っ込んひっこんだりするんだろう。
この凸凹でこぼこに下駄げたを突っ掛けるつっかける。
烈しいはげしいときは内臓ないぞうが飛び上がるとびあがるようになる。
だいぶ難義なんぎになって来きた。
長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのは山路やまじに馴れなれていると見えみえて、よくも見えみえない木下きのした闇やみを、すたすた調子ちょうしよくあるいて行くいく。
これは仕方しかたがないが、小僧こぞうが――この小僧こぞうは実際じっさい物騒ぶっそうである。
冷飯ひやめし草履ぞうりをぴしゃぴしゃ云わしいわして、暗いくらい凸凹でこぼこを平気へいきに飛び越しとびこして行くいく。
しかも全くまったく無言むごんである。
昼間ひるまならさほどにも思わおもわないんだが、この際さいだから、薄暗いうすぐらい中なかでぴしゃりぴしゃりと草履ぞうりの尻しりの鳴るなるのが気きになる。
何なんだか蝙蝠かわほりといっしょに歩いあるいてるようだ。
そのうち路みちがだんだん登りのぼりになる。
川かわはいつしか遠くとおくなる。
呼息こそくが切れるきれる。
凸凹でこぼこはますます烈しくはげしくなる。
耳みみががあんと鳴っなって来きた。
これが駆落かけおちでなくって、遠足えんそくなら、よほど前まえから、何なんとか文句もんくをならべるんだが、根ねが自殺じさつの仕し損いそこないから起っおこった自滅じめつの第だい一いち着きなんだから、苦しくくるしくっても、辛くつらくっても、誰だれに難題なんだいを持ち掛けるもちかける訳わけにも行かいかない。
相手あいては誰だれだと云えいえば、自分じぶんよりほかに誰だれもいやしない。
よしいたって、こだわるだけの勇気ゆうきはない。
その上うえ先方せんぽうは相手あいてになってくれないほど平気へいきである。
すたすた歩いあるいて行くいく。
口くちさえ利かりかない。
まるで取附とりふ端はしがない。
やむを得とくず呼吸こきゅうを切らしきらして、耳みみをがあんと鳴らしならして、黙っだまって後あとから神妙しんみょうに尾おいて行くいく。
神妙しんみょうと云ういう字じは子供こどもの時じから覚えおぼえていたんだが、神妙しんみょうの意味いみを悟っさとったのはこの時じが始めはじめてである。
もっともこれが悟りさとり始めはじめの悟りさとりじまいだと笑い話わらいばなしにもなるが、一度いちど悟りさとり出しだしたら、その悟りさとりがだいぶ長いながい事こと続いつづいて、ついに鉱山こうざんの中なかで絶ぜっ高こう頂いただきに達したっしてしまった。
神妙しんみょうの極きょくに達するたっすると、出るでるべき涙なみださえ遠慮えんりょして出でないようになる。
涙なみだがこぼれるほどだと譬たとえに云ういうが、涙なみだが出るでるくらいなら安心あんしんなものだ。
涙なみだが出るでるうちは笑うわらう事ことも出来るできるにきまってる。
不思議ふしぎな事ことにこれほど神妙しんみょうにあてられたものが、今いまはけろりとして、一切いっさい神妙しんみょう気きを出さださないのみか、人ひとからは横着おうちゃく者もののように思わおもわれている。
その時じ御世話ごせわになった長蔵ちょうぞうさんから見みたら、定めしさだめし増長ぞうちょうした野郎やろうだと思うおもう事ことだろう。
がまた今いまの朋友ほうゆうから評するひょうすると、昔むかしは気の毒きのどくだったと云っいってくれるかも知れしれない。
増長ぞうちょうしたにしても気の毒きのどくだったにしても構わかまわない。
昔むかしは神妙しんみょうで今いまは横着おうちゃくなのが天然てんねん自然しぜんの状態じょうたいである。
人間にんげんはこうできてるんだから致し方いたしかたがない。
夏なつになっても冬ふゆの心こころを忘れわすれずに、ぶるぶる悸えていろったって出来できない相談そうだんである。
病気びょうきで熱ねつの出でた時じ、牛肉ぎゅうにくを食わくわなかったから、もう生涯しょうがいロースろーすの鍋なべへ箸はしを着けつけちゃならんぞと云ういう命令めいれいはどんな御ご大名だいみょうだって無理むりだ。
咽喉元のどもと過すぎぐれば熱ねつさを忘れるわすれると云っいって、よく、忘れわすれては怪しからあやしからんように持ち掛けもちかけてくるが、あれは忘れるわすれる方ほうが当り前あたりまえで、忘れわすれない方ほうが嘘うそである。
こう云ういうと詭弁きべんのように聞えるきこえるが、詭弁きべんでもなんでもない。
正直しょうじき正銘しょうめいのところを云ういうんである。
いったい人間にんげんは、自分じぶんを四よん角張っかくばった不ふ変体へんたいのように思い込みおもいこみ過ぎすぎて困るこまるように思うおもう。
周囲しゅういの状況じょうきょうなんて事ことを眼中がんちゅうに置かおかないで、平押ひらおしに他人たにんを圧しおしつけたがる事ことがだいぶんある。
他人たにんなら理窟りくつも立つたつが、自分じぶんで自分じぶんをきゅきゅ云ういう目めに逢わあわせて嬉しうれしがってるのは聞えきこえないようだ。
そう一本調子いちぽんちょうしにしようとすると、立体りったい世界せかいを逃げにげて、平面へいめん国くにへでも行かいかなければならない始末しまつが出来できてくる。
むやみに他人たにんの不信ふしんとか不義ふぎとか変心へんしんとかを咎めとがめて、万事ばんじ万端ばんたん向うむこうがわるいように噪ぎ立てるさわぎたてるのは、みんな平面へいめん国くにに籍せきを置いおいて、活版かっぱんに印刷いんさつした心こころを睨んにらんで、旗はたを揚げるあげる人ひと達とおるである。
御嬢ごじょうさん、坊っぼっちゃん、学者がくしゃ、世間せけん見みず、御ご大名だいみょう、にはこんなのが多くおおくて、話はなしが分りわかり悪くわるくって、困るこまるもんだ。
自分じぶんもあの時じ駆落かけおちをしずに、可愛らしいかわいらしい坊ぼうちゃんとしておとなしく成人せいじんしたなら、――自分じぶんの心こころの始終しじゅう動いうごいているのも知らしらずに、動かうごかないもんだ、変らかわらないもんだ、変っかわっちゃ大変たいへんだ、罪悪ざいあくだなどとくよくよ思っおもって、年ねんを取っとったら――ただ学問がくもんをして、月給げっきゅうをもらって、平和へいわな家庭かていと、尋常じんじょうな友達ともだちに満足まんぞくして、内省ないせいの工夫くふうを必要ひつようと感ずるかんずるに至らいたらなかったら、また内省ないせいができるほどの心機しんき転換てんかんの活かつ作用さように見参けんざんしなかったならば――あらゆる苦痛くつうと、あらゆる窮迫きゅうはくと、あらゆる流転るてんと、あらゆる漂泊ひょうはくと、困憊こんぱいと、懊悩おうのうと、得喪とくそうと、利害りがいとより得とくたこの経験けいけんと、最後さいごにこの経験けいけんをもっとも公明こうめいに解剖かいぼうして、解剖かいぼうしたる一々いちいちを、一々いちいちに批判ひはんし去るさる能力のうりょくがなかったなら――ありがたい事ことに自分じぶんはこの至大しだいなる賚を有っあっている、――すべてこれらがなかったならば、自分じぶんはこんな思い切っおもいきった事ことを云やいやしない。
いくら思い切っおもいきった事ことを云っいったって自慢じまんにゃならない。
ただこの通りとおりだからこの通りとおりだと云ういうまでである。
その代りかわり昔むかしし神妙しんみょうなものが、今いま横着おうちゃくになるくらいだから、今いまの横着おうちゃくがいつ何時なんじまた神妙しんみょうにならんとは限らかぎらない。
――抜けぬけそうな足あしを棒ぼうのように立てたてて聞くきくと、がんと鳴っなってる耳みみの中なかへ、遠くとおくからさあさあ水音みずおとが這入っはいってくる。
自分じぶんはますます神妙しんみょうになった。
この状態じょうたいでだいぶ来きた。
何なん里さとだか見当けんとうのつかないほど来きた。
夜道よみちだから平生へいぜいよりは、ただでさえ長くながく思わおもわれる上うえへ持っもってきて、凸凹でこぼこの登りのぼりを膨ぼうっ脛すねが腫れはれて、膝頭ひざがしらの骨ほねと骨ほねが擦れ合っこすれあって、股またが地面じめんへ落ちおちそうに歩くあるくんだから、長いながいの、長くながくないのって――それでも、生きいきてる証拠しょうこには、どうか、こうか、長蔵ちょうぞうさんの尻しりを五六ごろく間まと離れはなれずに、やって来きた。
これはただ神妙しんみょうに自己じこを没却ぼっきゃくした諦たいの体たらくていたらくから生じしょうじた結果けっかではない。
五六ごろく間ま以上いじょう後れるおくれると、長蔵ちょうぞうさんが、振り返っふりかえって五六ごろく歩あゆみずつは待合まちあいしてくれるから、仕方なししかたなしに追いつくおいつくと、追いつかおいつかない先さきに向うむこうはまた歩きあるき出すだすんで、やむを得とくずだらだら、ちびちびに自己じこを奮興させた成行なりゆきに過ぎすぎない。
それにしても長蔵ちょうぞうさんは、よく後あとが見えみえたもんだ。
ことに夜中よなかである。
右みぎも左ひだりも黒いくろい木きが空そらを見事みごとに突っ切っつっきって、頭あたまの上うえは細くほそく上うえまで開いひらいているなと、仰向いあおむいた時じ、始めはじめて勘づくかんづくくらいな暗いくらい路みちである。
星明りほしあかりと云ういうけれど、あまり便びんにゃならない。
提灯ちょうちんなんか無論むろん持ち合せようもちあわせようはずがない。
自分じぶんの方ほうから云ういうと、先さきへ行くいく赤毛あかげ布ぬのが目標もくひょうである。
夜よるだから赤くあかくは見えみえないが、何なんだか赤毛あかげ布ぬのらしく思わおもわれる。
明るいあかるいうちから、あの毛布もうふ、あの毛布もうふと御ご題目だいもくのように見詰めみつめて覘をつけて来きたせいで、日ひが暮れくれて、突然とつぜんの眼めには毛布もうふだか何なんだか分らわからないところを、自分じぶんだけにはちゃんと赤毛あかげ布ぬのに見えるみえるんだろう。
信心しんじんの功徳くどくなんてえのは大方おおかたこんなところから出るでるに違いない。
自分じぶんはこう云ういう訳わけで、どうにか目標もくひょうだけはつけて置いおいたようなものの、長蔵ちょうぞうさんに至っいたっては、どのくらいあとから自分じぶんが跟いてくるか分りわかりようがない。
ところをちゃんと五六ごろく間ま以上いじょうになると留まっとまってくれる。
留まっとまってくれるんだか、留まるとまる方ほうが向うむこうの勝手かってなんだか、判然はんぜんしないが、とにかく留まるとまることはたしかだった。
とうてい素人しろうとにゃできない芸げいである。
自分じぶんは苦しいくるしいうちにも、これが長蔵ちょうぞうさんの商売しょうばいに必要ひつような芸げいで、長蔵ちょうぞうさんはこの芸げいを長いながい間ま練習れんしゅうして、これまでに仕上げしあげたんだなと、少すくなからず感心かんしんした。
赤毛あかげ布ぬのは長蔵ちょうぞうさんと並んならんでいるんだから、長蔵ちょうぞうさんさえ留まれとまればきっととまる。
長蔵ちょうぞうさんが歩きあるき出せだせば必ずかならず歩きあるき出すだす。
まるで人形にんぎょうのように活動かつどうする男おとこであった。
ややともすると後れおくれ勝ちかちの自分じぶんよりはこの赤毛あかげ布ぬのの方ほうが遥はるかに取り扱いとりあつかいやすかったに違いない。
小僧こぞうは――例れいの小僧こぞうは消えきえて無くなっなくなっちまった。
始めはじめのうちこそ小僧こぞうだから後あとになるんだろうと思っおもって、草臥れくたびれたら励ましはげましてやろうくらいの了簡りょうけんがあったんだが、かの冷飯ひやめし草履ぞうりをぴしゃりぴしゃりと鳴らしならしながら凸凹でこぼこ路みちを飛び跳ねとびはねて進行しんこうする有様ありさまを目撃もくげきしてから、こりゃ敵わかなわないと覚悟かくごをしたのは、よっぽど前まえの事ことである。
それでもしばらくの間まはぴしゃりぴしゃりが自分じぶんの袖そでと擦れ擦れすれすれくらいになって、登っのぼって来きたが、今いまじゃもう自分じぶんの近所きんじょには影かげさえなくなった。
並んならんで歩くあるくうちは、あまり小僧こぞうの癖くせに活溌かっぱつにあるくんで――活溌かっぱつだけならいいが、活溌かっぱつの上うえに非常ひじょうに沈黙ちんもくなんで――、随分ずいぶん物騒ぶっそうな心持ちこころもちだった。
もし笑うわらうなら、極めてきわめて小さくちいさくって、非常ひじょうに活溌かっぱつで、そうして口くちを利かりかない動物どうぶつを想像そうぞうして見るみると分るわかる。
滅多めったにありゃしない。
こんな動物どうぶつといっしょに夜よる山越やまごえをしたとすると、誰だれだって物騒ぶっそうな気持きもちになる。
自分じぶんはこの時じこの小僧こぞうの事ことを今いま考えかんがえても、妙みょうな感じかんじが出でて来るくる。
さっき蝙蝠かわほりのようだと云っいったが、全くまったく蝙蝠かわほりだ。
長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのがいたから、好いよいようなものの、蝙蝠かわほりとたった二人ふたり限かぎりだったら――正直しょうじきなところ降参こうさんする。
すると長蔵ちょうぞうさんが、暗闇くらやみの中なかで急きゅうに、「おおい」と声こえを揚げあげた。
淋しいさびしい夜道よみちで、急きゅうに人声ひとごえを聞いきいた人ひとがあるかないか知らしらないが、聞いきいて見るみるとちょっと異ないな感じかんじのするものだ。
それも普通ふつうの話し声はなしごえなら、まだ好いよいが、おおいと人ひとを呼ぶよぶ奴やつは気味きみがよくない。
山路やまじで、黒闇こくあんで、人ひとっ子っこ一人ひとり通らとおらなくって、御負おまけに蝙蝠かわほりなんぞと道伴どうともになって、いとど物騒ぶっそうな虚うつろに乗じじょうじて、長蔵ちょうぞうさんが事ことありげに声こえを揚げあげたんである。
事ことのあるべきはずでない時じで、しかも事ことがありかねまじき場所ばしょでおおいと来きたんだから、突然とつぜんと予期よきが合体がったいして、自分じぶんの頭あたまに妙みょうな響ひびきを与えあたえた。
この声こえが自分じぶんを呼んよんだんなら、何なんか起っおこったなとびくんとするだけで済むすむんだが、五六ごろく間ま後あとから行くいく自分じぶんの注意ちゅういを惹くひくためとは受取れうけとれないほど大きかっおおきかった。
かつ声こえの伝わっつたわって行くいく方角ほうがくが違うちがう。
こっちを向いむかいた声こえじゃない。
おおいと右左みぎひだりりに当っあたったが、立ち木たちぎに遮らさえぎられて、細いほそい道みちを向うむこうの方ほうへ遠くとおく逃げのびにげのびて、遥はるかの先さきでおおいと云ういう反響はんきょうがあった。
反響はんきょうはたしかにあったが、返事へんじはないようだ。
すると長蔵ちょうぞうさんは、前まえより一層いっそう大きなおおきな声こえを出しだして、「小僧こぞうやあ」と呼んよんだ。
今いま考えるかんがえると、名前なまえも知らしらないで、小僧こぞうやあと呼ぶよぶなんて少しすこしとぼけているがその時じはなかなかとぼけちゃいなかった。
自分じぶんはこの声こえを聞くきくと同時どうじに蝙蝠かわほりが隠れかくれたんだなと気きがついた。
先さきへ行っいったと思うおもうのが当り前あたりまえで、まかり間違っまちがっても逃げにげたと鑑定かんていをつけべきはずだのに、隠れかくれたんだとすぐ胸先むなさきへ浮んうかんで来きたのは、よっぽど蝙蝠かわほりに祟らたたられていたに違いない。
この祟たたりは翌朝よくあさになって太陽たいようが出でたらすっかり消えきえてしまって、自分じぶんで自分じぶんを何なんて馬鹿ばかだろうと思っおもったくらいだが、実際じっさい小僧こぞうやあの呼び声よびごえを聞いきいた時じは、ちょっと烈しくはげしく来きた。
ところがまた反響はんきょうが例れいのごとく向うむこうへ延びのびて、突き当りつきあたりがないもんだから、人魂ひとだまの尻尾しっぽのように、幽かかすかに消えきえて、その反動はんどうか、有らあらん限りかぎりの木きも山やまも谷たにもしんと静まっしずまった時じ、――何なんとも返事へんじがない。
この反響はんきょうが心細くこころぼそく継続けいぞくりながら消えきえて行くいく間ま、消えきえてから、すべての世界せかいがしんと静まり返るしずまりかえるまで、長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのと自分じぶんと三さん人ひとが、暗闇くらやみに鼻はなを突き合せつきあわせて黙っだまって立ったっていた。
あんまり好いよい心持こころもちじゃなかった。
やがて、長蔵ちょうぞうさんが、「少しすこし急いいそいだら、追っつくおっつくべえ。御前ごぜんさん好いよいかね」と云っいった。
無論むろん好くよくはないが、仕方しかたがないから承知しょうちをして、急ぎいそぎ出しだした。
元来がんらいこの場ばに臨んのぞんで急ぐいそぐなんて生意気なまいきな事ことができるはずがないんだが、そこが妙みょうなもので、急ぐいそぐ気きも、急ぐいそぐ力ちからもない癖くせに受合っうけあっちまった。
定めしさだめし変へんな顔かおをして受合っうけあったんだろうが、受合っうけあったら急げいそげても、急げいそげないでもむちゃくちゃに急いいそいでしまった。
この間まはどこをどんな具合ぐあいに通っとおったか、まあ断然だんぜん知らしらないと云っいった方ほうが穏当おんとうだろう。
やがて長蔵ちょうぞうさんがぴたりと留っとめったんで、ふと気きがついた。
すると一いちつ家いえの前まえへ出でている。
ランプらんぷが点いついている。
ランプらんぷの灯あかりが往来おうらいへ映っうつっている。
はっと嬉しかっうれしかった。
赤毛あかげ布ぬのがありあり見えるみえる。
そうして小僧こぞうもいる。
小僧こぞうの影かげが往来おうらいを横よこに切っきって向うむこうの谷たにへ折れ込んおれこんでいる。
小僧こぞうにしては長いながい影かげだ。
自分じぶんはこんな所ところに人ひとの住むすむ家いえがあろうとはまるで思いがけおもいがけなかったし、その上眼うわめがくらんで、耳みみが鳴っなって、夢中むちゅうに急いいそいで、どこまで急ぐいそぐんだかあても希望きぼうもなくやって来きて、ぴたりと留まるとまるや否いなや、ランプらんぷの灯あかりがまぶしいように眼めに這入っはいって来きたんだから、驚いおどろいた。
驚くおどろくと共ともにランプらんぷの灯あかりは人間にんげんらしいものだとつくづく感心かんしんした。
ランプらんぷがこんなにありがたかった事ことは今日きょうまでまだかつてない。
後あとから聞いきいたら小僧こぞうはこのランプらんぷの灯あかりまで抜けぬけ掛かかりをして、そこで自分じぶん達とおるを待っまってたんだそうだ。
おおいと云ういう声こえも小僧こぞうやあと云ういう声こえも聞えきこえたんだが返事へんじをしなかったと云ういう話しはなしだ。
偉いえらい奴やつだ。
同勢どうぜいはこれでようやく揃っそろったが、この先このさきどうなる事ことだろうと思いおもいながら、相そう変らかわらず神妙しんみょうにしていると、長蔵ちょうぞうさんは自分じぶん達とおるを路傍ろぼうに置きおきっ放しっぱなしにして、一人ひとりで家いえの中なかへ這入っはいって行っいった。
仕方しかたがないから家いえと云ういうが、実じつのところは、家いえじゃもったいない。
牛うしさえいれば牛小屋うしこやで馬うまさえ嘶けいななけば馬小屋うまこやだ。
何なんでも草鞋わらじを売るうる所ところらしい。
壁かべと草鞋わらじとランプらんぷのほかに何になんにもないから、自分じぶんはそう鑑定かんていした。
間口まぐちは一間いちけんばかりで、入口いりぐちの雨戸あまどが半分はんぶんほど閉へいててある。
残るのこる半分はんぶんは夜っぴてよっぴて明けあけて置くおくんじゃないかしら。
ことによると、敷居しきいの溝みぞに食い込んくいこんだなり動かうごかないのかも知れしれない。
屋根やねは無論むろん藁葺わらぶきで、その藁わらが古くふるくなって、雨あめに腐やけたせいか、崩れくずれかかって漠然ばくぜんとしている。
夜よると屋根やねの継目つぎめが分らわからないほど、ぶくついて見えるみえる。
その中なかへ長蔵ちょうぞうさんは這入っはいって行っいった。
なんだか穴あなの中なかへでも潜り込んもぐりこんで行っいったような心持こころもちだった。
そうして話しはなしている。
三さん人ひとは表ひょうに待っまっている。
自分じぶんの顔かおは見えみえないが、赤毛あかげ布ぬのと小僧こぞうの顔かおは、小屋こやの中なかから斜しゃに差しさしてくるランプらんぷの灯あかりでよく見えるみえる。
赤毛あかげ布ぬのは依然いぜんとして、散漫さんまんなものである。
この男おとこはたとい地震じしんがゆって、梁りょうが落ちおちて来きても、親おやの死目しにめに逢うあうか、逢わあわないかと云ういう大事だいじな場合ばあいでも、いつでも、こんな顔かおをしているに違いない。
小僧こぞうは空そらを見みている。
まだ物騒ぶっそうだ。
ところへ長蔵ちょうぞうさんがあらわれた。
しかし往来おうらいへは出でて来きない。
敷居しきいの上うえへ足あしを乗せのせて、こっちを向いむかいて立ったった股倉またぐらから、ランプらんぷの灯あかりだけが細長くほそながく出でて来るくる。
ランプらんぷの位置いちがいつの間まにか低くひくくなったと見えるみえる。
長蔵ちょうぞうさんの顔かおは無論むろんよく分らわからない。
「御前ごぜんさん、これから山越やまごえをするのは大変たいへんだから、今夜こんやはここへ泊っとまって行こういこう。みんな這入るはいるがいい」 自分じぶんはこの言葉ことばを聞くきくと等しくひとしく、今までいままでの神妙しんみょうが急きゅうに破裂はれつして、身体しんたいがぐたりとなった。
この牛小屋うしこやで一夜いちやを明すあかす事ことが、それほどの慰藉いしゃを自分じぶんに与えようあたえようとは、牛小屋うしこやを見みた今いまが今までいままで、とんと気きがつかなかった。
やはり神妙しんみょうの結果けっか泊るとまる所ところが見つかっみつかっても、泊るとまる気きが起らおこらなかったんだろう。
こうなると人間にんげんほど御しぎょしやすいものはない。
無理むりでも何なんでもはいはい畏まっかしこまって聞いきいて、そうして少しすこしも不平ふへいを起さおこさないのみか大におおいに嬉しうれしがる。
当時とうじを思い出すおもいだすたびに、自分じぶんはもっとも順良じゅんりょうなまたもっとも励精な人間にんげんであったなと云ういう自信じしんが伴っともなってくる。
兵隊へいたいはああでなくっちゃいけないなどと考えるかんがえる事ことさえある。
同時どうじに、もし人間にんげんが物ものの用ようを無視むしし得るうるならば、かねて物ものの用ようをも忘れわすれ得るうるものだと云ういう事ことも悟っさとった。
――こう書いかいて見みたが、読み直すよみなおすと何なんだかむずかしくって解らわからない。
実じつを云ういうと、もっとずっとやさしいんだが、短くみじかく詰めるつめるものだからこんなにむずかしくなっちまった。
例えばたとえば酒さけを飲むのむ権利けんりはないと自信じしんして、酒さけの徳とくを、あれどもなきがごとくに見做すみなす事ことさえできれば、徳利とっくりが前まえに並んならんでも、酒さけは飲むのむものだとさえ気きがつかずにいるくらいなところである。
御ご互たがいが泥棒どろぼうにならずに済むすむのも、つまりを云えいえば幼少ようしょうの時じから、人工的じんこうてきにこの種しゅの境界きょうかいに馴らさならされているからの事ことだろう。
が一方いっぽうから云ういうと、こんな境界きょうかいは人性じんせいの一部分いちぶぶんを麻痺まひさした結果けっかとしてでき上るできあがるもんだから、図ずに乗っのってきゅきゅ押しおして行くいくと、人間にんげんがみんな馬鹿ばかになっちまう。
まあ泥棒どろぼうさえしなければ好いよいとして、その他ほかの精神せいしん器械きかいは残らのこらず相応そうおうに働くはたらく事ことができるようにしてやるのが何なんよりの功徳くどくだと愚考ぐこうする。
自分じぶんが当時とうじの自分じぶんのままで、のべつに今日きょうまで生きいきていたならば、いかに順良じゅんりょうだって、いかに励精だって、馬鹿ばかに違いない。
だれの眼めから見みたって馬鹿ばか以上いじょうの不具ふぐだろう。
人間にんげんであるからは、たまには怒るおこるがいい。
反抗はんこうするがいい。
怒るおこるように、反抗はんこうするようにできてるものを、無理むりに怒らおこらなかったり、反抗はんこうしなかったりするのは、自分じぶんで自分じぶんを馬鹿ばかに教育きょういくして嬉しうれしがるんだ。
第だい一いち身体しんたいの毒どくである。
それを迷惑めいわくだと云ういうなら、怒らおこらせないように、反抗はんこうさせないように、御膳立ごぜんだてをするが至当しとうじゃないか。
自分じぶんは当時とうじ種々しゅじゅの状況じょうきょうで、万事ばんじ長蔵ちょうぞうさんの云ういう通りとおりはいはい云っいっていたし、またそのはいはいを自然しぜんと思いおもいもするが、その代りかわり、今いまのような身分みぶんにいるからは、たとい百ひゃくの長蔵ちょうぞうさんが、七なな日ひ七なな晩ばん引っ張りひっぱりつづけに引っ張っひっぱったってちょっとも動きゃうごきゃしない。
今いまの自分じぶんにはこの方ほうが自然しぜんだからである。
そうしてこう変るかわるのが人間にんげんたるところだと思っおもってる。
分りわかりやすいように長蔵ちょうぞうさんを引合ひきあいに出しだしたが、よく調べしらべて見るみると、人間にんげんの性格せいかくは一いち時間じかんごとに変っかわっている。
変るかわるのが当然とうぜんで、変るかわるうちには矛盾むじゅんが出でて来るくるはずだから、つまり人間にんげんの性格せいかくには矛盾むじゅんが多いおおいと云ういう意味いみになる。
矛盾むじゅんだらけのしまいは、性格せいかくがあってもなくっても同じおなじ事ことに帰着きちゃくする。
嘘うそだと思うおもうなら、試験しけんして見るみるがいい。
他人たにんを試験しけんするなんて罪つみな事ことをしないで、まず吾われ身みで吾われ身みを試験しけんして見るみるがいい。
坑夫こうふにまで零落れおちぶれないでも分るわかる事ことだ。
神かみさまなんかに聞いきいて見みたって、以上いじょう分ぶんッっこない。
この理窟りくつがわかる神かみさまは自分じぶんの腹はらのなかにいるばかりだ。
などと、学問がくもんもない癖くせに、学者がくしゃめいた事ことを云っいっては済ますまない。
こんな景気けいきのいいタンカたんかを切るきる所存しょぞんは毛頭もうとうなかったんだが、実じつを云ういうとこう云ういう仔細しさいである。
自分じぶんはよく人ひとから、君きみは矛盾むじゅんの多いおおい男おとこで困るこまる困るこまると苦情くじょうを持ち込まもちこまれた事ことがある。
苦情くじょうを持ち込まもちこまれるたんびに苦いにがい顔かおをして謝罪しゃざいっていた。
自分じぶんながら、どうも困っこまったもんだ、これじゃ普通ふつうの人間にんげんとして通用つうようしかねる、何なんとかして改良かいりょうしなくっちゃ信用しんようを落しおとして路頭ろとうに迷うまようような仕儀しぎになると、ひそかに心配しんぱいしていたが、いろいろの境遇きょうぐうに身みを置いおいて、前まえに述べのべた通りとおりの試験しけんをして見るみると、改良かいりょうも何なんも入っはいったものじゃない。
これが自分じぶんの本ほん色いろなんで、人間にんげんらしいところはほかにありゃしない。
それから人ひとも試験しけんして見みた。
ところがやっぱり自分じぶんと同じおなじようにできている。
苦情くじょうを持ち込んもちこんでくるものが、みんな苦情くじょうを持ち込まもちこまれてしかるべき人間にんげんなんだからおかしくなる。
要するようするに御腹おなかが減っへって飯めしが食いくいたくなって、御腹おなかが張るはると眠くねむくなって、窮しきゅうして濫みだりして、達したっして道みちを行っいって、惚れほれていっしょになって、愛想あいそが尽きつきて夫婦ふうふ別れわかれをするまでの事ことだから、ことごとく臨機応変りんきおうへんの沙汰さたである。
人間にんげんの特色とくしょくはこれよりほかにありゃしない。
と、こう感服かんぷくしているんだから、ちょっと言っいって見みたまでである。
しかし世の中よのなかには学者がくしゃだの坊主ぼうずだの教育家きょういくかだのと云ういうむずかしい仲間なかまがだいぶいて、それぞれ専門せんもんに研究けんきゅうしている事ことだから、自分じぶんだけ、訳わけの分っわかったように弁じ立てべんじたてては善くよくない。
そこで元気げんきのいい今いまの気焔きえんをやめて、再びふたたびもとの神妙しんみょうな態度たいどに復しふくして、山やまの中なかの話はなしをする。
長蔵ちょうぞうさんが敷居しきいの上うえに立ったって、往来おうらいを向きむきながら、ここへ泊っとまって行こういこうと云いいい出しだした時じ、こんな破屋はおくでも泊るとまる事ことが出来るできるんだったと、始めはじめて意識いしきしたよりも、すべての家いえと云ういうものが元来がんらい泊るとまるために建てたててあるんだなと、ようやく気きがついたくらい、泊るとまる事ことは予期よきしていなかった。
それでいて身体しんたいは蒟蒻こんにゃくのように疲れつかれ切っきってる。
平生へいぜいなら泊りとまりたい、泊りとまりたいですべての内臓ないぞうが張切れはりきれそうになるはずだのに、没ぼつ自我じがの坑夫こうふ行こう、すなわち自滅じめつの前座ぜんざとしての堕落だらくと諦めあきらめをつけた上うえの疲労ひろうだから、いくら身体しんたいに泊るとまる必要ひつようがあっても、身体しんたいの方ほうから魂たましいへ宛てあてて宿泊しゅくはくの件けんを請求せいきゅうしていなかった。
ところへ泊るとまると命令めいれいが天てんから逆ぎゃくに魂たましいが下っしたったんで、魂たましいはちょっとまごついたかたちで、とりあえず手足てあしに報告ほうこくすると、手足てあしの方ほうでは非常ひじょうに嬉しうれしがったから、魂たましいもなるほどありがたいと、始めはじめて長蔵ちょうぞうさんの好意こういを感謝かんしゃした。
と云ういう訳わけになる。
何なんとなく落語らくごじみてふざけているが、実際じっさいこの時じの心こころの状態じょうたいは、こう譬たとえを借りかりて来きないと説明せつめいができない。
自分じぶんは長蔵ちょうぞうさんの言葉ことばを聞くきくや否いなや、急きゅうに神経しんけいが弛んゆるんで、立ちたち切れきれない足あしを引き摺っひきずって、第だい一いち番ばんに戸口とぐちの方ほうに近寄っちかよった。
赤毛あかげ布ぬのはのそのそ這入っはいってくる。
小僧こぞうは飛んとんで来きた。
飛んとんだんじゃあるまいが、草履ぞうりの尻しりが勢いきおいよく踵かかとへあたるんで、ぴしゃぴしゃ云ういう音おとが飛ぶとぶように思わおもわれた。
這入っはいって見るみるとぷんと臭っにおった。
何なんの臭においだかさらに分らわからない。
小僧こぞうが鼻はなをぴくつかせたので、小僧こぞうもこの臭においに感じかんじたなと気きがついた。
長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのはまるで無頓着むとんちゃくであった。
土間どまから上うえへあがる段だんになって、雑巾ぞうきんでもと思っおもったが、小僧こぞうは委細いさい構わかまわず、草履ぞうりを脱いぬいで上がっあがっちまった。
小僧こぞうの草履ぞうりは尻しりが無いないんだから、半分はんぶん裸足はだしである。
ひどい奴やつだと眺めながめていると、長蔵ちょうぞうさんが、「御前ごぜんさんも下駄げただから、御ご上りのぼり」と注意ちゅういした。
それで気味きみがわるいが、ほこりも払わはらわず上がっあがった。
畳たたみの上うえへ一足いっそく掛けかけて見るみるとぶくっとした。
小僧こぞうはその上うえへころりと転がっころがっている。
自分じぶんは尻しりだけおろして、障子しょうじ――障子しょうじは二に枚ばいあった――その障子しょうじの影かげへ胡坐こざをかいた。
この障子しょうじは入口いりぐちに立てたててあるから、振り向くふりむくと、長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのが草鞋わらじを脱いぬいでいる。
二人ふたり共とも腰こしから手拭てぬぐいを出しだして、ばたばた足あしをはたいている。
そうして、すぐ上がっあがって来きた。
足あしを洗うあらうのが面倒めんどうだと見えるみえる。
ところへ主人しゅじんが次の間つぎのまから茶ちゃと煙草盆たばこぼんを持っもって来きた。
主人しゅじんだの、次の間つぎのまだの、茶ちゃだの、煙草盆たばこぼんだの、と云ういうとすこぶる尋常じんじょうに聞えるきこえるが、その実名じつめいばかりで、一々いちいち説明せつめいすると、大変たいへんな誤解ごかいをしていたんだねと呆れ返るあきれかえるものばかりである。
がとにかく主人しゅじんが次の間つぎのまから、茶ちゃと煙草盆たばこぼんを持っもって来きたには違いちがいない。
そうして長蔵ちょうぞうさんと談話だんわをし始めはじめた。
談話だんわの筋すじは忘れわすれたが、その様子ようすから察するさっすると、二人ふたりはもとからの知合しりあいで、御ご互たがいの間まには貸かしや借かりがあるらしい。
何なんでも馬うまの事ことをしきりに云っいってた。
自分じぶんだの、赤毛あかげ布ぬのだの、小僧こぞうなどの事ことはまるで聞きききもしない。
まるで眼中がんちゅうにない訳わけでもあるまいが、さっき長蔵ちょうぞうさんが一人ひとりで談判だんぱんに這入っはいった時じに、残らのこらず聞いきいてしまったんだろう。
それとも長蔵ちょうぞうさんはたびたびこんな呑気のんき屋やを銅山どうざんへ連れつれて行くいくんで、自然しぜんその往き還りゆきかえりにはこの主人しゅじんの厄介やっかいになりつけてるから、別段べつだん気きにも留めとめないのかも知れしれない。
自分じぶんは、長蔵ちょうぞうさんと主人しゅじんとの話はなしを聞きききながら、居眠いねむりを始めはじめた。
いつから始めはじめたか知らしらない。
馬うまを売うり損っそこなって、どうとかしたと云ういうところから、だんだん判然はんぜんしなくなって、自然しぜんと長蔵ちょうぞうさんが消えるきえる。
赤毛あかげ布ぬのが消えるきえる。
小僧こぞうが消えるきえる。
主人しゅじんと茶ちゃと煙草盆たばこぼんが消えきえて、破屋はおくまでも消えきえた時じ、こくりと眠ねむりが覚めさめた。
気きがつくと頭あたまが胸むねの上うえへ落ちおちている。
はっと思っおもって、擡げるもたげるとはなはだ重いおもい。
主人しゅじんはやっぱり馬うまの話はなしをしている。
まだ馬うまかと思っおもってるうちに、また気きが遠くとおくなった。
気きが遠くとおくなったのを、遠いとおいままにして打だ遣っつかって置くおくと、忽然こつぜんぱっと眼めがあいた。
薄暗いうすぐらい部屋へやの中なかに、影かげのような長蔵ちょうぞうさんと亭主ていしゅが膝ひざを突き合せつきあわせている。
ちょうど、借かりがどうとかしてハハハハははははと亭主ていしゅが笑っわらったところだった。
この亭主ていしゅは額がくが長くながくって、斜しゃに頭あたまの天辺てっぺんまで引込んひきこんでるから、横よこから見るみると切通しきりどおしの坂さかくらいな勾配こうばいがある。
そうして上うえになればなるほど毛けが生えはえている。
その毛けは五ご分ぶんくらいなのと一いち寸すんくらいなのとが交っかって、不規則ふきそくにしかも疎まばらにもじゃもじゃしている。
自分じぶんが居眠りいねむりからはっと驚いおどろいて、急きゅうに眼めを開けるあけると、第だい一いちにこの頭あたまが眸ひとみの底そこに映っうつった。
ランプらんぷが煤すすだらけで暗いくらいものだから、この頭あたまも煤すすだらけになって映っうつって来きた。
その癖くせ距離きょりは近いちかい。
だから映っうつった影かげは明瞭めいりょうである。
自分じぶんはこの明瞭めいりょうでかつ朦朧もうろうなる亭主ていしゅの頭あたまを居眠りいねむりの不ふ知覚ちかくから我われに返るかえる咄嗟とっさにふと見みたんである。
この時じはあまり好いよい心持こころもちではなかった。
それがため、居眠りいねむりもしばらく見合せるみあわせるような気きになって、部屋へや中なかを見廻すみまわすと、向うむこうの隅すみに小僧こぞうが倒れたおれている。
こちらの横よこに茨城県いばらきけんが長くながく伸びのびている。
毛布もうふの下したから大きなおおきな足あしが見えるみえる。
突当りつきあたりが壁かべで、壁かべの隅すみに穴あなが開いひらいて、穴あなの奥おくが真黒まっくろである。
上うえは一面いちめんの屋根裏やねうらで、寒いさむいほど黒くくろくなってる所ところへ、油煙ゆえんとともにランプらんぷの灯あかりがあたるから、よく見みていると、藁葺わらぶきの裏側うらがわが震えるふるえるように思わおもわれた。
それからまた眠くねむくなった。
また頭あたまが落ちるおちる。
重いおもいから上げるあげるとまた落ちるおちる。
始めはじめのうちは、上げあげた頭あたまが落ちおちながらだんだんうっとりして、うっとりの極きょく、胸むねの上うえへがくりと落ちるおちるや否いなや、一足いっそく飛ひに正気せいきへ立ち戻ったちもどったが、三さん回かい四よん回かいと重なるかさなるにつけて、眼めだけ開けあけても気きは判然はんぜんしない。
ぼんやりと世界せかいに帰っかえって、またぞろすぐと不覚ふかくに陥っおちいっちまう。
それから例れいのごとく首くびが落ちるおちる。
微かすかに生きいきてるような気きになる。
かと思うおもうとまた一切いっさい空そらに這入るはいる。
しまいには、とうとう、いくら首くびがのめって来きても、動じどうじなくなった。
あるいはのめったなり、頭あたまの重みおもみで横よこにぶっ倒れぶったおれちまったのかも知れしれない。
とにかく安々やすやすと夜明よあけまで寝ねて、眼めが覚めさめた時じは、もう居眠りいねむりはしていなかった。
通例つうれいのごとく身体しんたい全体ぜんたいを畳たたみの上うえにつけて長くながくなっていた。
そうして涎よだれを垂れたれている。
――自分じぶんは馬うまの話はなしを聞いきいて居眠りいねむりを始めはじめて、眼めをあけて借金しゃっきんの話はなしを聞いきいて、また居眠りいねむりの続つづくを復習ふくしゅうしているうちに、とうとう居眠りいねむりを本式ほんしきに崩しくずして長くながくなったぎり、魂たましいの音おと沙汰さたを聞かきかなかったんだから、眼めが覚めさめて、夜よるが明けあけて、世の中よのなかが土台どだいから陰かげと陽ひに引いんッっ繰りくり返っかえってるのを見るみるや否いなや、眼めをあいて涎よだれを垂れたれて、横よこになったまま、じっとしていた。
自覚じかくがあって死んしんでたらこんなだろう。
生きいきてるけれども動くうごく気きにならなかった。
昨夜さくやの事ことは一いちから十じゅうまでよく覚えおぼえている。
しかし昨夜さくやの一いちから十じゅうまでが自然しぜんと延びのびて今日きょうまで持ち越しもちこしたとは受け取れうけとれない。
自分じぶんの経験けいけんはすべてが新しくあたらしくって、かつ痛切つうせつであるが、その新しいあたらしい痛切つうせつの事々じじ物々ぶつぶつが何なんだか遠方えんぽうにある。
遠方えんぽうにあると云ういうよりも、昨夜さくやと今日きょうの間まに厚いあつい仕切りしきりが出来できて、截然さいぜんと区別くべつがついたようだ。
太陽たいようが出るでると引き込むひきこむだけの差さで、こう心こころに連続れんぞくがなくなっては不思議ふしぎなくらい自分じぶんで自分じぶんが当とうにならなくなる。
要するようするに人世じんせいは夢ゆめのようなもんだ。
とちょっと考えかんがえたもんだから、涎よだれも拭かふかずに沈んしずんでいると、長蔵ちょうぞうさんが、ううんと伸しんをして、寝ねたまま握り拳にぎりこぶしを耳みみの上うえまで持ち上げもちあげた。
握り拳にぎりこぶしがぬっと真直まっすぐに畳たたみの上うえを擦っすって、腕うでのありたけ出でたところで、勢いきおいがゆるんで、ぐにゃりとした。
また寝るねるかと思っおもったら、今度こんどは右みぎの手てを下したへさげて、凹んへこんだ頬っぺたほっぺたをぼりぼり掻き出しかきだした。
起きおきてるのかも知れしれない。
そのうち、むにゃむにゃ何なんか云ういうんで、やっぱり眼めが覚めさめていないなと気きがついた時じ、小僧こぞうがむくりと飛び起きとびおきた。
これは真正しんせいの意味いみにおいて飛起きとびおきたんだから、どしんと音おとがして、根太ねだが抜けぬけそうに響いひびいた。
すると、さすが長蔵ちょうぞうさんだけあって、むにゃむにゃをやめて、すぐ畳たたみについた方ほうの肩かたを、肘ひじの高さたかさまで上げあげた。
眼めをぱちつかせている。
こうなると、自分じぶんもいつまで沈んしずんでいたって際限さいげんがないから、起き上っおきあがった。
長蔵ちょうぞうさんも全くまったく起きおきた。
小僧こぞうは立ち上がったちあがった。
寝ねているものは赤毛あかげ布ぬのばかりである。
これはまた呑気のんきなもんで、依然いぜんとして毛布もうふから大きなおおきな足あしを出しだしてぐうぐう鼾声かんせいをかいて寝ねている。
それを長蔵ちょうぞうさんが起すおこす。
――「御前ごぜんさん。おい御前ごぜんさん。もう起きおきないと御ご午うままでに銅山どうざんへ行きいきつけないよ」 御前ごぜんさんが三四さんよん返かえし繰返さくりかえされたが、毛布もうふはよく寝ねている。
仕方しかたがないから長蔵ちょうぞうさんは毛布もうふの肩かたへ手てを懸けかけて、「おい、おい」と揺りゆすり始めはじめたんで、やむを得とくず、毛布もうふの方ほうでも「おい」と同じおなじような返事へんじをして、中途半端ちゅうとはんぱに立ち上ったちのぼった。
これでみんな起きおきたようなものの、自分じぶんは顔かおも洗わあらわず、飯めしも食わくわず、どうして好いよいか迷っまよってると、長蔵ちょうぞうさんが、「じゃ、そろそろ出掛けでかけよう」と云っいって、真先まっさきに土間どまへ降りふりかけたには驚いおどろいた。
小僧こぞうがつづいて降りるおりる。
毛布もうふも不得要領ふとくようりょうに土間どまへ大きなおおきな足あしをぶら下げぶらさげた。
こうなると自分じぶんも何なんとか片かたをつけなくっちゃならないから、一番いちばんあとから下駄げたを突掛けつっかけて、長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのが草鞋わらじの紐ひもを結ぶむすぶのを、不景気ふけいきな懐手ふところでをして待っまっていた。
土間どまへ下りくだりた以上いじょうは、顔かおを洗わあらわないのかの、朝飯あさめしを食わくわないのかのと、当然とうぜんの事ことを聞くきくのが、さも贅沢ぜいたくの沙汰さたのように思わおもわれて、とんと質問しつもんして見るみる気きにならない。
習慣しゅうかんの結果けっか、必要ひつようとまで見做さみなされているものが、急きゅうに余計よけいな事ことになっちまうのはおかしいようだが、その後そのあとこの顛倒てんとう事件じけんを布衍ふえんして考えかんがえて見みたら、こんな、例れいはたくさんある。
つまり世の中よのなかでは大勢おおぜいのやってる事ことが当然とうぜんになって、一人ひとりだけでやる事ことが余計よけいのように思わおもわれるんだから、当然とうぜんになろうと思っおもったら味方みかたを大勢おおぜい拵えこしらえて、さも当然とうぜんであるかの容子ようこで不当ふとうな事ことをやるに限るかぎる。
やっては見みないがきっと成功せいこうするだろう。
相手あいてが長蔵ちょうぞうさんと赤毛あかげ布ぬのでさえ自分じぶんにはこれほどの変化へんかを来たしきたしたんでも分るわかる。
すると長蔵ちょうぞうさんは草鞋わらじの紐ひもを結んむすんで、足元あしもとに用ようがなくなったもんだから、ふいと顔かおを上げあげた。
そうして自分じぶんを見みた。
そうして、こんな事ことを云ういう。
「御前ごぜんさん、飯めしは食わくわなくっても好いよいだろうね」 飯めしを食わくわなくって好いよい法ほうはないが、わるいと云っいったって、始まりはじまりようがないから、自分じぶんはただ、「好いよいです」と答えこたえて置いおいた。
すると長蔵ちょうぞうさんは、「食いくいたいかね」と云っいって、にやにやと笑っわらった。
これは自分じぶんの顔かおに飯めしが食いくいたいような根性こんじょうが幾分いくぶんかあらわれたためか、または十九じゅうきゅう年ねん来きの予期よきに反しはんした起きおきたなり飯めし抜きぬきの出立しゅったつに、自然しぜん不平ふへいの色いろが出でていたためだろう。
それでなければ草鞋わらじの紐ひもを結んむすんでしまってから、こんな事ことを聞くきく訳わけがない。
現にげんに長蔵ちょうぞうさんは、赤毛あかげ布ぬのにも小僧こぞうにもこの質問しつもんを呈出ていしゅつしなかったんでも分るわかる。
今いま考えるかんがえると、ちょっと両人りょうにんにも同じおなじ事ことを聞いきいて見れみれば善かっよかったような気きもする。
朝飯あさめしを食わくわないで五ご里さと十じゅう里さとと歩きあるき出すだすものは宿やど無しなしか、または準ひとし宿やど無しなしでなくっちゃならない。
目めが醒めさめて、夜よるが明けあけてるのに、汁しるの煙けむりも、漬物つけものの香こうも、いっこう連想れんそうに乗っのって来きないからは、行きいきなり放題ほうだいに、今日きょうは今日きょうの命いのちを取り留めとりとめて、その日ひその日ひの魂たましいの供養くようをする呑気のんき屋やで、世の中よのなかにあしたと云ういうものがないのを当り前あたりまえと考えるかんがえるほどに不幸ふこうなまた幸みゆきな人間にんげんである。
自分じぶんは十九じゅうきゅう年ねん来き始めはじめて、こう云ういう人間にんげんと一いちつ所ところに泊っとまって、これからまたいっしょに歩きあるき出すだすんだなと思っおもった。
赤毛あかげ布ぬのと小僧こぞうの顔色かおいろを伺っうかがって見るみると少しすこしも朝飯あさめしを予期よきしている様子ようすがないんで、双方そうほう共とも朝飯あさめしを食いくい慣かんけていない一種いっしゅの人類じんるいだと勘づいかんづいて見るみると、自分じぶんの運命うんめいは坑夫こうふにならない先さきから、もう、坑夫こうふ以下いかに摺りすり落ちおちていたと云ういう事ことが分っわかった。
しかし分っわかったと云ういうばかりで別べつに悲しくかなしくもなかった。
涙なみだは無論むろん出でなかった。
ただ長蔵ちょうぞうさんが、この朝飯あさめしの経験けいけんに乏しいとぼしい人間にんげんに向っむかって、「御前ごぜんさん達とおるも飯めしが食いくいたいかね」と尋ねたずねてくれなかったのを、今いまでは残念ざんねんに思っおもってる。
食っしょくった事ことが少いすくないから、今までいままでの習慣しゅうかん性せいで、「食わくわないでも好いよい」と答えるこたえるか、それとも、たまさかに有りありつけるかも知れしれないと云ういう意外いがいの望もちに奨励しょうれいされて「食いくいたい」と答えるこたえるか。
――つまらん事ことだがどっちか聞いきいて見みたい。
長蔵ちょうぞうさんは土間どまへ立ったって、ちょっと後ろうしろを振り返っふりかえったが、「熊くまさん、じゃ行っいってくる。いろいろ御世話ごせわ様よう」と軽くかるく力足ちからあしを二三にさん度ど踏んふんだ。
熊くまさんは無論むろん亭主ていしゅの名なであるが、まだ奥おくで寝ねている。
覗いのぞいて見るみると、昨夕さくゆううつつに気味きみをわるくした、もじゃもじゃの頭あたまが布団ふとんの下したから出でている。
この亭主ていしゅは敷蒲団しきふとんを上うえへ掛けかけて寝るねる流儀りゅうぎと見えるみえる。
長蔵ちょうぞうさんが、このもじゃもじゃの頭あたまに話しかけるはなしかけると、頭あたまは、むくりと畳たたみを離れはなれた。
そうして熊くまさんの顔かおが出でた。
この顔かおは昨夜さくや見みたほど妙みょうでもなかった。
しかし額がくがさかに瘠けて、脳天のうてんまで長くながくなってる事ことは、今朝けさでも争わあらそわれない。
熊くまさんは床ゆかの中なかから、「いや、何になんにも御ご構かまえ申さもうさなかった」と云っいった。
なるほど何になんにも構わかまわない。
自分じぶんだけ布団ふとんをかけている。
「寒かんかなかったかね」とも云っいった。
気楽きらくなもんだ。
長蔵ちょうぞうさんは「いいえ。なあに」と受けうけて、土間どまから片足かたあし踏み出しふみだした時じ、後あとから、熊くまさんが欠伸あくび交りまじわりに、「じゃ、また帰りかえりに御ご寄りより」と云っいった。
それから長蔵ちょうぞうさんが往来おうらいへ出るでる。
自分じぶんも一足いっそく後れおくれて、小僧こぞうと赤毛あかげ布ぬのの尻しりを追っおっ懸けかけて出でた。
みんな大急ぎおおいそぎに急ぐいそぐ。
こう云ういう道中どうちゅうには慣れなれ切っきったものばかりと見えるみえる。
何なんでも長蔵ちょうぞうさんの云ういうところによると、これから山越やまごえをするんだが、午うままでには銅山どうざんへ着かきかなくっちゃならないから急ぐいそぐんだそうだ。
なぜ午うままでに着かきかなくっちゃならないんだか、訳わけが分らわからないが、聞いきいて見るみる勇気ゆうきがなかったから、黙っだまって食っしょくっついて行っいった。
するとなるほど登とうになって来きた。
昨夕さくゆうあれほど登っのぼったつもりだのに、まだ登るのぼるんだから嘘うそのようでもあるが実際じっさい見渡しみわたして見るみると四方しほうは山やまばかりだ。
山やまの中なかに山やまがあって、その山やまの中なかにまた山やまがあるんだから馬鹿馬鹿しいばかばかしいほど奥おくへ這入るはいる訳わけになる。
この模様もようでは銅山どうざんのある所ところは、定めしさだめし淋しいさびしいだろう。
呼息こそくを急いいそいて登りのぼりながらも心細かっこころぼそかった。
ここまで来るくる以上いじょうは、都とへ帰るかえるのは大変たいへんだと思うおもうと、何なんの酔興すいきょうで来きたんだか浅間あさましくなる。
と云っいって都とにおりたくないから出奔しゅっぽんしたんだから、おいそれと帰りかえりにくい所ところへ這入っはいって、親おや親類しんるいの目めに懸からかからないように、朽きゅう果てはててしまうのはむしろ本望ほんもうである。
自分じぶんは高いたかい坂さかへ来るくると、呼息こそくを継ぎつぎながら、ちょっと留っとめっては四方しほうの山やまを見廻しみまわした。
するとその山やまがどれもこれも、黒ずんくろずんで、凄いすごいほど木きを被っかぶっている上うえに、雲くもがかかって見るみる間まに、遠くとおくなってしまう。
遠くとおくなると云ういうより、薄くうすくなると云ういう方ほうが適当てきとうかも知れしれない。
薄くうすくなった揚句あげくは、しだいしだいに、深いぶかい奥おくへ引き込んひきこんで、今までいままでは影かげのように映っうつってたものが、影かげさえ見せみせなくなる。
そうかと思うおもうと、雲くもの方ほうで山やまの鼻面はなづらを通り越しとおりこして動いうごいて行くいく。
しきりに白いしろいものが、捲き返しまきかえしているうちに、薄くうすく山やまの影かげが出でてくる。
その影かげの端はしがだんだん濃くこくなって、木きの色いろが明かあきらかになる頃ころは先刻せんこくの雲くもがもう隣りとなりの峰みねへ流れながれている。
するとまた後あとからすぐに別べつの雲くもが来きて、せっかく見えみえ出しだした山やまの色いろをぼうとさせる。
しまいには、どこにどんな山やまがあるかいっこう見当けんとうがつかなくなる。
立ちたちながら眺めるながめると、木きも山やまも谷たにもめちゃめちゃになって浮き出しうきだして来るくる。
頭あたまの上の空うわのそらさえ、際限さいげんもない高いたかい所ところから手ての届くとどく辺へんまで落ちかかっおちかかった。
長蔵ちょうぞうさんは、「こりゃ、雨あめだね」と、歩きあるきながら独言どくげんを云っいった。
誰だれも答えこたえたものはない。
四よん人ひととも雲くもの中なかを、雲くもに吹かふかれるような、取り捲かとりまかれるような、また埋めうめられるような有様ありさまで登っのぼって行っいった。
自分じぶんにはこの雲くもが非常ひじょうに嬉しかっうれしかった。
この雲くものお蔭おかげで自分じぶんは世の中よのなかから隠しかくしたい身体しんたいを十分じゅうふんに隠すかくすことが出来できた。
そうして、さのみ苦しいくるしい思いおもいもしずにその中なかを歩いあるいて行けるいける。
手足てあしは自由じゆうに働いはたらいて、閉じ籠めとじこめられたような窮屈きゅうくつも覚えおぼえない上うえに、人目ひとめにかからん徳とくは十分じゅうふんある。
生きいきながら葬らほうむられると云ういうのは全くまったくこの事ことである。
それが、その時じの自分じぶんには唯一ゆいいつの理想りそうであった。
だからこの雲くもは全くまったくありがたい。
ありがたいという感謝かんしゃの念ねんよりも、雲くもに埋めうめられ出しだしてから、まあ安心あんしんだと、ほっと一息ひといきした。
今いま考えるかんがえると何なんが安心あんしんだか分りゃわかりゃしない。
全くまったくの気違きちがいだと云わいわれても仕方しかたがない。
仕方しかたがないが、こう云ういう自分じぶんが、時じと場合ばあいによれば、翌よくが日ひにも、また雲くもが恋しくこいしくならんとも限らかぎらない。
それを思うおもうと何なんだか変へんだ。
吾がわが身みで吾がわが身みが保証ほしょう出来できないような、また吾がわが身みが吾がわが身みでないような気持きもちがする。
しかしこの時じの雲くもは全くまったく嬉しかっうれしかった。
四よん人ひとが離れはなれたり、かたまったり、隔てへだてられたり、包まつつまれたりして雲くもの中なかを歩いあるいて行っいった時じの景色けしきはいまだに忘れわすれられない。
小僧こぞうが雲くもから出でたり這入っはいったりする。
茨城いばらきの毛布もうふが赤くあかくなったり白くしろくなったりする。
長蔵ちょうぞうさんの、どてらが、わずか五六ごろく間まの距離きょりで濃くこくなったり薄くうすくなったりする。
そうして誰だれも口くちを利かりかない。
そうして、むやみに急ぐいそぐ。
世界せかいから切り離さきりはなされた四よんつの影かげが、後あとになり先さきになり、殖しょくもせず減げんもせず、四よんつのまま、引かひかれて合うあうように、弾かひかれて離れるはなれるように、またどうしても四よんつでなくてはならないように、雲くもの中なかをひたすら歩いあるいた時じの景色けしきはいまだに忘れわすれられない。
自分じぶんは雲くもに埋まっうまっている。
残るのこる三さん人ひとも埋まっうまっている。
天下てんかが雲くもになったんだから、世の中よのなかは自分じぶん共ともにたった四よん人ひとである。
そうして