その一人が、まぐれ当りに自分に廻り合せると云う運勢をもって生れて来なくっちゃ、とても商売にならないはずだ。だから大川端で眼の下三尺の鯉を釣るよりもよっぽどの根気仕事だと、始めから腰を据えてかかるのが当然なんだが、長蔵さんはとんとそんな自覚は無用だと云わぬばかりの顔をして、これが世間もっとも普通の商売であると社会から公認されたような態度で、わるびれずに往来の男を捉まえる。するとその捉まえられた男が、不思議な事に、一も二もなく、すぐにうんと云う。何となくこれが世間もっとも普通の商売じゃあるまいかと疑念を起すように成功する。これほど成功する商売なら、日本に一人じゃとても間に合わない、幾人あっても差支ないと云う気になる。――当人は無論そう思ってるんだろう。自分もそう思った。
第 3 章
この呑気な長蔵さんと、さらに呑気な小僧に赤毛布と、それから見様見真似で、大いに呑気になりかけた自分と、都合四人で橋向うの小路を左へ切れた。
これから川に沿って登りになるんだから、気をつけるが好いと云う注意を受けた。
自分は今芋を食ったばかりだから、もう空腹じゃない。
足は昨夕から歩き続けで草臥れてはいるが、あるけばまだ歩ける。
そこで注意の通り、なるべく気をつけて、長蔵さんと赤毛布の後を跟けて行った。
路があまり広くないので四人は一行に並べない。
だから後を跟ける事にした。
小僧は小さいからこれも一足後れて、自分と摺々くらいになって食っついてくる。
自分は腹が重いのと、足が重いのとの両方で、口を利くのが厭になった。
長蔵さんも橋を渡ってから以後とんと御前さんを使わなくなった。
赤毛布はさっき一膳飯屋の前で談判をした時から、余り多弁ではなかったが、どう云うものかここに至ってますます無口となっちまった。
小僧の無口はさらにはなはだしかった。
穿いている冷飯草履がぴちゃぴちゃ鳴るばかりである。
こう、みんな黙ってしまうと、山路は静かなものである。
ことに夜だからなお淋しい。
夜と云ったって、まだ日が落ちたばかりだから、歩いてる道だけはどうか、こうか分る。
左手を落ちて行く水が、気のせいか、少しずつ光って見える。
もっともきらきら光るんじゃない。
なんだか、どす黒く動く所が光るように見えるだけだ。
岩にあたって砕ける所は比較的判然と白くなっている。
そうしてその声がさあさあと絶え間なくする。
なかなかやかましい。
それでなかなか淋しい。
その中細い道が少しずつ、上りになるような気持がしだした。
上りだけならこのくらいな事はそう骨は折れないんだが、路が何だか凸凹する。
岩の根が川の底から続いて来て、急に地面の上へ出たり、引っ込んだりするんだろう。
この凸凹に下駄を突っ掛ける。
烈しいときは内臓が飛び上がるようになる。
だいぶ難義になって来た。
長蔵さんと赤毛布は山路に馴れていると見えて、よくも見えない木下闇を、すたすた調子よくあるいて行く。
これは仕方がないが、小僧が――この小僧は実際物騒である。
冷飯草履をぴしゃぴしゃ云わして、暗い凸凹を平気に飛び越して行く。
しかも全く無言である。
昼間ならさほどにも思わないんだが、この際だから、薄暗い中でぴしゃりぴしゃりと草履の尻の鳴るのが気になる。
何だか蝙蝠といっしょに歩いてるようだ。
そのうち路がだんだん登りになる。
川はいつしか遠くなる。
呼息が切れる。
凸凹はますます烈しくなる。
耳ががあんと鳴って来た。
これが駆落でなくって、遠足なら、よほど前から、何とか文句をならべるんだが、根が自殺の仕損いから起った自滅の第一着なんだから、苦しくっても、辛くっても、誰に難題を持ち掛ける訳にも行かない。
相手は誰だと云えば、自分よりほかに誰もいやしない。
よしいたって、こだわるだけの勇気はない。
その上先方は相手になってくれないほど平気である。
すたすた歩いて行く。
口さえ利かない。
まるで取附端がない。
やむを得ず呼吸を切らして、耳をがあんと鳴らして、黙って後から神妙に尾いて行く。
神妙と云う字は子供の時から覚えていたんだが、神妙の意味を悟ったのはこの時が始めてである。
もっともこれが悟り始めの悟りじまいだと笑い話にもなるが、一度悟り出したら、その悟りがだいぶ長い事続いて、ついに鉱山の中で絶高頂に達してしまった。
神妙の極に達すると、出るべき涙さえ遠慮して出ないようになる。
涙がこぼれるほどだと譬に云うが、涙が出るくらいなら安心なものだ。
涙が出るうちは笑う事も出来るにきまってる。
不思議な事にこれほど神妙にあてられたものが、今はけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われている。
その時御世話になった長蔵さんから見たら、定めし増長した野郎だと思う事だろう。
がまた今の朋友から評すると、昔は気の毒だったと云ってくれるかも知れない。
増長したにしても気の毒だったにしても構わない。
昔は神妙で今は横着なのが天然自然の状態である。
人間はこうできてるんだから致し方がない。
夏になっても冬の心を忘れずに、ぶるぶる悸えていろったって出来ない相談である。
病気で熱の出た時、牛肉を食わなかったから、もう生涯ロースの鍋へ箸を着けちゃならんぞと云う命令はどんな御大名だって無理だ。
咽喉元過ぐれば熱さを忘れると云って、よく、忘れては怪しからんように持ち掛けてくるが、あれは忘れる方が当り前で、忘れない方が嘘である。
こう云うと詭弁のように聞えるが、詭弁でもなんでもない。
正直正銘のところを云うんである。
いったい人間は、自分を四角張った不変体のように思い込み過ぎて困るように思う。
周囲の状況なんて事を眼中に置かないで、平押に他人を圧しつけたがる事がだいぶんある。
他人なら理窟も立つが、自分で自分をきゅきゅ云う目に逢わせて嬉しがってるのは聞えないようだ。
そう一本調子にしようとすると、立体世界を逃げて、平面国へでも行かなければならない始末が出来てくる。
むやみに他人の不信とか不義とか変心とかを咎めて、万事万端向うがわるいように噪ぎ立てるのは、みんな平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を揚げる人達である。
御嬢さん、坊っちゃん、学者、世間見ず、御大名、にはこんなのが多くて、話が分り悪くって、困るもんだ。
自分もあの時駆落をしずに、可愛らしい坊ちゃんとしておとなしく成人したなら、――自分の心の始終動いているのも知らずに、動かないもんだ、変らないもんだ、変っちゃ大変だ、罪悪だなどとくよくよ思って、年を取ったら――ただ学問をして、月給をもらって、平和な家庭と、尋常な友達に満足して、内省の工夫を必要と感ずるに至らなかったら、また内省ができるほどの心機転換の活作用に見参しなかったならば――あらゆる苦痛と、あらゆる窮迫と、あらゆる流転と、あらゆる漂泊と、困憊と、懊悩と、得喪と、利害とより得たこの経験と、最後にこの経験をもっとも公明に解剖して、解剖したる一々を、一々に批判し去る能力がなかったなら――ありがたい事に自分はこの至大なる賚を有っている、――すべてこれらがなかったならば、自分はこんな思い切った事を云やしない。
いくら思い切った事を云ったって自慢にゃならない。
ただこの通りだからこの通りだと云うまでである。
その代り昔し神妙なものが、今横着になるくらいだから、今の横着がいつ何時また神妙にならんとは限らない。
――抜けそうな足を棒のように立てて聞くと、がんと鳴ってる耳の中へ、遠くからさあさあ水音が這入ってくる。
自分はますます神妙になった。
この状態でだいぶ来た。
何里だか見当のつかないほど来た。
夜道だから平生よりは、ただでさえ長く思われる上へ持ってきて、凸凹の登りを膨っ脛が腫れて、膝頭の骨と骨が擦れ合って、股が地面へ落ちそうに歩くんだから、長いの、長くないのって――それでも、生きてる証拠には、どうか、こうか、長蔵さんの尻を五六間と離れずに、やって来た。
これはただ神妙に自己を没却した諦の体たらくから生じた結果ではない。
五六間以上後れると、長蔵さんが、振り返って五六歩ずつは待合してくれるから、仕方なしに追いつくと、追いつかない先に向うはまた歩き出すんで、やむを得ずだらだら、ちびちびに自己を奮興させた成行に過ぎない。
それにしても長蔵さんは、よく後が見えたもんだ。
ことに夜中である。
右も左も黒い木が空を見事に突っ切って、頭の上は細く上まで開いているなと、仰向いた時、始めて勘づくくらいな暗い路である。
星明りと云うけれど、あまり便にゃならない。
提灯なんか無論持ち合せようはずがない。
自分の方から云うと、先へ行く赤毛布が目標である。
夜だから赤くは見えないが、何だか赤毛布らしく思われる。
明るいうちから、あの毛布、あの毛布と御題目のように見詰めて覘をつけて来たせいで、日が暮れて、突然の眼には毛布だか何だか分らないところを、自分だけにはちゃんと赤毛布に見えるんだろう。
信心の功徳なんてえのは大方こんなところから出るに違ない。
自分はこう云う訳で、どうにか目標だけはつけて置いたようなものの、長蔵さんに至っては、どのくらいあとから自分が跟いてくるか分りようがない。
ところをちゃんと五六間以上になると留まってくれる。
留まってくれるんだか、留まる方が向うの勝手なんだか、判然しないが、とにかく留まることはたしかだった。
とうてい素人にゃできない芸である。
自分は苦しいうちにも、これが長蔵さんの商売に必要な芸で、長蔵さんはこの芸を長い間練習して、これまでに仕上げたんだなと、少からず感心した。
赤毛布は長蔵さんと並んでいるんだから、長蔵さんさえ留まればきっととまる。
長蔵さんが歩き出せば必ず歩き出す。
まるで人形のように活動する男であった。
ややともすると後れ勝ちの自分よりはこの赤毛布の方が遥に取り扱いやすかったに違ない。
小僧は――例の小僧は消えて無くなっちまった。
始めのうちこそ小僧だから後になるんだろうと思って、草臥れたら励ましてやろうくらいの了簡があったんだが、かの冷飯草履をぴしゃりぴしゃりと鳴らしながら凸凹路を飛び跳ねて進行する有様を目撃してから、こりゃ敵わないと覚悟をしたのは、よっぽど前の事である。
それでもしばらくの間はぴしゃりぴしゃりが自分の袖と擦れ擦れくらいになって、登って来たが、今じゃもう自分の近所には影さえなくなった。
並んで歩くうちは、あまり小僧の癖に活溌にあるくんで――活溌だけならいいが、活溌の上に非常に沈黙なんで――、随分物騒な心持ちだった。
もし笑うなら、極めて小さくって、非常に活溌で、そうして口を利かない動物を想像して見ると分る。
滅多にありゃしない。
こんな動物といっしょに夜山越をしたとすると、誰だって物騒な気持になる。
自分はこの時この小僧の事を今考えても、妙な感じが出て来る。
さっき蝙蝠のようだと云ったが、全く蝙蝠だ。
長蔵さんと赤毛布がいたから、好いようなものの、蝙蝠とたった二人限だったら――正直なところ降参する。
すると長蔵さんが、暗闇の中で急に、「おおい」と声を揚げた。
淋しい夜道で、急に人声を聞いた人があるかないか知らないが、聞いて見るとちょっと異な感じのするものだ。
それも普通の話し声なら、まだ好いが、おおいと人を呼ぶ奴は気味がよくない。
山路で、黒闇で、人っ子一人通らなくって、御負に蝙蝠なんぞと道伴になって、いとど物騒な虚に乗じて、長蔵さんが事ありげに声を揚げたんである。
事のあるべきはずでない時で、しかも事がありかねまじき場所でおおいと来たんだから、突然と予期が合体して、自分の頭に妙な響を与えた。
この声が自分を呼んだんなら、何か起ったなとびくんとするだけで済むんだが、五六間後から行く自分の注意を惹くためとは受取れないほど大きかった。
かつ声の伝わって行く方角が違う。
こっちを向いた声じゃない。
おおいと右左りに当ったが、立ち木に遮られて、細い道を向うの方へ遠く逃げのびて、遥の先でおおいと云う反響があった。
反響はたしかにあったが、返事はないようだ。
すると長蔵さんは、前より一層大きな声を出して、「小僧やあ」と呼んだ。
今考えると、名前も知らないで、小僧やあと呼ぶなんて少しとぼけているがその時はなかなかとぼけちゃいなかった。
自分はこの声を聞くと同時に蝙蝠が隠れたんだなと気がついた。
先へ行ったと思うのが当り前で、まかり間違っても逃げたと鑑定をつけべきはずだのに、隠れたんだとすぐ胸先へ浮んで来たのは、よっぽど蝙蝠に祟られていたに違ない。
この祟は翌朝になって太陽が出たらすっかり消えてしまって、自分で自分を何て馬鹿だろうと思ったくらいだが、実際小僧やあの呼び声を聞いた時は、ちょっと烈しく来た。
ところがまた反響が例のごとく向うへ延びて、突き当りがないもんだから、人魂の尻尾のように、幽かに消えて、その反動か、有らん限りの木も山も谷もしんと静まった時、――何とも返事がない。
この反響が心細く継続りながら消えて行く間、消えてから、すべての世界がしんと静まり返るまで、長蔵さんと赤毛布と自分と三人が、暗闇に鼻を突き合せて黙って立っていた。
あんまり好い心持じゃなかった。
やがて、長蔵さんが、「少し急いだら、追っつくべえ。御前さん好いかね」と云った。
無論好くはないが、仕方がないから承知をして、急ぎ出した。
元来この場に臨んで急ぐなんて生意気な事ができるはずがないんだが、そこが妙なもので、急ぐ気も、急ぐ力もない癖に受合っちまった。
定めし変な顔をして受合ったんだろうが、受合ったら急げても、急げないでもむちゃくちゃに急いでしまった。
この間はどこをどんな具合に通ったか、まあ断然知らないと云った方が穏当だろう。
やがて長蔵さんがぴたりと留ったんで、ふと気がついた。
すると一つ家の前へ出ている。
ランプが点いている。
ランプの灯が往来へ映っている。
はっと嬉しかった。
赤毛布がありあり見える。
そうして小僧もいる。
小僧の影が往来を横に切って向うの谷へ折れ込んでいる。
小僧にしては長い影だ。
自分はこんな所に人の住む家があろうとはまるで思いがけなかったし、その上眼がくらんで、耳が鳴って、夢中に急いで、どこまで急ぐんだかあても希望もなくやって来て、ぴたりと留まるや否や、ランプの灯がまぶしいように眼に這入って来たんだから、驚いた。
驚くと共にランプの灯は人間らしいものだとつくづく感心した。
ランプがこんなにありがたかった事は今日までまだかつてない。
後から聞いたら小僧はこのランプの灯まで抜け掛をして、そこで自分達を待ってたんだそうだ。
おおいと云う声も小僧やあと云う声も聞えたんだが返事をしなかったと云う話しだ。
偉い奴だ。
同勢はこれでようやく揃ったが、この先どうなる事だろうと思いながら、相変らず神妙にしていると、長蔵さんは自分達を路傍に置きっ放しにして、一人で家の中へ這入って行った。
仕方がないから家と云うが、実のところは、家じゃもったいない。
牛さえいれば牛小屋で馬さえ嘶けば馬小屋だ。
何でも草鞋を売る所らしい。
壁と草鞋とランプのほかに何にもないから、自分はそう鑑定した。
間口は一間ばかりで、入口の雨戸が半分ほど閉ててある。
残る半分は夜っぴて明けて置くんじゃないかしら。
ことによると、敷居の溝に食い込んだなり動かないのかも知れない。
屋根は無論藁葺で、その藁が古くなって、雨に腐やけたせいか、崩れかかって漠然としている。
夜と屋根の継目が分らないほど、ぶくついて見える。
その中へ長蔵さんは這入って行った。
なんだか穴の中へでも潜り込んで行ったような心持だった。
そうして話している。
三人は表に待っている。
自分の顔は見えないが、赤毛布と小僧の顔は、小屋の中から斜に差してくるランプの灯でよく見える。
赤毛布は依然として、散漫なものである。
この男はたとい地震がゆって、梁が落ちて来ても、親の死目に逢うか、逢わないかと云う大事な場合でも、いつでも、こんな顔をしているに違ない。
小僧は空を見ている。
まだ物騒だ。
ところへ長蔵さんがあらわれた。
しかし往来へは出て来ない。
敷居の上へ足を乗せて、こっちを向いて立った股倉から、ランプの灯だけが細長く出て来る。
ランプの位置がいつの間にか低くなったと見える。
長蔵さんの顔は無論よく分らない。
「御前さん、これから山越をするのは大変だから、今夜はここへ泊って行こう。みんな這入るがいい」 自分はこの言葉を聞くと等しく、今までの神妙が急に破裂して、身体がぐたりとなった。
この牛小屋で一夜を明す事が、それほどの慰藉を自分に与えようとは、牛小屋を見た今が今まで、とんと気がつかなかった。
やはり神妙の結果泊る所が見つかっても、泊る気が起らなかったんだろう。
こうなると人間ほど御しやすいものはない。
無理でも何でもはいはい畏まって聞いて、そうして少しも不平を起さないのみか大に嬉しがる。
当時を思い出すたびに、自分はもっとも順良なまたもっとも励精な人間であったなと云う自信が伴ってくる。
兵隊はああでなくっちゃいけないなどと考える事さえある。
同時に、もし人間が物の用を無視し得るならば、かねて物の用をも忘れ得るものだと云う事も悟った。
――こう書いて見たが、読み直すと何だかむずかしくって解らない。
実を云うと、もっとずっとやさしいんだが、短く詰めるものだからこんなにむずかしくなっちまった。
例えば酒を飲む権利はないと自信して、酒の徳を、あれどもなきがごとくに見做す事さえできれば、徳利が前に並んでも、酒は飲むものだとさえ気がつかずにいるくらいなところである。
御互が泥棒にならずに済むのも、つまりを云えば幼少の時から、人工的にこの種の境界に馴らされているからの事だろう。
が一方から云うと、こんな境界は人性の一部分を麻痺さした結果としてでき上るもんだから、図に乗ってきゅきゅ押して行くと、人間がみんな馬鹿になっちまう。
まあ泥棒さえしなければ好いとして、その他の精神器械は残らず相応に働く事ができるようにしてやるのが何よりの功徳だと愚考する。
自分が当時の自分のままで、のべつに今日まで生きていたならば、いかに順良だって、いかに励精だって、馬鹿に違ない。
だれの眼から見たって馬鹿以上の不具だろう。
人間であるからは、たまには怒るがいい。
反抗するがいい。
怒るように、反抗するようにできてるものを、無理に怒らなかったり、反抗しなかったりするのは、自分で自分を馬鹿に教育して嬉しがるんだ。
第一身体の毒である。
それを迷惑だと云うなら、怒らせないように、反抗させないように、御膳立をするが至当じゃないか。
自分は当時種々の状況で、万事長蔵さんの云う通りはいはい云っていたし、またそのはいはいを自然と思いもするが、その代り、今のような身分にいるからは、たとい百の長蔵さんが、七日七晩引っ張りつづけに引っ張ったってちょっとも動きゃしない。
今の自分にはこの方が自然だからである。
そうしてこう変るのが人間たるところだと思ってる。
分りやすいように長蔵さんを引合に出したが、よく調べて見ると、人間の性格は一時間ごとに変っている。
変るのが当然で、変るうちには矛盾が出て来るはずだから、つまり人間の性格には矛盾が多いと云う意味になる。
矛盾だらけのしまいは、性格があってもなくっても同じ事に帰着する。
嘘だと思うなら、試験して見るがいい。
他人を試験するなんて罪な事をしないで、まず吾身で吾身を試験して見るがいい。
坑夫にまで零落れないでも分る事だ。
神さまなんかに聞いて見たって、以上分ッこない。
この理窟がわかる神さまは自分の腹のなかにいるばかりだ。
などと、学問もない癖に、学者めいた事を云っては済まない。
こんな景気のいいタンカを切る所存は毛頭なかったんだが、実を云うとこう云う仔細である。
自分はよく人から、君は矛盾の多い男で困る困ると苦情を持ち込まれた事がある。
苦情を持ち込まれるたんびに苦い顔をして謝罪っていた。
自分ながら、どうも困ったもんだ、これじゃ普通の人間として通用しかねる、何とかして改良しなくっちゃ信用を落して路頭に迷うような仕儀になると、ひそかに心配していたが、いろいろの境遇に身を置いて、前に述べた通りの試験をして見ると、改良も何も入ったものじゃない。
これが自分の本色なんで、人間らしいところはほかにありゃしない。
それから人も試験して見た。
ところがやっぱり自分と同じようにできている。
苦情を持ち込んでくるものが、みんな苦情を持ち込まれてしかるべき人間なんだからおかしくなる。
要するに御腹が減って飯が食いたくなって、御腹が張ると眠くなって、窮して濫して、達して道を行って、惚れていっしょになって、愛想が尽きて夫婦別れをするまでの事だから、ことごとく臨機応変の沙汰である。
人間の特色はこれよりほかにありゃしない。
と、こう感服しているんだから、ちょっと言って見たまでである。
しかし世の中には学者だの坊主だの教育家だのと云うむずかしい仲間がだいぶいて、それぞれ専門に研究している事だから、自分だけ、訳の分ったように弁じ立てては善くない。
そこで元気のいい今の気焔をやめて、再びもとの神妙な態度に復して、山の中の話をする。
長蔵さんが敷居の上に立って、往来を向きながら、ここへ泊って行こうと云い出した時、こんな破屋でも泊る事が出来るんだったと、始めて意識したよりも、すべての家と云うものが元来泊るために建ててあるんだなと、ようやく気がついたくらい、泊る事は予期していなかった。
それでいて身体は蒟蒻のように疲れ切ってる。
平生なら泊りたい、泊りたいですべての内臓が張切れそうになるはずだのに、没自我の坑夫行、すなわち自滅の前座としての堕落と諦めをつけた上の疲労だから、いくら身体に泊る必要があっても、身体の方から魂へ宛てて宿泊の件を請求していなかった。
ところへ泊ると命令が天から逆に魂が下ったんで、魂はちょっとまごついたかたちで、とりあえず手足に報告すると、手足の方では非常に嬉しがったから、魂もなるほどありがたいと、始めて長蔵さんの好意を感謝した。
と云う訳になる。
何となく落語じみてふざけているが、実際この時の心の状態は、こう譬を借りて来ないと説明ができない。
自分は長蔵さんの言葉を聞くや否や、急に神経が弛んで、立ち切れない足を引き摺って、第一番に戸口の方に近寄った。
赤毛布はのそのそ這入ってくる。
小僧は飛んで来た。
飛んだんじゃあるまいが、草履の尻が勢よく踵へあたるんで、ぴしゃぴしゃ云う音が飛ぶように思われた。
這入って見るとぷんと臭った。
何の臭だかさらに分らない。
小僧が鼻をぴくつかせたので、小僧もこの臭に感じたなと気がついた。
長蔵さんと赤毛布はまるで無頓着であった。
土間から上へあがる段になって、雑巾でもと思ったが、小僧は委細構わず、草履を脱いで上がっちまった。
小僧の草履は尻が無いんだから、半分裸足である。
ひどい奴だと眺めていると、長蔵さんが、「御前さんも下駄だから、御上り」と注意した。
それで気味がわるいが、ほこりも払わず上がった。
畳の上へ一足掛けて見るとぶくっとした。
小僧はその上へころりと転がっている。
自分は尻だけおろして、障子――障子は二枚あった――その障子の影へ胡坐をかいた。
この障子は入口に立ててあるから、振り向くと、長蔵さんと赤毛布が草鞋を脱いでいる。
二人共腰から手拭を出して、ばたばた足をはたいている。
そうして、すぐ上がって来た。
足を洗うのが面倒だと見える。
ところへ主人が次の間から茶と煙草盆を持って来た。
主人だの、次の間だの、茶だの、煙草盆だの、と云うとすこぶる尋常に聞えるが、その実名ばかりで、一々説明すると、大変な誤解をしていたんだねと呆れ返るものばかりである。
がとにかく主人が次の間から、茶と煙草盆を持って来たには違いない。
そうして長蔵さんと談話をし始めた。
談話の筋は忘れたが、その様子から察すると、二人はもとからの知合で、御互の間には貸や借があるらしい。
何でも馬の事をしきりに云ってた。
自分だの、赤毛布だの、小僧などの事はまるで聞きもしない。
まるで眼中にない訳でもあるまいが、さっき長蔵さんが一人で談判に這入った時に、残らず聞いてしまったんだろう。
それとも長蔵さんはたびたびこんな呑気屋を銅山へ連れて行くんで、自然その往き還りにはこの主人の厄介になりつけてるから、別段気にも留めないのかも知れない。
自分は、長蔵さんと主人との話を聞きながら、居眠を始めた。
いつから始めたか知らない。
馬を売損って、どうとかしたと云うところから、だんだん判然しなくなって、自然と長蔵さんが消える。
赤毛布が消える。
小僧が消える。
主人と茶と煙草盆が消えて、破屋までも消えた時、こくりと眠が覚めた。
気がつくと頭が胸の上へ落ちている。
はっと思って、擡げるとはなはだ重い。
主人はやっぱり馬の話をしている。
まだ馬かと思ってるうちに、また気が遠くなった。
気が遠くなったのを、遠いままにして打遣って置くと、忽然ぱっと眼があいた。
薄暗い部屋の中に、影のような長蔵さんと亭主が膝を突き合せている。
ちょうど、借がどうとかしてハハハハと亭主が笑ったところだった。
この亭主は額が長くって、斜に頭の天辺まで引込んでるから、横から見ると切通しの坂くらいな勾配がある。
そうして上になればなるほど毛が生えている。
その毛は五分くらいなのと一寸くらいなのとが交って、不規則にしかも疎にもじゃもじゃしている。
自分が居眠りからはっと驚いて、急に眼を開けると、第一にこの頭が眸の底に映った。
ランプが煤だらけで暗いものだから、この頭も煤だらけになって映って来た。
その癖距離は近い。
だから映った影は明瞭である。
自分はこの明瞭でかつ朦朧なる亭主の頭を居眠りの不知覚から我に返る咄嗟にふと見たんである。
この時はあまり好い心持ではなかった。
それがため、居眠りもしばらく見合せるような気になって、部屋中を見廻すと、向うの隅に小僧が倒れている。
こちらの横に茨城県が長く伸びている。
毛布の下から大きな足が見える。
突当りが壁で、壁の隅に穴が開いて、穴の奥が真黒である。
上は一面の屋根裏で、寒いほど黒くなってる所へ、油煙とともにランプの灯があたるから、よく見ていると、藁葺の裏側が震えるように思われた。
それからまた眠くなった。
また頭が落ちる。
重いから上げるとまた落ちる。
始めのうちは、上げた頭が落ちながらだんだんうっとりして、うっとりの極、胸の上へがくりと落ちるや否や、一足飛に正気へ立ち戻ったが、三回四回と重なるにつけて、眼だけ開けても気は判然しない。
ぼんやりと世界に帰って、またぞろすぐと不覚に陥っちまう。
それから例のごとく首が落ちる。
微に生きてるような気になる。
かと思うとまた一切空に這入る。
しまいには、とうとう、いくら首がのめって来ても、動じなくなった。
あるいはのめったなり、頭の重みで横にぶっ倒れちまったのかも知れない。
とにかく安々と夜明まで寝て、眼が覚めた時は、もう居眠りはしていなかった。
通例のごとく身体全体を畳の上につけて長くなっていた。
そうして涎を垂れている。
――自分は馬の話を聞いて居眠りを始めて、眼をあけて借金の話を聞いて、また居眠りの続を復習しているうちに、とうとう居眠りを本式に崩して長くなったぎり、魂の音沙汰を聞かなかったんだから、眼が覚めて、夜が明けて、世の中が土台から陰と陽に引ッ繰り返ってるのを見るや否や、眼をあいて涎を垂れて、横になったまま、じっとしていた。
自覚があって死んでたらこんなだろう。
生きてるけれども動く気にならなかった。
昨夜の事は一から十までよく覚えている。
しかし昨夜の一から十までが自然と延びて今日まで持ち越したとは受け取れない。
自分の経験はすべてが新しくって、かつ痛切であるが、その新しい痛切の事々物々が何だか遠方にある。
遠方にあると云うよりも、昨夜と今日の間に厚い仕切りが出来て、截然と区別がついたようだ。
太陽が出ると引き込むだけの差で、こう心に連続がなくなっては不思議なくらい自分で自分が当にならなくなる。
要するに人世は夢のようなもんだ。
とちょっと考えたもんだから、涎も拭かずに沈んでいると、長蔵さんが、ううんと伸をして、寝たまま握り拳を耳の上まで持ち上げた。
握り拳がぬっと真直に畳の上を擦って、腕のありたけ出たところで、勢がゆるんで、ぐにゃりとした。
また寝るかと思ったら、今度は右の手を下へさげて、凹んだ頬っぺたをぼりぼり掻き出した。
起きてるのかも知れない。
そのうち、むにゃむにゃ何か云うんで、やっぱり眼が覚めていないなと気がついた時、小僧がむくりと飛び起きた。
これは真正の意味において飛起きたんだから、どしんと音がして、根太が抜けそうに響いた。
すると、さすが長蔵さんだけあって、むにゃむにゃをやめて、すぐ畳についた方の肩を、肘の高さまで上げた。
眼をぱちつかせている。
こうなると、自分もいつまで沈んでいたって際限がないから、起き上った。
長蔵さんも全く起きた。
小僧は立ち上がった。
寝ているものは赤毛布ばかりである。
これはまた呑気なもんで、依然として毛布から大きな足を出してぐうぐう鼾声をかいて寝ている。
それを長蔵さんが起す。
――「御前さん。おい御前さん。もう起きないと御午までに銅山へ行きつけないよ」 御前さんが三四返繰返されたが、毛布はよく寝ている。
仕方がないから長蔵さんは毛布の肩へ手を懸けて、「おい、おい」と揺り始めたんで、やむを得ず、毛布の方でも「おい」と同じような返事をして、中途半端に立ち上った。
これでみんな起きたようなものの、自分は顔も洗わず、飯も食わず、どうして好いか迷ってると、長蔵さんが、「じゃ、そろそろ出掛けよう」と云って、真先に土間へ降りかけたには驚いた。
小僧がつづいて降りる。
毛布も不得要領に土間へ大きな足をぶら下げた。
こうなると自分も何とか片をつけなくっちゃならないから、一番あとから下駄を突掛けて、長蔵さんと赤毛布が草鞋の紐を結ぶのを、不景気な懐手をして待っていた。
土間へ下りた以上は、顔を洗わないのかの、朝飯を食わないのかのと、当然の事を聞くのが、さも贅沢の沙汰のように思われて、とんと質問して見る気にならない。
習慣の結果、必要とまで見做されているものが、急に余計な事になっちまうのはおかしいようだが、その後この顛倒事件を布衍して考えて見たら、こんな、例はたくさんある。
つまり世の中では大勢のやってる事が当然になって、一人だけでやる事が余計のように思われるんだから、当然になろうと思ったら味方を大勢拵えて、さも当然であるかの容子で不当な事をやるに限る。
やっては見ないがきっと成功するだろう。
相手が長蔵さんと赤毛布でさえ自分にはこれほどの変化を来たしたんでも分る。
すると長蔵さんは草鞋の紐を結んで、足元に用がなくなったもんだから、ふいと顔を上げた。
そうして自分を見た。
そうして、こんな事を云う。
「御前さん、飯は食わなくっても好いだろうね」 飯を食わなくって好い法はないが、わるいと云ったって、始まりようがないから、自分はただ、「好いです」と答えて置いた。
すると長蔵さんは、「食いたいかね」と云って、にやにやと笑った。
これは自分の顔に飯が食いたいような根性が幾分かあらわれたためか、または十九年来の予期に反した起きたなり飯抜きの出立に、自然不平の色が出ていたためだろう。
それでなければ草鞋の紐を結んでしまってから、こんな事を聞く訳がない。
現に長蔵さんは、赤毛布にも小僧にもこの質問を呈出しなかったんでも分る。
今考えると、ちょっと両人にも同じ事を聞いて見れば善かったような気もする。
朝飯を食わないで五里十里と歩き出すものは宿無しか、または準宿無しでなくっちゃならない。
目が醒めて、夜が明けてるのに、汁の煙も、漬物の香も、いっこう連想に乗って来ないからは、行きなり放題に、今日は今日の命を取り留めて、その日その日の魂の供養をする呑気屋で、世の中にあしたと云うものがないのを当り前と考えるほどに不幸なまた幸な人間である。
自分は十九年来始めて、こう云う人間と一つ所に泊って、これからまたいっしょに歩き出すんだなと思った。
赤毛布と小僧の顔色を伺って見ると少しも朝飯を予期している様子がないんで、双方共朝飯を食い慣けていない一種の人類だと勘づいて見ると、自分の運命は坑夫にならない先から、もう、坑夫以下に摺り落ちていたと云う事が分った。
しかし分ったと云うばかりで別に悲しくもなかった。
涙は無論出なかった。
ただ長蔵さんが、この朝飯の経験に乏しい人間に向って、「御前さん達も飯が食いたいかね」と尋ねてくれなかったのを、今では残念に思ってる。
食った事が少いから、今までの習慣性で、「食わないでも好い」と答えるか、それとも、たまさかに有りつけるかも知れないと云う意外の望に奨励されて「食いたい」と答えるか。
――つまらん事だがどっちか聞いて見たい。
長蔵さんは土間へ立って、ちょっと後ろを振り返ったが、「熊さん、じゃ行ってくる。いろいろ御世話様」と軽く力足を二三度踏んだ。
熊さんは無論亭主の名であるが、まだ奥で寝ている。
覗いて見ると、昨夕うつつに気味をわるくした、もじゃもじゃの頭が布団の下から出ている。
この亭主は敷蒲団を上へ掛けて寝る流儀と見える。
長蔵さんが、このもじゃもじゃの頭に話しかけると、頭は、むくりと畳を離れた。
そうして熊さんの顔が出た。
この顔は昨夜見たほど妙でもなかった。
しかし額がさかに瘠けて、脳天まで長くなってる事は、今朝でも争われない。
熊さんは床の中から、「いや、何にも御構申さなかった」と云った。
なるほど何にも構わない。
自分だけ布団をかけている。
「寒かなかったかね」とも云った。
気楽なもんだ。
長蔵さんは「いいえ。なあに」と受けて、土間から片足踏み出した時、後から、熊さんが欠伸交りに、「じゃ、また帰りに御寄り」と云った。
それから長蔵さんが往来へ出る。
自分も一足後れて、小僧と赤毛布の尻を追っ懸けて出た。
みんな大急ぎに急ぐ。
こう云う道中には慣れ切ったものばかりと見える。
何でも長蔵さんの云うところによると、これから山越をするんだが、午までには銅山へ着かなくっちゃならないから急ぐんだそうだ。
なぜ午までに着かなくっちゃならないんだか、訳が分らないが、聞いて見る勇気がなかったから、黙って食っついて行った。
するとなるほど登になって来た。
昨夕あれほど登ったつもりだのに、まだ登るんだから嘘のようでもあるが実際見渡して見ると四方は山ばかりだ。
山の中に山があって、その山の中にまた山があるんだから馬鹿馬鹿しいほど奥へ這入る訳になる。
この模様では銅山のある所は、定めし淋しいだろう。
呼息を急いて登りながらも心細かった。
ここまで来る以上は、都へ帰るのは大変だと思うと、何の酔興で来たんだか浅間しくなる。
と云って都におりたくないから出奔したんだから、おいそれと帰りにくい所へ這入って、親親類の目に懸からないように、朽果ててしまうのはむしろ本望である。
自分は高い坂へ来ると、呼息を継ぎながら、ちょっと留っては四方の山を見廻した。
するとその山がどれもこれも、黒ずんで、凄いほど木を被っている上に、雲がかかって見る間に、遠くなってしまう。
遠くなると云うより、薄くなると云う方が適当かも知れない。
薄くなった揚句は、しだいしだいに、深い奥へ引き込んで、今までは影のように映ってたものが、影さえ見せなくなる。
そうかと思うと、雲の方で山の鼻面を通り越して動いて行く。
しきりに白いものが、捲き返しているうちに、薄く山の影が出てくる。
その影の端がだんだん濃くなって、木の色が明かになる頃は先刻の雲がもう隣りの峰へ流れている。
するとまた後からすぐに別の雲が来て、せっかく見え出した山の色をぼうとさせる。
しまいには、どこにどんな山があるかいっこう見当がつかなくなる。
立ちながら眺めると、木も山も谷もめちゃめちゃになって浮き出して来る。
頭の上の空さえ、際限もない高い所から手の届く辺まで落ちかかった。
長蔵さんは、「こりゃ、雨だね」と、歩きながら独言を云った。
誰も答えたものはない。
四人とも雲の中を、雲に吹かれるような、取り捲かれるような、また埋められるような有様で登って行った。
自分にはこの雲が非常に嬉しかった。
この雲のお蔭で自分は世の中から隠したい身体を十分に隠すことが出来た。
そうして、さのみ苦しい思いもしずにその中を歩いて行ける。
手足は自由に働いて、閉じ籠められたような窮屈も覚えない上に、人目にかからん徳は十分ある。
生きながら葬られると云うのは全くこの事である。
それが、その時の自分には唯一の理想であった。
だからこの雲は全くありがたい。
ありがたいという感謝の念よりも、雲に埋められ出してから、まあ安心だと、ほっと一息した。
今考えると何が安心だか分りゃしない。
全くの気違だと云われても仕方がない。
仕方がないが、こう云う自分が、時と場合によれば、翌が日にも、また雲が恋しくならんとも限らない。
それを思うと何だか変だ。
吾が身で吾が身が保証出来ないような、また吾が身が吾が身でないような気持がする。
しかしこの時の雲は全く嬉しかった。
四人が離れたり、かたまったり、隔てられたり、包まれたりして雲の中を歩いて行った時の景色はいまだに忘れられない。
小僧が雲から出たり這入ったりする。
茨城の毛布が赤くなったり白くなったりする。
長蔵さんの、どてらが、わずか五六間の距離で濃くなったり薄くなったりする。
そうして誰も口を利かない。
そうして、むやみに急ぐ。
世界から切り離された四つの影が、後になり先になり、殖もせず減もせず、四つのまま、引かれて合うように、弾かれて離れるように、またどうしても四つでなくてはならないように、雲の中をひたすら歩いた時の景色はいまだに忘れられない。
自分は雲に埋まっている。
残る三人も埋まっている。
天下が雲になったんだから、世の中は自分共にたった四人である。
そうして